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アンケート調査とシンポジウムに則して

平澤かおり◎人間関係学科四年

 今回の共同研究機構シンポジウムの意義の一つであるとされた、「学部、学科をこえて一つのものを造り上げる」という事は、学生である筆者にとっては二の次であった。
 どちらかといえば「教授と学生の垣根をこえて」という方に興味があったのだが、少なくともシンポジウム会場では、学生の意見を聴こうなどという積極的雰囲気は感じられなかったし、求められてもいないのに教授が議論している中に割って入れる程、きちんとした意見を言えるかどうか、という不安が学生側にもあったように見受けられた。
 ただ鈴木勁介研究室で、鈴木孝夫著『ことばと文化』をテキストとして使ってサブゼミを行なった者として、またシンポジウム用のアンケート作成、集計・解析作業に一貫して関わった者として、あの膨大な量のアンケートがどう料理されシンポジウムという食卓に上がるのか、その味付けは如何なるものになったのかと、非常に強い関心を抱いていた。
 そして、日頃は「教える立場」の者として目前に立つ先生方が、人に教えるためではなく、自分の研究結果を発表するいわば研究者として現われて下さる数少ない機会を逃してなるものかと、興味津々でシンポジウムに参加したのである。

(1)アンケート調査について
 門外漢が頓珍漢な事を記しても意味はないので、取り敢えず、今回のアンケート調査について述べる事とする。  このアンケート調査は1992年6月20日〜7月9日迄という、前期試験を控えてそろそろ出席しなくては、と学生達が思い始める頃に行われた。
 そういう背景もあって、多くの先生方の指導のもとに、千を越すサンプルが集まった訳であるが、このアンケートを参照する際に、注意しなくてはならない点が幾つか発生している。
 まず一つは、数量を得るために、人数の多い教室でアンケートを行なっている確率が六割(教室数・20名以上:20名未満=23:15)となり、人数にすると1,013:151で、20名以上の教室でとったサンプル数は、全体の87%にまで達している点である。
 これは即ち、出席しなくては単位にならない、しかも大教室で行われる一般教育の授業が多かった事を示している。

 これが何故注意しなければならない点かというと、必然的に一、二年生の割合が多くなり、「item 45.教授との親しさ」に関しては、ゼミに属している三年生以上の学生に比べ、低下するのは当然で、「item 44〜45.教授に対する呼び掛け方」等、呼称に関する調査に対しても影響は免れ得ない。そして、「item 67.将来の職業」等、受験を乗り越えてやっと大学生になったばかりの一年生や、就職活動を実際に行なったことの無い二年生に比べ、三、四年生はもう少し深刻で、これら学年の比率が均等では無いという事は、データの解析に不都合を来すという事になる。しかも今回のアンケート調査では、年齢は項目の中に入っているが、学年は聞いておらず、学年別クロス集計をする事は不可能である。つまり、こちらがそのつもりで参照するしか無いのだ。
 そして、一般教育以外でも、出席が不可欠で、大教室の授業がある。それは、経済学部の授業である。経済学部の授業は、レポートよりテストが多いと言われ、また、毎回出席をとる事が多いとされる。
 それに対して、人文学部、特に人間関係学科に至っては、出席もとらず、前後期レポートのみで単位が来る科目も少なくない。
 こうした事情を鑑みれば、経済学部の割合が高くなるのは必定である。しかし、この点についてはアンケート調査に協力した教授が圧倒的に人文学部の教授だったことから、プラスマイナスゼロで一応の均特は保たれている。

 しかし、例えば、将来についての考え方で、経済学科は圧倒的に「営業」が多く、又、芸能人を目指すのは不思議と経営学科の学生であったりと、学科別にデータを分析してみると、結果が全く違う。
 こうした幾つかの点から、このアンケート結果を「昨今の大学生」全体を代表するものとして取り扱う事には、慎重にならざるを得ず、常にこの事実を鑑みて結果に接しなければならないのである。
 しかし、それでもなお、 1,160ものサンプルを集めたこのアンケートは貴重なものである。その中で、着目すべき結果を生み出した幾つかの点を取り上げてみたい。
 まず、何といっても目に留まるのは「あなた」についての項目である。しかし、これはシンポジウムで鈴木教授も発表なさっていた事であるので、別枠を設けて詳細に述べるとし、ここでは別のもの、シンポジウムの会場では影となっていた部分について触れる事とする。

