問題提起2
地域、社会に開かれた大学とは

小林文人 人間関係学部教授


 小林でございます。レジュメのほかに資料が三枚とじてございますが、ごら んになりにくい小さな活字の資料になってしまって、大変恐縮ですが、お許し頂 きたいと思います。梅原先生が膨大な資料を作るという情報が流れてきて、しか も一冊本である。そこで大急ぎで資料を作りました。私はいまご紹介頂きました 通り、和光大学にきて間もないわけで、和光大学の歩みを改めて資料で読んでみ たりしているところです。そのうち五年くらいたったら「語り合い開き合う大学 開放」みたいな本が一冊できればいいなと思いながら、梅原先生のお話しを伺っ ておりました。

 与えられましたテーマは、地域、社会に大学を開くというのはどういうこと なのか、というものです。ご承知の通り日本の大学は歴史的にきわめて閉鎖的か つ特権的な体質を持っておりまして、戦後の教育改革以降もそういう体質から抜 けきれないままです。これは近代国家としての歴史を持つ他の国々の大学と比較 すると、比較にならないほど閉鎖的、つまり開かれない大学であり、また現在も そうであろうと思うわけです。ところがこの十年来、日本の大学史上これまでに ないほどの急激な変化が地域社会に大学を開くという事柄に関して起こってまい りました。これは先程もお話しがありましたが、文教政策の急速な動きですので 、この流れを改めておさえておきたいと思います。

 大まかに申しますと、一九八○年代半ばの臨時教育審議会から始まりまして 、これを起点に大学審議会ができ、それから中央教育審議会も追いかけて答申を 出し、一九九○年には生涯学習振興整備法という法律ができます。それに基づい て生涯学習審議会というのが答申を出して、という風に、さまざまな大学開放の 政策が次々と打ち出されてきた、めまぐるしい十年です。細かくお話しする時間 はありませんし、それよりあとの方の話を聞いて頂きたいと思いますので、簡単 にポイントだけ申し上げます。資料2から5をごらん下さい。

 2の臨時教育審議会のキーワードは、「生涯学習体系への移行」です。従っ て学校も生涯学習のための機関である、当然大学は生涯学習の機関としての役割 を今後果たすべきであって、社会人の学習の場として開くべきだ、ということで す。大学審議会がこれを受ける形で数年後に、学習機会の多様化を言い、コース 別科目別の履修登録制、昼夜開放制とか大学以外の機関の単位を認定するとか、 社会人入学や編入学の枠を拡大するなど、その後具体的な改革となって、今動い ているわけであります。

 一九九○年に中央教育審議会が、生涯学習の基盤整備ということを打ち出し 、大学に生涯学習センターを設置する方向を示しました。その直後に生涯学習振 興整備法を作りましたが、私どもはこの法律に反対したわけであります。なぜな らば生涯学習振興と言いますけれども、生涯学習関連企業の振興法みたいなとこ ろがありまして、公的なセクターの比重を見直して、民間活力導入による生涯学 習のマーケットづくり、税制上の優遇措置や資金補助などをやっていくというよ うな法律だからです。しかしこの法律は通りまして、その中に生涯学習センター も盛り込まれるはずが結果的には入りませんでした。つまりこれは民間活力論で ありますから、公共的な生涯学習の条件整備はあまり歓迎されなかったのでしょ う。

 しかしご承知のように国公私立大学のあちこちで、生涯学習研究センターと いったものがかなり姿を現わし始めております。これは歴史的に新しい事態であ りまして、大学の中に、都道府県が設置するような生涯学習センターとは違った 、学問の自由と研究の蓄積を持った生涯学習研究センターなるものがどういうふ うに機能していくか、今後注目していく必要があると思います。

 それから一九九一年に中央教育審議会の答申が出ました。これは大体大学審 議会の答申を受ける形で生涯学習センターのことや公開講座、放送大学のことな どが書いてあります。資料4です。

 次に生涯学習審議会が一九九二年に、リカレント教育等について提言を致し ました。リカレント教育といいますのは、OECDつまりヨーロッパ経済先進国 の教育戦略の一つといっていいもので、主として高等教育機関と職場、大学教育 と労働経験とをリカレント、つまり循環させながら教育のシステムを作っていく ということです。これを日本でも生涯学習審議会が提起したわけですが、かなり 大変なことで入試制度も変えなければならないし、大学内のいろんなシステムも 変える必要があります。おそらく日本では、ヨーロッパ型のままでは成立しない と思います。しかし今リフレッシュ教育という言い方で、職場にいる人たちがリ フレッシュする場としての大学、つまり在職のまま大学に入ってくるという方策 を文部省は検討しています。

 こう見てきますと、急速な勢いで大学を地域に、というよりも社会に開く動 きが進んできたことが分かります。しかもその社会が、企業社会の構造からいっ てともすれば産業界に開く方向になりがちなのが、問題といえましょう。この間 企業や財界側からも「生涯教育・学習の積極的推進」とか「社会に開かれた大学 」などの提言があり、産学協同とか大学と企業との共同研究の開発、それへの資 金援助あるいはカンムリ講座など、さまざまな動きがありました。これが、この 間の「大学を社会に開く」実像であろうと思います。

 今店頭に出ていますが、PHP研究所・二○一○年大学改革研究会の『大学 改革二○一○年への戦略』という本があります。立ち読みいたしますと、大学を 開くことの第一は何よりも産業界との協力であり、第二はリカレントだと書いて あります。大学を社会に開く、外に向かって開くと言うときの方向性が、この「 戦略」の中にはっきりと見えているように思います。それだけに、大学を開くと は基本的にどういうことか、ということを、少しここでご一緒に考えてみたいと 思っているわけです。

