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永澤 峻◎芸術学科教授

 今回は「文化としての言葉―あなたと私の世界」という全体的なタイトルのもとで、各発表者が人称に係わる問題をお話することになっているわけですが、西洋美術史を一応の専門としている私は、画像もまた独自な言語であるという視点から「我と汝の対話」の問題点を考えてみたいと思います。残されている画像作例の上でも、この問題が私たちの時代まで連綿と続くものであることを理解して項くため、まず(1)から(6)までの図版を挙げておきました。これらの作品の年代を追って見て項くと、古代ギリシアから現代まで約二千五百年に渡る長期間の伝統を辿れることが理解できるでしょうし、現在もそのかたちを目の当たりにできる画像資科であるため、直接私どもの眼前で問題の所在点を元の状態のままで検討し、把握してゆくことができます。そこで、以後は図版を参照しながら、私の話を辿って頂きたいと思います。

 まず最初の図(1)に、「あなたの国はあなたを必要としている」という言葉とともに、画面を見る人々に直接指さす姿のキッチェ卿を描き出した、アルフレッド・リート作の有名な新兵募集のポスターを、鑑者(「汝」)一人一人に語りかけてくる現代の画像の典型的な作例として挙げておきました。こうした鑑者(「汝」)に直面し、絶対的な「我」として語りかけてくる画像を、以後のお話の中で、英語で言うところのアイコニックな(Iconic)、つまり肖像的・聖画像的な表現と呼んでゆくことにしたいと思います。
 こうした表現の原点の諸相とこれらの表現が持つ普遍的な意義を辿ってゆくというのが、私の今日の話の核になるものなわけですが、次にリートのポスターに直接先行する絵画の作例として、図(2)に、超越的な支配者、すなわち神的な存在に格上げされた画中の人物(「我」)が画面を見る人(「汝」)に語りかけている新古典主義の画家アングルが描いだ『ナポレオンの肖像』を挙げておきました。既に先のポスターの例からも分かるように、この絵でも、まじろぐことなく鑑賞者の方を見据えて玉座に座るナポレオンは、非現実的な恐るべき威光に包まれた姿で表わされています。また、ここでは、アングルは、ナポレオンを特定の身振りによってではなく、彼が手に持ったり、画中に描き込んだりした事物によって、皇帝や王や神に対する存在とみなし得るように描き出しています。すなわち、絨毯の所には、古代ローマや西洋中世初期の王位を象徴する鷲や、長衣にはフランク王国の象徴とである蜂(これはナポレオンによって産業の象徴として復活されたもの)、シャルル五世の王笏、後で問題となる聖遺物としてのシャルルマーニュ大帝の「正義の手」などを、微細に画中に描き込んでいるのです。こういった形で、画中に描かれだ肖像(「我」)が絶対的な存在として鑑賞者(「汝」)に対面する画像の例が西洋近代に存在していたわけですが、現在の美術史の研究ではこの絵を描くに際して、アングルは丁度この時期にルーヴル美術館で公開展示されていた近代の油絵の元祖アイク兄弟の作『ゲントの祭壇画』中のキリスト像を直接見てナポレオンのポーズに使うとともに、イタリアに彼が留学していた時にその模刻を研鑽したと思われるギリシア古典期の大彫刻家フィディアス作の失われた彫刻『オリンピアのゼウス』像を考慮に入れて制作したと考えられています。このことは、図(3)、(4)、(6)のキリスト像、それに(5)のゼウス像を見て項けば、十分納得できるでしょうしヨーロッパの基礎を規定すると言われる古代ギリシア世界とキリスト教世界における肖像的・聖画像的な伝統が、「我」と「汝」の対話に係わる根源的な造形言語として近代に至るまで連綿と続いていたことが推測できるでしょう。

