問題提起3
大学の内と外から大学の未来を展望する

新村洋史 中京女子大学助教授


 新村でございます。ただ今ご紹介にありました東海高等教育研究所は、一九九〇年に設立されました。私が研究所づくりに参加したのは一九八四年、大学教員になってからの経験によるものです。四〇歳で大学に就職していきなり組合の委員長にさせられ、大学民主化のために努力したところ、理事会から三人が懲戒解雇、一人が停職処分を受けました。私は処分を免れたのですが、大学や学生のためによかれとがんばっているのになぜ処分かと、深刻な思いをしました。今まで行ったこともない裁判所へ足を運んだり、そんな体験を重ねているなかで、大学のことは大学人自身が考えなくてはいけない、同じ地域の大学人がもっと横のつながりを持って、私学財政の問題も含めちゃんとした教育や研究ができるようにしていくべきではないかと思い、東海地方の大学共同の研究所を作っていま五年目になります。会員も四〇〇人近くになりました。

最近、私が雑誌『教育』六月号(国土社)にのせた評論にまとめて書いてありますが、財界は矢つぎ早に大学改革、特に大学教育の内容にわたる提言をしてきております。どういう教育をし、どういう学生を育てるかという大学改革の心臓部分、一番柔らかい一番大事な部分にいよいよ手をつっこんできたという感じは否めません。そして新聞の論調や投書、大学基準協会の提言書等々を見ても、この大学教育の内容と方法をどうやって充実させていくかに大学改革の関心が集まっているように思えます。

もともと私たちのなすべき課題は理念なき大学教育ではないわけで、主体的な大学の理念、大学像を作ることが最大の問題であると思います。そこに経済同友会が踏み込んできて、立ち入ったことを言っています。同友会が出した「大衆化時代の新しい大学像を求めて」という提言の中に、「特定専門分野を掘り下げて深く追求する意欲・能力」を持ち、かつ「柔軟で総合的視点から新しい価値を創造できる」学生あるいは人間像を掲げております。単なるスペシャリストではだめだ、「体系的知識を持つと同時に個性をのばし判断力を高め、人間としての生き方に自覚を促すような教育」をやってほしいと大学に向かって述べています。

この言葉の限りでは、あまり異論はない。ところが、経済同友会の元教育担当委員会の親玉で、住友信託銀行重役の桜井修氏は最近ある新聞で、ゼネラルな能力や主体的に現代の問題を発見・挑戦していく、専門と教養がしっかり結びついた学生は「一握りの人間で結構です」と明確に述べています。まさしく経済界のねらいはそういうところにあるといえます。このようなエリート主義、差別・選別思想は、他の文書からも読みとれることです。

私は、これは大衆化時代の大学が要求している、あるいは学生自身が求めていることとは全く異なっていると思います。桜井さんたちは、学生とか国民の大衆的要求をほとんど見ていない。国連の「子どもの権利条約」(一九八一年)を見ても、一八歳までは子供で一九歳以上は大人であり、大学での教育は大人への教育及び成人を対象とした教育だといえます。国際的には、小林先生も言われたようにユネスコの「学習権宣言」(一九八五年)があります。それはすべての人々の学習権を保障し、国民主権の立場に立つ学習観で、大学はその場所であるわけです。桜井発言は、国民大衆の学習権要求を制限するもので、よって財界の本音と国民の要求とは水と油であるといえます。

この間(一九九一~九六年)、大学の改革は本当に進んだでしょうか。そうは言えないと思います。例えば、『朝日新聞』の二月一八日号の社説では、「自由化と言いながら大学は、文部省の利益誘導に争って手を挙げているだけではないか」と痛烈に批判しています。大勢はこのとおりです。文部省は「教育白書」(一九九六年二月)で、大学改革は順調に進んでいると言うが、これは今まで難しかった「大学の自治」に手を差し込み、一定の成果をあげつつあるとの認識で、しめしめとほくそ笑んでいるようなことの表われではないか、と書いています。いま多くの大学がカリキュラム改革を進めていますが、共通に見られる方向は専門教育の重視と教養教育の軽視・縮小です。

