part 1日本の戦争責任と東アジア

1995年10月27日 和光大学Jホール


問題提起1

日本の戦争責任を考える

和田春樹 東京大学教授

 和田でございます。和光大学にとりましても、また日本の国民にとりましても、非常に記念すべき年の記念行事に招いていただきまして、お話しをする機会をいただいたことを光栄に思っております。私にあたえられたテーマは「日本の戦争責任を考える」というものですが、考えるべき論点をいくつかあげて、私の考えを述べさせていただきます。

 戦後五○年は言うまでもなく、われわれ日本の国民にとっては「平和の五○年」であったと思います。この間に、日本人は戦争において一人も外国人を殺していない、そして一人の兵士も殺されていない。こういう状態で五○年を過ごしてきました。若い方にとっては、それは当り前のことかも知れませんが、実はこれは、近代日本の歴史にとっては大きな変化です。

 戦後五○年の前の五○年と申しますと、遡りまして一八九五年から一九四五年までですが、一八九五年は日清戦争が終わった年です。日清戦争は朝鮮の地で日本と中国が争いましたので、これは場所から申せば最初の「朝鮮戦争」であったと言えます。その一八九四年からの戦争から一九四五年の日本敗戦まで、実に五○年間は絶え間ない戦争の歴史でした。日本のアジアに対する侵略の歴史と言ってもよろしいかと思います。

 この五○年間に日本はロシアとは四たび、重要な戦争を戦っております。中国とは「満州事変」以降の一五年間は連続して戦争しておりましたし、朝鮮については五○年のうちの、三六年間は植民地として支配しているという状態でした。アメリカとは一回だけですが、非常に重要な決定的な意味を持つ戦争を行ないました。戦後五○年、平和の五○年とそれまでの五○年、戦争の五○年とはきわめて対照的であり、この変化は巨大なものでありました。

 私は、戦争が終わった時に、国民学校の二年生でした。私の子供時代に描いている絵は、すべて戦争の絵でした。飛行機が宙がえりになって敵を攻撃している絵とか、将軍の絵とか、そうでなければ侍の絵とか、そういうものばかり描いていたんです。戦争が終わるとともに、そのような絵はまったく描かなくなりました。

 このような変化を、国民が望んだということは明らかであります、しかし同時に、このような変化を支えた条件は何であったのか、ということをよく考えてみる必要があると思います。戦後の日本の平和の五○年というものは、実はアジアにとってはそうではなかったということがあります。アジアにとって、この五○年の前半三○年は戦争の三○年でありました。

 日本の降伏後、しばらくしてから中国の本土で国共内戦が起こりました。内戦と言えば小さい戦争に見えますが、中国の全土にわたって深刻な戦争が行なわれたと言えます。そしてつづいて一九五○年には朝鮮戦争がはじまりました。朝鮮戦争は最初は南北の内戦でしたが、それは直ちに米中戦争に転化いたしました。インドシナ戦争はすでにはじまっており、一時中断後ベトナム戦争になったわけです。共産主義者と反共産主義者の戦争がここでは第二次大戦後も三○年にわたって続きました。

 ベトナム戦争が一九七五年に終わって、カンボジアでの戦争は続きますが、アジアにおける大きな戦争はこれで基本的に終わります。しかし、米ソ冷戦はさらに一五年続いて、一九九○年までに終わったのです。

 日本は平和であったが、アジアは戦争であった。そのアジアの戦争と、日本は隣合わせで結びついて存在していたという条件、それが日本の戦後を考えていくのに決定的なものとなります。日本との戦争は五○年前に終わりましたが、アジアはその戦争の意味を深く考えるということを、その後三○年間行なうことができなかったわけです。ですから、アジアは三○年の戦争が終わってから、日本との戦争を本格的に考え、問題を提起するようになった。それまでは、日本はアメリカの鎧と袖の下に隠れて過去の問題というものから逃げることができたということです。

