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文学と集団 アメリカ文学の成立と変遷

上西哲雄◎文学科助教授

 今回のシンポジウムのテーマは、昨年から引き続いての「あなたと私」という大きな問題の中で、特にその関係が「個人と集団」という形をとった場合について考えてみようというものです。わたしの問題提起は、この問題を作家という個人が社会という集団にどう関わるのかという観点から、文学を巡って考えてみるものです。

 ところで、作家が作家として社会と関わる最も根本的な場面と言えば、作品を世に出す時であることは言うまでもありません。そしてこの「世に出す」というのは、近代社会であれば、作品を商品として不特定多数の参加者からなる市場に出すことを意味します。つまり、「個」としての作家が、殆ど相手の姿が見えないほど多数の「集団」としての読者に接する場―これが文学市場であり、作家が社会と関わる基礎となる場であるわけです。作家が切実に社会を感じるのは、何と言ってもこのような文学市場であることは間違いないでしょう。

 以上から、個と集団という問題を文学を巡って考えるには、文学市場、とりわけ作家を文学市場に繁ぐ橋渡しの役割を果たす出版業を見てみれば良く見えるのではないかということになります。そこでここでは試みに、アメリカ文学の場合について、文学の歴史を文学市場の歴史あるいは出版業界の歴史という視点から眺めることによって、文学史の新しい姿を見ようと思います。  

 さて、文学を市場、あるいは産業として見ようというわけですから、まずは経済を見なければなりません。図1[注1](34KB)はアメリカ合衆国の経済の歴史を大まかに図にしたものです。荒っぽく言えば、 19世紀に市場経済が成立し、20世紀に、管理化が強まると言えます。

 市場経済の成立は、 1776年の独立戦争から1812〜14年の米英戦争を通じてアメリカ合衆国が政治的のみならず、経済的にもイギリスから独立することによって実現します。人口の増加、運河・鉄道網の拡大による交通の発達、産業革命がその背景にはあるとされています。それが南北戦争後、資本主義の発達の加速化により景気循環の波が極大化すると共に、産業の寡占化が進み、それに対応するための様々な規制を通じた政府による経済への介入が19世紀末から始まります。独占的な大企業と政府とによる、市場経済に対する管理が始まるわけです。政府の経済への介入は財政面でも、 1920年代の不況対策、40年代の戦時体制の中で始まり、第二次大戦後の冷戦体制において政府の大幅財政赤字は恒常的なものになります。一方民間企業はコングロマリット化が進み、その経営態度は官僚的管理の方向に傾いていきます。アメリカ経済の市場機能は19世紀的な意味で健全には働かなくなってくるわけです。

 こうした経済全体の動きの中で、出版産業も例外ではありません。 18世紀までは小さな本屋が細々と聖書や暦を手回し輪転機か何かで刷って売るというのがアメリカの出版産業の現実であったのですが、 19世紀に入ると、後に述べますように、流通の整備と本の価格低下によって、文学市場が形成、発達します。そして20世紀に入ると、企業経済が本造りの専門家ではなくて経営の専門家によって行なわれるようになります。特に世紀半ば以降、企業のコングロマリット化で出版企業が他のメディアと結び付き、ベスト・セラーは待つ物から作り出す物へと変貌します。文学市場は出版社によってコントロールされる時代へと変わるのです。

 こうした出版業界の変化が、そこに生きる基盤を置く作家たちに影響を与えることは、言うまでもありません。そしてその影響関係こそが、作家と社会全体との関係の基礎になっていると言って良いでしょう。そこで、以下では少し詳しく各時代の出版業界の特徴を見つつ、それが具体的に作家、文学作品にどのような影響を及ぼしているかを検討してみます。取り上げる作家、作品はナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne [1804-64])の『緋文字』(The Scarlet Letter [1850])、F・スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald [1896-1940])の『偉大なギャツビー』(The Great Gatsby [1925])、J・D・サリンジャー(J. D. Salinger [1919-])の『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye [1951])です。言うまでもなくこの三作だけでアメリカ文学の流れを辿ることは無謀なことですが、 一つの問題提起として受け止めて下されば幸いです。ただしこの三つの作品を選んだのは、それぞれ先に触れたアメリカ経済、あるいはアメリカの出版業界の各時代を良く表現していると思ったからです。