 リカレント教育については最近重要な報告がありました。これも二カ月くら い前に出たのですが、『苦悩する先進国の生涯学習』という本です。この中に桃 山大学の伊藤正純さんがスウェーデンの報告をされています。スウェーデンでは 一九六九年に当時文部大臣のパルメが、のちに首相になった人ですが、リカレン ト教育を提唱した。これを受けてOECDが一九七三年にヨーロッパ先進国の立 場でリカレント教育を国際的に提言するという流れであります。ところがこのス ウェーデンでは、すでにリカレント教育は曲がり角に立っていて、明らかに転換 を迫られているという報告です。日本などではかなり楽天的に、リカレント教育 つまり教育機関と企業あるいは学習と労働のリカレントを考えているわけですが 、実際にはかなりたくさんの問題を持っていることの、何よりの歴史的検証だと 思います。

 簡単に申しますと、スウェーデンといえども国際的な競争社会の中で一定の 高度技術者を養成する必要があるわけですが、リカレント教育では初歩的なトレ ーニングしかできない。他方で大学の水準もリカレント教育によって向上しない 、もう少し水準の高い大学教育あるいは高等教育機関といったものを作っていく 必要がある。このように大学側と産業界どちらにとっても、問題が出てきました 。ご承知の方もあるかと思いますが、スウェーデンでは二五歳四年ルールといっ て、二五歳以上で四年の労働経験をした人に対して、大学は五○%までは優先的 な枠を用意するというルールがありました。現在はこれがもう五%ぐらいにダウ ンしてしまって、おそらくリカレント教育というのは全面的に撤回する方向なの ではないか、というのが伊藤報告のポイントであります。リカレント教育をバラ 色に描くだけでなく、そういう国際的な厳しい状況を見ながら、実態に即して考 えていく必要があるのではないかと思います。

 資料の1に戻って見て頂きたいのですが、これは先程のお話しにもありまし た文部省の今年度の『教育白書』に出てくる図であります。日本の現在の「学習 人口の状況」というもので、これまでにも白書に数回登場したなかなか興味深い 図です。学校教育といわゆる社会教育、労働省系統の職業訓練も含めた大まかな 学習人口を一覧にしたものであります。

 

 上の方のまん中あたりに大学公開講座の枠があって、五四万人とあります。 社会人入学や生涯学習センターなども含めた数字です。人口数を見ていきますと 、一番上の教育委員会などの行なう講座等の受講者数が一四七三万人、次の知事 部局その他が行なう場合の数が一二三六万人、この数は最近増えています。それ から民間のカルチャーセンターなどの受講者数が一九二万人、これは一時増えて 今は停滞しています。こういう教育委員会などの学習人口と比べると、大学公開 講座の受講者数は少ないのですが、しかしこの数は毎回の教育白書でおよそ一○ 万人規模で増えてきているのです。大学を地域社会に開くということに関して、 前に申しました諸施策と重ねて見ると大きな潮流が動いている、ということをお さえておきたいと思います。

 これは前にも申しましたように、これまで日本の大学史には見られない開放 の進行が、特にこの五年ほどの間に生じているということです。その過程で大学 関係者のいろいろな模索や実験、あるいはさまざまの論議が行なわれてきました 。具体的には、社会人入学、編入学枠の拡大、あるいは聴講制度、科目等履修制 、夜間ないしは昼夜開講制、それから先程の図にありました大学公開講座、単位 互換、施設開放、生涯学習センターなどについてであります

 和光大学でもこの一○年ほど、市民講座や夜間講座など大学を地域に開く試 みをしていますし、地方にでかける移動大学もほぼ毎年実施しています。それら は大学審議会や生涯学習審議会が打ち出してくる流れに沿って迎合的にやってい こうというわけではなく、大学を開かれたものにしようという方針は和光大学の 開学の理念に内在するものだと聞いています。しかし多くの大学は、そうではな い。特に国公立大学では制度的に固い構造がございまして、大学開放なんて事に 今まで関心を向けた人たちも少ないと思います。そういう大学、そういった人た ちを含めて、大学開放を当然の方向として考えなければいけない時代に一応なっ たのだと思います。

 しかしそれだけに中身が問題です。こうした大学関係者の模索を、私たちは 注目していきたいと思いますけれども、なかなか状況がつかめなくて、非力を痛 感いたします。例えば先程から度々出てまいります生涯学習センターは、今国立 大学だけでも一五くらいできておりまして、公立私立大学にもかなり同様のもの ができつつある。しかし国立大学の動きを見ていますと、条件整備が伴わない中 で、生涯学習のセンター作りだけが動いていくような傾向がありまして、関係者 は非常に苦悩しているだろうと思います。そうした実状の調査をもう少しきちん とすることと、それに基づいて大学人として相互に問題を共有しながら良い方向 を探っていくことが今求められていると思います。

 国立大学で生涯学習センターができる時に、定員削減の中、人員増はほとん ど一人で、学内のやりくりで兼任者を一、二人、そして若干の経費が加わる程度 です。自治体が小さな社会教育の施設を作ったとしても、四、五人は配置になる という時代にです。こういう現実的な苦悩の中で模索が続けられている、その方 向をこれからも注目していきたいと思うわけでございます。

 こうした状況の中で非常に大事なことは、一言で言いますといったい何のた めに大学を開くのか、その理念を問うことでありましょう。理念や思想の欠落を 自戒し、かつお互いに戒め合っていかなければならないということでしょう。文 部省の政策による誘導の中で、ともすれば安易で空疎な「開放」が進行しつつあ る。公開講座をすると若干の経費がおりてくる、ならばまあ開くか、というよう な流れでありますとか、短期大学あたりで一八歳人口が減る中で、大学の生き残 りのための生涯学習センターづくりとか、そういう成り立ちの方がむしろ実態と して多いように思います。

 ここでイギリスの大学開放の歴史をちょっとお話ししたいと思います。イギ リスで初めて公開講座を開いたのは一八六○年代ケンブリッジ大学で、そのあと ロンドン大学やオクスフォード大学、その他の大学に波及していって、イギリス の典型的な大学が大学開放のための部局をおくようになりました。つまり大学の 機能は三つあって、第一は教育、第二は研究、そして第三の機能が大学の開放(extention )ということになった。注目すべきはその最初のきっかけが大学改革の一環とし て大学を開くというものだったことです。