 第二に戦争の終わり方ということを考えてみる必要があると思います。ドイツと日本が非常に違っているということが言われています。例えば戦争貴任とか戦後補償という問題について、ドイツは立派だが日本はなっていないというふうに言われます。これは確かにそういうふうに言うことが出来ると思いますが、ドイツと日本とは、戦後のでき方が非常に違うということも考えてみる必要があります。

 ドイツはご承知の通り、今日もナチの戦争犯罪に時効を中断して追及しています。過去というものを厳しく裁き得ている国家ですが、しかし現在のドイツ国家というものは、戦争を行なったナチス国家の瓦解の後に生まれたものなのです。ナチの国家とは断絶した国家であるということを見なければなりません。

 ナチス・ドイツでは、ヒトラー政権が首都で決戦を行ないました。そして首都・ベルリンはソ連軍によって攻撃され陥落いたしました。ドイツの国会議事堂の上にソ連軍の赤旗が掲げられたのは有名なシーンです。そしてヒトラーは首相官邸の地下室で自決するということになりました。これをもって、戦争での完全な敗北を通じて、ドイツ国家、ナチス国家というものは崩壊することになったわけです。

 もちろんナチス党も崩壊しました。重要なことは、ドイツの官僚制度というものに対しても相当大きなメスが入ったということです。ソ連軍の統治下かアメリカ、イギリス、フランスの占領下か、それぞれわかれて政策がとられていますから複雑ですが、官僚層は組み替えられたわけです。

 そして旧ナチス党員であったものは、もちろん徹底的に追及されたわけです。しかし、もちろん七五%の官僚を解雇しては行政がうまくいきません。そこで再雇用が行なわれたということです。したがって専門家は、ドイツにおいても官僚制は資本主義と同様に戦前戦後連続していると申しています。しかし私は、七五%もの人が解雇され、そして再び雇用されたという点において大きな変化があったと見ています。ナチスを支えた官僚制には、大きなメスが入ったと見るべきではないかと、見ております。ナチの戦争犯罪を裁くということは、戦後ドイツ国家にとっては一種の革命裁判であったわけです。新しい国家はナチス国家とは関係がない、つまり戦後のドイツ国家はナチが統治した一三年間を決定的に否定するということになりました。ドイツ史のなかから、この一三年間を完全に否定するということが戦後のドイツ国家の前提でした。

 それに対して日本はどうでしょうか。日本では、戦争をはじめた天皇制国家が降伏することによって戦争を終わらせたのです。そのまま米軍の占領下に、新憲法の制定を中心とした民主化改革を進めたわけであります。基本的に同じ国家がやりました。なぜそうなったかと言えば、ここでは本土決戦が回避されたということが決定的です。いわば玉砕が回避されたのです。玉砕を回避するときのロジックはもちろん国民の命を救うということでありますが、もう一つは「国体の護持」です。ポツダム宣言を日本政府が受諾したときの条件は「国体の護待」という意思表明でした。もし日本が本土決戦を行なっていれば、アメリカ軍が最終的には東京まで攻め込んで、国会議事堂の上に星条旗が掲げられたでしょう。だから本土決戦を行なえば、天皇制はなくなり、日本の戦前からの国家体制が変わったであろうと考えます。

 天皇制国家は玉砕を回避しましたが、この決断を日本の国民は支持しました。当時私は子供でしたが、本土決戦なく戦争が終わったということは非常にありがたいことだと思っていました。あのような戦争の終わり方はありがたいことだというふうに国民の誰もが考えてきたのですが、実はあの戦争の終わり方は、それまでの国家秩序を存続せしめる終わり方であったのです。その意味で、私たちは古い国家秩序が残るということを受け入れているわけです。

