問題提起2 東南アジアから見た日本の戦争責任

内海愛子

 恵泉女学園大学教授

 私に与えられたテーマは「東南アジアから見た日本の戦争責任」で、特に女性と子どもの問題に視点を当ててということです。

 第二次世界大戦、アジア太平洋戦争にはこれまでの戦争と違った、一つの大きな特徴があります。それは、これまでにない大量の民間人を巻き込んだ戦争だったということです。広島、長崎の原爆に象徴される非戦闘員、銃後の国民が被害を受けました。被爆体験について戦後、多く語られてきました。戦争がはじまると、それぞれの国が敵国の民間人を大量に抑留したわけです。今日は、この「敵国人抑留」という視点から、与えられたテーマを考えてみたいと思います。

 日本人移民、そしてアメリカ国籍を取った日系人約一二万が、アメリカで強制収容されたことは日本ではよく知られた事実です。そしてその人たちが謝罪を要求して、議会で特別公聴会が開かれ、いわゆる「バーンスタイン委員会報告書」が出ました。一九九○年にはブッシユ元大統領の謝罪文をつけて、二万ドルの小切手がそれぞれの犠牲者に支払われたこともよく知られています。

 このような日本国民ないしは日本人の子孫が敵国で抑留されたことは、私たちも知っている話です。では、同じような問題が、日本にはなかったのか? 日本が敵国とした国は二七ヶ国を数えました。当然、敵国人の強制収容の問題が起こってきます。日本国内では内務省が担当して、敵国人の収容が開戦直後からはじまり、大使館員、それから敵性の濃厚な者と認められた人は検挙されました。スパイ容疑者の検挙もはじまりました。

 東南アジアにも日本人移民がたくさんいました。日米の雲行きが怪しくなって、ジャワから最後の引き揚げ船富士丸が一八○○人を乗せて日本にむかって航行し、台湾の基隆に入ったときに開戦になります。富士丸は日本の領海内に入っていたのでだ捕されませんでした。今の海外日本人と違って、明治・大正の頃は、海外に押し出されていった貧しい日本人が海外日本人社会の一つの中心でした。この人たちは、ジャワに上陸したときは裸一貫で、翌日から天秤棒を担いで「オイッチニ、オイッチ二」と、ジャワの村々を行商して歩いたのでした。オランダの統治下のジャワで行商から身を起こして雑貨商などの店を開いて生活を立てていました。そのような店はトコ・ジュパンと呼ばれ、今の日系企業の海外進出のように、大企業の現地社員の形で出かけていった日本人もいました。その人たちの多くが最後の引き揚げ船富士丸で帰ってきました。

 帰国しなかった人たちは開戦と同時に抑留されています。イリヤン・ジャバ(西ニューギニア)の南のアラフラ海に浮かぶアル諸島には、真珠貝のダイバーとして出かけていった人もいますが開戦と同時に抑留され、オーストラリアに送られています。この人たちの一部は、捕虜交換船で帰りましたが、敗戦までオーストラリアで抑留された人もいました。

 シンガポール、インドなどでも抑留されました。そして日本が南進をしてシンガポールやジャワを占領すると、こういう日本人が解放されて、今度はオランダ人など連合国の人びと、ジャワの場合はそのほとんどがオランダ人ですが、彼らが敵国人として抑留されます。この人たちの処遇をめぐって、日本の処遇が戦争犯罪と見なされ、戦後、BC級戦争裁判で厳しく裁かれました。私も調べてみて、ここまで厳しいものだったのかということを、改めて認識しました。バタビア(現ジャカルタ)で開かれた蘭印法廷で起訴された二○%、七四人が民間人抑留者への虐待に関与したことになっています。

 「東南アジアから日本の戦争責任を考える」というと、中国や韓国と違って、日本人の心のなかには、どこかに「アジア解放の聖戦」だったと思っている人は意外と多いのではないかと思います。総理大臣橋本龍太郎も中国に対しては侵略であったが、東南アジアに対しては違っていた、というような発言をしています。そしてよく問題になる奥野誠亮(元国土庁長官)、彼も日本だけが侵略したんではない、ABCD包囲網のなかで自存自衛のために、また欧米の侵略に対しアジア解放のために、日本は立ち上がつたんだという趣旨のことを繰り返し発言しています。今出ている『AERA』の「五○年後の現実」という記事のなかにも、陸軍中野学校のOBが、アジア解放の「聖戦」の実態についてインタビユーに応じています。

