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ディスカッション

司会(鈴木勁介) ただ今からディスカッションを始めます。人間関係学科の鈴木です。
 私は、先程の安西先生のお話で言うと「個人アイデンティティ・モデル」「個人独立モデル」で頑張りたいと思ったのですが、皆さんは「個人包摂モデル」の中に組み込みまして、司会を仰せつけられました。飫冨先生のお話に出てきたことで言えば、私は「独立(契約)型」でいきたかったのですが、やはり私も「一体化型」の中に組み込まれているらしくて、司会をすることになりました。
 簡単にいままでの流れを言いますと、昨年は「文化としての言葉―あなたと私の世界」というテーマで行なわれました。なぜそういう形にしたかというと、共同研究機構主催シンポジウムはあくまでも全学的な形で、全学部の先生方にご発言願いたいということからでした。言葉の問題というのは素人も玄人もなく話題にできる課題ですから、なんらかの形でお話し願えるだろう、「あなたと私の世界」という非常に身近なテーマで行なえば、たぶんいろいろ問題が出てくるだろうと考えたわけです。
 昨年の場合はどちらかというと"個人と個人"というのが表に出てきました。今年は言葉の問題は少し背景のほうに下がってもらって"個人と集団、あるいは社会"という関係のあり方を表に出していきたいと考えて、「あなたと私の世界―個人と集団」というテーマを設けました。
 井上先生には女性学の立場から、女と男の問題、という形で問題提起をいただきました。これを厳密な意味で集団ととらえていいかどうかという問題がありますが、ここは主催者側としては、"何でもあり"ということにしました。先ほど飫冨先生が組織と集団の区別ということをおっしゃっていましたが、そこも目をつぶって、包括的に"個人と社会"という観点で受けとめていただいていいだろうと思います。
 四人の先生方にお話しいただいてうまくつながるかと、じつは主催者側としては非常に気にしていたのですが、それぞれの報告者がうまく次にバトンタッチをされるという、たいへん嬉しいご配慮をいただきました。四人の先生方のテーマそれぞれが独立しているように見えながら、個人と集団というものをつないでくださったような気がいたします。
 それではデイスカッションに入りたいと思います。報告者のどなたに対してでも構いませんので、どんどん質問してください。
 たとえば井上先生に関して言えば、man's achievementをhuman achievementと言い換えることによってmanという男優位的な問題を切り換えよう」された。ですが、humanにもmanがくっついているではないか、という挙足とりもありますが、女言葉、男言葉というのは、ラテン語・ギリシア語的世界からというとどういうことが言えるのでしよう。
 塚田先生、よろしければご発言願います。

塚田孝雄 あまり詳しい知識を持っているわけではないのですが、気がついたことをちょっと申しあげますと、現在文章にのこっているかざりでは男女の区別はほとんどないのです。
 たとえばお芝居―ほとんど男が出てくるのですが、女子が主人公になるお芝居もあります―などでも、そう言われてみれば女性の言葉かな、という程度でして、それほどの区別はないのです。ただ、役者が全部男性でありまして、男が女性に扮して台詞を述べるわけですが、男は男らしく、女は女らしく述べるというのは、どうもあまり流行らなかったらしいのですね。
 日本の落語あるいは人情話などでも、専門の噺家が話をするときには、あまり男女の差をつけないで話すほうが上手であるということに、これまではなっていました。ギリシア、ローマもそれと同様で、男女の差はあまりつけていない。謡曲などの場合でも男女の差はそれほどないように思います。
 ただし、前にも申しあげたのですが、女性の場合には一人であつても「私たちは」「私らは」―英語で言えばweになりますが―というように使うことが多いのですね。動詞のほうも単数形ではなくて複数形を使いまして「私ら女性はつまらない生まれで、男に威張られておもしろくない」というように、「私らは」というのがちょいちょい出てきます。おそらくそういうのが"女らしさ"の特徴なんだろうと思います。
 ホメロスにもよく女性が出てきます。これは叙事詩ですから口語とは違うのですけれども、叙事詩の場合には女性がしゃべるときには、女性構文―英語ではフェミニン・シンタックスというのですが―という構文を用いることがかなりあります。ホメロスの詩は六脚韻という形で延々とつづくのですが、この女性構文はきちっとした六脚韻ではなくて、声調に少し乱れがあるのです。男が述べる場合は比較的論理的な述べ方をしているのですが、女性が述べる場合、たとえば女神とか、あるいは人間の女の人が述べる場合には、少し感情的に激したような調子がありまして、韻律が少し整わない、それから途中でプツッと切れてしまう、そういうことがかなりあるのですね。
 おそらく昔の女性はいまの人に比べて非常に感情的で、論理的な話し方に慣れていなかった、あるいは論理的な思考に慣れていなかったのだろうと思いますが、感情的に激したような調子が多いですね。それがまた読んでいるほうには魅力になるわけです。
 女性の詩人としては第一人者であるサフォーの詩を読んでいますと、言葉はそれほど男の人と違わないのですが、音の調子、声調が男子とは非常に違っているように思われます。すすり泣く、という少しセンチメンタルになりますが、英語で言えばSの音が非常に多くて、 ス、 ス、 ス、 シュ、 シュ、 シュというような感じですね。男だったら「テ」だとか「グ」だとか「トゥ」だとかいう破裂音が多いですがサフォーの場合にはSとかHとかいう音が多いように思います。おそらく詩の場合でも男性と女性で音の調子に違いがあったのだろうと思います。ホメロスの『オデュセイア』に、妖しい詩で舟人を誘って難破させるセイレンという魔女たちが登場しますが、その歌は柔美で、妖艶で、けだるくて、 いかにも人を睡魔に引き込むような、しかも男性的な叙事詩体でなく、女性的な抒情詩の韻律なのです。
 命令なども、男子の場合は普通はそのまま直に命令形を使うことが多いのですが、女性の場合には「〇〇していただけないか」とか「〇〇してもらえれば…」というような調子で、娩曲に命令することが多いようです。
 そう、巫女さんのご託宣というのがありますね。アポロンの神殿の巫女さんとか、ドドナの神殿―これはゼウスのお宮ですが―の巫女さんとか、あるいはイタリアのクーマイのシビュレーという巫女さんとか、こういう人たちが述べる言葉は非常に暖味です。これは、そのへんの田舎のちょっとした上流の娘さんが巫女になって、だんだん年をとって古手になり、新しい若い農民の娘さんが次つぎに入ってくるものですから、教育が足りないということもあるのだろうと思います。
 普通、男の神主が手直しをしていたのだろうと言われていますが、少なくとも六脚韻の、ホメロスの詩と同じ韻律で述べるのです。ただ非常に論理性に欠けておりまして、調子が激してみたり、意味が曖昧になったり、普通の文法から少しはずれたような言い回しがあります。したがってどうも意味が通じないのですね。しかしこれがまた非常にありがたいわけです。そういう暖味など託宣をいただくと、もらうほうも非常にありがたい。占ってもらって、実際にものごとが起こってもどうにでも解釈ができますからね。これはお宮にとっても得なことですし、もらったほうも"自分は努力すれば幸せになるぞと言われた。努力したけれど成功しなかった。いまは成功しないけれど、きっとそのうちよくなるだろう。神さまがよくなると言っているのだから"というように、自分に引きつけて判断することもできます。暖味など託宣が非常に尊ばれるし、それがまた当時の人間の精神生活を円滑にしていった、ということは言えるだろうと思います。
 ご託宣はヘロドトスなどにもよく出てくるのですが、原本の文章は非常に意味がわからない。日本語に翻訳する場合、訳者はそのことを十分ご存じなのですが、そのまま訳すと読んでもだれにもわからないものになってしまう。まあ、わかりやすく訳しておこうというので、岩波文庫の訳などもわかりやすい訳になっています。しかしほんとうは非常に曖昧なものなのです。
 ただ、女性が男に差別をつけられ、常に虐げられていたかというと、必ずしもそうではありません。アテナイの全盛期、あるいはスパルタの全盛期などは確かに女性の地位は非常に低かったのですが、その前後に関してはそれほど低くはないのですね。
 それから、一般の市民じゃなくてお百姓とか漁民、あるいは森で働く樵、そういう職業の人びとについて言えば、男女の差はほとんどありません。男も女も同じような荒っぽい言葉を使って、言葉は荒いけれど気持ちは通じ合っている、ということであったようです。
 一つだけ論理整然として驚かされるのは、プラトンの『シュンポシオン』です。『シュンポシオン』で、ソクラテスがアポロンの巫女さんのディオティーマというおばあさんから聞いたことだといって、たいへんな恋愛論をしゃべらせているんです。それも男同士の、ホモセクシュアリテイの恋愛論なんですが、これなどたいへん論理整然としておりまして、ちょっと女性がしゃべったとは思えない。これは当時の実際の女の人のしゃべり方とは違っていて、プラトンが自分の哲学を述べたいためにソクラテスにしやべらせ、ソクラテスは普段自分の意見を述べないで人の意見を述べるというのが建前になっているので、ディオティーマという架空の―あるいはだれかモデルがいたかもしれませんが―おばさんを連れてきてしゃべらせる、という形にしたのだろうと思います。
 少し長くなってしまいましたが、そんなことでしょうか。