 ドイツの作家のプリヴィエは、第一次世界大戦後のドイツについて『カイザーは去ったが将軍たちは残った』という小説を書いています。このいい方で言えば、日本の戦後については「将軍たちは去ったが天皇は残った」と言えます。もう一つ、「軍隊はなくなったが官僚は残った」ということです。軍隊は戦争の全責任を負わされて完全に否定されました。それが憲法九条です。天皇は残ります。象徴天皇制として残ったことはいいとして昭和天皇が退位しなかったということは決定的です。そのことは、日本の戦後の歴史にとって非常に大きな問題としてのしかかっています。我々の歴史にとっても、やはり大きな問題点であると言わねばなりません。

 追放措置が占領下に厳しく行なわれました。一六万七三五○人が追放されています。しかし官僚は一八○九人しか追放されていません。うち警察の幹部が一二一九人追放され、さらに特高警察と思想検事が三五六人追放されておりますから、それを差し引きますと、残りは二三四人であります。普通の官僚で追放された人は二三四人、各省のだいたい次官、局長までです。

 戦後の日本国家にたいし、連合国はどのような歴史を反省せよと迫ったかと言いますと、カイロ宣言を出して、日清戦争で奪った台湾を返せと主張していますので、一八九四年の戦争から考え直せと迫ったと考えることができます。カイロ宣言はまた、朝鮮の独立を認めております。朝鮮の奴隷状態は解消しろと言っております。日本政府はそれを受け入れています。

 極東裁判の方はどうかというと、極東裁判はご存じのとおり、「満州事変」以降の日本の歴史を否定しました。日本の政府はこれを受け入れております。

 一般的には、日本の政府自身が戦争責任を考えるということは、戦後非常に不十分にしか行なわれませんでした。例外的にそういうことが議論されたのは、一九四五年敗戦の年の秋、幣原首相が「戦争責任は全ての人にある」というようなことを言ったときです。当時国会ではだいぶ議論がありました。「戦争の責任は東条と近衛にある」とか、あるいは「軍部と官僚にある」とか、いろいろな議論が出たわけですが、一九四五年一二月一日、二つの決議案が議会に提出されました。一つの決議案は鳩山一郎の自由党が提出し、社会党も支持した「議員の戦争責任に関する決議」です。もう一つは、多数党である進歩党が出した「戦争貴任に関する決議」です。鳩山一郎たちが出した決議案の趣旨はこうです。戦争責任はみんなが考えていかなければならない。しかし議員がまず考えなければならない。戦時議会の指導者だった者は責任をとって進退を決めろ、というものです。議員として戦争責任を考えて戦争責任がある者は辞任しろという決議案でした。これは何を意味しているかというと、進歩党の面々は辞任しろということです。

 これにたいして進歩党の案は、戦争責任というものは無謀な戦争を起こして世界平和を撹乱した責任を考えるのと、戦争中俘虜を虐待するような、そういう刑事責任を考えることの二種類があるとしています。いずれにしても国家がやったことだから一般国民は関係ない。そういう責任は軍閥、官僚にある。そして軍閥、官僚のほかに、そういうものに追随して戦争を煽った政界、財界、思想界の一部人士に責任がある。我々立法府議会をあずかる者は静かに過去の行動を反省し、深く自粛自戒し新日本建設に邁進しなければならない。つまり我々は辞任しませんというのが進歩党の結論でした。

 国会では、この進歩党の決議案が採択されました。一二月一日のことです。その全過程を通じて、天皇の戦争責任を言う人は国会に一人もいなかったのです。

 これは一九四五年の帝国議会でも、これらの人たちはやがて選挙で入れ替わっていきます。戦後の日本の政治を担ったのは戦争中からつづいた官僚でした。官僚層のなかから政治家が出てきて保守本流を形成いたします。代表的なのは吉田茂です。外務省、大蔵省はほとんど手つかずで、わずか数人の大臣などが戦犯になったり、追放されたにすぎません。

 吉田茂たちの官僚が戦後の保守本流になりますが、その意識は、「満州事変」ないしは「日華事変」ぐらいからまずかったというものです。もちろん太平洋戦争もまずかった。そして軍国主義もまずい。軍国主義の復活は防がなければならない。だいたいこういう考え方です。