 まず、ナサニエル・ホーソンの『緋文字』と作品の発表された19世紀半ばを見てみますと、出版業界はほぼこの頃市場経済化が完成したと言って良さそうです。出版業に市場経済らしきものが登場するのは、漸く19世紀に入ったばかりの頃でした。毎年春秋に各地の本屋を集めて新刊の書籍を展示するブック・フェアが開催され始めたのも、地方の本屋のための書籍のカタログが出版され始めたのもこの頃です。しかしそれが本格的な市場の形成に発展するためには19世紀前半の産業革命を待たなければなりませんでした。 1820年代、30年代の運河網の拡大、40年代、50年代の鉄道敷設の広がりを通じて出版元から本屋ヘの配送、更には書籍セールスマンの家庭へのアクセスを飛躍的に容易にしました。 1910年代後半の第一次世界大戦まで書籍販売の90パーセントがセールスマンによる戸別訪間販売であったことを考えると、こうした交通網の整備の重要性は言うまでもないでしょう。

 いまひとつ産業革命の出版業界への重要な影響は新しい印刷機械の導入でした。これは大量印刷を可能にし、その結果何よりも価格の低下をもたらして本格的な文学市場の形成に大きな役割を果たしました。加えて、 1830〜40年代にはイギリス小説の海賊版をペーパーバックで郵送販売するという商法が大当たりし、それが郵政当局の取り締まりで不可能になるとアメリカ人による小説の廉価版ブームヘと飛び火しました。アメリカ合衆国の第一次ペーパーバック革命と呼ばれるものです。小説本の価格低下に大きく寄与し、従来金持ちの娯楽であった読書を大衆娯楽にする原動力となりました。大衆の参加により文学は近代的な市場として一人前になったといって良いでしょう。

 この結果、 1840年代の半ばから南北戦争の始まる1850年代末まで、アメリカ合衆国では文学書を中心とする出版業がブーム化しました。例えば19世紀のベストセラー上位三冊としばしば称せられるハリエット・ストウの『アンクル・トムの小屋』(Harriet Stow, Uncle Tom's Cabin [1852])、スーザン・ワーナーの『この広い、広い世界』(Susan Warner, The Wide Wide World [1850])、 マリア・カミンズの『点灯夫』(Maria Cummins, The Lamplighter [1854])が全て1850年代前半に集中しているのは注目するべきことです。しかし一方で、べストセラーのリストが書評紙誌等の文学専門出版物に初めて掲載されるのは、 1885年の月刊ブックマン誌までなく、 19世紀半ばには良い本と売れる本がはっきり区別されていたことも伺えます。

 て、こんな中で1850年に『緋文字』[注2]を発表するホーソンですが、それまでに1837年の『言い古された物語集』(Twice-Told Tales)、1846年の『老牧師館の苔』(Mosses From an Old Manses)といった短編集で文名は上がっていました。とは言え、『老牧師館の苔』に対する書評の中でエドガー・ポーが指摘するように「仲間内で評価されているが、 一般には無視されている天才」というのが彼の地位でした。税関吏として働くかたわら書く短編小説が玄人筋で評価されるセミプロの位置に、彼自身も満足していたのではないでしょうか。

