ディスカッション

和田春樹

東京大学教授  内海愛子恵泉女学園大学教授

原田勝正

本学教授  樋泉克夫本学講師  三橋修本学教授/司会

 

司会・三橋修 和田さんはもともとはロシア史の研究家で、だんだん南下されて朝鮮、それから日本の歴史というふうにおやりになっている方でございます。今のお話し、非常に明解で、つまり我々の戦後というものは、どういうふうな条件のもとで成立したのか、特に「平和の五○年」というのはどういう条件のもとで成り立ったのか、それはシンポジウムでもう少し話していただきたいと思います。

 恵泉女学園大学の内海愛子さんも主著が何かと言われても困るほど、映画人の歴史からさまざまな形の著書がございます。朝鮮から南の方にむけてのご専門と言うと、奇妙な言い方ですが、特になかでもBC級戦犯の資料の発掘、その分析など、たいへんな業績をお持ちの方でございます。

 それではシンポジウムのパネラーをご紹介します。日本史が専門ですが鉄道史も研究されておられる私ども和光大学の教授原田勝正さんと、それから非常勤講師をお願いしている、中国からタイにかけての事情に非常に詳しい、樋泉克夫さんです。お二人をお迎えして、今のお二人の問題提起を受けて、ご感想あるいはご質問などを出していただいて、そしてまた問題提起のお二人に答えていただくという形にしたいと思います。

 主として内海さんは、インドネシアに具体例を取られて東南アジアを軸に話され、和田さんは日本の対応という問題を冷戦構造のなかでの問題と同時に日本のなかでの対応ということに絞られて話されました。パネラーのお二人には、少し具体的な侵略の問題、あるいはタイならタイという、アジアのなかでは直接的交戦国ではなかったという意味では、ちょっと特殊な、しかしいろんな人たちの混在している地域でもありますから、そういうところからの報告もいただきたいと思います。

 それから若い人たちには、日本の戦争というものがどんな手広いものであったのか、なかなか全体像が掴みにくいということがあると思うんです。さきほど二七カ国が相手だったというふうに紹介がありましたけれど、是非一度、世界地図をひろげてみて下さい。オーストラリアの上にズーッと並んでいる島々も、これは全部日本軍が出かけて行き余計なことをやったところであります。そして、ミッドウェイなどアメリカとの交戦で激戦地になったところもオーストラリアの真上、真北に並んでいます。したがって、フイリピンから島々がオーストラリアの上の方までずーっと続いていまして、その先にハワイがあって、その先にアメリカがある。

 同時に朝鮮から中国東北部、満州それからさらにずっとたどれば、モンゴルというところまで戦線が広がっていたわけです。東南アジアでもインドでも関わりまして、インパール作戦ということがありました。その広さというのを是非若い人皆さんには直接的には関係が無いんですが、親の世代たちが、あるいはおじいちゃんの世代がやった戦争の広範囲さというものを、一度見ていただけるといいな、というふうに司会者としては思います。それじゃ原田さんの方から。

原田勝正 私は日本政治史専攻だったのですが、いつのまにか鉄道史が専門のようになっておりまして、鉄道史も日本国内の鉄道史が中心であったはずなのですが、いつのまにか中国東北部の鉄道史に問題意識がむいてきております。その中国東北部の鉄道史を見ていく場合に、やはり私自身にとって非常に関心を引いたのは、中国東北の鉄道を日本の軍隊がどのように使ったのであろうか、という問題です。これは、この一○年ばかり追い続けていて、中国東北支配の最初の三分の一の時期、と言いますのは一九三一年から三二、三年まで、いわゆる「満州事変」の時期の中国東北の鉄道を日本の軍隊がどのように使ったのかという点については、なんとか短いものにまとめることができました。

 しかし、その後の部分をどうしてもまとめることができません。三四年から三七年ぐらいまでが第二段階、そして日中戦争から敗戦までが第三段階、というように区切ったわけですが、第二段階がどうしてもまとめられない。第三段階に入ると、もっと難しい。何故かと言いますと、要するに資料が見つからないんです。資料はあるはずなのに、その資料を見つけることができない。それは怠慢というほかはないんですが、しかし、本質的に資料がなくなってしまっている部分がかなり多いことが少しずつわかってまいりました。

 それは日本の国内鉄道の軍事輸送の場合、例えば一九四一年の七月から八月にかけて、日本陸軍はソ連に対する戦争開始の準備を進めて、約七○万近い兵力を中国東北に集中します。そのうち五○万人を約ニカ月くらいの間に日本国内から中国東北に輸送した輸送計画書が出てまいりました。約一万件の輸送計画で、大きなものは飛行機のエンジンから小さなものは味噌樽一つ、というような多種多様なものを人と同時に輸送しています。この輸送計画書を見て、あ然としたのは、その計画書一枚一枚に「用済み後焼却」と書いてあるのです。要するにこの輸送計画書は輸送が終わった段階で全部焼いてしまえ、という指示が出ている。たまたまこの輸送計画書は、陸軍大臣の副官のところにあったものが残っていたわけです。ほかの鉄道当局にあったものは、全部焼却されてしまいました。したがってその輸送計画は全く闇に包まれてしまうのだということがわかりました。そうなると、輸送のための列車ダイヤが残されていないということもうなずけます。まして中国東北について見ると、それらの兵力が仮に釜山その他の港から朝鮮半島を北上して鴨緑江を渡って中国東北に入っていく場合にも輸送計画はあったはずです。そしてその輸送の結果についての報告も行なわれたはずですが、全部ないという状態です。このような資料をすべてその場で焼いてしまうという方針に基づいて、残されていないんだということがわかりました。