 最近評判の瀬島龍三氏の『幾山河』という本を読んでみましたが、瀬島氏は大本営参謀でしたから、これは官僚とは違います。しかし、戦後に生きてあれだけの仕事をした人ですから共通性があるわけです。瀬島氏の考えは、「満州事変」で止めておけぱよかった、それから後、「日華事変」からがまずかったということです。こういう考え方で戦争を反省した人が官僚のなかにかなりいたということで極東裁判からしても、一九三一年以前は問題がない。それは日本にとっての栄光の歴史である、日清、日露戦争からそして二一ヵ条まで、これらを含めて問題はない。朝鮮の植民地支配、台湾の植民地支配などはまったく問題はない。これが保守本流の考えです。吉田も池田もそれから久保田発言の久保田も、みんなそうです。

 これに対して官僚の傍流がありました。代表者は戦後に追放された人です。その代表は言うまでもなく岸信介、賀屋興宣、椎名悦三郎といった人たちです。岸も賀屋も東条内閣の閣僚で、岸は復活して首相になり、賀屋はやはり法務大臣になりました。椎名は外務大臣になりました。椎名は岸商工大巨の次官です。その人たちが復活できたということは、天皇が責任を取らなかったことと関係があります。天皇が責任を取っていれぱ、この人たちは復活できなかった。しかしこの人たちは復活した。彼らの考え方は、戦前戦中と何も変わっていない。基本的には、日本が近代にやってきたことはすべてアジア解放のためである。日本はアジアの盟主としてやっていかなければならない。かつてもそうだったしこれからもそうだ、こういう考え方です。こういう人たちが保守の傍流として存在する。こういう構造になります。これが日本の戦争の終わり方ということです。

 それでは戦後処理はどうなったのでしょうか。サンフランシスコ条約が一九五一年に結ばれますが、重要なことは、その講和条約のどこにも日本が侵略の罪を犯したというようなことは書かれていないことです。前文にもいっさいそのようなくだりがありません。ただ結果的に戦争で獲得した日本の領土が取り上げられるということがありますし、賠償義務も明記されました。ところがこの賠償の義務は、一応平和条約第六条に明記されておりますが、直ちに日本の現在の資源が完全な賠償を行なうには充分でないということが認められています。したがって、日本が被害を受けた国の意向によってサービス賠償をする、それから日本が連合国に残してきた財産は没収される。それらを除いては、連合国はすべての賠償請求権を放棄する。結局のところ賠償は免除する、という内容でした。これがサンフランシスコ条約です。

 ですからサンフランシスコ条約はアメリカを中心とした欧米諸国にとっては、これでなんとかがまんするというものです。もちろんオランダ人とかイギリス人とか、捕虜時代に虐待された人たちはいろいろ不満を持っていたんですが、とにかく冷戦下で日本を経済的に復興させなければならないということですから、アメリカの言うとうり、みんなそれでよいということになりました。

 不満なのはアジアです。アジア諸国ではインドネシアは条約に調印しましたけど批准しませんでした。フィリピンは、賠償を払わないというなら、条約の批准はできないという態度でした。ビルマは条約が不満だから、講和会議に参加もしなかったのであります。したがって、これらの国々とは別個に賠償協定が結ばれることになります。

 さて、そこへいくまでに、五○年代の半ばくらいまでかかります。その間にサンフランシスコ条約に基づいてアジアに対する日本の戦後の責任が問われた交渉がありました。それは台湾の国民党政府との交渉です。日華平和条約の交渉でした。中国の内戦に敗れて蒋介石の国民党政権が台湾に逃げ込んでいく。その台湾の政権とアメリカの要求で日本は平和条約を結ぶ交渉を行ないます。これは日本はやりたくなかったわけですけど、それをやることになりました。

