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劉 孝鐘◎人間関係学科講師

 私に与えられた課題は、日本語との違いに注目しつつ朝鮮語の世界における人称、呼称の使い方、その特徴などを紹介し、その背景にある状況について少し考えてみることです。
 朝鮮語と日本語との間にはたしかに他の諸言語から区別される多くの類似性、共通点があり、これらの言語を使う二つの民族間の緊密な関係をうらづけています。しかし当然ながら同時に少なからぬ違い、差異も存在します。違い、差異は呼称、人称の使い方において特にいちじるしいようです。 一方を母語とし、 一方を十年以上も日常的に使っている者の立場からそれを少し整理してみたいと思います。
 しかし母語の習得というものは、ふつうその言葉の論理性または他の言語に比べての特徴などを意識しながらなされるものではありません。母語の母語である所以ですが、ともかくそれ故、同じ言語を母語とするものの間にも個々の文法事項の実生活における使い方に違いがあったり、それを含めておのおのの言語現象についての解釈が分かれたりすることはよくあるものだと思います。その意味からも今日、とくに後半部分のお話しはあくまでも私なりの整理である、ということをあらかじめおことわりしておきます。
 前半では朝鮮語の人称代名詞を中心に人称、呼称の概要について紹介します。朝鮮語の人称代名詞は、日本語などに比べるとその数は少ないが、敬語法とも絡みあって複雑であるともいわれます。

 一人称(私)は、〈ナ〉と〈チョ〉の二つがありまして、前者は対等または目下に対して、後者は目上に対して用いられます。日本語の〈ぼく〉、〈おれ〉のように男性だけが用いるようなものはなく、〈僕〉のように前近代社会における身分的区別に基づいて生まれたものも現在ではなくなっております。性、身分による区別がほとんどなくなっていることが現代朝鮮語の大きな特徴の一つであります。
 二人称には、多数の形式があって、聞き手との関係で使い分けますが、 一般的に目上に対しては使用を避ける傾向があります。代名詞〈ノ〉(お前)は、親しい友人間または子供同士で用います。〈チャネ〉(きみ)はふつう成人の目下に用いますが、〈ノ〉で呼び合う相手に対して用いられることもあります。  〈ノ〉と〈チャネ〉の関係は、日本語の〈お前〉と〈きみ〉の関係とほぼ同じですが、ただし日本では自分の妻に対しての呼称として〈お前〉がまだかなりひろく用いられているのに対して、韓国ではそうした呼び方、つまり〈ノ〉と呼ぶことは基本的に許されません。
 日本語の〈あなた〉に近い〈タンシン〉は漢字で書くと〈当身〉になりますが、日本語の〈あなた〉よりは用いられる範囲がせまく、夫婦、恋人間、喧嘩の際の相手方、英語のyouの訳語、広告などにおける不定二人称としてつかわれます。
 姓の不明な人を呼ぶときは、ノンセンニム(先生さま)、テック(お宅)、アガシ(お嬢さん)、アジョシ(おじさん)、アジュモニ (おばさん)、 ハラボジ(おじいさん)、ハルモニ (おばあさん)などが用いられます。アジョシ以下は本来親族呼称です。
 姓のわかる人には、男女とも姓のあとに、先生、社長、課長、教授などの職位、職業名をつけたうえ、 ニム(様)を語尾に付すのが一般的であります。同僚問ではミスターやミスなどを姓に冠することも韓国では行われています。
 これに対して北の朝鮮民主主義人民共和国では男女、目上、目下を問わず、姓や姓名の下にトンムまたはトンジ(同志)を付けて呼ぶのが広くおこなわれています。トンムは元来おさな友達、友人の意味の固有語ですが、これが同じ課業の実現をめざす互いに平等な仲間というくらいの意味に転じて用いられています。
 ほかならぬこれが原因になって、南ではこのトンムという言葉は一般の会話などではほとんど使われなくなり、死語化しつつあります。南北の分断が言葉の上にも深い影響を及ぼしていることの一つのよい例であります。ただし、同じく同志を意味するロシア語のタワーリシチがソ連邦の解体とともにすっかり姿を消したことを考えると、このトンムをめぐる状況にもまた変化がおきる可能性は十分あるものといえましょう。

 三人称代名詞は元来なく、英語のheを〈ク〉(その人)、sheを〈クニョ〉(その女)とするなどの翻訳語を経て、現在は指示代名詞イ(この)、ク(その)、チョ(あの)にサラム(人)をつけ、この(その、あの)人というように用います。同じく翻訳語である〈彼〉、〈彼女〉が日本語の世界にはすっかり定着しているのとは対照的です。
 人の代わりにブン(方)を用いると丁寧になります。
 指示代名詞にナムヂャ(男)、ヨヂャ(女)をつけてこの男、この女などとする言い方もありますが、どちらかといえば「下品な」感じがすることから、 一般の会話ではほとんど用いられず、親しい者同士で冗談をいうときや喧嘩のときなどに限って使われています。
 なお、二人称として紹介しました金課長、李先生、またはミスタ尹、鄭トンムなどはそのまま三人称としても使われます。これは日本語とはぼ同じです。