 アンケート調査の「item 63.親しい友人に呼び掛ける時、どの遣い方をしますか?」という項目で、その欄外に『「姓を呼び捨て」というと抵抗があるが』と記入して、「姓を呼び捨て」の部分にしるしを付けていたサンブルがあった。
 女性であったが、特にこの意見が特殊なものとは思えない。何故ならば、筆者も高校時代に友人同志でそう呼び合っていた記憶があるからだ。
 現代の友人同志において、姓を呼び捨てる場合、その意識は、従来「姓の呼び捨て」ということばから想起されるものとは異なっている。「愛称」に近付いているのである。もっとも、使っている当人たちは「何となく」使っているという認識しかないので、改めて「姓を呼び捨て」という項目に分類されようとした時、「それはそうなんだけど…」と、抵抗を感じてしまうのである。
 従来の「姓の呼び捨て」には、敬語的意図を表現する「さん」や「くん」を付けないという点において、距離をおかない、自分と同等で親密であるという面と、それがあるにも関わらず付加しないという意味において、自分と同等である事を通り越して見下しているイメージも拭いきれない。
 欄外にコメントを記入した女性は、これら「姓の呼び捨て」の概念を感覚的に思い浮かべて「抵抗がある」と記したのだろう。

 この「姓の呼び捨て」について、考察を試みたい。
 一つには「姓の呼び捨て」の「捨て」という語感の持つイメージによって、姓を呼び捨てる人間関係はポイ捨ての様な関係であるというマイナスイメージを想起させられる事は確かであろう。また、男性が友人同志呼び捨てる現象を女性が模倣しているとする考え方もあるだろう。しかし、それは今の呼び捨て文化の一面しか表していない。その現状はもっと複雑なものである。
 結論から言えば、「姓の呼び捨て」が包括する概念が変化した訳ではなく、違う側の対人関係の認識が変化したのだという事である。
 これらも含めて、物事を認識する時、我々は大抵そのレベルで考える。何か上があるから下として認識し、下があるから上として認識する訳で、そのものの価値などの評価も相対的に決めるものである。
 そういう理届から言えば、もし、そのものの上として存在していたものが消滅したとしたら、それまでの「下」はそのさらに下の上として、その序列の中で君臨するのである。「姓の呼び捨て」もそうした相対性の世界の中に存在している。
 つまり、対人関係において、姓を呼び捨てにする以上の関係がはっきりと認識できなければ、姓の呼び捨ては「もっとも親しい人間関係の呼称」という地位を得るのである。

 しかし、ここではっきりさせておかなければならない事は、「愛称(あだ名)」という文化が消滅したわけではない事である。
 例えば、恋愛関係といったごく親しい、特殊な関係になった場合、呼び方を考えるようになり、二人だけに通じる、 いわば、それを遣う事によって、その世界に二人しか居ないのだと確認できるような愛称をつける。しかし、この(少なくともその瞬間において至上な)人間関係は、どうしても二人だけの世界を作りたいと思わせるにたるものであるが、友人関係の場合、どうしてもその集団だけに通用する世界を創造しなければならない必要性というものを認識しなくなってきているのではないだろうか。
 ひとつには、単純に姓そのものを愛称にすれば、面倒が無いという事もある。しかし、愛称をつける事を面倒と感じてしまう事自体が友人関係の変化を感じさせるところである。
 これらの点を踏まえた方法が、筆者が一年次の時に所属していたサークルの儀式にみられる。そのサークルでは、入部するとサークルネームと称して各個人に愛称を付ける。
 それは、その人がもともと所有している愛称を自己申告する事を許さず、必ずサークル内部者が決定し、サークル内部ではその愛称でしか呼ばないという制度である。
 誰が何のためにこのような制度を作ったのかは定かではないが、それは結果として、その集団独自の世界を作りだし、意識的に集団としての認識を作るという効果を生み出している。