 この交渉の全権に、吉田は河田烈という人を派遣します。河田という人は台湾拓殖会社の社長でした。台湾の植民地統治を経済的な面でしていた社長をこの交渉に派遣しました。この交渉において、日本側の態度はきわめて厳しいものでした。

 中華民国側はサンフランシスコ条約と同じ条文で平和条約を結びたいと提案しました。すなわち前文においては日本の侵略について触れないが、日本には賠償の義務があることは明記する。しかし日本の経済的状態は賠償を払えないということを認める。したがって日本は役務賠償、サービス賠償だけを行なう。こういう中華民国の提案に対して、河田全権は厳しくそれに対抗します。

 「貴案の規定では、必然的に片務的に一方的に我が方に義務を負わせるかたちになっている箇所が目立つ。したがってサンフランシスコ条約の敗戦国に対するきわめて制裁的な規定が多数今回の条約に盛られていることに対し、わが国民は非常に失望を感じる。わが国民のなかには、この条約交渉にたいして必ずしも賛成の意見がないということを考えると、条約の内容はできるだけ我が国民感情を刺激しないようにしてほしい」

 つまり賠償の義務があるというようなことを条約に明記することは、日本の国民感情を刺激するから好ましくないというのです。こうして中華民国に対して、日本政府代表は賠償の義務を拒否する態度をとりました。さらにサービス賠償もあなたがたの国の経済状態では意味がない、資金がなければ労働力を持っていっても意味がない、といってこれも拒絶しました。こうして日華平和条約交渉は、附属議定書のなかに、中国側は日本に対する友好のためにサービス賠償も求めないという一項を入れて終わるわけです。

 もちろんそういうふうになるについては、中国側は相当に不満を持ちました。全ての連合国のなかで中華民国は対日戦争をもっとも長く戦い、もっとも甚大な損害を被ったのであり、人民が受けた負担も最大であることは認定されなければならない。したがって日本国は、サンフランシスコ条約で認めたように、日本が引き起こした損害と苦痛に対して、中華民国に賠償を支払う義務を認めるべきである。こういうふうに交渉のなかで主張しています。

 しかし、この意見にはまったく耳を傾けなかったわけです。日本のなかには、蒋介石総統の寛大な心によって中華民国側は賠償を放棄してくれたという神話がつくられたのですが、実は、中華民国が要求したものを全面的に日本が拒否した結果であった。このことが後の北京の中華人民共和国との交渉に影響することになるわけです。

 一九五二年の段階で、日本はアジアにむけて過去の侵略戦争を反省する、それにたいして賠償を進んで払う、というような態度を全くもっていなかったということがこれでわかります。

 さて、一九五二年には台湾と同時に大韓民国とも交渉が開始されております。日本側の態度は台湾と韓国も同じようなものだから、すぐ妥結するであろうというものでした。台湾とは数力月の交渉で妥結したんです。韓国に対しても、なんとかなるだろうと甘く考えていました。しかし李承晩大統領の大韓民国政府は日本に承認してもらって、国を支える必要など毛頭ないと考えていました。それで大韓民国は一三年間にわたって日本との交渉を引き延ばし、抵抗するわけです。このプロセスにおいて、いわゆる「久保田発言」事件が存在します。日本は植民地支配において朝鮮に恩恵を与えたので、韓国側が請求権を主張するなら我々の方も請求権を主張する、という主張でした。結局一三年たった一九六五年に日韓条約が調印されるわけですが、これにはいろいろな条件があります。新しく韓国に生まれた軍事政権としては経済建設のために資金が必要である。それからベトナム戦争に韓国軍が出兵するということがあるので、これをバックアップするためにアメリカが強く日韓条約妥結を望んでいたということもあります。もうこれ以上延ばせないということで、ある意味では韓国側としては泣く泣く調印に踏み切ったということです。当時の朴正煕政権としても、満足すべきものとしてこの条約で妥結したわけではありません。

