「知らないこと」は「必要ないこと」か

ロバート・リケット

◎文学科助教授

はじめに

他者・他民族への理解は、たとえ小さなことであっても、「知る」ことからはじまります。その一歩さえ踏み出せない、いや踏み出させない「われわれ」。

「わたくし」を包摂する「われわれ」、「われわれ」 の中で揺れ動いている「わたくし」、「わたくし」の中の「われわれ」。人生をほぼ半分に、日本とアメリカに分けて生きてきた僕は、「わたくし」と「われわれ」を区別する難しさをつくづく感じます。

 しかし、事情によって、場合によって、両者の区切り方によって、「われわれ」に入らない、あるいは入れてもらえない「わたくし」もいます。障害、性別、人種、民族、国籍などとなると、この線がよりはっきりと引かれます。

 民族と国家の場合には、国家のあり方や社会・経済体制にも、もちろん原因がありますが、それ以上に、他民族への抑圧を通して形成されてきた自己の人種・民族的帰属意識の問題なのです。その点では、形が異なるにせよ、僕が生まれ育ったアメリカの白人(WASP)社会[注1]と、長年くらしてきた日本社会とはよく似ており、両社会の深刻な共通課題でもあるといえるでしょう。

 ここでは、民族間関係の取っつきにくい、すぐ見えてこない歴史を踏まえて、いくつかの具体的な例を挙げながら、日米両社会における「われわれ」と「わたくし」の行方を探ってみたいと思います。

一 ―― アメリカの場合

多民族社会ハワイ

 去年、ハワイに行ったときのことです。島の北へバスに乗って行ったのですが、観光客は僕以外にほとんどなく、地元の人達が次々に乗ったり降りたりしていました。乗客はお互いに知らなくても、気楽に声をかけ合ったり、楽しく言葉を交わしていました。そこで、僕は奇妙な会詰を耳にしました。それは、「What are your nationality?」、というものでした。

 普通は「What is your nationality?」、つまり単数で、あなたの国籍は何ですかと聞きますが、ハワイでは複数で国籍ではなく、民族という意味で言っていたのです。みんな、「僕はハワイ人とフィリピン人と韓国人だ」とか、「日本人と中国人だ」とか、一人一人アメリカ国籍を持ちながらも、二つか三つくらいの民族帰属意識が重なりあっており、僕はちょっとびっくりしました。ハワイは本当に人種のるつぼで、いろんな民族がともに暮らし、尊重しあっているなあ、と考えました。

 その後、ハワイの歴史を調べてみたら、一般の観光者は気がつかない裏面があると分かりました。

 ハワイは本来ポリネシア系先住民の王国でしたが、一九世紀末に、アメリカの一握の白人に国を倒され、一九〇〇年、アメリカの領土になりました。そして、日本人、中国人、朝鮮人、フィリピン人などのアジアの多民族が、末端労働者として移住してきたのです。その背景にあったのは、アジア・太平洋地域における日米帝国主義の誕生でした。[注2]

 ハワイ社会には複雑な縦割りが生まれました。白人の大農場主は、まず、連帯、ストライキなどが起こせないように恣意的に敵対関係を作り出し、それをあおりたてることによって、各民族間のつながりを断ち切ろうとしました。また、管理職はアングロ系でないポルトガル人などの白人に委ねたのです。

 その民族関係の後ろに秘められていたのはアメリカの植民地的分割支配でした。例えば、当時のアメリカの国籍法によってアジア系の人々は「白人」でないのでアメリカ国籍を取ることができなかったのです。[注3]しかし、フィリピンの場合は植民地となったので、フィリピン人は法律上、市民的諸義務を負わされた「国民」とされながら、市民的諸権利を与えられなかったのです。従って、市民権を含むアメリカ国籍(full citizenship)を持つ者や、国民(nationals)でありながら、市民(citizens)でない、投票権などの市民権を持っていない者、そして国民でも市民でもない者がいました。

 こうして、大農場には二重三重の従属関係が存在し、これは上に立っていた十全な権利を享有する白人によって利用されました。人種、民族、国籍、市民権という区別で人々を分離する労務管理を白人たちは巧妙に行ったわけです。

WASP規範

 一九五九年には、ハワイは合衆国の第五○番目の州になり、結局、民族を問わずにハワイ住民の全ては同じ市民的権利を持つようになりました。

 今日、ハワイは表面上、その多民族社会がうまく行っているように見えますが、その陰には過去の不平等が潜んでいます。つまり、正しいとされているWASPのありさまが今なお理想的なモデルとしてまかり通っています。アングロ系のように話す、行動する、考える、それは、白人社会への同化を意味するものであり、未だに島の人々の将来の出世のための最低条件となっています。