 これに対し、姓を愛称として呼び合う方法は、集団としての認識を高める役割を果たさない。
 例えば、姓を呼び合っていると「山田」や「清水」、「佐藤」といったよくある姓は、小さな集団でも二人いる事がある。そうした姓だけでは区別出来なくなった場合、愛称を付ければ解決するのだが、そうはしない。
 大抵は姓名をフルネームで呼んだり、まるで名簿の様に「姓プラス名前の一部」で呼んだりする(例えば、「山田和美!」とか、清水友美がフルネームの人に対して「清水友!」という具合に)。
 また、 一つの友人関係の集団の中に兄弟が属している場合、「山田兄(やまだ・あに)」と「山田弟(やまだ・おとうと)が呼称として通用する。「兄」や「弟」は本来呼称ではなく役割を示すことばだが、これを呼称として遣うのである。
 こうした点は、その集団が他を排斥する様な、独自のものであるという認識を育成しない。むしろ、「自分とその人」の関係は、即座に「社会全体とその人」、「自分と社会全体」の関係にすり替える事が出来るレベルのものとして扱っているのである。
 しかし、こうした現象が、関係性を認識したくないから起こったのか、こうした遣い方をするから関係性の認識が変化してしまったのか、 一概には判断できない。

 我々の情報源は友人でもなく、家族でもなく、テレビというメディアだからである。
 テレビを情報源とする現象がいかに急速に浸透しているのかを、アンケート調査の「item 28.あなたが社会的な出来事を知る手段は」の結果が如実に表している。
 情報人手の第一位は二位と四倍もの差を付けて74%で、 テレビ、二位は新聞、三位は雑誌であった。情報というものは何れにせよ、何かを媒介として人手するものであるから、そのものをそのものとして捉える事は所詮不可能であるとしても、 一、二、三位全てがマスメディアであるという事実は踏まえてなければならないだろう。
 事実、筆者が高校生だった六、七年前に流行し始めた「姓の呼び捨てあだ名化現象」は某人気テレビタレントコンビが番組コントの中で遣い始めた事に端を発している。
 この情報人手源であるテレビというメディアは、既に手段であるという様な生易しい段階を通り越している事を、我々もメディアも認識しなければならないだろう。

 これに関連したものとして、アンケート調査の「item 38.どんな話題が楽しいか」、「item 58.誰と話をすると楽しいか」、「item 68.あなたが悩んでいることは何ですか」を掛け合わせてみると非常に興味深い。
 「悩み事」の一位は「対人関係」で、全体の17%であったが、item 38と掛け合わせると「自分の内面」を人に話すことが最も楽しいとした人が悩むのは、対人関係についてが一位であった。つまり、自分の内面を話したいのだが、その話すということ自体が悩みの種であり、更に、その自分の内面を語る相手は友人であるとする人が全体の67%にも達しているのに対して、その友人に何を話すのかというと、冗談や 軽口が他の選択肢を三倍近く引き離して一位となっている。
 こうした点から現状を鑑みると、自分の内面を話すのは友人でしかないが、実際に友人と対面しているときは、冗談や軽口で「面白可笑しく」過ごしてしまうという事になる。つまり、内面を語ることが出来る相手や場所は、実質的にはあまり無いという事だ。
 そして更に、数ある選択肢の中で親と話している時が一番楽しいとした人がいて、この事実は筆者にとってはやや意外であった。

 しかし、そうした人が「対人関係」を悩みの種としてあげた比率は他より高く、次は、兄弟姉妹と話すのが一番楽しいとした人が「対人関係」を悩みとしてあげた比率が続いた。身内に相談する人ほど対人関係に悩んでいるという事も明らかになり、こちらの方は何となく頷ける。
 一般的には、無償の愛情を注いでくれて、共に暮らしていれば、例え言い争ったとしても、次の日には、何の解決をみないままでも元通りになるという、唯一無二の人間関係である家族というものの特殊性にどっぷりと浸かっていれば、数々の試練が待ち受ける友人関係の世界を忌避する人が居てもおかしくはない。  友人関係に自分の内面を話したいという願望を持ちながら、実際にはそこまで深くは関わろうとしない、こうした現状から、現代の大学生の心理を考察してみた。
 これらの現象から言えること、それは現代の若者(現代の若者以外もそうかもしれないが、データが無いので明確には論じられない)の心の中には、常に自分達を見つめるカメラ(自分のみを中心にしているカメラではない)がまわっているのではないかという事である。
 それは従来の心理学で、言われるところの、もう一人の自分などという生身のものではなく、また、「社会的な」と、定義付けられるものでもない。それはテレビモニターそのものであり、非常に機械的なものである。