「教育白書」はまた、学生の要望が職業教育や専門教育といった、すぐ就職に役立つものへの関心が強いとしています。しかし、文部省が委託した調査でも、現代社会に必要な教育内容、教養教育と専門教育を関連づけた内容の充実を求める学生が五一・七%にも上るのです。決して一部の人間だけが教養教育を求めているわけではないといえます。さくら銀行の研究所(さくら総研)の調査でも、これは昨年一二月に二~三千人の学生を対象にした調査ですが、つめこみ教育ではなく「学生に考えさせ参加させる授業」を求める学生は五五%と過半数に及んでいます。そのために高校までの教育を変えてほしい、一方的なつめこみや管理主義教育ではなく、「基礎的な知識の習得」と共に「個性、創造力の養成」を求める学生がそれぞれ六二・九%と五八・三%います。およそ六割の学生が大学と高校以下とにそうした教育を積極的な意味で望んでいるわけで、桜井さんが言われることとは異なっていることを見る必要があります。

そういったことから、私の初めの結論として、「学習研究共同体を作ろう」ということを言いたいと思います。学生をそのように指導するだけでなく、大学という組織体が自身の教養を深め文化性を高めていく、そんな学習研究共同体ができた時に、日本の大学は良くなり改革されたというべきではないでしょうか。それをめざして力を結集していくことが大学の本当の歩むべき道だと思います。これは青年・学生も求めていることです。教師の側がもっと自信を持って、これだけは一緒に学ぼうということを強力に打ち出すと共に、学生自身がそれをどう学んでいくかのプロセスをもっと丹念におさえる必要がある。そうした学習が成り立つためには、やはり集団の中での切磋琢磨、討論、交流、コミュニケーションがあって、「やっぱり自分の考えていたことが正しかった」と励まされたり自信を持ったりすることが大切です。集団とか共同の学習があってこそ、学んだことが自分の生きる力としての教養になると確信していいと思います。「能力主義」的大学体制は、共同とか教養の形成それ自体の障害ですが、だからこそ改革の課題はここにあると言えます。

そういう過程や態勢を大学全体に広げ、いろんな科目を担当している先生方が力を出し合って、梅原先生が作った本のようにまとめていくことができれば、それが大学の共同財産になる。大学とはこういうものか、学生が学ぶとはこういうことかという風に、理事会、文部省、あるいは市民の方々にもわかって頂けると思います。

小・中・高校ではそうした学校づくりが行なわれており、私も教育科学研究会のメンバーの一人として勉強してきました。大学では今まで、かけ声はとにかく本当にそういったことが行なわれたことはあまりないと思います。和光のような民主的な人が集まっている大学でもあと一○年かかるそうで、私どものような所では何十年かかるか気が遠くなります。そういうことを頭に入れながら、小・中・高校の実態と子どもたちの学校への願いを具体的に見ていこうと思います。

今の学校教育体系は、本当にいきづまっていると思います。いじめ自殺事件に象徴されるように、と言ったら一番わかりやすいでしょうか。子どもたちが今の学校をどう見ているかを見てみます。私などは自分の生き方として学校教育を批判できるようになったのは、大学を卒業してからです。私はもともと法学部で法律の勉強をしていました。教育学は勉強していません。二四、五歳になって、この小学生のようなことを考えたわけで、今の小学生が直面している事態はそれだけ深刻だともいえるでしょう。これは千葉の柏市の小学校六年生が書いた「勉強とは」という作文です。