司会 どうもありがとうございました。
 私は調査で田合のほうに行くのですが、北海道の漁村でおばあちやんと話しているうちに、だんだんおばあちゃんが熱中してきまして、最初は「あんた」と言っていたのが「だけどおめえ、ね」と言いだしましてね。ああ、労働現場というのは言葉によって女・男を区別することはそれほどないのだなあ、と実感したことがあります。
 日本の歴史を考えてみましても、中世の下剋上が起きる前ぐらいまでは、男言葉・女言葉がきちんとあったのは宮廷の雅の世界だけで、 一般庶民の生活のなかにはそれほどなかったようですね。下剋上で宮廷の生活が苦しくなったものですから、宮廷に働いていた女性たちが仕事を得るために京都の町へ出てきて、そこで女房言葉が町にあふれたというようです。
 江戸期になって木版の出版物が多くなって、木版で往来物というのがつくられて、それが教科書になって女言葉・男言葉が江戸市民のなかに普及していったのですね。往来物というのは手紙の書き方集なのですが、手紙の書き方だけではなくて「饅頭食うこと」という項目まであって、「女の人は饅頭を二つに割って食うべし」などと生活の仕方まで書いてあって、そういう出版文化のなかで江戸市民のなかに女言葉・男言葉が非常に普及していったのでしょうね。
 上西さんが最初に黒板に年表を書き出して、いったいこれはなんだ?と思ったのですが、じつはアメリカ文学も出版文化とのかかわりを一つの視点として考えなければいけないという、たいへん刺激的なお話でした。この辺りで、どなたか…。

飫冨延久 いま言葉の話が出ましたが、言葉というのは人格とかなりかかわっている部分があるのじゃないかと思うのですね。個人の人格、安西先生のお言葉をお借りしますと「自然人」の間の言葉は井上先生ご研究のとおりだと思うのですが、企業あるいは集団のなかに入った場合の言葉と、自然人が通常話している言葉とは、その使い方はおのずから違うのだろうと思うのです。経営学のほうでは「組織人格」「個人人格」という言葉を使っておりますが、個人人格のなかでの話としては先生がおっしゃったように、違う場合もあれば同意義語的に同じように使い方をしているという歴史的な流れがあると思いますが、企業あるいは組織の中に入っている人間の場合、これは組織人格をもった個人ですから、そこには男女の大きな差異があるのではないか、これが質問の趣旨でございます。
 人格と言葉が一体とすればおのずから違っているだろうな、という想定ができますが、そこには男女の別はなくて組織の中の役割をもった人間というように考えれば、言葉にはまったく違いがないというふうに解釈しなければならないし、これをどういうように解釈すればいいか、教えていただければ幸いです。

井上輝子 言葉のことについて、まず塚田先生や鈴木先生のお話から気がついたことは、女性と男性で言葉が違うというのは、たんに社会の中での、階層についていえることであって、すべての社会のすべての階層に妥当する話ではないということです。たしかに男女が生産労働に平等に参加している状況のなかでは言葉の違いというのはあまりないかもしれない。しかし、役割分業が発生し男女の間に社会的地位や役割の差が出てくると言葉についてもちがいが出てくる。
 社会の中の男女のあり方が言葉に関連しているということを、私はお話したかったわけです。
 塚田先生から発声のことがちょっと出されまして、サフォーの声調が男性と違うというお話でしたが、言葉の調子の男女差についても研究がいくつかありますので御紹介しておきます。
 声のピッチの高低は、声帯の長さによって決まるものとされていますので、男性の声帯よりも平均的に短い声帯をもつ女性の方が、一般的には声が高いということはあるのですが、しかし、実際に使用される声の性差は声帯の長さから予測されるよりも大きく、そこには社会的要因が介在しているようです。大原由美子さんという人が、同じ日本人が日本語を話す時と英語を話す時とで、ピッチが変わるかどうか、変わるとすればその変わり方に性差があるかどうかを実験した研究があります。
 それによると、男性の場合には日本語と英語を話す時にほとんど差がないのですが、女性の話し手は、日本語を話す時にはかなりかん高い声を出すようです。英語の場合には女性に特に高い声を期待されていないので、ピッチの低い声を使うのに、日本語になると高い声が期待されるので声の調子を変えるようです。
 性別の違いを強調する日本文化の故に、日本語では男性と女性とで声の調子に大きなちがいが出てくるということがいえそうです。
 女性が論理的な表現をせずに、感情に激した表現をするということについて、塚田先生は、昔の女性はまだあまり論理的じゃなかった、とコメントなさいましたが、それは実は現代の日本でも同じことで、女性の表現は論理的であるようにはあまり期待されてなくて、むしろぼかした表現とか婉曲な表現が期待されており、あるいはまた虫などを見た時にはキャーッと騒いだ方が可愛らしく思われて、冷静に観察して言葉を綴るというのはむしろ女らしくないと見られたりすることがあると思います。
こうした女性に期待される言語習性が、逆に女性はなかなか論理的な思考に馴染めないという傾向を生み出していると思うのです。言葉が思考の結果であると同時に思考のあり方をつくっていくという問題もあると思います。