 そうなると、どうやって復元することができるのかという問題が残ります。そして今その問題について一番頭が痛いのは、その復元のための資料をどこから手に入れるのかという問題があります。古本屋さんを一軒一軒歩きながら、たまに出てくる、ごく断片的な資料を基にして再構成する、という作業が必要です。作業は遅々として進まないのですけども、それでもいくらかの資料は手に入る、そしてその断片的な資料に基づいて全体を構成していくという作業が少しずつ軌道に乗りはじめたというのが実状です。

 そういう状況のときに、それまで全く予想しなかったのですが、南満州鉄道の資料が、藩陽にかなりまとまった形で保存されていることがわかりました。その公開、利用については、今後日中両国の研究者の間で協力する必要がありますが、資料については、一つの目途がついてまいりました。ところで、このような資料の問題をさらに具体的に考えなければいけないテーマが出てきました。それは中国東北の一番東、虎頭という所に日本の陸軍がつくった非常に巨大な要塞の跡が残されています。この要塞についての日中両国の調査が最近行なわれて、その復元が最近『虎頭要塞』という本になって青木書店から出版されています。

 この調査の最初のきっかけをつくったのは、森永の砒素ミルクの被害者の会を結成して、被害者の救済清動を続けてこられた岡崎哲夫さんという方で、この方は要塞の生き残りの一人です。一九四五年八月の中句から下句にかけて、この要塞は撤底的な砲撃を受けて、生き残った人が五、六人という多数の戦死者を出しています。そのなかには要塞に入った開拓団の人たち、女の人も子どもも死にました。生き残りだった岡崎さんは、日中双方の協力による要塞の復元といいますか、復元調査の仕事をつづけて来られました。

 ところがこの仕事がはじまると様々な事実が明らかにされることになる。この要塞はだいたい東京駅の前にある丸ビルを地下に埋めたというような深さ、非常に巨大な要塞で、それをつくるときに中国軍の捕虜を大勢連行して働かせました。そして捕虜たちは、この仕事が終わっても帰されることなく、現場ですべて殺された、というような事実が次第にわかってくるようになりました。

 私が今関心を待っているのは、ソ連に対して攻め込んで行くときの、拠点としての要塞づくりにどれくらいの人と資材を投入したのか。そしてそれをどのような形で輸送したのだろうか、という問題です。これが最初に申しました、中国東北の鉄道の歴史の第二段階に当たる部分の、核になるような仕事ではないかと思っています。

 例えばそこには千葉県の館山に置いてあった、口径二四センチという巨大な列車砲を運び込んでいます。これはフランス製です。これを分解して館山から中国東北まで運び、そして大きな穴を掘って、虎頭要塞の近くに据えつけました。鉄道の輸送がどのような機能を果たしてきたんだろうかという問題を考えますと、そういった兵器の輸送であるとか、それから兵員の輸送、そしてやはりどうしても指摘したいのは、要塞をつくるために働かされた中国の人びとが、どのような形で輸送されたのかという問題です。

 ドイツではこの一○年ばかりの間に、アウシュビッツへの特別列車、というような本が出版されています。ユダヤ人たちを収容所に送り込む列車の輸送計画が、実績に至るまでかなり実証的な資料を使って跡づけた本です。しかもこれは専門的な鉄道史の本というよりも鉄道マニアというか、鉄道好きな人たちに、そのような事実を知らせるための本としてつくられた。ナチス・ドイツの支配下で、それら鉄道の輪送の記録がどのようにして保存されたのだろうか、という問題が出てまいります。日本の場合は、それらの資料は全部「用済み後焼却」ということになりました。それに対してドイツの軍事輪送の記録はそのまま残されていた。この違いは、いったいどこにあるのだろうかということです。そこには、仕事に対する責任意識のあり方という問題も引っかかってくるかも知れません。

 ですから、戦争責任の問題を考えていく場合に、我々自身がアジアの人びとに対して、どのような形で責任を認識すべきか、ということが、私が今ぶつかっている問題ともかなり密接に関わってくると思いますし、お二人の先生方が取り上げられた、戦後における責任の取り方も、そのような資料の保存のあり方に関わってくる問題としなければならないのではないか、というように思うようになりました。

 そんなわけで鉄道の歴史をやりながら、いつのまにか戦争責任の取り方、あり方、そういった問題を意識せざるを得ないのが今の状況です。昨年だったと思いますが、『泰緬鉄道』という本が出ました。泰緬鉄道については、これまでたくさんの出版物がありますが、昨年出された『泰緬鉄道』はこれまでのさまざまな出版物とはまったく異なり、タイに保存されていた資料を使った、非常に客観的な事実を盛り込んだものです。ここでようやく、泰緬鉄道については日本軍がやった鉄道についての基本的な事実が明らかにされはじめたなという感じがいたします。

 ところが中国東北の虎頭要塞に中国の人びとを運んだ、輸送については、その責任を追及する作業は全く行なわれていないと言わざるを得ない。その違いはやはり、どこにあるのだろうかという問題も、ここでは考えなければいけないと思います。長くなりましたので、この辺で。

三橋 ありがとうございました。先ほどアジアは戦後三○年間は戦争の時代だったんで、その後にならなければアジア諸国から日本に対する責任問題は出てきようがなかったんだということを和田さんが話されましたけども同時にその資料がきわめて無くて、そして日本よりははるかにアメリカの方の資料公開に頼りつつ日本のことがやっとわかってくるという、そういうご苦労はたぶん和田さんも内海さんもいやというほどのご経験だと思うんです。苦労話をお二人から聞くと、これはまた長くなっちゃいますから、今度は樋泉さんのほうから、今泰緬鉄道も出ましたけれど、タイのお話しなどを中心に、お話しいただきたいと思います。

