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個人と集団に関わる人権問題

安西文雄◎経済学科講師


1.問題提起

 一、この十数年ほどの間に、学校の校則に関わる訴訟がいくつか提起されるようになりました。例えば1985年(昭和60年)、有名な丸刈り訴訟判決が熊本地裁で下されています(1)。熊本県のある町立中学校の校則で、男子生徒の髪は一センチ以下、長髪禁止となっていたのに対し、自己の信念にもとづいて入学以来長髪を続けていた中学生が校則の無効確認などを求めたのが、この事件です。

 また最近若干関心を集めた事件として、バイク三ない原則(高等学校で、バイク事故を防止することを目的として、免許をとらない、バイクを買わない、バイクに乗らない、の三つを原則として定めるもの)を校則で定める学校が、この原則に反したことなどを根拠として生徒に自主退学の勧告をしたという事件があります(2)(結局、生徒はこの勧告に従いました。勧告とはいえ、実態においては半ば強制なのです)。

 これらのケースについては人権論の見地からも検討の目が向けられ、私事に関する自己決定権(それは憲法13条の幸福追求権を包括的基本権条項と捉え、その具体化として新しい人権を導出する考えにもとづく)が、十分尊重されていないなどの点から批判されているところです(3)

 ところで私がとりわけ関心を寄せているのは、これらの校則が学校外の私的生活にまで関わっている点です。バイク三ない原則などはまさにそれであり、バイクに乗って学校に来るなというだけにとどまらず、学校とは関係のない私的生活においてもバイクとの関係を一切断ち切ることを求めるものなのです。道路交通法では16歳を越えれば免許試験を受けることができ、試験に受かった場合、公的機関が当該個人に運転能力ありと認めるのです。なのに、運転能力認定の専門家でもない高等学校が生徒の学校外の純然たる私的生活に規制を加えてよいものでしょうか。さらにいえば、学校外の生活は親の親権がカヴァーする領域ですから、学校の校則は親の親権に対する侵害を加えることになってしまうのです(4)

 丸刈りの強制も、これに似た問題意識で捉えることができます。頭髪のことは、校内生活のみならず、校外の生活にも関わることです(家庭に帰ったら頭髪を丸刈り以外のものに変えることはできません。この点が制服と異なります。制服は家庭に帰ったら変えることができます(5))。そして校外生活に関わる点では、バイク三ない原則の問題と同様です。ここでも校則というものが学校外の私的生活まで規制してよいのかが問題になるのです。

 二、学校から会社に視点を移してみましょう。会社における人権が問題になった判例として著名なものに、いわゆる三菱樹脂事件判決があります(6)。1963年(昭和38年)束北大学を卒業して三菱樹脂株式会社に就職した者がいました。彼は、在学中一時期だけ学生運動に参加したことがあります。第二学年頃の一時期だけのことでしたから、就職活動の頃の彼にはこのことがあまり念頭になかったようで、会社の入社試験の面接の際、会社側から「学生運動をやったかね?」と開かれても「やっていない」と答えていました。この会社では入社後三カ月間は試用期間とされていますが、その期間中に、彼がかつて学生運動をやっていたことが会社側に判明し、かつ会社側の誤認も加わったらしく、彼は本採用を拒否されてしまいました。そこで思想の自由が会社と個人という私人間でも保障されるのか、という争点を含んだ事件に発展したのです。

 ところで私が関心を寄せているのは、会社という組織集団がその従業員の私的なあり方にどこまで関わりうるのかということです。会社は法的にいえば「営利目的の社団法人」(商法52条、54条)です。営業活動として事業を行なっているのですし、従業員は事業を担当してくれればそれでよいはずなのです。従業員のそれ以外の私的なあり方、とりわけのその人の思想は事業の運営にとって無関連なことではないのでしょうか。

 三、学校や会社という組織集団が、個人の人権に介入してくるという問題をみてきました。そしてそこにおいて私が関心を寄せているのは、組織集団がその本来の目的を越えて個人の私的領域に踏み込んできているということです。学校の校則が学校とは関わりのない個人の私的生活に介入したり、会社が事業とは関わりのない個人の心のあり方に介入したりすることがそれです。

 ところで我々は学校や会社という組織集団と、どのように関係しあっているのでしょうか。我々は無意識に、「私は○○会社の者です」、「私は○○大学の学生です」という表現をしています。つまり我々は特定の集団(会社、学校)と深く関わり、そういった集団との関わりにおいて自己を規定しているのです。そして先に指摘した、会社、学校という組織集団が個人の私的生活に過度に介入しているという問題と、我々の自己規定のあり方とは、リンクしているのではないでしょうか。それを以下において考察してみましょう。


