問題提起4

在日朝鮮人と日米戦争 その過去と現在

鄭暎恵 広島修道大学助教授

 最初にケビンさんが、マイノリティの意見を聞くことが、マジョリティにとってプラスになるということを言いました。その通りだと思いますが、私はマイノリティ自身のために、マイノリティどうしの意見を聞き合う、それからマイノリティの間にもある立場の違い、視点の違いを知ることが、マイノリティの連帯をつくっていく上で大事なのではないかと考えています。最初のお話しにありましたように、マイノリティは数が少ないだけでなく、持っているパワー、社会的な資源という意味でも力を持てずにいるわけですから、対マジョリティということで孤立して闘っていると非常に不利なわけです。そのためにマイノリティどうしが連帯をつくっていくことが大事だと思うのですが、それにはマイノリティどうしが、お互いのことをもっとよく知る必要があるのではないかと考えています。マイノリティと言っても、さまざまなマイノリティがあるわけですが、今日はそのなかで在日朝鮮人とジャパニーズアメリカン、日系アメリカ人について考えてみたいと思います。

 まず「マイノリティどうしの連帯の難しさ」というテーマですが、私は一九九四年の八月から九五年の八月まで、アメリカの西海岸で生活する機会を得ました。そのときに、まずどこに行ったかというと、ツール・レイクという日系人強制収容所の跡地に行ったのです。これは個人で行ったのではなくて、日系人の人たちがピルグリミッジヘ行く巡礼の旅、強制収容所を体験した一世、二世の人たちといっしょでした。主には二世ですが。

 それから強制収容所を体験しなかった三世、四世の人たちでツアーを組んで、強制収容所の跡地を訪ねながら自分たちの歴史を再確認するということでした。若い世代にとってみれば、ルーツをたどるというか、アイデンティティを探るという意味があるわけです。二世にとってみたら、できれば忘れたい体験だと思うのですが、それを後追いすることによって、自分たちを癒すという意味があります。

 それに私は参加したのです。どうしてかと言いますと、戦後補償の問題、リドレスの問題を、日系人がどういうふうに闘ったのかを学びたかったからです。皆さんもご存知のように日本では、さまざまな形でアジア、その他の国の人びとから、日本の戦争責任を問う裁判が行なわれています。そのなかで、私自身もそういう裁判に関わってきました。そのとき、私はどういう立場で日本の戦争責任を問うのかということを考えたのです。私は東京生まれで、日本育ちで日本の学校に通いました。一九五二年、親の世代はサンフランシスコ講和条約のときに日本国籍を剥奪されましたけど、私が日本で生まれ育って、この日本社会の一員であることは確かなわけです。そういう意味で私は日本の戦争責任を問う場合、韓国籍を持っていますが、韓国から来る原告の人たちとは違って、私自身は日本の一市民として、日本の良心を取り戻すためにやっていると思えてきたのです。

 ですが、在日朝鮮人という社会的役割 −私は民族というより役割と考えているのですが− をもっている私が、「日本人として」というのは正直いって言いにくい場面もあります。ですが、日系アメリカ人の人たちのリドレスの闘いを見ていきますと、アメリカの市民としての権利を主張する、それからアメリカの良心を取り戻すために、というスローガンが掲げられていて、私はそれに非常に感銘を受けたわけです。それで日系人の人たちが、強制収容所に入れられた歴史を、どういうふうにアメリカのなかで闘ってきたかを、より身近に見たいと思ってピルグリミッジに参加したのでした。

 そこで私はショックを受けました。というのは、私が日本のなかにいたときに出会った日系人の人たちというのは、ここにいらっしゃる方もそうですが、また指紋押捺拒否の闘いのなかで出会った人たちからも、わりとマイノリティどうしの連帯は壁がなくて簡単にできるように思えました。しかし、実際にアメリカの日系人社会に入って見ると、なぜあなたがピルグリミッジに参加してくるのか、在日朝鮮人がなぜここにいるのかという質問を受けたのです。私はリドレスの闘いに学びたかったからだと答えたのですが、なかなかそれが理解してもらえなかったのです。

