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司会・松枝到 それではただ今からディスカッションに入りたいと思います。
滝本晴樹 経済学部の滝本です。朝鮮語の第二人称代名詞に「ノ」と「チャネ」という二つのyouがあるとおっしゃった。多分それは最初、二人の出会いのところではチャネと言って、だんだん親しくなってノということになるのかなと考えましたが、それが正確かどうか教えてほしいのです。現代英語では第二人称代名詞はyouしかないですね。しかし、シェークスピアの英語では、you、your、youの、主格、所有格、目的格に対応するものでthou、thy、theeというのがあります。thou、thy、theeは親しい人の間で愛情、親密、懇意を表す代名詞で、改まった丁寧な言い方の時にyouを使うのです。「ロミオとジュリェット」を例に出すと、ロミオとジュリエットが出会って、最初はお互いにyouと言っていたものが、親しくなってくるとthouという使い方をしてくる。thou、thy、theeはシェークスピアの戯曲の中に出てきて、十七世紀後期以降の文学作品では余り出てこない。現在ではポエトリーの言葉、アメリカのクエーカー教徒で使われたり、お祈りの言葉で使われているだけです。
 それでお聞きしたかったのは、英語の場合には過去にyouとthouの使い分けがあった。主格、目的格という形ですが、朝鮮語でノとチャネが主格、目的格という形であるのかどうかということが一つです。  もう一つは、英語ではthou、thy、theeがなくなってyouだけになってしまったという問題です。シェークスピアは一種の詩劇ですから、もともと詩、劇という形でthouが使われたということもあるかもしれませんが、エリザベス朝社会では日常的にthou、thy、theeがある程度使われていた。現在、アメリカでクエーカー教徒などは使っているという現実はあるのではないかと思います。

 チャネとノの区別は日本語のきみとお前の関係とほとんど同じだと思います。
滝本 ノのほうが、お前ですか。
 そうです。
滝本 チャネは、あなたとか……。
 君。
滝本 親しくなってからは、今までチャネと言っていたのがノとなるわけですね。
 なることもあります。ならない場合ももちろんあります。
滝本 だから今のシェークスピアのyouとthouの使い方と同じで、youとthouの使い方は目上、目下の関係の使い方でもあるのです。主人が従者に対してthouという使い方はあっても、従者が主人に対して、子供が親に対してthouという使い方はしないということです。

司会 それは英語の史的な展開と関わっているのですね。
滝本 史的発展はさっき紹介があって、結局、現在なくなっているということです。
松山 十八世紀末、ちょうど二百年ほど前に完全に一般標準語から姿を消したことは先程お話した通りです。フランス語の影響でyouが敬意語として単数形の代わりに用いられるようになって、そして、最後にyouだけになったとき人称代名詞による目上目下といった区別もまたなくなってしまったのです。
 thouとye(you)の区別があった頃は階級や身分の違いとか、権力と仲間意識といった縦の関係だけではなくて、相手と心理的に距離を置きたい場合にもye、youが使われていた。しかし、最終的に目的格のyouが二人称全体を包摂するようになったときにどうなったかというと、上下や親疎の関係を一切表すことができなくなってしまって、そこに全く新しい人称構造、人称世界ができあがっていったのです。それがちょうど二百年ぐらい前の出来事なのです。
滝本 アメリカのクエーカー教徒は日常会話として今でも使っているわけですね。
松山 それは、もともと神様との交信にはthouが使われたからなのです。単一神であるキリスト教の神との交信にはthou、thyが用いられた。クエーカー教徒はご存じのように宗教的には極めて保守的な人たちで、古い段階のバイブルを信じていますから、かつて神との交信に用いられたthouを今日でも使っているということなのです。
滝本 十七世紀に、イギリス人がアメリカに移民しましたね。彼らはピューリタンですが、そのときの宗教と言語習慣が残ったということも言えますね。それが現代までその言葉が残ってきた一因であると、ある程度言えるのではないでしょうか。
松山 言えると思います。繰り返しになりますが、クエーカー教徒は今でもそうした古形、特にtheeを日常的に使います。それはおそらく神との交信が十七世紀においてはthou、thyで行なわれていたからだと思います。

飯沼博一 経済学部の飯沼です。私も朝鮮、韓国には関心が深くて、歴史を瞥見している一人ですが、基本的に李氏、朝鮮支配体制下は劉先生がおっしゃる通り、儒教が国教であると同時に中国と違って朝鮮の全ての階層を支配していた。にもかかわらず、1446年の世宗による訓民正音が創制されハングルが細々と生きていったという流れがあると思います。それが十九世紀の後半から民族意識の高揚の中で、ことに第二次大戦後ハングルが非常に使われるようになったわけです。そういう中で、今の滝本先生のおっしゃるノとかチャネが、漢語ではどんな字を書くのか。あるいは、日本的な漢文の世界と中国的な漢文の世界は多少ニュアンスが違うと思いますが、韓国の場合はどうなるのであろうかということをお聞きしたいのです。
 「あなた」に当たるタンシン(当身)の場合はさっき黒板に書いたように漢語がありますが、ほかは漢語がありません。
飯沼 それ以前の世界ではどういうふうに……。
 それ以前の世界では、それぞれの身分に対応した呼び方及び人称があって、その場合は漢語があったりなかったりしましたが、現在使われている人称代名詞の場合は基本的に漢語はありません。ハングルだけです。

石原静子 私も朝鮮語について伺いたいことがあるのですが、余り劉さんにばかり質問が行ってもと思い、松山さんにお訊ねします。というのは、先程いろいろ面白い例を挙げていただいたのですが、その中で私とあなたという間柄でweを使うと向こうの人が気を悪くされた、共同性を強調されると気を悪くするという話があったのでちょっとびっくりした感じです。というのは、日本語だと、本当は「わたし」というところをぼやかして「我々」と言ったり、「あなた」と名指しして言うよりは「あなた方」と言ったりというようにぼやかすほうがスムーズに行くところがありますから非常に違うと思ったのです。weの使われ方は一般的にそうなのでしょうか。あの場合だけなのかということです。
 それと関連して考えたのですが、Iとweは全く違いますが、youは同じですね。