 そこでまず最初に、西欧中世キリスト教美術の肖像的・聖画像的な伝統における「我」と「汝」の対話の造形言語の問題から考えてゆくことにしたいと思います。造形言語、自体の検討に入る前に、西欧における普遍的な「公(パブリックなもの)」の成立と「我」と「汝」の普遍的で、絶対的な関係が11世紀頃から徐々に形成され、それが近代ヨーロッパの独自性にとって本質的な重要性を持つと考える最近の社会史の側からの指摘を紹介し、それと対応させながら、画像作例の具体的な分析を試みてゆくことにしようと思います。社会史の側からの指摘が端的な形で提示されているのは、網野善彦氏との『中世の再発見』という対談集(平凡選書、1982年)の中の「公とは何か」という章における、阿部謹也氏の次のような発言だと思います。
 「ヨーロッパ史をみてみると、贈与から売買への転換のところで近代ヨーロッパの萌芽があらわれた、つまり18世紀以降の世界史の中でヨーロッパ史の独自性は、11世紀のあのあたりで基本的にそろったと思えるのですが、それを支えたのは、やはりあのころに始めて近代ヨーロッパのエネルギーとなる公的なものが生まれたということで、公的なものというのは、キリスト教によって贈与慣行に彼岸を媒介とする回路が設定され、普遍的なるものを媒介としてモノとモノの往復という一方通行になったということなんです。(中略)相互の授受というか互酬の関係は、日本でもいまだ人と人を結ぶ普遍的で日常的な関係で、どこの世界にもあるんだけれども、ヨーロッバがなぜ11世紀以降大きな変化を示したかというと、互酬の関係の中で、お返しは天国でする、つまり死後の救済という形でそれをいったん普遍化した上で返すという回路を作ったところに、非常に大きな変化が生まれた原因があるのではないかと思うのです。しかも、それが対教会関係だけでなく俗人の間にも拘束力を持つようになった点が、他の世界とは異なった発展を遂げた原因ではないかと思うのです。 宣誓という観念は日本人の間では極めて薄いと思いますが、ヨーロッパでは民間伝承などの中でも非常に大きな要因になっています。誓いが彼岸における救いに媒介されるからこそ普遍性をもちえたのです。そして、公は、そうした形の中で新たな姿をまとって出てくるのではないか。つまり、二人の人間関係があって、お互いの物のやり取りをして暮らして生きたのだけれど、あるとき、あなたに対するお返しは今までの形ではなくて、あなたの死後の救いのために、あるいは子孫のために天国に積みます、ということを誰かが言ったとします。これは、従来の慣行の上では、ある意味では大変困ったことです。しかし、そこでは絶対的なものが出され、それを社会が承認していくのがキリスト教の授容だったわけで、社会全体がその方向に非常に傾斜した時期が11世紀ごろだったのではないかと思うのです。」

 こうした考え方は、ヨーロッパの歴史の原点とその独自性を検討しているさまざまな分野の研究において、現在深められてきていると思われるのですが、ここでの当面の課題である造形美術における「我」と「汝」の対話がなぜ普遍性を持って成立し得たかという点に関しても、先のアイク兄弟のキリスト像の究極的な原型となったと思われる東方キリスト教国家、いわゆるビザンチン世界で七百年頃に制作されたキリストの胸像の聖画像(いわゆるイコン)(図4)が発見されたことによって、その形成期における特性、機能さらには思想的な背景が明かにされ、ここで現代に至るまで挙げた作品群の意義もより明瞭になってきています。

 イコンというものが、汝あるいはこれを見る個々の人々に対してもたらした特性が何であるかを、図(1)から(3)の作例へと連なってゆく問題として、図(4)のキリストの胸像の板絵に則してお話しますと、イコンの登場によって、画像とこれを眺める信者との関係がまず第一に変化したと考えられます。これ以前の六世紀前半までの大画面の装飾においても、もちろんキリストや聖母を教会堂の東端の後陣(アプシス)の中央に、使徒、預言者たちをこれ以外の壁画に配する形式がなかったわけではありませんが、これらの聖像は、信者たちの目の位置からかなり隔たった高い場所に描かれており、全体が一つの教化的なプログラムを構成していました。ところがイコノスタシス(イコンを掛けるための木製または大理石製の仕切り)が完成されると、主として単独の聖者像を描いたイコンが、信者たちの目の位置とほとんど同じ高さに置かれることになり、一人一人の信者がいわぱ一対一(フェイス・トゥ・フェイス)で聖者と向き合うことが可能となりました。より親密な関係が、画像とこれを見る人(これに祈る「汝」としての信者)との間に設定されることになったのです。六世紀末、七世紀初頭を境として、絵画、画像一般の役割が一つの大きな変化を遂げたと言えましょう。すなわち、以前は文盲の人々の教化のための有効な手段として、いわば功利的な目的から教会の権威者たちによって許容されていた絵画が、次の時代になると、見る人々の魂に深い宗教的な感動を呼び起こすものへと変化していったのです。