 もう一つ、最近の動きとしては、日本遺族会などのバックアップでビデオ「独立アジアの光」がつくられています。これは、日本がアジアを解放した、あの戦争の犠牲者は、アジア解放のためだった、という視点を強調したビデオです。最後はインドネシア人が、独立の英雄スカルノの銅像の前で日本の軍歌を歌う。「見よ東海の空明けて」から「愛国の花」です。「愛国の花」には「ブンガ・サクラ・桜の花」というインドネシア語の歌詞をつけて、今でもインドネシアで歌われています。こういう歌でエンディングです。このビデオのメッセージは、日本の東南アジアでの戦争はアジア解放だったことを伝えることです。

 私たちが日本の戦争責任を考えるときに、中国侵略や朝鮮、台湾の植民地支配の責任と、東南アジアの占領とがどうしてもわけて論議されがちです。そして、東南アジアについては、欧米の植民地という側面を強調することで解放の側面を強調する。それで日本の戦争責任問題からどこかで逃れようとする作用を持っている。

 一九八二年の教科書問題のときに、東大や上智大学の先生がある雑誌での座談会で、「羊を人間にしてやった。この日本の功績をもっと若い人たちに伝えるべきだ」ということを話していました。要するに、欧来の植民地支配の下に呻吟していたアジアの人たちを解放した日本、この側面を強調することで日本の若者の愛国心を培おう、そういうことを提起した人たちがいました。こうした動きの一つは、原書房から刊行された『新編日本史』という教科書になっています。

 たしかに東南アジアは、日本に占領される前に、それぞれが欧米の植民地支配下にあって、インドネシアに限って言えば、三○○年以上にわたってオランダが統治をしていました。フィリピンはアメリカの植民地でした。マレーシア、ビルマ、シンガポールはイギリスが支配しました。

 これらの地域を、資源確保のために、日本が代わって支配しようとして南進するわけですが、それまで日本の主要の敵はロシアで北進論が中心でしたから、いざ南進をしようとしても兵要地誌もない。それをつくるために急遽調査が行なわれたのですが、そこで利用されたのが先ほど言った、明治の頃から営々としてその地で暮らし、地元にとけ込んで暮らしていた出稼ぎの人たち、彼らのもたらす何気ない情報が集められ、利用されていったのです。

 例えば、この目の前にある川は雨期には増水して河幅は何メートルになり、深さは何メートルになる。米その他の収穫など、それらは重要な戦略情報ですが、こういうことは住民なら誰でも知っている。この情報が日本からの出稼ぎの人たちのなかから集められました。

 それだけでなく、インドネシアの場合はインドネシア語は共通語で、それぞれの地域では地方語が使われています。西ジャワのバンドンではスンダ語、中部・東部ジャワではジャワ語が使われている。バリはバリ語です。そういう言葉が駆使できて、日本とのパイプになれる人たちとして、戦前からの出稼ぎ移民たちが後の軍政のなかでも使われました。

 日本軍は南進にあたって、「アジア解放」のためであるとアジアの人たちに宣伝しました。一流の漫画家や画家が動員されて、伝単やビラをつくって、攻撃する地域に、マレー人の地域にはマレー語のビラ、英印軍にはヒンドウー語かベンガル語のビラを配ばる。そのビラの現物をオーストラリアの戦争記念館で見ましたが、多色刷りの実に精巧なものです。リーフレットみたいな形で、兵士が笑って銃を持っている。そして一枚開けると、その兵士がドクロになっているというようなものもありました。オーストラリア人にむけての伝単です。インド人むけとかマレー人むけ、中国人むけやジャワ人むけなど、それぞれ撒く対象によって文句も使用言語も変えた伝単を撤きながら、日本軍は南進していったのです。

 この伝単は一定の効果を発揮しました。何を日本軍が強調したのかというと、日本軍の南進はアジア解放の聖戦だ、欧米のくびきから脱して日本軍と共に立ち上がろう、と強調しています。日本の当時の軍歌のなかにたくさん歌い込まれているように、「興亜」、「アジアを興す」、これが強調されました。三好達治の子どもむけの詩にも、「アジアの空は僕らの空」という文句が歌い込まれています。中国侵略で重苦しくなった国内の空気を「アジア解放」という大義名分をうまく利用することで、戦争の性格を全く違うものとして日本人にアピールしたわけです。小林秀雄は、あの一二月八日、開戦の臨時ニユースを聞いて、今までもやもやしていた気持ちが一挙に晴れたということを書いている。侵略に「大義名分」が与えられたと言ってもいいと恩います。