2.モデルの対比

 一、個人というものがどのように認識されるのか、という点から考察をはじめましょう。我々は無意識のうちに「私は○○会社の者です」という言葉を使います。つまり特定の集団への帰属によって自己を規定しているのではないだろうか、ということを述べました。この点をモデル化して対比のなかで考えてみましょう(7)

 一方の極にあるあり方を、所属アイデンティティ・モデルと名付けてみましょう。つまり、個人はいかなる組織集団(会社、学校)に所属しているのか、ということによって認識されるというわけです。このモデルの下においては、何をおいてもその人は「〇〇会社の人」、「〇〇学校の学生」だということになります。こういった組織集団への所属性を離れて認識される「個人誰々」は存在しないということになるわけです。

 この対極にあるあり方を、個人アイデンティティ・モデルと名付けてみたい。つまり、まずもってかけがえのない個性を持つ「個人誰々」がいるのである。いかなる組織集団に所属しようと、それは二の次だということになりましょう。

 さて我々は、以上の二つのモデルのうちどちらによっているのでしょうか。明らかに所属アイデンティティ・モデルだといえます。しかもその度合いがかなり強いのが日本社会であるということは、一般に認識されていることでしょう。例えば学校と生徒との関係を考えてみよう。生徒自身、その学校の生徒という所属アイデンティティによって自己を捉えています。親もわが子を当該学校の生徒としてみるし、社会一般もその学校の生徒として扱います。だから、仮に生徒が町の小売店で万引きをしたりすると、個人誰々が万引きをしたとは普通言いません。○○学校の生徒が万引きをしたと言われます。そして、事件としては学内生活とは関わりがないのに、当該学校も自分の生徒がそんなことをして申し訳ないなどと言うのです。

 二、以上のように認識される個人と、組織集団との関わりについてはどうでしょうか。さらに思考を展開し、ここでも二つの対極的なモデルを提示してみましょう(8)

 一方の極を、個人包摂モデルと名付けてみましょう。これは個人認識のあり方における所属アイデンティティ・モデルに対応しています。「自分は何なのか」自体が組織所属性で決定されます。それほどの重要性を持つ組織集団なのですから、個人は組織集団にすっぽりと飲み込まれ、包摂されてしまうわけです。日本のサラリーマンの標準的なあり方、 つまり会社人間と言われ、サーヴィス残業もいとわず、会社外においても上司と部下という会社内的関係を維持しつつ交わるというのは、人格自体が会社という組織集団に包摂されていることの現れであるということができましょう。

 さて、この個人包摂モデルの対極には、個人独立モデルがあると考えられます。これは個人の捉え方としての個人アイデンティティ・モデルに対応しています。個人は彼自身の個性において自己を認識するのであるから、個人にとって組織集団は外在的な存在であるといえます(これに対して個人包摂モデルにおいては、組織集団は個人にとって内在的です。なぜならば彼のアイデンテイティ自体が組織集団への帰属性で決定されるのですから)。つまり、組織の外に厳然たる、そして侵しがたい「個人」がいるというわけです。個人はある特定の目的の範囲においてのみ、その組織集団と関わるのであり、目的の範囲を越えて当該集団が個人の私的領域に介入することは許されないのです。このモデルを会社に当てはめてみれば、個人は、契約した動務時間、自分の職務をする限度においてのみ会社に関わる。個人は、趣味、ボランティア、家庭生活、ライフ・ワークなど、諸々の側面において自己実現をする主体なのであり、会社という組織集団は、個人にとっては自己実現の一側面にすぎないのです。

 三、以上提示してきた、所属アイデンティティ・モデル=個人包摂モデルと、個人アイデンティティ・モデル=個人独立モデルとの対比において組織集団(学校、会社)と個人とに関わる人権問題を提え直してみましょう。

 まず、学校です。ここにおいては所属アイデンティティ・モデル=個人包摂モデルの色彩が濃厚です。学校は生徒の全人格を丸ごと飲み込み、教育のみならず、本来は家庭・親権の領域であるはずの「しつけ」をも代行する機関となっています。そしてさらに生徒の自己アイデンティティをも左右するのです。  こういった状況の下では、地域社会は学校に対して生徒の枝外生活の監督をも求めてきます。例えば、生徒が帰宅後友人と喫茶店に行きタバコを吸っていたような場合、それを見た地域社会の人は学校に連絡するのです。また、生徒が帰宅後自宅近くで白転車の二人乗りをしていたような場合、それを見た地域社会の人は、生徒に直接危ないと声をかけるのでもなく、親に言うのでもなく、学校に電話をかけてくるのです。

