特集◎モンゴル―シャマニズムの世界から

モンゴル北部
  ダルハド盆地のシャマニズム

ツァータン・トバの事例

西村幹也・国立民族学博物館外来研究員

 今回のモンゴル祭り全体の話は、「モンゴル―シャマニズムの世界から」で、本来、モンゴル人のシャマニズムを扱わなければいけないところです。が、実はツァータン・トバの事例という場合、厳密に言いますと、モンゴルに住む別の少数民族トバ人の話になります。トバ人で、モンゴル側に国境がつくられてしまったので残されてしまった人たちが、ツァータンという民族集団です。けれども、これからの話の中で明らかにしていこうと思いますが、それが徐々にモンゴル化していく流れがありまして、民族形成過程の中にある土地における少数民族のシャマニズムがモンゴル化していくところを描き出して、理解していただければ、と思います。

 まず、ツァータンと彼らを取り巻く自然環境についてですが、ツァータンという民族集団は、モンゴル民族ではなくトバ民族です。母語もモンゴル語ではなく、トバ語を使います。モンゴル語とトバ語は親戚関係にありますが、語彙においても文法においてもいくつもの相違点があります。ただ最近は、モンゴル国内に入ってから随分長い時代が経っていますので、トバ語を話すことのできないツァータンもふえています。自分たちのことをツァータンと呼ぶかというと、それはモンゴル人が勝手につけた呼称で、本来の意味はトナカイを飼う者たちという他称です。かつては少数規模でしかトナカイを飼っていなかったのを、社会主義時代の政策として大規模トナカイ飼養者としてモンゴル国民化しました。それでトナカイを飼う者たちというまとめられ方をされて、ツァータンという名前を付与されたのです。

 一九二〇年代になりますと(まだ社会主義化していませんが)、モンゴル側の文献の中に彼らのことが、トナカイを飼う者、ツァータンという名前で出てきます。その後、社会主義の中でこれが固定化していきます。他称が後々に自称化していった一つの例で、現在、彼らは自分たちのことをツァータンと呼ぶようになっていますので、今回は便宜上、彼らのことをツァータンと呼びます。厳密に言うと大変細かい、難しい問題がたくさん出てきますが、今回はその点については触れません。

 現在、ツァータンは、モンゴルに約三〇世帯、三〇〇名ほどが、ダルハド盆地北部のタイガ地域に居住しています。彼らは生業としてトナカイを飼っているのですが、本来的には、草原地域で馬や羊、牛、ラクダを、食肉や乳製品のためだけではなく輸送交通手段として飼育していました。

 生業は主に狩猟採集、漁労になります。トナカイを乗り物にして、森の中をあちこち移動しながら狩猟を行なうのが、彼らの本来の生活形態でした。それが社会主義時代に変化させられて、現在ではトナカイなしには生きられないような状況になってきた過程があります。この点も、細かく説明すると長くなりますので、またの機会に発表させていただければと思います。

 彼らの住んでいる場所ですが、ブリヤート共和国があって、そのすぐ西側にバイカル湖、さらに西のほうにトバ共和国があります。トバ共和国の一番東のはずれ、モンゴルと国境を接しているところがあります。モンゴル国の北部が出っ張って上に食い込むような形になっていますが、そのモンゴル側の部分になります。フブスグル湖という湖がありますが、そのフブスグル湖の西側になります(図1参照)。

図 1
 この地域はモンゴルにおいては大変湿潤な地域です。モンゴルは普通乾燥していると言われますが、この地域は降雨量も大変多く、そのため雪も大変多いところです。標高は盆地部分においては一四〇〇メートルから一六〇〇メートルで、そこに入るためには大きな峠を二つ三つと越えて行きますが、どの峠も二〇〇〇メートルを超えます。この盆地を山々が囲んでいます。高いものになると三〇〇〇メートルを超えます。私が調査に入る時には馬やトナカイなどで越えますが、一番低い峠でさえ二二〇〇メートルあります。そのような峠を越えたところに彼らは住んでいます。

 モンゴルの首都であるウランバートルから約一〇五〇キロのところが麓になります。その麓からさらに山の中、針葉樹林帯の中(一泊二日ぐらい、直線距離で三〇〜六〇キロぐらいのところ)に、彼らは宿営集団をつくって暮らしています。このような環境下でツァータンたちは生活をしています。

 