 教育の上では、WASPの文化は優秀とされている結果、先住民とアジア系の人々は自分の民族的ルーツに対して劣等感を持たされてしまいます。例えば、学校ではポリネシア語などはもちろん、ハワイの独特の言葉、ピジンも禁じられています。日常生活の中で、多民族社会が生み出したこの共通語は英語の標準語に負けないくらい豊かな表現力を持つのにもかかわらず、白人の目から見れば劣った三流の言語にすぎないのです。

 さらに、観光資本が植えつけた「太平洋の楽園」の植民地イメージとそれがもたらすポリネシア文化の歪曲はその傾向をいっそう強めてきました。言うまでもなく、近年、民族的誇りと人間尊厳に訴え、白人規範を批判するハワイ人が多くなっているのは事実ですが、WASPのイデオロギー的、文化的支配は根強いものです。[注4]

 個々の人間はそれぞれですが、一般的に考えれば、アメリカ社会は膚の色に取りつかれており、法律の枠組と別個に社会的意識の面では、人々を「白人」と「非白人」(場合によって「有色人」)とに区別し、それが昔から差別と偏見につながっています。白人と言われている人々はアメリカ総人口の約七五%ですが、その中、歴史的に主流を形成してきた北ヨーロッパ系新教徒は人口の約二割にすぎません。

 WASPの中に色々な区切り方があり、また白人の中にも、南ヨーロッパ系のカトリック教徒もユダヤ系の人々もいるし、複雑な上下関係が成り立っています。さらに、通俗的に言えば、その下に、「順番」からすれば、アジア・太平洋系、ヒスパニックス(スペイン語系住民)、アフリカ系、そして、北米先住民が並んでいます。

 アフリカ系作家トニ・モリソンが指摘したように、アメリカでは、人種というのは、白人人種を意味します。それは、建国原埋のメタフォアないし記号であり、国民統合神話(national integrating myth)の不可欠な虚構となっています。[注5] それで、非白人グループの主流社会への参加の最低条件はアメリカ化ですが、アメリカ化は大体アングロ化、アングロ系社会の文化的価値観と基準に順応するというニュアンスを持っています。未だに、「われわれアメリカ人」とか、「善良なアメリカ人」とかが使われる時に湧いて来るのは、やはりWASPのイメージです。

現在の民族関係

 もちろん、この虚構は崩れつつあります。一九五〇年代の公民権運動、一九六〇年代のエスニシティ革命、一九八〇年代の日系人の補償運動の影響は大きく、約一五〇人種・民族的グループからなる米国社会の意識変革が徐々に進み、多元文化主義への試練を無視することはできなくなりました。その成果として、連邦政府は差別撤廃法を制定し、また、マイノリティや女性向けに、教育や雇用において、積極的に差別を是正する法的規定も設けてきました。民族間の諸関係がダイナミックなもので揺れ動いているし、現在の白人による「人種的へゲモニー」は内部的矛盾が多く、決して絶対的なものではありません。

 近年の経済不況と保守政権の金持・国防優遇政策の結果として、白人、非白人の各グループに中・上流階層と下層貧困階層への両極分化は著しくなっています。と同時に、マイノリティ人口の急増は白人の多数支配の崩壊を呼び起こそうとしているのです。この状況に対し、一方に、下層のWASPの中にはある種の危機意識を抱き、連邦政府を敵に回したKKK、ネオ・ナチスなどのへ−ト・グループ(hate groups)のように、白人至上主義に訴える人々も増えています。[注6] 他方、下層社会に固定化させられてきたアフリカ系とヒスパニック系もいっそう窮地に追い込まれ、民族間関係の緊張は高まるばかりです。

 悲しいことに、中・上流のアングロ系の多くはまだ自由主義のイデオロギー(自由、正義、平等、つまづ機会均等と個人の力次第で出世できるなどの信条)を信じているのです。自らの人種・民族帰属意識は簿いと言い張り、自分自身は偏見を持っていないと思い込んでいるのです。これは白人、特に北ヨーロッパ系が上位にのぼる傾向(要するに、待権を持つこと)をごまかすかくれ蓑に思えます。そして差別撤廃法があるからこそ、差別そのものはより陰湿なものに変わっています。長年の「人種るつぼ論」とつながっているこの白己欺瞞の裏には、WASPの政治的、経済的、文化的優勢とアメリカの強い国力があり、これもまた、アメリカ社会の大きな矛盾の一つでしょう。[注7]