松山 複数形を丁寧な表現に使っていくというのはweとyouともにあって、今問題にされているのは一般に、謙遜の複数形と言われるもので、新聞の社説などで使われる、'editorial we'などがその例です。著者とか編者とか講演者が自分のことであるにもかかわらず論説や講演の中でweを使うのは、基本的には単数形が与える自己主張の強さをやわらげて、読者や聴衆との一体感を生み出す効果をもたせるためだと言われます。また、医者が患者に、牧師が信者に対して二人称単数形のyouの代わりにweを使う場合も、謙遜の複数の流れの中であるわけです。weを使って聞き手を包摂することで仲間意識が働く。それが謙遜の複数の一番大きな語用論的機能と言えますが、しかし反面から言うと話し手が勝手に仲間意識を押しつけているところがないわけではない。仲間意識の押売りのように感じられる場合には相手が反発をすることもありうるということなのでしょうが、あれはあくまで小説の例であって、実際に医者や牧師が患者あるいは信者である私に向かってweと言ってきたときに、「weと言わないでください」とは恐らく直接相手に向かっては言わない。家に帰って家人や知人に「おれは医者からweと言われるのは好きじゃない」と言うのであって、そういう場合にweを使うこと自体は社会的には是とされていることなので、その場では特に反発はしないのだろうと思います。それに、実際先程の小説の例も自分が医者にそう言われたことをあとで友人と話していて口にしたものなのです。当たり前のことですが、仲間意識や一体感を前面に押しだした言い方や表現に対しては、仲間意識が押売りと感じられる場合も可能性としてある。そういうことではないかと思うのです。

鈴木 日本語では、例えばこの場の問題提起者側が「我々報告者は」と言うときには向い合っている聴衆の皆さんは「我々に」入りませんが、「今日のシンポジウムに参加した我々は」というときには、話し手・我々と聞き手・我々の双方が入りますね。共通語の場合には語彙の上では我々が一つしかないのですが、和歌山県の一部の地域では「あがら」と「わいら」という使い分けをしています。「あがら」が聞き手も含んだ我々だとすると「わいら」のほうは話し手グループだけの我々と区別して使っています。そういう区別はほかの言語でもある筈だと思います。

司会 英語が中心になっていますが、言葉が文法的に分かれているだけではなくて、歴史的、社会的コンテキストで随分深いものがあるということが徐々にわかりつつあります。ゲルマン系だけでも何ですので、塚田先生お願いできますか。

塚田孝雄 ギリシャ語、ラテン語のことなら皆さんも余りご存じないから多少間違ってもお許しいただけるだろうと思いますので、簡単にギリシャ語とラテン語の場合にはどうなるかということだけ申し上げようと思います。ギリシャ語、ラテン語では、原則としては人称とか動詞とかいうものは身分、上下の差はないということに昔からなっています。ところが実際にはそれではうまくいかないものですから、上の者が下に話すときには多少書葉がぞんざいであり、省略も非常に多い。下から上の者に向かって話す場合には書葉が丁寧であり省略も少ない。単語や語順も選びまして丁重に話をする。奴隷も主人も「君だ」「お前だ」というのは同じ言葉なのですが、丁寧さが違うというところで区別しております。
 それから、人を呼ぶときには普通本人の名前を直接呼びますが、これは何となく上の者に向かっては失礼だということで、本人の名前を呼ばないということがあります。お父さんの名前をつけて呼ぶ。ちょうどロシア語のオーチェストヴォみたいなものでしょうが、父称ですね、お父さんの名前で呼ぶ。例を挙げればアキレウス・ぺーレーデースというのはペレウスの息子アキレウスと言うことなのですが、呼びかける時には呼格という形を使って「オー・ぺーレーデー」(おおペレウスの息子さんよ)と言うわけです。「息子さん」とだけ呼ぶこともあれば、さらにオー・アキレウ・ぺーレーデー(ぺーレウスの息子さんのアキレウスよ)と言うこともあります。そうすると呼ばれた本人も「ああ、おれは非常に丁寧に呼ばれている。尊敬されているのだな」と満足します。神様を呼ぶ場合などでも、神々の王ゼウスを「オー・ゼウ」(おおゼウスよ)と呼ぶのは何となく申しわけないような気がするので、ゼウスはクロノスの息子さんですから、「クロニデー」(クロノスのおん子よ)と呼びますと神様に対して敬意を表しているということになるわけです。神様同士で話す場合でも、ゼウスのような大神が、自分の妃や娘、息子たちと話すときには格段の差があります。使っている単語は別に変わらないのですが、丁重さが違うわけです。まして人間が神様に話しかけるときは非常に丁寧に言葉を選びます。普通には韻を踏みまして、頭韻を用いたり、これはめったに使わないのですが、尾韻を使ったりしまして、うたい上げるように丁寧にお話をする。ところが神様のほうが人間に対して言うときは、悪い言葉で言えば「貴様」「お前」式なのです。「貴様のようなやつには」ということで切ってしまって、その先を言わない。「ひどい罰が当たるぞよ」ということなのですが省略してしまう。そういうことがあります。神同士で話をしているときでも遠慮があって、めったに会わない神様同士であるときには長々と時候の挨拶をして、ようやく「ところでヘルメスさん」とか「カリュプソさん」という話に入るわけです。なかなかややこしいものです。

 人間の場合でも、例えばプラトンの『対話篇』などを読みますと、ソクラテスが同輩と話しているときには、遠慮や気兼ねがありませんから、単語も簡単で、短い言葉がポツポツ飛び交う。からかったり皮肉っているような調子です。ところがソクラテスに対して弟子たちが話す、あるいは年上だけれどもソクラテスに対して尊敬を払っている人々が話しますと非常に丁寧な言葉を使いまして、まるで神様に対して人間が話すような丁寧な言葉を使ってソクラテス先生にお伺いを立てる。ソクラテスのほうは、「何だ、君、そんなことは」ということで気楽な答えをするということがあります。その辺を注意して読むと、上下の差、親近の感覚がわかって愉快なのです。
 それから、直接相手を指さないというのがあります。これは先ほどお父さんの名前を呼ぶというのがありましたが、例えばアルキノオスという、パイエーケスという夢の島の王様を呼ぶときに、「アルキノオスよ」と呼んだのでは恐れ多いということで、ギリシャ語で言えば「ヒエロンメノス・アルキノオイオ」、直訳すると「アルキノウスの尊い力」ということを言います。つまり力強い立派なアルキノオス様ということなのですが、直接に主格で呼ばないでアルキノオイオという所有格を使うのです。

 先ほどエディトリアル・ウイ、あるいは君主のweというのが出ましたが、あれはもともとはギリシャ語から出たのをラテン語で採用した言葉なのです。高圧的な君主がいて、「我々は」という代わりに、直に「おれが」「わたくしが」「わしが」「朕が」と言った場合には、もともとが民主主義の国ですから革命が起こりかねない。まかり間違うとジュリアス・シーザー、つまりユリウス・カエサルのように暗殺されかねない。したがって、君主もアウグストゥス以下、「我々は」「私と私の同僚の執政官は、協議をした結果こんなふうにしたいと思うのであります」という言い方をするわけです。下のほうで聞いている者も、皇帝が力を持っていて独裁しているというのは判っているけれども「あなた方のおっしゃることはもっともですから従います」ということで、あいまいなニュアンスで、ぶつかり合わないようにしておりました。  ところが、もうちょっと調べてみると、君主のweのほかに女の人は、芝居などでよく出てくるのは、「あたしたちは」「あたしのような者は」ということで盛んにweを使います。例えばカルタゴのディードーという女王がいましたが、これなどもやはり「わたしたちは」という言葉を使って、ニュアンスをやわらげて人民に接します。ついでに言うと、君主がサインする時のインクの色は濃朱だったり摂政大臣のものが青緑だったり、いろいろとあるのです。