「ぼくは今、モーレツに考えている事がある。勉強って本当は楽しみながら、そして真剣にやるものではないだろうか。くる日もくる日も、やってもやっても先が見えない闇のトンネルのようで、以前やったことは全て忘れる位の苦い汁を吸わされて、点数に追いまくられる。ぼくは無条件降伏したくなる。たとえば、どうしても見たいテレビがあっても見れない。もっともっと友達と遊びたい。テレビゲームもじゃんじゃんしたいと思う。大人の残業のように、夜一一時一二時と塾から帰る子ども、と新聞が書く位だ。いつもいつも時間に追いまくられる。…どうしてこんなにきつく激しいたくさんのぎせいを払ってまで勉強をやらなくてはならないのか。大人になる前に疲れちゃうよ。ちくしょうちくしょうとぼくは思う。時代が時代だからしょうがないのだろうか。これが勉強の本来の姿であるのか。…大人たちに考えてほしい。勉強ってもっと生きるためのことを学ぶためのものではないだろうか。…楽しく勉強したりすることは不可能であるのか。ぼくは未来が見えたらいいなと思う。でも反面恐ろしい。もうちょっとゆっくり大人になりたい。そしてストレスがたまらない世の中だといいなと思う。…もっと大切なことがあるような気がするから」

この子どもの文章を読んで、本当に切なくなります。大人の私たちの生活と同じだなあ、と。でも、切ないだけではありません。この子は、もっと楽しい生きるための勉強とか、もっと未来のことを考えられる勉強があるんじゃないかと考えているところが、すごくすばらしいと思いました。そして中学生になると子どもたちは、さらにまともに積極的になっていく。問題も多いですが、積極的になっていく子どもがたくさんいます。中学生は青年前期といわれて、生き方や進路とか人間って何だろうとか、教養に相当するようなことにかなり関心を持っていくのですね。次の例は、東京の石神井中学校三年生M君の「生き方を見つめる」という作文です。

「中学時代にする方がいいことはたくさんあるが、なかでも生きた勉強をすべきだ。生きた勉強とは、受験勉強などとは違い、自分の人生を生きるためのものであり、言いかえてみると、自分の進路をよく見つめてみることだ。かん違いしてもらっては困るのは、ここでいう『進路』とは、どの高校に進むのか、どの会社に就職するのかではなく、もっと広い視野で見たどのような生き方をするかということである。それを決めたのならやり通せ、という訳ではない。ただ自分をもっと深く見つめ、自分は何をなすべきかを悟れば、それでいいと思う。またそれを学ぼうとする心があればいいのではないか」

次は高校で、この学校に進学したら人生は終わりだという風に地域の人が見ている大阪のある私立高校の生徒たちが、卒業するまでの三年間に自分の見方を変え、勉強の見方を変えていったという実践記録の一部です。それが、生徒らによる構成詩で表現されています。

「私たちのクラス憲章/私たちはいろんなことを知り、考え成長していく存在だ/三年間続けた『充実ノート』、考える勉強に初めて出会った/一つわかると知りたいことがいっぱい出てくる/いろいろ考え疑問が解ける喜びがわいてくる/丸暗記することが勉強だと思い/テストの点ばかり気にしていた私/『授業なんて聞いても無駄』 /『勉強なんかしなくてもやっていける』/『わからない』と言うことが恥ずかしかった/あの頃はなぜ聞けなかったのだろう/私にとって『充実ノート』は真実を発見し/未来のことを考える大切なノート/『充実ノート』をすると授業の内容がいつまでも頭に残る/自分の生活を見つめ、社会の動きに関心を持つようになった/(略)『なすがままにされる受け身の存在から/自分自身の歴史を創造する主体的な存在に』(ユネスコ学習権宣言)/この言葉の意味がわかってきた/『どうしようもない劣等生だ』といじけていた私/でも今、別人のような私がここにいる」。

このような卒業の詩をうたって、高校生たちは卒業していきました。中高生でさえ、このように自分のことと社会の発展を願って、勉強しています。その中で権利意識にめざめ、何のために学ぶのかがわかってくる、未来に生きる力を得るということがひしひしと伝わってくる詩です。

