ディスカッション

梅原利夫 人間関係学部教授

小林文人 人間関係学部教授

新村洋史 中京女子大学助教授

石原静子 人間関係学部教授/司会


司会・石原 今日のお話しは充実していて、中身の濃い問題提起だったと思います。これから討論に入りますが、ぜひ皆様から盛んなご意見・ご提案をいただきたいと思います。まず各報告者に、こういう点がわからなかった、ここをもう少し聞きたいというようなご質問がございましたら、お願いします。

参会者 町田市の山崎団地から来ました、団野と申します。一番最初に聞いておきたいことは、全体を通して「二一世紀に向けて大学のあり方を考える」というタイトルになっていますが、「大学のあり方」というと大学内部のことだけというイメージとして出てくるので、時間的な問題も含めてですが、地域社会か広がりのある討論にしていただけるとありがたいです。そのあたり、どうお考えでしょうか。

石原 このタイトルと「大学のあり方」の考え方との関連ということですが、報告された方々いかがでしょうか。これはむしろ、これからの討論の仕方とか方向についてのご提案と考えさせていただいてよろしいでしょう。ご質問をどうぞ。

参会者 お話しを伺っている中で、学習共同体づくりの大切さ、和光大学の中でも梅原先生がおっしゃったような教員同士が授業を見せ合い、大学改革のことを含めて話し合ったりすることの大切さがよくわかりました。
 私も自分の学校でそういうことをやっていきたいと思っていて、その一つは、お互いに学習することができるようになりました。けれども、お互いの授業を見せ合って評価し合って、授業を作っていくということは、個人的にはできるのですが全体でやっていくのは難しいですね。授業をもっと大成してほしい先生ほど抵抗なさってそこが壁になっています。二つ目に、学生にアンケートをとることができて、それを個人の先生に見せて話し合うこともできるようになったのですが、大学全体で授業を見せ合い、作り合っていただきたいのです。そこで梅原先生にお伺いしたいのですが、和光の場合個人的には授業を見せることのできる先生がたくさんいらっしゃると思うのですが、大学全体で授業を見せ合うことをどのような理念で位置付けるようになったのか、教えて頂きたいと思います。

石原 和光大学の研究グループについての質問がありましたら、今お出しください。では、梅原さんに答えていただきましょう。

梅原 多少質は違うと思いますが、同じような悩みを私どもも抱えながら、やっとここまで来たというのが正直なところです。
 それに、授業を見せ合うということを、和光大学全体で何か確認しているとか、それをしなければ教員の資格がないとかということはありません。私たち有志の教員が自発的にコツコツとやってみているわけで、未だに見せたくない、授業は聖域であるという考えの方もいらっしゃると思います。そこに少しずつ風穴をあけながら来たというのが事実です。私たちがこうして何とかやってこられたのには、いくつか理由があります。一つ目は、ここで司会をされている石原先生のような方がいた、ということです。参観を申し入れて断られてもアタックする、めげないでやる人がいるのです。そして、授業参観させてもらったら、すぐ記録を書いて勉強会をする。これの効果が大きかったようです。最初気が進まなかった人も交流会でいろいろ気づき学ぶことがあって、結局は自分の得になるとわかってくる。いわばおみやげ付きなのです。石原さんが先頭に立って、そういう雰囲気の中で努力されてきて、次第に固い殻を破ることができたようです。
 もう一つは、そういうことをやっていく中で、自分だけが悩んでいるのではないという共有感が、教員の間に広がってきたと思います。授業がうまくいかない、よくしていくにはどうしたらいいか、というのは皆に共通の悩みです。私たちも同じで、授業を見せ合うという共同の試みは、メンバーの中で中高教員の経験のある人から出てきたふとしたアイディアがもとになっているのです。そのアイディアに頼ってやってみているうちに、だんだんシステム化されてきました。私が強調したいのは、そういう皆に共通な悩みを背景にして出てきた自主的自覚的な共同研究だということです。一般の教員にしてみれば、断る理由も協同する自由もある。その中で授業を検討の対象にすることが広がってきたのが実態だと思います。
 日本の大学教員は、教員になるための教育を特に受けないで教師になっています。ヨーロッパなどの大学教員の養成の仕方と違います。だから悩むのが当然で、見せ合って自主的に勉強するのも自然です。共通の土俵だからできることだったのではないかと思います。
 学習共同体のことを三人とも言いましたが、私は率直に言ってそれを実現することは非常に困難だと思います。いかに困難であるか、学習共同体を作っていく手がかりはどこにあるのか、ということが三人が話した中での重要な論点だと思いますので、ぜひあとで討論して頂きたい。