 ところが、このイコンの隆盛は、一方では、画像を描かれた当の神または聖なる人物の実体そのものと見誤ってしまう偶像崇拝への傾斜の危険が叫ぱれ、特にこの時期に、隣に具象的な宗教画像を完全に排除するイスラーム教の国家が成立したため、なおのこと画像を拝む、あるいはそれを神それ自体と取り違えることに対する危惧の念が東方キリスト教国家の指導者や教会の権威者たちの間に生じ、画像破壊運動(いわゆるイコノクラスム)〔715年〜842年〕が起ります。この際に多くのイコンが破壊されたわけですが、これに反対し、画像擁護を主張した人々は、画像許容の一つの重要な根拠として、先にも述べた画像が人々の魂に深い宗教的な感動的な感動を呼び起こすことを強調したのです。例えぱ、聖画像の擁護論の根強い拠点であった首都コンスタンチノポリスのストゥディオス修道院の院長テオドロスは、「絵であろうと彫刻であろうと、これを注意深く眺めた人の魂の中に深い印象を残さないものはない。この画像の執念は、家に帰ってからも眺めた人を追いかけ、その人の情念を興奮させ、ときには後悔させるだろう」と述べ、また同時代の画像擁護論派のニケフォロスは、絵画がすでに古くから挿絵入り写本において文字と同等の役割を果たしてきたことを指摘した後、聴覚を通じて伝えられる説教よりも視覚を媒介とした場合の方がより良く信仰へと人を導くと述べ、「目の前に置かれた画像は魂の中により強い刻印を刻み、視覚を通じての知覚は、魂の最も効果的な場所を占める」と結論づけています。

 東方キリスト教美術、いわゆるビザンチン美術の一つの本質を構成しているこのような美学は、その起源を三世期の哲学者プロティノスの新プラトン主義の画像論に求めることができるものです。その美学によれば、対象をその最も本質的な現われにおいて把握するためには、一方から光の当たった、すなわち偶然的な視覚の歪みによって捉えられた状態ではなく、まんべんなくあらゆる方向から光の当たる純粋な状態において事物を眺めなければならないと説かれています。美術の分野で、二次元的な表現、遠近法、陰影法などの写実を目的とした古典的な技法が次第に姿を消し、平面的、羅列的な輪郭線に基づく対象の表現が生まれてきたのは、このような深い思索を背後に秘めた現象だったのです。プロティノスの美学の本質と一致する、外見的な写実から内面の真実の把握への移行は、すでに四世紀頃から目立ち始める傾両ではありましたが、殊にイコン美術の興隆が起こった六世紀後半から、七世紀初頭にかけて決定的な形を取るに至ったのです。聖者の肖像を描くに際し、斜め横向きの自然なポーズはむしろ対象の偶然的な姿として排され、これに代わって、内なる生命の輝きに燃えた目を大きく見開き、厳密に正面を向き不動の姿勢を取り、肉体の重みを完全に消去した聖者の肖像こそが、その最も本質的な姿を捉えるものと考えられるようになったのです。

 五世紀未から六世紀初頭にかけて書かれたと思われるディオシオス・アレオパギテスに帰される神秘主義的な諸著作が、その後の画像擁護論者たちに改めて新プラトン風の画像論を展開させる基礎づけを与えました。偽ディオニシオスの教説によれば、感覚世界は霊的世界の反映に他ならず、可視的世界に満ちた象徴、すなわち「目に見える画像を通じ、我々は各自の能力に応じて天の位階、神聖な世界の位階を可能な限り遠くまで想起することができる」と考えられたのでした。