 そしてそれは機械的であるが故に、常に自己を中心としているのではなく、そのモニターの中のどこかに存在している自分であり、また、自分が存在していない時の「その場」を「みる」事が出来てしまうのである。
 そして本来ならば、そのモニターを創作しているのは自己の意識に他ならないと言いたいところだが、そうではない。相手は者ではなく、物であるモニターだからだ。例えば、その機械の中に映る自分、映ろうとする自分はどういう自分にしたいか、という点で、自己の意識が働きそうなものだが、実際にはそのモニターの中でうごめく自分をプロデュースするものは、ステレオタイプのテレビドラマである。
 この様に、テレビという自己とは別のものに常に映されているという意識が、自分を含めたモニターの中の画像を一つの「絵」として捉え、こうありたいとする自己の意識や、こうありたいとする自己の意識があるという意識すらも排除してしまう。そしてこれは、意識的にも無意識的にも自ら排除しているのではなく、テレビモニターによって「排除されて」いるのである。

 最近、誰も彼も同じ髪型、同じ服装では面白くない、個性の時代だと言われているが、それすらもメディアが仕掛けた流行で、個性を重視しようという方向に「没個性的に」猪突猛進しているだけの話である。  しかし、こういう自己の意識の外で、自己の意識の代替としてのモニターが自己を形成するような現象が、本来の人間の意識からして自然だろうか。答えは否である。
 それが不自然な証拠に、多くが対人関係に悩み、自分がどういう存在なのかに悩み、それを打ち明ける友人を欲しがっている。それは、今、自分がもっている「友人」では無く、何もかも曝け出しても、試行錯誤しながら共に歩める友人が欲しいという切なる願望である。
 十五年程前、星新一という作家の短編小説にこんなものがあった。そこは未来の世界、全ての人が肩にオウムを乗せている。そして人間同志は決して対話せず、自分の肩のオウムに向かって話し掛ける。すると話し手のオウムは受け手のオウムにそれを要約して伝え、受け手のオウムは自分の横の耳に更に要約して伝える。どんなに脚色したことばも、人間同志には二重に要約されてしか届かない。
 この話自体はSF小説でしかないが、このオウムがテレビモニターに思えてならない。

(2)シンポジウムでの「あなた」について
 シンポジウムの表題が「文化としての言葉―あなたと私の世界―」である様に、それが文化であると断言出来る位、「あなた」という二人称の「称詞」には様々な意味が込められている。
 しかし、何故「あなた」は「あなた」でなければならなかったのだろうか。何故、「あちら」が「あなた」ではいけないのだろう。
 現代では、「あちら」が人称として使われる場合は二人称であり、「あなた」は二人称であるが、どちらも漢宇で書けば「彼方」である。そして、「彼方」は「かなた」でもあり、二人称で使われる「あなた」は「貴方」に変化しているが、何故「あちら」は「貴方」に変化しなかったのだろう。
 ことばの永くもあり、短くもある歴史の中で、何時の間にか「あなた」が二人称の「称詞」になっていた要因は、決して一つではないだろうし、文化は流れであるのだから、特にこれといった、他の追従を許さない様な決定的な要因も、あるのかないのか明確ではない。しかし今、「あなた」の立場がそうなっている事だけは動かしようの無い事実で、これを解明するためには、長々しい足し算を答えから逆算して考えなければならないようなものである。
 このような「何故」に対して、自分なりに答えを出す事が出来たものだけ、以下に記してみようと思う。