 それどころか、いろいろなことを聞く度に非常に嫌な顔をされたのです。その一つの例ですが、日本から移民を一番多く出したのは私の住んでいる広島県です。どこに行っても両親が広島県、もしくは祖父母が広島出身ではないにしろ、親戚のなかの誰かが広島出身という人が半分くらいいました。その日系人の人たちに、強制収容所を体験した広島ゆかりのアメリカ人として、広島への原爆投下をどう見たかという質問をしました。広島に兄弟を残していたり、祖父母を残していたり、何らかの形で自分の身近な人を残しておきながら、そこに原爆を投下され、自分は投下した側のアメリカにアメリカ人として住んでいる、アメリカもしくはアメリカ国籍を持っていないとしてもアメリカの住民として、太平洋を越えてそういう事実を見ているということは、どういうことだったのでしょうかと聞きました。

 私の質問に対しては、延々と沈黙が続いただけで誰も答えてくれませんでした。これは難しい問題だったと思いますが、日系人であるというエスニック・アイデンティティと、アメリカ人であるというナショナル・アイデンティティを、日系アメリカ人のなかでどう捉えていくのか、ましてや広島への原爆投下という問題を通じてどう捉えていくのか、ということはあまり議論もされていなかったでしょうし、そう問われても答えに窮してしまうような問題だったのかとも思います。しかし、さきほどから言われているように、アメリカ人というのは白人だけがアメリカ人ではなくて、マイノリティもふくめてアメリカ人なわけです。だから、原爆を投下した責任をアメリカ人に問う以上は、たとえ広島に兄弟がいたとしても、日系アメリカ人にも問わざるを得ないということが出てくるわけです。

 去年のことですが、広島に住んでいる在日朝鮮人の被爆者が、原爆被害を自分たちが受けたことの賠償責任をアメリカに対して訴えたいと主張し始めました。今、平和条約によって日本はアメリカにたいして原爆を投下したことの責任を問うことができなくなっています。請求権を放棄したことになっています。でも、それは国家間の賠償責任の問題であって、個人のレベルは違うという解釈も可能です。また、日本国籍を、幸か不幸か剥奪された在日朝鮮人は請求権の放棄が当てはまらないわけですから、在日朝鮮人の側からみればアメリカが原爆を投下したことに対する責任を追求することは可能なわけです。実際にそういうことが起こってきている以上、在日朝鮮人と日系アメリカ人との連帯はどうしたら可能になるだろうか、ということが私にとっては非常に大きな疑問としてあります。

 最近も議論になったスミソニアン博物館のエノラ・ゲイ展のときにも、当初の原爆被害の展示が削除されてしまった理由として、原爆がアジアを解放したのだから、原爆によって戦争を早く終わらせることができたのだから、なぜ原爆の被害をことさら強調しなければいけないのかという、要するに原爆がアジアを解放したという言い方によって原爆投下が正当化されてしまっている現状があります。ところが、実際には広島で被爆した人、正確な数字は分からないのですが、二○万人といわれる人のうちの、すくなくとも二万人、一番多く見積もった数字では五万人が、強制連行等で日本に来ていた朝鮮人、中国人だったと言われています。そう考えると、原爆がアジアを解放したという伝説のなかに隠されているのは、たくさんの朝鮮人、中国人の被爆者がいたという事実を忘れさせることです。それを消去する伝説にもなってしまっているわけです。

 それから、さきほども出ましたが、アメリカでキノコ雲の切手を戦後五○周年で発行する予定が中止になったことです。そのキノコ雲の切手の下に書かれていた英語は、ちよっと怖かったのですが、「原爆は戦争を早く終わらせる」というものでした。これは「終わらせた」という過去形ではなく、「終わらせる」という現在形だったので、これはひよっとしたら、これからも原爆を使う気があるということを匂わせる文章で、非常に恐ろしく思いました。今アメリカで言われていることは、私にとっては驚くことがたくさんありました。

