目次へ戻る
前へ 次へ

企業目的と個人目的の統合化をめざして

飫冨延久◎経営学科教授

 今回のテーマは「個人と集団」と銘打っておられるので、素直に考えるとやはり個人が主体で集団が従と理解した方がよいでしょう。この意味でいきますと私のタイトルを「個人目的と企業目的」という形にすればよかったな、失敗したかなという気がするのですが、たとえば「親と子」というとき、あれは「子と親」と言うことはないですね。場合にもよりますが……

 経営学で個人の問題と企業の問題をどう考えるか、これは非常に古い問題です。さきほど上西先生もお話しになった会社の方針にいつのまにか個人が取り込まれてしまい、個人の価値が損なわれてしまう。さて企業と言った場合、類似用語として組織体、集団、群集などがあります。上西先生は文学者ですから、あまりこだわりを持たないでしょうが"文学と集団"とタイトルにあり、内容は文学と組織体のことなのです。集団と組織あるいは企業とはずいぶん違うのです。その前に群集という概念もあります。「きょうは休講だ。みんなでどっかで騒いで……」、これは群集です。群集は一般的に自然発生的で、規則や定められたリーダーは存在しないものです。それが組織になりますと一定の要件が必要になります。まず第一にどんな目的であるか、目的の定式化です。第二にその目的を達成する意欲、すなわち貢献意欲です。第二にコミュニケーションです。 レジュメにも書いておきましたが、組織化の過程に人間の本質や本能が、また本来的な欲求が入ってきます。

 そこで企業目的と個人の目的が一致できるかということで、四つの仮説をつくってみました。企業目的と個人目的すなわち会社は利益を求めるとともに、多種多様な目的をもち経営されます。たとえば消費者には良質安価な商品やサービスの提供、従業員には適切な賃金の保障とやり甲斐がある仕事の提供などがあります。一方会社の構成員である従業員は、持家が欲しい、能力を開発し生き甲斐のある生活をしたいなど欲求を充足しようと努力します。これら会社の目的と従業員の目的が一致(統合)することが課題であると言われています。さて、本日のテーマについては、次のような仮説が存在します。

(1)会社の目的と従業員の目的は全く別な次元であり、その統合はありえない。
(2)会社と従業員の目的は、すでに合致しているからそれを問う必要がない。
(3)会社の目的は、その構成員の目的を集約したものであり、会社の構成員である従業員の目的は必然的に会社の目的と合致している。
(4)会社の目的は、多様であり多元化している。
 また、個人の目的も同様にひろがりを持っている。企業存続に、その構成員である従業員の目的との統合が前提である。

 さて、この四つの仮説を詳しく述べてみますと一つ目は、"法人というものが持っている目的と、たった一人の人間が持っている目的が同じはずがない"というもの。もちろんその場合は、企業の規模だとか業種の関係などで、この場合には(1)が当てはまる、この場合には(2)が当てはまる、ということも出てくるでしょう。三つ目は、会社の目的はその構成員の目的を集約したものであり、会社の構成員である従業員の目的は必然的に会社の目的と合致しているものであるという考え方であります。四つ目は、会社の目的は多様であり、多元化していて、個人の目的も同様のひろがりをもち、そして企業存続のためにはその構成員である従業員の目的と統合化が前提であるという考え方であります。ここでは四番目の仮説を容認して進めていくわけですが、現実はどうも企業の目的と個人の目的が合致できないという姿を見つつ話してみたいと思います。