 そうした文学の趣味人としての生活に終止符を打ったのは税関吏職からの失職でした。幸い、時は既に述べたように文学ブームではあったのですが、南北戦争以前には、広範囲に配布される雑誌は皆無の状態で、ホーソン得意の短編小説では食べて行けません。むしろ長編の方が、イギリスからの輸入物だけではなくて、アメリカの作家もベストセラーを出し始めていました。そこで、既に結婚までしていながら友人の援助で暮らすホーソンは、明らかにベストセラーを狙って、慣れない長編の『緋文字』を書いたわけです。その後も1853年にイギリス領事に任命されるまで、 1851年には『七破風の館』(The House of Seven Gables)、 1852年には『ブライスデイル・ロマンス』(Blithdale Romance)と、失継ぎ早に長編を発表します。『緋文字』はホーソンがそれまで、自分を理解してくれていると安心出来る読者、場合によってはそれが誰であるか彼自身知っている読者に向けて手慣れた短編小説を書いていたのから、不特定多数の、それも出来るだけ彼の知らない遠い人々に向けて当時流行していた長編小説を発表することへと、その創作態度を変えた第一作目とも言えるわけです。

 さて、物語ですが、そこでは町の広場に置かれる晒し台が重要な小道具(あるいは大道具)としての機能を果たしています。晒し台が物語の中に登場するのは三度です。(1)物語の冒頭、主人公ヘスタ・プリンがそこに罰として立つことで始まり、(2)ヘスタの不倫の相手ディムズデイルが、町の人々が寝静まった夜ようやく、そこに立つことが出来ることで彼の弱さと苦悩が表現され、(3)最後にディムズデイルが衆人環視の中晒し台に立つことによって救われ、息絶えることで物語りは終わります。人々が集まる広場で人々に見られることが、あるいはそこで罪が明るみになることが罰として設定されていて、晒し台に立つことはそのことを殊更強調するわけです。

 ところで、広場という訳が当ててある言葉は、英語では「市場」の意味をも合わせ持つmarketplaceです。そのことを勘案して読んでみると、この物語の構造に、市場に出て身を晒すことがつらいことであるという作者の認識が織り込まれているように思えてきます。文学市場なるものが急速に成立して、作家がそれによって生計を立てることが可能になる一方で、そのためには不特定多数の読者の前に身を晒す必要が出て来ました。それまで自らのオ能をよく理解してくれた小さな読者群の輪から出て、自らの姿をmarketplaceに晒すことへの躊躇をホーソンはよく表現しているとは言えないでしょうか。 19世紀半ばの個と集団の問題を切実に表現している同時代の文学と言えば、この「市場」を重要な舞台とする『緋文字』を挙げたいと思います。

 に取り上げるF・スコット・フィッツジェラルドの『偉大なギャツビー』[注3]が発表された1920年代は、出版の黄金時代と呼ばれました。しかし文学市場の本格的な拡大は、その前の19世紀後半には始まっています。南北戦争で中断した文学に対する需要は南北戦争後いち早く回復しました。全国的な雑誌の創刊熱、第二次ペーパーバック革命と呼ばれる廉価版の普及、国際著作権法(1891)の制定などによる国内作家の発掘の動きなどにより、文学熱が再び盛り上がったものです。更に、 1852年にボストンに第一号が建てられた公共図書館が1876年には2500館、総蔵書量1200万冊、 1900年には5000館、4000万冊に急拡大したことも、かなり整備されたとはいえ本の購買の障害となっていた国土面積に比べた時の流通の整備の立ち遅れの解消に大きな役割を果たしました。

 1920年代に入ってこうした文学市場の拡大に拍車を駆けたのには幾つかの要因が考えられます。第一に、 1880年代半ばの輪転機の導入を中心に印刷機の改良が重ねられ、雑誌が廉価になり普及し、力ある編集者が新人の発掘に使うようになりました。 一方、古典文学の再版ブームが訪れて、 一般大衆に本格的な文字と親しむ機会を与えるのに大きく寄与しました。

 流通面でも大きな変化が訪れました。百貨店、チェーンストアが19世紀末から20世紀初頭にかけて急増し、それに1920年代に爆発的に進展するモータリゼインョンが重なって、読者が書店の店頭で本を手に取ってみる機会が著しく増えました。それまでセールスマンによる戸別訪問販売に支えられていた出版流通は急激に近代化されたわけです。加えて、書籍のカタログ販売を手掛けるブック・クラブが相次いで設立されたことも、安定した販売という点で出版業を流通面から大きく支えたといって良いでしょう。有力なブック・クラブであるブック・オブ・ザ・マンス・クラブ(Book of the Month Club [1926])、リテラリィ・ギルド(Literary Guild [1927])、リミテッド・エディション・クラグ(Limited Edition Club [1929])はいずれも1920年代に始まったものです。