塚田 また"女性はこういうものだ"と書いているのは男子なんですね。

井上 そうですね。

塚田 男子の考え方に、"女子というものはこういう話し方をするものだ"という先入観があるのでしょうが、実際に女の人が本性、論理的なのか、感情的なのかということは私にはよくわかりません。

井上 かなリステレオタイプ的に表現されるのではないか、と思います。
 飫冨先生のご質問なんですが、現代、個人としての言葉と企業(組織)の中の人としての言葉とは違うのではないか、というお話でしたね。これは実は私が最後に言い残しましたことで、よく聞いてくださいました。
 最近、組織の中に女性がかなり入っていって、そこでは確かに第一次集団的な関係のなかでの言葉使いとは違う言語法が生み出されていると思います。組織の中で一定の地位にある人―ここでは「社会的上位者」という言い方をしていますが―に期待される言語法があります。しかし、これは日本だけではなくて多くの工業諸国に共通していると思いますが、企業社会というのはすでに男性を中心につくられてきていますし、従来は主に男性によって構成されていたわけですね。ですから企業の中の組織人の言葉も男性の用語法の中で"上位者は下位者にこういうように発言する"とか"この部署にいる人はこういう表現をする"ということが、男性モデルの中でつくられてきていると思うのです。
 女性がそういう場に入ったときに、企業の外で話している女性の表現と、企業の中で期待されている表現法との間にズレが生じます。そのため、表現者にはかなり葛藤が生じてくるわけです。
 私も組織の中の一員として、日常的な言語行動の中でなにかと迷ったり、葛藤を体験しています。その一つが、命令とか叱責をする言語が女性にはなかなかないということです。教師が学生に話をするときに、命令したり叱ったりということが男の先生のようにうまくいかない。先ほど、ギリシアやローマの場合も同様だというお話がありましたが、直接的な命令形はなかなか使えないのですね。
 レジュメにちょっと書きましたように、「静かにしろ」とか「だめだぞ」とはなかなか言えないので、「静かにしてください」とか「だめじゃありませんか」という丁寧な言葉で表現する。そうすると逆に相手との間に心理的な距離感が生まれて、なかなか親密感が生まれないということがあります。
 もう少し柔らかく言おうと思って「静かにしてね」とか「だめじゃないの」とか、親が子どもに言うような表現をすると、これでは教師としての威厳が欠如してしまう。威厳はなくてもいいとは思いますが、やはりある種の厳格さが期待されている時にはそれもまずいということがあって、どっちに比重を置いたらいいかというのが非常に難しい。
 それから、生徒・学生に対する呼称の問題も非常に悩むところです。資料(注。参照)に「生徒に対する呼称」という調査報告を載せておきました。これは、参考文献の中の『日本語学』という本の「女性が使う言葉」というところにある、金丸調査の中に示されている資料です。高校生のときに教師が生徒をどう呼んでいたかをたずねた、割合新しい、92年の調査なのですが、女の先生はかなり苦労しているのですね。特に男子を呼ぶときに姓プラス「クン」、「○○クン」という呼び方をする人がいちばん多くて、名前を呼び捨てとか姓だけとか、名前プラス「クン」とか、いろいろあります。

 (注) 生徒に対する呼称(金丸調査)

男性教師→男子生徒男性教師→女子生徒女性教師→男子生徒女性教師→女子生徒
1姓だけ96(28%)1姓だけ91(25%)1姓+クン68(21%)1姓+サン67(19%)
2名だけ86(25%)2名だけ83(23%)2名だけ62(19%)2姓だけ60(17%)
3姓+クン42(12%)3姓+サン46(13%)3姓だけ60(18%)3名だけ59(16%)
4名+クン29(9%)4名+サン33(9%)4名+クン42(13%)4名+サン43(12%)
5姓略18(5%)5名+チャン23(6%)5姓+サン19(6%)5名+チャン42(12%)

 男性教師の場合には、男子生徒に対しても、女子生徒に対しても、姓だけまたは名だけで呼ぶ例が大体半数ぐらいいますが、女性教師の場合は、だいぶちがいます。
 女性の先生の場合に一番多い「くん」づけも、 一般にそれほど支持されているわけではないらしく、言語学の大家の方たちでも、かなり年配の男性の方々には、女性が「くん」づけで呼ぶことには抵抗があるという方がたくさんいらっしゃるようです。しかし戦後の女性の社会進出のなかで、女性が自分より下位者に対して「くん」づけで呼ぶということは、比較的定着しているように思います。
 私も大学のなかで、女子と男子を区別しないで「さん」づけのほうがいいのかなあと一方で思いつつ、しかし男子学生から「〇〇さん」と呼ばれると気持悪いですよなどと言われたりして迷いながら、「くん」づけを使っています。先ほどのお話の"うち・そと"で言うと、内なる関係として男子学生とつき合おうと思うと「くん」づけのほうが近い関係になるような感じがして、まだ迷いながら「くん」づけで呼んでいるわけです。
 中学や高校の先生になると「くん」ではもうすでに丁寧すぎて、名前だけ呼び捨て、姓だけ呼び捨てという例も結構ありますね。これについては生徒たちはとくに違和感なく受けとっているようですが、父母の中には"女の先生が名前を呼び捨てにして"という非難もよく聞かれます。女性が教師になったり、会社で上司になった場合は、呼称ということでも結構難しい問題が出てくるわけです。
 会話の主導権という点でも、女性に期待されている聞き役的な役割に対して、企業や大学等のなかで上位者に期待されている会話の主導権をとっていくこととの間にズレがある。女性である当事者は主導権をとることに慣れていないものですから、そこでも非常に葛藤があるんですね。
 こういういくつかの点で、女性が企業や組織の中に入って言語活動をしていくときには、男性にはない独特の葛藤があるというのが現状だと思います。今後、女性がどんどん社会的な活動をしていくなかで、女性モデルも変わっていくと同時に男性モデルも変わっていくのではないかな、と期待しているのですが。