 日韓条約の妥結のしかたは、日韓双方の対立した意見をそのまま生かすような条約をつくったということです。つまり、条約の文書を英語でつくっておいて、日本側、韓国側はそれを自分の都合のいいように翻訳して、都合のいいように解釈をするということで、それぞれ自分たちの主張を通すという形で妥結したわけです。もっとも重要な部分は、今日大きな問題になっている第二条の問題です。

 日本と韓国が新しい国交樹立の条約を結びますから、旧条約は無効であると宣言する必要がありました。日本と大韓帝国の間に結ばれた旧条約の無効を宣言するというのが第二条です。つまり日本と大韓帝国との間に結んだ最後の条約は一九一○年の条約でして、これは日本が大韓帝国を併合する、あるいは大韓帝国の全ての統治権を日本の天皇に与えるという条約でした。この条約を無効にする、併合条約を無効にするということは、もちろん日本も韓国も同意する。問題は、いつから無効であったかという問題でした。暴力をもって強制された条約は最初から無効であった、というふうに韓国側は主張しました。現在形で書かれ、過去に遡って無効であるということを表わしています。

 日本側はどう考えたか。併合条約というものは双方の自由な意思で結ばれた条約であるから、有効であった。その条約は、韓国が独立するまで、一九四八年八月一五日まで有効でありつづけた。日本の植民地支配はその有効な、納得づくで結ばれた条約に基づいた合法的なものであった。したがって条約は、いまや無効になった、ということで、英文で現在完了形にしたいと主張したのです。これが正面から衝突して、意見が合いません。それでとうとう、現在形にalreadyという副詞を入れて、双方がそれぞれ都含のいいように訳し分けるということを可能にしたわけです。韓国側は、基本的にalreadyを無視しました。日本側は、alreadyが入っているから、過去に有効であったものが、既に無効になった、と解釈しました。

 批准国会で韓国総理は、「精神的、理念的主権回復の方法はただ一つ、侵略者である日本をして自ら過去のすべての侵略手段として利用してきた条約を無効化させ、それを確認させることをおいてはない」、「そこで政府は、日本との基本条約を通じて全ての旧条約を無効化させるのに最大の努力をした。ついに政府の初心を貫徹した」と述べました。

 これに対してわが国の佐藤首相は、批准国会で「条約であります限りにおいて、これは両者の完全な意思、平等の立場において締結されたことは、私が申し上げるまでもありません。したがいまして、これら条約はそれぞれ効力を発揮してまいったのであります」と述べております。正反対の評価、正反対の解釈を許容する、認め合うという形でしか、一九六五年に日本と韓国は妥結にたどり着くことができなかったということであります。

 つまり一九六五年、戦後二○年になりましても、日本国家には過去の植民地支配を反省するという気持ちはない。韓国はベトナム戦争に出兵しようとしているときであります。取り込み中です。日本はその状況に乗じて、過去は反省しないということを貫いたわけであります。それから三〇年、この条約はこのように解釈がわかれたままです。

 この状況が変わったのが、一九七二年の日中共同声明においてであります。当時アメリカとしてはベトナム戦争で勝てないことがはっきりした。そこでアジアの共産主義の中心だと考えられてきた中国と和解しようという考えに至ったわけであります。それがキッシンジャーの訪中、ニクソン訪中になっていくわけですが、日本政府もこれに乗り遅れるなということで、田中内閣が日中国交樹立にむかうわけであります。

 中国はこのとき、台湾と日本が結んだ日華平和条約を破棄させる、というふうにしなければならない。破棄させるためには賠償を請求することはできない。したがって中国側の方から賠償請求は行なわないという条件を出します。それによって日本側は日中国交樹立にむかうわけです。一九七二年の九月に田中、大平両氏が北京を訪れて交渉の最終段階に入ったわけです。そこでついに、「日本国は過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を感じ、深く反省する」という一句が共同宣言に入りました。実に戦争が終わって二七年経ってはじめて、日本国家はこの一句を発したということです。しかし中国は、それを日本に言わせるために賠償を放棄するということを言わざるを得なかったのです。