 長くなってすみませんが、もう一つだけ言わせていただきますと、先ほどのthouとyouは、東ローマ帝国からカロリンガ朝を通ってずっと伝わっているのでしょうが、ダンテの『神曲』などを読みますとこれを使い分けしています。例えば地獄でも煉獄でも天国でも法王さまの霊魂に出会ったときには英語で言えばyouを使って、一般の人に出会ったときにはかなり偉い人であってもthouを使う。これはなかなか厳密に区別しております。ダンテの『神曲』を読んでいて本当におもしろいのは、悪党や友人などに対してぞんざいに使っている言葉と上の人に対する丁寧語が入り交じっていることでしょう。地獄にいてダンテに会うが地上に生きていた時は偉かった、そうするとダンテに向かって「貴様、何だ、町人じゃないか。おれはもともとは大名だった。貴様のような者は」という言い方もします。語学というのはなかなか難しいものです、私などは駆け出しですからよく判らないことが多いのですが。

 もう一つ付け加えさせていただきますと、ドミヌスというのは主人公。ローマ全盛時代には人民は君主に対してドミヌスは使ってはいけないということになっていました。「自分はドミヌスではない、主人ではない。諸君と同じ民主主義で選ばれた執政者であるにすぎない」と言うのですが、そういう裏では人民がドミヌスと呼ぶことを期待していて、人民も、禁止されているけれども時を見てはやはり「ドミヌス!」と呼びかけてたくさんお金をもらったり、ご馳走を頂いたりしておりました。ペテロがキリストに出会って「クオ・ワディス・ドミネ」(主よ、いずこに行きたもう)と言ったと伝えられていますが、あれなどはイエスを君主と考えて話していることになりますので、非常に丁寧な言い方なのです。

針生一郎 報告はそれぞれ大変おもしろかったのですが、杉山さんの力作の問題提起のような、人称のない日本語はいかにして論理的な、あるいは文学的な表現まで成熟し得るか、そういうことが可能かという問題について少しパネラーのご意見を伺いたいのです。
 これは授業その他でも話していることなのですが、私は十年ほど前にアリアンセ・フランセーズから招待されて、初めて女房を連れて行きました。もちろん招待は一人分ですからホテルに泊まっていると足が出るので部屋を借りましたが、トイレも共用で、玄関と部屋の鍵を一つずつ渡されました。朝飯はパンなどを買ってきて部屋で食べるけれども、大体、女房と一緒にレストランへ入ることが多くて、レストランで食事をするたびに周りの男女が食事の間じゅうずっと議論しているので、女房が「よくしゃべるわね」という嘆息を何回も漏らしました。三回目ぐらいの時、これは南フランスのある川に浮かべた船がそのままレストランになっているところでしたが、「よくしゃべるわね」と言ってから女房が私の顔を見て「あなたはもともと話題の乏しい人じゃないの」と言ったのです。

 その頃、バルセロナにいて平安朝の小説を書いていた堀田善衛さんが「ヨーロッパへ来たら寄ってくれよ」と言っていたものですから電話しましたら、「おー、来いよ」と。堀田さんの家に着くなり堀田さんが「外国で女房と二人だけで暮らしていると困るのは何にもしゃべることがなくなることだ」と言ったので、僕が話題の乏しい人だと女房に言われた話をしましたら、堀田さんが「奥さん、あの周りの連中は何をしゃべっているか判りますか。あれはあなたの注文した料理より私の注文した料理のほうが安くてうまかった。あなたは何でそんなものを注文したというような、およそくだらないことなんだ。ただ、日本みたいに、まあ、そうねなんて言わない。ウイとノンしかないんだから合意点に達するのが大変なんだ。合意点に達すれば弁証法の必然で次の問題に発展する。あれはくだらない問題を果てしなく議論する弁証法の悲劇というものですよ」と言ったわけです。

 私はそれを聞いて、「まあそうね」じゃだめなのだけれども、日本人の曖昧な微笑と言われているものの中には、実は部分肯定や部分否定が一杯あり、それを全部論理化すると三段論法では片づかない、六段論法や八段論法位のものになるのではないか、つまり、杉山さんの報告にも出ているように、主体と他者を明確に区別するというよりも、他者と自分とが一体となって、その場に合わせて語る。日本語はそういうものですね。ただそこで松山さんの報告の中で、人称というのは階級とか属性とかを全部取り去ったものだというところ。永澤さんの報告の中で、三人称の成立には公というものが媒介とならなければならなかった。そういう公というものが日本にはないわけです。だからいろんな角度から照らし合わせるとイエスでありバット・ノーというふうなことになって、曖昧な表現になるのですが、普通はそれをもっと論理化して語らなければいけないのだと思うのです。

 これは文学の問題でもあるのですが、より政治の問題でもある。例えばPKO法案というのは、宮沢首相はこういう哲学のもとにこういうことが絶対必要だという説明を全然しないでしょう。野党のほうも、どこを突いたらいいか判らないことになってしまって、言葉で語られない領域が一杯ありますね。
 これも十年以上前ですが、この間亡くなったフランスのフェリックス・ガタリが最初に日本に来たときに私は対談しました。彼は、高度資本主義国の支配構造は全部今やパラノイア・ファシズムだ、ただし1930年代のファシズムとは違うので、それに論理や意味でぶつかっていこうとしてもだめなのだと言ってました。
 彼は人間機械説から、ここのところはよく判らないのですが、ファンクションとしてぶっからなければいけないのだと書いています。しかしそう言うけれども、フランスの大統領と日本の首相とテレビで対談させてみたら、フランスの大統領は論理を尽くして誤解の余地を与えないようにいろいろ話すだろうけれども、日本の首相は「ああ」とか、「うー」とかしか言わない。だから我々のほうが論理や意味を突きつけた上でこれに反しているという闘い方をせざるを得ないんだ、という話をしたら、「いや、ああとかうーとかしか言わないのはパラノイアのより進んだ段階で、論理や意味だけで人間はコミュニケートするわけじゃないんだ」と言いました。それがどうも今現実化してきてるように思います。

