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松山幹秀◎文学科助教授

 「英語の人称」について問題提起を行なうようにとのことですが、英語は外国語とは言え、ドイツ語やロシア語などとは違い、ここにいらっしやる皆さん全員が解る言語ということで、適当に煙に巻くということもできず多少ともハンディーがあり、役回りとしては少なからず損な役回りである――これが、今回シンポジウムの問題提起者をお引き受けした時の私の率直な感想でした。
 伺ったところでは、最初はほかの英語の先生に対して問題提起者の打診があったそうですが、その先生は「英語の人称は、I,we,you,he,she,it,they――それだけのことですよ」とお答えになりお断りになった。その経緯で私のところにお鉢が回ってきたという事の次第はともかく、こと左様に、英語の人称などというものは極めて自明なことであって、殊更に言挙げするほどの事がらではない、というのが(私自身を含めて)英語の教員全般の感想ではないかという気がします。
 また、英語学・言語学と称される学問の人称の扱いを見ても、「人称(person)とは話し手[一人称]、話しかける相手[二人称]、話し手でも相手でもないもの[三人称]の三者を区別する文法的特性のことで現代英語では名詞、代名詞、動詞の三つの品詞にその形式的区別が顕在する」といった定義で事足れりとしている感は否めません。

 そもそも近代の言語学は、印欧諸語の系譜を史的に明らかにする目的をもった比較言語学に始まり、それが同時に音韻法則の研究を促進し、ついで各国語の歴史的観点からの規範文法が作られるに至ったという変遷を辿ってきていますし、アメリカではやや事情は異なるものの、西洋古典語との関係を意識する模範文法の桎梏を脱して、記述的共時的な言語事実の集積の上に立って北米インディアン諸語の言語体系の研究が行なわれ、構造主義言語学の伝統ができ上がっていったという経緯があります。
 現在その枠組みで活発な研究活動が行なわれている言語研究の一つにチョムスキーが提唱する生成文法というのがありますが、この生成文法も含めたこうした言語学あるいは言語研究すべてに一貫して見られる特微として、「言語(形式の抽象的な体系)がいかにあるかを説明する統一的な原理を求める姿勢」が挙げられます。つまり、人称の問題が深くかかわっていると思われる具体的な発話の場面における言語使用の問題はそれほど重視されてこなかったという経緯が、言語学(や英語学)において人称の問題が等閑視される結果となっている原因だという気がします。例えば、先ほど触れた生成文法で人称が問題となるのは、プロノミナライゼーション(代名詞化変形)、つまり人称代名詞が文中のどのような構造上の関係に立つ名詞句と同一指示的でありうるか(ありえないか)を規定する規則を問題にする時だけだといっても過言ではありません。そこでは、例えばIn his apartment, John insulted Mary.やIn John's apartment, Mary insulted him.においてはhis・himはJohnを指すが、In John's apartment, he insulted Mary.ではJohn=heの関係にないことを、樹系図および統御、束縛といった概念(ジャーゴン?)を用いて定式化することにのみ精力が注がれているのです。

 さて、私自身、今述べたような学問的(?)伝統の中に身を置いて英語学をやってきて、今回たまたまこういう機会をいだだいて人称についていろいろ考えてみたわけですが、その結果、人称の問題というのが、実は言語の本質的な部分に関わる問題であり、言語による人間の世界認識の問題なのだということが分かったような気がします。
 皆さんのお手もとには問題提起者のレジュメが配られていると思います。実は私の書いたレジュメは、まだ喋ることが何も整理できていない段階でデッチアゲタものなのですが、整理のすんだ(?)今の段階で読み返してみて、幸いなことにさほど的はずれではないので、これからこのレジュメに沿って話を進めていきたいと思います。
 まず、「(人称は)現代英語では名詞、代名詞、動詞の三つの品詞にその形式的区別が顕在する」という点についてです。日本語でも自分のことを「筆者」「評者」と書いたり、国王等々に対する二人称として「殿下」「閣下」「陛下」が使われるように、英語にもそれに対応するthe author,the present writer, your highness,your Excellency,your Majestyといった言い方があります。指しているものは自分(一人称)であったり話しかける相手(二人称)であったりしますが、文法上は三人称として扱われる。こうした文法的人称と概念人称が違う一部の名詞について、名詞の人称ということが言われます。
 動詞については、現代英語において人称の区別が認められるのは、be 動詞と俗に三単現のsと呼ぱれるものだけです。したがって、現代英語で人称の区別が最も顕著であるのは代名詞、特に人称代名詞ということになります。