――何故「かなた」ではいけなかったのか
 「ここ」「そこ」「あそこ」の様に、「こ」の体系、「そ」の体系、「あ」の体系を基準として、「こなた」「そなた」「あなた」の内、距離が長いという点で、「あなた」が尊敬的表現であるならば、「かなた」の方がより距離が長いのに、何故削除されてしまったのだろう。
 これの答えは比較的簡単に見付けることが出来る。「この人」「その人」「あの人」「かの人」としてみれば明確で、「かの人」のみ、距離の指定が無限大なのである。
 特に、自分と対面している相手に向かって呼び掛ける呼称としては、その距離を、少なくとも音声の通る程度の範囲に規定しておく必要がある。
 その規定からすれば、「かなた」は目前に存在している必要もなく、未来を指し表すことすら可能な、不確かな対象に対して遣うことばであるのだから、呼び掛けとして遣うことは不可能なのである。
 ここでの結論は、「あなた」の位置にあることばは、距離感が明確でなくてはならないという事である。  この「距離」は、人称を考える上で重要である。「あなた」は「彼方」であって、これは人を指し示すことばとして遣われ始めた時、第三者を表すことばだった。
 それが、「彼方」が「貴方」に変化して、遣われ方も、話し手が話し掛けている相手を指して遣うというように変化していく。そして「彼方」から「彼の方」の「方」の字、つまり距離の単位であるとする印が削除された形が、距離の厳密な指定をしない「彼」「彼女」である。しかし、翻訳するためにはどうしても必要だったこのことばは、どうにもこうにも日本語にしっくりと、はまり切らない。

 日本語はもともと人称代名詞というものを持っていない。その人の先天的属性や、地位や職業といった後天的属性、もしくは自分やその他との距離を相対的に見て、それを「称詞」として遣っているだけである。従って、当然ものの考え方も、なにがしかの基準に対する相対として、ものをみるように出来ている。  しかし、「彼」や「彼女」は、自己と対面しているもう一人以外の全てを指し示す事が出来るので、「距離」というものを基準として成立していった日本語の中では、何か、漠然とし過ぎているのではないだろうか。
 例えば、両親の事を他者に話すとき、理論的には「彼」「彼女」が遣えて当然だが、実際には自分との距離が明確な両親に対して「彼」「彼女」を進うには抵抗を感じるであろう。我々若年層では遣うこともあるが、主として自分との関係を断ち切って語りたい時、 一個の人間としての価値を前面に出したい時である。
 そして、「彼」「彼女」ということばの距離が明確でないために、その距離を明確にしようとする方向で変化が生まれても不思議で はない。それが、恋人を指す「彼」「彼女」である。  これは、誰かの恋人であるという意味を、本来の意味に付加する事によって、その距離を明確にするのである。
 例えて言うならば、日本語は色々な長さの帯を様々な地点から伸ばしている様なものである。 一本の杭から帯を伸ばす言語の文化からすれば、それが、日本語は論理的ではないとする所以となっているのかも知れない。

――「あなた」は何故遣いにくいのか
 アンケート調査の質問文には、「あなた」がふんだんに遣われている。しかし、それを不自然と感じた人も、抵抗感を感じた人も居ないだろう。何故か。それは、書きことばとしての「あなた」だからである。そして、相手を「これを読んでくれた人」以上の絶対的な特定はしないからである。読んだ相手も、自分のみに直接呼び掛けたものであるとは判断しない。
 ここでは、この直接性、つまり、使用時の距離というものが問題となる。
 「あなた」ということばが、人称代名詞の代わりの「称詞」として成立した過程が如何なるものであったにしろ、今現在「あなた」ということばが二人称の「称詞」として存在していることは絶対的事実である。
 しかし、話している人にとって、二人称で呼べるのは自分しかいないのだという断定的、絶対的な概念を相手に与えてしまう二人称としての「あなた」は、やはり、日本語においては根付かないのではないだろうか。
 成立―成長―衰退―消滅というサイクルの中に「あなた」ということばがあって、今は衰退の部分に身を置いているような気がする。故に、いずれ来るのは消滅である。
 「あなた」ということばが「彼方」であり、「此方」より「そなた」より長く、ある程度の距離をおいて尊敬していますよ、という成長過程を引きずった姿で人々の認識に登場していた頃ならば、遣うことも容易だったろう。
 しかし、昨今「あなた」は「彼方」でも「貴方」でもなくなり、まさしく「あなた」になってしまった。この事が、「あなた」は直接的であるという印象を人々に与え、紙片という媒介物の無い音声の時は「あなた」が遣えなくなってしまったのではないだろうか。