 つまりアジアにおける戦争、アメリカとアジア共産主義との戦争は終わろうとしている。アメリカとしては、ずっと敵視してきた中国と和解する方向にむかおうとしている。その段階で日本にむけて中国の声が発された。日本としては、それを聞き入れるということになる。日本が変化するということになっていくわけです。一九七五年にベトナム戦争が終わって、アジアにおける三○年の戦争が終わります。それ以後は、アジアの諸国は自分たちの過去を考えて、日本との関係を考えて、日本に対して歴史的要求を提示するようになりました。日本が過去を直視していないということに対する不満が爆発してくるわけです。

 最初の爆発は一九八二年の教科書問題です。日本の歴史教科書から侵略という言葉が消えたということで、それに対する厳しい批判が中国と韓国から寄せられました。日本政府は宮沢官房長官の名で談話を発表します。「日本は過去において、我が国の行為が中国や韓国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、そのようなことを二度と繰り返してはならないとの反省の上に立って、平和国家としての道を歩んで来た」。ずっとそういう考えだったと言っていますが、このときはじめてそういうことを表明したのです。

 それから八二年以降、韓国の大統領が来るたびに、日本側の謝罪の言葉、謝罪の表現が問題になりました。東南アジアを日本の首相が訪問しても、やはりそのようなことが問題になります。そういうなかで戦後補償問題が次第次第に提起されるようになって、一九九○年に従軍慰安婦問題がついに明らかになりました。その前に、一九八二年には七三一部隊の問題が日本人の前に本格的に提起されます。七三一部隊問題は、極東裁判でも完全に免罪、免責されております。ソ連が一九五○年に七三一部隊の問題を戦争犯罪として共同で裁くように連合国に提案しましたが、これは無視されました。日本の国民も一九八二年に、森村誠一氏が『悪魔の飽食』を書くまで、この問題について充分な認識がありませんでした。戦争に行った日本人なら誰でも知っていたはずの従軍慰安婦の問題が一九九○年にはじめて、このとき日本の社会で問題になる。こういうふうに経過してきたわけであります。

 さて、ここで戦後五○年の選択ということになります。戦後五○年の選択がどういうふうになされたかということは、もう我々の目の前で行なわれたことですから、あまり詳しく申し上げる必要はないかと恩います。戦後五○年の国会決議が提案されて、これが実現されることになりました。その内容はきわめて貧弱なものになったということで、批判があります。

 国会決議をめぐってこれに抵抗する力、さきほどの保守傍流の力というものが前面に強く出てきたという感じがします。しかし、この保守傍流の力は歴史的な流れから見れば、それに逆行する力だったと思います。しかし、その力が自由民主党全体にあれほど大きな影響を及ぼしたということは、我々にとって少々驚きであったわけです。国会決議というものは、これによつて大きく妨げられました。

 しかし私が思うに、国会決議は非常に不十分なものではありますが、日本が過去において侵略的な行為と植民地支配を行なったことを認めて、そしてそれがアジア諸国民に多大な苦痛を与えたということを認識して、そして反省の念を表明する、ということを明記したことは意味がありました。さらに日本国憲法の恒久平和の理念というものに則って、共生の努力を果たしていくというふうに表現したことも意味があったと私は思います。ですから非常に不十分ではありますが、国会決議は意味があったと私は見ております。戦後五○年の日本の国家と国民の、いわばこれが水準であるということを受け入れなければなりません。ここから出発しなければならないのだと考えます。

 従軍慰安婦問題について、政府が進めたアジア女性基金については、私も関係している者の一人として申します。いろいろご意見もあろうかと思いますが、これまた被害を受けた個人に対して謝罪をして償いをするということは、日本の政府がかつて行なってこなかったことであり、政府がこの方向に進み出したことは紛れもない一歩前進であると私は思います。問題は、その前進をさらにもっと広げていけるかどうかということです。