 世界の言語を調べてみると、英語と同じゲルマン系の言語であるスウェーデン語やノルウェー語のように、人称の区別が人称代名詞だけで示され動詞によっては示されない言語もあれぱ、逆にチェコ語やトルコ語のように、基本的に人称の区別が動詞の活用語尾によってのみ示される言語もあります。つまり、一方に人称代名詞だけで人称の区別を示す言語があり、もう一方には動詞の活用で人称を示す言語があるわけですが、大多数の言語がそうであるように、英語はその中間帯に位置しています。つまり、動詞の過去形やmary,canなどの助動詞は前者に属し、人称の区別は人称代名詞だけで示され、be 動詞は後者に属し、人称の区別は基本的に活用語尾によってのみ示されますが、has,does,reads,walksなどはその中間の状態で、人称代名詞と動詞の活用語尾が混用された形と言えます。ドイツ語やロシア語などはこの最後の混用型の典型的な言語ということになります。
 少し横道にそれましたが、やはり人称の問題は人称代名詞にとどめをさします。おそらく、私たち日本人が「人称」という言葉を最初に目にしたり耳にしたりするのは英語を習う際に「三人称、単数、現在では動詞にsをつける」という規則を教わる時ではないかと思います。その時に、一人称は話し手、二人称は聞き手、三人称はそれ以外というふうに習うわけですが、ここで、この一人称、二人称、三人称という区分をよく注意してみると、異なる原理によって規定されていることに気がつきます。つまり、一人称、二人称は肯定的な規定がなされているのに対し、三人称は「それ以外」と否定的な規定がされているのです。そしてこの否定的な規定が含まれる限り、人称は三つであって、三つに限るということになるのです。「四人称」とか「五人称」とかがないのもこの理由によるものと言えます。
 それから、「それ以外のもの」と規定される所謂三人称に「人称」を当てるおかしさもここで指摘しておきたいと思います。三人称代名詞のitや「それら」と訳される場合の they が人を指さないことは英語の初学者でも知っていることで、「それ以外のもの」とはつまり、「話し手と聞き手以外のもの」ということになりますから、一人称、二人称とは違って、三人称は人、物の区別なく嘱目の対象を指します。したがって、三人称は正しくは「三人・事物称」とでもすべきものと言えます。

 ここで興味をそそられるのは、対象認識としては人と物が明確にされつつも、文法的には両者がともに三人称というカテゴリーに属するということです。一人称と二人称には、一般に人間だけしか属さないことを考えあわせると、「話し手が他者を話題の事物としての関係において表現する」三人称は、「話し手が自分自身を話し手という関係において表現する」一人称や、「話し手が他者を聞き手としての関係において表現する」二人称とは、話し手との関係の仕方において本質的に異なったところをもつとしなければなりません。そして、その三つの関係のいずれにおいても、話し手が基点の位置を占めるということから、一人称はあくまで第一人称(first person)、二人称は第二人称(second person)、三人称は第三人称(third person)であって、この第一、第二、第三というのは、ことばをめぐる人間関係の内部での、重点の置かれ方の序列を表しているものと見なすことができます。(それゆえ、これからは一人称、二人称、三人称ではなく、第一人称、第二人称、第三人称を用いていくことにします。)そのように見るとき、見落としてならないのは、第一と第二のあいだよりも、第二と第三のあいだのほうにはるかに大きな落差があることです。聞き手と第三者の根本的な違いは、聞き手が話し手に向かい合う存在であるのに対して、第三者は話し手の表現対象たるにとどまって、ついにこれと向かい合うことがない点です。聞き手がことば共同体をになう主体的自己として登場するのに対して、第三者はあくまで、ことばの世界に取り込まれた客体たるにすぎません。