 ダルハド盆地には、民族形成過程にあるグラデーションをなしている民族として、ダルハド集団、ウリヤンハイ集団、ツァータンの大きく分けて三つがいます。まず、それぞれの集団の特徴を述べます。

 まずダルハド集団について。一六〇〇年代になって、この地域は活仏直轄領になりますが、それまでは諸集団、言語で分けるとサモイェード系とか、モンゴル語系、トルコ語系という小さな諸集団が、ダルハド地域にバラバラに住んでいたといわれています。これが清朝時代のモンゴルにおいて、モンゴルの活仏に与えられる一つの免税措置、清の皇帝に対する免税措置を与えるかわりに活仏に毛皮を納めなさいという活仏直轄領の形で、行政的に一まとめにされました。行政的にまとめられた結果、そこに住んでいる人たちを一つにまとめてダルハドと呼ぶようになりました。当時、いくつもあった氏族集団の中にハルダルハドと呼ばれる集団がありましたが、その集団の名前を取って、その地域に住む人たちをまとめてダルハド人と呼ぶようになったといわれています。

 ダルハド人という名前は、今現在、モンゴル国の民族学におきましては、モンゴル民族の下に当たる下部集団の一つに数えられています。モンゴル人の中の小集団の一つであると認識されているわけです。いい方をかえますと、モンゴル民族があって、その下にハルハとか、チャハルとか、ブリヤートとか、いろいろ小さな集団があるのです。その形成過程は全く違うにもかかわらず、ダルハドを一つの集団として数える形が、今現在のモンゴル国の(内モンゴルではわかりませんが)民族分類になっています。

 次に、ウリヤンハイ集団ですが、私たちはよく玉虫色の集団といいまして、よくわからない集団なんです。例えば、彼らにあなたは何人ですかと聞くと、ウリヤンハイだと言います。もしくは、ダルハドだと言っていながら、前はウリヤンハイだったけどねという言い方をします。私のおじいさんとかお父さんの時はツァータンだった、トバの森の中に住んでいた、でも今はモンゴルだということを彼らは言うわけです。しかし、自分のことをウリヤンハイであると主張する人もいます。モンゴルでありながら、非常にトバ的な、森林に住む集団的な考え方、要素、生活習慣をもっていると自分で認識している人たちの場合、自分はウリヤンハイだと主張をします。ウリヤンハイはモンゴルですかと聞くと、いや、違うけれども、そのうちそうなるかな? みたいな、非常に玉虫色の返事が返されまして、解釈が非常に難しいところがあります。

 実際問題、自称ウリヤンハイだという人たちの数は減ってきています。いい方をかえますと、どんどんダルハド化しているということです。さらにいい方をかえれば、モンゴル化しているといういい方になります。

 それに対してツァータンというのは、いろいろな意味においてモンゴル化の流れが非常に強いですが、彼らの生活においてはモンゴル語ではない語彙を使ったりしています。大人たちの間ではまだトバ語が日常会話に使われていたり、家畜の飼育方法も、草原のモンゴル地域のものとは明らかに違うものであったり、移動原理という点において異なっているなど、独自の文化を強く残しています。

 ダルハド盆地を見ますと、高地のほう、モンゴルの中心部から遠いところに住んでいるのがツァータンです。ダルハド盆地の低地部分、草原部分になりますと、完全にダルハドになります。モンゴルの影響力が大変強いところになります。その中間地点あたりにウリヤンハイが居住している。これはあくまで大体の図です。一つずつ見ますと若干のズレが出ますが、大まかに見ますとこのような民族間の力関係と分布図が見出されます(図2参照)。

図 2
 つまりもともとダルハドは存在しなかったわけでして、いろいろな小集団がごちゃごちゃ住んでいたところにダルハドがつくられて、モンゴル化していきました。それに後からついていくようにモンゴル化していこうとしているウリヤンハイがいる。そして、モンゴル化させられそうになっている、もしくはさせられながら徐々に変化してきたツァータンという三つの集団が、ダルハド盆地の中でグラデーションをなして、高いところから低いところにかけて生活しているという図式になっています。

 