 それ故、画像擁護論者たちは、この教説を継承して、画像はその原型を想起するための手がかりであり、時空を越えた世界の交流を保つための通路であると考えたのもごく自然の成り行きであったわけで、「画像に対して払われる崇敬はその原型にまで到達するものである。画像という形を取るこの書物を心の目を持って読み取ることにより、我々はその似姿しか所有していないとはいえ、その最初の原型まで洞察することができるのである」という画像擁護論者たちの議論の核心となっていった言棄は、この間の事情を顕著に明かにしてくれると思われます。このようにして、画像は教化のためのものでもなく、また単なる個人的で一時的な美的、宗教的な感動のためでもなく、神に接近するための一種の交流手段として重要視されることになったのです。これは新プラトン主義特有の上昇理論と言えるでしょう。次いで新プラトン主義風の画像論は、もう一つ新しい段階へと飛躍してゆきます。すなわち、画像を通して神の認識に至るという一方的な上昇理論だけではなく、これと並んで下降理論が画像に適応されることになったのです。この理論に根拠を置くことによって、イコンそれ自体が客観的な存在として宇宙の神聖な諸位階の中に位置を占めることになり、イコンは神から流出する神聖な要素を分有する容器、原型を忠実に模倣し、これを写し出す鏡であると考えられるようになりました。つまり、下降理論の適用により物質的な素材によって成り立っているにすぎないイコンの中にも神の霊的な要素の一部が存在すると見なされるに至ったのです。やや概括的に述べるならば、目に映ずる個々の画像上の「神」が見られるならぱ、その画像を見るそれぞれの者(「汝」)の側から、次第に本質的で唯一無二の「神」の世界、つまりその「神」の絶対的なイデアヘと近付いてゆける世界とともに画像(イコン)は物質にすぎないけれども、神の絶対的な力(普遍的な「我」)を分有しており、それがかりそめの世界にいる見る者(「汝」)のもとに降りてくる世界という、上昇・下降の二つの織り成す世界観が形成されていったと言えるでしょう。すなわち、「我」対「汝」という一人称と二人称の関係で言うならば、普遍的・絶対的な存在を軸として、この人称の関係が肖像的・聖画的な画像の世界に成立したわけです。

 では、東方キリスト教世界において、この関係が聖像破壊運動(イコノクラスム)〔715年〜842年〕の過酷な試練を経た後、どのような画像表現として定着していったのでしょうか。教会堂内部に残る典型的な作例として挙げられるのが、図(6)のギリシア・アテネ郊外のダフニ修道院教会の天蓋部の11世紀初頭のモザイク表現です。ここには、教会堂の最頂部の丸いドーム部が「天」を象徴すると見なされ、そこに聖像破壊運動に先立つ時代の図(4)のイコンとほとんど同じポーズのいわゆる『全能(パントクラトール)のキリスト』が表わされています。このキリスト像は、円形の虹の窓から、胸までの部分までしか見せずに覗いているという姿を取り、これを天と地の接すると見なされるその下の部分の『受胎告知』に始まる12の福音書場面(実際の教会堂で一年の間に行われる最も重要な典礼に係わる福音書場面ですが、これらの場面では、背景は出来事を暗示する要素を最小限にとどめ、ほとんど全てが金地となっており、時・空間を超えた表現とされています)と比べてみますと、計り知れないほど巨大で超越的な尺度の存在として表わされているわけで、ここに至って東方キリスト教会の内部の全体的なプログラムは、かつての教化的な表現とイコン的な表現とが厳密に、しかも調和的な形で融合していったことが推測されます。この推測が単なる現代の私だちの印象にとどまるものでないことは、首都コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂のモザイクについてプロコピウスが語った、次のような言葉から裏付けることができます。つまり、プロコピウスは、「聖堂は、これを眺める人の周囲を回転しているように感じられる。なぜなら、眺めるものが無数にあるため、これを見る人は次から次へと廻らざるを得ないからである。そして、自分自身が体を回転させているにも係わらず、あたかも建物の方が旋回しているような錯覚にとらわれてしまうのだ」と語っており、「我」対「汝」に係わる客観と主観の問題は、認識の問題と絶対・普遍の問題として、画像自体に則して人々に感じられるに至ったことが確認できるのです。