二 ―― 日本の場合

 さて、日本の場合はどうでしょうか。授業でアメリカの多民族社会の悩みを取り上げる時、よく返ってくる感想があります。それは「われわれには分かりにくい。日本人は強い民族意識を持たず、人種・民族差別もありません」と。確かに、人々を膚の色で分離し、排除するという愚鈍な行為は粗野で理解しづらいでしょう。また、アメリカと違うところもたくさんあると思います。例えば、日本では、差別がないのではなくその構造自体が目に見えにくい形を取っています。目立たないからこそ、自らが差別行為の対象にならない限り、意識しないでしょうが、その分、差別される側に、より強烈な精神的打撃を与えてしまいます。

リサ・ゴーさんの話

 二週間前に、ゼミで、フィリピン人の人権活動家(平和と人権ヒロシマセンター)リサ・ゴーさんは、自身の在日体験について、日本語と英語を合わせながら、話して下さったのです。その中で、リサさんはこう言いました。「あなたは誰ですか。私は碓ですか。私の最も深いアイデンティティーはフィリピン人、そして女性です。しかし、日本では、フィリピン人の顔は特別な意味を持っています。もし私がこの顔で新宿あたりを歩くと、誰か知らない日本人の男性が寄ってきて、何も言わずに私の肩をたたくのです。この顔は、日本では、売春婦という意味を持っています。私たちはジャパゆきさんと呼ばれ、ジャパゆきさんはイコール売春婦です。そして、私は自分の顔と自分の民族の顔とを切り離すことができないので、私も売春婦とみなされてしまいます。これが、日本における私のアイデンティティーです」[注8]

 また、彼女は話の中で、フィリピンの植民地事情にも触れました。ハワイのアジア・太平洋系の人々と同じように、多くのフィリピン人は「アメリカ」に憧れを持ち、WASP文化を完璧に取り入れようとします。母国語のタガログ語などに恥を感じ、それより英語を話した方が社会通年上有利だと思わされているそうです。結局、アメリカ文化の崇拝は深い疎外感と自己嫌悪コンプレックスを引き起こし、歪んだ民族意識を生み出してしまいます。「私は誰ですか」と聞いても、その答えはストレートに返ってこないわけです。[注9]

イラン人のハッサンさんの場合

 日本のマスコミなどを見る限り、フィリピン人の屈辱感と精神的苦しみに気がつく人々は少ないようです。[注10] 日本では、人種・民族差別は目立たないのでしょうか。確かにアメリカの場合、在米外国人は総人口の六〜七%にのぼるのに対して、日本では、その数は約l%にすぎないのです。また、その大部分はアジア系の人々なので、在日外国人の可視性(visibility)も小さいと言われています。[注11] しかし、ご存じのように、一九八○年代の半ばごろから、数の多い外国人移住労働者はアジア以外の国からも日本へ入って来ています。そして、人数が少ない割りに目立ちます。

 今年の六月に、イラン人のハッサンさんはゼミの学生に色々な話を日本語でして下さったのです。[注12] ハッサンさんは、日本で三年近く暮らしをしています。彼は日本が好きだと言い、きつい肉体労働をしながら、いろんな趣味や興味を持ち、日本人の友人も多いそうです。彼のイラン人の友達の多くは、労働賃全の高いドイツへ出稼ぎに行っているようで、彼らの話を聞いてつくづく思うのは次のことだそうです。

 日本で報道されているように、ドイツでは、一九九〇年の東西統一以来、ネオ・ナチス、スキンヘッドなどによる外国人排斥運動は激しくなっており、移住労働者たちに多くの犠牲者を出しています。それでも、ハッサンさんによれば、排斥運動のない平和な日本の方が、ドイツよりも恐いのだそうです。それは、ドイツでは、味方と敵が一目で分かりますが、日本では、友人を除いて、敵も味方も見分けることが出未ず、自分がどういうふうに思われているのか見極められないからです。結局、ハッサンさんは、日本では、イラン人などの外国人労働者たちは「存在しない」と言うのです。彼に言わせれば、外国人労働者を同じ人間として認めない根底は、多くの日本人の無意識なナショナリズムではないかと。

在日韓国・朝鮮人

敗戦後、日本はアメリカの経済的、政治的、イデオロギー的なへゲモニーの下に置かれていました。日本人の屈折したナショナリズムが、裏返しに「毛唐」のニュアンスを内包する「ガイジン」(待に白人)という戦後用語などに軽く現れる一方、アジア系住民たち、とりわけ在日韓国・朝鮮人と中国人の方に、より辛く当ったのです。

 そして未だに日本で生まれ育った二世・三世の「在日」の人々でも、外国人登録制度の下に厳しく管理されており、日本人と同じ税金を納めたり、日本社会の一構成員でありながらも、参政権もなく、公務員を始めとして、多くの仕事から締め出されています。さらに、就職差別もあれば、入居差別も婚姻差別もあるわけです。残念なことに、単一民族社会にこだわる日本政府が差別をなくするよりも、法を盾にし、外国人管理を強化して行こうとしているのが現状です。