 次に、民族形成のグラデーションについて述べます。三集団のシャマニズムの様式、特徴はこの民族のグラデーションにほぼ一致して現れます(図2、3参照)。

 ここで、第一報告で報告されたように、脱魂と憑依と大きく二つの形態に分けるとします。憑依、憑霊という言葉を見ますと、実は微妙なところで難しい問題がありまして、ウリヤンハイシャマニズムにおいては憑霊する可能性があります。やってきた精霊に対して、シャマン側の魂が霊に乗り移って、その霊を刺激して自分の意識を保ちながら何かしらの仕事をするという形態がありますので、決して忘我自失の状態ではないのです。

 書物を見ますと、シャマニズムについて、忘我自失の状態とよく書かれていますが、シャマンの言動を見ていますと、決してそんなことはありません。憑依された場合も、脱魂の場合も、何かしら彼らは覚えています。少なくとも私の見てきたダルハドの中ではみんなそうです。あのときはああであった、こうであったと、脱魂の場合であれば、よりはっきり覚えています。

 ダルハドでは憑依ですが、自分の体に精霊を入れた場合、入ってきた時、出ていった時が、儀礼の中でははっきりと強調されているのに、彼らは表向きは知らないと言います。精霊の言ったことを私は覚えていないと言いますが、どうも胡散臭いというか、よく聞いてみるとちゃんと覚えているのです。

 私たちは、トランスを極度の集中状態に陥ることととらえ、極度の集中状態、変性意識下において、超自然的存在と直接交わる方法を持つ職能者をシャマンと位置づけています。ですから、その形はいろいろあると思いますし、また、その人を中心として行なわれる儀礼形態、年間儀礼などもいろいろあります。問題は、シャマニズムは、シャマンという人がどんなものかがすべてキーワードになっていまして、シャマンのいないシャマニズムは存在し得ないわけです。ここに私はずっと注目をして見てきています。

 ダルハドシャマニズムは、一般に憑依型といわれます。それはモンゴル人たちが言うのです。憑依してくるもののことをオンゴット、単数系ではオンゴンと言います。現地では単数系で使われることはまずありません。ほとんどはオンゴットと複数系で使われます。そのオンゴットが体の中に入ってきます。シャマンに入ってくるという言い方をはっきりとしています。今回は省きますが、ブリヤードシャマンの実際の儀礼などを見ますと、周りの人間たちも本人も完全に精霊が体の中に入ってくるとはっきりと言います。田中克彦先生が訳された、モンゴル国で一九六〇年代に発表された論文でバダムハタン氏の書かれたものの中に、脇の下のところにオンゴットが入り込んでくる穴があいているという記述があります。それで実際にあいているのかどうか見せてもらおうと頑張りましたが、なかなか見せてくれなくて、まだ確認には至っていません。実は今、昔ながらの本当のシャマンたちはどんどん亡くなっています。先ほどの言い方を借りれば、テンゲルに帰っていく状態になっておりまして、調査はますます困難になっているわけです。

 

 これに対してウリヤンハイは、これまた非常に玉虫色でややこしいんです。ウリヤンハイシャマンは、もはやモンゴルのダルハド地域にも残っていません。一九九四年の私の調査時に二人だけ残っていまして、一人は当時九一歳の老婆で、もう一人は八六歳でした。二人とも天にお帰りになってしまったものですから、謎が残ったままです。

 当時の私のフィールドワークの結果としては、精霊(オンゴット)を呼んでくると、その精霊が太鼓や彼らが使っている口琴の中に入り込んできまして、そしてシャマンの魂も体から出ていって、その中に入ると言います。時には太鼓に入って、太鼓の中で会って話をするという言い方もします。そうしますと、この後に話す脱魂型のものと違って、シャマンの体から出ていくものが非常に近いところにいるのです。向こうから来るものも対話をするという、出て行くんだか入ってこられるのかわかりにくい、という状況です。

 その人の儀礼を見ますと、最初の段階と最後の段階であくびを二回しますが、最初の時に魂が出て行くんだと本人は言っています。そして最後の時に自分のところに帰ってくると。ところが、周りにいる人たち(ウリヤンハイやダルハドの人)、見に来ている人たちにとっては逆なんです。最初に口をあけた時に精霊が入ってきて、最後の時に出ていっていると説明するわけです。ですから、その説明にだんだん押される形で、シャマンたちや周りの人の理解が、大多数派であるダルハド的な考え方に支配されていって、憑依型により近い方向に引っ張られてきているようです。