 そのアメリカ社会のなかでレイシズムと闘っている日系人の人たちは、おそらくそのレイシズムがあまりに大きいために、対マジョリティということでしか今は意識がないと思います。同じ太平洋を超えた向こう側にいるマイノリティの人たちと、もっともっと意見を交換していく必要があると思います。そういう意味で言うと、マイノリティというのを、日本におけるマイノリティ、アメリカにおけるマイノリティというように、一国レベルを単位として考えていく限りでは、マイノリティどうしが出会うというのは難しいのではないかと思います。ナショナル・アイディンティティを取るのか、つまりアメリカ人であること、その一方で日系人であること、つまりエスニック・アイデンティティを取るのかという、二者択一で考えなければいけない状況も問題があると思います。リドレスを闘うときに、アメリカ人であることを主張する一方、同化反対という形でエスニック・アイデンティテイを強調していかざるを得ない、そうした状況のなかでマイノリティ自身もある一つの罠に陥っているのではないかと私は思います。

 その次に「参戦経験と戦争責任」に移ります。日系人コミュニュティのなかで感じたことですが、日系人コミュニュティのなかにも、自分たちがマイノリティであるということと、戦争責任の問題を切り離して考えてしまうという矛盾があります。そして、それは在日朝鮮人のなかにもあるのではないかと思います。だから日系人を見ていて、私は在日朝鮮人にも考えなければならない問題が潜んでいると感じました。

 戦争責任の問題に関して言えば、負けた国の側で、選択の余地なくいやいや参戦した朝鮮人の軍人・軍属は、BC級戦犯として裁かれました。これは非常に矛盾している。すなわち、日本国籍を持っていれば、日本国民同様の戦後補償を、戦傷病者戦没者遺族援護法の適応対象として受けられるのに、一九五二年に遺族援護法が施行される二日前に日本国籍を剥奪され、日本からの戦後補償は一切受けられなくなったわけです。その一方で日本国籍がなくなったから、日本軍の元軍人・軍属として戦争責任を追求されなかったかと言うと、皆さんご存知のように追及された。こういった形で、戦争に負けた側に参戦させられたマイノリティとしては、ある意味では過剰に戦争責任を追求されたと言うことができるかもしれません。これは日米戦争のなかでのことで、ほかの戦争のこととは別です。

 ところが一方、これも国家に忠誠を誓うことを求められ、同じように選択の余地なくと言ってよいと思いますが、アメリカの戦争に参戦した日系アメリカ人の四四二部隊があります。こちらの方は戦争功労者として評価されます。しかし、かなり低い生還率で、たくさんの犠牲を払って戦ってきた日系アメリカ人の軍隊なのですが、それだけの犠牲を払ったにもかかわらず、現在もさまざまな差別が残っています。さきほどのラッセル氏の話された黒人の退役軍人のように、白人以上に犠牲を払って戦いながらも、そのあとまた差別を受けるという問題もあります。でも、一方ではよく戦ったアメリカ人の例として、引き合いに出されることがあるのも事実です。

 マイノリティとして兵役拒否をするとか、反戦運動をすることが可能だったのか、という問いを立ててみますと、非常に難しかったということができます。全く不可能だったかと言うと、そこのところは疑問の余地が残りますけれど。選択の余地なく参戦されられたマイノリティですが、なかには積極的に参加した人もいます。例えば、日本に戦後補償を求める裁判を起こしている原告の一人も、自分が参戦することによって、日本人と平等に扱ってくれるのではないかと期待して、自ら積極的に参加したということを証言しています。従軍慰安婦の問題で、日本の政府に責任を問うていますけど、そのなかでは慰安所の経営者自身が朝鮮人だった場合もありますし慰安所の客としてやって来た軍人が朝鮮人だった場合もあります。そういう意味で、細かいところでは議論がわかれるところがあります。