石原 今の問題は、きちんととりあげたいと思います。

参会者 私は都内の中学校の社会科の教師を六年やりました。研究授業で何が知りたいかというと一つは子どもです。私は社会科の教師であると同時に、ある学級の担任でもあるのです。教えているのは社会科だけですから、A君は国語の時間にどんな勉強をしているか、数学の時には意外と活躍するな、というような、子ども一人ひとりを知りたいということです。それから、国語の授業ではけっこう難しいことを習っているのに、何で社会科の本が読めないのかと、具体的な目的がありますから教師同士話し合うことができます。
 私は、大学教師はなぜ研究授業をしないのかと、学校で問題にしたこともあります。研究授業といっても、それぞれの立場とか内容を理解し合う程度では、消極的だと思います。中学校では授業中座席が決まっていて、一番前に誰が座っているというのが一年中固定されているのが普通ですから、そういった場での子供の認識といったものが、大学にはないわけです。だから条件も違うと思うけれど、研究授業ということでは小・中学校の先生の方が大学の先生より先輩だと思います。しかし今日、研究授業をやったのはすごいな、と思いました。日本で研究授業をした大学は他にないのではないか、と驚きました。

石原 認めて頂いてありがたいのですが、われわれのやったのはまだほんのやってみたというあたりで、学習共同体というところにはまだ程遠いです。お話しの通り、固定した席の決まったクラスで子供たちに教える授業と、どこにどんな学生がきているかわからない状況の中で授業をするのとは違う。どうしても結び付きが弱くなります。このことも、さっき梅原さんが提案された学習共同体と引きつけながら、学習共同体を作っていく困難の一つということでこれからの討論に入れさせて頂いてよろしいでしょうか。

参会者 町田の森野から昨年に続いて参加させて頂きました。大学を開放するということ、地域社会に開かれた大学ということでいろいろご説明がありましたが、私が考えていたのとちょっと違う気がしました。そこで社会に開かれたというとき、ニーズをどうお考えなのか、社会が学校に期待しているのは何かということを、まず伺いたい。それから、学習共同体ということに戻りますと、学校教育はどうあるべきかが、今問われていると思います。どう授業されているかということは、あまりこせこせ考えない方がいい。どんな授業もそれだけで絶対ということはありえないのですから。堂々と発表し合って手の内を全部見せて、切磋琢磨するということが本来の姿ではないかと思います。変にこだわらないで、いかにあるべきかという大きな方向でやった方がいいのではないかと思います。

石原 今のご質問はやはり小林さんですからお願いします。

小林 私が話したことと、お考えになっていた地域に開くというイメージがちょっと違うと言われましたが、そのあたりのことをもう少しお話し頂けませんか。

参会者 私の個人的な考えで恐縮ですが、われわれの年代は重要な歴史の勉強が不充分だったので、歴史の勉強をしてみたいと思いました。しかし元気でいられるのは、あと二○年とないだろう。そういった中で、自分自身の教養を高めながら、今までとは別の形で社会にどう貢献できるのか。またそういう姿を後輩に見せ、自分自身も充実感を味わうという方向で、みんなやっているように思いました。そういった意味で、私が期待していたのとちょっと違うのかなという気がしました。

