part 2 太平洋戦争と日米のマイノリティ

1995年10月28日和光大学J301教室


問題提起1

マイノリティからみた戦争責任

ケビン・内田

 平和と人権ヒロシマセンター

 私は日系アメリカ人の三世で、キリスト教の宣教師として派遣され、日本キリスト教協議会と協力して活動しています。最近転任しましたが、三年前まで広島に住んでいました。

 約九八年前、私の祖父はアメリカへ出発しました。一世の祖父は長男でした。日本人移民が一番多い地方である広島県の出身で、一八九七年に一七歳の祖父はカナダのビクトリア州に入国しました。三年後、勉強しようと思って、不法入国という形で国境を越えてアメリカへ渡りました。材木産業や鉄道の労働をしながら、たまたまカリフォルニア州北部の日系人の多い小さな町に移り住み、イチゴの農場をはじめました。お見合いで広島のいとこと結婚して、後に一二人の子供が生まれました。私の父は一番下でした。

 太平洋戦争のとき、真珠湾奇襲攻撃を行なった日本は敵民族だと言われました。軍事的に必要だということで、西海岸の約一二万人の日系人を収容せよという大統領令九○六六号が出されました。また大統領令九○六六号に関しては、もう一つの理由があったそうです。白人の農業者が、日系人農民は競争相手として経済的に脅威であると呼びかけたのです。そしてカリフォルニア農業者連盟やカリフォルニア州にある白人優越主義団体などが、アメリカ政府に強制収容政策を行なうように圧力をかけました。

 祖父母はわずかな金でイチゴ農場を手離さなければなりませんでした。その後、家族はモハベ砂漠のなかにあるマンザナール州の大農園へ働きに行きました。しかし、そこでは農園から自由に外出することもできないし、給料は少く、農業労働者は農園内の商店だけでしか生活品を買うことができないという囚人のような状態でした。ついにがまんできず真夜中に家族と逃亡し、その後カリフォルニア州へ戻って来て、ロスアンゼルスに住みました。これは私の家族の簡単な歴史であり、私のマイノリティの背景です。

 アメリカ社会のマイノリティたちは白人優越主義によって人種差別を受けています。日本社会のマイノリティたちは日本人の優越を意味する日本人論主義によって人種・民族差別をされています。私はこの二つの差別を両方とも経験しています。しかし、私はマイノリティであるだけではなく、同時にアメリカ国民でもあります。アメリカ社会から日本社会に入った私には、やっとこの存在がきちんと見えるようになりました。

 一九八八年、二六歳の私はソウルへ遊びに行きました。そして近くの仁川市で都市農村宣教委員会(UIM)という、都市と農村の労働運動を支えるキリスト教関係のセンターを見学しました。資料室には労働運動や学生運動についての写真が集められていました。

 今でも印象に残っている一枚の白黒写真についてのイメージを述べてみたいと思います。韓国警察の機動隊が並んでいます。日本の機動隊と同じようなもので、みんな一九・二○・二一歳ぐらいの若者ばかりです。並んでいる機動隊の手前に一人のおばあさんがいます。機動隊の男たちを叱っているようです。「何でこんな悪いことをしてるんかよ」、「あんたたち、お母さんのところに帰りなさい」と言ったということです。機動隊の若い男たちの顔には、感情が全然表われていませんが、ある男は恥ずかしそうに伏し目がちです。

 UIMで働いている友人は、「暴力をふるわれる心配なしに機動隊を叱ることができるのは、このようなハルモニたちだけだ。あいつらにとっては、お母さんのようだからと説明してくれました。それから「徴兵によって召集された機動隊は約八〇%くらいで、逃げたら、一○年間ほど政府から隠れれていなければていなければ刑務所に送られるだろう」と言いました。

徴兵された機動隊の男たちは、当時一八歳の弟と同じぐらいの年齢でした。たぶん機動隊員になりたい者は一人もいなかったでしょう。やはり、彼らには選択権は全然ありません。

 しかし、労働者の権利のためにストに取り組む労働者や朝鮮半島統一のために運動する学生に暴力をふるうのは機動隊です。労働運動や統一運動を抑圧するのは韓国政府の方に責任が大きいと思いました。では個人の責任はどこから始まるのでしょうか。あらためて考えると、それまであまり具体的な取組みをしてこなかった私は、世界の現実を理解しはじめたとき、大国アメリカの国民としての自分の立場に気づかされました。

 私は、私が支援しようと思っていた韓国の労働運動や学生運動とは逆の、政府が暴力をふるわせている機動隊と同じ側に立っていることに気づかされたのです。その時以来、いろいろな経験をしましたが、大国アメリカ人である私の責任を考えさせられたのは、あのUIMの経験がはじめてでした。