 さて企業と個人を考える場合、まず企業というのは経済・経営的用語で、法律あるいは一般用語では会社と言いますが、日本の企業社会(あるいは会社社会)は一体どうなっているのか、これが企業部分の問題です。もう一つは個人レベルの問題としてわれわれが考えている企業人、サラリーマンの感覚はどんなものでしょう。すなわち人間の労働観、企業観はいかなるものかということです。学生諸君は、来年あるいは再来年は社会人(企業人)になるわけですから、この二つの点について自分なりの意見をまとめておく必要があります。さて、日本の社会というのはどうも会社本位主義なんですね。この間、中国の人に会いまして、「中国は社会主義の国である。日本人も社会のために一所懸命働いているから、日本も社会主義の国じゃないですか」という妙な質問を受けました。「よく分かりませんけれども、社会のために働くのが社会主義とすれば、日本は会社主義です」と私は申し上げてしまいました。日本人は一所懸命、会社のために働きますね。会社では働くが、家では働かない。家では寝ころんでいるだけ。これが会社主義の基本です。いわゆる企業の中では企業戦士で、家ではぐうたら人間。日本は、個人が、その企業の犠牲になる。昨日のテレビでも過労死の問題がとりあげられておりました。会社のために自分を犠牲にして一所懸命やったところが、じつは死んでしまった。全くバカげたことですよ。その裏側にあるのは、日本社会の二重構造です。日本の社会は、国、行政、企業という二重構造をもっているわけですが、その領域がどうも暖昧になっているのではないでしょうか。国がやるべきことを企業がやり、企業がやるべきことを行政がやり、行政がやるべきことを企業がやっています。このため日本経済が、世界の中では特殊として位置づけられてしまい、この日本型企業社会の見直し論が出てきております。特に日本の場合には、国の日的イコール企業の目的で、経済絶対主義、利益誘導型で、国が企業を育ててきたわけですね。そのお陰で日本の経済は一流、政治家は三流。日本の政治家が三流というところに、今の汚職の根源があるわけです。政治家と企業家目的の一致というのは、さっき言った政・官・財の三位一体が汚職の構造になるわけですが、みんな、自分がやることも他人のやることも同じに考えているのですね。だから法人から企業から、政治献金を出す。政治献金というのはもともとは慈善行為ですね。博愛精神や慈善で出すもので、そこまではいいのですが企業から選挙運動員を出す。企業ぐるみで選挙運動をする。この辺が一つ大きな問題だと思います。ましてや社会貢献とかメセナとか。この問題も1%クラブができまして、計上利益の1%を社会貢献に投ずると書いています。文化の活動は、行政がやること、われわれは分かりませんから"どこそこに寄付をしました"と聞くと、 いかにも企業は大きな視点にたち行動し、しかも日本の国は豊かになったなあと誤解します。それが今の日本の大きな間違いでもあるわけで、企業がやるべきこと、国がやるべきこと、行政がやるべきことが非常に曖昧になっています。そこには違った論理が動いています。それがゼネコン汚職であり、日本の構造汚職につながっているのです。

 企業市民(コーポレート・シチズン)という言葉がありますが、企業も市民と同じように考えなければならない、という具合に新聞には書いてあります。しかし、 コーポレート・シチズンというのは、企業を構成している一人ひとりが市民である、市民は企業のサラリーマンでありながら一人の市民ですよ、というのがコーポレート・シチズンシップの基本なのです。それが企業の市民性とか、企業は大いに社会に貢献するなどと言って、道路をつくるにも学校をつくるにも、全て企業の寄付に頼っています。とんでもないですね。また財団というのは、本来は個人がつくるものですね、フォードとかロックフェラーとか。ところが日本の財団はみんな企業がつくっています。そして、日本の場合にはみんな役割が曖昧になってきて、あれもこれもいっしょくたにしてしまう。日本の場合には、会社を中心にしてことが行なわれています。その基本に法人資本主義という考え方もあるわけですが、資本の論理ではなくて法人資本の論理によって社会が動いています。

 なぜ日本は会社本位の社会になったか。その原理は二つあるのですね。ノルマ制と出世の原理なのです。ノルマを達成すれば出世する、いいポジションにつくことができ、会社も栄え日本の経済は良くなるわけです。自分を犠牲にしても、単身赴任してもノルマ達成がまず第一だという考えなのです。このノルマ制度の背景にあるものは、同業他社とのシェア争いと人事評価が売上高など経済的側面にあることなのです。会社のトップの考えていることは、いかにシェアを高め同業他社を追い抜くかを考えているのです。社員は、朝から夜おそくまでノルマ、ノルマに追い回されているのです。その結果、"働き蜂"といわれ、定年後残るのは"お金でもなければ、名も残らず疲労感だけが残る"のです。したがって、ノルマを達成したというノルマの原理が日本の経済を発展させたわけです。

 二番目は、会社がもっている役割です。それは、うち・そとの論理とも関係してくるわけですが、よく「先生、うちの会社はね」と言いますね。あるいは「うちの大学はね」「うちのゼミはね」という言い方もします。うち・そとを分ける原理があるのですね。それがじつはいま言った会社本位ということろにつながっているわけです。うち・そとを分ける原理は何があるか。それを最もよく説明しているのが三戸公教授(中京大学)が主張されている「イエの論理」なのです。その主張の主なものは、共同体理論と日本の家族主義であります。自分にいちばん身近なものは家族ですね。お父さん、お母さん、これはいちばん自己と同一視できるものです。利害が最も強い、利害がいちばん強い関係を第一次関係といいますが、まあ家族・家ですね。その次にムラが出てきます。地域的な活動範囲がムラになるわけです。集落が自分の守備範囲だった。けれども今は、隣の家は何をやっているか分からない。ムラの論理がいままでは地縁社会となり、場合によっては"遠くの親類より、近くの他人"ということになります。現在は利害の強い関係が、血縁・地縁より会社になってしまったのです。そこに、利害者集団が形成されてくるのです。