石原 私も小林さんのお話しを伺っていて、これまで大学の開放というと上からお情けで話をしてやるみたいでしたが、それではいけないと。それで今「ニーズを掘り起こす」ということで本当に人々が何を求めているのか、何が自分を充実させ向上させていくのかということを、まず自覚してもらうことが大事なのですね。今までは社会教育というとカルチャー・センターのようにただ与えられるものだったのですが、その辺が重要だと思うので、小林さんにお話し頂きましょうか。

小林 どこが違うのかなと思って聞いていたのですが、今おっしゃったことは私の考えとそう違わないと思います。
 私が申し上げたかったことは、実に多様なニーズがあるだろうと。そういうものに、どう応えていくか。自治体が社会教育をやっていたり、カルチャー・センターがいろいろやっていたりする中で、学びたい要求に大学はどのような役割を分担するのか、ということです。大学というのは、研究と教育の共同体、学問の府であり一定の理論を持っている機関ですよね。これまでは大学が与える形で、聖なる学問を市民はいただく形で、そういう与える受けるという関係ができてきたと思います。その発想を変える必要がある。
 学問とか理論とか、現代の思想とかは常に高みにあって、市民の要求はいつも素朴で低次元だということになっていた。しかし市民の立場でいうと、市民の持っている要求は、むしろ学問のあり方を鋭く問い返す、高いニーズを潜在的に秘めているのです。それをどう大学が掘り起こしていくのか。そして市民がどういう風に自らのものとして、大学に要求していくのか。そういう自治と参加論を申し上げたかったのです。

参会者 今質問された方のように、定年後に歴史を学びたくて、大学で学びたいという希望があった場合、和光大学はそういう方に聴講生としてお金をとるのではなくて学べる方法があるかということです。何か学びたくなったとき、大学でとなるとふつうは聴講料がすごく高いですね。私が勤務しているのは市立の大学で、一五年前から特別聴講制度というのがあって、市民ならば無料です。市民の方なら誰でもいつでもどうぞ、という姿勢で開放しています。

石原 先程から地域社会に開かれた大学ということが問題になっていますが、新村さんは大学の内側の方、つまり自分が教えている学生について、学ぶ意欲がこんなにあるんだ、教養についてもなかなかわかってるじゃないか、とおっしゃいました。それを受け止めて、彼等がもしかしたら言葉だけで言っている教養というものを身についたものにするために、どういうことをされているのか、具体的に伺いたい。そうすると自然に、学外のニーズということも関わってくると思います。

新村 一九八七年くらいから、学生たちが自分で勉強させろ、先生ばっかり一方的に喋るなと言うのです。それで、そういうことができるように努力しようとグループを作って共同で研究、調査、討論、発表する授業をやろうと思いました。それは大学が始める前でした。通年の四単位の授業で「法学」というのをやっていました。学生が今の社会に対してどういう関心をもっているかを口頭で言わせたり、レポートを書かせたりして問題意識を練っていきます。討論しながら、問題意識が近い人ごとに、あるいは好きな人同士でもいいからグループを作らせ、さらに、どういう問題意識で何をどのような方向で調べるのか考えさせることにしました。すると講義の時間以外に、自主的に自分たちでミーティングしたり図書館で調べたり、人に聞いてきたりする。名古屋拘置所の関係部局に行って死刑について聞いてきたり、弁護士事務所にも行かせたりします。
 こんな風にやり始めると、エンジンがかかるんです。私はびっくりしました。学生の方が一生懸命になっていろいろな体験をします。学生たちは、人と自分がどのように考え方が違うかとか、人の考え方に触発されて自分の生き方や生活の仕方も考えるようになるとか、自分が物事や世間を知らないことに気付いて反省しなければと思ったりします。人間勉強というか生き方の勉強というか、そこまで発展していきます。
 私たちが資料やビデオをいっぱい作って、視聴覚の機械も買って学生に与えたからといって、学生が問題意識を持つようになるとは限らない。教員がいくら良い授業をやっても、学生がどういう風に受け止めているかを検証しなければ授業にはならない。学生が自分の認識をどのように発展させたかを見ていく、そういう授業が必要だと思います。しかし、学生にやらせておけばいいというわけではない。ドラマティックな体験がいっぱいあるものだから、教員もよかったと安心して、学生が認識の体系をどうつくるかは後回しになってしまう傾向がある。そういう問題を私自身も克服できていません。それには大学全体のカリキュラムと共同の態勢を考えなくてはいけない。カリキュラムをいろいろ組み合わせていくことを考えないといけない。学生に共同研究させるやり方をみんながやればいい、というものではないと思います。
 でも、私が学生を揺さぶるのでなく学生自身が揺さぶり合うということは、確実にできると私は自信を持っています。ただ、今の半期ごと二単位の授業では、それはなかなか容易ではありません。知識のつめ込みの授業へと逆戻りしやすいのです。