 例えば英国国教会の宗派的制限を撤廃するとか、女性の入学を認めるとか、 近代大学への脱皮の中で、つまり大学改革の一つとして大学を地域に開くという 初心があったわけです。その一方で地域の側でも、当時新しい労働者階級の台頭 と、それを基盤とする市民運動の誕生がありました。ケンブリッジ大学の一番最 初の公開講座は「北部イングランドの女性のために高等教育を促進する協議会」 が、ケンブリッジ大学のある教授の講座を大学の外にイクステンドするよう運動 して求めていく中で設けられました。このように地域の側の運動と大学側の改革 とが出会う形で、イギリスにおける大学開放は開始されたわけです。

 そうしますと大学を開く歴史の中には、大学をどのように市民のものにする か、あるいは学ぶ側の主体の立場でどういう風に改革していくのかという理念が 脈々と流れていたにちがいない。そういう点で、日本の大学史上初めてといって もいい「大学を開く」潮の流れに、改革の理念・思想は流れているか、理念の空 洞といったものがあるのではないか、とそういう風に見えるわけですが、皆さん はいかがお考えでしょうか。

 次の大きな問題は、条件整備なき「開放」が進行しつつあるのではないかと いうことです。国立大学に生涯学習センターを作るときの実態については、先程 お話しした通りであります。行政改革定員枠の中でわずか一人しか認められず、 それで大学開放を当面担っていかなければならない、そういう貧しい条件整備水 準なのです。施設設備についても同様のことがいえます。関連した事柄で言いま すと、例えば学校五日制、自治体レベルでの週休二日制に今移行しつつあります が、それらを含めて全体的な生涯学習体制への移行が、必要とする条件整備を欠 落して進行しているという共通の問題があるのではないでしょうか。教育改革に はしっかりした計画と共に、教育にはお金をかけるという覚悟といいますか裏付 けが必要なのです。ところが、一九八○年に国の予算の一○%だった文部省予算 が、今は七・五%に低下しています。行政改革の中で文部省予算の比重が大きく 後退した問題をしっかり見ていく必要があるように思います。

 あわせて国際的に見ますと、一九七三年にILOが有給教育休暇条約を採択 しておりますが、日本はこれを批准しておりません。スウェーデンのリカレント 教育なども有給教育休暇制度を一つの重要な手がかりとしてリカレントを進めて きたわけです。そして今苦悩の中にあるということですが、有給教育休暇制度そ のものは今後生涯学習体制ないしは大学開放を推進していく上で重要な制度的拠 り所であり、また財政措置を必要とすると考えられます。

 私は和光大学に来まして、私立大学の財政的な厳しさは充分承知しているつ もりですが、国立大学や公的機関の固い財政機構とはちょっと違う独自の可能性 もあるような期待もございます。錯覚かもしれませんが、そうした可能性がある かどうか、また可能性があるならその実現の方策をこれからも考えて行きたいと 思っております。

 このように現在の日本では、政府主導の政策の下に大学開放の大きな流れが 起こっているわけですが、これを受けて大学が自らを開放する段になりますと、 いきおい今度は大学主導の、つまり市民に対する恩恵的な開放が主流となります 。受け手としての市民あるいは広く国民は主体ではなく客体にとどまる、という 問題があるように思います。そこで、日本のこれまでの近代化過程において、あ るいは戦後の民衆を主体とする大学づくり、そして大学を開く運動がどんな展開 であったのかを見てみたいと思います。資料6から9に、いくつかの事例をあげ てみました。

 日本の大学制度が非常に固くて閉鎖的な構造であるだけに、地域の中から民 衆の立場から大学を作る運動は容易ではなく、限られた事例にとどまります。戦 前から言いますと、大正期の自由大学運動があります。土田杏村らを指導者とし て、信州の農村の青年たちが中心になって、当時の進歩的な若い学者たちを招い て学習した上田から信州に広がる自由大学運動は、昭和のファシズム期に終息し てしまいます。

 戦後は例えば庶民大学三島教室の活動があります。一九四六年ですから敗戦 後まもなく、衣食住にもこと欠く時代です。三島の知識人たちが「庶民大学」と 名付けて「学業組合」的集団を作った。「復員学生、労働者、商店主、農民らす べて過去の学問への不信を抱き、再出発しようとしていた人々の意欲」とぴった り合って、聴講者は延べ五千人を超えたとあります。少なくとも一年は非常に燃 える形でした。注目すべきことは、市民が運営委員となり、うち半数は女性だっ たことです。二○名近くの方々が「当時としては画期的な就学システム」を作っ たわけであります。

 その少しあとに鎌倉では、鎌倉アカデミアが作られました。これは鎌倉に住 む学者や文士が新しい教育を望む地元の人と一緒に作った学校で、四年ほど続き ました。その精神を受けついでしばらくあとの一九七○年代に、新しく鎌倉市民 アカデミアの動きが起こりました。やはり鎌倉在住の大学教師や有志グループが 提唱して、地域の中で起こした学習運動です。これも関係者と市民の方々とが半 数ずつ運営委員会を組んで運営と実務の両方をやる、つまり今でいえばボランテ ィア活動でありました。

 このほかにも戦後の日本の地域住民運動の中で、いろいろな形の大学創造運 動がありました。例えば一九六○年代の信濃生産大学がありますが、これはその 後長野県地域住民大学と名称を変えて精神は受け継がれてきたと思います。ある いは各地の農民大学の運動や労働組合が組織する○○労働大学ですとか、また市 民の住民運動の中で自立的に生まれた大学的なものや、社会教育の実践の中でも 市民大学を作っていこうという実践努力が重ねられてきました。