 では本当はどうなのかというと、最初に口をあけた時に出ていって、太鼓や口琴などに入るようです。場合によっては、やってきた精霊にシャマンの魂が乗り込んで、一緒にどこかに行くという形、つまり霊に乗り移るタイプがあったりで、シャマンがたった二人しかいなかったにもかかわらず、説明が錯綜していました。

 一方、今回の主役の割には話が短いですが、ツァータンのシャマニズムは明らかに脱魂現象を見せます。ところがこれも、ツァータンでない周りの人間たちの説明、周辺に居住するモンゴル人の説明では、精霊が入ってきていると言います。

 ツァータンたち、しかも長いことシャマンの近くに住んでいた人たちの説明では(昨秋細かい話をできる人とやっとめぐり会えたのですが)、やはり飛んで行っている、そうでなければ儀礼中にあんなことを言うはずがない、とのことでした。何かといいますと、シャマンは九八歳のお婆さんですが、太鼓を叩きながら、約二、三時間ぶっ続けで歌ったり踊ったりするわけです。トバ語で儀礼をやりますが(私もトバ語は全部は分からないので、後でいろいろ話を聞くところによりますと)、今どこどこに飛んでいっている、私は今どこどこの土地にいる、そこで私は誰々と会った、というようなことを言いながら、彼女の魂は旅行しているわけです。そういうモチーフをはっきりと提示しています。

図 3
 図3は、憑依型、ウリヤンハイ型中間・玉虫型、脱魂型という三集団のシャマニズムの様式図ですが、先ほどの民族関係の図とほぼパラレルな状況を見せています。モンゴル化の度合が進んだほうは憑依型、そうでない方は南シベリア型といいますか(エリアーデなどの報告では、シベリア地域のシャマニズムに関しては脱魂型が最もポピュラーなものとなっています)そちらに近いほう、より北の方、高いところは脱魂型になっている。このような特徴をもっていると言えます。

 具体的にシャマンがあんなことをした、こんなことをしたと言っても、さっぱりイメージも湧かなければ何も分からないと思いますので、ほんの二、三分間のビデオと、その後三つの集団のシャマンのスライドを数枚お見せしたいと思います。

 

 ご覧いただいているのは、ツァータンのシャマン儀礼です。持っているのは、片面太鼓で、この地域では非常に典型的な形をしています。この映像では絵が描かれていませんが、かつて、一九九五年の調査時には、はっきりと鹿の絵が描かれていました。この太鼓はシャマンの乗り物という意味を持ちます。太鼓の内側には鉄片がたくさんぶら下げられていて、叩くとジャラジャラと音が出るようになっています。

 衣装は、後のスライドではっきりと見ていただきますが、鳥をモチーフとしていることは明らかです。着ている皮のよろいのような衣装には、たくさんの布がぶら下げられています。この布は儀礼のたびに参加者がぶら下げるものだそうです。これは儀礼のたびに行なわれるため、この衣装は次第に重くなっていきます。聞くと、ある程度のところでほどいて、別に保管し、それをオンゴットとするといいます。

 帽子には顔が描かれています。シャマンは儀礼中に、この帽子に描かれた眼でモノを見て、ここに描かれた耳で音を聞き、口で語るといいます。履いている靴には鳥の足が描かれています。このように、儀礼中この衣装をつけた段階で、シャマンは普通の人ではなくなっていると解釈されます。

写真 1
 この、鳥をモチーフとした衣装は、特にツァータンに限らず、ダルハド地域におけるダルハド人やウリヤンハイも同様の衣装を利用します。こういった点からみても、飛ぶという観念は、憑依型になったダルハドにおいてさえも残っている、と考えるべきではなかろうかと思われます。つまり、ダルハドのシャマニズムも、変化して現在に至っているということです。

 儀礼が始まって最初のうちは、あまり歌を歌うこともなく、ひたすらに太鼓を叩き続けます。そうこうしているうちに、おもむろに歌を歌い始めます。歌が始まると太鼓を叩くリズムがほぼ一定となります。時々、リズムが変化することもありますが、基本的に単調なリズムでうち続けます。このテンポで、儀礼は二時間も続きます。九八歳の老婆が二時間踊り続けるということ自体が驚きで、撮影しているこちらのカメラを持つ手が疲れてしまいます。