私の大学は、びっくりすることがいっぱいあります。授業は大講義室で学生は二○○から二五○人ぐらいいて、授業は法学や憲法その他ですから私語がすごく、さわがしさは止まない。最初の頃はガーンと目の前が白くなり、これで授業ができるのかという感じでした。気を取り直して教室の隅から隅までよくよく眺めますと、いろんな光景が目に入ってきて、いっそうショックを受けました。ヤキソバとスパゲティを交換しながら食べ合っている学生、旅行のカタログを見ている集団。階段教室ですから、前の席の学生がうしろを向くと宴会のように輪になってしまいます。教室の階段の隅の方には、新体操のボールの演技を練習している学生もいました。

これは学生の研究をやらなくては、学生と一緒に生きていけないと思いました。私語をなくすためにイエローカードを渡すとか指定席を作っておどかすことも、できないことはないけれどそれでは自分が敗北したことになる。そこで学生を知るための勉強を始めました。学生は、わからなければわからないままで、「授業が面白くない」といつも言ってきてくれるほど発達していませんし、心やさしくありませんから。

「何で私語をするの」「勉強したくないの」といろいろ聞いたり書いてもらったり、面接したりしました。その結果学生の気持がだんだんとわかってきました。この大学は学校歴社会の中では底辺の大学だ。合格はしたけれど本当は来たくなかった。卒業したって底辺大学ではいい所に就職できないだろうし、教師にもなれないだろう。勉強しようとしまいと関係ない。一生けんめい勉強するなんてバカバカしいしむだなことだ。そういうわけで授業にはちゃんと出ているけれど、勉強意欲なんてまるでない。単位さえとれればそれでいい。学費を出してくれる親に悪いから、義務感のようなもので教室に行っているだけなのよ。こういうのが多数だということです。そうした中でいろいろな問題が起こるわけです。

入学式の日に、あんな大学に行きたくないとお母さんとケンカして遅刻したとか、オリエンテーションの日に、こんな大学で勉強したって希望がない、と思って気を失って、大学の保健室に運ばれた学生もいました。また別の学生は、こう書きとめています。

「思いおこせば入学の春、私はどんなひどい顔をして入学式を迎えたでしょう。一生けんめいに私を盛り上げようと明るくふるまっていた母親を横目に、私の心はもうどん底で何も手につかない。このままどこかへ行ってしまいたい気持になっていた。そんな頃自分の顔を鏡に映した。自分の自分じゃない顔を、今でもしっかり憶えている。希望もときめきも何もなかった。五月になったら大学をやめて、予備校にいこうと騒いでいた私。完璧な不本意入学で、八七年の春は冬だった」

こんな風に書いていますが、この子は合唱部の部員になってもう別人のように変身しました。よかったなあと、私はすごくうれしく思っております。こういう大学でも、そして私のような教師と出会っても、皆ががんばってやれば学生はやはり変わっていくものだとわかってきました。教師が変われば、学生も変わるという面も確かにあるのです。そうした新しい大学体験をくぐりぬけて学生は変わり、発達していきます。

別の学生が書いた文章を紹介します。

「現代の社会は、能力主義、学歴社会といわれる。小さいうちから競争社会にまきこまれ、よい幼稚園に入学できれば、よい将来へと続くレールが保障されるとでもいったように考えられている。でも、それは違うと思う。人間の発達はダイナミックで過ちをくり返しながらジグザグの道筋をたどる。時に回り道に見え、あるいは停滞に見え、これまできちんと身についたと思っていたことが、次の瞬間には揺らいでみえる、退行にみえる。そういう事実を通して人間は発達するのである。人生とは、いい大学にいきいい就職ができれば、すばらしいものになるとは限らない。にもかかわらず、それをすばらしいものとみんなに錯覚させてしまった社会の、ものごとの考え方はとても小さいと思う。しかし、そんな社会の中で学力もなしに教養もなしに競争社会を批判しても、何も話にならないので、まず実力とか教養を身につけてそれから批判したいと思う。その中で、人間の心を忘れないようにして。人間が生きるうえで、最も大切なことは何かと常に考えながら」