司会 教師というのはどうも、話し始めたらとめどがないところがあります。なるべく手短にお願いします。

飫冨 短く、簡単にお答え願えればいいのですが、若干矛盾を感ずるところがあるのです。男女雇用均等法が出まして、男女差別をつけずに昇給・昇進させなければならない、当然、役職にもつくんだ、と言いながら―先生のことではないんですよ―女性はコミュニケーションの言葉で葛藤しているとすれば、男女雇用均等法は意味がない、女性にはリーダーシップの価値なし、というように判断せざるをえない部分があるのではないか、という質問です。
 二番目はレジュメの3.「会話行動の男女差」の「発言権や話題の選択権は男性に」というところなのですが、それが必ず男性にあるとはかざりませんでしょう。「女性は補佐役」って、これ、逆の場合もずいぶんぼくはあると思うのですよ。また「女性は会話においても…他の人に配慮すること」があるとか「社会的規範に違反しない」というのは、年齢とか職業とかいろいろあるとは思うのですが、この判断基準の根拠を教えてもらいたい。簡単で結構でございますよ。

井上 女性が言語の点で葛藤があると男女平等に昇進させられないのではないか、というお話でしたが、それは逆だと思うんですね。女性が昇進した結果として葛藤が起きてくるわけで、だから昇進させられないというのではなくて、女性が葛藤をしながらそこに新しい上司の言語法をつくっていくという意味では、まさに先生がおっしゃったような、企業中心の社会を個人の側から変えていく契機にもなっていくだろう、と私は思っています。女性は男性と同じにやれないということを口実に昇進させないというのは、まさに均等法に反することだと思いませんか。
 「発言権や話題の選択権は男性に、女性は補佐役」というのは、すべての場合に男性が話題の選択権をもっているとか、すべての場合に女性が補佐役ということではもちろんないのですが、 いくつかの調査が、男性のほうが話題の選択をしているケースがより多く、女性は補佐役に回るケースが多いという結果を示している。つまり傾向性のちがいと云っているわけなのです。
「他の人に配慮する」云々もそうでして、上司と部下とか医者と患者とか、社会的な上位者と下位者との関係のなかでは、 一般的には上位者が発言権をもち、下位者が補佐役になり、下位者が丁寧な表現を使うという傾向があるわけですね。職業によっても違いますし地位によっても違いますが、一般的にはそういえます。しかしジェンダーという観点でそれを比較してみた場合には、女性が下位者の役割を引き受けているということなのです。
 しかもある調査によりますと、女性が社会的上位者で男性が下位者という関係の場合にどちらがより優先するかというと、社会的な上位・下位ということよりはジェンダーの方がより強く影響している、そういう調査結果があります。

石原静子 いま中学生の女の子がすごく悪い言葉使うでしょう。テメエとか何々しやがるとか。あれはいま井上先生がお話しなさったような、女言葉は時代遅れで男女平等じゃないという気持ちでやっているのか、それとも単なる流行りなのか。

司会 井上先生に質問が集中しているので、そろそろほかの報告者にも質問を回していただきたいと思いますが。鈴木岩行先生、経営学の立場から何かございましたら。

鈴木岩行 安西先生の最初のバイクの三ない原則ということですが、バイクに乗っても法律違反ではないですね。しかし、私の知っている事例で、バイクの免許をとり、それを乗り回していることが学校側に知れて、校則に違反したという理由で学校側が退学させたということがありました。
 裁判では、校則違反で退学させたのが妥当であるということで学校側が勝訴した事例があった。やはり、校則のほうが強いような感じなのですが。

安西文雄 バイク三ない原則に関して争われた事件は複数あるのです。ですから鈴木先生が見られた事件と私が言及した事件とは、必ずしも同じではないだろうと思います。瑞的に退学処分をしてしまうということが、場合によってはあるでしょう。しかし、退学処分をしてしまうと生徒本人の経歴に傷がつく。そこで学校としては、生徒に対して自主的に退学の願いを出させるという手法をとるのです。形式的には、生徒の自主的な退学願いを学校側が聞き入れたという形をとって、穏便に済ますという例が多いわけです。
 こういった形式的には自主的退学という場合、学校としては生徒の自主的な意思を認めただけだ、だから生徒の方で「やめさせられたから慰謝料を要求する」というのはおかしい、というふうになる場合がままあります。
 ただ、本当を言えば、学校が校外の私的生活にまで介入してくるというのはいかがなものか、と思うのです。バイク三ない原則にしてもそうです。校則が校内生活を規制するのは分かる。しかし、校外の生活についてはせいぜいアドヴァイスにすぎない、それを聞き入れるか否かはあくまで生徒自身が決定することだ、と思うのです。聞き入れなかったから退学処分だということがあるとすれば、それはおかしいでしよう。

司会 ありがとうございました。
 ほかに、関連して…。どうぞ。

松永 巌 生徒は、入学する時にその学校の校則を受け入れ、即ち学校と契約をかわして入学するわけですから、生徒がその校則に従うのは当然だという考え方もあるのではないかと思うのですが。校則の拘束力の根拠はどこにあるのでしょうか。

安西 校則の拘束力の根拠は、相互の契約でしょう。学校側がこういう条件で教育を提供するということを生徒側に示し、それに対し生徒側は「その条件ならばよい」と承諾するのです。
 ただ契約があれば全部認められるのかというと、必ずしもそうではない。あまり無茶な契約は無効だということはあります。ですから、もし校則で、校外の私的生活について行き過ぎた規制を行ない、それに生徒が承諾して入学してきたとしても、契約したのだから校則のすべてが有効なのだとは言えないでしょう。校則の一部は無効であるということがありうると思います。

松永 いま、校則でも認められない部分があるとおっしゃいましたね。これは無効だという部分と、これはいいという部分と、どこで判断するのですか。法的な根拠というのは無いように思われますが、どうなのでしょう。