 儀礼中のどの段階でトランスに入ったのか、つまり魂が出ていったのか、もしくは精霊が入ってきたのかについて、参加者たちはいっさい気を配っていません。ただし、シャマンが初めて歌を歌い始め、倒れそうになったりする状況については、シャマンがすでに飛んでいっているという解釈を一般にはするようです。儀礼はトバ語で行なわれています。

写真 2
 ツァータンは床の直径が約五メートルほどのオルツと呼ばれる住居に住んでいますが、時には五〇人近くの人が所狭しと折り重なって儀礼に参加します。このオルツの一番上座、つまり奥座にあたるところがオンゴットの宿る場所であり、お守りのように扱われるモノがぶら下がっています。儀礼は常にそちらに向かって行なわれます。これはすなわち、北に向かって儀礼を行なっていることになります。

 儀礼の後半になりますと、参加者全員がシャマンの前に呼び出されます。これは必ず全員が呼び出されます。一人ずつ順に呼び出され、呼ばれた者はシャマンの前に跪きます。このとき、デール(民族衣装)の前裾を手で広げて控え、シャマンの投げるバチを受け取ります。シャマンはバチを三回、控えている人に向かって投げます。このバチの落ち方で運勢を占います。参加者全員がこのバチを受ける占いを受けた後、ひとしきり歌を歌って、儀礼は終了します。

 

 次にスライドをお見せしましょう。

写真 3
 まずは、ダルハドのシャマンからです(写真1)。この方も今年だったか去年だったか、亡くなってしまいました。精霊が入ってくるという脇の下を是非見たかったのですが、なかなか脇を上げてくれなくて、わからずじまいでした。かぶっている帽子の手前に耳らしきものが見えますが、正面から見るとまるっきり顔そのものが縫い込まれています。ツァータンシャマンの帽子(写真2)と同じです。

写真 4
 次はウリヤンハイのシャマンです。この方の場合は、衣装は残っていませんでした。家の上座に当たる部分に精霊たちが宿る場所がありまして、、そちらに向かって儀礼を行ないます。口琴を使った儀礼です(写真3)。私が今持っているのが口琴ですが、これはもともとこのおばあさんのものでした。

 次もウリヤンハイのシャマンですが、この方は精霊の宿る場所というものを特に持っていなくて、主に口琴だけで儀礼を行なう方でした(写真4)。

写真 5
 この方の話では、自分の魂はこの口琴の中に入るのだということでした。また、最初に口を開けた時に自分が外に出ていって、再び帰ってくるのだそうです。しかし、周りにいる人たちの話では、最初に口を開けた時に精霊がシャマンの中に入ってきて、その後、出ていくのだという説明をするのです(写真5)。

写真 6
 次はツァータンのシャマンです。着ている衣装は、先のダルハドシャマンとほぼ同じと言っていいです。使っている太鼓の裏には十字に持ち手がついていて、ジャラジャラと音を立てる鉄片もたくさんついています(写真6)。次は九五年に撮った写真だと思いますが、太鼓の表面には鹿が描かれています。太鼓はシャマンの乗り物と言われます。草原地域に住むダルハドシャマンにとって乗り物は馬なのですが、森に住むツァータンたちの乗り物はトナカイですから、この太鼓に鹿が描かれているのは不思議ではないのです(写真7)。

写真 7
 次の写真は、占いの現場を撮ったものです。先ほど申しあげましたように、バチをポイッと投げて、その落ち方によって占います(写真8)。

写真 8
 次はツァータンシャマンの帽子と靴です。何度も話に出てきていますように、帽子には顔が縫い込まれ、靴には鳥の足が描かれています。このようにツァータンシャマンでも鳥がモチーフになっていることは明らかです。

 次の写真は、口琴を入れる入れ物です。ダルハドシャマンの持っていたものには馬が彫られていますが、これに対して、このウリヤンハイシャマンの口琴入れには鹿が彫られています(写真9)。

写真 9
 先ほどから申し上げていますように、ウリヤンハイたちは実に玉虫色ですから、二人いたウリヤンハイシャマンのうち、一人は鹿が彫られた口琴の入れ物を持っていましたが、もう一人は馬が彫られたものを持っていました。つまり、同じウリヤンハイでも二つの解釈が並行して存在していることになります。

 