 その一例として、私もちょっと関係しました公民館を発展させようとする「 三多摩テーゼ」という取り組みがあります。一九七○年代に東京の三多摩で、公 民館を地域の市民の小さな大学として位置づけようという方向を打ち出した。こ のような例を一つ一つ思い起こしてみますと、地域の中にはずっと自分たちの暮 しのために、あるいは自分たちの農業生産のために、必要な理論とか科学思想を 系統的に学ぼうとする運動がありました。地域ごとのいろいろな関係で紆余曲折 をたどるわけでありますが、それぞれに具体的な特色をもった展開があったので す。

 こんどは大学の側から、大学改革の視点と結び付けて大学を「開いた」事例 を三つあげたいと思います。

 一つは国立大学の事例です。資料9で岩手大学の農学部長だった石川武男氏 の「農を求める」という本からの抜粋です。農民が大学の講師として教壇に立つ 。学歴など問題にせず、米作りをはじめ酪農や花作りなどの農民が、大学の教壇 に立って実践的経験を話すわけです。具体的な技術だけでなく、農業と農民の生 きる姿を教員も学生と一緒になって生産と労働そのものから学ぶ。そして大学農 学部も農民の母校になっていこうではないか、ということで農業後継者の若者を 一年制の別科で育ててきた。これを四年制の「営農技術学科」にして、農業高校 の推薦だけで入試を行なわないなどの構想を出しています。もう一つ、こんどは 大学の先生が岩手県内のあちこちの農村に出かけて「営農技術大学講座」をやる 。最新の学問や技術が農民の実践と切り結ぶわけで、この形でも大学が「農民の 母校になっていく」とあります。

 石川さんは、「農民に学んでこそ教育である」と言い、農民と学者が相互に 教壇に立つことを「農学部の教育と研究を考える上で、当然とるべき大学のあり 方」だと書いています。大学改革の思想に基づいて「開く」例の一つと思うわけ であります。

 次の事例は私立大学、沖縄大学の例です。和光大学とは学生の単位互換の近 い関係を持っている大学ですが、教授の新崎盛暉さんが沖縄大学の移動大学の試 みを報告しています。沖縄は琉球列島で離島の集まりであるから、それぞれの島 に分校を置こうという構想です。しかし分校といい移動大学といっても、ただ本 校からきた教員が講義をするだけならあまり意味はない。その地域に住む、ある いは地域に強い関心を持つ人材を発掘し活用する場と考えているのです。名護市 や石垣島の移動大学で、地元の研究者や活動家がテーマの設定段階から参加し、 当日は豊富な資料を駆使して多彩な講義を展開してきたのです。

 もともと沖縄大学は、「地域に根ざし、地域に学び、地域に奉仕する開かれ た大学」をめざしており、市民大学というととかく啓蒙活動の面が強調されがち だが、「わたしたちが重視したのはむしろ『地域社会における市民の実践に学ぶ 』という側面である」と書いています。復帰運動や基地反対などさまざまな沖縄 の民衆運動に学びながら、大学の中の教育や研究を地域の人々の暮しや要求と出 合わせ、相互に環流させていく、そういう考えを持った試みなのです。

 最後の一つは、和光大学でございます。先程学長の話を印象深く伺いました 。いわゆる大学紛争の中で厳しく苦しい経験をしながら、最後まで誠実に学生と 対応したことをわれわれは誇りに思っている、というお話しでした。その一つだ と思いますが、資料8に人文学部、経済学部の両教授会合同の文書がございます 。一九七八年(昭和五三年)とあります。この文書の中で、大学を地域に開く、 社会に開くということが和光大学の重要な理念として苦悩の中から主張されてい ると思います。これは当面の課題の一つとして、障害者学生を入れること、在日 朝鮮人に門戸を開くことについて、書いた部分です。教授会としては、明確な見 解を持ち得る段階ではないけれど、と言った上で最後の五行で、「しかし教授会 としては、在日朝鮮人学生や障害者学生を受け入れることが、和光大学の理念と 教育・研究の質を積極的に問い直す契機であることを確認する。このことは、少 数者と共にある大学を目指すという意味では、教学の重要な側面である」とあり ます。

 この「少数者と共にある大学」というのは、日本の大学のいろんな努力の中 でも、和光が独自にチャレンジしてきた非常に重要な理念であろうと思います。 ユネスコの学習権宣言がすべての者の学ぶ権利を保障すると述べたことは、国際 的にも注目を集めています。その中で大学が一つの役割を分担するということで もありましょう。出入り自由で、学びたい人はいつでも大学にきて自由に学べる 、そういう開かれた姿が理想の大学の一面だ、と梅根学長が書かれ、代々の学長 もその理念を受けついでおられます。この一○年ほど、和光大学が市民講座や夜 間講座、岩手大学の農学部や沖縄大学とよく似た移動大学などを積極的に行なっ てきたのは、そうした理念の実践化の表われであろうと思うわけです。

 時間がきてしまいました。改めて梅原さんのご報告で最初に結論を述べられ たことを今学んでおりますが、私なりの結論を大急ぎで五点ほど申し上げたいと 思います。

 一つは、大学の内なる改革と地域への開放が、結びついていく必要がある、 ということであります。これは先程からお話ししたように、開くということは大 学を変えていくということでなければならない。これを和光大学にひきつけて申 しますと、「自由な学習と研究の共同体」をキーワードとして、この自由な学習 と研究の共同体の創造の実践が、大学のキャンパス内だけにとどまらないで地域 にまた市民にどのように開き得るのか、ということでもあるだろうと思います。

 第二は、学生がこの共同体の中で行なう学習や研究活動と、大学を開くこと によって参加してくる市民の学習エネルギーとが交錯していかなければならない 、ということです。和光大学の「ぱいでいあ」という公開講座施設が鶴川駅前に ございますけれど「ぱいでいあ」の事を、少なくともそこで行なわれていること を学生諸君はあまり知りません。「ぱいでいあ」での市民講座や夜間講座などで 学んでいる人たちと学生たちがお互いに出会っていない。学内のラーニング・コ ミュニティと「ぱいでいあ」でのそれとが環流していないわけです。