 一〇年前の話ですが、文部省は小学校教員採用試験に合格した在日韓国人の女性を教論として採用しないよう長野県教育委員会に対して指導しました。日本人と同じ資格を持っていても、外国籍ですから駄目だと言うのです。その理由として、「国民の魂を育てるのは、自国民の方が安心できるでしょう。私は『帰化しろ』と言うつもりは毛頭ないが、国民感情としては、日本に忠誠を誓った人の方が安心できるのではないか」と文部省の地方課長が述べました。また、別の機会に、もう一人の文部省幹部は「天皇や国旗に対する感情、桜の花を見る時の気持ち、四李の移ろいへの鋭い感受性などの徴妙な問題を、外国人教員が教えられるだろうか」とこの方針を弁解したのです。[注13] そしてこの考え方は今に至っています。

 確かに、文部省の役人ガ指摘しだように、法律上、帰化は可能です。しかし、帰化の最低条件としては、完全に同化することであり、思想、行動、文化などの各面では、日本人であるということを示すことが義務づけられています。アメリカのアングロ化と似た面もありますが、帰化はアメリカのそれと大きく違います。それは、二つの民族帰属意識は許されないので、帰化したい人々は自分の民族的アイデンティティーを捨てなければならないところです。精神の面においては、その代償は大きいでしょう。

 法の壁が高ければ、心の溝も深いようです。誇りを持って自分らしく生きて行こうとする非大和民族に対して、もう一つ微妙なからくりが働いています。知り合いの金恵美子さんは在日韓国人です。鹿児島で生まれ、大阪で育ち、日本語を話し、日本文化も日本人と同様に理解しているけれども、在日韓国人であるという、もう一つのアイデンティティーを持っているわけです。しかし、韓国人の自分は、まわりの社会に認められておらず、その存在はないかのように常に思わされていると言うのです。彼女によると、これは"discounting"と言い、さげすむというより、人間が最も大事にしている部分を無視し、評価を与えないということです。金さんは、日本の高校に通っていましたが、本名を名乗り、「在日」であることを隠そうとはしなかったのですが、同級生たちはそのことについて一切興味も示さず、彼女にとってのその貴重な一部分を完全に無視したそうです。それで、彼女はずいぶん悩んだと言います。[注14]

問題の所在

 明治以末、「日本人」という定義には、人種、民族、国籍、国民、市民などの諸概念が分離されることなく、一致しているので「単一民族」国家という国民統合神話が成り立っているわけです。ご存じの通り、その裏には、国民管埋のための戸籍制度というものも明治から引き続いて存在しています。

 そして、戸籍制度が管理社会のかなめとして、女性、被差別部落の出身者、非大和民族などに対する偏見や差別と深いつながりを持っています。例えば、民族間関係で言えば、日韓合併の一九一○年から一九四五年の敗戦までの間に、韓民族は日本臣民とされ、戸籍を持たされました。しかし、それは「民族籍」と言われ、「外地」(朝鮮)に置かれていたため、朝鮮人が「内地人」(日本人)と同じ義務を負いながらも、同じ権利を与えられず、二流の臣民となりました。植民地支配に根差したこの区別はアメリカの国民と市民の区切りと似通ったものでした。[注15]

不平等の原埋は戦時中、はっきりとした形を取っていたようです。植民地政策、大東亜共栄圏、軍事侵略などを背景に、大日本帝国は、天皇主義にとらわれていた大和民族をてっぺんに、その次に、二流臣民の朝鮮人と台湾人、それから軍事支配に直面していた中国人、東南アジア人等々という順序に、各民族の「番付」を決めつけたわけです。もちろん、その秩序の底辺にあったのは「鬼畜米英」「毛唐」などの蔑視用語があったように、同盟国のドイッ人などを除いて欧米人でした。[注16]

 一九四四年に、学徒勤労動員令のもとに報国隊として動員された学生の一人、高橋正美さんは当時の差別意識の恐ろしさについて次のように語っています。彼は、昭和電工の川崎工場に収容され働かされたのですが、職場で日本人は被差別部落の徴用工、強制連行の朝鮮人、米軍捕虜をアゴで使い、被差別部落の出身者は朝鮮人と捕虜を、朝鮮人は捕虜を「必要以上に怒号で対応した」そうです。「四者四様の社会的身分の自覚からの不思議な差別的感情が生まれ、職場を支配し、なんとはなしに職場の規律が保たれていたように思われてならない」と高橋さんは思い出しています。[注17]