 当時NHKの海外放送がアジアにむかって放送を流しています。その放送のなかには、今言ったようなことがたくさん散りばめられています。今、インドネシアの国歌になっている「インドネシア・ラヤ(偉大なるインドネシア)」という歌があります。民族独立運動の過程で民族歌として制定したものですし、白と赤のインドネシアの国旗は、民族旗として独立運動の過程で制定したものですが、オランダがこれを禁止していました。日本は放送を流すときに、留学生の提案でこの民族歌を流した。日本の「アジア解放の聖戦」のスローガンを疑っていた活動家も、東京から流されるオランダが禁止しているインドネシア民族歌に耳を傾けたと言われています。オラシダによって流刑されていたスカルノが、東京からの微かな電波に乗って流れてくる「インドネシア・ラヤ」の曲を聞いて驚愕したと書いております。後に外務大臣になったスバルジョ、アリ・シャバナ、彼は有名な作家ですけど、みんな夜中になるとオランダの官憲の目を気にしながら、「インドネシア・ラヤ」の曲に聞き入ったと書いています。

 冷徹な現実分析の上で日本の力を利用しようとしたのは、ビルマのバー・モアだったかもしれません。独立をかち取るために自分たちの力だけで闘うには、相手が強大すぎる。しかし広くアジアを見回したときに、ビルマの独立を助け、支援してくれる力はどこにあるのか。日本の意図が「アジア解放」でないことはわかっていても、当面はこの日本の力を利用しながら、自分たちの独立にむけて、努力していくしかない、こういう冷徹な戦略を練った独立運動家もいました。

 インドネシアのなかでも、日本軍の評価はわかれていました。後に虐殺されたタン・マラカ、彼は一流の革命家だと言われています。彼は、日本軍政期には身を潜めていて、日本に対して指一本協力しようとはしなかった。日本に対して徹底的な非協力の立場を貫きましたが、初代大統領になったスカルノは、日本軍政に全面的に協力しました。それぞれ戦略・戦術は違いますが、彼らが望んでいたのは自分たちの独立だったのです。

 日本の南進は石油が欲しかった、南方の資源が欲しかったためです。行き詰まった中国戦線を打開するために、どうしても石油を手に入れなければならなかったわけです。日本軍の南部仏印進駐に対し、アメリカは原油の対日輪出を禁止しました。「石油の一滴は血の一滴」といわれたときです。ではどこから石油を入手するのか。アジアの最大の石油基地バリックパパン、パレンバン、いずれも蘭領東インド、今のインドネシアです。そこが目をつけられました。

 蘭印の石油と資源、それを入手するために兵を進めました。その時に日本が大義名分としたのが、先ほどから繰り返し指摘している「アジア解放の聖戦」です。東南アジアの人びとは、日本の占領を経験するなかで「アジア解放」というスローガンの実態を身をもって知らされていきます。インドネシアでは労務者が日本軍の補充兵として徴用され、彼らは強制貯金させられた。そのお金を今返してくれと言っているわけです。そして、今ベトナムで調査が進んでいる米の強制供出もありました。これはジャワでもありました。これによって多くのアジアの人たちが飢えに苦しみました。これも事実です。

 私は一九七五年から二年間バンドンで暮らしました。そのときに必ず出てくるのは、日本軍の最も悪いことは、なぐることだと、繰り返し強調されました。それから食糧、日本軍の占領期にお腹がすいた話、布地が足りなくてゴムでつくった服を着た話、そういう話がよく出てきました。日本の占領は「アジア解放の聖戦」どころか、自分たちの資源と人員を日本の戦争の目的のために動員することだ、そういう実態を知らされるわけです。今のインドネシアの教科書には、こういう実態が細かく記述されています。

 ビルマの先ほど言ったバー・モアは実際に占領を経験するなかで、日本軍はビルマの人びとと資源を、日本の戦争のために利用しているに過ぎない、そして日本人ほどビルマ人に対して過酷な取り扱いをした人たちはいない、ということを彼は書いています。こういう日本の軍人をバー・モアは「朝鮮派」と呼んでいます。

 「朝鮮派」とは、日本軍は朝鮮を植民地支配して、そしてそこで好き勝手やりたい放題のことをやった。こういう軍人のことを「朝鮮派」と呼び、その朝鮮派が同じことを、またビルマでやろうとしているというのです。

 ですから、アジアの人たちは、当初「アジア解放の聖戦」という言葉を新鮮な驚きとそれを疑いながらも、歓迎した側面がありました。インドネシアでは日本軍が上陸したときは、多くの民衆が歓迎しました。しかし三年半の占領を経るなかで日本軍の意図を見抜いていきます。ビルマでもインドネシアでも、日本軍が養成した軍隊が反日、抗日反乱を起こしています。それも一九四四年から四五年へと戦況が悪くなるなかで、支配が過酷になり、人心が離反していったのです。