石原 皆さんの中で、大学時代の経験とか今の学生についてとか、ご意見でも質問でもいいですけど何かありますか。

参会者 新村先生が盛んに教養という言葉を使われましたが、社会に出ますと教養なんてものは一万円札と同じで、あってもなくてもいい。仕事をして稼げばいいという欲望の世界です。これだけ資料を整えて、よくタダでこんな講義が開けるな、と感謝しております。これ読み終わりましたら、町田の図書館においてくるつもりです。各大学へ行きますと一万円ぐらいとられますが、それなりの勉強ができます。ここはタダで、わりあい気楽にこうして開かれている大学もあるのだということを今日は学びました。
 町田から歩いてきたのですが、玉川学園の中に迷いこみました。子供たちがいっぱいいて、喫茶店でお茶を飲んでいて実に優雅なものです。和光へ来てみたら、ハンバーガーをかじっている連中がトコトコ歩いている。なるほどこれで玉川大学が柵を作って、ここの学生をいれないようにする理由がわかりました。これから学生が少なくなっていくなかで、一流二流三流と格差をつける日本で、大学が生きていくことも大変だなと痛感しました。

参会者 秋田から来ました、渡辺と申します。今日、この時間のためだけに来ました。私は二二年前に、ここの学生でありました。経済学科を出ていなかへ帰りましたが、ひょんなことから福祉の方をずっとやりまして、今年の四月から新しくできた短期大学の福祉教員になるように言われました。それで、このテーマに非常に興味がありまして、ぜひお聞きしたいことがあります。大学の新しいあり方を、もし新設の大学でやるとしたらこれだけはキーポイントだよという部分がありましたら、お三方から一言ずつでもいいから、おみやげとして頂いて帰りたいのです。

石原 今日のテーマとも根本的に関わることだと思います。和光大学は三○年たってしまいましたが、できたころは新しい大学だからと、はりきっていろいろやりました。今の方も同じように、はりきっていらっしゃるわけです。お若い方ですから、まさしく二一世紀に向けて、これからの大学づくりにプラスになるようなことをお話し下さい。

梅原 改革は足元の学生分析から始めてそこに帰れというのが私の結論です。私どもの仕事は、一般的な議論をしていたのではなくて、目の前にいる学生をどうするか、私たちの要求とのギャップとかがあって授業をどうしようかという苦労から始まったわけです。私は「足元を掘れ、そこに泉湧く」という言葉が好きです。大学もまた、学生が主たる学習の主人公だと思いますので、目の前の学生から出発してそこに帰る。そこからいろいろな知恵が出てくるのではないかと思います。