樋泉克夫 この大学では「現代アジアと日本」という授業で、最近やっと海外の華僑の抗日運動について少しずつ学生に話せるようになってきたんですけども、実はもう一つ、私は大学を卒業してから二五年になるのですけど、その間の五分の三くらいを香港とタイと、東南アジアにいました。ですからそんなところから、今東南アジアにいる日本人、そういう人たちがどういう考え方をもって東南アジアで生活しているかということを話したいと思います。香港にいたときは留学生で、実に無責任な生活をしていたんですけど、タイの七年間くらいは日本大使館で、日本の外交政策がどのように進められるかというようなことを若千体験したものですから、そのところからの話をします。

 最初の報告で和田さんが「将軍たちは去ったが天皇は残り、軍隊は去ったが官僚は残った」とおっしやいましたけど、その後にもまだなんか続くんじゃないか。つまり「帝国臣民は去ったけど会社は残った」と続くんじゃないか。そう考えるのはどういうことかと言うと、今東南アジアの多くの会社で働いている人たちの行動様式というのがあの当時の、私の理解によると戦争中の日本軍がやったことと、ほとんど変わらないんじゃないかと思うわけです。例えばゴルフをやります。お金をなんとか貯めようとする。その次に何を考えるかと言うと、できるだけ早く東京に帰りたい、いい成績を挙げて東京に帰りたいということです。

 戦前、金子光晴が書いた『マレー漫遊紀行』というのを読んだんですが、彼はマレーの三菱かどこかの鉱山に行ったときに、そこの社員に聞いているんですね。「今あなたの希望は何ですか?」。「テニスが上手になること、貯金通帳にいっぱいお金を貯めること、早く日本に帰りたい」というふうに書いてあります。そうすると、テニスとゴルフが変わっただけで五○年経っても日本人は同じことをやっている。自覚的に考えてやっているわけではなくて、つまり和田さんがおっしゃったように、官僚機構が残ったと同じように、官僚の考え方だとか政策の決定の仕方が残っちゃったと思うんです。そうすると、それに追随する人たちの行動様式も残るわけです。

 例えば外務省などは、タイとある関係をつくろうとする場合、一般的な考え方ですとタイに行って調査する人間がいて、それを段々上に持ち上げていって東京に送って、東京で決定して、また大使館に戻ってくると思いますけれども、実はそうではなくて、最初に東京で決定しているんです。出先の大使館員は何をするかと言うと、東京の人たちが考えたこと、東京のトップクラスの人たちに合った考え方を、合った資料を集めてきて、その人たちの考え方に含った報告をつくって東京に送る。たぶんこれは、戦前の日本人のある種の行動を決定する場合と似ているような気がするんです。

 それともう一つ、日本人は、東南アジアだけではないんですが、現地の人と馴染まない、日本人だけが集まって、日本食を食べて、という風に言われます。それをマスコミ関係者は、一般の人がやっているように報告するわけです。すると私などは東京で見ていて、なんと情けないと思う。実はそうじゃないからです。タイには日本からのマスコミ関係者が六○人強いるんですけど、そのなかでタイ語が話せてタイの人と目常的に接触、業務以外に接触するという人は、まあ一割いないと思うんです。

 現在のバンコクには観光などの旅行者も含めて四万人くらいの日本人がいると言われていますが、常駐している人は二万人くらい。バンコクにある日本人商工会に登録している日本の企業は千社を超えています。この二万人のなかで一生懸命タイ語を勉強してタイの人と接触し、タイの新聞や印刷物が読めて、ある程度の文章が書けるという人はせいぜい見積って二、三○人だろうと思うんです。するとさっき話したように、結局日本人がタイに進出してきたときに誰を使うかというと、現地にいる日本人を使います。東京にいる人というのは、だいたい現地に定着している日本人を信用しないんですが、しかし使わなければならない。だから、実際にやっていることは戦争中と変わりないんじゃないかと思える。つまり鉄砲がお金に変わり、軍隊が会社になった。こんな感じがしないでもないんですね。

 もう一つ、日本人はたぶんある程度の年代の人は山田長政を知っていますが、タイではまったく有名じゃないですね。日本人はアユタヤに日本人町というのを無理やりつくりまして、そこに山田長政神社なるものをつくっているんですけども、みっともない鳥居があって、それだけの話なんです。ただ戦争中つくったと思うんですが、山田長政の墓というのもあります。

 一九八二、八三年だったと思うんですが、日タイ修好二○○年祭という、日本人商工会議所が金を出して、アユタヤにある日本人町を大々的に改造して、そこに大きな池をつくって、御朱印船を浮かべて山田長政のでかい銅像を立てようと計画しました。日本政府のバックアップで。さすがにタイ側が止めてくれという話になって、計画がつぶれてるんです。かつて戦争の時代でもかなり意識がずれていたのに、何の修復もないまま今も続いている。それに疑問も持たずに続けているということに対して僕は危惧の念を抱きます。

三橋 どうもありがとうございました。今のお二人のお話しで最初の問題提起者に返すという形のお話しではなかったんですが、原田さんのお話しに出た資料保存の問題も、樋泉さんの行動様式の問題と同じ意味を含んでいると思うんですね。「終わったら捨てよ」というマル秘が非常に多くて、そして結局は誰がどういう形で責任を取るのかというのがよくわからないまま企業が出ていく。