戦後におけるアメリカのイデオロギー

 終戦後日本は、連合国の欧米人を人種・民族の番付の上位にころっと移したのです。WASPモデルは日本社会に深く浸透し、現在に至っています。例えば、一九八七年の読売新聞の記事によると、アメリカ人のAさんは英語の先生としての経験が豊富なのに、なかなか日本の英会話学校に雇ってもらえなかったそうです。その原因は、ハワイで生まれた彼の「日本人の顔」にあったようです。父親は中国系、母親はフィリピン系で、日本では、しょっちゆう日系人と間違えられました。一五校に断られて、やっと、採用してくれそうな学校を見つけましたが、次の条件がつけられました。「眼鏡をはずせ。黒い髪を染めろ。地味な服は着るな。動作はオーバーに」と。悔しながらも、Aさんはその条件を飲み、コンタクトレンズを入れ、髪を茶色に染め、仕事を始めました。後で彼ほ同僚に「黒人とアジア人は雇わないのがこの学校の経営者の方針だ」と言われたそうです。[注18]

 これは極端な例かもしれませんが、英会話学校の多くが北ヨーロッパ系(母国語は英語でなくてもOK)以外の先生を採用したくないのは事実です。僕自身も一0年前に新聞の求人広告に電話で応募した時に、「あなたは日本語がうまいから日系人だろう」という理由で、きっぱり断られたことがあります。

 また、アパートさがしにおける問題も僕の耳によく入ってきます。不動産をやっているある日本人の知り合いの話によると、多くの家主は「白人なら考えてもいいけれど、半島人(在日朝鮮人)やクロはだめだ」と平然と言うのだそうです。アフリカ人とアフリカ系アメリカ人の場合には、入居差別は特にひどいようです。[注19]

 以上の例から分かるように、「脱亜入欧」の思想が未だに根深く存在するだけではなく、さらに、アングロ文化が生んだ黒人観もそのまま日本に引き継がれたようです。アフリカ系の人々をばかにするようなイメージがマスコミ、宣伝広告、漫画などに広く無神経に使われ、日本の大衆文化に染み通っています。そして、この蔑視観は時々日本の指導者の発言の中にまでぽろっと現れてきます。例えば、一九九0年九月に、当時の法務大臣梶山静六は新宿の繁華街で、「外国人の多い」売買春地域とされていたところを訪れ、次のコメントを報道関係者にしました。「〃悪貨が良貨を駆遂する〃というか、アメリカにクロが入ってシロが追い出される、というように[新宿が」混住地」となっていると。[注20] 梶山発言は、アメリカのマスコミに大きく取り上げられましたので、日本国内にも広く波紋をよびおこしました。

 梶山法相の新宿訪問の結果として、一○何人の東南アジア系の女性たちが検挙され、早速、強制退去という目に合わされました。在日アフリカ人とアフリカ系アメリカ人とともに法相の暴言を非難し、政府に対して抗議をした日本人も少なくなかったのですが、この女性たちの処分を問題にしたのはわずかの女性活動家だけでした。

三 ―― 共通の課題

 ここに、日本製の鏡があるとします。しかし、フィリピン人のリサ・ゴーさんが自分の顔をその鏡で見ても、映るのは自分の顔ではなく、売春婦の顔です。イラン人のハッサンさん、在日韓国人の金さんは、鏡をのぞいても自分の顔が映っていまぜん。三人はそれぞれ異なった経験を持ち、違う立場に置かれながら、共通の悩みがあるのです。それは、外国人であるということです。多様性を容易に認めない日本社会は、外国人だけではなく、アイヌ民族、琉球民族などの民族的少数者に辛い道をたどらせています。アメリカ製の鏡ではアングロ系の顔しかちやんと映さないように、日本の鏡では、「単一民族」の顔しか映ってこないのです。

見えてこない歴史

 今年、ゼミの学生たちに佐藤文明の『在日「外国人」読本』を読ませたのですが、中に、歴史的に日本人を形成してきた民族として、北方、南方、中央アジアの諸民族に、「ポリネシア系ネグロ」も小笠原の「白人」も記載されています。[注21] それを読んだ学生の一人は「この事実を知って、うれしいという気持ちがある自分に驚きました」と書きました。アングロ系アメリカ人の顔をしている僕も実は、自分の中にユダヤ系と北米先住民の血も幾分流れているという事実を知った時のうれしさを思い出しました。これは、決して「血」の問題ではありません。むしろ、人間は、物心両面においてバラエティを求める生き物だし、それなしに豊かな人生を送れないのではないかと思いたいのです。

 また、同書の中に、関東大震災に当って日本人の自警団によって行われた在日朝鮮人の大量虐殺などの話も出てきます。在日朝鮮人の歴史と現状を初めて知る学生が多いし、大変なショックを受ける人もいるようです。その歴史を知らない原因は日本の戦後体制が生み出した教育制度にあるとも言えます。