 私の経験で申しますと、私の授業に社会人の方が一人でも二人でも参加され ていますと、授業がぐっとしまってくるんですね。社会人としてやってきた人た ちが大学に帰ってきて、改めて自らの意志と自覚をもって学んでいることに教師 もはげまされますし、学生も高校からまっすぐ来た同年輩の仲間にはない刺激を うけるわけです。市民の学習と学生の学習とがどういう風に交錯し環流していく べきか、ということは重要な課題だと考えます。

 三点目に、大学開放における市民参加、市民委員会の課題があります。和光 大学の「ぱいでいあ」もやはり、大学側がカリキュラムを用意して、大学側がそ れを市民に開く。市民はむしろそれを受け取るだけの客体としての存在です。そ れでいいのだろうか、そうは思いません。

 先程庶民大学三島教室や鎌倉市民アカデミアのことをお話ししました。どち らも、地域の知識人文化人といった人たちがお膳立てをして、市民はただ聴きに くるというのではありませんでした。学ぶ主体としての市民が自治的な組織、運 営委員会なり諮問委員会なりを作って、カリキュラム作りにも積極的に参加して いく。また、アメリカのコミュニティカレッジは全米にたくさんある大衆的な高 等教育機関ですが、その平均的な状況を見ましても、地域の住民を主体とする大 学への市民諮問委員会が、公共的な立場から大学の運営や教育方針などを審議し 、地域の特性を生かして考えるしくみになっています。そういう市民の自治と参 加をどのように実現していくかを一つの課題として考えていくべきでありましょ う。地域の中に大学を拠点としてラーニング・コミュニティを作っていく、その 意味で市民協同の思想と運動といっていいかもしれません。

 四点目は、岩手大学、沖縄大学が提起した課題であります。地域の生活、生 産労働と学問、科学、思想との結合ということです。一方では人びとの暮らしを 豊かにしたい願いを、学問や思想を活用して実現していくと同時に、もう一方で はそういう「大学を地域に開く」ことによって、地域の視点から自らの学問研究 をきたえる、その結びつきであります。人間の学習と交流や協同と自治のネット ワークもまた、こうした大学レベルとの新しい環流によって質的に深まっていく のではないかと思います。

 五点目は、先程申しました少数者の立場に立つということです。和光大学は 一方では町田に足をおき、もう一方では川崎に足をおいておりますが、町田も川 崎も私ども社会教育関係者の立場でいいますと、社会的マイノリティに向けた社 会教育実践に取り組んできた、全国的に注目される地域なのです。町田には障害 者の青年学級がありますし、川崎には外国籍市民のための日本語教室、いわゆる 識字学級があり、また在日韓国・朝鮮人のための施設「ふれあい館」があります 。そういう自治体が少数者のために行なっている学習権保障の諸施策と、同じ考 えを持っている大学のやっていることとがここでも無縁のまま平行しているわけ であります。この両者を出会わせ、双方の力を合わせて大きく発展することがど ういう風にできるか、これも大きな課題として考えていきたい。地域のなかの大 学であり、地域全体がキャンパスだということを、ほかならぬこの地域と大学で 実現していけたらと思うわけです。

 実は昨年、私が和光に来ていきなり持つことになりましたプロゼミで「地域 と生涯学習」というテーマを掲げまして、今申しましたような町田や川崎の施設 を学生たちと一緒に訪問交流したり、また先方の方々を招いてお話しを聞くなど 致しました。学生は大へん熱心に参加し活動してくれまして、一年生ですからま だまだ未熟ですけれど、大事な課題を学んだ思いです。もう時間もないので詳細 は省きますが、そんなわけで私は、この第五の課題に関していささかの希望を夢 みております。