 このような形で、東方キリスト教世界の「我」対「汝」に係わる画像の問題がある程度確認できるとしたら、現在までの幾つかの研究を通じて(特に最近年のドイツの優れた中世美術史家ハンス・ベルティングの次の大著が重要です。H. Belting, Bild und Kult, Geschichte des Bildes vor dem Zeitalter der Kunst, München, 1990)、こうした東方キリスト教世界の大きな影響を受けながらも、独自な展開を遂げた西ヨーロッパの「我」と「汝」の普遍的な対話の可能性を示唆する画像の問題はどのように考えられるに至っているのでしょうか。

 ここでは、西ヨーロッパの歴史の上で最も決定的な時期と見なされる10世紀〜11世紀に関して、関連する文書資科も数多く残る、図(7)を挙げました。フランスのコンク大聖堂の宝物館所蔵の名高い『聖女フォワ』の座像遣物函に則し、その経緯を紹介して見たいと思います。問題の前提となるのは、キリスト教の勝利によって、新たに展開した事態、つまり死者の住む町(墓場)が生者たちの住む町の内部に設置されるようになり、都市の城壁内での埋葬に対する千年にも渡る宗教的禁止の解除が、正真正銘の歴史的変動を生じさせた(ジャン・ギュイヨン)という点です。この新たに都市の内部に入ってきた死者たちの中に、キリスト教徒の眼から見て特別な地位を占めるに至った者がいたのです。つまり、殉教者たちです。イギリスの優れた宗教学者ピーター・ブラウンは、『聖者の崇拝』という見事な著書(The Cult of the Saints, Chicago,1982)の中で、殉教者たち、そして一般的には聖者たちが、聖遺物を通じて現存すると考えられるに至ったという点を強調しています。先立つ古代ローマ時代に皇帝の像に対して付与されていた換喩(メトニミー)としての役割は、聖遺物において全面的に開花して行ったというのです。例えぱ、トウールにある聖マルタンの墓に刻まれた墓碑銘文には、「この者の魂は神の御手の中にあり」と書かれながらも、一方では、「あらゆる奇跡により明かなごとくに、全き姿にてここに現存する」と書かれていたのです。ここにおいて、普遍的で超越的なパーソン(Person)、つまり人称代名詞で言う人称とか、人格とか、ペルソナ(位格)というキリスト教の一番重要な概念が「実在する」という考え方の礎(いしずえ)が、聖遣物崇拝を通じて確立して来たわけです。