大学生もまた、今の小中高生たちが考えていることと同じことを考えている。学校歴社会の中にいることにいっそう苦しみながら、しかしそれだけにより自覚的に、学習や教養の自分にとっての意味といったものを学んでいく、といえると思います。

私も学生に寄り添って、学生が一体どんな学習体験を積んでくるのか、どんな教養観をもって大学にくるのかを書かせたりリポートを作らせたり、アンケート調査をしたりします。勉強するとは何か、教養とは何かということを学生と一緒に考えるためです。

資料1を見て下さい。第1から第3までの学力・学習とあります。そこに書いてあるようなことを私なりに話をしてから、自分の高校時代の体験を考えてみてほしいと言ってアンケートに答えてもらい集計したものです。これは去年やったのですが、表2が教職課程の非常勤講師をしている明治大学、表1は中京女子大学のです。

第1の学力はいわゆる基礎学力といわれるようなものです。機械的記憶や練習によって身につく非体系的で要素的な知識や技能のことで、単語や熟語を憶えるとか公式の一つがわかったとか、そういう類です。そういうのが高校までの学習で「八〇%位身についた」という学生が、明大で一四・五%、中京女子大で八・三%います。五〇%ならどちらも約三分の二ですね。第2の学力というのは、これがもっと点から線、線から面へとつながって立体的連関的になった、体系的洞察的な知識や技能のことです。こうしたものが頭の中にできると「わかった」感じが生ずる、あるいはそう思って本を読んだりしたという学習体験の有無を聞いたわけです。高校までに「かなりあった」という人が明大二二・六%、中京女子大七・六%です。

それから第3の学力は、勉強だけでなくもっと広くボランティアや部活なども含めて学習したことが自分の進路や生き方、アイデンティティの形成に寄与したと思われるような、学習体験や学力習得の体験があったかどうかです。そういう体験が「多くあった」という学生が明大一九・四%、中京女子大六・三%という状況です。要するに自分について考えたり、社会や人間の生き方についての勉強は、どちらの大学生もあまりしていない傾向が強いのです。大学で本当に勉強するようになるためには、自分を媒介にして社会を見ていき、自分がどのように社会に貢献できるかを考え、批判的な目あるいは問題意識を持って社会に関わっていく関わり方を自分なりに確立することが必要です。それが本当の勉強であり教養だと思いますが、高校までにはまことに不充分だということです。

次に、そうした課題に気づき、自分もそのようになりたいと思ったきっかけは何か、ということについて聞いてみました(資料2)。表1と2は、能力主義はいけない本当の教養をつけなければと多少でも考えるようになった体験はいつか、どんな事かをリポートに書いてもらった集計です。対象は中京女子大の一年生で、家政学部と体育学部です。

家政学部では、高校、予備校までの勉強の中で、すでに約半分の学生がやはり受験勉強は本当の勉強ではないと悟っている。これは大きいと思います。それから大学生になって学内外の友人はじめいろいろな人との交流や活動を通してというのが家政で二四・七%、体育でも三三・六%と多いです。このことから、先の小中高の生徒たちの勉強観と同じような傾向が私の大学についてもいえると思いました(資料3)。

表1と2は、「では自分をそういう風な主体的な人間に向かって自己変革、自己形成していくための条件は何かを考える」というリポートを書いてもらった集計です。表5の家政学部で見ると、①目的意識や目標を確立してそれに向かってがんばるというのが二九・二%、⑤意欲的に学ぶこと一七・〇%、⑥広い視野や知識で考える力をつける一四・六%、⑧自分と社会の価値観を変える一〇・一%で、これらを足しますと約七〇%になります。やはり知的に広い視野から学んで自己を確立する、そういう方向を考えている学生が、圧倒的に多いということです。体育学部でも、①②⑥⑦を足すと八〇%になります。七~八割という大多数の学生が、やはりちゃんと大学で勉強しなくてはだめなんだ、主体的な勉強、自分が学ぶ主人公にならなくてはならない、と思っていることがわかりました。私もこのことに関して確信を持つようになりました。

