特集◎モンゴル―シャマニズムの世界から

アジアのシャマニズム

 

松枝 到 ・本学表現学部教授
   私は、ただ今紹介されましたモンゴル研究会に参加しており、いろいろなところを訪問し、歴史、特に宗教にかかわるものをいろいろ見せていただきました。

 以前、報告書でモンゴルにおけるチベット密教の概略を書きましたが、一度、ロシアのブリヤート共和国というバイカル湖を取り巻く地域に行って、そこで実際にシャマンの人びとと会いました。その時のことですが、年老いたシャマンと一緒に歩いていると突然道端で立ち止まって、懐からウォッカを取り出し、いきなり大地に振りまいて、ここに神様がいるからおまいりすると言うのです。私はシャマニズムの本を書いたり訳したりしていますので、大変興味を持って見ていると、振る舞い酒でこっちに酒が来たものですから、あとは気持ちがよくなってしまって、何を調べていいのかわからなくなって、ずっと酒盛りをしていました(笑)。

 今日は「アジアのシャマニズム」という話をしますが、一つは、シャマニズムとは一体どういうものなのだろうかということと、もう一つは、特にそれが中央アジア、北アジアでどのように展開してきたか、モンゴルの登場以前にどういう動きがあったかということの概略をお話しして、私の後の方々のお話の土台となればと思います。後のお二方は専門家で、調査論文を書いておられますので、その入り口に立つための概論をごく簡単にお話ししたいと思います。

 シャマニズムとは何かということを簡単にお話ししたいと思います。日本語では「シャーマニズム」となっていて長音が入る例が多いのですが、もともとの言葉づかいから言えば「シャマン」とか「シャマニズム」で、学問上ではそちらが通例になっているかと思います。

 人びとはいろいろな形で神と交流をしたい。この麦や稲をまけばちゃんと育ってくれるのだろうか、来年はいい羊が生まれてくれるだろうか。あるいは、死んでしまったお父さん、お母さんは、あの世で元気にしているだろうかとか、いろいろ知りたいことがあります。ところが、我々生身の人間はそう簡単に神様とお話ができるわけではなくて、それには特殊な技術が必要で、神々と交流するためのテクニックを持った人がいないと、人びとは神々と話すことができないわけです。神々と交通するために自らの体を投げ出して、自らが人間と神様の間を渡す橋、あるいは梯子のような存在になって、神々との交通を成し遂げようというのがシャマンだと言えます。

 では実際にどうするのかというと、大きく二つの型があります。

 後でご説明があるかと思いますが、一つは「憑依型」と言って、何者かに取りつかれるというか、私の体を通して神様が語り出すというように、中に入ってきてしまう。狐つきというのが一番よくわかる例かと思いますが、そういう仕組みがあります。これは英語ではポゼッション(possession)と言いますが、何者か大きなものが私をつかまえて、中に入り込んで、私を道具としてしゃべり始めたり、走り始めたり、いろいろな儀式を行なったりするのが一つの型です。

 もう一つは「脱魂型」、英語でいう場合はエクスタシー(ecstasy)と言います。エクスタシーという言葉はよく使われますが、魂がスッと抜けてしまって、体がフワフワッとして倒れ込んでしまう。何が起きているのかよくわからないのですが、しばらくするとフッと意識を取り戻して、実は神様と会ってきたとか、地獄に行ってきた、あるいは遙か彼方の別の国に行っていたとか、そういうふうに自分の魂を外に飛ばして、普通の人間では行けないようなところ、普通の人間では会えないような存在と会って、それを人びとに伝えるということをするわけです。

 このようなテクニックを持った存在を、北方のシベリアの言葉、ツングース語で saman と言います。これがおそらく今日伝わっている、さまざまな言語に残されているシャマンという語の元であろうと思われます。たとえば、サンスクリット語であるとか、パーリ語であるとか、ペルシア古語であるとかいう説もありますが、いずれにせよシャマンという名前がこのような存在に与えられているわけです。

 シャマンは、神々や統一的な存在、非常に大きな存在と向き合いながら、いろいろな形で人びとに神々のメッセージを伝えます。

 例えば神様が自分の中に入ってきて、いきなり声も顔つきも変わって、「よく聞け」と言って神様の言葉を話し出す。これを「霊媒型」と言います。どこかに行って、こういうことを聞いてきた、ということを間接話法的に語る、これは「預言」ということになります。非常にすばらしい眼差しを持っていて、例えば山にちょっと雲がかかったとか、川の流れがちょっと波立ったというような時、神様のメッセージが来ていることを微妙な変化から見事に読み取って、そして何事かを語り出すのが「見者」ということになります。