 同じ宣伝は、日本人の心を掌握するために内閣情報部がやっていきます。一九四五年に公開された『桃太郎海の神兵』というアニメーションがあります。これは実によくできたアニメーション、桃太郎は言うまでもなく日本人です。南の島を角を生やした白い鬼が占領している。これを桃太郎の軍固がやっつけて、アジアを解放するというものです。五○年前の敗戦の間近に、こんなものが日本でできたのかと思うくらい技術的に良くできています。このなかで少年たちにどういうメッセージを伝えているかというと、桃太郎は正義の味方です、白い鬼が人びとを苦しめている南の島を攻めていって、落下傘で降下して、その鬼どもをやっつけた、そしてアジアの人たちを解放した。最後に軍団の猿の弟が村で遊んでいる場面で終わりですが、小猿が木の上から飛び降りる、その下の地面にはアメリカ合衆国の地図が書いてある。アジア解放をした日本は、アメリカをやっつける、ないしは占領することのメッセージなのかも知れません。

 この『桃太郎海の神兵』に代表されるような映画、漫画、ポスター、雑誌、こういうものがふんだんに子どもたちに与えられていました。そのなかで日本の東南アジアへの出兵は、アジア解放のための良い戦いだったという思いを子どもたちに植えつけていく。大人もまたそういう宣伝に身をさらしていました。ですから、永野茂人法務大臣(当時)が「アジア解放の聖戦だった」と発言して、大臣の座を追われましたが、彼の年代のなかには当時の教育、徹底的に情報が制限されたなかで擦り込まれたものの見方や考え方、今の言葉で言うとマインドコントロールされ、それが解けずに来ている人もかなりいるようです。もちろん、永野さんは彼の歴史観をもっての発言ですが……。

 敗戦後、日本人のこのようなアジア観・戦争観がどの時点で総括されたのか。さきほど和田さんが東京裁判の話をしました。東京裁判で日本の侵略の責任が裁かれたことは言うまでもありません。しかし、東南アジアにおける日本の侵略と戦争犯罪はどのように裁かれたのか。日本の敗戦が八月一五日、八月一七日にはインドネシアが独立を宣言しました。ベトナムでも独立を宣言しています。かつての「大東亜共栄圏」全域に広がった日本軍の武装解除に連合国が乗り込んできますが、インドネシアには、イギリス軍、英印軍がやってきます。日本軍はイギリスに武装解除され、その後に乗り込んできたオランダの戦争裁判をうけます。インドネシアは独立戦争に入り、オランダからインドネシアに主権が移譲されたのは一九四九年の一二月でした。

 先ほど、アジアは三○年間戦火のなかにあったと言いました。インドネシアもオランダが完全に手を引くまでの四年あまり、基本的にオランダが再占領していました。そして日本軍の戦争犯罪はオランダが裁いています。今のインドネシア全域を再び武力制圧したオランダ軍が、日本の戦争犯罪を裁いたのです。インドネシアの人びとが日本の占領期に被った戦争犯罪がどれだけ裁けたのか、疑問があります。何しろインドネシアはオランダと熾烈な独立闘争をやっているわけですから、オランダがインドネシア人への戦争犯罪を裁けるはずもありません。インドネシアにいたオランダ人への日本の犯罪、これを裁いたのがオランダのBC級戦争裁判でした。

 ではオランダやアメリカ、イギリスは、日本の戦争犯罪のうち何を最も重視していたのか。これはポツダム宣言の第一○項にあります。「我らの捕虜を虐待せる者を含む、あらゆる日本の戦争犯罪はこれを厳しく裁く」。アメリカもイギリスもオランダも、数ある日本の戦争犯罪のなかで自国民に対する戦争犯罪は厳しく裁く。ベトナムではフランスが戦争裁判をし、マレーシアやシンガポールではイギリスやオーストラリアが戦争裁判をやっています。フィリピンで戦争裁判を最初にやったのはアメリカで、そのアメリカのマニラ法廷を引き継いでフィリピンが後に戦争裁判をやっています。

 こういう戦争裁判のあり方ですから、日本の植民地支配が厳しく裁かれることは東京裁判を含めてありませんでした。さきほど和田先生が非常に体系的に述べられたので付け加えることはありませんが、東京裁判、BC級戦争裁判を通じて裁かれなかった日本の戦争犯罪、これは植民地問題です。そしてそれだけではなくて、日本の旧植民地の人びとが「日本人」として裁かれている。それが今、私がこだわっている朝鮮人のBC級戦犯であり、台湾人の戦犯です。

