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「民族と言語教育――アジアを中心として」プロジェクトチーム◎

シンガポールとチベット


アジア二つの地域の夢と現実

石原静子・本学名誉教授


1・シンガポールの場合―――――――――――――――――――

――はじめに
 表記のチーム名は、和光大学総合文化研究所の共同研究プロジェクトの一つで、この報告書は所属メンバー教員四名が二〇〇一年三月下旬にシンガポールで現地調査した結果をまとめたものである。このプロジェクトは二〇〇〇年度にスタートした、つまりは初年度の研究報告だから、まず研究目的・方法とその意味を簡単に述べ、シンガポールを対象に選んだ理由及び背景となる当地の諸状況を記すことにする。

 当プロジェクトの目的と方法
 チーム発足にあたって研究所に提出した計画書には、次のように書かれている。
「研究目的―共通文化とマイノリティの教育という大きなテーマを、民族と言語問題について探求するために、問題の現状と各国(地域)での具体的とりくみ(対策)を調査する。
 研究計画と方法―複数民族の言語問題が顕在化している地域(アジアを中心にして)を選んで、言語教育問題の現状と歴史を調査する。二〇〇〇年度―民族と言語教育問題の多様な状況を調査し把握する。アジアの一地域を選び、現地調査を含む研究。二〇〇一年度―もう一つの地域の調査。二〇〇二年度―両地域の比較」
 これは限られた枠内の要約的記述であるため、少しこの研究が持つ意味について補足説明しよう。
 ある人間集団が、その成員に共通な特有の言語を持ち次世代に教え継ぐことは、その集団の同一性を保ち進める絆である。したがってその営みは家族内での自然な母語使用に始まり、学校教育システムでの「国語」及び他教科の母語による学習を通じて進行する。しかし他集団と接する場面では、理解と親和を目指す友好的な言語相互学習が生ずるとは限らず、さまざまな負の現象も生じ得る。宗教の違いと同様に異言語は違和感・敵視を生み得るし、力ある側の他方への優越・征服となれば、極端な場合は相手集団言語の禁止、自言語の強制によって当民族の同一性圧殺に至る、暴力の具ともなりかねない。
 二〇世紀中葉、第二次大戦終結と共に多くの植民地が独立して、このような悲劇は減じたといっていい。しかしなお複数民族から成る国や地域では紛争・内戦が多発しているし、少数民族が多数者の国家内にある場合には、緊張が常在してともすれば深刻な事態に至りかねない。これらの地域は、被植民歴が多く少数民族の並存するアジアに多い。
 他方でさらにグローバルに見ると、その時々の世界状況のなかで、力ある民族の言語がおのずから弱中小国の言語を侵食し、それらの国の言語教育を左右する現象が見られる。実例はいうまでもなく二〇世紀末近く、英語学習の急速な広がりであり、日本でも一部で英語公用語化論が起こった。日本語自体も同じ頃、周辺アジア諸国で学習熱を生じ、これが日本経済の浮沈と共に消長したことが、第二の例である。
 このように歴史のなかの民族のいわば運命が、その言語及び言語学習と共振する事実は、言語が本来人類に特有な思考と交流の具体物であり、その民族の体験と世界観を凝縮しているからにほかならない。逆に言うと、民族と言語教育をその尖鋭な場面で研究することによって、歴史を読み解き人間の今後を考える契機とすることができよう。
 そこで本プロジェクトの具体的研究方法は、上記の通り「複数民族の言語問題が顕在化している地域をアジアを中心に選び……現地調査する」ことになる。三年計画だから次年度は「もう一つの地域の調査」をし、最終年は「両地域の比較」だが当然、日本の現状も含めて課題を深く考えることを含む。