 たしかにマイノリティの兵役拒否とか反戦運動は、日本人も難しかったし、彼らはそれ以上に難しかった。まして忠誠心を示すことを期待されていたわけで、しかも忠誠心を示すことが平等を得る道、ということを教えられていたあの時代は非常に難しかった。これは残念なことです。一方、マイノリティとしての非差別部落民の問題ですが、広島のなかでも天皇のもとに天皇の兵として戦うことによって、部落差別が解消できると信じて自ら積極的に参戦していった人もいます。そのことによって表彰状をもらった人が、私の住んでいる近くにいます。

 マイノリティが、平等というものをどのように捉えるかという意識のなかで、罠に陥ってしまったことも事実としてあると思います。このことに関しては、単純に戦争犠牲者としてだけマイノリティを語るのではなくて、マイノリティ自身が自分たちにどういう罠が仕掛けられていて、それに対してどのように対応してきたのかということを問う必要があるのではないか、と私は考えています。それから、私は戦後五○周年という言葉を聞く度に考えるのですが、果たして戦後ということが言えるのだろうか。今本当に戦後なのだろうか。確かに、日米の戦争は終わったと言えるかもしれません。しかし、それは「大和」民族とアメリカ白人の間の戦争が終わっただけなのかもしれません。果たして戦後と言えるのかという疑問がつきまとって、しかたがありません。朝鮮人は一九四五年八月一五日を光復節というふうに呼んでいます。解放された日と言っています。しかし、私には解放されたとは思えないのです。

 それは、今日本でも沖縄でも問題になっていますが、韓国でも米軍が駐留しています。ソウルでも市の中心部の一番いい所は、韓国の国防軍と在韓米軍が占めているわけです。それだけではなくて、南北の分断という問題が残りました。これも解決していません。一九五二年、旧植民地出身者の日本国籍が一方的に剥奪されました。これを子細に見ていくと、日本国籍を剥奪されたために入管法・外登法が導入されることが可能になり、それによって本当だったら一九四五年に終わるはずだった植民地支配が、戦後も植民地支配の精神として日本のなかに残ってしまったわけです。本当に解放されたとは言えない、未だに戦前の体制が残っているというのが現状です。ですから、私にとってはまだ戦後ではないのです。それから、日本に戦後補償の訴えを起こしている人たちにとっても、戦争はまだ終わっていないのです。

 去年の二月にロスアンゼルスで日系人シンポジウムというのがありまして、そのときに同時平行で、ファミリー・エキスポというところで日系人の集まりがありました。そこへ行って非常に驚きました。ここでさきほどのピルグリミッジにもどります。「No No Boys」という話がありましたが、ピルグリミッジは非常に気象条件の厳しく、夏はものすごく暑いところです。砂漠のなかというのは、こんなに暑いのかと思うぐらいで脱水症状にもなり、逆に冬はとても寒いところです。そこへ財産を没収され、いつ出られるのかわからない日系人の人たちが収容されていました。そこでは味噌,醤油という調味料を使うことも許されなかったそうです。私も醤油を使う人間として、気象条件が厳しく、いつ出られるか分からない収容所で、自分が普段食べ慣れたものを食べることも許されずに暮らすことは、さぞつらかったろうと思います。

 そういうなかで、戦争に反対した日系人は収容所のなかにある刑務所に入れられました。その刑務所跡は今でも残っています。そこの壁に落書きがありまして、「大日本帝国」という漢字が残っています。「打倒米国」という落書きもあります。大きく「自由」とも書かれていました。私はその当時、戦争に参加しないという意思表示をしたために、ここに投獄された人びとがどんな思いでいただろうかと思って考えさせられました。

 その反面、対照的に四四二部隊などで参戦した日系人の人たちが、「いやいやながら参戦した」「あの時はそうするしかなかった」などと言いながら、その後朝鮮戦争、ベトナム戦争に参戦していた事実があります。ファミリーエキスポで配られていたのですが、「朝鮮戦争に参加した日系人の親戚、家族のいる人は申し出てください、名簿をつくります」と退役軍人の名簿づくりを行なっているのです。さらに退役軍人の参戦した声を集めて、ビデオビジョンをつくろうとしていました。それは何のためにつくるかというと、日系アメリカ人が参戦した証拠をたくさん残して、日系アメリカ人はアメリカ人なのだ、アメリカ人として戦争に参加したのだと言いたかったからだと思います。

