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鈴木勁介◎人間関係学科教授

 本稿は、1992年に行なわれた和光大学全学シンポジウム「文化としての言葉――あなたと私の世界――」に先駆けて、学生を対象に行なったアンケート調査の集計結果を分析したものであり、右の調査の報告の一部である。

 単純集計結果の中で興味のあるデータとして、「あなた」の遣い方がある。目上の他者に対して「あなた」は遣い難いという一般的な通念とは異なり、「あまり抵抗を感じることなく遣っている」と「遣ってよい言葉だと思う」を合わせて17.9%の回答があったことに関してである。
 

 社会的規範意識として、18%ほどを少ないとみるか多いとみるかは論の分かれるところであろうが、「非常に抵抗を感じて遣えない」が半数に達しないことと併せて考えれば、年齢の高い者には多いと感じる数値であるように思う。
 若者世代の中に生じている、言語意識や社会意識の変化の一つの現れなのではないかと考えたのである。  以下に、この現象についての解釈を導き出すための幾つかの分析を試みる。

――1

 作業としてまず、他の調査項目と組み合わせるクロス集計の結果で考えることとする。  例えば、item37の「他人に呼びかけられたときに、特に不愉快に思うのは」という設問の場合である。  

 選択肢の「あまり親しくない人に、なれなれしく名を呼ばれたとき」に反応を示すのは、親疎関係に敏感な回答者群と言えよう。
 それに対して「目下だと思っている人に呼び捨てなど、対等の呼び方をされたとき」に反応するのは、上下関係に敏感な回答者群と考えてよいであろう。
 次に、「特には無い」を選択した回答者群を、対他関係にやや鈍感で無感覚な回答者群と考えてみる。  第一の回答者群を親疎グループ、第二の回答者群を上下グループ、第三の回答者群を無感覚グループと措定してみると、それぞれ、25.3%、29.7%、44.9%となった。
 これらのグループが「あなた」に対して、回答の上で如何なる差異を示すかによって、「あなた」の現在的捉えられ方を見ることができるように思う。(item39×item37―検定統計量20,336、df.8、有意水準5%、カイ二乗値15,507で有意)。
 「非常に抵抗を感じて遣えない」については、上下意識が稀薄な親疎グループが最も少なく、それぞれは41.2%、50.4%、50.3%という割合であった。
 無感覚グループに即して言えば、「非常に抵抗感あり」と「遣って良い」の両方に高い数値を示しており、また「あなた」の使用に関して違和感を"持つ"か"持たない"か、という点ではグループの中での統一がとれていなくて、このグループの固有性を示していると言えるのである。
 そしてこのグループが全体の中で44.8%と多数を示しているところに、社会問題として若者の対人関係における無作法さや、言葉遣いについての話題を提供する一因があるのかも知れない。
 それに対して上下グループは、当然の事ながら「非常に抵抗あり」に最も高い数値を示しているのである。旧来の大人達の考え方に、同調的な傾向を示すタイプと言えるかも知れない。
 他方、親疎グループは「抵抗を感じるが遣う」に最も高く、「遣って良い」に最も低いという形で特徴的である。

 換言すれば、後述する新しい型の対人関係認識や言語感覚を持っているタイプということであろうか。
 次に、item59「名前を知らない相手や目上の人を呼ぶときに、うまく人称が遣えないと感じたことがありますか」という設問との組合わせの結果で考えてみる。
 「ある」とする認識派が64.9%、「ない」という無認識派は14.5%で、「考えたことが無い」の無自覚派は20.3%、その他O.3%であり、きわめて高い数値で困惑を感じてていることが読み取れるのである。(item39×item59―検定統計量24,200、df.12、有意水準5%、カイ二乗値21,026で有意)。
 ところで「ない」の無認識派の場合でも、「あなた」の使用に関しては47.6%が「非常に抵抗を感じる」し、「考えたことがない」無自覚派でも45.3%と、それぞれ半数近くは「非常に抵抗を感じる」のである。
 そして「あなた」を遣って良いとするものは、それぞれ5.7%、8.4%、9.5%と、「考えたことがない」無自覚派が最も高い数値を示したのであった。
 先の「他人に呼びかけられたときに、特に不愉快に思うのは」のクロス集計でみた無感覚グループとここでの無自覚派は、対人関係や言語の使用に当たって留意することなく生活している層と言えなくもない。無感覚グループは44.8%であり、無自覚派は20.3%を占めるのであった。