v  利害というのは、利もあるけれど害もあるんですよ。得失というのは、得もするけれども損もする。人間はなるべく利のあるほうへ、得をするほうヘ考えていって、それを自分の生きる道としてしまおうと考える。ムラの理論は、自己とムラの利害によって行動します。それは社会の利害と相反することがあっても捨象されてしまう。これは政党の派閥も全部同じ。ムラの論理の利害がいちばん強いほうへ、得失のあるほうへ動いていくというのがあるんですね。昔は、たいていのことが村で行われたわけです。田植え、稲刈り、村祭りなど、また冠婚葬祭を初め、全部ムラの論理のなかで処理されておりました。今はそれを全部会社がやるんですよ。皆さんが会社へ入れば、冠婚葬祭など、会社の同僚や上司によってまるでお祭りのごとくやっています。したがって今は、ムラの原理より組織(企業・会社)の原理のなかで考えていくようになっています。これはじつは企業という観点から見ると会社の設立、企業規模の拡大、大量生産過程などをとっても、会社人間をつくっていかなければより生産性が上がらないし、利益も出ないという考え方から来ているのです。

 今は、会社がムラなのです。「個人を犠牲にしてもムラ(会社)のために」というムラの原理、「個人を犠牲にしても会社のために」という会社社会、企業社会、こういう原理が日本にはあるわけですね。テレビを見れば相変わらず「24時間働けますか」と、働け、働けという原理がどんどん流れてきます。夕方になると、薬屋の前で沢山のサラリーマンがドリンク剤を飲んでいます。(五時から男たちが……)これは異常ですよね。とんでもない日本がここにあるのです。ですから企業本位社会というのは、"人生の場が会社"なのです。学習も遊びも趣味もすべて会社でやる、生きている間じゅう会社のことを考え、会社とともにあるのです。かといって会社は、個人の目的はすべてを満足させてくれません。四〇代で肩たたき、出向、そして定年で終わりです。どんなに一所懸命やっても、葬式はやってくれるかもしれないけれども、"ハイ、それまで"。定年を迎えることなく過労死という形で世を去る人も出てくるし、連日、残業手当が付かないサービス残業とか、さらには仕事を風呂敷に包んで家に持って帰ってやるフロシキ残業、全く何のために働くか―自分のためではなく、みんな会社のためなのです。

 四〇代以上の方がたにとっては大変です。趣味もなにもみんな会社に任せてきたから、自分は何をやっていいか分からない。個人の目的がないわけです。会社イコール自分の人生だった。人生の場が企業だった。それが日本の社会ですね。週休二日になっても、お父さんは会社に行き、土曜日、会社が閉まっているのに気づき玄関でボーとして座っていたとか、会社に行っているとき普通の人、あとはボケ人間になってしまうのです。

 次に、個人のほうへいきましょう。今までは、「ヒト、もの、かね」と言われていましたね。なんでヒトをものやカネと同等にみるんですかねえー、これらを同レベルであつかうのはおかしいと思うのです。人は、紙や石油などとは違うし、材料ではないのですよ。いまは、「商品(製品)、資本、情報」と言われています。なぜ人間がこの要素に入らないのか。その理由を挙げてみましょう。

 まず、人間というのは労働力の提供者です。これはストックできますか? 人間はお金を出せば確保できます。しかし、労働力というのはリアルタイムです。蓄積できない。したがって他の要素とは違うのですね。

 二番目は、製品とか資本とか情報などは質を問題にしますね。「これは非常に良質で安価な製品だ」とか「良質な資本だ」とか「悪質な情報ではない」とか。人間の労働力はどうですか。これほどバラつきのあるものはないですね。あるいは人間特性として、この人は営業向きだとか、キメ細かいとか、創造性が高いとか、繊細な人だとか、非常に細かく一人一人違った特性があります。もう一つは、経験とか教育とか知識とか気力とか意欲によって、品質はいつでもかわりうるわけです。"昨日は良かったけれども今日はだめ"とか、"あの人はグループなど複数の中ではよくやるが一人になると全然ダメ"という人もいるし、要するに品質の部分で人間は他のものとは全く違うのです。