 日本は以心伝心などという伝統がありますが、語られない部分が実に膨大にふくれ上がっていると痛感しています。国会などは論議を尽くして相手を説得する場ではなくて、議席数によって結論が決まっていて、語られることは全部セレモニーだという場になっているわけですから、その中でどういうような言語を発展させていくのかということです。
 そういう意味で泉鏡花を取り上げられる塩崎さんの報告に期待していたのですが、泉鏡花は非常に特異な作家だから一人称についての揺れがあるというお話を大変興味深く伺いました。
 西洋流の近代化にできるだけ背を向けて、マザコンの世界にずっと深く入っていって、その揺れをもう一度深く体験すべきだということにはまさかなるまいと思いますが、塩崎さんは、文学は論理だけで成り立っているものではないけれども、人称がもう少しはっきりして構築を持った文学として、もし鏡花以外に挙げるとしたらどういうものか。その辺りも伺いたい。

 それから、今のような日本語の可能性について言語社会学の鈴木さんにご意見を伺いたいと思います。

塩崎 「文学の明日はあるか」というのは「日本語の明日はあるか」という提起でもありましたし、さらには「日本の明日はあるか」という問題提起にもつながっていて、何といっても膨大な問題なので、その中に鏡花の人称の揺れを位置づけるということはむずかしすぎて、いま戸惑っているというか、ほとんど見えてないのです。それにつけても、人称の揺れは基本的には母と子ということでもよろしいですし、もう少し広げて、共同体の中の〈我〉、〈私〉というものが共同体からどういうように身を振りほどいていくか、多分そういう形で問題が結晶してくるのだろうと思います。
 私の大まかな感想で言えば、共同体から身を振りほどいていくしぐさと、もう一度共同体に〈我〉というものを戻していく、位置づけ直してゆくそこの往復運動という形で日本の近代文学は営まれてきた。たとえば1920年代から30年代にかけての文学活動の中で、〈私〉の饒舌というものが旺盛に出てくる。太宰とか石川淳とか、初期の井伏でもいいと思いますが、井伏の場合を例にとりますと、これは何年も前に書いたのですが、『言葉について』という15枚ぐらいの短編があるのです。最初から最後まで〈わたし〉によって発語されているのですが、〈わたし〉が最後まで隠される、あるいは発語されないという形で成り立っている非常に日本的な小説だと思いました。1920年代から30牢代を日本の現代文学の出発点だと考えているのですが、その中で〈わたし〉は改めて認識の表面に浮かび上がってきながら、あわせて言表の表面から沈められていく。そこのところに日本の近現代文学の最も中心的な営みがあったと申し上げていいのだろう、ということです。

 針生先生のご質問の〈わたし〉を明確に立てた作家は誰だということになりますと、非常に凡庸に、漱石ということにならざるを得ないと思っています。

前田耕作 僕は少し観点が違いますが、塩崎先生の提起した問題は非常におもしろく感じたのです。それは近代一般に還元しないで、鏡花それ自身に即して考えたほうがおもしろいと思うのです。
 それは、「化鳥」も読んでいないし、あなたの報告を聞いている限りでの僕の判断、あるいは僕の直観でしかないわけですが、鏡花の場合の、わたしの誕生、わたしの揺れは、ある軸を根本的に変えようとしながら、なおそこで、そのわたしがどのようにして生ずるかという問題ではなかったかと受け取りました。言い替えますと、父母という関係軸ではなくて母父という関係軸に変えていくという行為の中で、にもかかわらず、その中で父の代わりになった子が「わたし」としてどのようにして成立するか、そういう主題を浮かび上がらせたのではないかということです。もし僕の推測通りだとするならば、まさに鏡花の文学そのものの中に日本の近代以来持ち続けている父母というヒエラルシックな関係軸を痛烈に批判しているのであって、軸を逆さに立てての「わたし」の発生の問題をどう捉えるとどうなるかというように鏡花問題を提出しているのではないか。そういうように読めば、漱石どころか、鏡花のほうがはるかにラジカルな問題を提起しているのではないかとさえ思えるのです。

 関連して僕が少し考えていることがあるのです。例えばアンケートの中でも鈴木先生が指摘されていましたが、聞くときに[お父さん、お母さん」という呼び順でしているわけです。「お母さん、お父さん」という呼び方に逆転しては決してアンケートもとっていない。私たちの中で「父と母」と言うときは必ず、父が先で母が後なのです。ところが鏡花の文学の中では、「化鳥」でももう一つのところでも、「おっかさん、父上」という置き方にして逆順にしているわけです。この語順の逆というのはかなり重要な意味を持っているのではないかという感じがするのです。

 塚田先生の指摘もありましたが、例えばギリシャの人に名前をつけるときに父系の名を上につけていく。私がインドのある碑文を読んでいるときに気がついたのは、母と父という順序で書いてある二ヵ国語の碑文があって、インドのサンスクリットでは「母父」の順に書いてあるのですが、その横に書いてあるギリシャ語ではそれが逆になっている。だから、この置き換えの違いは文化の違いをきちっと現わしているということで、かなり重要な問題なのです。

 ところが、この碑文を日本語に訳された先生の訳を見ると、父母に孝養を尽くせと、昔からある語順に変えられていて、それが逆さになっている意味をきちっと掴まえておられない。僕は鏡花のこともそれとの類比で考えたわけで、鏡花の中に「わたし」を成立させるとしても、その成立の軸は母父という系の中で「わたし」を探っているのではない。さらに言えば、[お母様」と言って「坊や」と言われる奇妙な関係の中での「わたし」のあり方、そのことこそ極めて大切な事柄ではないかと読めるのではないかと思います。

 ついでながらもう一つ、これは杉山先生の文章の中で気がついたことなのですが、バンヴェニストを引用されていて、バンヴェニストが「動詞の中の何らかの方法で人称の区別が示されていない言語は知られている限り存在していないものと思われる」と書いている。日本語はバンヴェニストの視野に入ってないようですと杉山先生はおっしゃっておられますが、しかしバンヴェニストは実はその後のところで、勅阿に人称を欠如している言語もまたあるのであって、その中に朝鮮語と日本語は含まれているというようにも語っているのです。そうだとすると、私はバンヴェニストが好きですから擁護しているわけですが、バンヴェニストは日本語を必ずしも視野に入れていなかったと断定はできないのではないかと思います。

塚田 アキレウスはぺーレウスの子ということで、ぺーレーデース・アキレウスと普通には呼ばれているのですが、女神テティスと人間ぺーレウスの子供ですから、「テティドスパイス(テティスの息子)」という言い方もかなり出てくるのです。『イリアス』もいろいろな部分がありますが、私の考えるところでは、少し古い部分にテティスの子供、女神の子供、つまり「お母さんの子供」というのが出てくるように思います。アキレウスが女神テティスの子供として出てくる部分は、話がどうも古風で不合理な、奇怪なところが多いように思います。恐らく『イリアス』もいろいろな部分を合わせて大詩人がまとめたものでしょうから、きっと古い部分に関しては母系的な要素が強かったのだろうと思います。これが時代の経過につれて父系の方が強くなって、母系の方が段々変えられてくる。後からまとめる詩人たちは皆、父系時代に生きているものですから「ペレウスの息子」ということで処理するようになったのだろうと思います。そういえば、大神のゼウスやお妃のヘラや、アポロンやアプロディテがアキレウスの話をするようなときにはテティスの、テティスの、と言いますね。