 第三者が話し手や聞き手にたいして客体としてしかあらわれないことは、第三者を客体的な事物にいちじるしく接近させます。第三者である「かれ」は、かつて話し手または聞き手であったろうし、また将釆いつでも話し手または聞き手になれる存在だという意味では決して事物と同列に扱えないのですが、いま現に一個の客体としてことぱの世界に取り込まれているという点では、話題となる事物となんら変わるところがありません。そこに、人間(he・she)が事物(it)と相ならんで第三人称に属する根本の理由があるように思われます。
 ところで、英語の場合、話し手を話し手として定位する "I" や聞き手を聞き手として定位する "you"は "I" と呼ぱれる人間、 "you" と呼ばれる人間がどういう人間であるかについてはいっさい関知しないという点については、留意する必要があります。つまり「医者」や「教師」や「銀行員」は一定の内容をもつ人間を表し、「父」や「兄」や「友人」も一定の内容をもつ人間関係およびその関係の中の人間を表しますが、"I" や "you" は、そして "he" も、話し手を基点とすることぱの世界を離れては、どのような具体的内容ももたないということです。それゆえに、"I"や"you"や "he" は、ことぱの世界で一定の関係が成立すれば、誰にでも適用できるし、実際に適用されているのです。

 現実の世界では、話し手は自己陶酔にひたったり自己嫌悪に悩まされているかもしれず、また話し手と聞き手は、親子の関係にあるかもしれないし、恋人同士かもしれないし、職場の同僚かもしれないが、ひとたびことばの世界で話し手が "I" として定立され、聞き手が "you" として定立されると、そうしたさまざまな具体的関係はひとまず捨象され、"I"と "you" はもっぱら形式的普遍的な自己として対峙しあうのです。個別心理の内面では、"I"という表現にさまざまな陰影がこめられ、また、"you"と呼ばれる人物との間柄が屈析した情念をよびさますとしても、言語主体としての "I" と "you" は、抽象化された主体としての次元をことぱの世界の中に獲得していくのです。英語の第一、第二人称代名詞においては、この抽象化された意味次元、つまり、話し手を基点とした自己定立‐他者定立からなる形式的ことぱ共同体が厳然と確立されているように思えるところが、英語の人称を考える際に最も大切なポイントではないかと思います。
 心埋学者の芳賀綏さんは『一人称に困る』と題したエッセーのなかで「自分で自分をどう呼ぶか、いわゆる一人称にどんな語を用いるか。なんでもないことのようだが、心理的にはなかなか微妙で、むずかしい。ことに、文章を書くときがそうだ。話すときは、ボク・オレ・ワタシ…と、場合により気分により、融通自在に使い分けていて、それぞれ、自分で抵抗がない。困るのは書くときだ。「私は」「私が」…となかなか書けない。「僕」はなおダメだ。…」と、日本語での第一人称(自称詞)の使い方の難しさを嘆いておられます。

 この難しさはどこに起困するのかということを考えてみますと、ことぱ共同体(人称世界)の中では話し手・聞き手であるということを除けば、年齢、性別、地位、身分などといったものを一切捨象してしまっている英語の第一人称と第二人称と違って、日本語の第一人称代名詞と第二人称代名詞(正しくは自称詞と対称詞)には話し手・聞き手ということ以外のさまざまな要素が付着していることが挙げられます。英語でも第三人称では、he とshe に見られるように性の区別がでてきます。(ちなみに、アラビア語やヘブライ語のように第二人称単数代名詞に男性形、女性形がある言語もあります。)
 しかし、英語の第一人称と第二人称は、抽象的、普遍的、形式的に定立された自己および他者の自覚的表現であって、それが故に、国王や大統領に対しても自らを指して"I" と言えるし、その人たちに向かって "you"と言えるのです。つまり、一旦ことぱの世界の中で話し手、聞き手の関係さえできあがれぱ、誰でも自らを"I" と言えるし、誰に対しても相手のことを "you"と言えるのです。と言うよりも、それより他に、話し手自らを、そして聞き手を表現する手だてがないのです。

 それに対して、日本語の第一人称詞、第二人称詞(自称詞、対称詞)は、そのような抽像化された主体としての次元をことばの世界の中に獲得しておらず、絶えず現実世界での具体的人間関係を引きずっているため、個々の人間関係に応じて変異せざるをえないのです。自称詞に「わたくし、わたし、あたし、ぼく、おれ、わし…)対称詞に「あなた、きみ、おたく、おまえ、きさま、てめえ…」等々、豊富なレパートリーが存在するのもその証左と言えます。しかし、聞き手との関係によって自己を定立する座標軸が変動し、それに応じて用いられる自称詞、対称詞も適宜選んでいかねばならないわけですから、相手との自己定立、つまり座標軸の設定が難しい場合には『一人称に困る』あるいは『二人称に困る』といった事態が往々にして発生することは、芳賀綏さんならずとも私たちが日常的に経験していることです。