 この点では、アメリカのWASP社会と共通の問題もあるような気がします。例えば、一九世紀後半から二0世紀前半までの間に、女、男、子供を問わずに二千人以上のアフリカ系の人々が白人の自警団によって残酷な形でリンチされました。黒人であれば、その歴史をよく知っているし、有名な歌のテーマにもなっていますが、未だに一般の教科書に取り上げられていないし、知っている白人も少ないと思います。僕が初めて知ったのはベトナム建国者ホー・チ・ミンの自伝を読んだ時でしたが、生涯忘れられないショックを覚えました。[注22] 先住民、アジア系の歴史等々についても同じことが言えます。

「知らないこと」は

 確かに、何も知らないでいても、暮らしてはいけます。けれども、自分が知らなければ、知らない自分も見えてこないのです。その知らないもしくは知ろうとしない自分が無意識に分厚い壁を作っているのです。

 日本の若い人たちの中には、アメリカのカウンターカルチヤーに憧れを感じる者が多く、それは青年層の文化的スタイルにさえつながっているようです。しかし、そのカウンターカルチヤーの裏にある緊張した人種・民族関係を見られない、あるいは見ようとしないのです。と同様に日本社会の主流は、WASPの文化規範にとらわれている以上、自分の足元、つまり日本社会の「見えない」民族関係が、ますます見られなくなってしまいます。

 先に紹介した金恵美子さんは、一枚のポスターを指摘し、次のように分析しています(23頁を参照)。これは、大阪のある大学生協が一九九一年に作ったものです。このポスターには観光植民地イメージの楽園である沖縄のような南方の島に、ステレオタイプの野蛮な黒人がのんきに立っています。しやべっているのは(この言葉には意味がないからこそ、おもしろおかしい)朝鮮語です。なんとなくかわいいと一般に思われるように作られたこのポスターは、日本社会の差別構造を浮き彫りにしていると金さんは言います。

 僕は、こんなことに普段気がつかないのは、必ずしも若い人々の責任ではないと思います。だとすれば、一体何が「われわれ」をこうさせるのでしょうか。昔、あるアフリカ系アメリカ人に言われたことが思い浮かんできます。彼は「露骨に差別する白人は、情け無いと思うが、別にこわくない。最もこわいのは差別する自覚がない白人だ」と言いました。自覚がうすければうすいほど偏見、差別の根は断ち切りにくいのです。

 日本社会はどうなのでしょう。ここで、アイヌ民族をテーマにした和光のある四年生の卒業論文を引用したいと思います。「日本におけるアイヌ民族の視点を通して見えてくるのは、日本という国家に支配されている和人自身の姿である(中略)。一般の人々―日本国民も、アイヌと同様に「日本」という国家に、統合、支配されている民だということである」[注23]

 日本人もアメリカ人も歪んだ民族意識を持つ、あるいは持たされている「われわれ」に気がつかない限り、人種・民族問題の本当の解決はありえないでしょう。

おわりに

 それでも、僕は日米両社会に対して、決して絶望しているわけではありません。

 日本には、前述した高橋正美さんのような人々もいます。戦時中、数人の学友とともに、リスクを恐れずに、朝鮮人労働者と連合軍の捕虜に食料を与えるという小さなところから治療まで、できる限り助けようとしました。

 また、先に述べた観光ポスターを見た学生たちの中の何人かが、その中身を問題にし、抗議をしたら、生協はお詫びをし、ポスターを撤回したそうです。

 さらに、この一○年間に、日本の公民権運動とも言うべき在日韓国・朝鮮人の反外国人登録法運動、参政権取得キヤンペーンなどにかかわってきた日本人も多いし、地域住民の圧力によって中央政府に逆らい、資格のある外国人を採用する教育委員会も自治体もあります。そうした多民族的草の根活動の成果として、少しづつですが、法律が改正されつつあります。[注24] 外国人労働者の場合にも、日本人の支援グループは少なくないし、弁護士とともに、人権を犯されている移住労働者たちの諸問題の解決に努力しています。

 他人種・民族を排除しないで、お互いに尊重しあえる社会を作る最低条件は何なのでしょうか。言い替えれば、人種・民族差別という形で国家によって自分の中に無意識に植えつけられてきた「われわれ」をどう意識し、乗り越えればいいのでしょうか。そして、「われわれ」に押しつけられてくる「わたくし」の代わりに、自分が選び取った「わたくし」をどう実現すればいいのでしょうか。

 正直に言って、僕にもよく分かりません。けれど、その答えを導く手がかりの一つが自覚のない自分にあるとすれば、社会が編み出してきた民族間関係の中にその自分を探っていかなければならないと思います。「知る」ことは大きな取っつきにくい歴史よりも、報国隊の高橋さんや大阪の学生のように、自分のまわりの小さなことから始まるでしょう。