 以上のような文学市場の大幅な拡大は市場としての成熟をもたらし、出版業にビジネス・マインドのようなものが広がり始めました。どの出版社も長期安定的に販売が見込める既刊書(backlist)の在庫を抱えつつ、ベストセラーを待つというパタンを基本とする経営の体制が確立し、 一方作家の方は1880年代辺りから出版業者に対して代理人(agent)を雇ってビジネス面で専門家を味方に付けようとする動きが出てきます。ちなみに経営学が学として成立し始めるのが19世紀末頃からであり、 1908年にハーバード大学に初めてビジネス・スクールが出来るなど、当時、アメリカ合衆国全体にビジネス・マインドが広がっていました。出版業界も例外ではなかったわけです。

 そこでフィッツジェラルドですが、彼は1920年に発表した処女作『楽園のこちら側』(This Side of Paradise)がベストセラーになって、一躍流行作家になりました。これは出版の黄金時代である1920年代において経済的に大きな成功を意味します。しかしながら、同年結婚した妻ゼルダと放蕩の限りを尽くし、浪費を支えるために短編小説を書きまくるという悪循環に陥ってしまいます。それを断ち切るために一発当てようと書いた芝居も失敗し、起死回生を期して執筆に専念するため、 1924年5月に繁栄に沸き立つニューヨークを後にして渡仏します。同年10月に書き上げたのが『偉大なギャツビー』でした。

 執筆前後に出版社の編集者マクスエル・パーキンス(Maxwell Perkins)との間で交わされた手紙を見ると、校正の段階で物語の構成、言葉の選択から、タイトル、表紙絵まで入念に相談しています。処女作で若者の新しい風俗を混沌とした構成で描いて注目されただけに、彼自身はいわゆるジャズ・エイジの申し子ように持て囃されていたのですが、『偉大なギャツビー』執筆当時の彼にはジャズ・エイジ・ブームは既に去ったとの判断がありました。『楽園のこちら側』からは一転して、整った構成で過ぎ去ろうとするものに対する想いを巡る物語にしています。読者の変化を周到に考慮し、販売を強く意識した創作態度であると言ってよいでしょう。発売されるやその直後から、売れ行きについて執拗に問い合わせています。自らの作品を商品と見る意識が明確に読み取れます。

 物語はギャツビーという謎の人物を主人公にしたものです。この、主人公の謎の解明ということが、物語の展開を支える重要な要素になっています。ギャツビーの謎は大きく言って二つ、ひとつはヒロインであるデイジーとの愛の謎、今ひとつは彼がどうやって巨万の富を築いたかという成功の謎です。この成功の謎の核心は、実は最後まで暖味なままですが、ギャツビーの成功を目指す態度だけを見ると、それは要するに、貧しい過去、暗い現在を隠し、紳士の仮面を被って、不特定多数の客を自宅である豪邸に集めて大パーティーを開くというものです。成功するためには、ホーソンが描いたように姿を晒すことを躊躇するどころか、晒す姿、すなわち仮面を自ら積極的に作り出していくというものです。

 ギャツビーのこのような姿に、フィンツジェラルドは自らを表現していると言って差し支えないでしょう。市場に作家が身を晒すだけではなくて、積極的に売れるように努める。こうした自らの姿こそがこの時代の社会と個人の関係が最もよく現れていると作者フィッツジェラルドは考えていたように思われます。しかし一方で、ギャツビーの物語は悲劇的な結末を迎えます。これは単に愛の物語の破綻だけではなくて、ギャツビーの成功のための努力の破綻をも意味すると言えます。従って、この物語、とりわけギャツビーの成功物語を彼自身の作家活動の表現と考えると、そこには文学市場で彼がやろうとしていることに対する理解とその評価、すなわち、自らを売り出すためには身を晒していかなければならないこと、そしてその先には悲劇が待っていることが、かなり冷静な形で表わされているといってよいでしょう。