 また、その会場には四四二部隊が立派に戦ったという証拠を示すために、軍服とか戦場の様子とか写真とかも展示されていました。朝鮮戦争によって生じた離散家族の問題とか、今も苦しんでいる朝鮮人たちを、私たち在日の問題も含めて考えると、どれだけ「分断」が私たちの日常生活に重たく暗い影を落としているかということを考えざるを得ません。この会場での展示を見ていて、私たちと日系アメリカ人との間にある大きな溝を感じました。

 また在日朝鮮人として、日系アメリカ人を責められるかという疑問も生じました。アメリカ人でないにもかかわらず、アメリカの戦争につきあってベトナムに出かけて行った韓国軍の問題があるからです。アメリカに暮らした一年間に、ベトナム難民としてアメリカに渡ったアメリカ市民にもたくさん会いました。彼女たちから、ベトナムで韓国軍がどれだけ蛮行を行なったか、泣く子も黙る韓国軍と言われる行為を幾度繰り返したか、ということを聞かされました。私たちは戦争で受けた自分たちの被害を訴えることも大事ですが、被害者としてだけふるまい、自分たちが関わってきた加害責任に目をつぶっていいのかということを、その時に考えました。在日朝鮮人は韓国軍がしたことに対して、どうしたら加害責任を負えるのだろうか、ということを考えるようになったのです。

 ご存知のように在日朝鮮人は、日本では参政権を持っていません。日本国籍を剥奪される以前の、一九四五年一二月の衆議院議員法改正によって参政権を剥奪されました。それ以前も、一部の在日朝鮮人男性だけしか参政権を持っていなかったし、朝鮮人女性は一貫して参政権を持ったことがないわけです。私たちは韓国でも参政権を持つことは原則としてありません。そのために韓国が国として行なったことに対して、どれほどの責任を負うことができるのかという問題があります。さきほどのナショナル・アイデンティティと私たちのエスニック・アイデンティティの違いをつくづく考えさせられます。韓国籍を持っていても、韓国に住んでいないし、参政権も持っていない。ほとんど無関係で関与していない私たちが見えてきます。一体、私たちは何なのか。むしろ私たちにとっての加害責任というのは、韓国が何をやったかということではなくて、やはり日本の行なったことを考えるのが私たちの加害責任だと思うのです。さきほどケビン氏が言いましたように、私たちも日本社会の一消費者、市民であるわけです。日本に安く入ってくる製品を買っているが、その裏でなにが行なわれているかということと無関係だとは考えられないはずです。

 多くのアジア女性が日本の内外で、売春を強要されている問題にも、私たちは決して無関係ではありません。その意味で、戦争責任と直接言えないかも知れないけど、マイノリティとしての加害責任は確かにあると思います。それと韓国も経済水準で言うと世界二位まであがってきたし、人権差別の問題があるグアテマラにもかなりの韓国企業が進出して軍事政権の裏で経済的利益を得ているという話も聞きました。今までマイノリティとして被害の面ばかり考えてきたわけですが、これからはマイノリティであっても、エスニック・アイデンティティを超えて、自分たちの被害だけではなくて、加えて戦争だけではない加害責任も考えていく必要があるのではないかと思いました。

 もう一つは、日本の敗戦を遅らせ朝鮮の分断を招いた天皇とアメリカ合衆国という問題であります。もし日本がもっと早く降伏を決断していたら沖縄戦にしても、広島長崎の原爆にしても、なかっただろうとよく言われます。なぜ日本の降伏が遅れたのかというと、天皇の命を心配したからだとか、天皇の戦争責任が問われないことを保証されるまでは降伏できなかったとか、さまざまなことが言われています。それ自体は事実だと思いますが、その一方で最近『世界』に戦争の記憶についての論文を書いた米山リサさんから聞いたのですが、とかくアジアの人は原爆によって戦争が早く終わったと信じさせられているけれども、本当はそうなのだろうか、本当はアメリ力側は日本が早く降伏をしないよう戦争を引き伸ばしていたのではないか、アメリカの側にも責任があるのだと言っています。