 戦後五○年について、なぜ「マイノリティからみた戦争責任」の観点が大切か、二つのポイントを述べたいと思います。

一つは、マイノリティという言葉には「数の少ない」という意味と同時に、「パワーの弱い」という意味も含まれています。「大和」民族と言われた日本人社会である日本、また白人社会であるアメリカのなかで主流のマスコミからは、マイノリティたちの本当の声はほとんど聞けないと思います。マイノリティと大多数者のマジョリティとは、社会を見る立場が根本的に違うからです。日常的な体験が違うからです。なぜかというと、マジョリティは文化的・経済的・政治的にパワーが大きいから、自民族の利益が得られる社会をつくることができます。しかし、同時にマジョリティの利益はマイノリティからの搾取によって得られているのです。これは人種・民族差別構造のある社会だということができます。

 社会を見る立場の違いについて例えば、「交番」があげられます。交番は日本人にとっては安心であり、道に迷ったときに役に立つ場所という意味があるかもしれません。逆に、交番=コントロールだと思っている外国人はかなり多いと思います。私のフィリピン人の妻は外国人登録力−ドを持たなければ絶対に出かけません。なぜなら、フィリピン人であることだけで、警官に職務質問をされた人を知っているからです。

 「主人の道具を使っては、主人の家を倒すことはできない」とアフリカ系アメリカ人のレズビアンのフェミニスト詩人アドレ・ロールドが言ったそうです。また同じ意味で、マジョリティはマジョリティの立場からだけでは社会の複雑な人権問題をなくすことができないと思います。だから、そのことを考えると、今日のシンポジウムではマイノリティのためよりも、マジョリティのためにもマイノリティの声をあげることが必要だと思います。

 つぎに、日本とアメリカという大国の社会に生きる私たちマイノリティは人種・民族差別によって抑圧される存在ですが、それと同時に他の国々からの搾取によって利益を得る支配国の国民または住民です。

 現在の世界を見ると、第一世界という先進工業大国の企業が第三世界という発展途上諸国の天然資源と労働力を搾取する国際経済の構造的問題があります。企業がアジア諸国へ進出するという日本の経済侵略は、国際経済の構造的問題の一つです。また、アジア太平洋地域でアメリカ国家の外交政策を行なうために存在する米軍基地問題もあります。これら国際的な問題は、太平洋戦争の結果であるように思えます。太平洋戦争とは、どの国がアジア地域の植民地を支配するかという日本と連合国の戦いでした。当時のマイノリティである国民も国家の戦争に参加したわけですから、自分自身の戦争責任を反省すべきだし、現在のマイノリティは先程述べた支配国の利益を得ているわけですから、戦後責任を反省すべきだと思います。

 例えば、戦時中、ハワイの日系二世は約三二○○人が米軍に入営しました。逆に、西海岸の強制収容された二世は、約二万一○○○人の徴兵の可能性のある男性で一二○八人だけが入営しました。その一方で、四六○○人が「国家に忠義を尽くすか」という調査項目の二七番と二八番の質問に「No、No」と返事をしました。二七番は「米軍兵として国のために戦うか」という質問で、また二八番は、「米国にしか忠義を尽くさないと同時に、日本の天皇を拒否するか」というものでした。これら「No No Boys」と言われた二世たちは、自分が天皇陛下の臣民だという考えからではなくて、不正な強制収容状態に反対するために徴兵を拒否したのでした。徴兵を拒否した「No No Boys」のなかには刑務所へ送られた二世もいたのです。

 家族を強制収容した国家の戦争に参加し、戦線から帰ってきた二世の兵士たちは、日系人のコミュニティに英雄として迎えられました。しかし逆に、国家が行なった人種差別的な強制収容所に反対したために、刑務所へ送られた二世の「 No No Boys」はコミュニティから捨てられました。私たち日系人は、このような形であの戦争を美化し続けていることを、コミュニティとして自己反省すべきだと思います。

 私には戦争体験はありませんが、戦争・戦後責任という問題は私の生活に直接触れている問題でもあります。私の妻はフィリピン人です。アメリカに植民地支配され、日本に占領支配されて、今でも大国によって天然資源や民衆の労働力が搾取され続けている東南アジアのフィリピン人です。彼女と結婚している私自身がどのように戦争・戦後責任を取ればいいかという問題もありますし、またどのように第一世界の人びとと第三世界の人びととが連帯すればいいかという問題もあります。これは私にとって理論や活動の問題ではありません。具体的な一緒に暮す人との問題です。