教養とは何か、ということについて、口で言ってもなかなかすぐにわかることではないので、まず学生に問いかけて書いてもらうことにしました。私の意見は述べず、いきなり「教養とは何か、言葉で表してみてくれ」と言って書かせたものです。明大と中京女子大に短大も入れて三校分の回答のうち、共通するものは一つにまとめ、少しずつ変わったものをそれぞれ三〇ぐらいずつ並べました。

まず明大で、理工学部農学部一年生の教養観です。

「1、自己のアイデンティティを確立し、目標を決定するために必要な知識であると思う」

「3、『教養が身につく』という言葉があるように、教養とは先天的なものではなく、後天的なものであろう。後天的知識の量の最も多い人間固有の知識体系であり、学問を通じて身につく知識、人間性、悟り、知恵のようなもの」

自己というものをどうやって確立するかに非常に関心が集まっており、このことはどこの大学でも共通です。その一方で、こういうのもあります。

「23、社会の主人公にふさわしい知識、良識をいう」

つぎは中京女子大学は人文学部児童学科です(資料4)。

「3、高校まで習ってきた勉強内容や知識だけでなく、日本や世界の状況をはじめ実社会生活に役立つ知識があり、さらに知識を持っているだけでなくそれを実行に移していく、人間性にあふれたバイタリティのある人が、『教養のある人』ではないか。

「8、自分自身を自己教育して人間性を養うこと」

「11、『人間が生活する上で必要な知恵であり、それは人間にとって最も高級な能力である』と高校時代の先生が言われた。でも私はわからない」

「19、自分の生きている時代で、どんなことが起こっているか知っていることであり、きちんと自分の意見が述べられることだと思う。ただ単に物知りというだけでは教養があるとはいえない」

次は短大です。短大の学生は実用的な知識だけを求めるのがはやっているのかと思いましたが違いました。

「7、覚えただけの知識の多さが『教養』ではない。それは『育む』ものであり、知識を育み活用することができる営みでなければならない。例えば、食事するにはかんで飲みこんで、吸収消化して初めて栄養になるように、その人が自らの人間を育む場合に、知識というものがそのような働きをすることを教養という」

私はいつも、栄養を教養とつなげて話をしています。この学生はまるでそれを知っているかのようです。

「17、学校でのテスト勉強のためのものではなく、もっと人間的で社会人になっていくうえで、大切なものというイメージがある。」

「29、『なぜ?』と疑問をもつことから、教養がはじまる」

「30、人間をしばるものではなく、人間に希望を抱かせ与えるものが教養だと思う」

「12、人間的な豊かさ、人間の心の豊かさ」 と書いてあります。これらのことを教材にして、勉強していこうと思います。

今まで私たち私大教連などは、国民のための大学、国民にひらかれた大学ということを合言葉にして、研究し運動を進めてきました。しかし必ずしも共通のイメージがありませんので、国民のための大学とは何か、その条件は何かをつめていく必要があります。大学像の問題、教育の中身の問題、カリキュラムの問題、教育形態や方法の問題、管理運営の問題、財政状況の問題等の点で早急に作っていく必要があると思います。

具体的に考えますと、最近は「主権者」としての国民をつくるための教育、という言い方はあまりしなくなっているように思います。一人ひとりの子どもが幸せになる、一人ひとりの子どもが自己決定の能力とか、自分を育てる自己形成の能力を持つようにする教育とは何か、といった方向に焦点が向けられているように思います。

それはそれで大切なことですけれど、社会的に考えた時には主権者としての国民をどうするかという観点、国民主権を重視する公的な部分が教育、そして大学教育になければいけないと思います。単なる「被教育者」としての学生から、主体的な学習者への変化が大学で起こらなくてはならないこと、それが実際に起こり得ることについては前にお話ししました。しかしこの変化が単なる「私権者」としての変身ではなく、「主権者」という国民共通の自覚に支えられていなくてはならない、と思います。