 そういう意味で、官僚機構が残った問題を非常に強く指摘された和田さんなんかが、そういう行動様式が全然変わっていないというときに、ややもすると日本人というのは、ある集会のときだけ自虐的に日本の悪口を言って、本人はこれでさっぱりしたと帰って酒を飲む。その酒の飲み方は日本軍人と変わらなかったりするというようなことが結構あるわけですね。そういう意味で言うと、新しい素振りというか行動というか、そういうのをどうつくっていくか、その辺で感想というか見通しみたいなものを話していただければ。

内海 和田さんが理論的に話してくださると思いますが、その前に私なりの感想を述べさせていただきます。

 今述べられた海外日本人の行動様式の問題、実はこれは非常に重要な問題です。インドネシアに二年間いて帰ってから、その間のことを書きました。ところが、現地の日本人から信じられないようなリアクションになって戻ってくる。今おっしゃられたように海外に出ている人の行動様式が戦前と変わらないのではないかという点ですが、確かに変わらない部分は非常にあると思います。

 しかし私が希望を持つのは、今、日本ではNGOの活動を続けている人たちの層が厚くなってきました。私がアジアとの交流をやる団体「アジアの女たちの会」という会に参加した一九七七年には、アジア語のできる人はほとんどいなかったし、アジア語といっても朝鮮語と中国語ぐらいでした。今、私の勤めている小さな大学でもタイ語とインドネシア語、そして朝鮮語と中国語があります。アジア語を学んでいく層が朝鮮語に限らず厚くなっている。

 今、話された行動様式は企業と大使館、この周辺ではきわめて濃厚だと思います。私も体験しましたから。私は海外日本人社会を菊を頂点としたピラミッド社会と呼びましたが、日本のなかの矛盾を拡大再生産したのが海外日本人社会だと思っているぐらいです。

 しかし最近の動きを見ていると、若い人たちがアジアのNGOと、上下関係ではなしに関わっている。今年の夏、NGOの活動を見るために、かつての蘭領ニューギニア、今のイリヤン・ジャヤに行ってきました。ここは「フリーポート」という巨大外国資本が、中心はアメリカですけど、銅や金を掘って、それを日本に輸出しようとしています。ニューギニアの山のなかで森林を伐採し、銅の鉱毒を流しているわけです。

 それに対して地元の住民が立ち上がって、この間も一○何人かが殺されていますが、反対運動の活動をしているNGOが出てきています。インドネシアでは、たぶん大使館の人はほとんど知らないと思うんですが、NGOの活動の層が厚くなりました。アジアの今の開発の現実がNGOにパワーを与えている。

 また、イリアン・ジャヤは西ニューギニアと呼ばれた激戦地で、日本兵が二○○○人以上死んだという洞窟を見に行きました。そこは日本兵の骨が収集されたことになっていますが、洞窟に入って行くと、歯が残っていたり、大腿骨が残っていたりするんですよ。もちろんアジアの人びとも殺されている。そういうなかで、戦争に関係なしに今の開発の問題に関わり、オルタナティブなディベロップメントはどうあるべきかを考えようとしても、戦争の問題を抜きにできないわけです。

 NGO活動でアジアに出かけて行って、そこで戦争と出会うことになります。企業と大使館の人たちに代表される今までの日本人の行動と違うところで、アジア語ができる若い人たちがアジアの人たちと新しい関係をつくりつつある。それがもう一つの発展のあり方、日本型でないアジアの発展はどうあるべきなのかという模索を続けている。この二○年の間に、こうした人びとの層が厚くなったと思います。私は日本軍と違う行動様式のなかで、アジアとの関係が今できつつあるのではないかなと思いました。その人たちがまた、戦争の問題も考えていくのではないかと考えています。

原田 これまでのアジアと日本との関わりのあり方に、新しいものが生まれてきているというお話しをうかがったわけですが、中国東北の問題を考える場合もやはり同じような問題があると思います。先ほどちょっとふれましたけれども、虎頭要塞復元調査をやろうというのは、これは全く民間の人びとがはじめた仕事です。それから、先ほども出てまいりました七三一部隊の調査というような問題についても、同じように民間の人びとが実際に動き出して、そこから仕事がはじまっているということがあるように思います。

 例えば七三一部隊の当事者たちが、八月九日か一○日にハルビンから釜山まで通し運転で全員一括して運ばれた。そして朝鮮海峡を渡って日本へ帰ってきて解散した。その事実はほぼ明らかになってきているんですけど、当事者たちがようやく今、口を開きはじめている。私たちの歴史を明らかにしていこうという作業と並行するような形で、仕事が進められている。そこに新しい中国と日本との関係のあり方を模索する動きも重なっているのじゃないか、というように考えます。

和田 原田先生から資料を探していくことの困難さということのお話しがありまして、これは非常に大きな問題だと思います。基本的には参考資料といいますか、公式資料というものをやはり隠すという点がある。戦前の官僚システムが戦後も存在し続けたとすれば、やはり資料を大量に処分しなければならなかったということがあるでしょう。未だに、そういう体質が続いていて、資料を隠すと思います。

 ベトナム戦争のとき、私はずっとアメリカに対して反発しておりました。それで八○年代に初めてアメリカに行ったときに、アメリカの公文書館の入口に、'The eternal vigilannce is cost of liberty'と書いてありました。「永遠の監視が自由のコストである」と。つまりここに政府の文書があるから、入ってこの政府の文書を調べて、政府がちゃんと仕事をしたかどうか監視して欲しい。そういう努力をあなた方がしないなら、あなた方は自由を失うだろう。こういう意味ですね。私はやはりアメリカは大した国だと思ったんです。官僚、国家というものを国民がコントロールするというそういう原則が、非常にはつきりしている。日本ではとにかく資料が出てこないわけです。