 最後に、アフリカ系詩人のオドレー・ロードの詩を引用し、この話を終わりにしたいと思います。

   鏡に映った自分を
   憎んでもしょうがない
   むしろ、鏡を歪ませる手を
   止めればいいのだ
        [注25]

 これは、まさに「わたくし」たちの共通課題ではないでしょうか

※僕がくどくどと話した文章を読みやすいものに直してくださった内田正夫先生と安藤玲氏に心からお礼を申し上げたいと思います。また、資料を提供して下さった金恵美子さん、そしてゼミでお話をしてくださったリサ・ゴーさんとハッサンさんにも、深く感謝します。




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[注1]・WASPとは、White(白人)、Anglo-Saxon(アングロ・サクソン系)、Protestant(キリスト教のプロテスタント派)という意味です。アングロ系アメリカ人の祖先はイギリスから新大陸に渡り、アメリカの建国以来、権力の中枢を占め、政治的にも、経済的にも、文化的にも全社会的へゲモニーを握っています。アメリカで頻繁に使用されている「白人」、「黒人」などは、WASPへゲモニーを守るために生み出された区別ですが、ただ単に膚の色であり、国籍でも民族でもないし、人種を示すものでもありません。人種の定義についてRobert Miles, Racism and Migrant Labour, Routledge Kegan Paul,一九八二年、参照。

[注2]・例えば、日本は、一九0五年に、目露戦争に勝利し、韓国に統監府を押しつけ、そして日韓併合の強行を許した桂・タフト合意に調印を押したのです。後者は、タフト米国陸軍長官と桂太郎首相が、東京で交わした秘密覚書ですが、これにより、アメリカが日本の朝鮮に対する植民地政策を容認する見返りに、日本は、アメリカのフィリピン、グアム、ハワイなどの植民地化を認めたのです。

[注3]・一七九〇年に制定された国籍法は帰化を「白人のみ」に限定したわけです。日本人のアメリカへの大量移動は一八八〇年代から始まりましたが、一九〇八年に、日米紳士協定によってその労働移民が禁止され、同規定が在ハワイの日本人にも適用されました。さらに、一九二四年の移民法に帰化不可能の外国入の移住を禁止する規定が盛り込まれ同法は日本人排斥法とも呼ばれていたのです。と同時に、カリフォルニア州などが日本人による土地所有、白人との結婚などを禁止しました。このような差別立法がやっと撤廃されたのは、戦後の一九五二年の新しい移民帰化法の時でした。ところがそれ以前も、血統主義にこだわる日本と違って、アメリカは生地主義をとり、合衆国で生まれた人々が自動的に米国国籍と市民権を取得しました。その結果として、戦時中、憲法に反して強制収容所に入れられたのは日本人の一世たちとアメリカ人の二世たち両方だったのです。柏木宏「アジア系太平洋系‐歴史とその構造変化」『みんながマイノリティ‐アメリカに見る民族複合事情』現代企画室、一九九二年、一六八〜一七一頁を参照。

[注4]・山中速人『イメージの<楽園>:観光ハワイの文化史』筑摩書房(らいぶらり−七四)、一九九二年を参照。

[注5]・Toni Morrison, Playing in the Dark : Whiteness in the Literary Imagination, Harvard University Press,一九九二年、四七頁。ちなみに、日系人の民族帰属意識については、竹沢泰子『日系アメリカ人のエスニシティ―強制収容と補償運動による変遷』東京大学出版会、一九九四年、二一七〜二四四頁を参照。

[注6]・KKK=Ku Klux Klan。南北戦争以後、黒人の自由民権運動を弾圧するために成立されたグループです。アフリカ系だけではなく、キリスト教のカトリック派もユダヤ人も、WASP以外の人種・民族的集団を個喝行為と暴力で排斥しようとしています。猿谷要『北米大陸に生きる』河出書房、一九九二年、四四〜四八頁を参照。

[注7]・一九九二年四月の「ロス暴動」はその現れの一つといえるでしょう。皮肉なことに、暴動よりも一揆に近いこの怒りの爆発は中・上流の白人に対してではなく、出世率の高い、しかも同じ地城で働く韓国系のマイノリティに対して勃発してしまいました。WASPの現状について、宮本倫好『アメリカ‐民族という試練』筑摩書房(らいぶらり−八六)、一九九三年、矢部武『危険な隣人アメリカ』講談社、一九九三年を参照。