 更にその根っこには、 19世紀末から20世紀前半のアメリカ合衆国経済全体に見ることのできた市場経済体制の成熟とビジネス・マインドの広がり、その中に成立する個人と集団の関係が潜んでいるように思われます。集団に対して個は必ずしも自らをさらけ出すのではなくて、装った仮の姿を作って関わることが出来る。むしろ、そうすることによって、個人は個と集団の関係を主体的に作っていくことが出来る。しかし、その先には破綻が予想される。そして、この破綻が何であるのかが見えて来るには、サリンジャーの時代を待たなければなりません。

 そこで、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を見てみますが、その前に第二次大戦後の文学市場の状況を概観します。実は第二次大戦後に文学市場、とりわけ出版業界で特徴的に起こったことは、19世紀末からアメリカ経済全体で起こっていたことの延長線上にあります。企業の合併です。 19世紀末から力をつけたアメリカ経済は第一次大戦後に一挙に世界の超大国になりますがこれを支えた大きな柱のひとつが、この企業合併による産業の集中、寡占です。出版業界の場合とりわけ第二次大戦後に合併ブームが起こりました。

 こうした合併ブームが出版業界に、特にこの時期に起こったのは、 1920年代の出版の黄金時代を支えた同族会社の経営者達が老齢化し、相続の心配が出て来たことに端を発します。企業が成長して大きくなったのは良いのですが、その分支払わなければならない相続税も大きくなったわけです。そこで考えられたのは、会社を株式会社にして相続税を払える分だけの株式を相続し、残りの株式を公開してしまうという方法です。こうして公開された株式が他の企業に買われて買収、合併が進んだわけです。

 こうした合併は出版社同志の場合もありましたが、第二次大戦後に特徴的なのは関連する異業種からの買収です。例えば、放送会社のRCA、CBS、オフィス機器のゼロックス、通信のITT、映画のガルフ・アンド・ウエスタン、MCAといった情報関連の大企業が出版業への進出の足掛かりを得るために積極的に乗り出して来ました。コングロマリット化と呼ばれるものです。

 こうした形での合併は出版業界における経営に大きな変化をもたらしました。出版業の専門家以外の者が経営に参加し、豊富な資金を使い、出版以外の媒体と結合したため、20世紀初頭から始まっていたビジネス・マインドの浸透がより徹底し、本を純粋な商品としてとらえ、売り出すということが全面に出るようになりました。フィッツジェラルドの時代にはまだべストセラーは待つものであったのが、豊富な資金を使い、宣伝、映画化、テレビドラマ化によって、ベストセラーは作り出すものに変わっていきました。商品の供給者が需要を作り出すという、ある意味では市場の操作、あるいは破壊を目指す発想と言えるでしょう。このような豊富な資金力によってベストセラーを作り出された本、あるいは出版の方法をブロックバスター(blockbuster)と呼びます。ブロックバスターは文学市場の市場性を破壊、変質させると共に、作家の主体性も出版者の犠牲にしてしまうといつて良いでしょう。

 第二次大戦後の文学市場と出版業の隆盛は、以上のような出版社の経営形態、経営戦略の変化だけによるものではありません。第二次大戦中、アメリカ合衆国政府は米軍兵士のためのペーパーバック版を大量に印刷配布しました。軍隊版(Armed Force Edition)と呼ばれるもので、 1942年から45年の間に、 1342点、 1億2350万部発行されました。これが戦後引き継がれる形で、ミステリー、西部劇を中心としたペーパーバックのブームが起き、文学市場の拡大へと繋がったわけです。第三次ペーパーバック革命とされています。価格の低下と軽い読み物中心の内容で、文学の大衆化が著しく進みました。良い本を世に出すことではなくて、売れる本を売るという新しい時代の出版会社の経営戦略とも合致した現象でした。