――今回のシンポジウムそのものについて
 あの場所は異空間であった。そう思わせるだけのパワーがあったと思う。自分が所属している学科(人間関係学科)の教授は一応存じあげているつもりだが、誰だかよく判らないような(失礼)教授が御自分の専門分野に照らしあわせて長々と発言していたり、 いつ自分に質問が飛んでくるか判らない緊張感がオーラのように漂っていた。
 このシンポジウムは通過儀礼だ、と思った。祭りには成人する為の通過儀礼の役割がある、と、文化人類学か何かの講義で学習した事がある。だとしたら、このシンポジウムは誰が成人する為の通過儀礼なのだろうか。
 少なくとも、「文化としてのことば」に対して、 一つの方向性を出す様な見解を導き出そうとしていたとは考えにくい。
 「文化としてのことば」を通して、学部、学科をこえた教授陣が、一点に視点を定めていたが、その視点の先にあったものは、「文化としてのことば」の見解では無くて、もっと別のものであった様な気がする。それが如何なるものであったにしろ、シンポジウムの目的の一つであった「学部、学科をこえる」という大命題は、達せられていた様に感じた。
 さて、シンポジウムに参加した一学生として、どうしてもやるかたない不満が残っている。まず、自分達も参加したアンケート調査がほんの少ししか活用されなかった事である。しかしこれは後に、結括として文章が出るという事だったので、時間的制約もあり、致し方ないかと思う。

 英語の話も身近なだけに興味深かったし、ビジェアル的に捉えた話も参考になったし、NTTの話もおかしかった。その他の話もそれぞれ興味深かった。しかし、何故、学生に発言させてくれなかったのだろうか。発言したい事、質問したい事は本当に沢山あって、メモ書きもして待っていたのに…。
 もっとも、今そのメモを読み返してみると、発言したら恥をかいたかもしれないと思うような質問のオンパレードだったが、恥をかくことを承知でも発言し、そんな発言にも真剣に対応してこそ、教授と学生との垣根をこえた素晴らしいシンポジウムになったであろうと悔やまれる。
 次にシンポジウムを行なう時には、「学生さんもどうぞ。」と言うだけでなく。是非「学生で何かありませんか。」と一言言って欲しい。
 居並ぶ教授陣が手を挙げているところに、学生が手を挙げることは、教授優先という潜在意識からしても、し難いことである。
 時間的制約がある中では、参考になる可能性の薄い学生の発言を省略しがちだが、教授と学生の関係性を考えれば、決して無駄な事ではないと思う。
 ちなみに、シンポジウムの最中に質問しようとメモしていた事を以下に記しておく。
 特に意味はないのだが、このまま懐に温めておいても仕方が無いし、こういう発言が飛ぶ可能性もあったという参考になれば、と思っている。

――Q1 「あいつ、そいつ、こいつ」と「あなた、そなた、こなた」について
a 「あなた」は敬語として生き残り、「あいつ」は生き残っていながら敬語表現では無い。何故か。(これは、「あいつ」は「あ奴」であるからだと思いついて解決。)
b 「あいつ」の場合は「そいつ」「こいつ」も現代語として生き残っているが、「あなた」の場合は「そなた」「こなた」は消滅してしまっている。何故か。

――Q2 言い争った時などに、英語の場合は、例えば相手が母親なら"Mammy"から"You"になり、日本語の場合は、ことばが丁寧になればなる程、奥深い怒りがあるとされる。フランス語では、見知らぬ人と争う場合、"vous"から"tu"に変化するという事だが、日本語のような現象はないのだろうか。無いとしたら、何故、日本語とも英語とも違う、その様な形態になったのか。また、他のアジア地域では、どうか。

―Q3 「あなた」も「あちら」も「あ」の体系に属していながら、「あなた」は二人称、「あちら」は三人称として遣われる。漢字で書けばどちらも「彼方」だったのに、何故違うのか。



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