 シンガポールを選んだ理由と当地諸状況
 周知の通りシンガポールはマレー半島南端の小さな島国で、地下資源乏しく人口過密、第二次大戦後英植民地から独立したが、貿易・金融等ビジネス立国で今やアジア屈指の豊かな国となった。中国人が多数でマレー系インド系を少数民族とする移民国家だが、英語を公用語の筆頭つまり第一言語とするバイリンガル教育システムを作っている。上述第一の状況つまり資源に乏しい小国で戦後富裕化は日本と似ているが、第二の民族条件は大きく違っていて、しかしそれだけに英語への独得な対処が興味を引く。第三に、第二次大戦の初期数年間日本が占領支配したことがあって、その現在への影響も知りたい。
 シンガポールの歴史と現況について、要点のみを記そう。[注1][注2][注3] 国土は狭く日本で言えば淡路島程度、現人口は約三〇〇万人で、うち中国人が七八%、マレー人一四%、インド人七%で、残る一%がその他の在住民族である。一九世紀初めまでは人口少数の漁村だったのを英人ラッフルズが貿易港としての将来に着目して、オランダから主権を譲り受けた。植民地経営に必要な労働力として、東、北、西の三方から移民が集まり、現在の比率に至った。日本は占領中に敵国だった中国人多数を殺し、インド人は優遇して対英独立戦を勧めた。戦後マレーシア独立後しばらくは同連邦の一部だったが、人口構成、資源・産業等すべて異なるため、連邦を脱して独立国となったのが一九六五年。リー・クァンユー(李光耀)率いる英国留学経験者たちが、かなり徹底した中央集権政府を樹立、貿易・ビジネスに力を入れて国を富ませる一方で、高層公共住宅を建てて国民の約九〇%を住まわせ、しかも民族のすみ分け・対立を防ぐ混住政策を貫いた。小国ゆえ地方自治体はなく、議会は一院制、政党は複数あるがリーらの人民行動党が結果的に一党独裁の形を続けている。
 言語教育の背景となる教育制度についても、必要な箇所を略述しよう。[注4] 六~一二歳が初等教育で、義務ではないが無償で就学率は一〇〇%近い。一三~一八歳が中等教育、その上に大学四~六年、大学院と続く形は大方の先進国と同じだが、特徴は数度にわたる全員試験でエリートを絞る一方、各人の資質・能力に応じた教育を目指すことである。小学校四年の終わりに教師の評価と本人・家族の希望とで三コースに分けるのが初回の振り分けで、英語を第一言語とするのは同じだが母語の扱いが違う。英語と同じ程に力を入れるEM1コース、第二言語扱いがEM2コース、会話程度でいいのがEM3コースで、人数比率はこの順で一〇、七五、一五%とする。
 小学校六年の終わりに初等学校卒業試験を全員に課し、改めて特別コース(英・母両語重視)、快速コース(英第一、母語第二扱い)、普通コース(前同様だが技術教科中心の技術コースを新設)に三分する。比率は一〇、五〇、四〇(技術組はうち二〇~一五)%とする。四年修了つまり一六歳時に普通教育終了試験GCEを課して適性に応じた三度目の振り分け直しをし、ポリテクニク(技術工専)、技術研修所、あるいは職場へと進む普通コースと、大学進学を前提とする予備門コースとに分かれる。予備学習二年後に後者だけ対象のGCE上級レベル試験があって、英語と小論文及び希望学部ごとの必要教科三~四科目が課される。大学はシンガポール国立大学ほかの三校がある。
 この項の最後に、言語教育の背景として重要な、言語に関するきまりを記す。[注5][注6] われわれには奇異に映るがシンガポールの国語はマレー語で、もと一緒だったマレーシアとの関わりゆえという(ついでだが時差その他共通のきまりは多い)。公用語は英、中、マレー、タミル(インド系移民多数の出身地域)の四語である。中国語は、省ごとの方言が互いに通じにくいほど異なるため、公用は北京語つまり標準華語である。日常生活でも方言をやめてこれを使う運動を、建国以来政府が主導していて、前述の混住政策は華人の出身地にも及ぶ、つまり多数派民族内部の融和をも政府は目指している。

――現地小学校訪問調査と街で見た子どもたち

シンガポールには仏教、イスラム、ヒンズー、キリスト教の各寺院があって、それぞれ独得の建築や飾りが街々で目を引く。これも平和共存の一面といえるし、寺は洋の東西を問わず学校を兼ねた長い歴史を持つ。そこで当地有力と思われる仏教寺院立の小学校を、泊ったホテルと近いこともあって訪問先に選んだ。