安西 学校があって、家庭がある。学校が関与できるのは、基本的には校内生活に限られると思うのです。生徒が家庭を出て、学校に行き、そして家庭に帰るまで、この間に関しては、学校のコントロールの範囲内で、この範囲において校則を掲げるならばそれはよいでしょう。しかし、家庭に帰った後はもう個人の私的自由の領域です。学校とは関係がない、もしくはその家庭の親の親権が関与する場面です。ですからそういった側面についてまで学校の校則が規制を及ぼすとすれば、それは学校の権限の範囲外なのだと思います。
 ですから、もし校則で「家庭生活においてもバイクに乗ってはいけない」と規定するとすれば、その校則は学校の権限外のことをしているのですから効力を持たない、せいぜいアドヴァイスにとどまると考えるべきでしよう。これに対して「バイクに乗って学校に登校するな」と規定するならば、これは有効な校則だということになるわけです。

水上健造 集団と個人、家庭とのつながりは理解できましたのですが、校則ということになってまいりますと、これは監督官庁とのかかわりかたはどうなっているのでしょうか。学校がなんらかの規則をもっていないと、学校は、認可にならないのでしょうか。そのヘんの関係はどうなりますか。

安西 学校内のことについて規律をもたない学校というのは、これはおかしいわけですね。だから学校内のことについては規律をもたなくてはいけない。それは必要だと思います。学校外の個人の私的な生活については、学校は本来コントロールはできない。これは目的外。そこまで規制している校則があるとすれば、それは関係のないことを学校が言っているということになるのです。

水上 校則をつくるときは、なにがしかの監督官庁がございますね、高等学校だったら東京都とか、大学なら文部省とか。そういうところとは全然無関係なのでしょうか。

安西 それは、学校内のことをしっかりコントロールしているか、この範囲について校則がしっかりしているかという、そこまで。それがしっかりしていれば学校としてしっかりしたものですから、それができているかどうかということです。

石原 安西さんがおっしゃった、家庭と学校を切り離すというのはよくわかるのですが、学校の中なら先生たちが何をどう決めてもいいか、ということが問題だと思うのです。国の法律だったら国民の代表である国会で決めますね。学校の法律である校則を教員だけで決める権利があるのかどうかということですね。

安西 それは本来的には契約としても無効になるのです。

石原 それは憲法に違反しないかどうかで決まるのですか。

安西 民法90条というのがありまして、公序良俗に反する契約は無効とするとされています。そして個人の自由なあり方を抑圧するような契約は、公序良俗に反して無効であると考えることになると思います。

司会 人間というのは何らかの形で所属集団が明確で地位が確定していないと、人びとはうさんくさく感ずるのですね。だからマスコミなどに「住所不定」とか「無職」と書かれているだけで、"これは怪しい"という偏見を持つようにになりますね。
 その所属集団というのは二つあって、 一つは運命的に規定されてしまう所属集団ですね。たとえばぼくは、鈴木家に生まれたくなかった、富豪の家に生まれていれば黒塗りの車で送り迎えされてさぞ幸せだろう、と子どものころ考えたのですが、否応なく貧しい家に生まれてしまった。これは逃れようがないですね。
 男と女の問題でもそうです。実際には、最初に産婆さんが暗い電灯の下で覗いて「出ているから男だ」とか「引っ込んでるから女だ」とか言うわけです。ですがそれは大きい小さいもありますから、小さすぎて女と間違えられて育った人もいます。それが今度はセックスの区別ではなくジェンダーの問題になってしまって、女は女らしく、男は男らしくという、社会的に容認された男性・女性が出てくるのですね。この辺りが井上先生のテーマなのですが。
 そういうものに反逆しているのがニューハーフや第三の性などの現象ですね。これはたいへん興味深くて、夜のテレビで見ているのですけれども。
 もう一つは、自らが選択してかちとった所属集団ですね。学校もそうです。ところが契約の関係で入った集団であろうとも、現在はその集団が身分保障になるのですね。だからぼくは名乗るときに、単に自分の名はもう名乗れない。「和光大学の」と冠をつけて言うわけです。
 ということは、契約でかかわった集団であり、その集団と個人との関係は契約関係だといっても、「学校が関与するのはこの線まで、そこから先は家庭の領域だから学校は関知しない」という安西先生のお考えは正しいけれども、教師どもはそうはとれないのですね。「うちの学校の生徒だ」というように考える。そう考えたときに侵害は始まるのですね。
 それは同時に企業と個人との関係になって、飫冨先生のテーマになってくるのだろうと思いますが、飫冨先生の先ほどのお話に対して何か質問があればおっしやってください。

鈴木(岩) 日本の経営家族主義について、また企業における女性の役割をどう考えたらいいのですか。

飫冨 それは二つの問題があると思うのです。 一つは先生がおっしやった、経営家族主義というのは家父長制ですね。
 これは、男性が中心の社会構造になっている日本的経営です。もう一つは企業論。その企業の中において女性の役割はどこにあるか、という。労務管理部門とか、あるいは商品によっては、この戦略を女性が一番適任というわけで、専門職の場合でも、何でもかんでもすべて女性というわけにいかない部分があると思うのです。
 現在は、機能論でいけば平等だということになると、そこには男女共通な言語が企業の中のルールとして出てくるわけです。それを"女性だからこう""男性だからこう"というふうにしてしまうと"女性はこの職業にはつけないのか。男性だけがつけるのか"と。これは基本的には間違い。あくまでも機能論の原理が一つある。
 一方では日本の経営家族主義が家父長制に温情主義、共同体理論で説明できると思う。

鈴木(岩) 先生に質問されたからあえてもう一つつけ加えますと、女らしさ、男らしさという"らしさ"のもっている意味はわかりますよ。女らしさというのは、どうなっているんだろうか。そういうことを司会の鈴木先生の質問に加えても、よろしいのではないのでしょうか。井上先生よろしくお願いします。