 うした時代に登場して一躍ベストセラー作家になったサリンジャーは、しかし、「高級な純文学」を指向する作家でした。1948年1月、サリンジャー自身従来より自らの作品の掲載を望み、目標としていた高級文芸雑誌『ニューヨーカー』に「バナナ魚に最良の日」が掲載されて以来、主に『ニューヨーカー』を中心に短編小説を発表し、高い評価を既に得ていました。しかし一方で出版業界の内部では扱いにくいエキセントリックな作家としての評判が立っていました。 1951年7月に『ライ麦畑でつかまえて』[注4]は出版されますが、その時にもエキセントリック振りは発揮されました。この頃から宣伝のために新作のゲラやコピーを書評紙誌にあらかじめ送ることが常識になっていましたが、それを執物に断り続け(ぎりぎりになって、『ニューヨーカー』だけには送りましたが)、自分の写真を裏表紙に載せることも拒否しました。出版社のマーケッティング活動に参加させられることを避けて、発表前からイギリスに行ってしまいました。出版業のビジネス化をサリンジャーは真っ向から否定しようとしたわけです。

 最終的にサリンジャーは1965年に『ニューヨーカー』に「ハプワース16  1924」を発表するのを最後に筆を折ってしまいます。しかし、彼が決定的に出版業界との関係を悪化させるのは1959年、短編集のペーパーバック版をイギリスで出す時のことです。当時、SFを中心に大衆文学の出版で急成長を始めていたエースブック(Ace Book)のシリーズに彼の短編集を入れて発表したところ、その俗悪な表紙にサノンジャーが激怒してしまい、それまでイギリスの代理業務を行っていた代理人との契約を一方的に破棄してしまったというものです。自分の表現の読者への伝わり方が自分でコントロール出来ないことに対する苛立ち、出版社によるコングロマリット的な、あるいはビジネス・マインドに根差した市場操作的な文学に対する取り組み方への嫌悪がそこにはあったものと思われます。また、『ニューヨーカー』へのこだわりに見られるように、ある種の高級志向があったことも否めません。しかしこれは、 100年前にホーソーンがおずおずと離れて行った、小さくて快適な文学サークルにしがみつくのと同じで、20世紀半ばの職業作家には、一層時代に逆行した態度と言わざるを得ません。

 さて『ライ麦畑でつかまえて』ですが、主人公は大企業の有力な顧問弁護士の息子で、名門私立高校の生徒という設定になっています。従って彼は、黙って与えられたコースを歩んでいれば父親のように社会の中枢への階段を昇って行けるはずです。それはより広い視点から考えると、文句を言わずに黙って自分の立場を受け入れさえすれば、労せずしてその果実の幾分かにあずかれるはずという戦後アメリカ合衆国の社会の縮図となっています。更には、ブロック・バスター時代に入って、ベストセラーが出版社によって作り出されるようになっている文学を巡る状況をも描いていると言えるでしょう。極端な言い方をすれば、作家は黙って出版社の言いなりになっていればベストセラーは生まれるというわけです。

 物語の中の主人公の行為や語られる考えは、こうした社会を支える世間の暗黙の了解のようなものを「いんちき(phony)」として否定し、従わないというものです。市場経済、自由社会という自由な活動が成り立つはずの社会にいるものの、実際には人々の合意の元に良く管理されていて、果実を得ることが出来るのは管理に従う限りにおいてである社会。良い本を書こうとする作家の自由な表現に、読者が自由に共鳴したり拒否したりすることによって成り立っていて、良い本が良く売れるのではなくて、売れ行きは出版社に操作されている文学市場。こうしたサリンジャーの、社会の構造に対する批判と出版業界に対する思いが、良く表現されていると言えます。私達が今回の議論で切り口としている「個と集団」という視点から言うと、個人と集団のバランスが、集団としての社会の強大化、管理化の急進展によって大きく崩れ、ある集団に入る限り自らの主体性は放棄せざるを得ないということでしょうか。