 校訓校則を見、校長と懇談
 日本と違って派手な色使いの寺のすぐ隣り、四角い四階建ビルで、「弥陀小学」と英・漢両字で書いた外壁の大文字がなかったら、学校とは分かるまい。入ってすぐ右手は講堂風のかなり広い建物で、正面に大きな仏像が鎮座し、反対側の壁近くでは休み時間か男児数人が卓球に興じていたから、体育館も兼ねるらしい。その先は講堂とほぼ同程度の広さしかないコンクリート床の運動場で、一年生と見えるごく幼い子らが遊んでいた。左奥は食堂らしく長い卓と椅子が並ぶ室で、奥に調理場調理人が見えた。やがて若い女の先生の一声で、一年生たちはさっと教室への通路に集まり、整列して腰を下ろした。男女とも校名を縫いとりした制服で、肌色顔つきは全員中国系のようだ。小さなペットボトルを皆が手にしていて飲む子も多く、あとでどの教室でも同様だった。赤道直下近くしかも乾季とあって、この水分補給は随時公認だそうだ。
 講堂の向かいの壁に、校訓校則を書いた大きな板が掲げてあり、英・中両語併記である。校訓は「慈・良・真」などの四漢字と、対応する四英単語とである。校則の方は十数項もあって、後の方だが制服着用や髪の長さまで規定しているのは、日本の中学校あたりと似ている。この掲示板のすぐ横に階段があって「外来者進入禁止」とあり、教室への入口らしいから、生徒たちは日々諸往き来ごとにこれらを目にするしくみになっている。
 校長室に案内された。ほっそり長身で色白の若々しい女性なので、ちょっと驚いた。寺院立だから僧でなくても年輩の男性を、何となく予想していたからだ。あとで聞いたら彼女は教歴三一年、ここの校長になって三年の大ベテランだそうで、その割に若く見えるのにも驚いた。
 この小学校は生徒数六〇〇人、仏教立の学校は全国にあと小、中各一校だけと意外に少ない。キリスト教立が一七校と多く、別の意外である。しかし教員の給料を含め基本的な所要費用の九五%は国から出るし、カリキュラムや教科書等々すべて政府が決めるので、公立とあまり違わない。独自費用である五%は仏教関係の教具教材や行事等用だが、月曜に全生徒が講堂に集まって仏前で歌う、土曜に独自の教科が組んである、程度という。寺からはもっと宗教教育をと要望が来るが、全国統一カリキュラムとの調整はなかなか困難とのこと。新学年は一月で一一月まで、一〇週勉強したら七日の休みが入る三学期制で、全国共通の学事暦である。
 公立は、もっと大きな生徒数二~三〇〇〇人の小学校が多い。ここは小じんまり、しかし学力は高い方、と校長は胸を張った。教員二三人で、うち男性は一人だけと聞いて驚いた。公立も同様でせいぜい一〇%というから、日本よりまた他のアジア諸国と比べて女教師率は著しく高い。女性に適職ゆえかと質問したら校長は、今やITビジネスに男性が多く向かうのが主因、とあっさり答えた。寺院立でも教員の任命は政府で、彼女もここへ転任の際仏教徒だから違和感はなかった、と話した。仏教徒家庭と限定してはいないが自然にその子弟が多く、これも自然に漢族以外はいない。「マレー系の子が来ても第二言語としてマレー語を、ここでは実際に教えられませんし」ともっともである。転任前にいた公立校では諸民族入りまじる多様さで、こことの一番の違いだった、と話す。
 授業はすべて英語で、一年生もそうと聞いて驚いた。幼稚園から英語を教えるから大丈夫とのことで、この国の英語第一主義はかなり徹底しているようだ。低学年の子はまだ教室でも母語を使うことがあるが、そんな時は穏やかに、「英語で話してごらん」と促すそうだ。教室では専ら英語使用がきまりで、休み時間や生徒同士は英・華語半々のようだが、一々咎め立てはしない。家に帰れば半々や華語中心とか、祖父母と同居なら省方言もまじるのだから、子どもたちは自然に相手次第で、三語を使い分けることになる。週に二時間標準華語を学ぶ。例の三段にわたる統一試験はすべて英語で出題、その一部に華語(マレー、インド系は各々)のテストがあるから、学年が進むほど英語使用が増え確かなものになっていく、という。

 授業を見学、生き生きと学ぶ子ら
 われわれの希望を快く受け入れて校長は、気軽に各教室に案内してくれた。どの学年の教室でも生徒たちは生き生きと熱心に学習しており、なるほど若い女教師ばかりである。一行が入るとどの室でも、子どもたちは一斉に立って英語の短い歌を斉唱し、「グッドモーニング」と礼をする。あらゆる機会に英語使用を促すきまりの一つだろうが、皆にこにこと動作も声も揃って楽しそうだ。
 三年生は算数の時間で、四~五人が黒板に並んで、分数の計算式を書いていた。それぞれ分母の数字が違う三項の加減算だから、かなり複雑な約分を要する高度な計算である。本人たちはもちろん自席で見守る子らも、真剣そのもの。できれば生徒との対話を願い出て、「算数を好き?」「何の時間が好き?」に始まる一連の質問をしたかったが、この雰囲気では中断は無理、とあきらめた。
 二年生はちょうど英語の時間で、机ごとに薄手のテキストがある。そっとのぞくと英文で「リンゴは次のどれに属しますか」とあって、「フルーツ、野菜、穀物…」と並ぶ英単語から選ぶ式だ。これも年齢にしては高級な内容で、科学を兼ねていたのかもしれない。次の四年生は机三~四脚固めて何やらグループ討論中。ここでも斉唱のあとすぐ討論に戻ったから、テーマ・内容をたずねそびれた。どのクラスも三〇~四〇人見当で、公立も含め大体こんなものとのことだ。
 校長がやや誇らしげに案内した次の一室は、パソコンが人数分つまり四〇台ほどズラリと並ぶ特別教室で、ちょうど授業はしていなかった。一年生から操作を学び始める、週二時間と決まっているが、カリキュラムにどう組むかは各校の工夫次第という。全国の小学校に国が備えつけて七~八年になるそうだから、日本より先進的といえる。一隅に若い女性がいたので、この教科専門の教員かと質問したら、答は否で、全教員が自分のクラスを指導できる、と胸を張った。だからいた人は個人指導徹底のための助手らしく、体制は整っているようだ。音楽室も見たがピアノと五線黒板以外はあまりそれらしくなく、さっき校長室で「ブラスバンドなどクラブ活動も盛んですよ」と写真を見せてくれたが、大小の楽器類は別室に収納だそうだ。
 六年の教室では、英語とパソコン両練習を兼ねたような時間で、そうと知らずに入ったから、板書の英単語の略字や変わった組み合わせにちょっととまどった。各机にあるテキストをのぞくと、絵入りの英文でパソコン学習のシーンが次々、マンガ風の吹き出しつきでわかりやすく書いてある。ここも三~四人組のグループ学習をしていて、固めた机ごとにOHP装置があり、答の出た組は半透明の紙に決まった形の字を丁寧に書きこんでいた。やがて映写幕に投影して発表し合うそうで、これら機材は各教室にあるとのこと、これも国のかなりな設備投資である。
 次は図書室で、やや広く細長い室の半分が書棚群、半分は机と椅子が並ぶ。中学年見当の子らが、書棚の前に立って本を捜す子、本を持ってきて机に向かう子、床に座って本を囲んで小声で話し合うグループ、とそれぞれに勉強していた。最後の一室は幼稚園風に動物や花など色とりどりの絵が壁を埋め、絨毯敷きのリラックスできそうな部屋だ。何かと思ったら、英語学習の不得手な遅進児たちのための補習室だった。専門に教える女性がいて、カウンセリングを兼ねると話した。どの学年にも該当の子はいるが、最大でも一〇人のクラスで教える少人数の個人指導式である。バイリンガル教育にどうしても伴うだろう不具合を、こうしてケアする行き届きぶりに感心した。