 先ほど日華平和条約の資料のことを申しました。外務省の文書で不十分ですが、オープンになっている資料です。それを見ただけでも、やはり日本の外務官僚が当時どういうような高圧的な交渉をしたかということがよくわかります。だから、これはできたら隠したい資料なのだろうなあと思うんですね。もちろん非公開になっている部分もある。日ソ交渉は、もう当然公表されていいわけですけど、いっさい資料が発表されていません。日韓条約の交渉は今年三○年になりますので、公表のときです。まさにそこで今交渉が問題になっていますから、果たしてこれが出てくるかどうかが大きな問題になっています。

 日本の官僚制度は世界に冠たるシステムだと言われてきましたが、現在のところ日本の政治が非常に行き詰まっているのと同時に、やはり日本の官僚システムも行き詰まっているということは、皆がもう認めているところではないかと思います。冷戦構造が終わって、新しい状況ができたなかで、官僚たちは戦争前からあって、そして戦後冷戦のなかでかためあげられてきた枠では、解決できない問題に直面しているのではないかと思います。

 一方我々、知識人は政府に反対だし、もちろん官僚とも関係がありません。全く別のところにおりました。けれども、我々はやはりもう少し政府の方とも官僚たちとも話し合っていかなくてはならないんじゃないか。官僚の人たちが好んで選ぶ各審議会のメンバーは、官僚がつくった作文に賛成してくれる人たちです。そんなことを続けても何の意味もありません。官僚のためにもならないわけでして、やはり違った人たちが官僚と接触してデイスカッションをして問題提起していかなくてはならないんじゃないかと思います。

 私は「女性のためのアジア平和国民基金」というものの呼びかけ人になりました。これは従軍慰安婦のために政府がつくった基金です。ですから、これは完全に外務省と総理府がつくっているんです。外政審議室という総理府の部署が一人ひとり呼びかけ人を探して、引き受けてもらってこれをつくったのです。基金は政府と国民が協力するということになっていて、官僚としてははじめてのことをやっている組織だと思います。

 そして八月一五日に新聞に意見広告を出したんです。全国四大紙に、一億二千万円かけて全面広告を出し、それから二月半かかってようやくこのパンフレットができた。そういうスピードで仕事をしている。官僚と市民が協力して議論していくときに出てきたスピードはこういうスピードです。つまり官僚の人が用意したものがすっと通ればもっと速くいくんです。これは、従軍慰安婦というのはどういう存在と考えるのか、と議論をしながら進めてきたんです。

 そういうことをすると、結局それは官僚の機構のなかに巻き込まれてしまう、あなたのやっていることは要するに官僚や政府に対して免罪符を与えることになる、というふうな批判を韓国の方からも受けていますが、私たちとしては、やはり自分たちの政府や官僚とぶつかって話し含つて、そして討論をして衝突もして、けんかもしてですね、そして協力もしていくというようなことをやっていかないと、我々の社会はよくならないと思います。

 私は可能性があるというふうに考えています。これは決して生やさしいことではありません。一○○年続いた体制ですから、簡単だろうとは思っていません。しかし、そういうことはやっていかなくてはならない。それはどこの国もやっていることなんです。日本だけがやっていなかったんではないかと私は思います。

 それから樋泉さんがおっしゃった、官僚の後に会社があるじゃないかというお話しですが、私もそれはそうだと思います。会社は結局戦前も戦後の体制も資本主義ですから、現在の会社は一九四○年体制と言われます。そうした会社は確かに存在していると思いますが、でも私は軍隊と会社はわけたいと思います。お話しはよくわかります。鉄砲の代わりに金が飛んでいる、円が飛んで、ということで、そこでもやはり相変わらず人びとは精神的に傷ついているというのも、明らかにそうだと思います。しかし私は、なお鉄砲で人を殺すのと商売は違うと思います。ここは我々としてははっきり言っておかなくてはいけないことです。鉄砲を撃つことを止めて、商売をしながらそのやり方をどう変えていくかということが問われているのだ、私はそういうふうに思っております。

樋泉 最近、大岡昇平の『レイテ戦記』を読んでいまして、一番最後にこうあるんです。「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に他人の土地で儲けようとするときにどういう目に合うかを示している。それだけではなくどんな害をもたらすかを示している。その場舎は結局自分の身にはねかえってくることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土は聞こうとするものにとっては、聞こえる声で語り続けているのである」ということですね。まさに武器よりはお金の方がありがたいです。やはり和田さんのおつしやるように、その先の問題が重要ではないかなと思います。

内海 確かに企業と軍隊というのを並列にはできません。ただ私たちがアジアとの関係で知らなければいけないと思っていることは、日本のアジア侵略の現実と賠償、戦後処理ですね。これが日本企業のアジア進出を促した。先ほど和田さんが言われたように、生産材と役務を提供して、それが日本の企業進出の橋頭堡になっていくわけです。ですから私たちが企業と軍隊をわけて考えていくと同時に、日本企業の戦後のアジア進出は戦争の、賠償をテコにした進出だった。そういう形で、一見切れたような戦争の人脈が企業進出のなかで生かされた。こういう日本の戦後のあり方、これが問題だろうと思っています。

参会者 第三次世界大戦は起こるでしょうか?