司会 手短にお願いします。

井上 女性総合職の難しさという問題ですが、飫冨先生も言われましたけれど、いまの企業のあり方が大きな問題だと思います。私は、企業における性別分業と家庭における性別分業、両方の問題だと思うのです。企業についてはだいたい先生が言われたとおりで、あまりつけ加えることはないのですが、企業自体がいままで男性中心につくられているなかで、女性が総合職で入ってきたときに、周りの人もどうやって対応していいかわからないということがあったようですね。
 それから、女性が管理職になっていくときに、言葉の問題だけではなくて、男性文化のなかで管理職やエリート・コースがつくられているという問題と直面せざるをえないわけですね。たとえば部下との対応の仕方とか、お酒を飲みながら何かを決定していく仕組みとか、あるいはゴルフやマージャンをしながら親密感をつくっていくとか。そういうものは、女性が育てられてきた文化とはかなり異質なものなんですね。その異質なものをあらためて身につけていかなければいけないという負担が、女性が総合職になっていくときにはあるわけです。
 飫冨先生の最初のお話にもありましたように、 いまの日本は企業中心主義の社会で、その会社に入った個人は減私奉公、企業のために全力を尽くすことが期待されている社会です。家庭生活を顧ず、家事・育児は妻に任せて、男性の労働者はすべて企業に奉仕することが期待されている。その前提には必ず役割分業型の家族があるわけです。家のことは妻に任せて、自分は安心して企業戦士として出て行くということが期待されている。
 ところが女性が総合職になっていくときには、奥さんの役割をやってくれる人はいないわけです。女性は家事・育児も自分でやりつつ企業の中でめいっぱい働くことが期待されるという、二重の負担に追い込まれる。そうすると総合職は続かないということになってきます。
 ですから私は、企業の中での役割分業も変えていかなければいけないし、企業を支える家庭のなかでの役割分業も変えていかないことには、女性が男性と平等に働くということは難しいと思います。またそのような状況ですと、男性自身も自分をなくして、企業人として、組織の中の人間として、オーガナイゼーション・マンとしてしか生きていかれない。男性も、企業人であると同時に個人として、さまざまな側面をもった全面的な人間として生きていくことが望ましいとすれば、企業のあり方自体を、変えていかなければいけないと思うのです。それが同時に、女性が企業で働きやすい条件にもなっていくわけです。結論は飫冨先生の第三のモデルという点では同じでして、それが女性にとっても有効だろうと思います。
 それから女らしさの意味ということですが、女らしさ一般ということになるとプラス面とマイナス面と両方あると思いますので一概に云えません。女らしさ・男らしさという伝統的な観念は、女性にとっては桎梏になっています。
 しかし言葉についていえば、女性には敬語を使うとか丁寧な表現をするとか、相手の気持ちを尊重して相手の合話をサポートするというような傾向、ある意味ではそれが期待されているわけですね。そういう意味での女らしい言語行動様式が女性には義務化されていることは問題だと思うのです。
 しかし、人間関係をスムースに進行させていったり、人間同士が優しい気持ちで接したりすることは望ましいわけで、そのときには女性の側だけがそれを期待されるのではなくて、女性らしさと言われている優しさとか思いやりとか、女性的な話法とか、そういうものを男性も身につけていくことは意味があるのではないかと思います。
 その意味で、 いまは女らしさと言われているもののかなりの部分が、男女共に望ましい人間像の一面として組み入れられていくことが望ましいのではないか、と私は思っておりまして、 レジュメの最後に「女性の言語法の再評価を」と書いたのはその意味なのです。女性の言語法が女性のみに義務化されているのではなくて、男性もいままでの言語法を少し変えて、男女共、ときに応じて丁寧になったり命令をしたり、それぞれ個人として行動できるようになっていく、というのが望ましいと思います。

司会 ありがとうございました。井上先生のレジュメに「発言権や話題の選択権は男性に、女性は補佐役」と書いてありますが、これは訂正した方がよいのではないかなあ、とあらためて思いながら読んでいました(笑い)。

塚田 男女較差の是正は一朝一夕には片付けられない問題です。数年来、女性の総合職ヘの進出が話題になっていますが、企業内の多くの女性社員は、将来入社して来るはずの後輩のために、茨の道を地道に切り開いているのです。同輩の男性を凌ぐ女性もたくさんいます。
 この「企業」の中に「官庁」を合めてもよろしかろうと思いますが、実例を一つ挙げてみましょう。
 私の知人の息子さん夫婦は大変なエリートでして、息子さんは裁判所に勤める若い判事、お嫁さんは霞が関にある某官庁の若い課長なのです。彼女はそのお役所の同性の先輩と一しょに、「今後、官庁内で女性の地位を高めるためには、私たちが男子に負けないような働きをして、官庁内の女性観を変えて行かねばならない」と考え、猛然と仕事をこなしております。平素は企画や調査で、国会の開期中は議員の質疑や問い合わせのための待機で、ほとんど毎晩12時を過ぎないと退庁できない。時には徹夜もしますので、幼いお子さんがいても平素は構っている暇がないのです。夫君の方も調査や判決文の作成で、これも大抵は午前様!お子さんの教育は父方、母方のおじいさん、おばあさんが幾日かおきに分担しているのです。
 女性が将来、総合職に多数進出して、男性に負けない働きをすることは疑いありませんが、現在のところはまだまだ前途多難というべきでしょう。

上西哲雄 私は今から10年程前まで、さる民間企業でサラリーマンをやっていたのですが、私がそこを丁度辞める頃に女性の総合職というのが導入されようとしていました。勿諭会社側の総合職への転換の募集に応募する女性社員もいましたが、意外に少なかったように思います。それは、彼女達のどこかに"男にはなりたくない"という気持ちがあったからと思えるのです。今でもそうですが、女性が自立するというのが一般にどうも"男になる"ということを意味するようなところがあって、総合職になるということを同時に彼女達は"男のように働く"と受け止めていたのだと思います。例えば「社会は男が出るものだ」というのが単なる比喩ではなくて実際に女性が社会に出て行くためには男にならざるを得ないというわけです。もっと端的に言うと、"男になっちゃうと結婚もできないんじゃないか"、"男のように仕事をしてしまうと、せっかく会社に入って結婚相手を見付けようと思っていたのに周りの男に嫌われちゃうんじゃないか"というようなものが、彼女達が総合職に応募するのを阻んでいるのではないかと思うのです。女性の自立というのは男性になることかということ。そのへんに総合職の問題があるように思うのですが。

司会 学生のほうから、だれかありませんか。
 昨年は、関心をもちやすい、とっかかりやすいということで「言葉」だったのですが、今年はどうやら男(おとこ)女(おんな)問題が一番の関心事になったようで、組織のほうはちょっと薄れた感じですね。社会学のほうでは「集団」というのは「ソーシャル・グループ」、「企業人」というのは先ほど井上先生がおっしゃったように「オーガナイゼーション・マン」という言い方をしますね。それに対して、集団という規定には入らない存在、マス(大衆)、あるいはクラウド(群集)、こういうものが一つの圧力になって個人を支配している。これは上西先生のある意味では基本テーマであったという、(上西先生に)このコメント、まずいですか。

上西 いえいえ。

司会 その辺りをもう少し上西先生のほうから補足的に…。なぜアメリカ文学における個人と集団なのか。作家活動というのは、例えばある人が自分は素敵な詩を書いていると思っても、本屋はその人が書いた物は売れないだろうと判断すれば、たぶんやってくれないでしょう。あるいは読者がついてこなければ、事実上作家活動は成り立たない。その個人の主体性とそれに対する社会側の関係というなかで、サリンジャーなどは四苦八苦していたのだろうと思うのですが。