 シャマンになるには、大別して「召命型」、「修行・学習型」、「世襲型」という三つの道があります。

 「召命型」は、神様に選ばれた人です。自分がシャマンになりたいなんてかけらも思っていないのに、ある日突然、自分でコントロールできないような力で何かしゃべり出してしまって、自分はおかしくなってしまったのではないかと、非常に苦しみ、悩みます。しかしそれを、他のシャマン、あるいはよくものを知った人が見れば、この人が神に選ばれたということになります。ただ自分でコントロールできない、いつそういう状態になるかわからないということで、それをコントロールできるようになるために、先輩シャマンのもとで長い長い修行をして、そしてシャマンになっていくのが「召命型」です。日本だと天理教の開祖である中山ミキなどがそうです。彼女は大変長い間苦しんで、ついにシャマンになることを決意しましたが、非常に苦しい道だったと思います。

 「修行・学習型」は、村の中に一人シャマンが要るから、「お前、なれ」と言われて、しょうがないからなろうかなといって修行をする人です。

 「世襲型」は、代々シャマンを続けている家があって、親から子へと伝承する形で修行をしながらシャマンになるという存在です。一番典型的な例は、皆さんよくご存じの天皇家です。天皇家は、そういう意味では世襲型のシャマンということになります。こんなに簡単に扱っていいのかとも思いますが、そういうことです。

 シャマニズムの存在あるいは痕跡は、ほとんど世界中にあります。古い古典の中にも、現代の世界にも、非常に身近なところにもシャマンがおります。そして、いろいろな研究者の考え方では、例えばシャマンという言葉の源をツングース語に取るように、特に北アジアがその中心です。非常に古い資料、現在に残るベルトを見ていても、シャマンの世界は北アジアに非常に深く根差したものであると思われます。

 ただ、例えば仏教やイスラーム、キリスト教などの大きな宗教の下に隠れていることが非常に多くて、それは時々噴出してきます。例えば密教の修行法には、どう見てもシャマン的と思われるものがありますし、あるいは、キリスト教の聖痕、キリストが磔になった時のクギの穴、手の穴がいきなり浮かび出てきて、キリストと会ってきたと言う人がいます。その何人かはバチカンに認められて聖者になっていますが、こういう人たちもシャマン的なキリスト教者と言えると思います。そういう意味ではシャマニズムは世界中にありますが、今日はその先進地である北アジアでシャマニズムがどのように展開してきたかということを、ざっとお話ししたいと思います。

 

図表1
 地図「紀元前二世紀の世界」をみてください。世界といっても日本からローマまでで切り取ってありますが、中国は前漢の時代です。上の方に「匈奴」とあります。私たちは世界史で、北方の遊牧民族が攻めてくるので万里の長城をつくったと習いましたが、匈奴は騎馬遊牧民族の流れです。とりわけ記録で見るうえでは、匈奴の人びとが非常に大きな勢力を張っていました。

 日本のアジア史、東洋史は、中国史を中心に展開しますので、地図はみな匈奴の辺りが切れてしまって中国が真ん中になってしまいます。この時代の一つの大きな舞台で私たちが知っている流れでは、シルクロードが始まりを見たとか、あるいは中近東に大きな王国ができた、ローマが非常に栄えたという時代です。アレクサンドロス大王がギリシアからインドまで行ってから数百年たった時代で、そのころ日本は弥生時代です。

 ところが、紀元前二世紀にはもう一つ大きな舞台が北方にあって、それが騎馬遊牧民族たちの世界です。旧石器時代から、北アジアの人びとは今日以上に流動的に動いていて、人種的な混交も多くあったと思われます。シャマニズムは、大移動を繰り返しているそのような空間のなかに生まれました。

 北アジアの平原地帯では、旧石器時代から新石器時代のいろいろな発掘品が見いだされており、、洞窟壁画もあります。さまざまな洞窟壁画には、明らかにシャマニズム的な図が描かれているのですが、そこにはアメリカ・インディアンに近い人種の人びとがいたと言われています。

 人間は、最初南アフリカで登場して、ユーラシアを通り抜け、シベリアの先からアラスカに抜けていったわけですが、その中で北アジアは非常に主要な通路でした。延々たるステップを、おそらく二〇万年、三〇万年前に、小さなグループ、大きなグループが移動していった、その痕跡がいくつも残っているのだと思います。

 スキタイ時代(紀元前五〜四世紀)になると、ギリシャにも進入した非常に勇猛な騎馬民族、スキタイ系の騎馬民族が登場してきます。

 そこには、シカ石という、シカの図が描かれた石があります。考古学的にはドルメンと言って、石を立てて祭祀場にするわけですが、かなり正式な葬式をした痕跡があって、正しく埋葬された死体が発掘されるわけです。墓がきちんとできているということは、死者が行く場所について、既に想像をめぐらせているということです。死んだ人は一体どこに行くのか。さっきまでケラケラ笑っていたのが、ぱったり動かなくなってしまった。その人の魂はどこに行くんだろうといろいろ思いめぐらせたに違いありません。シカ石には動物や戦士のようなものが描かれていて、それが来世に向かっていくというイメージからすると、そこにはシャマニズムの痕跡があるはずだと考えることができます。