 シャマニズムは、昔は家族単位とか氏族単位という非常に小さな集団内において、自分たちの何らかの欲求を解決する方法として行なわれていた儀礼であったと思われますが、だんだん大衆化していきました。つまり同じ世界観を共有しない者たちまでもがやって来て、占ってくれとか、治してほしいとか、はっきり言ってしまえばダルハド人でないのにダルハドシャマンのところに行って、自分の病気はどうやったら治るのかと聞いたりするわけです。特に近隣地域にいる人たちは当たり前のように集まってきますが、そうでない人たちも参加します。

 それに対して、ツァータンの場合、一般の人たちはなかなか儀礼に参加しにくい。決して参加を拒むものではありませんが、実際問題として彼らの儀礼は非常に不定期に行なわれています。例えば先ほどのビデオに出ていたお婆さんの話によりますと、季節に一度行なうが、別に決まっていない、と。先日はたまたま私が行っている時、九月の半ばぐらいだったと思いますが、引っ越しをして場所が新しくなったし、その季節になってまだやっていなかったのとちょうど満月になっているということ等々を、お婆さんが判断して、じゃあ今日やるかということで、いきなり始めたんです。

 その翌日、季節に一回なら次は三カ月後かと聞いたところ、やる時になったら分かると言ってはぐらかされてしまいました。周りの人たちに聞くと、いつやるかわからないというのが実際でして、家族の人たちもお婆さんがやると言う時にやるとしか言わないんです。小さな集団、宿営集団内において、メンバーのために「直す」という作業をしている。つまり新しい場所に行ったら、行ったところで直す。ただすといいますか、そういう活動の一環であり、シャマニズムの活動として最もプリミティブなものではなかろうかと私は考えています。

 もう一人、ゴースタ・ザイランという五〇代半ばの男性のシャマンが、ツァータンたちの中にいます。トナカイとともにタイガで暮らしているシャマンの数は、今は二人しかいません。もう一人は(後で説明しますが)、半分草原で半分森でという中途半端な生活をしていて、特殊な形に変わってきています。

 一人のお婆さんは、いつやるかわからない、ただ季節に一度はやる。ゴースタさんは一応毎月行なうと言いますが、次はいつやるのかと聞くと、儀礼をやっている時に、オンゴットと「じゃあ次はいついつ会おう」と言って帰ってくる。その時が来たらやる、そういう説明をしています。

 先ほどプリミティブな活動と私は言いましたが、シャマニズムを中心としたツァータンたちの世界観を見渡しますと、先ほどの発表では縦に三界が並ぶような形になっていましたが、どうもそういう形ではなくて、地平線上にある。ただ、魂のほうは上下運動をするという立体的な拡がりを見せます。

 可視の世界には、我々の住む世界があって、中には人間、動物、見えている限りの自然が当たり前に存在している。それと全くパラレルに重なり合うように、例えばここにあるペットボトルのすぐ横に見えないペットボトルがあるかのように、もう一つ隣に見えない部分が存在していると、どうやら考えているようなのです。そしてシャマンはその両方を扱うことのできる特殊な存在である。境界線に彼ら彼女らは存在していて、その間の不具合を「ただす」のが仕事である、と。我々人間が初めての土地にいけば、そこにあった何かが追い出されることがあり得るわけです。それに対してごめんなさいという一定の手続きを踏むわけです。常にバランス、ハーモニーを彼らは大事にしている。シャマンの活動は常にバランスを保つためのものです。ですから、病気になるのは、その人の体のバランスが崩れた、何かが失われた、だからそれを探してきて返してあげます。これはモンゴルに限らずほかの地域などにもある魂の考え方で、魂の戻しによる治療行為はいろいろあると思いますが、そういう活動もシャマンの仕事です。

 シャマンは常に二つの世界とパラレルに存在していて、それを脱魂や憑依という方法で行ったり来たりできる特別な職能者であります。すごくロマンチックな言い方をすれば、よくモンゴルツアーの煽り文句に自然との共生云々とかいうのがありまして、一言で言ってしまえばそういうことですが、彼らはその部分を日常生活の中においてシャマニズムを通して常に身近に感じながら生活している、と言えると思います。

 

 身近に感じながら生活している例として、次に、ツァータンの世界観と移動を取り上げます。これは実はまだ仮説の段階で、私もまだまだこの後の調査が必要だと思っていますが、現在集めてきているデータから導き出されている奇妙なシンクロネシティとでも言いましょうか(以前に一度ポスターセッションで、佐倉にある歴史博物館で発表させていただいた話ですが)、シャマンは日常生活の中においても常に境界的な位置にその居住地を置くという傾向があります(図4参照)。