針生 今の流れを大変おもしろく伺ったのですが、私は文学は論理だけで成り立つものではないと言って、それではどういうものを私が求めるかということを言わなかったものですから一言補足します。
 塩崎先生は自我がはっきりした文学というように私の要求を受け取られたけれども、私はむしろ、対等の他者を描く日本の近代文学が非常に少ない。私小説でも自我の確立のために皆、他者を踏み台にし切り捨てていきますから、対等の他者を描くということを補足すべきだったと思ったのです。それでも一番それを書いたのは漱石だという回答でも当てはまると思いますし、泉鏡花も共同体との関係で、近代に背を向けていながら、ある幻想の世界で他者を描いている一人の作家として十分検討に値すると思っています。あと、私の先程の質問に関して、日本語の論理的あるいは他者説得の可能性について鈴木さんのご意見を後で伺えればと思います。

 鈴木 針生先生からのご指名なのですが、その前に父母問題についてお話ししておきたいと思います。母子関係は実体概念なのだと思います。いつ種をつけられて、いつおなかから出ていったかを母親は確実に判っている。それに対して父子関係は、妻を信用して認知するだけの話なのです。父子関係は人間社会が作りだした虚構の抽象的概念でしかない。これはどうしようもない現実で、そこに制度としての家族が成立していかざるを得ないという問題があります。人間の子供は成長期間に時間がかかるということと、単に生物学的種の存続だけでは人類は存続できない。文化の伝承をしなければいけないので、一人の女に一人の男が確実にくっついていなければならない。そういう父子関係の成立事情から多くの社会で父優位制をつくり出しているのですが、本質的に言えば母子関係のほうが実際には優位なのだということを一言言わせていただきます。

 日本語の論理性云々の問題なのですが、針生先生は今までのご活躍の軌跡からも西欧的思考に漬かっておられて、そちらから発想されているのではないかという思いがあります。ギリシャ、ヨーロッパの伝統的思考はまさに一人称が第一人称であるといったように主体としての我で、その主体としての我と主観を一致させることによって自我の確立を見てきたわけです。それに対して他我というものはほとんど問題にされてこなかった。ところが、アジア的思考というか、非ヨーロッパ的思考の中には他我性のようなものを大事にしている言語というか社会はたくさんあるわけです。これは悲しいことに国家としては余り発展してないのです。後進諸国と言われたり、国家まで形成し得なくて部族という形でしか生き続けられないような世界は、どちらかというとそういうものを大事にしている世界だと思います。

 近代の日本文学は自我というものをヨーロッパから学んで必死に追い求めてきた。そういう追い求めてきたヨーロッパ自体が実は今混乱している。主体としての我をもう一度見直すというか疑問視しなければいけないだろう。今、色々な形で二〇世紀の哲学が打ち出しているのはポストモダン以降の問題です。そういうテキストの解釈をめぐって様々に語られている問題は、実は日本語的思考から考えればそれほど難しくないのではないか。今までは評価されなかった日本語的思考法というか、日本語というよりもアジアやアフリカ諸語が待っている思考法が逆に裨益していく可能性があるのではないか。

 ただ、問題なのは、ヨーロッパ諸語の持っている言語的明晰さといいますか、筋道を立てる明晰さにはかなわない。日本語学者に言わせますと日本の名文と言われているのは特に文学者が書いたのはそうだそうですが、誰が話しているか判らないようなものが多いといいます。景色の描写は、自分が感じ取っている心象風景なのか、風景そのものをただ写し取ったものなのか、あるいは周りにいる人の意思なのか、そういうものが判らないような文章がたくさんあるという訳です。そういうのはヨーロッパ系の言語には翻訳しにくい。例えば川端康成がノーベル賞をもらったときの演題は「美しい日本の私」なのですが、川端の翻訳者のサイデンステッカーは結局、こっそりと「美しい日本と私」に変えたそうです。「と」に変えなければヨーロッパで通じる言葉にはならない。日本人だったらそれが何となく判るし、多分、非ヨーロッパ圏の言語の人でも判る人があるだろうと思います。ヨーロッパ的論理構造だけが世界ではないだろうというところでいったん逃げます。

井上輝子 今話し合われていた主体と客体との関係、母と父との関係はすごく興味あるテーマで、私もちょっと考えたいなと思っています。ただ、前田先生は、父母を母父に転換したところに鏡花の非常な意味があるという解釈をなさったのですが、母子関係に改めて回帰していくことが果たしていいことなのか、評価したほうがいいのか、それともそうではないのではないか、そうした問題はかなり大事な問題で、これからいろいろ考えていきたいと思っていますが、とりあえず言葉そのものに話を戻して、ちょっと一言だけ言わせてほしいのです。

 私は言語についても性別という問題を考えています。「君と僕」の世界にいちゃもんをつけた人がいると言われましたけど、実は私でして、一人称と二人称を指そうとすると「君と僕」というふうに直ちに出てきて、何の疑いもなくそれが使われていること自体ちょっとおかしいのではないかなと思います。「君と僕」という言い方は、少なくとも今の日本の中では、一部わざわざ若い女の子が君とか僕という言い方をすることはもちろんあると思うのですが、一般的に言えば男性の言語であって、男女共通の言語としては「あなたとわたし」という言い方のほうがより普及しているという状況があるわけです。

 塚田先生のお話では、ギリシャ語の中でも相手に対する丁寧さの度合いが男女では違うとか、女性は腕曲やぼかしの表現を使うということでしたが、そういうことは日本語の場合にもあるわけです。呼称自体も男女で違うし、表現の仕方、相手が男性であるのか女性であるのか、話し手が男性であるのか女性であるかによって、言葉の世界は大きく変わっていると思います。そこら辺のところは、言葉の問題を考えるときに考慮すべき大事なテーマではないか。私自身は言葉の中に社会的な関係、社会の中における男女のあり方が反映していると思いますので、それで「君と僕」ではなくて「あなたとわたし」とこだわったわけです。

 今日お話を伺っていて新たに発見したことは、英語でも朝鮮語の場合でも、一人称、二人称――朝鮮語の場合は三人称もそうだとおっしゃいましたが――では性別に限らず階層性その他の属性を捨象して、純粋に自己と他者を表す表現になっているということです。日本はその意味で言葉における性別の位置が特別なのかなという感じもしてきました。それでは英語における性別表現はどういう形であるのか。一人称、二人称にはないけれども三人称ではかなりはっきりあるように思いますし、今は七〇年代以後フェミニズムからの批判で大分変わってきていると思いますが、それでも単語自体の中に性別を表す表現がかなり多いと思うのです。性別の表現はどんなふうにつくられているのか伺いたいと思いました。