 校外学習や街でみかけた子どもたち
 別の機会に街で見た子らの姿を、書きとめておこう。一つは後述する歴史博物館での見聞である。館の前に停まったバスから小学校中学年位の女子ばかり三〇人ほどが、ぞろぞろ降りるところで、バスのボディに大きく校名がある。国立の大きな博物館で、うち一室のジオラマシリーズで歴史勉強中の彼女たちとあとで出会った。小さな人形造りの各景は、一九~二〇世紀のこの国の歴史を一〇~二〇年刻みで表現しており、英華両語の説明がついている。順に見て行って最後の二〇番で、少女たちが景を囲む形で床に座りこみ、若い女教師の講義を聴いているのに出くわしたのだ。さりげなく近づくと、かなり早口だし距離があるので言葉の一々は聞きとれないが、英語なことは確かだ。ケース内を指しながら熱心に話して時々、少女たちは一斉に笑い声を立てる。楽しげなタイミングが、暗くした室内に師弟の快い交わりの波を広げるようだった。彼女らが去ってから見たら二〇番は、一九六五年シンガポールが独立国となって最初の議会風景で、中央に立つのはリー・クァンユー人形であろう。なるほど先生が熱をこめて話し、少女たちも和したはずだ。彼女たちの国の現代史がスタートした輝かしい日の物語なのだから。
 同じ博物館の別の室で、やはり先生引率の少し年かさ、高学年風の一団と出会った。やはりオール女子で制服も同じ、色だけ違ってこちらは青、さっき見たのは白だから、同じ学校の別学年が揃って歴史勉強に来て、それぞれ担任が指導していたのだろう。やはり生き生き楽しそうに学んでいて、さわやかな風が重々しい空間を吹き抜けるようだった。
 この時以外でも街のあちこちで、子どものいろいろな姿を見た。と書きたいところだが、あいにくというか不思議なことに、滞在数日あれこれの訪問・見学をして狭い国内かなりの範囲を歩き回ったのに、街で小・中学生や幼児位の子を見ることはほとんどなかった。他のアジア諸国では早朝から夜まで、どの時間どの街でも、子どもが群れて特に駅や観光地、ただの街角でさえ物売り物乞いの子らに出会うことは共通の経験だったから、ここは確かに異質といえる。限られた国土に人口過大とならぬよう、政府が出産数をかなり厳しく規制すると本にあったから、そのせいか、それとも少ない子らが学校や塾、家庭で勉強やゲームにすごしているためだろうか。分からない。
 手がかりの一つになるかとあとで『世界の統計』(二〇〇〇年版)を調べたら、人口一〇〇〇人当たりの出生数を、一九五〇年から二一世紀初頭の予想まで記した表をみつけた。比較のために日本とインドネシア(多島多民族の人口大国)のデータを添える(表1)。
 植民地だった五〇年代の多産が独立後たちまち半減し、二一世紀初には日本に接近するほどの少子化進行が分かる。同じ多産からスタートしたインドネシアとの違いは明白である。
 唯一偶然の目撃は、滞在最後の日の夕刻、日本でいえば新宿か池袋に相当する繁華街のデパートで、人びとの行き交うフロアの片隅を巧みに占めて、高校生くらいの男女七~八人が、学校帰りか制服姿で鞄を持ったまま、しゃがんだり座りこんだりして楽しそうに談笑する姿を見たことだ。顔の色で明らかな異民族の少年も屈託なくまじっていて、どこの若者も同じだな、ごく自然に民族融和してるな、とちょっとほっとしながらそっと傍らを通り過ぎた。

――国立教育研究所で言語教育と教員養成を聴く

 前節に述べたようなバイリンガル教育をきちんと行なうには、制度の完備と並んで実施を担当する教員の養成が欠かせない。ところが事前に集めたどの資料もこの面が不明確で、とにかく現地で当たるほかはない。教員養成と一番関わりそうな教育機関名は「国立教育研究所=NIE(National Institute of Education)」だが、ナンヤン工科大学の一部とあって教育学部でもあるのか、キャンパスは別とあるし正体不明だ。現地で入手した地図を見て出向いたら、何と昨年暮れにナンヤン大キャンパス内の新築校舎に移転したばかりという。今さらのように日本での情報不足と、現地地図の不備怠慢を嘆きながら、大分離れた新キャンパスにたどり着いた。