 日本語との関連や日本語の人称の問題にはあまり深入りしないでおこうと思ったのですが、あと三点だけ付言させていただきます。一つは、今述べたことと関連しますが、"you"にあたる一般的な日本語の対称詞「あなた、きみ、おまえ…」は、聞き手が上司、恩師、親、はては大統領、国王といった目上の人に対しては使えないということです。その場合は、対称詞をまったく用いないか、「課長、先生、お父さん…」などの役職名等を用いることになります。指すものが人間であることと話し手との関係を表すという以外それ自身の概念内容は無に等しいと言っていい"you"が、形式的普遍的な語=第二人称代名詞となりえているのとは対照的に、日本語には形式的普遍性を獲得した第二人称代名詞は存在せず、それが故に対称詞と呼ばれるものを核としつつも、聞き手を表す雑多な表現形式が存在することになります。もう一つは、第三人称についてもほぼ同様のことが言えるという点です。英語の第三人称代名詞 he とshe は、第一人称代名詞、第二人称代名詞とは性の区別が加わる点で異なりますが、それでも「他者である人間 十 性」という概念内容でしかないわけです。しかし、日本語の「彼」とか「彼女」は、西欧語の第三人称代名詞に対する急ごしらえの代名詞であって、本質的に he や she とは異なるものです。「最近うちの妹に彼ができた」を he を使って英作文するのは不可能ですし、「ねえねえ、そこの彼女」と言うつもりで "Hey, she!"と言ってみても振り向いてはもらえません。日本語の「彼」や「彼女」には、普通名詞の用法すらあるのです。最後に、日本語の人称代名詞には英・独・仏などの印欧語にみられる人称代名詞に特微的な屈折変化もなけれぱ、人称代名詞の共通の形式である短音節の語でもないということを指摘しておきたいと思います。I も je も Ich も単音節ですが、「わたくし」は四音節にもなります。こういうふうに考えてみますと、日本語の人称構造は、英語の第一人称、第二人称、第三人称からなる人称構造とは、意味・機能・形式のいずれの面においても大きな質的な差があるように思えます。このため、日本語においては人称代名詞というカテゴリーそのものの存在があやしいものとなっているのです。(日本語と英語の人称代名詞の中にある異なった原理については、鈴木孝夫教授の名著『ことぱと文化』(岩波新書)に見事な分析がありますので、一読をおすすめします。)

 ここでまた、レジュメにたち返って、英語の人称現象について簡単にその史的変遷に触れておきたいと思います。まず指摘しておかなけれぱならないことは、千年ぐらい前までは、英語の人称代名詞には単数形、複数形のほかに両数形という形式があったということです。「あなたたち二人、私たち二人」という概念です。しかし、この両数形は複数形に併合されて、十ニ世紀ごろには完全に英語から消えてしまいます。次に重要な変化として、与格(間接目的語の格)と対格(直接目的語の格)の区別がなくなったことがあります。
 つまり、He gave me abook.のmeとHe hit me.のmeは古英語の時代には違う形だったのですが、次第に与格に統一されていったのです。中性単数代名詞itだけは対格で統一されていきますが、いずれにしても与格(間接目的語の格)と対格(直接目的語の格)の区別が英語では消えていってしまうのです。