 更にitem44の「学生は一般に教師に対して"先生"と呼びかけることが多いですが、あなたの意見は次のどれに該当しますか」について考えてみる。
  

 「教える側と教えられる側という関係にある限り"先生"と呼んだ方がいい」という秩序順応型が53.9%と過半数であったが、「教節でも本来は"さん"でいいはずだが、慣習的に"先生"と呼ぶ方が穏当であるLという慣習的穏当型が32.5%あったので、両者を対比してみよう。
 「あなた」を遣う事に関しては、秩序順応型の5.7%に対して慣習的穏当型は8.2%が「遺って良い」としており、ことに「抵抗を感じずに遣う」は前者の8.3%に比べて後者は14.5%と、倍近くの開きを示している。(検定統計量39,436、df.20、有意水準5%、カイ二乗値31,410で有意)。
 回答者群の性向として秩序順応型は上下グループに近似し、慣習的穏当型は親疎グループに近似する。
 以上を要約すれば、以下の三点に整理し得よう。

 (1)言語の規範意識や言語行動において、無感覚であったり無自覚である層が存在していると考えられる。

 (2)目上・目下という秩序認識を基準においている層とは別に、親疎を規範意識にしている層が、割合としてはまだ少ないが存在している。

 (3)上下グループと異なり、親疎グループと無感覚グループは「あなた」を「遣ってよい」には現段階では抵抗感を示しつつも、上下意識が稀薄という事から相互の言語認識のあり方が近似しており、敬語的用法としての「あなた」の意味の変容に関わって、両者が接近していく可能性がある、の三点である。

――2

 無感覚グループや無自覚派の存在は、単に「相手をどう呼ぶか」という言葉遣いの問題ばかりではなく、現代の社会状況や若者世代がおかれている現状の一局面を照射しているように思うのである。
 それは言語コミェニケーションというものが、本来的には対面を前提とする形でなされていたのに対して、パソコン通信や電話ファックスなど匿名的通信手段の増大により、他者をおしなべて一様な受信者と見なして、汎化してしまうという現象と通底するからである。
 匿名であったり、あるいは非対面的な状況であれば本音が語れたり話すことに不安を感じない、などという認識のあり方と通じるのである。
 若い世代に多い電話の長話しも、このような視点から捉え直しをしてみる事ができるのではないかと考える。
 少なくともダイヤルQ2の、複数で会話を楽しめるという「パーティーライン」のブームは、電話の使用目的を変化させた象徴的な出来事だったように思う。
 そしてこれらの若者は、少女育成ストーリーのパソコンゲームに熱中したりもするのである。そこでは彼は英雄であり、少女の良き指導者であり監督であり得る。
 これらのゲームフリークに象徴される若者達は、彼らが作り出した疑似的社会の中でシミュレーションしているだけであったから、実際の社会の中では生きにくいのである。
 そういう現象の一つとして、さしたる理由もなく卒業延期を図る学生達や逆に確たる目的もなく退学希望する学生が増加していることを挙げることができる。

 また、大学の女子トイレの落書きに過激な内容の身の上相談があり、何名かの手で幾つかの回答が寄せられている事例が挙げられる。
 身の上相談の一つの形態なのではあるが、場所柄から想像されるものとは異なって、相談を持ちかけた側はともかく相談に乗ってやった側の反応は大人達が考える以上に真剣なのであり、単なる落書きと言って済ませられる問題ではないように思う。
 同様に、「おたく」という呼びかけの表現形式の始まりは、孤独に劇画を描いていた若者達の世界で交わされたものからとされるが、それは匿名的で一歩距離をおいた認識に裏打ちされた言葉であって、相互が踏み込み合わないことの安心感を象徴していたのである。
 無感覚グループや無自覚派の若者達は、性向として、自己と他者との位置関係や間隔の取り方が掴みとれず、生身の人間関係の中に自己を位置づけ得なくなっていると考えられるのである。
 一方で親疎グループは、一見すれば現代の都市生活を円滑に生きているように見えるが、実態は自らのアイデンティティの不確かさを軽口や冗談に紛らせて、仮構の「あなたと私の世界」を創りだす事によって孤独の影を払いのけようとしているのかもしれない。