 バイリンガル制度の成り立ちと今後
 そんな回り道をしたせいで、ちょうど昼休みにかかって責任者たちは不在。われわれも昼食をすませて出直そうと、別棟の学生食堂に入りこんだ。弥陀小学が街なかで校長も歎く狭さだったのと対照的に、広々と丘陵地を占めるキャンパスで、とりわけ食堂から見渡す熱帯雨林の豊かさはすばらしい眺めだった。数多いテーブルはほとんど満席で、白いかぶり物のイスラム女性や一目でインド系と分かる優美なサリー姿が、TシャツにGパンの漢族学生たちと、楽しげに談笑しながら食べている。日本の学食に多い生協とかの一手経営でなく、多彩複数の出店なのが珍しく、中に宗教的禁忌クリアを明記した特定民族食の看板もまじる。カフェテリア式で大盛りに取っても日本円にして二〇〇円足らず、やはり安いが他の品々も均らして、アジア諸国の中では日本との物価差は少ない方である。
 研究所に戻ってしばらく待つうち、所長(学部長)ほかが現れ、ぶじ懇談開始となった。メインの相手は副所長(副学部長)で、日本の大学にしばらくおられたそうだが日本語はほとんど話されず、もう一人の若い女性教員は一九八〇年代に東京工業大学に留学された心理学者。勢い、英語日本語ごちゃまぜで必要に応じ通訳も交える、親しさ十分の話し合いとなった。
 この教育研究所は、名の通りこの国の初・中等教育全般、つまりカリキュラムや教科書等々の研究をすると共に、日本でいえば文部省の一重要部局としてその実施に関わり、しかも初・中等教員養成を一手に計画し実行する、全国唯一の機関である。後者の役割ではナンヤン大の理工系学部と並ぶ教育学部でもあるわけだ。われわれの常識からはすぐには納得しかねる幅広さだが、人口三〇〇万は日本ならちょっと大きい市程度だから、むしろ適した構造ネのかもしれない。研究の自由は、とつい危ぶんだら、副所長は「大丈夫」と大らかである。それより今も刻々と新しくなる制度の工夫や中身の研究にうちこむ、新しい計画実現はこの秋の予定だ、と元気一杯。建国以来エリートを選び抜くこの国の基本方針がこうして稔り、彼らに自信と意欲にみちて活躍する場を作り上げている実例、と思えた。
 したがって当方の調査課題である言語教育に関しても、ここが計画と実施の元締めなわけで、知りたかったことを質問でき、率直な答を即時得ることができた。本で知り小学校訪問で確かめ得た英語を第一、母語を第二とするバイリンガル教育が、制度として確立したのは意外に最近の一九九七年である。それまでの三〇年余、研究―立案者たちは、諸方策を無理のない順序で徐々に積み重ねてきた。英・母語の双尊重、理数科は英、社会科は母語の使用分け、標準華語への緩やかな統一、そして華人が設立し唯一華語で教える大学だったここ南洋大学を、理工系の国立大学化したのが一九八〇年代。このようにして九七年遂に全教育システムを英語での授業で一貫させたのである。
 しかしこれで万事問題なしとなったわけではない。研究所機関誌のある頁に、子どもを対象に日常の言語使用をたずねたアンケートの結果が載っていたが、華人中「全部英語」「英語が多い」と答えた子はどちらも四割、残る二割は「母語が多い」を選んだ。インド系の子も似た比率、マレー系の英語全使用は六%だった。少人数の調査だが一般的な傾向とのことで、バイリンガル教育の効果はこれから、の趣である。しかも英語学習の困難な子がどの民族にも必ずいて、特に会話は何とかやれても読み書き支障のケースが低学年に多発する、と話された。弥陀小学で見た遅進児教室が対策の一つなのだなと、中央と現場の直結にうなずいた。
 そこで耕して根に至る改善策として、就学前のバイリンガル基礎づくりに昨年から取り組み始めた。制度上は研究所―文部省の管轄外だが、幼稚園での英語学習の可能性と方法を研究・試行し、さらに低年齢化を探っている。一歳半からつまり発語初期から捉えて、遊び歌いながら英語に親しむプレイグループの試みである。地域センターと呼ぶ当地の生活や教育全般の指導組織があるので、これを幼児教育にも活用して、バイリンガルを含む人間早期開発ができるかも、と話は熱を帯びて広がっていった。