[注8]・講演、一九九四年一0月一八日、和光大学にて。

[注9]・このことについては、レイ・ベントゥーラ『ぼくは隠れていた』草思社、一九九三年、一七〇〜一七二頁を参照。

[注10]・例えば、この数年問、フィリピン人をテーマにするテレビドラマが増えています。中に、フィリピン女性は貧しく、お金を得るために日本人をだましたり、嘘をついたり、売春したりするようなマイナスイメージやステレオタイプで描かれています。その例の一つは、フジテレビの『フィリッピーナを愛した男たち』水島総監督、一九九三年です。「社会派ドラマ」を標榜していたこのテレビドラマが在日フィリピン人の強い抗議を引き起こしましたが、監督との話し合いは平行線をたどりました。水島総「我が『フィリッピーナ』戦記」『諸君』一九九四年二月号を参解。

[注11]・駒井洋『移民社会日本の構想』国際書院、一九九四年、五四頁。

[注12]・講演、一九九四年六月二一日、和光大学にて

[注13]・「国民教育論が見え隠れ」『朝日新間』一九八五年、四月八日。

[注14]・金恵美子、"Japanese Racial Prejudice and Education," U.S.-Japan Commitee for Racial Justice Working Consultation, July 17-19,1992

[注15]・この区別は、在日朝鮮人の場合に、アメリカの日本占領が終わった一九五二年まで存在しました。そして、主権が回復した時点で、日本政府は国籍の選択を与えず、在日韓国・朝鮮人の日本国籍を剥奪し、彼(女)らをさらに弱い立場にある外国人にしてしまいました。田中宏「日本における外国人労働者論議の〃死角〃」中野秀一郎、今津考次郎編『エスニシティの社会学』世界思想社、一九九三年、一二二‐一四一頁を参照。

[注16]・例えば、一九四一年六月に、日米戦争の勃発前に、当時の法務大臣柳川平助は、記者会見を機に、次のような発言を行ったそうです。「これから大東亜十億の民を続治していかなければならない皇国日本が、たかだか三千万そこそこの朝鮮人を甘やがすことなんかないじやないか。それで、わしは、まず朝鮮人の思想犯をひとり残らず去勢してしまうのがいちばんよいと思っている。ヒトラー総統は、すでにユダヤ人の去勢を実行しているというではないか。西で、独・伊の両民族、東では大和民族が他民族を統治することは天の定めでもあるんだよ」高峻石『朝鮮人・私の体験』。鄭敬謨「どう生きるべきか−在日朝鮮人二世・三世への提言」『シアレヒム』七号、一九八四年、九六頁に引用されています。

[注17]・高橋正美「朝鮮人との戦時下における出会いと朝鮮問題への関わり」『「8.15」 を問い返す映画と討論の集い−報告集』報告集編集委員会(仙台市)、一九八六年三六頁。

[注18]・土生修一「英会話学校の〃人種差別〃」『読売新間』一九八七年四月一七日。

[注19]・例えば、Ian Buruma, "Afterword",in Rey Ventura,Underground in Japan,Jonahan Cape(London)、一九九二年、一八八頁。また、映画『Struggle and Success』監督Regge Life,一九九二年を、参照。

[注20]・この態度は日本国内に留まらず、在米日系企業にまで影響を及ぼしています。日系企業の多くは、女性やアフリカ系、ビスパニック系アメリカ人を採用しない経営方針を取っているので、政治家の問題発言と同様に日米文化摩擦の一要素になっています。ジョン・G・ラッセル『日本人の黒人親』新評論、一九九一年、柏木宏「米国マイノリティと日本企業」『みんながマイノリティーアメリカに見る民族複合事情』現代企画室、一九九二年を参照。

[注21]・佐藤文明『在日「外国人」読本‐ボーダーレス社会の基礎知識』緑風出版、一九九三年を参照。

[注22]・一九二〇年代前半、二ュ−ヨ−クにいた間に、ホ−・チ・ミンはリンチ事件を、自慢しているかのように細々に描いた南部の地方新聞を読んでいたら、その事実が分かり、日記に記録したわけです。Ho Chi Minh,"Lynching : A Little Known Aspect of American Civilization", Selectcd Works,Hanoi,一九六〇年。日本語で猿谷要、前掲、二四四〜二四八頁を参照。

[注23]・石田伸子『日本のなかの民族問題−日本の先住民アイヌを通して』人文学部人間関係学科卒業論文(主査:劉孝鐘先生)、一九九三年、後書き、六頁。

[注24]・ところが、外国人管理については表面的な変化にもかかわらず、抜本的改正はほど遠いものであり、また、残念ながら、同化思想は根強く、変わりそうもないのです。

[注25]・Audre Lorde, From a Land Where Other People Live,Detroit,一九七三年、一五頁。Ronald Takagi, A Different Mirror, Little, Brown, and Company, 一九九三年、四二六頁に引用されています。