 劉先生のお話では、朝鮮語の場合でも人称には性別がなくなって、日本以上に言語においては近代化は進んでいるということですが、人称についてはそうかもしれないけれども、他の表現法についてもジェンダーレスになっているのか、それともそうではないのか伺いたいと思います。
 もう一つだけ具体的な話で影山先生に伺いたいのですが、日本語では、一般的には女性には男性に対して目下の人が月上の人に言うような丁寧な表現が期待されていると思うのです。ところが、会社などに女性が進出して、上司が女性で部下が男性という関係が出てきた。女性として期待される表現法では丁寧にしなければいけないとか敬語を使わなければいけないという要求が一方にあるわけですが、上司と部下との関係ではまた別の表現法が期待される。その辺の調整がどのように行われているのかということ。男性が上司で女性が部下という場合には平常の男女の言語法がそのまま通っていると思うのですが、部下と上司の関係が男女で逆転している場合には、新しい表現法の革新が行われつつあるのではないかとも予想されます。もし具体例があればその辺のところを教えてほしいと思います。

松山 その前に、針生先生がおっしゃっていたことなのですが、西洋と対峙して書くという作業をぎりぎりのところでしている方々の日本語に対する苛立ちが明治の時代からずっとある。人称の問題もその一つだと思うのです。それは、日本語に独特の人称・呼称の体系というか階層性といったものがあることと関係があるように思われます。例えば相手が自分の勤める会社の社長であるとか自分の先生であるという場合、「○○社長」「○○先生」という呼称はあっても二人称代名詞はない。「あなた」とは決して言いません。この場合、役職名や職業名を人称詞として用いて、「社長」とか[先生」と言うしかないのです。人称・呼称の階層でいうとその下に[○○さん」という言い方があって、稀に「○○氏」という言い方をする人もいる。そのときの対応する人称代名詞(対称詞)は「おたく」という言い方になったりする。相手を本当は「さん」づけで呼ばなければいけないのだけれども一段階下げたいという気持ちが働くのではないかと思います。そしてその下に、「○○君、君は」という形があり、「山田」―「お前」の対応になります。「山田」よりも下には「この野郎」「アホ」「間ぬけ」など蔑称が続き、対応する人称詞(対称詞)の方も「貴様」「てめえ」「おんどりや」「わりゃ」といった具合に段々下がっていくわけです。

 こういった呼称・人称の体系構造を日本語は持っていて、結局のところ、人称の問題はこれを我々日本人が捨てられるかどうかという問題になるのだろうと思うのです。これは日本人の自我のありようとも深くかかわっていて、日本人の場合は自己を定位する座標軸が相手によって絶えず動いていくわけですが、それが人称や呼称にも反映しているのだと思われるのです。例えば私が四歳ぐらいの子供と話をするときは自分のことを「おじちゃん」と言うし、自分の子供に対しては「お父さん」、旧友には「おれ」、自分の父親と話をするときは「わたくし」とか「ぼく」とか言うし、三菱銀行に行けば「お客様」などと呼ばれるわけです。それこそ何百という数のこうした自称詞、対称詞を我々は用いているわけですが、ここで重要なのは少なくともそれを日本人は総体としては受容しているように思われることです。

 言語は常に変化していっているわけですから、今の日本語の人称体系が今後変わっていくという可能性はあるだろうと思います。しかし、一部の方々の苛立ちを背景とした個人のレベルに発した変革では微動だにしないだろうという気がします。先程話したような人称と呼称の体系を日本語がもっているとして、それを捨てさるだけのベクトルの力が生まれてくるのかどうか。人称のレベルで言葉の絶対性を確立してこなかったが故に、一方で呼称、人称をめぐって殺人事件までもが発生するほど日本語の人称・呼称体系は苛立たしく思えるものではありますが、自我の構造を反映し総体として受容されているものがそうおいそれとは変わらないだろうというのが私の見方です。

 先ほどの性別のご質問については、ロビン・レイコフとジェニフアー・コーツという言語学者が女性語について書いたものを読んだことがあるくらいで、余りよくわかりません。ある英語雑誌に、女性の社会進出によって、chairmanがchairpersonになったのはいいとしてpersonにはsonがあるのはどうするのか、またManhattanはどうするんだ、Personhattanとでもするのか。それにしたってsonがあるではないかと意地悪く書いてあったのを目にしたことがあります。また、エール大学の女子学生には男子学生と話をするときに絶対に使わなければいけない言葉というのがあって、それを使わされる嫌さ加減について書かれたものを読んだこともあります。

 もう一つ面白いと思ったものに、強姦を繰り返している白人男性に、言語学者が長いインタビューを試みた論文(?)があります。それを読むと、強姦魔が女性を性の対象物として記号化する際に、その記号化が言語化という形でも現れてくるというのです。例えば、性の対象物と見なされた女性はitで表現されてしまうのです。以上ご質問の答にはなっていないと思いますが、参考までに述べました。

 朝鮮語の人称に性別がほとんどなくなっていることは既にお話したとおりです。人称以外の面でも少なくとも言葉の上ではやはり性的区別をしない方向に推移してきていると思います。あえて区別する必要がある場合は、職業名や職位にヨ(女)またはヨジャ(女子)をつけて、たとえば女子運転士、女社長、女職員などと呼んだりします。

景山 井上先生からご質問いただいた点ですが、私は、言葉の上では男性の部下であっても別にするということはしない方がいいと思うのです。女性の部下と男性の部下とも同じアプローチの仕方をする。その代り、男性にはこっそり機嫌をとらなければいけない(笑)。どういうように機嫌をとるかといいますと、私のところは私と息子で、父親は離婚したのでいないわけですが、うちの子が高校の頃にナナハンのバイクを買ってやった方がいいものだろうかどうだろうかというとき、「あなたのご意見はどう?」と、誰もいないところで一生懸命機嫌をとる。機嫌をとるというのは、あなたを頼りにしているのですよということをやるということです。

 もう一つは、人事は物すごく大事なのです。女性にとっても大事ですが、男性の方が感度が高い。男性の場合は、女性が上司では力が余りなくて自分が出世できないのではないだろうかということが大きな悩みの種なのです。いかにして男性の部下を良い所へ転勤させるように根回しするか。影山さんの下にいたら出世できるという評判を獲得すれば優秀な男性がどんどん集まってきて、同じに扱っても別に不平不満も持たないでやります。

 機嫌をとることと人事に配慮することが大事です。ただし、人事も最後は腕力ですから、腕力が強くなければいけません。日頃から人事権の発言力を持っているような男性と仲よくしておいて、「今度は何ちゃんがあれだからひとつあなたがバックアップしてくれ」ということを言って根回しをしておく。人事というものが言葉に代わる無言のコミュニケーションになると思います。