 この点を最も明瞭に示す造形作例が、聖遺物函としての役割を持つ聖女フォワの像であり、胸のところの十字架形の部分が見られますが、この内部に彼女の遺骨が収められているのです。彼女は四世紀始めに12歳で殉教した女性でしたが、先にも申しましたようにこの像に関しては、これを見たり、拝んだりした当時の人々がどのように感じていたかを教えてくれる文書資科も同時に豊富に残されています。すなわち、『聖女フォワの奇跡の書』と題された聖者伝がそれで、とりわけそれらの中でも、シャルトルの聖堂座学校の学僧であったアンジェのベルナルドスが、11世紀に書いた最初のニつの書に、私たちにとって貴重な証言が残されています。コンクの像を修復した西洋中世美術史家のジャン・タラロンは、もともとの胴体は、10世紀頃に、古く四世紀から五世紀初頭に遡る古代の頭部、すなわち月桂冠をつけたローマ皇帝の黄金の頭部像に付け足されたものだったことを明かにしました。それ故、聖者の遺骨を収める聖遣物函が像という形を取るということは、決して些細な事柄ではなく、それどころか、このことこそ、恐らくは東方キリスト教世界では偶像崇拝の危倶によって完全に姿を消してしまった丸彫り彫刻が西ヨーロッパのキリスト教世界において復興するに至ったことに、その正当性、あるいは口実(アリバイ)を与えた真の原因と考えられるのです。聖女フォワの遺骨の一片は、いわぱ安全を保証する許可証にすぎず、それによって当時の農民たちが本当に得たのは、聖遣物よりもむしろそれを包んでいるもの、すなわち殉教した子供の像、大きく眼を見開き、宝石を嵌め込んだ衣をつけた人形(ひとがた)だったのです。ここでは詳細は省きますが、アンジェのベルナルドスが報告している聖女フォワの数々の奇跡談は、信者たちの想像力がどれほど尋常ならざる物体によって支配されていたかを如実に示しています。端的に申すならぱ、中世から近代に至るまで、像に対する異常なまでの執着と同時に恐怖を示すという一般の人々の両義的な態度がヨーロッパ全体を貫いていると言えるでしょう。こうした意味で、言語の上で「我」と「汝」の普遍的で絶対的な対話の基礎が定着したぱかりではなく、画像の分野を通じて考察してみると、極めて不思議な事態が生じたことがお分かり項けると思います。

 そこで、冒頭でも、今回はいわぱルーツ探しの様な形で御報告をさせて項くと申しましたが、次にこの様なヨーロッパ中世における画像や彫像からうかがえる超・実在(シュールプレザンス)とも言うべきものを通じての「我」と「汝」の「対話」の前史(プレ・ヒストリー)を、ギリシア・ローマの世界に探ってみたいと思います。この超・実在とも言うべきものの成立の前提に関しましては、私どもの大学の安永先生がつとに指摘なされていることですが、フランスの優れた社会学者マルセル・モースが『社会学と人類学』(有地 亨、山口俊夫訳、弘文堂、1985年)の中でペルソナという問題に挑んだ箇所が現在極めてアクチュアルな意義を持つものとして再び注目を浴びるようになってきています。ここでの問題と直接係わるのは、第五部の「人間精神の範疇・人格の概念、《自我》の概念」の中の「ラテン人のペルソナ」の箇所です。その中で、モースは、「インド人や中国人とは逆に、ローマ人、さらに適切に言えばラテン人こそ、ペルソナー――この名称はまさしくラテン語に他ならない――の概念を部分的に確立した人々である」と述べ、「人は一つの組織的事実以上のもの、人物の有する名や権利や祭儀の仮面以上のものであり、それは法の基本的事実である。「法においては、人(ペルソナエ)、物(レス)、行為(アクティオーネス)のみしか存在しない」と法律家は述べている。この原理は今でもなお我々の法典の諸章を支配している。だが、これまでに到達するには、ローマにおける独自の発展という事実が存する」と書いています。そして、モースは、このペルソナという言葉の原義が「仮面」に尽きるものであることが確かであるとし、言語学者のバンヴェニストの示唆に基づき――このバンヴェニストの考えは、今回のシンポジウムに先立つ問題提起の文章で、杉山先生が挙げておられる邦訳のある著書の中に纏められておりますが、彼はそれが具体的にいつ成立したのかは明言を避けています。正しいかどうかは分かりませんが、古代及び中世の文法学者のロビンソンは、人称代名詞の登場を後期ストア派の時代に置いています――、ラテン人の先住民族であるエトルリア人がギリシア語のプロソポン(仮面)から借用してきた言葉に由来するかもしれないと述ベ、ローマ市民の家屋の正面玄関の両翼に置かれた壁龕に保存された亡き祖先のデス・マスクに合わせて作られた蝋製の仮面と、ローマ市民の三種ある名前の中で最も個人的な、人格に近いものである添名(cognomen:コグノーメン)の間に密接な対応関係があったことを指摘しています。すなわち、このデス・マスクとも言える仮面が問題となる当の個人のアィデンティティーの一部であったという重要な指摘をしたわけです。