上西 締めの挨拶をされるのかと思って、ボーッとしていたので…(笑い)。

司会 締めには早すぎます。きょうはまだストレート・パンチが何も出てない。ジャブだけで。

上西 じゃあ、そのパンチを更にかわして飫冨先生のほうに流してみます(笑い)。今の御質問をお聞きしながら先程の飫冨先生の御話を思い出していたのですが、個人の目的と企業の目的とが一致するというモデル、どうなのでしょうか。個人が企業の中で偉くなりたいというのは、作家で言えば本が売れるようになりたいということでしょうか。先程のモデルでは出世するためにはよい仕事を一所懸命やることで実現するということだったと思うのですが、それが作家の場合はそれが良いものを書くというようになるのか、良いものを書けば売れるのかなあと思うと、そうならないのですね。ということは、おそらく企業でも一所懸命働けば出世するというふうにはならないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
 実際問題、企業の中の行動としても、たとえば個人的な対立とか派閥を作るとか、そういうモデル化からはみ出るようなことがあるのではないでしょうか。作家活動の場合でも、売れるということと良いものを書くということとは違うという時代に来ている。"売れる"は"売れる"で独立したメカニズムがあるというのが、わりと現代的な感じがあるわけですね。
 その辺りはどうなのですか、飫冨先生。たとえば"あいつには負けたくない"とか"あの女には出世させたくない"とかいう、非常にイレギュラーな行動があるような気がするのですが。つまり、カネを儲けたいというような本当に個人的なものとは別に、あたかも企業のためのようであってそうでないような行動が、一方であるように思うのですが。

飫冨 一つは、さっき言ったように日本の社会構造というのはノルマと出世がリンクするわけですが、その場合、一定の評価基準は忠誠心なんですね。"私はこんなに遅くまでやっていますよ"という。大企業でも官僚でも、遅くまでやることが忠誠の論拠になるのですね。それをフォローするための深夜バスがある。新宿や東京発一時、二時の深夜バスが出ているわけです。
 会社人間は、自分の評価をいつ、どのような型、つまり評価の項目とその基準に非常に関心があります。それは、評価が高ければ高いほど出世が速くなり収入も増えるからであります。日本の場合、圧倒的に多い評価基準は、売上高であり、利益額であります。この場合、プロセスや手段などはあまり問題にせず、常に経済的目標の達成が第一優先されているのです。 一方このことは、ある意味において企業戦略に直結していたのです。さて、いま先生のおっしゃっている問題は二つあると思います。 一つは作家というか書物、それをどう考えるかという論理があって、消費者ニーズに合うかどうか、自分ではいいものをいっぱい書いていると思っても、だれも買ってくれない。しかし、企業というのは、消費者ニーズに合わせてつくっているわけではない。ある程度大量にできるものをどんどんつくるわけで、企業はいかにも消費者ニーズに合った行動をとっているようで、じつは違うのです。また、逆に考えるとPR方式をもちいて、あまり大したものでなくても、 一気にバァッと爆発的に売れるものはたくさんあるのです。作家の作品も商品として考えればマーケティングだとか市場再戦略だとか、方法によってはまだまだ売れることも可能なのだということです。企業のなかの個人というのは、ほんとうに微々たるもので企業のなかに全部取り込まれて満足して過労死したって頑張る、これがいまの姿だということは認識してもらいたい。"それが欲求なのだ""おれはこの会社の一員なのだ"といって頑張っている個人がおおぜいいるということ、これは理論と違って現実だから、それをもとにしなきゃならないとぼくは思っているのです。

石原 日本で石原慎太郎の「太陽の季節」が映画と結び付いたり、角川書店が映画を作ったりしたように、映画と文学との結び付きはアメリカでもあったのではないですか。

上西 全くその通りです。あの中で申し上げた出版業界のコングロマリット化というのは、戦後、映画会社、テレビ会社が出版社を買収することによって出来るわけですが、そういうところが出版活動に参加することによって、出版と映画やテレビの結び付きが急速に強まります。そういうところが出版に参加することによって、良い本を読者が選ぶことを目指して、そのような本を市場に送るというよりも、あらゆる媒体、宣伝、テレビ、全てを使って売り込むわけです。作家によっては、本は売りたいけど、宣伝のために騒ぎたくないという人もいますが、勿論そんなことは許されなくて、物凄いお金をかけて本を売り込むわけです。

石原 映画をつくってから本を売るという戦略がはやって来てますね。角川映画とか。普通は本が売れてから映画化するのが順だったけど。初めから売るための計画を立てる。

上西 特に映画との結び付きでは、アメリカの場合は1920年代に入って映画産業が一人前の産業として黄金時代を迎えると同時に文学の映画化が始まります。確かに現在のような映画主導型の小説作りは新しい現象ですが、映画と出版の結び付きはかなり古いものです。

松永 ぼくは文学には素人ですが、文学史を、このように経済的な動向との関連から見ることは、ベストセラーズとかミリオンセラーズとかいう形で、ほんとうにいい本が売れるんではなくて、売れる本がいいということも起る可能性もあるのではないか。これまでの文学史では、時代を背景にしつつも、作品のテ―マや内容に重点が置かれ、時代の流れの中で評価を得たものが取り上げられて来たのではないかと思うのです。上西先生のように経済的な変化に視点を置くと何か見誤るような傾向が出てくるのではないか、という気がするのですけれども。