杉山 劉さんの、朝鮮語ではだんだん性別がなくなる方向になって来ているというお話は大変衝撃的だったのですが、わたしどもの方でいうと「古事記」にはオオクニヌシノミコトが大きな袋を肩にかけてヤガミヒメを婚ばう有名な話があり、国主に対して歌う歌があるのですが、その後で嫡后スセリヒメノミコトと長歌をやりとりする場面があります。ここでスセリヒメはオオクニヌシに対し、「汝」「吾」と歌っています。

 『伊勢物語』では、主人公は「昔、男」、在原業平だと言われますが、この人が伊勢の斎宮にタブーをおかして迫るところがあります。そこで歌のやりとりがあるのですが、斎宮、女の歌では自分のことは「我」と言って、相手のことは「君」という明快な言葉を使っているのです。それは歌ですから日常語ではないのですが、古代の段階では性別なしに人称があるということがあったのではないか。すっぽり変えられないという状況はあるけれども、それは歴史的なものであって、そういう文学を踏まえながら将来の日本語を考えていくことができるのではないかと思います。

安永寿延 杉山先生の最初の基調の話から始まって皆さんのお話、大変おもしろく、また有益に聞かせていただきましたが、実は「あなたと私の世界」を伺っていますと、例えば日本語の世界ではどうだ、英語の世界ではどうだ、韓国語の世界ではどうだということで、結果的にはみんなパラレルになっているのです。これは漱石の場合でも、ロンドンに行ってパラレルでもあるけれども、同時に彼はそこで壮烈なカルチャーショックを体験しているわけです。それは「日本人である私とイギリス人のあなた」とのシリアルな関係なのです。

 それと同じようなことが今どんどん広がっている。あの時代はエリートがそういう深刻な悩みを体験したのですが、今は普通の庶民のレベルでそれがもっと広がっている。日常的に我々は多くの外国人と日本で接触したり外国で接触するような状態があるわけです。外国人であるあなたと日本人である私、あるいは非常に流暢に日本語を話す(外国人の)あなたと流暢に英語を話す(日本人の)私という関係の中で、カルチャーギャップが深刻な形でますます進行している。なまじ言葉が判るようになってくるとますますカルチャーショックを体験せざるを得ない。そういうインターカルチュラルと言いますか、異文化の中でのあなたと私の世界という視点が今日の議論では抜けていたのではないか。明治以来、並行してパラレルに考えるという思考が一般的で、それから我々は抜け出られないように思いました。

 先ほど松山先生が言われたように、我々は自分の自我の座標を絶えず動かしていく。実はそういう我々と外国人との間の関係が今問題になっているのです。それが私の世界にどういうようにインパクトを与えつつあるのか、そのことが今問われなければならないのではないかと思っています。

杉本紀子 同じようなことになるかと思いますが、鈴木さんがおっしゃったようにヨーロッパ的思考方法だけが唯一無二ではなくて、日本的な思考もあるのではないかと思っています。確かにヨーロッパ的思想が停滞していって、彼らが日本を向いている。21世紀は日本の時代だということを経済的にだけではなくて言っていることもあるのですが、向こうの人が向いているから日本はこれでいいのだということではないと思うのです。ヨーロッパの人たちが自分たちの文化や思考方法を反省し始めたのは、自分たちの考え方、思考方法が唯一無二ではないことを発見したからです。違った思考体系を自分たちの文化の中にどうやって入れていくか、自分たちが他者をどうやって含み込んで思想を発展していくかという反省の上に立って、ディコンストラクションとか何かが出てきたのだと思うのです。一方、私たちの思考の軸が語られる場によってどんどん変わっていくというのは、言い換えれば、場が常に既知のものであるからです。閉じられた空間の中にいるから自分がどの場にいるかが計れる。ところが私たちの文化と質を同じにしていない社会の人たちと接していかなければならない、あるいはその中に日本を含み込んで考えていかなければならないときには、開かれた空間の中で身を処していかなければいけないと思います。自分が軸を立てて、違った軸の人間と如何に話し合い、意思を疎通していくかを考える。そういう意味では、あなたと私の世界にもう一つ、第三者、三人称の世界が入ってこないといけない。確かに日本は、私があってあなたがあるのではなく、あなたがあって初めて私が存在するような世界ですし、ヨーロッパはまず私を措定して、性別も背景も社会的立場ももたないIだのjeだのをつくることによって自我をつくり上げてきた。そういうことをどう考えるか。他者の世界、異文化の世界、言語で言えば三人称の問題は重要だと思うのです。日本語のあなたと私の「閉じられた」世界を開かれた世界に変えていくための提言が二つあります。一つは日本語の人称をなるべく女言葉に変えていくことです。女が自分を語る時、昔は色々あったようですが、現代社会ではほとんど「わたし/わたくし」に統一されているのではないでしょうか。昔も男の人称に較べればずっと少なかったと思います。それは女が日本の社会から疎外されてきた証拠だと思うのです。外側から見る、ということを日本の女性はずっとして来たのだと思います。その視点を男性も持ってみたらいかがでしょうか。

 もう一つは、これも相当実現は困難かもしれませんが、天皇制を廃止することです。上限があるから下限ができる。人は最下層になりたくないから何とかして下のものを作ろうする。上と下が決まった中で一瞬のうちに相手を下に置いたり上に置いたりして自分の位置を決める、それが対人関係の根本を作っているのだと思います。上がなくなれば当然下もなくなるのですから言語空間の枠が取りはずされて「私」は私という視点から言葉を発せざるを得なくなるのではないかと思うのです。

 松山さんが発表なさったことで私はこう考えるというのがあるのです。私はフランス語を専門にしていますが、英語よりフランス語の方が、言葉の体系として語られる現場との関連が薄いのではないか。例えば三人称でも、英語だとhe、she、itがあって、heとsheは必ず人間でなければいけない。物だとitになる。フランス語だと、heに当たるilとsheに当たるelleは必ずしも人間を受けているのではなくて、女性名詞を受け男性名詞を受けるという形です。そういうことでは同じ言語圏の言葉であるけれども少し違うかなと。二人称でも、英語はyouに単一化してしまいましたが、フランス語ではtuとvousという親しい間柄の呼称と疎遠な呼称があります。それはある意味では上下関係も持っていて、道路上で見知らぬ相手と意見が衝突してカッカとなってくると、最初「vous」で言っていたのが「tu」で言う。それは親しくなったから言うのではなくて、ののしりという意味が入ってきている。そういう二つがありますから垂直的な関係が英語よりはあるのですが、現実に密着した感じでは英語よりもフランス語の方が少し薄いかなとは思います。