 問題のデス・マスクはそれ自体が蝋で作られていたため20年〜30年程の耐久性しかなく今日まで残っていないわけですが、それを大理石で写し変えたと考えられる作例を図(9)、図(10)に挙げておきました。具体的に申しますと、ローマ人が家長を亡くしたときに蝋製のデス・マスクを作り、これを特別な廟や家屋の両翼の壁龕の中に保管したというかなり以前からの習慣とつながって、葬儀の際にこれらの祖先像は葬列に加えられて運ばれたのですが、ローマの貴族の家では帝政時代になってもこの習慣に強く固執したと言われています。特に図(9)を見て項きますと、この像は肖像主の醜悪さをそのまま写し出すように、皺の一つ一つまで忠実に刻み込んでおり、現代の私たちには、美術作品というよう記録に近い彫像品であることが感じられ、自分たちの祖先とのアイデンティティーを強く主張しようとした帝政期になりますと、ローマ貴族たちはかつてのデス・マスクを彫刻家に大理石に写し変えさせ、公開展示をする形でこうした像を残そうと望んだと思われます。このような貴族たちの欲求が生じたのは紀元前一世紀の初頭に至ってからのことでしたが、おそらくこの頃になって、彼等は自己の伝統的な指導的地位が脅かされてきたことを感じて、自分たちの古い血統を強調するための手段として、父祖像を永続的な形で公開展示することを望むに至ったのだと考えられています。

 このようなキリスト教美術のイコンに先立つローマ美術における極めて特異な肖像の成立背景がある程度明らかになると、表わされた当の人物のアイデンティティーを持っていると信じられたローマの父祖像から、先に問題としましたキリスト教美術のイコンや彫像への橋渡しをした古代末期から初期キリスト教時代の作例が、絵画の分野ではありますが浮び上がってきます。これらの証言としての重要性、意義、機能を典型的に示す作例を図(10)、(11)、(12)、(13)に挙げておきました。図(10)と(11)に挙げた作例は、イコンに圧倒的な影響を与えたと見なされている二世紀から四世紀にかけて制作された死者たちの板絵肖像であり、エンコースティック(蝋画、粉末状の顔料を溶けた蝋に混ぜ、熱いうちに筆とへらで描くもの)という初期のイコンと同じ種類の技法で描かれています。図(10)は、上の方が三角形に切られていますが、これはこの絵に描かれた当の死者の木棺の蓋の顔の上の部分に嵌め込むためであり、来世と繋がるものであったことが理解できます。その上、これらの死者たちの肖像が単に来世と繋がっていただけでなく、その描かれた当の人物のアイデンティティーの一部と見なされていたことを証言しているのが、図(12)の作例です。これは北アフリカ(レプティス・マグナ)の出身の皇帝だったために北アフリカから発見されたものですが、このような板絵が皇帝の肖像に係わって古代末期のローマ世界で広く制作されたものと考えられます。この板絵はセプティミウス・セヴェルスという皇帝とその皇后ユリア・ドンナと二つの王子カラカラとゲタ(後で述べるように顔の部分は削除されてしまっている)が描かれています。皆さんに注目して項きたいのは、顔の部分が完全に削り取られているゲタという王子は、カラカラによって暗殺されてしまい、その直後に彼は帝位とその継承権を剥奪された人物として、顔の部分をダムナティオ,メモリアエ(記憶抹殺)と称される破壊行為によって削除されてしまったことです。つまり、この古代と中世の過度期に至ってもなお、先のデス・マスクに由来する、描かれた(あるいは彫られた)画像とその当人とが同等の価値を持つと見なすローマ的な慣習が生き続けていたことが確認されるのです。