 夫婦が平等なパートナーシップという関係で暮らそうとすれば、ジェンダーギャップという性差別問題に取り組まねばならないのは当然のことです。それだけでも非常に難しくて複雑な問題だと思います。また、私たちには植民地支配の歴史と現実である帝国主義の問題もあるのです。それは、南半球にある第三世界諸国と北半球にある第一世界大国という南北ギャップです。

 具体的な経験を述べましょう。例えば、妻は一九八八年にはじめてアメリカへ旅行しました。スーパーに入ると二○種類以上のブランドがあり、レストランでは、二四インチもあるような大きなピザでも、一人か二人で全部食べてしまうのを見ました。そしてとても広いアメリ力大陸の国が、小さなフィリピンから搾取していることを思うと、妻は大食のアメリカ社会が嫌いになってしまいました。しかし、彼女には激しく批判する気持とともに、ギョッとさせられる気持もあったといいます。私はマイノリティの側からアメリカ社会を批判してきましたが、アメリカ社会にとって「他人」であるフィリピン人の妻の激しい言葉を聞くと、私は守りの姿勢に入り、いらいらしてしまいました。しかし後で、あらためて、「やっぱり、僕は本当にアメリカ人だなあ、ここは僕の国だ」と気づきました。

 私の国アメリカでは、韓国の工場で若い女性に作らせたアディダスというスポーツウエアを安く買うことができます。私が使うマッキントッシユ・パソコンの、三割引のマイクロプロセッサーをつくるため、一日中顕微鏡を使う女性労働者は五年間のうちに目が見えなくなってしまいます。そして、スーパーで買うおいしく安い果物は、アメリカのカリフォルニア州の中部地域でメキシコ人の出稼ぎ農業労働者の家族がつくったもので、わずかの金で子供までも、殺虫剤が吹きかけられたアンズやリンゴを収穫すると言います。日本の場合も、そんなに違わないのではないでしようか。

 私たち個人の生活から国の経済まで、この世界の不正な状況を考える時、大国においてはマジョリティもマイノリティも戦争・戦後責任をきちんと反省すべきだと思います。そのためには、今日のシンポジウムのような機会は大切であるというよりも必要だと思います。

 戦後五○年に関する事件を見ると、アメリカでは一月にスミソニアンのエノラ・ゲイ展示計画が改悪されましたし、アメリカ郵政省が提案した「原爆キノコ雲の五○周年記念切手」事件も起きました。アメリカの平和運動団体と日本からの激しい批判で、キノコ雲の記念切手の計画はすぐに見送られましたが、そこにはアメリカ人の戦争美化による軍国神話がよく現われていました。一つは、原爆はアメリカ人の優れた独創性のおかげで一○○万人の米国兵士の命を救い、また戦争を早めに終えるために必要であったと言われました。そのために世界最初の原子爆弾をつくって、勝利をおさめたというのです。それを意味するシンボルが原爆キノコ雲です。アメリカ社会は四○年問にわたる冷戦の核兵器競争で経済が崩壊したにもかかわらず、原爆キノコ雲が勝利のシンボルだという意識は強硬に根づいているのです。

 もう一つの軍国神話は、太平洋戦争は、日本海軍による真珠湾奇襲攻撃の被害によってはじめられ、ファシズム国家である敵国・日本の不正な侵略に対して「自由と民主主義」を守るために戦ったのだというもので、これもアメリカでは一般化されています。

 日本では、去年の夏ころ、各都道府県議会で自民党によって提案された「戦没者に追悼と感謝の意を表明し、恒久平和の建設を誓う決議」運動がはじめられました。日本を守る国民会議と日本遺族会や靖国神社本庁など三○数団体が協力する「戦後五○周年国民運動実行委員会」の策動でした。決議案の内容は次のようなものです。「祖国の安泰とアジアの解放を願い、尊い生命を捧げられた三○○万余の戦没者のたまものであり、ここに我々は、戦後五○周年を迎え、戦没者に対し心からなる追悼と感謝の意を表す。」

 戦争美化を意味する決議に反対して全国の市民ネットワークがつくられ、積極的に活動しました。しかし、滋賀県議会で採択されたのをスタートに、現在では「戦没者追悼感謝決議」を採択した県議会が多数になってきました。同時に、「あの戦争は欧米支配に対する自衛戦争だった」と言う者や「南京大虐殺の否認」と言う政治家の発言、また全国の護国神社で行なわれた八月一五日を「戦没者追悼の日」に変える著名運動などを考えあわせると、アメリカでも日本でも、自国の軍国神話を守るための戦後五○周年記念という、同じようなひどい状況になってきたようです。

 今日は、トレンドに反対して、マイノリティたちの立場から歴史と現実の理解、また戦争・戦後責任のことを考えていただけるスピーカーの方々が参席されました。その意味でとても特別な機会だと思います。


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