 以上で終わります。

資料1 学習人口の現状(文部省 平成7年度「我が国の文教施策」 1996年) [略]
資料2 開かれた大学(臨時教育審議会第3次答申第3章第2節(3))
 大学は自主・自律の精神を堅持する一面、自らを広く社会に開放し、社会の 要請を受けとめ、公共的な寄与を果たす責任を負う。
ア 大学が社会各層や地域社会の大学に対する意見や要望を徴し、また大学に 対しては社会の理解と支持を求めるため、学外者の参加を得た諮問の機関ないし 組織をもつことは有意義であり、その設置と活用を積極化することが望まれる。
イ 生涯学習社会において大学に期待される役割は極めて大きい。公開講座、 市民講座等への協力、大学諸施設の市民への開放、大学への社会人の受け入れ等 を積極化する。
ウ 情報システムの普及において大学はその重要な要素であり、それに対応す る体制を整備する。
資料3 生涯学習の基盤整備について(答申)(抄)(1990.1.30 中央教育審議 会)
(2)大学・短大等の生涯学習センターについて
 これからの大学・短大等は、生涯学習機関としての役割を強く期待されてい る。これまでにも、聴講制・研究生制度の活用、社会人特別入試の活用、通信制 による教育の提供、昼夜開講制の実施、夜間等において教育を行う大学院の開設 など、社会人を大学・短大等への受け入れるための取り組みが行われてきている 。また、学校の機能等を社会に還元するための公開講座の開設が逐年拡充されて きているほか、図書館や体育施設の開放も推進されている。このほか、新しいタ イプの単位制高等学校や社会の変化に即応した職業教育等を行う専修学校、さら には高等学校等の公開講座も、幅広い学習者を対象として新たな学習機会を提供 している。
 今後、大学・短大等においては、生涯学習機関としての役割をも視野に入れ て、履修形態やカリキュラムの多様化・柔軟化を進めていくことが重要である。 また、放送大学の全国化との関連で、放送大学との連携・協力が図られることも 必要である。
 以上のような取り組みを進めるとともに、体系的・継続的な講座の実施や大 学・短大等における学習機会に関する情報の提供・学習相談など、社会人を対象 とした取り組みをより積極的に行う体制として、地域の学習需要を考慮しながら 、各大学・短大等の自主的な判断により生涯学習センターを開設することが期待 される。
 また、生涯学習センターは、地域の実情に応じ、前記の「推進センター」等 と協力して、必要な講座を開設したり、学習プログラムの研究開発を行うなど、 地域社会との密接な連携を図ることが望まれる。この場合、大学・短大等の自主 性が充分尊重される必要がある。
(3)「推進センター」等の名称について
 名称については、それぞれの設置者が、その実情に即したふさわしい名称を 検討することが適当である。
(4)学校教育の単位へ転換する仕組み等について
 生涯学習の成果を学校教育の単位として転換する仕組み及びこれらを各種公 的資格の基礎とするための方途についても検討するとされており、今後、関係審 議会等との関連も考慮しつつ、更に審議を続けることとする。
資料4 新しい時代に対応する教育の諸制度の改革(答申)(抄)−第14期中 央教育審議会答申− (1991.4.19 文部省) 
(2)生涯学習機関としての学校
 地域や社会の人々に対してさまざまな学習機会を提供することに関しては、 前途のように特に大学・短大等において、公開講座等を拡充するとともに、学校 制度の柔軟化を図り、社会人等に対して多様な学習機会を提供することが重要で ある。
 今後、大学・短大等が生涯学習機関としての役割を拡充するためには、次の ような方策が必要である。
(大学・短期大学)
ア 大学・短期大学においては、社会人が限られた時期を有効に活用して、パ ートタイムの形態で教育を受けられるようにすることが必要である。このような 観点から、平成三年二月の大学審議会答申において、授業科目の一部を履修して 一定の単位が修得できる新たな制度として、「科目登録制」(特定の授業科目の 単位修得を目的とする学生を受け入れる制度)や「コース登録制」(コースとし て設定された複数の授業科目の単位修得を目的とする学生を受け入れる制度)の 導入が提案されており、その実現が期待される。また、夜間大学院や学部レベル の昼夜開講制を更に拡大することも重要である。
 さらに、今後の急速な社会の変化や産業技術の高度化に伴い、社会人が大学 院に入学、再入学することが増加すると予想されている。このため、既に課程の 目的、入学資格、履修形態、教育方法等多岐にわたる制度の弾力化が行われたと ころである。今後も、これらの制度を利用し、社会人を積極的に大学院に受け入 れていくことが期待される。
イ 短期大学や高等専門学校を卒業した後にも学習を続けたいとする者や、い ったん社会に出た後に再び大学教育を受けることを希望する者にも、その途を開 くため、社会人特別入学枠や編入学のための特別定員枠の拡大が期待される。
ウ また、大学・短期大学以外の教育施設等における学習成果のうち、一定水 準以上のものを、大学・短期大学の単位として認定する途を開くことや、大学レ ベルのさまざまな学習成果を積み重ねることにより、最終的に大学卒業の資格を 取得できる途を開くことは、生涯学習を推進する上で極めて意義が大きい。これ らの方策については、第2章で述べる。
エ 大学・短期大学の公開講座については、今後、地域の学習需要の高度化に 対応して、多様な教育機会を提供することが望まれる。その際、大学・短期大学 以外のさまざまな教育・訓練施設と協力して学習プログラムを企画したり、新し い情報手段を利用するなどの工夫が期待される。
オ さらに、以上のような大学・短期大学の生涯学習の取り組みをより一層推 進するためには、特に、平成二年一月の本審議会答申で提言した大学・短大等に 設置される生涯学習センターの機能を活用することが期待される。
 この生涯学習センターは、平成二年一月の本審議会答申において、体系的・ 継続的な講座の実施や大学・短大等における学習機会に関する情報の提供・学習 相談など、社会人を対象とした取り組みをより積極的に行う体制として、大学・ 短大等の自主的な判断により、開設することを提言したものである。今後、各大 学・短大等が積極的に生涯学習センターを開設することが期待される。
カ 放送大学は、生涯学習機関として大きな役割を果たす開かれた大学であり 、現在、関東地域に限られている対象地域を、その実績等を評価しながら全国化 が望まれる。
(高等専門学校)