和田 私は自分の本のなかで、世界戦争の時代は終わったという考え方を述べている者ですので、今の点について私の意見を述べたいと思います。

 第二次大戦が終わったのちに、米ソ冷戦がはじまりました。米ソは核兵器を持って武装して、そして極限まで突き進んだ。軍事ブロックを非常に強力に固めて、全世界的に対決した。その頂点のところで、ソ連の力が失墜したわけです。

 私は、第一次大戦の時からはじまってきた一つの歴史的なサイクルが、極限まで達して終わったと考えていいんじゃないかと思います。というのは、ボスニア・へルツェゴビナでは内戦が続いていますが、実は第一次大戦と言うのはあそこで内戦が起こって、オーストリアの皇太子が暗殺されたことをきっかけとしているのです。今も非常に厳しい衝突が起こっているわけですが、だからと言って、それが世界戦争に発展するという道筋ではないと思います。一定程度局地的な戦争はこれからもいろいろと起きてくる可能性が高いと思いますし、なお拡大するかもしれませんが、やはりそれが全世界を巻き込んでいって、軍事ブロックを動員して全世界的な衝突、世界戦争になるということは終わったのではないかと考えています。

 第三次世界大戦はこれから起こるかどうかと言えば、起こらないだろうと思います。ただ将来はわかりませんから、破局的な何か恐るべき事件が起こるかも知れませんけど、それはおそらく我々が二○世紀に見てきた、あの世界戦争というものとは違ったものではないかと思います。

参会者 和田先生にお願いします。今朝鮮との併合条約が問題になっています。その当時の朝鮮を取り巻く世界情勢について、お話しいただければと思います。

和田 一九世紀末から二○世紀のはじめにかけて、朝鮮を取りまく状況のなかで、対立があります。日本とロシアの間に対立があったということです。そこでしばしば言われることは、日本が朝鮮を取らなけれぱロシアが朝鮮を併合しただろう、そして朝鮮人にとって、もっと悲惨なことになったろう、ということです。これは先ほどふれた外務省の久保田氏が目韓交渉の過程で述べたことです。韓国側は激怒しました。確かにロシアと日本が争っていて、日本は日清戦争後に新興国として出てきましたので、ロシアは非常に警戒しておりました。ロシアは二○世紀のはじめになりますと、国内的に大きな問題が発生しています。ツァーリの専制政治が行き詰まってきて、国内で非常に批判が高まっており、革命前夜の状況です。

 ロシアは当時満州を獲得したいと狙っていまして、それで日本側に朝鮮の南部の支配権を認めるが、北部は中立地帯にして、自分たちが勢力を持ちたい満州に対する日本軍の影響をできるだけ抑えたい、というのがロシアの考え方だったと思います。ですから、日本が朝鮮をまるごと取らなければロシアに取られてしまうというようなことではなかった。しかし、日本は自分たちが朝鮮を併合しなければロシアに取られ、日本国も危なくなるという考え方に最終的にはなっていったと思います。そこに問題があると思います。

 それで併合のことですが、日本がそのように出てきますと、大韓帝国の皇帝としては、なんとかロシアに頼って独立を維持したいという考え方を持ちました。ですから、バルチック艦隊が接近したときも、何とかバルチック艦隊が日本を撃ち破って欲しいと、大韓帝国皇帝は願っていたんですね。しかしそうなりません。さらにポーツマス講和に対しても大韓帝国としては、なんとかロシアによって朝鮮の独立を保証してもらおうと思っていました。ロシア側もその努力をしましたが、結局日本は、日本にとって都合のいいような方向に条約の文面をもっていって、そして最終的には、朝鮮は完全に日本が握るということを、ロシアに呑ませるということになっていくわけです。ですから、そういうプロセスでやはり朝鮮側の願望を踏みにじって日本が朝鮮を併合していくということが実際に進行したと思います。問題は、それにどういうふうに合法的な形を与えるかということで、日本は一九○五年に大韓帝国を保護国にし、外交権を完全に奪ってしまいます。

 この国の外交は全部東京が決めるということになります。そうして統監を派遣しておいて、それから五年後に東京で併合を決定して、併合条約に調印するよう統監から大韓帝国の総理大臣に要求する。総理大臣としては、それを呑むという形で併合条約が結ばれました。保護国を力で併合したらおかしいから、条約によって合意の上で併合したという形をつくったということだと思います。ですから朝鮮民族としては、それが双方の合意によって併合されたんだというようなことを言われると、黙っていることはとてもできない。その条約は列強がみんなこれを有効と認めました。つまり、日本が朝鮮を併合したことを列強は認めたんですが、歴史的に見ると、条約という形をとることによって、日本が朝鮮を植民地にしたことは決して合法化されることはないと思います。

 私は、日韓条約について言えば、韓国側が言っているように、今から考えれば、最初から無効であった、併合条約は、植民地支配、併合を合法化するものではないと、今日認めることは可能だと思います。日韓条約解釈の対立は、韓国側の解釈を日本が採用するということで解決すべきで、それ以外に解決する道はないと私は思います。

参会者 今の韓国併合条約について、和田さんと同じ考えを持っています。しかしながら、いわゆる政府主導の民間基金について私は反対しています。今日はお話しを伺って、なぜ和田さんが賛成なさるのかは理解できました。しかし私は、外務官僚は全然変わっていないと思います。なぜあの構想が持ち出されたかと言えば、それは個人補償をしないという彼らの誤った原則を維持しつつ、なおかつ日本がこれからさらに東南アジアに進出していく度合を強める、その一つとして私は自衛隊のPKOの枠を取り払った海外派遣も十分ありうると思っています。そういう東南アジアにおいてなんらかのいわば謝罪的な意味を含んだ行為、これをしなければいけない。ですから謝罪するという点については、新進党の小沢一郎でさえ、それは必要だと言っているんです。しかし問題はそういうマイナスの謝罪ではないだろうというふうに思うわけです。ですから政府主導の民間基金が、そもそも形容矛盾なんで、もし和田さんが、どうしても日本国民が自ら被害者に謝罪する必要があると言うのであれば、政府とは全く別個に「和田基金」なるものを提案なされば、私は賛成したい、とこういうふうに思います。