 教員養成は多様なコースで
 この研究所(学部)が一手に行なう初・中等教員養成についても、話を聞き資料を得ることができた。複数の入口と学習コースが設けられていて、最も中心的な一つは、前述のGCE試験に合格して大学前期二年を了え、あるいは日本なら短大にあたるジュニアカレッジ二年を了えて教員になりたい者に、さらに上級試験を課した上で学ばせる二~三年のコースである。科学、芸術、体育など本人が選ぶ領域で専門の学習をすると共に、教授法や子どもの発達研究等の教職科目、さらには思考を鍛えるための哲学などまで広く学ぶ。第二の教員養成コースは、国立三大学及びポリテクニクで各々の専門を学んだ学生が、教員資格を望む場合に適用するコースで、得たい資格によりまた領域によって一年、二年の別がある。三番目は現職教員が休職して集中的にあるいは働きながらパートで学べる、現職資格上昇コースである。これらのどのタイプにも、中国、マレー、タミル語教育を学ぶ部門があって、初・中等段階での母語教師を養成する。さらにこれまで枠外だった就学前教育に関しても、拡充計画に対応して幼児教育の研究と教員養成の部門を、急ぎ拡充中である。
 教員に関わるもう一つのここの仕事は、校長、教頭、主任など管理職試験の扱いである。これも小学校訪問で実例を見た通りで納得だが、教育のほぼ全面にわたる研究と実現がこの組織に集中していることに、改めて驚いた。もらったパンフの一つに研究所メンバー一覧があったが、所長(学部長)も入れて四十数人、研究員や非常勤も別にいるのかもしれないが、この人数でとにかく仕事がこなせるのは、やはり国の規模ゆえであろう。聞くと大学進学率は二〇%と意外に少なく、というよりエリートを囲いこみまくった末だから当然の数字ともいえようが、傍系のポリテクニク等を入れても三〇%に満たないという。シンガポール人の平均寿命は男七五歳、女七九歳(九七年)と世界統計にあったから、各年齢同数と仮定して単純計算すると大学生の総数は約四万人、日本ならちょっと大きめの大学一校分にすぎない。
 教師を志す学生は多いか、と質問したら、副学長はやや苦笑ぎみに「景気次第です」と正直な答をした。景気がよくなると実学実業へと人が流れる、と。小学校で実見し聴いた女教師優位現象の説明と、ピタリ符合している。したがって国際経済地位上昇中のこの国では、常時教員不足の傾向がある。そこで政府は、人材を教職へ導くために、さまざまな手を尽くす。まず教員を志す学生は、どの入口どのコースでも学費不要で給料にあたる支給金まで出る(もらった資料をあとで見たら金額まで明記してあり、しかもそれは目指す資格、当人が過去三度の試験で得た特急―普通レベル等でこまかく分かれていた)。それとは別に奨学金制度もあるが、これはもらうと教職最低四年間の義務がつくそうだ。
 さらに重要なのは教員になってからの給料で、これも着々上げている、と副所長は明言された。これまで訪れたアジアのどの国でも耳にしたことのない、明るい答である。人材を教職に招くキメ手と分かっていてもやれない大多数の地域と比べて、たしかに異質だ。日本と似た富裕さ、しかもカネを有用と信ずる費目にさっと回せるエリート組織の自在さが、まざまざと表れている。
 以上教員養成のあれこれと、高等教育は話が別である。大学教員のほとんどは外国留学経験者、少なくとも大学院は外国で学んで学位を得てくる。大学の数自体が少ないのだから、これで需給のバランスはとれているらしい。

 教育・社会諸問題をめぐる一問一
 メインテーマの話二つが一段落したあと、すっかりうちとけた雰囲気で話題は社会一般へと広がった。一問一答の形で要点のみ書きとめよう。
 ――日本シンガポール共に子どもの学力は高く、例えば数学の国際テスト等で上位を争う仲間だが、日本の子は数学を好きな%が年々減って、学習意欲減退が憂えられている。貴国ではどうか。
 「あまり問題になっていない。今も教育が出世だけでなく良い人生へのパスポートになっているし、家族の絆の強さがそれを支え持続させる力になっているから。」
 ――しかし国の住宅政策で親子が別に住んだり核家族が増えることは、そうした力を減ずるのではないか。
 「たしかに住環境の変化は、民族融和等のプラスの反面、ご指摘のようなマイナスを伴う可能性がある。政府も心配してマイナスを減らす努力をしていて、親と子、祖父母と孫が同居は無理でも近くに住めるよう、住宅配分の際考慮している。これも小国ゆえのメリットだろう。何しろ文部省が全国の校長を集めることがすぐ可能な国なのだから。」
 ――混住政策による民族融和は、どの程度目的を達しているのか。蕫隣の異民族より遠い同郷人﨟が集まることはないのか。
 「イスラムなど宗教的結束の強いケースでは、そうした傾向は残る。しかしさっき話した地域センターが、住民をまきこむ行事、例えば祭りをして異民族・異信仰間の交流・理解をはかるなどの努力をしている。」
 ――政府の統制が行き届きすぎて息苦しくなることはないか。不満を持ったとき国民はどうするのか。
 「国民は諸規制の意味をかなりの程度理解していて、必要な痛みには耐えていると思う。例えばクルマの購入と使用に政府が規制を加えなかったら、今頃はどこの道路も渋滞して国民生活は重大支障に至ったにちがいない。」
 ――学生で将来政治家になってこの国を変えたい、舵を取りたいと思う者は多いか。
 「否。もともとこの国に政治家という職業ジャンルは特にないといってよく、ビジネスや研究などある領域に専念してひとかどの仕事をした者が、推されて政治に関わるのが普通だ。それまでに培った広い視野や判断・構想・行動力などを活かして、国と世界の未来に資する施策を練り行なうことができるのだから。」