 以上、どちらかといえば教科書的に朝鮮語の人称、呼称をざっと紹介しました。以上のことをふまえつつ、これからは普通、文法書などには登場しませんが、韓国人の日常的言語生活においてはむしろより重要な意味をもつものと思われるいくつかの特徴的な点を紹介し、その背景について少し考えてみたいと思います。
 まず第一は、家族関係にない相手にも家族関係に準じた呼称が広く使われていることです。つまり学校や同郷の先輩などに対してあたかも実の兄、姉のようにヒョン(兄)、ヒョンニム(兄様)またはオンニ(姉さん)などと呼ぶのです。会社の同僚の間、はなはだしくは職業軍人の世界においても私的な席ではこのような呼び方がなされることが多いようです。
 最初から呼ぶこともありますが、親しくなるにつれて自然に呼ぶようになるのが一般的です。いうまでもなく、他人を兄、姉と呼ぶことは、その人を実の兄、姉のように考えている、考えたいとの意識によるものです。
 次に人を呼ぶときに姓ではなく、下の名前だけで呼ぶことが多い、というのがあります。日本の場合は、姓にさん、氏、君などを付けて呼ぶのが一般的です。
 これに対して朝鮮語の世界では、目下には名前だけで、目上には名前にヒョン、オンニなどを付けて呼ぶことがよくあり、親しい間においてはそう呼ばないとお互いに不自然さを感じるくらいです。
 もとより朝鮮人の姓、苗字は日本よりずっと少なく、そのうえ金、李などは各々全体の十数%にも達するくらいなので、姓だけでは区別がつきにくい場合が多いという事情も少しは反映しているのでしょうが、それよりはやはり姓で呼び合う関係はそれだけ距離のある関係で、それをできるだけ避けたいという意識、気持ちによるものだと思います。

 三つ目は身内にも敬語、敬称を使うということです。オモニ(母)に対してオモニム、ヒョン(兄)に対してヒョンニムは各々お母様、お兄様という意味の敬称ですが、韓国では日本とは違って、自分の身内を他人に言うときも敬称、敬語を用いて呼んだり話したりします。
 以上、朝鮮語の呼称の世界における特徴的なものを三つほど紹介しました。お聞きになって、おわかりいただけたと思いますが、三つのことは密接に関連しており、同じ意識、背景によるものです。
 朝鮮の近現代史は、その過程において大量の離散家族、欠損家族を生み出しました。一九世紀なかば頃まで朝鮮民族の居住地域は朝鮮半島にほぼ限定されていました。それが一九四五年八月一五日の解放の段階で全人口の六分の一までもが海外にいたことを思いだすだけでも、それまでの期間中に家族を含む人的結合関係の破壊、解体の範囲がいかに広く、その過程がいかに激しかったのかがお分かりになると思います。そこに120万人をも超える死者を出した、朝鮮戦争が加えられたのであります。
 こうした状況は血縁的関係をもたない他人同士が互いを血縁、家族関係にあるものやそれに準じたもののように考え、 つき合うことによって、各々の欠損部分を埋め合う、補い合う必要性を生じさせました。  文字通りに家族的なきずなで助け合わなければ独立運動等の推進はいうまでもなく、生存そのものの維持も困難な状況に全民族がおかれたことが、家族的関係を拡大させていこうとする意識を生み、その結果として親族呼称の用いられる範囲の拡大をもたらした、というように私には考えられます。

 また、人口の大きい部分を海外に排出したはげしい社会変動の過程は、同時に身分秩序の解体、前近代的価値意識の変化をともないました。
 これは一九世紀後半以来の朝鮮民衆の自己変革の過程において目的意識的に追求されてきたことによるところが大きいのですが、いずれにしても、最初の部分で指摘しましたように、現代朝鮮語の人称代名詞やその使い方において性的または身分的区別ないし差別に由来する表現がほとんどなくなっているのはこうした事情によるものです。
 このように理解すると、前近代社会においては互いに共通する部分がより多かったと思われる日本語と朝鮮語の間に、今日みられるような多くの相違点が生じたのはまさに相異なる近現代史の産物である、ということができます。
 朝鮮語の世界には、まだ日本語の〈さん〉にあたる言葉を作れないでいます。これも基本的には今迄お話ししてきましたような過程の結果として考えられるものと思いますが、この〈さん〉の不在が、今日の韓国社会に及ぼしている社会的、政治的影響などについては、さきはどの親族呼称の多用という現象の今日的意味と共に、きちんと解明されねばならないと思います。
 こうしたこともありますが、全体としては朝鮮語のほうが日本語より、少なくとも人称、呼称の面でみる限り、より「近代化」しているようである、という私の印象を最後につけ加えておきます。



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