新村 さきほど教養なんて屁でもない、人間の欲望の方がすごいんだぞというお話しがありましたが、私はこれからの教養というのは、現実社会の中で自分がどう生きていくか、世の中をどう変えていくか、そういう広い意味での実学だと思っています。教養とは本来そういうものです。大転換期の社会では、そうした実践的な教養を身につけ、社会と自分の進路とを見きわめる能力が必要でしょう。
 いま学生たちが求めているのは、現実に自分が人間らしさ、自分らしさを失わずに生きていけるような世の中や企業、職業のあり方、自分の生き方、地域のあり方を学んで、こういう風に生きていけばいいんだ、という総合的な知の体系や知恵を身につけることです。いっぱい外国語の本が読めたとか、コンピューター・リテラシーとか、まあそれもできればいいんですが、学生はそういうことだけ望んでいるのじゃないと私は思います。世界が読めて、アイデンティティを確立したいというのは現実的で切実な教養的要求です。

小林 私は他の大学のことを思い出しながら、今の質問を聞いていました。沖縄にできて三年になる新しい大学があります。そこの先生と、新しくできた大学の「遅れてきた特権」ということを議論しました。伝統や基盤のある古い大学に対して、新しくできた大学がどういう新しい可能性を発見し得るかということを申し上げたい。
 文部省が大学設置基準の大綱化とか規則緩和とか言っていますが、実際には大学が認可されるときのいろいろな拘束は依然として厳しい。大学を創設しようとすると、事務局も教授側も大体既成大学の枠の中で、つまり新しい大学での自由な態勢ではなく古い組織ががんじがらめに再生産されている悩みがあります。そうした古い仕組みの中で大学の新しい可能性、個性のようなものにどうチャレンジするかというところが新しくできた大学の持つ特権ではないかと思います。それは何か、お互いに考えてみたい。

石原 私も一言、言いたくなりました。私が言いたいのは学生を信じなさいということです。特に新しい大学では、学生たちは不本意入学とかで、しょうがないように見えるかもしれないけれど、伸びたい意欲、自分らしさを発揮したい意欲が必ずあります。梅原さんも言いましたが、好きな授業と嫌いな授業について書かせると、嫌いな授業の方が好きな授業よりも多い学生は、非常にわずかです。みんな学ぶ意欲があるのはたしかです。
 せっかく先生になられたのですから、それを大事にして良い先生になって頂きたい。こうして和光大学の経済学部を出て、そういうお仕事をして、しかも秋田からかけつけて参加して下さる方があるということで、私は学生を信じるべきだとますます強く思いました。

参会者 近くに住んでいる大学院生で光本と申します。すばらしい企画だと思っていますが、一つとても残念なことがあります。ちょっと見ればわかる通り、学生がほとんどここに来ていません。率直に言って、このシンポジウムが学生に向けられていないのではないかという気がします。ハンバーガー食ってぶらぶらしているだけが学生ではなくて、本当に学生のニーズに合ったものであれば、すばやく反応して動く力を持っていると僕は思います。だから、なぜシンポジウムに学生が来ないのか考える必要があるし、三人の先生のお話しの中でも、学生がどのように位置づいているかということを、もっと深める必要があると思います。
 最初に学長が大学紛争の経験が今の和光を作ったというお話しがありました。あのときあれほど盛り上がったのは、大学そのものをどうするかということに対して、学生が積極的に関与したいという表われだったのではないかと思っているので、そういった経験との関わりもぜひお話し頂ければと思います。

石原 大へん痛い所を突かれました。なぜ学生が来ないか、単位にならないからです。土曜の午後に出てきて、難しい話を聞こうというところまで学生を向けられないわれわれの非力を感じます。三○周年のお祝いの楽しいお祭りが同時平行だからというのは、言い訳になりませんから。 

梅原 私は今の方の発想にも石原さんの反省にも異議を唱えたい。私の知っている学生は今日、地域活動に行っている人もいっぱいいます。二一世紀に向けてというと、目下活動中の若い人は、それだけでテーマが遠いという感じになるのではないでしょうか。そのこと自体、考えるべき問題ですが。
 今日わざわざここへ来るのは、学生にとっても大変なのです。私は来週のゼミで三人の資料を配って、学生と討論をやりたいと考えています。学生がこの場に多数来なかったという現象面だけで残念だと思わないで、今日出た議論をわれわれが学生のいる場に返していくことです。むしろ学生の要求に合ったテーマにつくり直して学生に返していくことが重要だと思います。