学生も消費者(コンシューマー)だ、という言い方が最近されてきています。大学が提供するカリキュラムや授業を、特に私学の場合学費と見比べて買う価値があるか判断する、学生もかしこい消費者にならなくてはというわけです。これにもたしかに一理ありますが、そうした市場原理ですべていいとはいえない。国家統制が間違っているからといって、市場原理つまり私的権利のぶつけ合いに任せておけばいいことにはなりません。公共的な面の原理原則、条件が必要だと思います。

そうするとやはり、主権者としての人間をどうつくるかという考え方が根本になくてはならない。学習者という概念は、そのような主権者としての学習者、生活者でなければならず、学ぶ主体としてのイメージが共有されなくてはならないと思います。学生に付加価値をつけて社会に出す、そのために単位や卒業の判定を厳しくするという大学のことが最近いろいろと報道されていますが、私は非常に疑問に思っています。学生はモノではありませんので、品質管理をしていく発想は間違いです。学生が主体的に勉強していくという自主的な学習能力を身につけたかどうかこそが大事であり、しかもそれが当の個人のためだけのものでなく、国民共有の財産としての大切さなのです。具体的にいえば、前にも言いました「学習権宣言」に基づく大学像の再生ということです。このことについては、もっともっと皆で考えていく必要があると思います。

最後に大いそぎですが、大学教育の課題といった観点からいくつかのことを述べたいと思います。まず学生の参加をどう位置づけるかということです。これは国民にひらかれた大学の条件の一つだと思います。かつていろいろな問題がありましたが、詳しく話す時間がありません。授業への参加、カリキュラム作りへの参加といった個々の問題を超えて、基本的には大学文化・教育文化の世界への学生参加(すなわち大学運営への参加)という考え方が必要ではないでしょうか。

となると、これを具体化していく組織づくりが必要になってきます。学習と研究の共同体づくりについては前に申しました。これは学生をその方向で指導するというだけでなく、大学自身が組織体として独自の文化を持ち、教養を深めることを意味します。そのための努力が常に必要だということです。何のために研究するのかということを何のために学ぶかという問いと共に、学生と一緒に考えていくことが大切だと思います。

以上のことをまとめて大学全体がこの自分たちの大学を自分たちの条件にふさわしく作っていく、そういう大学づくり運動体としての関係ができればいいと思います。それはすなわち国民皆の自己教育、自己形成を原理とする、教育と研究の組織化であり計画化だと思っています。

教育研究の共同体づくりは、国民と人類の福祉と人間的発達に奉仕すべきものです。ユネスコは、二一世紀の大学像に関する政策や高等教育発展のためのインターナショナルなネットワークづくりにおいて、大学の本来的機能を社会的・人類的課題(平和、人権、自由、環境など)への志向性や社会的「妥当性」において発揮されるべきものとしています。こうした意味での大学像の明確化・共有化が今日ほど重要なときはありません。その意味で、さきほど小林さんが紹介された和光大学合同教授会の決議は、まさにこの方向に沿うものとして今後ますますその意義を増すものだと思います。「大学改革」の中で大学が主体的理念を主張し持ちにくくなっているとき、右の点はいっそう重要な基本的課題です。