 そして、これが一番重要な変化だと思うのですが第二人称単数形が消滅してしまったという事実があります。現代英語では、単数、複数ともにyou-your-youという活用になりますが、十七世紀以前は複数形の場合には、主格yeや目的格youの区別がありました。しかし十七世紀以降、主格のyeは目的格youにだんだん取って代わられていき、十九世紀に消失しました。御存じのように、youは今日では単・複同形ですが、実は千百年以前には立派な単数形が存在しました。古英語からの継承形で、thou-thy-theeと活用しましたが、十七世紀になると急速に衰え、今日では廃れて、北部方言、詩語の他は、クウェーカー教徒の間で(主格としても使われ第三人称単数の動詞接尾辞をとるthee(Thee comes…)として)用いられるくらいです。ではなぜ第二人称単数形が消滅してしまったのか。それは次のような事情によるものと考えられます。十三世紀後半から、相手が一人であっても敬意を表すために複数形の第二人称代名詞を使うという習慣がフランス語の影響によって始まりました。これは「丁重な呼びかけ」「敬意の複数」「皇帝の複数形」として知られ、ローマ皇帝の時代にまでさかのぼる用法です。ye,youなどの複数形は目下から目上のものに向かって使われましたが、thou,theeなどの単数形は、目上から目下のものヘ、社会的地位が等しいか親しいもの同士の間、夫から妻、親から子ヘ、あるいは神への呼びかけとして用いられました。しかし、どちらの形を使うべきかという心理的な負担のために、あらゆる場合に無難な複数形を使うようになっていき、結局単数形が不要とされ消滅してしまったのです。面白いことに、出発点では同じであったドイツ語やフランス語の場合は、複数形Sie「あなた」−単数形du「きみ、おまえ」、複数形vous「あなた」−単数形tu「きみ、おまえ」のように英語と違って今日でも単。複の違いが保持されています。

 さきほど、第三人称は、第一人称・第二人称とは本質的に異なるものだということをお話しましたが、語源的にもそのことは裏づけられます。すなわち、英語の第三人称代名詞はもともと「これ」を意味する指示詞keに由来し、人称体系の中では、第一人称・第二人称とはそもそもの概念内容を異にする出自をもつ存在だと言えます。ついで申し添えますと、第三人称単数形代名詞はhe・she・it・ですが、この中でsheのsがどこから発生したのか今もってナゾなのだそうで、英語史の学者の間では'she puzzle'(sheの謎)と呼ぱれています。
 以上ごく簡単に英語の人称代名詞の史的変遷を述べてきましたが、このような史的変遷を経て「英語という言語が当初備えていた装置のいくつかを捨て、残った手持ちのものを再利用したり新規の開拓をすることで築き上げてきた固有の人称世界」(レジュメ)においては、現実世界のさまざまな具体的人間関係はひとまず捨象され、対峙しあう普遍的自己として定立された話し手(第一人称)と聞き手(第二人称)がことばをめぐる共同性の場を作り上げ、他者(第三人称)はこのことぱの共同性の場にとりかこまれた客体として存立することになるのです。

 それでは最後に、レジュメにしたがって「さまざまな事例を頼りに」これまで述べてきたことを検証してみたいと思います。
 ハンドアウトの(1)の例、I gotta show some of those pompous, self-important executives over there that Hap Loman can make the grade.は、アーサー・ミラー『セールスマンの死』という小説の中で、Happy Lomanという主人公の青年が自分の兄Biffに向かって、自分もいつがは店のお偉方に目にものみせてくれる、と張り切るくだりのものです。ここで、自分を称するのにIではなく自分の名前を用いている点が注意を引きます。
 Happyが自分のことをIではなく、Hap(py) Lomanと言ったとき、当然のことながらこの自称詞は聞き手のBiffに向けて言われたものではないことになります。つまり、話し手が自分のことをIと言わなくなったとき、話し手は聞き手との対峙関係の中で構築される普遍的なことぱの共同世界を飛び出して、さまざまな具体的関係の存在する世界へと自らを抛っていくことになるのです。
 話し手が自らを外側から眺めれば、その時点で話し手はもはやIではなく、一人の社会的人間、現実世界の中での社会的存在としてのHappy Lomanになるのです。他人の目に映ずる自分はHappy Lomanに他ならず、しかもフルネームで表現することで、その名の表されている人物の、全人格、全存在が示されることになるのです。この例に限らず、誰かに軽蔑されたり、相手に向かって挑戦的な態度を示す場合などに、Iではなく話し手のフルネームが自称詞として使われるのはそのためです。

 (2)の対話例は、フランク・オコーナーの短編『僕のオイデプス・コンプレックス』からのものです。母親とずっと二人きりの生活をしていたLarryという六才ぐらいの男の子が、軍人として出征していた父親が戻ってきてからというもの、母親が父親とばかり一緒にいることに次第に苛立ちを募らせていきます。そこで、Larryは母親をなんとか自分のほうに取り戻そうとして、なにかと二人の間に割って入ろうとする。それを母親からきつくたしなめられる−−そういった場面での母子の対話です。

 (2)"Do be quiet, Larry! Don't you here me talking to Daddy?" "Why are you talking to Daddy?""Because Daddy and I have business to discuss. Now, don't interrupt again!"