上西 文学史は作品の書かれた時代背景をもとに、それでも作品の内容を中心にして書かれてきたのだろうということですが、私はむしろ文学史が書かれた時代背景が文学史の書き方を決めるように思っています。
 例えば、アメリカ文学の歴史が大学で授業として採用され、教科書が作られ、教えられてきたのは1920年代に入ってからなんです。1920年代というのは、第一次世界大戦後、アメリカが初めて世界で一番裕福になった時代で、そういう愛国心のもとに書かれているのだと思います。
 先程挙げたホーソーンは、「アメリカン・ルネッサンス」などと凄い名前でよばれる文学の潮流に位置付けられていますが、本当にそんなに凄いものなのか。しかし、1920年代のアメリカ人にとっては、世界の一等国であるアメリカの文化の源流はどこであろうかと考えてみて、それは第一次世界大戦に勝って世界に広げるアメリカ民主主義の成立した時に違いない。それは、 一九世紀初め、 つまり独立戦争があって、英米戦争に勝ってジャクノン民主主義の出て来る一九世紀の前半ということになるわけです。その頃の作家や作品群に「ルネッサンス」などと凄い名前をつけたというところがあるわけです。こう考えると、ルネッサンスという名前は一九世紀前半の時代背景よりも、名付けた1920年代のアメリカ人の意気込みを反映しているように思うのです。
 それから、私はアメリカの文学市場の中で「売れる」ということが次第に重要になっていくと考えていますが、売れる作品で文学史を書くべきだと思っているわけではありません。むしろ、そういうふうになってくることが文学とどう関係しているか、というふうに読んでいきたいわけです。
 さっき触れましたホーソーンなどは非常に1920年的なものに支えられて文学史に浮上してきたところはあるわけですが、そして一九世紀半ばに売れていた本といえば圧倒的に女性によって書かれたものなわけですが、かと言って、文学史からホーソーンを消し去って、当時のベストセラー作家と作品で文学史を書くべきとは思っていません。むしろ、殆ど女性中心の時代に男性作家がオズオズと入って来る、そのオズオズさ加減に、アメリカの文学が文学市場として成立していく際の微妙なものが反映しているのではないか、あの時代についてはそういう角度から評価していくべきではないかと考えているのです。

井上 私は文学はよくわからないのですが、出版学会というところに入っているものですから、出版活動には関心をもっています。時代構造・産業構造の変化に作家がどう対応してきたかということをアメリカ文学史に即して説明された上西さんのお話にはとても興味をおぼえました。このお話に、もう一つ、出版産業の構造という軸を入れると、もうちょっと見えてくるものがあるのではないかと思います。日本で言えば、1950年代末以後の高度経済成長期に出版産業も大きく構造変化を遂げる。たとえば印刷技術が改良されるとか、新書判形式が出てくるとか、見開き単位で情報が把握できるような本の構成といったことなどが開発されて、良いものが売れた結果としてベストセラーになるのではなくて、あらかじめベストセラーをつくっていくという現象が起きてきた。出版産業の内部構造自体が、産業構造全体と作家とを結ぶ媒介として機能する、こうしたことがアメリカの場合にもあるのではないか。そこをもう少し伺いたいと思います。
 もう一つ、読者層について。女性作家から男性作家へというときに、そこではたぶん読者層の転換があったと思うのですが、読者層がどのような構成になっていて、男性作家がつくる作品を読む読者層がどの程度形成されていたのか…。読者層には時代が反映しているわけで、読者層の変化という観点からこの問題をもう少し考えられるとおもしろいなと思います。ぜひ研究を続けていただきたいと思います。

上西 出版業界の状況については、今回は、言うまでもなく素人の俄か勉強でしたが、もう少し詳しく用意していました。ただ時間の関係で省かせて頂いたわけです。いずれにしても、今後とも勉強したいと思っています。
 ところで、読者層の転換ということについて少し申し上げたいのですが、美術史の方で有名なクレメント・グリーンバーグという評論家がいます。その人がどこかで、20世紀前半の芸術をアバンギャルド、前衛的な芸術を指向したものと、大衆に迎合するようなもの、つまりはキッチュにわけて、最終的にはアバンギャルドは減びざるを得ないというようなことを言っていたように思います。つまり、前衛的な芸術を受け入れることができるのは時間的にも経済的にも余裕がある階層だけだ、そういう貴族的な階層は歴史的にじり貧だから、そこに依存する芸術も必然的に減びざるを得ないというようなものだったと思います。必ずしもそうでもないかなという気がしないでもないのですが、先程から申し上げている良い作品と売れる作品という問題と、読者層の問題の接点にはグリーンバーグの洞察は重要かなという気はします。文学は美術よりももっと大衆を前提にしないと成り立たないところがあるので、むしろもっと極端に出るのかもしれません。

司会 読者層の話が出ましたけれども、年齢的にいちばん本を読まなければならない時期にあるのが学生だと思うのですが、「このごろの学生は本を読まない」というのが教師の口癖のようになっていますね。先ほど学生側から、男と女の問題のなかで、これからは意識改革をはかっていかなければいけない、という発言がありましたけれども、いったい何に依拠しながらおのれの意識を改革していこうとするのか、そういったころで、さっきの発言者でなくても結構ですから、だれか学生から発言していただきたいと思います。「われわれはきちんと本を読んでいるんだ」とか「いまは"売らんかな"主義の本だから読まないんだ」とか、開き直った発言をもらいたい。それで有終の美を飾っていただいて、そろそろ締めたいと思います。

学生 安西先生にお訊ねします。たとえば村は町に、町は県に、県は国にというふうに、より大きな集団に飲み込まれてしまう。
 個人と集団との関係が、小さな集団とより大きな集団との関係においてもそのままあてはまる、と先生はお考えでしょうか。

安西 ここで集団と考えているのは、個人のアイデンティティにかかわっているような、われわれが自分で「おれは和光大学のだれだれ」というふうに自己規定をする際に使うような集団を考えているわけです。「私は○○県のだれだれ」とはあまり言わないでしょう。「私は日本国のだれだれ」とも言わない。そういった集団は別にして、学校とか会社とか、個人の自己規定に深くかかわってしまって、それゆえに個人のステータスに関わってくるような集団を考えているのです。

司会 まだ質問したい人もいるでしょうし、説明不足という感じがするかもしれませんが、時間がすでにオーバーしています。そろそろ締めさせていただきたいのですが、報告者のほうで何かおっしゃること、ございますか。
 話し出せばキリがないからやめておく?では、そういうようにお聞きしたことにして(笑い)、拙い司会でございましたが最後に委員長のほうからご挨拶をいただいて終りにしたいと思います。

水上 先は開催時間が多少おくれたのと、杉山学長先生の出張への出発時間がとうに過ぎていたということもありましたので、開会宣言だけいたしました。ここにあらためてご挨拶を申し上げます。
 長時にわたりどうもありがとうございました。学部学科を越え、全学的規模でのシンポジウムは昨年九月に続いて二回目でしたが、貴重など報告や熱心なご討論を感謝申し上げます。
 ここに掲げている本は昨年のシンポジウム「文化としての言葉―あなたと私の世界」を出版したものです。
 今日のシンポジウムの結果も出版する計画です。この点につきましてもご協力を御願いいたします。
 本当に長時間ありがとうございました。

―お詫び―
 録音テープの操作に誤りがあり、後方に着席していた教員や学生諸君の発言が収録できませんでした。
 その後、発言した学生は申し出るように掲示しましたが、徹底しなかったためか掲載が不可能になったことをお詫びします。

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