 ――周辺諸見聞から「民族と言語教育」を考える

 短い滞在、偶然の見聞だが印象に残った諸事柄があるので、簡略に列挙して課題を考える助けとしよう。

 緑の都市国家
 赤道近いアジア諸地域で必ず見る高床式の小屋風住居は、全国くまなく回ったわけではないが一度も見なかった。代わりに至る所で二〇階建てとかそれ以上の高層住宅群(地震の少ない土地柄と聞いた)と、都心辺は官庁、博物館図書館、ホテル等のしゃれたビルが立ち並ぶ。都心を外れると二~三階位の自前レンガ造りの家々が押し合うように道の両側に並び、衣食とりどりの物を売るが、中でも壁・ドアがなく粗末な卓と椅子が路上にはみ出るテラス式簡易食堂が多い。この国を支え富ませている多国間商取引所や金融市場類を実見する機会は残念ながら無かったが、煙突とプラントが連なる工場地帯はただ一カ所、港近い埋め立て地に遠望したきりだし、耕地牧草地は一片も見ず、海は行き交うタンカー群や巨大客船ばかりで、漁港は見当たらなかった。要するに国全体がオフィス、ホテル、小店等ばかりから成る、いわば近代以前の景観や暮らしから決別した都市そのものなのだ。日本を含むアジアのどこの国にもない、異質の印象である。
 不思議に思って帰国後世界統計を調べたら、シンガポールの労働人口中、農・漁・鉱等つまり第一次産業従事者率はたったの〇・三%で、日本の五・三%、インドネシアの四二・二%よりはるかに低い。代わりに日本より多いのは製造、建築、卸小売で、金融とサービス(教育、保健等を含む)従事者は日本が上回った。どの項の%もインドネシアより格段に多い。なるほど、と景観の異質が数字の裏づけを得ると共に、この国の経済活動全像がつかめて興味深かった。
 その一方でシンガポールの景観の特徴は、緑の多いことだ。建ち並ぶビルの間々には豊かな熱帯の大樹が繁り、都心にも一定の広さの緑の空間が随所にある。高層住宅群が囲む団地中央部も同様で、ベンチまである。それらの地面は皆丈夫そうな幅広い草が植えられて、むきだしの土はほとんどない。全国を縦横に走る舗装道路の両側は、すべて丈高い熱帯樹の並木と、四季花咲く植込み、草地だ。建国三〇年余、国土計画の成果に違いなく、熱帯ゆえ植物の成長も速いのだろうが、国全体が近代的公園の趣である。これがまた世界中から観光・レジャー客をひきつける一因になっているのだろう。二〇〇〇年には日本からだけで観光客は九三万人、一日平均二五〇〇人と朝日新聞にあった。南端にある小島(英軍砲台跡などがあるセントス島)にも帰国前日に訪れたが、全島緑あふれる中にゴルフ場等のレジャー施設が点在する一大遊園地で、本島とは海を見はるかすロープウェイで結ばれていた。

 ゴミと都市交通と
 国全体の緑地化公園化もだが、もう一つ政府の重要政策はクリーン化つまりゴミ撲滅と、交通のすみやかな流れとである。事前情報に「ゴミを捨てると罰金」とあったから、実見が楽しみだった。なるほど日々、路地などの指定場所に規格のゴミ袋が山と積まれ、早朝にゴミ運搬車が走っていたし、辻々にはポスト風ごみ入れが立ち、団地内緑地や街路を長い箒とちりとりで掃いて回る人(市民でなく公務員風)を度々見かけた。アジア各地に多い道路イコールごみ捨て場式とは、異質のクリーン度である。しかしそれでもなお時にビニール袋が舞ったり、何かの食べかけが捨ててあったりしたから、罰金規定は幾分緩和されたのかもしれない。
 狭い国土に鉄道も新幹線もなく、バスと地下鉄だが「駅に二〇分以上いると罰金」と本にあった。年平均気温二七~八度ゆえ涼み目的の不心得者を排除して、混雑を防ぐ規制である。また四方海の小国でいざという時国民が逃げこむシェルター役も兼ねるそうで、実見したかったが乗る機会がなかった。バスは路線、台数、停留所みな多い感じで、二階建てのもあってどの時間帯も大体すいたのが悠々街路を走る。待ち客群をおしのけ必死でバスにぶら下がるのとは、異質の光景である。
 タクシーも程よく走っていて、一時間近く乗っても日本円で一〇〇〇円足らず、他の物価に比べて安さが目立った。NIEをたずねて南へ西へ走ったとき、緑の続く道は高速道らしく信号ゼロ、渋滞ゼロ、おまけに高速料金もゼロでまことに快適なドライブだった。街なかにはもちろん信号があるが、車の通行が適度だから人びとは左右を見てゆったり信号無視することが多く、われわれもやがて学んだ。やはり日本車が多く、社名堂々と走っているのは他のアジア諸国と共通である。
 警官や兵士の姿を街で見ることはなかった。たまたま警察学校の前を通って、運動場に整列・訓練中を見たし、徴兵の二年間は高等教育にとってマイナスと本で読んだから、どちらも居るにちがいないが。少なくとも交通整理や犯罪とりしまりに常時目を光らせたり、市民の諸活動を監視威圧する必要は、日常ないらしい。その分見えない規制があれこれ強いともいえようが。