 高等専門学校においては、今後の産業技術の高度化に対応するとともに、地 域の人々や企業の生涯学習への要請を踏まえ、その専門的職業技術や知識を地域 社会に提供することが必要である。このため、科学技術の進歩、産業構造の変化 に対応して教育内容の改善に努めると同時に、公開講座の充実や社会人の受け入 れを一層推進していくことが望まれる。
資料5 今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)(抄 )(1992.7.29 生涯学習審議会)
(1)リカレント教育の学習機会の拡充
[1]大学等におけるリカレント教育
 社会人や職業人の地域・技術のキャッチアップやリフレッシュのための教育 を推進するため、大学等の教育研究機能を一層高め、リカレント教育の学習機会 を積極的に拡充していくことが重要である。
 特に国際社会で活躍し得る人材の育成、高度な専門的知識・能力を持つ職業 人の再教育という観点からも、大学院レベルのリカレント教育の学習機会の拡充 が必要である。さらに専門的技術教育や職業教育の分野では、専門学校の機能を 積極的に活用することが望ましい。なお、専門学校の卒業者に大学編入資格を認 めることについて、社会人の大学における学習機会を広く確保し、産業界の技術 者等の充実を図る観点からも、今後検討が進められることが望まれる。
[2]リカレント教育実施体制・方法
 リカレント教育の推進のため、公開講座の実施、出張講座の開設等、大学等 が地域や産業と連携・協力しながら広く学習機会を提供することが必要である。 その際、大学等でリカレント教育に当たる教員組織や事務体制等の充実が望まれ る。
 また、従来の教育内容・方法では充分な対応が困難な場合も考えられるので 、大学等において、社会人に対応した履修形態の多様化・弾力化、新たなリカレ ント教育プログラムや教育方法の開発研究等を進め、社会人の希望や意欲にこた える教育内容を提供することが期待される。また、企業人を含めた学外の講師の 活用も効果的と考えられる。
 週休二日制への移行等に伴い、社会人、職業人への学習機会の確保の観点か ら、大学等の教職員の勤務時間等について、十分な配慮が望まれる。
 さらに、大学等が組織的にリカレント教育に対応していくため、生涯学習教 育研究センター等を計画的に整備することが望まれる。
資料6 庶民大学三島教室の活動(1946.2)
 当時東京帝大の若手グループにより青年文化会議がつくられていた。昭和二 ○年、三島市郊外の函南村柏谷に疎開していた労働法の講師木部達二氏(二三年 二月二二日急性化膿性脳膜炎のため死亡、三四歳)や、地域在住の笠井章弘、河 西春子氏らが構想を立て、翌二一年二月には、「庶民大学三島教室」が発足した 。二二年四月に木部氏が第一回参議院選挙に立候補するまでを一つのやま場とし て、その間百人におよぶ講師と、延べ五千人を越える聴講者を集めたのである。
 終戦後の混乱期、まだ大学は動き出すまでに至っていない時期であった。拝 司静夫、川島武宜、中村哲、丸山真男、古島敏雄、内田義彦、中野好夫、飯塚浩 二、清水幾太郎、今野武雄、坂西志保、羽仁説子ら諸氏も講師として参加した。 若い語り手は、研究業績を思い切って吐き出した。講師を依頼されると、「一度 はいきたかった」とよろこび勇んでとび出して来たと述懐する人もいる。これは 受講者の気持ちを大きくつかんだ。復員学生、労働者、商店主、農民らすべて過 去の学問への不信を抱き、再出発しようとしていた人々の中へ、ほとんど手弁当 で飛び込んで来た人々との意欲がぴったり合ったのである。また、プランナーと しても実行者としても能力のあった木部氏が運営を独占せず、会員組織の聴講者 の中から、二○名近くの運営委員、しかも半数以上は女性という、当時としては 画期的な就学システムをとったのである。
 衣食住にすらこと欠く当時、講義は週三日ないし四日間続き、二週または三 週間程度でコースが完成する。講師は泊まり込みであった。夜間、六時半頃から 九時近くまで、講義と討論を織りまぜた飾り気のない雰囲気であった。まちの中 心部にあった勤労動員所(商業紹介所)が教室となり、夏期には、一週間程度を 単位とする夏期講座がおかれるという徹底ぶりであった。聴講者には三分の一以 上におよぶ婦人を含め、少ないときでも六○人から七○人、常時一○○人をこえ ていた。
 憲法、政治、資本論、社会主義、平等、自由にはじまり、自然科学、芸術、 労働組合、婦人、農業問題に至るまで内容は多彩であった。しかし講義内容は精 選されていた。庶民大学事務所では、テキストブックはもちろん、書籍に至るま で聴講者への便宜を計ったのである。機関紙「庶民大学通信」が毎月発行され、 会員間の連絡を密にすることにつとめ、会員の生活資金すら援助するシステムが あった。こうして講座が進められてから、一年後頃から、三島では労働組合がつ くられ始めたのである。教員組合、国鉄、自治労、全逓、印刷、東京電力、国産 電機、電業社、横浜ゴム、駿豆鉄道等であった。知りたいというだけの人々にと っても有益であった講義は、知ったことを組合活動の中で行動として活かされる 場を得た労働者にとってはまことに有益であり、実利的でもあった。しかし、こ のことは別の問題を生んでいった。まちのインテリや組織をもたぬ人々、商店主 たち等との間にみぞができはじめたのである。とくに、設立者である木部氏が共 産党から出馬したということにショックを感じた人々は多かったという。また、 市民が出資したり、設立者たちが資金を拠出したり、カリキュラムが運営委員会 によって民主的にとらえられたりする学業組合的庶民大学というのもそれほど例 がなかった。風光明媚、食糧に比較的恵まれていたとはいえ、こうした小都市に そそぎこまれた学者の情熱、学問、文化の問題はジャーナリズムが見逃さなかっ た。これが全国的に報道され始めると、CIAが警察とも連絡をとりマークしは じめたのである。こうしたことが重なり、庶民大学も二五年頃に完全に消えてい ったのであった。しかし、庶民大学の花はこれからさき咲くことになった。ここ で成長した意識をたずさえて多くの人はここのまちづくりに専念することになっ た。新しい町内会づくり、新しい市民組織づくり、新しい文化活動の組織づくり 、勤労協同組合づくり等が以後数年間、三○年代の初めまで活発におこなわれて いった。そしてこれらの結集が、三二年創立の伊豆市民劇場となったのである。
資料7 鎌倉・市民アカデミアの発足にあたって 運営委員会の性格(1976.4 〜 鎌倉)
「鎌倉市民アカデミア」の発足にあたって
 このたび鎌倉に在住している大学教師有志グループ(鎌倉・大学人の会)が 中心となって、「鎌倉市民アカデミア」と名付けた学習組織をつくることになり ました。担当講師グループと学習参加者の協力、そしてまた住民の学習権を保障 すべき立場にある鎌倉市の後援をえて、春期ゼミナールを夏期の時間割りのよう に開催いたしますので、どうぞふるって御参加願います。