 そしてもう一つ、私自身は戦後日本は決して平和ではなかったというふうに思っているわけです。その一つの例として、最近の沖縄における少女の強姦事件をあげることができます。実は朝鮮戦争時に海上保安庁の掃梅艇が機雷の掃海に出動を強要されまして、そしてそれに従事した職員が爆死している事例があるんです。ですから、決して日本の兵隊が死んだことはない、ということにはならないと思います。

和田 難しい問題が世のなかにあると思います。と言うのは、国家の政策というものは、国民のなかにある多様な意見というものを反映して、そして決められていきますから、非常に多様なことが決定されます。したがってそこには、いろんな思惑が入ってくるということは当然だと思います。

 一方では従軍慰安婦問題を解決しなければ、日本がアジアに対して積極的な政策を取ることができない、あるいは国連の安保常任理事国に立候補もできない、さらには、PKFを解除し、積極的に国際的な事柄にかかわっていくことができない、だから過去の戦争を清算しなければいけないという考えもあります。小沢さんなんかそう言ってますね。それで、ある政策が国家で取られていくときには、そういうような考え方を持った人も賛成に回るとか、それから別の考えを待った人も賛成に回るというように、いろんなモチーフが寄り集まって、一つの政策が取られていくものだと思います。

 全体として我々が望んでいるのは、政策の方向が我々が望むような、人間的な方向に進むことを可能にするような、開かれたものであることです。

 それで仮にある政策が取られた場合には、日本がアジアにおいて抑圧的な方向に進むためにその政策を利用するというような動きに対抗して、そうではない方向にその政策を生かすべく努力していくというような、力比ベになるだろうと思います。自動的にある政策が悪用されないという絶対の保証を、政策のなかに立てることはできない。私は常に両方の面があるんじゃないか、と考えています。

 国会決議についてもそういう意見がありました。国会決議をやると、進出に道を開くことになるという意見で、そうであるかもしれません。しかし、一つの政策が取られれば、その先に、新しい政治的な局面が開けて、そこで政治的な衝突が起こります。ですから、やはり一つの政策が取られたことは決して終わりではなくて、その動きのなかで新しい衝突が起こる、新しい動きがはじまらなければならないものと考えています。

 外務省の政策は全体としてみると、いろんな問題を抱えておりますので、外務省が変わっているということを申すことはできません。しかし問題は従軍慰安婦問題については、現在の政府と、与党の合意は謝罪が必要だ、そして国民的な償いが必要だとし、日本の国家の過去の行動に対する道義的責任を認めるというところまではきているわけです。しかしその上で、個人に対する補償を国家として行なうことはできないとも言っています。したがって、その枠のなかで謝罪をして国民的な償いをするという方向、道義的責任を認めるという方向に出ていくという政策が取られたということを、どう評価するかという問題です。それはあくまでも既定方針を守るために、ごまかしのために出されたというふうに考えるか、あるいは従来のような形ではやれないが、やはり一歩踏み出して新しい方向を模索しているというふうに考えるか。実際はそれはどちらとも決め難いので、結局どちらに持っていけるかという問題だと思います。

 私は結局鍵を握っているのは日本の国民だと思います。日本の国民が全体として従軍慰安婦問題について謝罪が必要であると認め、そして補償が必要である、その補償については国がお金を出してもいい、そういうようなことに国民がゴーサインを出さなければ、状況を糊塗するための政策に終わると思います。ですから、鍵は国民が握っているというふうに思います。今度の基金は国民投票的な性格を持っているのです。政府は国民がどう答えるかというふうに問題を投げかけていますので、これに対して国民はどういうふうに答えていくかということだと思います。

 日本の国民に従軍慰安婦に対する謝罪は必要ないし、償いのお金も出す必要ないという意見が非常に強く存在します。そういう手紙もたくさん基金に寄せられています。したがって基金に対する批判が、今のような方向に紛れてしまわないように、政府に対して国民は謝罪も償いも必要としているんだと認めていることが、政府に伝わるような形で基金を批判していただかないと、いけないのです。私は、現在の基金は一つのはじまりだと恩っております。

 朝鮮戦争については、今ご指摘のような認識というものは確かにあると思います。しかし全体として、だから平和ではなかったというふうにはやはり言えないと思います。それが私の実感でもあります。私は徴兵されたくないという一心で、高校生のときに運動しておりました。それは叶ったわけです。基本的に日本人が平和に生きてきたということは紛れもない事実であります。

 沖縄は非常に深刻な問題がありまして、あらゆる犠牲を負わせてきたと思いますので、沖縄の問題が戦後五○年を機に出たということは意義深いものだと私は思います。ですから、これは積極的な形で解決していかざるを得ないものと思っています。というのはこの間の県民集会というのは、地位協定の改定と基地の縮小という形で要求が出ました。基地を全廃するということ、安保条約に反対するというのではなくて、地位協定を改定し基地を縮小する動きが出たということです。それで一致していると思うんです。今日、日本のなかでこの点についてでしたら、相当な合意ができると思うんです。その枠のなかでとにかくアメリカに対して迫っていくということが非常に重要ではないか。私は日本本土における米軍基地を徹底的に調査して不必要なものは返してもらうか、あるいは沖縄の基地をそれに移す、そのようなことを考えるべきではないかと思います。