 母親が幼児に向かって"Mammy will do it for you."「ママがしてあげるわね」といった話し方をするのは、英語でも珍しいことではありません。実際この短編の中でも、母親が自分のことをMammyと称する箇所がいくつもあります。問題は、自称の親族名称Mammyとこの例に見られる人称代名詞Iとの間にどのような使い分けがなされているかという点です。結論から言えば、話し手である自分と聞き手である相手を、同じ資格をもったそれぞれに独立した人格的存在と見る場合には人称代名詞が、親子関係や心理的共感といった要素が入り込んでくる場合には自称の親族名称が使われるといったはっきりとした使い分けがあります。この例の場合、母親がそれまでMammyと言っていたのをIやmeに言い換えた瞬間、母親とLarryの関係は、母子の関係から一対一の対等な心理的関係となり、母親は息子に対して対等な個人対個人としての対決姿勢を示しているのだと言えるのです。

 次の(3)の例文は、キャサリン・マンスフィールドの短編『ダブ夫妻』からのものです。年老いた母親のもとにしばらくぶりで風采の上がらない息子が帰ってきて、隣に住む女の子に恋をする。出発の前日に息子が母親に気兼ねしながらその女の子のところり出かけようとすると、母親がすかさず次のように言うのです。

 (3)"I should have thought you could have spared your mother your last day. And where are you going, if your mother may ask?"

 この二つのyour motherは普通ならば当然最初のはme、あとのはIとなるべきものと言えます。この例ではさきほどの例とは逆に、母親が自称詞として人称代名詞ではなく親族名称を用いています。
 もともと一人の人間は複雑多岐にわたる能力、資質、経歴、資格、役割などをもっていますが、そういったものに一切関係なく、ことばの世界で一定の関係が成立すれば誰にでも適用できるのが英語の人称代名詞であることはすでに申し上げた通りです。逆に、この(3)の例のように、人称代名詞ではなく親族名称で自称するということは、話し手が自分を構成する多面的多層的な要素の中からその名称で示される特定の資格や役割にスポットライトを当て、その側面を自分から全面に押し出し、相手に向かって自分をその角度から見ることを要求することになります。
 当該例の第二文で、母親が"If my mother may ask?"ではなく"If I may ask?"と言えぱ、彼女はことばの世界の中で抽象的普遍的に定立された話し手として、言い換えれば、話し手という資格しかもたない一個人として質問することになってしまいます。そうなると、相手が返事をするのもしないのも相手の勝手ということになり、質問の内容が内容だけに、"It's none of your business."とそっぽを向かれても致し方なしということにもなりかねません。そこで母親が敢えて自分をyour motherと称することで、「私はおまえの母親という資格で尋ねているのよ」という話し手の母親としての役割が強調され、それと同時に、相手に息子としての役割、つまり母親に対してとるべき正 しい態度を示すことを要求することになるのです。

 このように自分(あるいは相手)を、相互の役割関係を規定する親族名称で呼ぶことは、相手(自分)に対して自動的に役割付与、役割期待を行なってしまうことになるため、父親と対等に議論したり争ったりするときは、決してfatherという呼びかけをせず、もっぱらyouで押し通すということが社会学の論文の中でも報告されているぐらいです。
 さて、ここまでは第一人称をめぐって具体的な事例の検討をいくつか行なってきましたが、第三人称の代名詞についても、これまでお話してきたことを裏づける興味深い事例があります。