ご静聴ありがとうございました。

資料1 学習観の転換と青年期の自己形成(新村) 『中京女子大学紀要』No.30(1995)
表1 高校教育下の学力像・学習像(中京女子大学の学生の場合) [略]
表2 高校教育下の学力像・学習像(明治大学の学生の場合) [略]
資料2 「能力主義」をこえる教養と人権としての教育(新村) 『中京女子大学紀要』第27号(1993)
表1 考え方を転換できた体験は何か(家政学部1年・89人) [略]
表2 考え方を転換できた体験は何か(体育学部1年・110人) [略]
資料3
表1 自己形成のための条件(家政学部1年・89人) [略]
表2 自己形成のための条件(体育学部1年・110人) [略]
資料4 教養とは何か?(一九九六年五月)-中京女子大学・人文学部児童学科・第一学年
1.教養は差別的作用をもつ場合もある。
2.成績の善し悪しではなく、世間でいう常識をわきまえていること。
3.高校まで習ってきた勉強内容や知識だけでなく、日本や世界の状況をはじめ、実社会生活に役立つ知識があり、さらに、知識をもっているだけでなく、それを実行にうつしていく、人間性にあふれたバイタリティーのある人が、「教養のある人」ではないか。
4.雑学的なことを含んで自分自身をつくること。遊ぶこと、運動すること、趣味をもっていること、恋もすること。
5.礼儀、作法など洗練された対人的マナーなどが身に付いていること。(学問以外のことをおいて自分を高めること)これも就職に有利。
6.「広く浅く」知ること。
7.さまざまの知識を学んでその人の身についたものが教養。
8.自分自身を自己教養して人間性を養うこと。
9.おけいこごと等で、日本文化的な要素のあるものが身についている人のことを「教養」のある人というのだと思う。例えば、茶道、華道、書道等がよくできる人のこと。それは礼儀作法がきちんと身についている人につながる。
10.知性的で、かつ躾ができているといったような意味が含まれている。
11.「人間が生活する上で必要な知恵であり、それは人間にとって最も高級な能力である」と高校時代の先生が言われた。
12.何事につけても(どんな分野でも)人並以上の知識をもつこと。すなわち教養=知識である(多識)。
13.一般常識は勿論、政治とか世界についていろいろ知っていて、世間の人から「えらい」と思われる人が持っているもの。
14.その時、その時に応じて今まで得てきた知識を生かして適切な判断ができること。
15.教養のある人とは、勉強ができること以外に「心豊かな人」のことをいう。
16.学習能力を身につけること。
17.社会の出来事や社会で起こることから学ぶことができること。
18.視野を広げること、教養には限界がない。
19.自分の生きている時代で、どんなことが起こっているか知っていることであり、きちんと自分の意見がのべられることだと思う。ただ単に物知りというだけでは、教養があるとは言えない。
20.本を読んだり、多くの人と接することから得ることができるもの。従って、その人間が住む環境によって教養のある、ないが分かれることもある。しかし、教養には限度というものはない。
21.教養=学校では習わないもの。生活が教養をつくる。
22.人間的に優れているので、文化的なことや芸術、また社会のことをよく知っていること、さらに体を動かすなどレクレーションすることなど、いろんな面に対して興味や関心をもっていること。要するに、教養とは人間を磨くことである。
23.学校生活において習ったことが身について、それをあらゆる場で活用できるということだと思う。
24.知識・技術が確かなものとなって、自分の内に備え付けられていて、いざというときやふだんの生活にひきだすことのできる能力をいう。
25.判断力、行動力、生活力で単なる知識でないもの。それがあれば、自分や相手を傷つけたりしなくなる。
26.教養とは「教員養成」の略称である。
27.教養とは直接「人間」や「人間的なもの」にかかわってくるものである。
28.教養ある人というのはスポンジのような人、どんな知識、技能も吸収する。
29.一人一人が自立して生きる力をもつために必要なもの。教育の本来の役割。
30.いろいろな知識をもとにその人なりの理解や考えを発展させることができること。また、そういう働きをたすけることのできる知識や教養(教育)が必要だと思う。
31.教養=学歴(世間の観念)。
32.知識が多いことよりも、知恵があること。
33.自分自身の力で獲得するもの。押しつけや強制では育たないもの。
34.勉強ができる人ではなく、心豊かな人が「教養のある人」。
35.教養のあるないは、生まれつき決まっているような気がする。
36.身分の高い人が身につけなければならなかったもの(貴族、漢語、和歌)。
*「教養ある人」=an Educated Man
**「知恵」=つねに自己洞察(自覚)との関連において、主体的・実践的に世界把握や問題解決に向かおうとする知的な態勢。受動的な問題解決ではなく、能動的な問題創造であり、自己と対象との統合をもととした認識の態勢である。
cf.藤野武『人間形成の心理学-人間変革の条件』春秋社一九五○年 一八一頁

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