 平和祈念館も問題になっています。平和祈念館は厚生省が日本遺族会のために考えたものです。そうとうな批判が集まり、頓挫しておりましたが、現在、遺児記念館に変えて遺族会が管理するという形で実現させようとしています。戦後五○年という年に、このような形で戦争博物館に類するものを考えてよいのか、ということは大きな問題として存在していると思います。

 最後に日韓条約の改善問題があります。国会決議につきましては、一九八四年に最初に「朝鮮植民地支配を反省する国会決議」の提案がありました。私もそれに加わったわけでございますが、そのときの内容は、日韓条約と日中共同声明との間の落差を埋めなければならない、一九六五年と一九七二年の落差を埋める必要があるという観点です。

 したがって、日本の国家として植民地支配を反省するという態度を確立する必要がある。もし国会においてそれが確立されたならば、日韓条約の第二条の解釈を韓国側の解釈を採用して統一する。そして日朝国交交渉を提案する。そういうふうに三つがセットになった提案です。今日もこの問題は引き続きセットになった問題です。国会決議が採択されたら、日韓条約の解釈の統一問題というものが提起されなければならないわけでして、それは日朝国交交渉と不可分の関係にある。

 私が思うに、日本の戦争責任問題というものは非常に深刻だと思います。ドイツよりもはるかに深刻です。ドイツでは一三年間のナチス支配を否定すればよい、ということでした。しかし我々は、少なくとも戦争の五○年を反省しなければならない、と迫られているのです。少なくとも、朝鮮併合以降は完全に反省の対象となっている。そして明治維新から八・一五までは七五年くらいになるんですが、そのうちの五○年が反省の対象だというと、いったい日本の近代の歴史をどう考えたらいいのか。非常に深刻になるのです。

 自分たちの近代の歴史とに対して、日本の国民として誇りを持つということが必要だと私は思いますが、誇りを持ちながら、なおかつ自分たちがアジアに対してしてきたことを反省する、そういう歴史認識を確立していくことが必要です。しかも誰か急進的な歴史家の意見というのではなくて、国民のコンセンサスとして、そういうことを確立していくことは非常に難しい。ドイツよりも難しい課題に我々は直面しているんだと自覚して、だからそれは意味が深いのだ、と考えて取り組んでいかなければならないだろうと思います。

 問題の解決というものはやはり、私は段階的に図っていくべきだと思います。朝鮮併合に対して反省する、それから中国への侵略を反省する、そして東南アジア、太平洋戦争というものの反省がくるというふうに、やはり順番に問題にしていかざるを得ないんじやないかというふうに思います。

 我々の戦後の歴史というものが今日の我々を縛っているのであって、我々は戦後の歴史から自由になることはできない。功罪ある我々の戦後というもののなかに我々は生きているんですから、そのなかで我々がその束縛から確実に抜け出していくには、どうしたらいいかということを考えていかなければならない。それは一挙にそこから抜け出していくことはできないので、着実に進んでいかなければならないものと思われます。

 国際的な批判が寄せられて我々に刺激を与えてくれる、我々に反省を迫るわけですが、自分の国の歴史を変える主体はあくまでも日本の国民にある。我々が変えなければ、我々の国の歴史認識は変わらないということを考えなければならない。我々に責任があるということです。

 現実の社会、国家、政府の政策に裂け目ができれば、その裂け目を広げて可能性を求めていくことが必要です。短期的には悲観的に考えますが、長期的には楽観的な考え方でやっていかなければならないものと思います。そして日本の戦争責任を考えるということになれば、私は最後には昭和天皇の戦争責任、そして昭和天皇が退位しなかったことに対する我々の反省、そういうものが我々の国民の共通認識となるような日が招来されねばならないと思います。


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