 もう一点は、他のものは切り売りができます。 一つひとつバラバラにできる。労働力というのは人間そのものだから、部分・部分に分割しては考えられないのです。この二つの点において、どうもこれは三要素に入らない。いくらいい製品があっても、いくらいい資本があっても、それをまとめる力は組織です。資本はない、しかし非常にいい製品がある、情報も得られるというとき、それを結びつけるもの、ジョイントさせるものが組織いわゆる人間の集合体なのです。そして、組織イコール人間。そういう意味で、人間が中核になると考えなければならないわけです。 

 次に、企業と個人の関係を二つのパターンで考えてみましょう。 (図表参照)[注1](22KB)

 まず1のタイプ。これは独立型、欧米タイプです。企業と個人は従属関係ではなくて、契約関係。労働はあくまでも収入を得る手段。対価と引換えに労働を提供します。いわゆる労働商品説とでもいおうか、お金をもらって引換えに労働を提供するわけです。契約社会というのは、なにかアメリカ型で嫌だなあとおもうでしょう。しかし、これにはいい所があるのです。何かというと、労働力の高度化をはかるためにはクオリティを高めなければならない。企業と個人は契約関係だから、高い価格で契約を結ぶとなると能力開発を積極的に行ない、資格や技能を身につけ、労働を公正に判断させる材料を沢山つくることでは、このパターンも悪くはないし、意味はあります。企業と個人がニーズをもって対応するというタイプです。

 2のタイプは、個人が企業の中に入ります。日本的な感覚ですね。労働の義務感、労働奉仕観。"自分を雇ってくれた会社のために一所懸命やろう""おれを仲間に入れてくれたゼミのために一所懸命やろう"という帰属意識イコール忠誠心なのです。この帰属意識がじつは義務感につながっていくのですね。おれを仲間に入れてくれたという感謝の気持ちが忠誠心になり、奉仕の精神につながります。日本の経営は、家族主義というこれが二番目のタイプです。だから自分をなくさなくてはならない。犠牲的精神が会社のためになり、すなわち、家や会社のために犠牲になることが美徳であり、自分にとって誇りであり、生きがいであるという考え方であります。企業側からすると、終身雇用という型であり、家族的意識で全て面倒をみるという考え方になるのです。

 問題は3番目です。自主的参加型。個人は主体性を持ち、自己の信念や認識にもとづきその組織(企業)に参画します。自分の主体性を保持しながら、なおかつ組織(企業)の目的達成にも協力していこうというパターンです。自分は失わない。社会一般のルールも守っていく。そして、企業の目的も自分なりの立場で考えていこうというものです。すなわち、自分の特性や能力を発揮して"生き"てゆく日標を設定し、人間として充実感をもち、かつ企業行動に参画するものです。

 "理屈はいいよ、具体的な話はどうなんだ"というのがレジュメの4[注2](31KB)です。マズローという人が、ここに書きましたような仮設を提示しています。人間の欲求には、まず生理的欲求があります。"お金が欲しいな、美味しいものが食べたいな"というような欲求ですね。"お金が入ってもあまり危険なことはしたくない"というのが安全の欲求。"お金があって危険なことはなくても、孤独じゃ嫌だ。仲間が欲しい、相手が欲しい"という社会的欲求・仲間欲求が出てきます。"自分の主張や意見を認めてもらいたい"という自我の欲求が出てきます。最後は自己実現の欲求。この自己実現の欲求と先ほど挙げた2番目の図が対応してくるわけです。

 そうすると企業としては、目標による管理ということが考えられます。いま、厚生省でも各経済団体でも「個人生活優先社会に移行しなければならない」ということを盛んに言っていますね。個人の生活優先社会とは何か。それは一つには、自己実現欲求の達成にあるのではないかという気がします。そのためにはいま話したように、会社の論理から個人の論理に変えていかなければいけません。そして、会社本位社会から早く脱却しなければならないと思います。

 学生諸君は、大きい会社へ行けばいくほど早く会社人間になります。会社へ就職したならば、それはカネをもらいながら能力開発しているんだなあと考えて、自立自主の精神をもってやることだと思います。

 いま「20世紀は崩壊の時代である。経済第一優先主義も破綻した。社会主義社会も悪い、アメリカ経済も悪い、日本の社会も悪い、新しいものが出てくるのではないか」という期待があるわけですね。皆さん方も新しい感覚でものごとを見て創造性を養ってほしいと祈っています。新しい感覚で企業や社会をみすえてほしいのです。人間は、可能性をひめております。必ず何処かに「青い鳥」はいますよ。大いに期待しております。

 本日はありがとうございました。


目次へ戻る