 この種の画像が実際にどのように使われたかは、図(13)のキリストとバラバを裁く場面を描いた初期キリスト教時代の写本挿絵の中に見ることができます。ローマ帝国の裁判官ピラトが座る裁判席の両側に、小さいですが、同じ様な板絵があり、そこに皇帝の画像が置かれており、古い方々の良く知っておられる御神影と同じ役割を果たすもので、その場に皇帝自身が君臨し、その絶対的な権利のもとで裁判が行われたのです。こうした形で、描かれたり、彫られたりした絶対的な権力を持つ人々の画像が表わされた当の人物と同等な価値を持つという考え方が、キリスト教中世の世界に入り込んできたのです。こうして、ローマの皇帝美術の発想と図像の直接的な接触のもとに、キリストや聖者たちのイコン像が形成されて行きました。また、九世紀以降のカロリング王朝の形成期には、古代ローマ法制の復興もまたもくろまれ、古代ローマの法制に係わる写本が写し直されて、その際に図(14)に見られるような皇帝の画像を燭台のもとに置き、四頭立ての馬車に乗せ、あたかも画像が皇帝自身であるかのように扱う儀式も西ヨーロッパの諸帝国の制度の中に復興したのです。

 さて、以上辿ってきたことを総合して、古代ローマと中世以降の西ヨーロッパの画像に対する態度に関して、どのような点が異なってきたのかを考えてみますと、繰り返しになりますが、中世以降においては、来世を回路とするようになったこと、それに死者たちが都市の生きる者たちの中に入ってきたことにあると思われます。古代ローマ時代以前には、死者たちの遣骨と彼等の肖像は、墓場と生きる者たちと住む都市とにそれぞれ別個に置かれていたわけですが、これが混在し、一つに扱うことがキリスト教世界の中で定着して、まさに超・実在(シュールプレザンス)とも呼べるような状況が画像のあり方において展開し、人称、人格、「汝」、「我」といった問題の普遍化、絶対性が非常に大きく浮び上がってきたのだと考えられるのです。歴史研究を活性化しようとしてきた、近年のいわゆるアナール派の研究において、重要なキー・ワードとされてきた「マンタリテ(心性)」という概念に代わって、表象という概念が着目を浴びるようになり、最近では『リプレゼンテーション』という題名の雑誌まで刊行されるようになってきています。今回私どもの大学の芸術学科が11月未にお呼びすることになっているイタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグ氏は、言葉、観念、物事、画像、人称の問題などに焦点を当て、ここでの議論とまさに重なる問題を『アナ−ル』誌に「表象(ルプレザンタシォン)」という題名のもとに書いておられ、これが『思想』の九月号に翻訳されていますので(カルロ・ギンズブルグ、『表象(ルプレザンタシォン)――言葉・観念・事物――』、藤田朋久訳、『思想』、1992年9月号、62〜84頁)、興味のある方は是非お読み項きたいと存じます。

 この饒舌な言葉と画像の世界の紹介だけでは片手落ちになると思いますので、西欧世界の発想を底流で規定し続けてきたと考えられる沈黙、あるいはユダヤ教的な「汝」対「我」の世界について皆さんに手短に知って項ける著書を紹介して、今回の発表を締め括ろうと思います。このような問題が生じたヨーロッパの全体的な社会・精神的な構造については、昨年私がギンズブルグ民のイメージ読解について紹介した文章(永澤 峻、「イメージ資料を読み解くギンズブルグ」、『思想』、1991年10月号、39〜83頁)の結論部を呼んで項くこととして、御紹介したいと思いますのは、その中で挙げました『シャドー・ワーク』などの著者として知られるイワン・イリッチと中世文学史家のサンダースの共著による『ABC‐民衆の知性のアルファベット化』(丸山真人訳、岩波書店、1991年)という本の最終章「沈黙とわれわれなるもの」です。カバラの伝統に則しながら、いわゆるユダヤ的な発語の問題を含めた「我」と「汝」の問題、つまり、こうやっておしゃべりをしている中で生じるのではなく、沈黙裏の中で、内面的で本質的な「我」と「汝」との対話がどのように発現し得るのかという問題を手短で鮮やかに扱っていますので、是非お読み項くならば、より広く深い形で「汝」対「我」の問題、人格、人称の問題を考える手掛かりとなると思います。御静聴ありがとうございました。




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