 (4)"And doesn't she teach too?" he asked.
"Don't call her 'she'," I said.
"Doesn't Jennifer teach?" he asked politely.
 この例は、映画化もされたエリック・シーガルの恋愛小説『ある愛の詩』から引いてきたものです。主人公のOliverは大富豪の父親の反対を押しきって、ハーヴァード大学で知りあった貧しいイタリア系移民のパン屋の娘Jenniferと結婚するのですが、やがて彼女は病いに倒れ、その治療のために大金が必要になります。Oliverは心ならずも父親に借金を申し込むのですが、かねてより息子夫婦の動静を調べてあった父親は、息子は一流の法律事務所に勤め、妻のほうも音楽教師をしていて二人ともちやんと収入があるはずなのに、と訝しく思うのです。それで、(4)の例にあるように「それに彼女も音楽教師をしているんじゃないのか」と尋ねるわけですが、Oliverは父親が自分の妻のことをsheで呼んだことに異を唱え、Jenniferと言い直させようとします。父親も特にそれに逆らおうとはせず、素直にJenniferと言い直すというくだりです。

 この例が強く示唆しているように思えるのは、さきほどもお話した通り、第三人称代名詞で表される存在というものが、単に話し手の表現対象たるにとどまって、話し手と聞き手が共同で担うことばの世界に話題として取り込まれた客体でしかないということです。第三人称代名詞を用いたとたん、それによって指し示されているものがたとえ人間であっても、その「彼」または「彼女」は、そして「彼ら」も、客体的な事物にいちじるしく接近した存在になってしまうのです。それが故にOliverは父親にとって身内であるはずの自分の妻のことを、言わば「客体」として父親がsheと呼んだことに強い抵抗を示したのです。話し手と聞き手のすぐ傍らにいて、その二人の会話を聞いている人物のことをheまたはsheで話題にしたり言及したりできないのも、同じ理由によるものと言えます。(以上諸例については、鈴木孝夫教授の論孝を参考にさせていただきました。)

 ところで、複数形が単一人を指示する用法については、人称代名詞の史的変遷の中で少し触れるところがありました。つまり、単一人の聞き手に対して、敬意や丁重さを表すために第二人称代名詞の複数形ye(you)が用いられたという事実についてです。この「敬意の複数」は四世紀のラテン語に始まり、本来は皇帝に対して用いられた用法が、ノルマン征服(一〇六六年)の影響の一つとしてフランス語から英語に流入したものです。しかし、その後次第に使用範囲が拡大していくにつれて「敬意の複数」としてのyeの本来的意味は稀薄となり、一般的第二人称代名詞としての性格が強まり、ついには単数形thouを駆逐してしまったという史的経緯についてはさきほど申し上げた通りです。この複数形の単一人指示用法はなにも第二人称(ye)だけに限られるものではなく、第一人称(we)にもその用法が(こちらの場合は複数個)あります。まず、君主などが公式の場で自分を指すのに単数形Iに代えて祖数形weを使う、「君主のwe」(Royal‘we')と呼ばれる用法があります。また、新聞・雑誌の編集者や演説者・講演者が、自己を強く打ち出すことを避けるため、あるいは読者、聴者との一体感を表すためにweを用いる、「主筆のwe」(Editorial‘we')と呼ばれる用法があります。さらには、親・先生・医者などが子供・生徒・患者・老人に対して共感の気持ちを表すためにyouに代えてweを用いる「親心のwe」(Paternal‘we')と呼ばれる用法もあります。これらを意味的に分類すれば、「君主のwe」と「主筆のwe」の前の用法は「謙遜の複数」、「親心のwe」と「主筆のwe」の後の用法は「共感の複数」ということになります。しかし前者の「謙遜の複数」は、かえってIを隠れ蓑とした言語的倣慢さを相手に与えることから、だんだん用いられなくなっていく傾向があるようです。それに対して、「共感のwe」のほうは常に聞き手を含意・包摂し、仲間意識や親密感を高める作用があるのでだんだん広く用いられていくようです。とは言っても、聞き手が話し手に対して仲間意識や親密感を抱いていない場合には、かえって聞き手に反発心を抱かせてしまう逆効果ももっていることに注意する必要があります。たとえば、次の(5)の例は、マッカラーズの『針のない時計』という小説からのものですが、老齢の判事が高血圧のために医者から節食を命じられた際、"We won't find the diet too hard.(「判事さん、規定食はそんなにつらいものとは、私たちには思えませんよ)と医者から言われて、その憤懣を友人に語っている場面のものです。

 (4)'The docter said I had two choices ― either to go on living as I had been, which would not be for long, or to go on a diet.… I told him to let me think it over for twelve hours before my final decision. "We won't find the diet too hard, Judge." Don't you loathe it when docters use the word "we" when it applies only and solely to yourself? He could go home and gobble fifty biscuits and ten baked Alaskas, while I'm starving on diet.'