 物語の最後で主人公は家に戻り、社会復帰のために施設に入ります。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の発表後、15年近く主体性を持ちつつ杜会、あるいは出版業界と折り合いをつけるべく努力しますが、最終的には用意された流行作家の地位へのベルトコンベヤーから降りてしまうわけです。物語の主人公は社会復帰がうまく行くのかどうかはっきりさせていませんが、サリンジャーはうまくいかなかったようです。

 以上、文学という極めて個人プレーの側面の強い世界においても、それが職業となる限り、個と集団の問題がその中心に現れることを見て来ました。このように文学を眺めた時、社会から超然と生きて、社会を客観的に眺めているかのように見える文学者も、社会的な活動の中でもとりわけ人間臭い経済的な面、つまり作品を売るという一点で社会と強く結び付いていること、そしてそれは文学作品の中にしっかりと現れていることが見えて来ました。文学と社会の関係について考える時、こうした個と集団の問題は、作品のテーマとしての個人主義であるとか民主主義であるとかいった思想的、抽象的なレベルではなくて、作者と同時代の社会との生々しい接点にこそ実は最も良く出て来るし、作品についてもその点から大きな意味があるわけです。このような視点から個と集団の問題を文学に当てはめてみると、文学とその歴史が新しい姿で見えてきます。


[注1]

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図1 アメリカ合衆国における市場経済の成立と変質(34KB)

[注2]

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ナサニエル・ホーソーン 『緋文字』 (1850)
 17世紀北米の植民町が舞台。既婚の女性ヘスタ・プリンが夫の不在中に夫以外の男性との間にパールという名の子を産み、姦淫の罪で町の広場のさらし台に立たされる。同時に姦淫を意味するadulteryの頭文字Aを一生胸に付けることも併せて課せられる。その罪の相手は人々に尊敬される若き牧師アーサ・ディムズデイルで、罪を告白出来ずに苦悩する。
 人知れず町にやって来たヘスタの夫ロウジャ・チリングワスは、心身共に衰弱するディムズデイルと起居を共にしながら看病し、死による苦悩からの解放を許さないことで復讐する。
 七年後、衆人環視の中、ディムズデイルはヘスタ・プリンとパールを伴ってさらし台に立ち、罪を告白した後息絶える。

[注3]

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F・ S・ フィッツジェラルド 『偉大なギャツビー』 (1925)
 第一次世界大戦から帰還したジェイ・ギャツビーは、かつて結婚を約束したにもかかわらず他の男と結婚したデイジー・ブキャナンの愛を取り戻すためにニューヨークの暗黒街に身を投じて財を成し、ブキャナン夫婦の邸宅の近くに豪邸を構えて週末毎に大パーティーを開いて彼女との再会を期す。
 一人称の語り手ニック・キャラウエイの計らいで二人は再会を果たすもののデイジーの夫トム・ブキャナンによる追及、トムの浮気の相手とその夫とのもつれもからんで、ギャツビーは凶弾に倒れる。最後はデイジーにも暗黒街にも見捨てられて埋葬される。

[注4]

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J・D・サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』 (1951)
 私立ペンシー高校の生徒ホールデン・コールフィールドは、既に二つの私立高校を放校処分になっているのに加えて、秋学期終了を目前にして、成績不良のために今また除籍が確実になっている。学期が終了して親がそれを知る前の数日を過ごそうと、クリスマス前の週末の土曜日の夜寮を抜け出してニューヨークに向かう。
 ニューヨークでホールデンは知人に電話をし、呼び出し、見知らぬ人に声を掛け、あるいは娼婦を呼んでみたりするが、いずれもしっくりいかない。結局日曜日の夜こっそり自宅に舞い戻る。そこで、両親に知られずにお気に入りの妹フィービーと会うことが出来る。
 彼女との会話に救いを見つけ再び家を出るが、泊めてもらおうとした昔の教師と行き違いがあって飛び出す。翌月曜日の昼、フィービーを小学校から呼び出して話すうちに、自宅に戻ることを決心する。

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