和光学生 今日、二人の話を聞いて、自分自身国民の一人として今後日本の歴史をよくしていくためにも考えていかなければいけないなというふうに思いました。しかし今の日本国内の情勢とかを考えると、決して僕らは楽観できるものではないと思うんです。実際に海外派兵とか、国連常任理事国入りだとか、あるいはそのためにもアジアの権力者の日本の軍事大国化に対する警戒心というのを払拭するためにも、この国会決議、戦後五○年の国会決議が取りあげられたんじゃないのかなと僕は思うんです。実際に戦後五○年の国会決議のなかにある、過去の戦争についての歴史観の相違を越える、という文言があります。これは、過去の戦争は聖戦だったんだという、そういう考えをも許容するものではないかと思うんです。

内海 先ほどの和光の先生のお話しに今の沖縄問題を考えるもう一つの視点を加えさせていただきます。日米安保条約とサンフランシスコ講和条約、これはいずれも一九五○年四月二八日に発効している。そして戦後の日本を規制してきた。東西冷戦のなかで戦後の日本の道筋を決めていく二つの大きな条約だったと思いますが、これが冷戦構造が崩れるなかで、一つはアジアからの戦後補償の要求という形で問い直しされているし、もう一つが沖縄問題として、今私たちに突きつけられている。前者はサ条約、後者は安保条約です。

 戦後五○年、私たちはいろんな形で運動をしてきました。そのなかで見えなかったものの一つが、日本の植民地問題とアジアに対する加害責任の問題、それが今ようやく論議されている。

 その先に日本の政府開発援助、ODAがアジアの権力をどういうふうに規制しているのかが問われてくるのではないでしょうか。援助供与の問題は、日本だけではなくて相手国の政権をも縛る大きな問題になってきています。軍隊の海外派兵の問題と日本企業の海外進出の問題がそこにあるのではないかと思います。このODA、政府開発援助は、アジアの開発独裁政権を支えるのに使われてきた。国民の目が届かないところで援助が決められていて、いくら資料公開を要求しても全く出てこないのは援助関係です。その膨大な金額を使って、日本がいま援助を通してアジアで何をしているのか、もっと関心を持って監視していく必要があると私は考えています。

和田 戦後日本の革新勢力の問題の出し方は、基本的に自民党が政権を永久に取っていて、その政府に対して批判を出して、そしてその批判は通らないわけだけれども、とにかくその批判を通じてブレーキをかけるという形で運動をしてきたように思います。

 例えば安保条約に反対するとか、自衛隊の存在に反対する。こういう形で、反対してきた。それは通らないわけですね。通らないけど、それによって例えば日本がアメリカの戦争に積極的に荷担していくのを防ぐとか、自衛隊の膨張がむやみやたらに進んでいくのを防ぐとか、そういう役割をしてきた。しかしその結果として、そのように主張してきた革新的な勢力は、いっさい政権の外にあって万年野党で自民党が永久政権、そういう状態が存在していたわけです。

 すべての問題は現実的にある政策というものにコミットするということは、その政策によって縛られるという危険性を含むという、あなたが恐れているのはそういうことですね。国会決議をすればこの国会決議というものによって、ひよっとすると縛られてしまうかもしれない。こういう危険があると、さきほど私は申したんですけど、やはりそれを恐れていては結局、我々は永久に現実に対してはマイナスにしかコミットできないという問題があると思います。

 マイナスにしかコミットできないと、例えば戦後補償はできないわけです。戦後補償というのは積極的な行為ですから、積極的にこれをかち取っていくためにはマイナスに批判しているだけではできないという問題があるんです。五○年経って、我々は政府の戦争にコミットするような政策に反対することによって平和を維持してきたわけですけど、しかしそれによっては、アジアに対する正しい政策を政府に取らせることはできなかったということですね。ここでやはり我々としては考えなければならないんじゃないかというふうに思います。

 おそらくいま内海さんが言われた経済協力問題、ODAの問題、非常に重要な問題だと思いますけど、例えば日本は中国に対して、八○年から九三年に一兆四千億円の有償援助をしているわけです。円借款ですね。それから無償援助は八八○億円です。非常な巨額です。それで中国の発展はどうなるんですか。じゃあ韓国にして韓国の発展はどうなりますか。今度はソ連の援助はどういうふうになるでしょうか。どういうふうに援助をしたら、どういうような人間的な発展がありうるのかということ、東南アジアの場合も同様です。考えなければならないのは、もちろん大きな批判が必要なわけです。

 しかし、援助なんかするのが悪いんだというふうにも、全体的状況から言いにくい問題があると思います。ここでやはりどういうふうにして、どういう援助が望ましいかということを、やっぱり考えていかなければならないんじゃないかと思うんです。原則的な批判の運動も必要だが、オルタナティブを提起するような運動も必要で、両方があるのでなければ、やはり我々の社会は健全に発展できない。我々の社会がどうなるかということは、冷戦が終われば、我々がやっぱり責任を持っていかなければならない問題だと思います。

三橋 和田さん、内海さんから問題提起を受けてのディスカッションで、戦後五○年の歴史をふまえて我々がどう行動していけばよいか、多くの示唆をうけられたと思います。長時間にわたって、有意義なお話しをうかがうことができました。以上をもちまして今日のシンポジウムを終わりたいと思います。


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