 匈奴という民族があらわれてきた時、中国は非常に多くの史料を残しました。例えば『漢書』という漢の時代の歴史を記した文書には、匈奴の記録があります。匈奴は、中国から見れば北辺の地に住んでいて、牧草のまにまに牧畜しながら居を移した。その家畜の多くは馬、牛、羊で、特殊なのものとしてはラクダ、ロバ、ラバ(牡ロバと牝馬との雑種)、ケッテイ(牡馬と牝ロバとの雑種)、トウト(青馬)、テンケイ(野馬)などを扱っていた。騎馬遊牧民族であることがよくわかります。

 正月が来ると、もろもろの長は単于ぜんう(皇帝)の庭に集まって祭祀を行なった。五月にも集まって祖先を祀った。そして、秋、馬の肥えたときには大集会をして、人や家畜の数を調べた。また、朝、日の出を拝し、夕べには月を拝した。葬式も行なっていて、墓に土を盛らず、樹を植えず、喪服もなかったといいます。これらは中国との比較で書かれていることで反語的ですが、風俗がよくわかります。

 正月にお祭りをするのは中国の影響ではないかという説もありますが、夏に放牧をする場所と秋に放牧をする場所とを移動する。その移動の切れ目のところで大きなお祭りをしているというのが『史記』や『漢書』の指摘です。つまり騎馬遊牧民独特の一年の過ごし方で、その節目節目にシャマンによる大きなお祭りがなされていたということがわかります。

 当時の記録では、匈奴たちの皇帝、単于というのは、もともとは撐犂(とうり)孤塗(こと)という称号だったようです。撐犂というのは「天」、孤塗というのは「子」を意味していて、つまり天の子ですから、天子というわけです。学者の説によれば、モンゴル語からトルコ語にかけてずっと語彙を並べていくと類似語がたくさんあります。例えば「tengri」という言葉がありますが、こういう言葉の元ではないかというような研究がなされています。

 匈奴はやがて歴史上から消え去りますが、同じモンゴルの平原から北方にかけて、多くの民族がどんどんあらわれます。

 外モンゴルには丁零ていれいという国があらわれますが、これはテュルク(türük)という言葉の音訳であろうと思われます。現代トルコ語ではトルコのことをトゥルキーエ(türkiye)と言うことから、おそらくトルコ系の人びとではないかという議論が昔からなされています。これも遊牧民族で、同じように中国の史料がありまして、やはり春と秋にいろいろな儀式を行なっていたことがわかります。

 それから、鮮卑(せんぴ)とか、柔然(じゅうぜん)という国家、これらは蠕蠕(ぜんぜん)茹茹(じょじょ)とか言われますが、モンゴル系の部族ではないかといわれています。後で触れられると思いますが、この頃「可汗(かがん)」という君主の称号が出てきます。後の「カーン」という言葉は、ジンギス・カーンのカーンですが、この語の縮小形と言われています。

 詳しくは申しませんが、紀元前二世紀からモンゴルが登場してくるまでの間の地図を比較してみると、さまざまな騎馬遊牧民たちが次から次とあらわれてきます。一方では戦いの連続であるわけですが、その一方では、どの民族の記録を見ても、信仰の根底にシャマニズムを持ち続けていたことがわかります。

 

図表2
 やがて突厥(とっけつ)という大変大きな勢力を持つ遊牧民族が起こり――突厥という語もテュルクという言葉から出ていると思いますが――六世紀から八世紀にかけて北アジアを支配しましたが、この時突厥に仏教が入ったのです。後に八世紀のビルガ可汗という君主が仏寺・道観(道教の寺)を建てようとしたら、偉い大臣に、「王様、それはいけません」と言われた。遊牧民としての伝統的習俗、つまりシャマニズムを棄ててそういうものに走るということは、結局国を弱くする源になるであろうと言って、君主の要望を退けたということが記録に残されています。このことによってもシャマニズムが大変強く残されていたということがわかるわけです。

 

図表3
 突厥の滅亡後、ウイグル系の国家ができます。「ウイグルの発展」という地図がありますが、この後あらわれて、ヨーロッパのすぐ近くまで進んでいく遊牧民がモンゴル族ということになるわけです。ですから、北アジアの大きな舞台の中で、シャマニズムの根本のようなものを広く拡げていくことになるのはこれから後の時代、つまりモンゴルという名前が冠された時代の大きな問題だと思います。

 あとは次の方々にお任せいたしますが、まずはそのような大きな背景が控えていたということを漠然とでもご理解いただいて、後のお話を楽しんでいただきたいと思います。

 これで私の話を終わりにいたします。