 日本が南進したジャワには、たくさんのオランダ人がいました。三○○年余にわたる支配のなかでジャワ生まれのジャワ育ちのオランダ人で、本国に生活の根拠を持たない人たちです。またオランダはナチに占領されていたので、引き揚げる地を持たなかった。このため日本が占領したジャワ、スマトラには合わせて一○万近くのオランダの民間人が暮らしていました。青年男子は軍隊に取られていましたから、女性と子どもと老人たちです。あまりにも大量の民間人なので、最初のうちは日本軍も全部は収容しませんでした。しかし、一九四三年の後半から四四年にかけて、ジャワでも防諜上の問題からそれまではゆるやかに抑留をしていた女性や子ども、全部軍抑留所に収容することにしました。

 ジャカルタとバンドンとスマトラに抑留所をつくつて、そこに女性と子ども、老人を隔離していきます。この大量の民間人を、誰が管理するのか。それでなくても兵力が足りないので、日本軍はインドネシア人を兵補という形で集めてきます。日本人将校と下士官では、一○万からの人たちはとても抑留できません。そこで、捕虜収容所の監視員として集められた朝鮮人がここにふりわけられました。日本人の下に朝鮮人軍属が勤務させられます。それでも足りないのでインドネシア人の青年三○○○名を集めて、この抑留所の警備に当たらせました。

 こうやって抑留所にオランダ人をはじめ敵国人を隔離しましたが、隔離したら食べさせなければいけない。食べれば排泄する、病気にもなります、この管理が大変です。そしてさきほど言いましたように、ジャワは食糧が不足していました。主計将校が抑留所の食糧を取りにいくと、日本兵ですら食うものが無いのに、なんで敵国の女や子どもを食わせなければいけないんだと言われたと言います。そういうなかで実際には一日二食、片栗粉を水で溶いたもの、そして一回くらいは茶碗一杯くらいのご飯が出る。こういう食事が二年近く続く。敗戦間際になると、弱い人から死んでいきます。

 インドネシアのスマトラには、飛行場の脇に実に整然とした墓地があります。日本軍の抑留所で死んだ約四○○○人近くの十字架です。子どもの十字架は小さく、女性の十字架は花柄をあしらったようなもので、一人ひとりの名前、生年月日と死亡年月目が刻んでありました。その十字架を見て歩いたときに、抑留されていた敵国の女性や子どもたちの問題を真剣に考えはじめました。

 ナチの収容所、アンネ・フランクの話は皆よく知っています。しかし同じように日本軍の強制収容所のなかで少年や子どもたちがどんな思いで暮らしていたのか、ほとんど私たちには知らされていません。彼らのなかには収容所症候群に悩んでいる人もいます。自分の目の前で母親とか老人が殴られるのを見て、彼らにとって日本軍というのはナチに匹敵すべき憎む存在として、日本人を許さないできた、ということを手記のなかに書いています。こういうひどい収容所の生活で、ジャワだけでも、約一割の人たちが敗戦前に死んでいます。解放された人たちも心身に多くの障害を負っていたと言われています。イギリスの将校が出した東京裁判の証書に民間人の抑留所を解放した時にアウシュビッツだと感じたとあります。そのぐらい状況はひどかった。ですから当然、こうした日本軍による民間人の抑留はオランダの戦争裁判にかかっていきます。

 オランダのバタビア裁判の起訴状を分析してみました。バタビア裁判で何が一番多く裁かれたのかと言うと、捕虜収容所の軍抑留所関係者と憲兵です。すなわち連合国の捕虜と抑留者、これを虐待した人たちの裁判が中心にありました。捕虜と抑留者の収容所は日本人と朝鮮人が管理運営していて、インドネシア人がその下に組み込まれていました。しかしオランダは、インドネシア人は自国の植民地人だから戦争裁判の対象にしませんでした。朝鮮人と台湾人は日本の植民地の人間として「日本の臣民」のカテゴリーで裁かれました。戦争裁判のなかで、日本軍の戦争犯罪一般が裁かれたのではなくて、捕虜・抑留者に対する虐待問題が中心でした。

 日本のBC級戦犯たちも自分たちの責任を感ずるよりも多くの場合、その裁判の不当性を訴える、こういう論調が戦後主流でした。これは戦争裁判のあり方と同時にその裁いた主体がアジアの人びとではなくて、旧宗主国すなわち欧米人だった、このことによる不満があります。もちろん人種差別もありました。

 私は日本のアジアに対する侵略、占領、植民地支配の問題は、私たちの手で事実を調べ、問題を考え、その責任を果たしていかなくてはいけないと思っています。五○年で終わったのではなくて、五○年でやり残したことを、これからもコツコツやっていかなくてはいけない。これが今の日本の問題ではないかと思います。


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