'I hate that "we" doctors use,' Malone agreed.

 要するに、医者はこちらの節食の苦しみも知らず、フランスパンだのアラスカパンだのをたらふく食べられるのに何が'we'だ、医者が「私たち」(we)というこ とばを使うと胸がむかむかすると、この判事さんは大変な剣幕で、友人のほうも「私も医者の使う'we'は大嫌いさ」と相づちを打っているのです。

 次の対話は、今日来る途中の電車の中で女子学生が交わしていた会話の一部です。
 「ねえ、髪切ったの」
 「切ってから会ったじゃない」
 「ウソ、会ってないわよ」
 日本語では周囲の実況から人称が明らかなときは、この会話のように人称代名詞に相当するものが不要になります。と言うよりも、前にもお話したように、日本語は人称代名詞相当語(自称詞、対称詞、他称詞)の選択が難しいため、情況や文脈に大きく依存さすことで人称代名詞を明示的に示さなくなった言語だと言えます.しかし英語では、統語上の圧力もあり、必ずその存在を明示する必要があります。実は、ある意味でこの点が日本語と英語の人称表現の差でもっとも重要な点だとも言えます。

 英語を日本語に訳すときに、日本語では使用しないところで人称代名詞をしばしば入れ、しかもそれを機械的に訳して「彼は彼の手を彼のひざの上においた」式の訳にすることが多いのは誰にも身に覚えがあることでしょう。数々卓見に満ち、非常に優れた業績である前述の鈴木教授の『ことばと文化』の中の「人を表すことば」で、ただ一つ不満があるとすれば、この点、つまり、日本語のゼロ代名詞化の問題についての指摘がないことです。次の(6)の例が示すように、英語では同一物を指示する名詞句は代名詞によって繰り返されるのが普通ですが、日本語では明示的な要素が何も生じない、つまりゼロであるのが普通なのです。

 (6)「昭はたばこを取り出すと火をつけて吸い始めた」

 Akira took out a cigarette, lighted it and began smoking it.

 これを「昭はたばこを取り出すとそれに火をつけてそれを吸い始めた」としたら全く日本語らしくなくなります。ではなぜ英語では代名詞を繰り返さなければならないのでしょうか。英語史の観点から言えば、非人称主語が人称構造化されてきた経緯と関係があるのですが、共時的対照言語学の観点から言うと、日本語は動詞文末言語であり、英語は動詞非文未言語であるというところにその原困があります。つまり、日本語の場合、名詞句「たばこ」は関係をもつ動詞「取り出す」「(火を)つける」「吸い始める」のすべてに同一方向(九方向)でつながります。ところがa cigaretteはまず左方向took outにかかるため、次のlightedからは反対の方向を向いてしまうことになります。そのためそれとのかかわりを示すために、名詞句を代名詞で繰り返す必要がでてくるのです。began smokingとのかかわりも同様です。さらに言えば、日本語のゼロ代名詞使用の規制はかなりゆるやかで、(6)で最初の「たばこを」は次いで「たばこに(火をつけて)と繰り返されるわけですが、そのような助詞に反映される細かい文法関係の違いは問題にならないのです。このように、統語構造上の後押しを得て、情況密着形の日本語はますます人称代名詞を任意要素へと格下げていっているように思えます。

 結論としまして以上お話してきたことを簡単にまとめますと、英語は史的変遷の中で、人称表現のあるものをなくし、あるものをとどめ、これまでお語したような社会的・心理的な要請とか、統語構造上の要請とか、さらには外的な影響といったさまざまな要素や圧力によって、現在の英語の人称構造、人称世界を構築しているということになろうかと思います。そして、そういった英語の人称世界の中で、特に、第一人称と第二人称とで作り上げられることばの共同性、言い換えるならば、人間のさまざまな属性とか関係性を捨象した上に成り立つ、「話し手としての自己」と「聞き手としての自己」とが対峙し合う形式的・普遍的ことばの世界(人称世界)、という側面の認識は、異文化間コミュニケーションという観点からも大切なことがらであると思われます。



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