 ところで鎌倉市民アカデミアという名前をきくと、ただちにかつての「鎌倉 アカデミア」を想起される市民も少なくないでしょう。
 敗戦の混乱のなかの昭和二一年、青少年達に新しい教育をという地元の人た ちの意気込みと、鎌倉周辺に住まいする学者・文士の情熱とが結合されて、各種 学習のひとつとして「鎌倉アカデミア」は誕生しています。それから四年余りの 存続にすぎなかったが、戦前の上田市を拠点とする信州自由大学とともに、自由 大学の典型、理想の大学像として一部で再評価されてきました。鎌倉市民にとっ ても、今日の教育状況のなかで、かえって一層、あの戦後の私塾を忘れ難く、脳 のなかによみがえさせることになっているようです。
 昨年の朝日新聞の地方版の投書欄に「鎌倉アカデミアの再建を切望する」と 題するHさん(五五歳)という市民の投書がのっていました。「関係者の意を積 み重ねてあの寺子屋大学が再び開校できないものでしょうか」と。
 また市長の正木さんもわたし達にむかってしばしば熱っぽく語られる。「鎌 倉アカデミアみたいなものが再興できないだろうかね」と。
 鎌倉市民アカデミアは、そうした声に直接答えるものとして誕生したもので はありません。わたし達は、もとよりそれだけの力量と条件とをもちえていませ ん。再興ということになればもっと広く大きい力の結集が必要とされるでしょう 。ただ差しあたりかつて「鎌倉アカデミア」に身銭を切ってかかわりつづけてき た教師集団と同様の、熱意ある担当講師グループの結集・編成を、今後とも続け ていくことで、わたし達の答えとするものであります。
 「鎌倉アカデミア」という開かれた大学、生涯出たり入ったりを自由とした 大学、学歴社会での通用はもとよりおぼつかないのに、ひたすら自分の個性をみ がくことをめざして多くの若者があい集いし「大学」、その源流を地元にもつ鎌 倉にひとつの学習運動を創りだし、参加することによって、わたし達自身もそこ から共に学びたいと考えています。
    昭和五一年四月一日    鎌倉・大学人の会
資料8 人文学部教授会・経済学部教授会(昭和53年5月12日)
 第三の点は開学一二年を経て、在日朝鮮人(ないしはその血をひく)学生や 障害者学生が少しずつ増加してくるとともにこの点からも「開かれた大学」の内 実が問われるにいたっているということである。教学の側からの主体的な教育理 念なしに、このような学生をただ受けいれるだけなら、実質的には「少数者」を 排除することと変わりはないからである。だからこそ、在日朝鮮人学生の一部が 、「民族差別問題研究試論特講」の開講を要求し、障害者学生は他の学生ととも に同等に学ぶ権利を主張している。いずれも根拠のある主張である。一般に、日 本における民族教育の要求をわれわれは、なによりも近代日本の再検討や、日本 に単一の民族しか存在しないという考えを問うものとしてとらえる必要があると 考える。この認識から、和光大学における民族教育の現実化にいたる過程には、 まだ解決すべきいくたの問題が介在していると思われるが、教授会としては、こ の問題について、いまだ明確な見解をもちえていない。一方、障害者学生の要求 に応える道が、昨年一○月二○日付けの学長文書にみられるような、単なる施設 の保障の問題ではないことは、教授会でも最低限の確認はあるが、障害者学生の 自立と、他の学生・教職員との連帯の論理について、教授会としては、まだ充分 な理論的展開をなしえていない。しかし、教授会としては、在日朝鮮人学生や障 害者学生を受けいれることが、和光大学の理念と教育・研究の質を積極的に問い 直す契機であることを確認する。このことは、「少数者」とともにある大学を目 指すという意味では、教学の重要な側面であると思われる。
資料9 岩手大学農学部「営農技術学科」の構想 (農民と大学農学部)
 岩手大学農学部では、農民が大学講師として教壇に立っている。ここ三年 来(昭和五十年来)のことである。大学がスカウトした岩手や秋田の農民である 。学歴など問題ではない。小学校卒の農民もいる。幾十年の営農実績なり、在村 運動の経験は、農学を求める青年に伝達されなければならない。農協の運動家、 共同経営のリーダー、農村文化運動の村の実践家、養蜂農民、花づくり農民もい る。開拓の酪農民・肉牛農民もいる。
 現役農民で大学の先生を兼ねることは、農学部の教育と研究を考えるうえで 、当然とるべき大学のあり方だと考えてきた。事実、これらの農民は、大学の教 壇に立っても、貫禄とともに迫力がある。農業の実践的経験を、大学生に語って 尽きない。慣れない手つきで白ぼくを握り、トツトツとして農業と農民の生きる すべを語っている。現役農民を、岩手大学農学部の教壇に立ってもらうが、予算 の関係でその数はとっても少ない。お金があれば、岩手や秋田に限らない、全国 から、いろいろの農民を動員したいと思っている。
 小学校しか出ていない農民が、大学の先生になっているということが、ニュ ースになってから、私のところに激励や感激の便りが、全国から寄せられている 。ユニークな大学のあり方だという人が多い。だが、農学部の学生が農民を先生 にしてユニークだろうか。私はわからない。農民に学んでこそ教育である。さら に日々、学者から教わる科学や技術にたいし、批判の目を養うことは、大学教育 本来の姿だと思っているからだ。実践農民のいのちをかけた、営農技術のきしみ から多くのものを学び、学問や研究から導かれた農業科学との距りの渦の中に、 学生を投げ込んで、自己拷問を遂げさせることは、農学部としてユニークでもな んでもない。青年の教育にとって、まことに当然のことである。
 こうして、大学農学部は農村から、多くのものを学んでゆくけれど、だが、 「受け身」だけではない。今年(昭五十二年)から、大学の先生によって、「営 農技術大学講座」をもつことにした。聴講生の資格は農民・農協職員等、農業関 係に限定した。百名の募集にたいし、百五十七名の応募があった。地元からだけ でない。隣県から、東京からの希望もあった。七月〜九月までの、三期に分けて の、夏の日の暑いさかりの受講に、最後までねばり通した農民は百七名にのぼっ ている。この受講修了生によって、「岩手大学営農同窓会」もつくられた。大学 農学部が農村の母校になってゆく、その道を大学の栄光として求めなくては、農 学部の存在意義は少ない。

souken@wako.ac.jp
Copyright (C) 1997 和光大学総合文化研究所


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