――3

 「あなた」が最も多用されている世界はと考えてみれば、夫婦間における妻から夫へである。妻が夫に遣う「あなた」は習慣的であり、固定した一対一の間の「あなた」である。
 もっとも、多くの家庭では子供があるために、子を中心とした地位名称を用いる事となる。
 item57の「あなたの家では家族をどのように呼んでいますか」における、「母が父に対して」の結果は以下の通りである。
 A.ねー4.6%、名前の呼び捨て1.1%、名前+さん(ちゃん)7.3%、ちょっと2.1%、パパ10.4%、おとうさん53.7%、とうさん2.9%、おとうちゃん0.6%、とうちゃん0.7%、あなた8.8%、態度で示す2.1%、その他5.8%。
 「母が父に対して」の呼びかけでは、68.1%が「おとうさん」「とうさん」「パパ」の類であり、「あなた」は8.8%という結果であった。
 だが一般的に遣われる「あなた」にはよそよそしさがあり、隔てを意識させるものがあるから、子が親に反発するときや同世代間でも異性に用いられる言葉になるのである。
 この「あなた」は男女・老若を問わず用いる事ができるから、含意している意味の変容も激しいのである。 他者を指示するために転用された空間指示詞の「あなた」は、当初は高い敬意を含んだ語彙であった。
 だが時間の経過の中で、佐久間鼎の言う「敬語の水準転移」の法則通りに次第にその価値を失い、現在の通念として目上には用いがたくなったのであった。
 それでは若者の一部で、「遺ってよい言葉だと思う」ようになったのは何故なのであろうか。
 一つの解釈として想定したのは、大人達が用いなくなったが故に稀少価値が生じて水準転移の逆転が起きたという考えである。だがこれは全てを説明し得ないようにも思うのである。マスメディ
さまざまな場面で、現実に多用されてもいるからである。
 第二に考えられるのは、敬意はなくなっていても隔ての意識は喚起し得るということである。
 先述の子が親に反発するときや、同世代の異性への発話に見られる使用法である。
 「あなた」は、従来の敬語的価値のあり方としてではなく、隔ての言葉としての丁寧語という意識で用いられるようになったという見方である。
 若者の最も重要な情報源であり、また教育機関でもあるマスメディアの世界で、誰彼なしに汎化して遣われている「あなた」を、若者達は適当な距離感を保ちつつも、相互性を生みだす便利な言葉というように解釈して受けとめているのかも知れない。
 そのように考えれば、目上に丁寧に話すという認識のもとで、18%の回答者は「あなた」は「遺ってよい言葉」だと思った、と言えるのである。

――4

 item38の「日常のやり取りの中で、どんな話題が楽しいですか」についての回答結果は現代の若者気質を現す一つの指標であろう。
 item38 A.冗談や軽口をいうときが楽しい48.9%、小説やドラマ、映画等について語り合うのが楽しい14.1%、国際問題や社会の出来事について意見を言い合うのが楽しい5.6%、自分の内面的なことが話せるから楽しい21.1%、その他10.3%。
 初めに、調査票作成の過程で選択肢に入れる予定であった「議論」という言葉を、調査に協力してくれた若者から「拒絶反応がある」と指摘されたために削除した、という経緯があったことをことわっておきたい。
 回答順位では「冗談や軽口を言うときが楽しい」が49.0%で第一位であり、二位以下を大きく引き離している。第二位は21.0%の「自分の内面的な事が話せるから楽しい」であった。
 それに対して「国際問題や社会の出来事について意見を言い合うのが楽しい」は僅かに5.4%である。
 「冗談や軽口」は、相互が立ち入ることなくまた相互が傷つくこともなく、一定程度の距離を保ちつつ関係をもてる話題である。
 後者の「国際問題や社会の出来事」の話題は、当然のことながら相互に意見の対立を生みだし、議論にたち至る話題である。
 前者が好まれ後者が好まれないことと、「あなた」への反応は微妙に相関するのである。
 青年達が基準としている親疎という関係認識のありようは、相互が権利や義務を分かち合わなければならない運命共同体的な濃密で辛気くさい関係ではなく、冗談や軽口が言える程度の乾いた関係であるように思う。それは一見すればスマートであり、都会的であるように見える。
 「あなた」は、子の無い家庭の妻から夫への習慣的用法を除外すれば、対面場面では一般的に大人達には遣い難い言葉である。それは隔て感覚と敬語意識の両方を意識の上に喚起させるからであろう。
 しかし、若者の一部の者の「あなた」にはそれらの意識は働かず、本来は深刻に語り合うべき話題を冗談や軽口で流してしまうように、物理的には対面していても心理的に対面していないという、匿名的な関係性を象徴する一つの表現形式になっているのかも知れない。
 それに対して、第二位になった「自分の内面的な事が話せる」は女子学生の提言を採用して取り入れた選択肢であったが、男性の13.9%に対して女性は29.9%が選択して倍以上の開きとなっている。
 この辺りに先述の女子トイレとの関わりもあるのであろうし、「あなたと私の世界」を構築する際の性差のありようの違いも潜んでいるのであろうが、これは別の機会の課題としたい。

――5

 時代を常に先取りし、時代の様態を行動の中に反映させるのは、いつの時代でも若者世代である。
 このことからすれば、18%とはいえ言葉「あなた」が含意していた上下の秩序認識の欠落の背景に、匿名化社会の現実が投影しているように思う。
 おしなべて他者を汎化するという現象には、テレビジョンを中心としたマスメディアが語る相手を常に不特定多数に求めざるを得ない、という事とも関わっていると言えるのである。
 「あなた」の遣い方を通して浮上してきたものは、本来が匿名的であった都市型社会の中で、追い打ちを懸けるかのようにして提供される、より匿名化が可能な通信機器や、指向性の不明確なマスコミの発する言葉の洪水によって、自己のアイデンティティを見失ない、自我不安にさいなまれつつ魂の彷徨を余儀なくされている若者の姿でもある。
 そして言葉「あなた」は、元来担ってきたはずの敬語的意味基盤を失ない、婉曲表現としての社交語的意味を担う言葉へと変質しつつあるのかも知れない。



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