図 4
 もう少しややこしくない言い方をしましょう。ツァータンたちの今の生活は、大きく三つの空間で営まれます。トナカイを飼う空間、すなわちタイガという森、ここは自分の生活するところです。それと、麓の方に交易をする空間があります。さらに山の奥の方に入っていきますと、狩場という空間があります。この狩場は、人間の力でどうこうなるものではありません。見えない力の影響力が大きいところになるわけです。今までの調査では、シャマンは常に、人間たちが狩場に行く時の、狩場に入る手前に位置していました。そして人びとはそこを必ず訪れて、森の状況を聞いたり、だれがどっちに行ったかということを聞きます。シャマンのいる所は、一種の情報センターのような役割をしています。

 言い方をかえれば、そこを守るかのように思えます。つまり、人間活動が頻繁に当たり前に行なわれるトナカイを飼う土地、交易を行なう土地から、人間の力が及びにくいところに入るところに常にシャマンはいて、その向こう側の部分のできる限りの情報をもち、場合によってはいろいろ示唆をするという活動を行なっているのです。そのような現実が今現在観察されます。

 このシャマンは九十何歳という大変高齢の方なので、さすがに冬場はつらいようでして、冬になりますと麓に降ります。麓に降りてしまったら、トナカイのところがもっと奥にあって、手前にシャマンがいて、草原があってということで、順番が変わってしまうのではないかとなりますが、あくまでも麓のギリギリのところに彼女は位置しています。そして今度は、逆に人びとが草原から森に入っていく境界に彼女が存在することになっています。人びとは森に入る時には必ずシャマンのところに行って、状況を聞いたり話をしたりします。

 このように、彼らの生活の中でのシャマンの位置と、彼らのシャマニスティックな世界観がパラレルに存在しているという、奇妙なシンクロネシティを見せていることを今後の仮説として、この先の研究を続けていけたらと考えています。

 

 最後になりますが、ツァータンの中にもう一人シャマンがいて、その人は森だけでなくて草原にも降りてくる、という話をしたいと思います。

 この方は先ほどの老婆のシャマンの娘に当たりまして、全盲の方です。この方はお婆さんよりも草原地域にかかわりが深いためか、周りの人たちとの接触が多いこともあると思いますが、自身脱魂をしているとか何をしているとははっきり言いません。周りの人たちのほとんどは憑依型、つまりモンゴル人的なシャマン儀礼の形態になっていると説明します。来ている人に、今、オンゴットが入ったのか、それとも出て行ったのかと聞くと、出て行ったと当たり前のように言うのです。

 大衆性が高くなっていると言えるわけです。住んでいるところが草原に降りたところなので、周囲に住んでいるダルハド人たち、ウリヤンハイ人たち、本来ツァータンではない人間たちがたくさんその場に来るようになって、新しい解釈をシャマンの活動に与えるという現象が起きてきているがゆえに、今後もツァータンシャマニズムのモンゴル化がその辺から少しずつ始まっていくのではなかろうかということが考えられます。レジュメには「ツァータンのシャマニズムと今後の変化」という形で簡単にまとめてあります(資料省略)。

 ツァータンたちは今現在三〇〇余人しか残っていないと申し上げました。トナカイの数も全部で五百数十頭と、ドンドン減ってきています。この状況下、トナカイを飼っているからこそタイガに暮らすことができる彼らが、今後徐々にモンゴル化していく流れが常に根底にあって、彼らがその中でどのように暮らしていくのか、これから注目されるところではないかと思っております。シャマニズムとの関わりにおいても一つの大きなテーマではないかと思います。

 ご清聴、ありがとうございました。

 

 にしむら みきや

 現在、国立民族学博物館外来研究員、大阪学院大学非常勤講師を勤めながら、博士論文執筆中。中国内モンゴル師範大学、モンゴル国立大学、モンゴル外国語大学、(当時)に留学、モンゴル国北方タイガ地域でのフィールドワークを続けている。研究活動の傍ら、モンゴル情報紙「しゃがぁ」を個人発行するなどの活動に精力的に取り組む。共著に、『アジア読本 モンゴル』(河出書房新社、1997年)、『ワールドカルチャーガイド モンゴル』(トラベルジャーナル社、2001年)他。