 本来、子どもの校外生活の監督は、親の親権の領域です。その親自身が校外生活の監督を学校に任せてくるのです。高校生がオートバイ事故で死亡したような場合、その葬儀の場で親が涙ながらに「学校がオートバイを禁止してくれていたら、こんなことにはならなかったのに」と言うことがあるそうです(9)。こういったことに表されるように、生徒の全生活を包摂する機関として学校を捉える見方が、あたかも正当なもののごとく主張されているのです。

 地域社会も親も、そして生徒自身も、以上のような認識ですから、学校としても生徒の校外の私的生活は関与しないとは言えなくなってきます。かくして個人包摂モデルの下、学校としては本来関わってはおかしい生徒の校外の私的生活にまでわたってこと細かく校則で定めるのです(朝何時に起きて歯を磨きなさいと規定したり、見てよい映画を決めたりします)。

 次に会社です。ここにおいても所属アイデンティティ・モデル=個人包摂モデルの色彩が濃厚です。本来、従業員は定められた勤務をすればそれで事足りるはずですが、そうはなっていない状況、つまり一括して「会社人間」と言われる状況は、我々のよく認識していることです。

 先にあげた三菱樹脂事件を見直してましょう。個人がかつてどういう思想を持っていようと、あるいは現在どういう思想を持っていようと、それは個人にとって自由な領域であるはずですし、また会社としても、その個人がどういう思想を持っていようと、定められた勤務をしてくれればそれでよいはずなのです。これは個人独立モデルによる捉え方ですが、現実にはそうなっていません。実社会においては個人包摂モデルの色彩が強い。つまり、個人はいったん会社に入ると(「入社」という言葉は会社における個人包摂モデル観を端的に示しています)、個人は会社に完全に飲み込まれ、会社に減私奉公することになります。会社は個人を人格丸ごと飲み込むのですから、個人の内心の思想・信条も問題になってきます。つまり、その個人の考え方が会社の「社風」に合致するのか、ということまでみてゆくことになるのです。

 こうしてみれば三菱樹脂事件は、会社が個人を飲み込んでみたが、その個人が異物なので吐き出したものだ、と捉えることもできましょう。

個人と集団に関わる人権問題については、とりわけ組織集団の肥大化と、その下での個人抑圧という問題認識が重要だと思われます。そしてその背景には、個人の捉え方としての所属アイデンティティ・モデル、個人と組織集団との関係としての個人包摂モデルがあると考えられます。こういった実社会の現実を認識しつつ、あえてその対極に個人を重視するモデルを置き、あくまで個人にこだわる人権論的見地から現実の諸門題を規範的に再検討してみる必要があるのではなかろうか、と思われます。

[注]

(1) 熊本地裁昭和60年11月12日判決、行集36巻11・12号1875頁 本文の元の位置へ戻る

(2) 最高裁平成3年9月3日第三小法廷判決、判夕770号157頁。 本文の元の位置へ戻る

(3) 例えば、星野安二郎「頭髪・服装の自由、自己決定権―長髪禁止違憲訴訟と関連して―」立正法学論集16巻3・4号67頁以下(1983)、小林武「校則による中学生の生活規制と司法審査―『丸刈り』訴訟熊本地裁判」南山法学10巻1号241頁以下(1986)、戸波江二「丸刈り校則と自己決定の自由」法律時報58巻4号92頁以下(1986)、同「校則と生従の人権」法学教室96号6頁以下(1988)、広沢明「学校教育と子どもの人権「生徒の髪型の自由をめぐって―」日本教育法学会年報17号190頁以下(1988)、坂本秀夫『校則の話』(1990)、芹沢斉「校則問題―学校生活と生徒の自由・権利―」法学教室136号39頁以下(1992)等参照。 本文の元の位置へ戻る

(4) 坂本・前出注(3)86〜88頁。 本文の元の位置へ戻る

(5) 坂本・前出注(3)40頁。 本文の元の位置へ戻る

(6) 最高裁昭和48年12月12日大法廷判決、民集27巻11号1536頁。 本文の元の位置へ戻る

(7) ポール・ボネ『不思議の国―ニッポン vol.3』180〜185頁(1982)参照。 本文の元の位置へ戻る

(8) 三戸公『会社ってなんだ―日本人が一生すごす「家」―』79〜99頁(1991)参照。 本文の元の位置へ戻る

(9) 坂本秀夫『バイク退学事件の研究』14頁(1987)参照。 本文の元の位置へ戻る

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