 そこは感想で、最初に言いたかったのは代名詞のゼロ化に関してです。日本語はSOVだからOが動詞の前に来る。次に来る動詞は目的語がわかっているから省略していいということで省略される。英語の場合には目的語が後に来るので、動詞が繰り返されれば必ずその後に代名詞として置かなければいけないのではないかというお話のように受け取りましたが、私は、日本語は現場との結びつきが強いので既に判っていることは省略する、主語も判っている場合は省略されるというのと同じではないか、動詞自体が持っている他動詞という性質で、目的語をそれぞれがとらなければいけないのではないかと考えました。

梅原利夫 今日のシンポジウムは、多彩な問題提起者を全学オンパレードにしたところに第一の意義があるのではないかと思います。僕はずっと今日のテーマである「文化としての言葉」ということを考えていたわけですが、言いたいことは二つあります。一つは視点の問題、もう一つは素材という問題です。
 視点の問題というのは、今日は余り語られなかったのですが、僕が思うに発達論的視点というか発生論的視点というか、特に幼児初期の子供の言葉獲得の中で「僕とか私」とかいう世界がどういうふうにつくられてくるのかという問題、言い替えればこれは自我という問題の萌芽だし、自己と他者という認識の萌芽がどう芽生えてくるのか、その問題は結構重要ではないかと考えています。今日は展開できませんが、人間における「僕、私」の世界が、誕生してからどのように芽生えてくるのかということが、僕には興味があります。それは人類共通の側面を持っていると同時に、さらにそれぞれの民族固有の文化がかぶさっているわけです。言葉が自由に話せるようになった時期の「僕、私」の認識の中に、世界のそれぞれの文化の違いのようなものがあり、そこに問題を発展させていけるのではないか、そういう視点で今日のテーマを考える必要があるのではないかと思いました。

 もう一つはテーマを考える素材ということで、最近考えているのは、夫婦が第三者に相手のことを言うときにどういう呼称で言うかという問題なのです。さっき針生先生は「女房」という言葉を一貫して使われたし、篠原さんは「家内」と言うわけです。それは多分これから非常に重要な問題となるだろう、当分、日本の夫婦は呼称というやっかいな問題をしょいながら生きて行くのだと思っているのです。将来、日本ではその呼び方が一つになるのではなくて、僕なんかも第三者にワイフのことを何と呼ぶかで常に引っかかっているわけです。つまり夫婦のお互いの関係とか、私的世界でありながら公的に認知された夫婦の問題を第三者に対してどう表現するのか、そういう現実的な素材を大事にしながら今日のテーマを考えていきたいと思いました。

石原 今梅原さんも言われたように、このシンポジウムは全学部から出てきていたにしては、またこれだけ長いこと討論したにしては出てこなかったことがあると思います。それは永澤さんがいらっしゃらなくなった(所用にて中途退座)からですが、言葉のことばかりで、図像によるコミュニケーション、私とあなたが出てこなかったと思います。永澤さんが発表していらっしゃる間、私はこの図を見て考えていました。日本だったらどういう図が出てくるのだろう、と。イコンですから聖像が出てくるわけですが、最初の絵は軍人ですね。つまり、肖像画というのは色々あるけれど、私とあなたに当たる図像は一体何なのだろうと思ったのです。日本では、例えば岸田劉生の幼女像がかわいらしくてちょっと伏目だったり、浮世絵だって目が細くてどこを見ているか判らなくて、私とあなたという感じではないですね。

 だけど最近、日本で我々もしょっちゅう見ているものでいやにこちらを見つめている絵があるなということに気がついたのです。選挙のポスターはいやにじっと見つめていますね。ぜひ私に入れてくださいという顔をしている。私とあなたであるはずがないのに、あなたの一票をむりやりねらっている目つきだなと思いました。

 それから連想して、テレビのコマーシャルなどで、いやに「あなた」と言うのですね。これはあなたの車ですとか、自衛隊はあなたの勇気を待っているなどというポスターがあったりします。先程のweとIとも関連しますが、名指しで正面切って指さして「あなた」と言われると違和感があって我々はギョッとするのですが、それが利用される。あなたにこそ話しかけてますよという「私とあなた」は、コマーシャルとかポスターとか政治的な票集めなどに使われるのではないかなということを感じました。

司会 そろそろ6時間になんなんとしておりますので、いつまでも続けたいのですけれども……。実は司会者特権で少し話しますと、話が出なかったら僕がひとりで延々としゃべろうかぐらいに思っていましたが、うれしくも、色々なご意見が相次ぎました。逆に言えば扱い切れなかった問題が幾つもあろうかと思います。とりわけここにはインドの専門の方であるとか、コンピューター世界における一人称と二人称――ソフトが相手なのか、打っている本人がIなのか、どれがIなんだろうとか、ハードは誰が相手にしているんだろうとか思ったりしますし、旧石器時代の人々にとりての自我意識とはどういうものだろうか、果たして自我意識が存在するかどうかについての専門の方が今はおられませんが、そういうところから人称を考えていくということもあったかと思います。

 とりわけ具体的な言語という問題もありましたから、翻訳という問題が出てこなければいけなかったろうという気がしています。自分のことですが、この間、アメリカの女性人類学者が書いた『シャーマン』という本を訳したときに、その人は一貫してシャーマンを代名詞で受けるときは「he or she」と書くのです。「彼もくしは彼女」あるいは「彼女もしくは彼」と書いて、シャーマンが男性であるか女性であるかにかかわらずということをやっているわけです。それを一々訳すとわけ判らなくなるのでシャーマンと全部訳したのです。そしたら編集者が「マン」ではないかと言うのですが、これはツングース語ですから勘弁していただいて……。英語のマンではありませんから。

 そういう問題をいろいろ挙げれば果てしなく展開するのですが、これは次回の共同研究機構に「あなたと私の世界研究会」でも作っていただいて、徹底して進めることができればと思います。今月は問題提起が膨大に出ましたので、また派生的問題で、特に鈴木先生のとっていただいたアンケートなどについては、本当は学生の皆さんから生の若い感覚で見た一人称、二人称についてのご意見も伺いたかったのですけれども、いかんせん時間がございませんので、今日はここら辺で閉じさせていただきたいと思います。  委員長の方から挨拶をいただきます。それではお願いいたします。

杉山 案のじょう無茶な企画で、発表者の方、お聞きの方々に大変ご迷惑をかけましたが、にもかかわらず、ご熱心に最後まで参加していただいて心から感謝しております。会場は大変盛り上がって紛争の団交などよりやはりいいものです。私もお話の中で不消化の部分がありますが、強い刺激を受け、考えたいことが頭をもたげて来ました。皆さんのご報告、フロアをふくめてパワーがあり、そのパワーに圧倒されました。

 学部学科を越え、全学規模でこういうことができるというパワーが我々教員集団にはあるということが確認できたと思います。学生諸君はこういう教員集団が和光にはあるということを誇りに思ってもらいたいと思います。
本当に長時間ありがとうございました。



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