 それがどういうことかと言うと、核兵器の実験が成功したのは七月一六日です。核兵器の実験が成功する日をアメリカ側は待っていて、それを実際に使うためには、日本が早く降伏しては困る、だから日本に対して無条件降伏、つまり天皇の処刑を含んだ無条件降伏しか認めないと要求したというのです。これは無条件降伏という名の条件付降伏を日本に要求したということです。そのために日本が簡単には降伏しないことを知っていて、無条件降伏を要求しつづけたのです。その結果沖縄も犠牲になり、広島長崎にも原爆が落とされ、なおかつ朝鮮の南北分断ともなったと言います。

 それを考えたとき、原爆は決してアジアを解放しなかった、原爆が戦争を早く終わらせたのではない、それがスミソニアン論争の裏に隠されているのだということを知らされました。マイノリティとして日本の戦争責任を問うとき、日本政府ばかりを問題にしていたあまり、日米間の間にどんな政治的かけひきがあったのかということを見落としていたため、結果的にスミソニアンの原爆展のときに、原爆被害展示をひきずりおろす退役軍人たちの「アジアを解放した」とか「戦争を早く終わらせた」という論に、アジアのマイノリティも知らず知らずに加担していたことを知りました。もっと国境を超えたところでマイノリティのことを考えないといけないということに気づかされました。

 それと私が「戦後」と言えないもう一つの理由があります。海上保安庁が朝鮮戦争に参戦していたということです。北朝鮮軍が優位で釜山に国連軍が追い詰められたあと、国連軍はソウル近くの仁川(インチョン)というところから上陸して北朝鮮軍を南北から挟み撃ちにし、北朝鮮軍が勝利するのを防いだという歴史をご存知と思います。国連軍が仁川から上陸する際に、機雷がたくさんあったので、それを除去するために日本の自衛隊に出動要請がきて、日本は呉から極秘裡に海上保安庁の掃海艇が出たわけです。しかし、そのなかで戦死した人が出てしまったために、その事実を隠せなくなったのです。表面化しないだけで、日本は参戦していたのです。強いて言えば、湾岸戦争のときも掃海艇が行ったということもありますが、多額の資金援助をしていることで参戦していると言えるのです。日米戦争だけで限定するから、今戦後五○周年という定義が成り立つわけですが、日米戦争だけが戦争だったのではない、今も私たちは、戦争と関わって生きているということを自覚すべきだと思います。

 それから、反戦・反核・平和のためにマイノリティはいかに連帯しうるかという非常に難しい問題があります。その問いのカギを握っているのは、日本人原爆被害者の戦争責任の問題です。自分も被爆して片足を失ったり、家族を失ったり、町を失ったりという被害を受けた被爆者たちが、日本国民として、加害者の一人として謝罪の旅に出ていくということがあります。それは日本人原爆被害者自身の癒しにもなっているのです。日本人原爆被害者がマイノリティかどうかという問題はありますが、実際に被害を受けていることは事実で、自分の受けた被害だけでなくて、他者が受けた被害とをつなげて考えていくという作業をこつこつと続けていく、そのためにはレイシズムと闘うなかで強められたエスニック・アイデンティティを、いかに超えていくかという問題が不可欠だと思います。

 同化政策というのは私もレイシズムだと思いますから、同化政策と徹底的に戦いながら、かつエスニック・アイデンティティに止まっているだけでなく、エスニック・アイデンティティを超えたところでマイノリティどうしの連帯をつくっていく。そのためには、まずこのシンポジウムのようにマイノリティどうしがお互いの意見を聞き合う、お互いの違いを学び合う、それからお互いの問いに学び合う、そのような場をつくっていく必要があると思っています。


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