参会者 年がいってますので学生に見られないと思いますが一年生です。どうして学生が集まらないかということに関してですが、シンポジウムをやるという熱意を先生方がどれだけ学生にお伝えになったでしょうか。それが伝わってくれば、「残念だけど出られませんでした。先生、どうでした」という問いかけが、学生の方からあると思います。その熱意がたりないのではないかと学生の一人として感じています。

石原 こういう学生ばかりだといいのですが。

参会者 今の学生の人の意見に、賛成です。例えば出版社で本を出すときには、タイトル一つでものすごく討論しますよ。「二一世紀に向けて大学のあり方を考える」だったら、まず売れませんね。かっこいいだけです。「開かれた大学をつくろう!」とか皆さんが要求していることと主催者のリーダーシップ、熱意がタイトルににじみ出てこない。そして、ほとんどその道のタコツボ文化の中に入っている人ばかりでやっている。ここへはバイクで来たのですが、迷路みたいですね。せめて矢印をつけてわかりやすくしてくれるとか、あなた方はそれ位の熱意を持たなきゃ。教授だからビラなんか配らないなんて言ってたらダメですよ。あなた方が率先して配れば、みんなついてくると思います。
 もう一つ言わせてもらうと、和光大学が町田というこの地域にあるということをきちんと考えたことがあるのかな、という感じがします。学生で成り立っているから大学には違いないけれど、これからの大学は生涯教育を視野に入れながら、市民にも広く開かれていかないとダメです。「開かれた大学」というタイトルに変えてもらって、今後の議論を進めて頂きたいと思います。

石原 タイトルを変えろとおっしゃいましたが、もっともなご意見とは思いますがもう終わりの時間がきてしまいました。次に企画するときには、そうしようと思います。

参会者 先生が学生に教えるということはこれまでの長い伝統で、封建的閉鎖的というか特権的であった。大学の経営や学費ということを考えると、企業のカスタマーと同じように、大学では学生がカスタマーなのです。学生を楽しませる雰囲気、難しい話を延々と講義するのではなく、学生をひきつける何かがほしいです。ここの大学だけの問題ではありませんが、それが風穴をあける一つの手段になるのではないかと思います。難しいことですが、ぜひトライしてもらいたい。

参会者 沖縄大学からの交換学生です。自分も不満があってこの大学へ来たのですが、これだけいろいろ考えてくれる人がいるのだな、と感心しました。
 今の大学生は高校までにみんな牙を抜かれてしまってるというか、牙のとぎ方も知らないという感じです。だけど一度それを教えてもらえれば、すごい勢いで噛みつけると、新村先生のお話しを聞いて思いました。例えば六○年代や七○年代の闘争に対する反動みたいなものが、僕らの中には少しあるという感じがします。ですから、一つの講義の中でも、先生が尻をひっぱたくというか、牙のとぎ方を教えてくれると、うれしいと思います。そこが昔と違う点だと思うけれど、今僕たちにはそれが必要だという気がします。

石原 討論に入って最初に発言なさった方が「大学のあり方を考える」というと大学内部だけのように聞こえるし、「二一世紀に向けて」というのは時間のことで広がりがないのではないか、という意味のことを言われました。しかし、これまでの熱心な質問と討論の中で、たいへんな広がりが出てきたと思います。具体的にも、山崎団地から秋田、沖縄までという広がりがあったわけです。
 ここには、先程から問題になっておりました自由な学習の共同体が、四時間くらいの間ですが成立していたと思います。三人のお話しを聞いてただ教えて頂くというのではなくて、これだけきつい意見や耳の痛いことまで遠慮なく言って頂いて、本当によかったと思います。それで、これから入ってくる学生だけでなく、町田だけでなく、世界に開かれた大学になるよう努力しようという気持を頂きました。
 本当にありがとうございました。


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