 あき地と建ちかけビル
 人口密度の高い都市国家だが、高層ビルや小店に緑地で寸分の空きも無し、というのではない。オフィス・繁華街をちょっと外れると街々には、不思議なほどかなり広い空き地が至る所にある。ただしそのどれもが、破れ一つない金網や頑丈な金属白板でしっかり囲ってあって、「無用者立入禁止」の標識と共に建築予定の諸項を詳しく記した札が立っている。工事開始近いらしく機材山積みの所もある。すでに数十階の形に建ち上げた建設途中のビルもあちこちでみかけたが、どれも事故や迷惑を防ぐ青い金網で厳重に包まれていた。
 つまりこの国では、すでに造成し建築を終えた地区は緑の樹や草を植えて万人に快適な公園化する一方で、空き地はすべて使用目的を確定明示して、着々実現する。教育研究所で聞いたことと似てるな、と思い当たった。数年数十年先を見通して計画を立て、無理のない範囲・順序でいつも建設・改築・発展中の教育諸制度であり、街であり国なのだ。

 戦争記念あれこれ
 歴史博物館で小学生と出会ったことは、前に書いた。類似の博物館や記念館が国土面積の割にたくさんあり、国の成り立ちと文化を国民に、そして多分外来客にも知らせようという努力は、かなりのものである。われわれもいくつか見学したので、まとめて要点を記しておきたい。
 見学して共通に分かったことは、一九四二~四五年日本による占領は、シンガポールにとって忘れ得ない大事件だったという事実である。その意味は、いくつかある。一八世紀以来欧米人の支配に服し続けてきた地だから、白人がアジア人にあっけなく負けた驚きが第一だ。次は日本の占領が、華人の殺りく、多額の献金強要、強引な日本化など、植民政府を上回る暴力的支配となった悪夢の経験である。第三は、やがてこの暴政に抵抗する地下組織ができ、相次ぐ逮捕、拷問、刑死に耐えてゲリラ活動を続けた事実だ。これらの深刻な体験が、やがてイギリスによる再植民地化を経て小さな島が独立に至る、つまり単なる移民の集住地から、シンガポール人としての同一性形成と自覚を促す契機の一つになったといえる。
 だからどの展示でも、日本軍関係の記録、人形等々は必ず残虐と恐怖が描かれ、原爆投下が救済への門として強調されていた。日本ではシンガポール占領は、緒戦勝利の華やかなイメージ記憶が主だから、日本の敗退こそが住民にとって「解放」であったという現地の事実との落差を知ることには、大きな意味がある。
 占領に伴う暴力を扱った一室に、印象的な展示があった。中央の大きなガラスケースの中に、人の輪郭めく形が微妙に揺れている。よく見ると細かい金網で作った三体の等身大人形だ。一体はうしろ手に縛られてひざまずき頭を下げた姿勢、二体目はクーリー風菅笠の老人で腰が抜けたように座りこんでいる。第三の像は若い女性の立ち姿で、赤ん坊らしい小さな形を両手で捧げ抱くが、子ののけぞった形はすでに死体なのだろう。つまり日本軍の犠牲となった最も無力な人びとの象徴像である。ガラスケースの一部が開けてあって、室内だが自然に通う空気の動きが、金網を微妙に揺らして、彼らが今も生きて訴えている印象を強めるのだ。
 この博物館から遠くない都心の一等地に、慰霊塔がある。何十メートルあるのか、回りの高層ビルに負けない細長い柱四本から成るクリーム色の塔で、傍らの大きな石板に「日本占領時期死難人民紀念碑」とあり、英、華をはじめ四語の説明がついている。殺された人数は今も正確には不明で、五千人とも二万人ともいわれ、この塔は独立まもない一九六〇年代後半に、華人経済団体の尽力で建てられた、とあった。
 柱四本はシンガポール人を構成する民族を表すそうで、多数派の中国人と少数民族たちとで大きさ美しさ共に区別してはいない。死難の大多数は当時敵だった中国人だが、インド人の独立義勇軍も対英作戦の無理で少なくない死者を出したのだから、同じ日本占領の犠牲者たちである。
 セントサ島のイメージ博物館では、歴史博物館の小さなジオラマと違って、等身大の人形をしかも動いたり発声したりするしかけの展示が多く、また民族の習俗や文化を表す室が続いていた。例えば結婚式のシーンが同大で三景続き、中国、マレー、インドそれぞれに美しい民族衣装を着けて夢みる表情の男女が、独得の飾りつけや料理を前に平和によりそっていた。

 ――まとめ

 最後に、シンガポール現地調査によって得たことを、課題に即してまとめておこう。短期間の僅かな調査には限界も誤りもあることは当然で、それを前提としつつ次へのメモとして、見たまま考えたことを列挙する。
 一、バイリンガル教育を国の制度として持つのはおそらく世界でも類例が少ないが、シンガポールでは、一応平穏に全階梯全学校で実施されている。
 このことは宗教立学校で確認でき、NIEで明言を聞いた。二重負担だし第一言語がどの民族母語でもないのだから、無理や不自然もあるかと予想したが、見た限り子どもたちは生き生きと学んでいて、二語のスムースな併用は進行中のようである。
 二、一の平穏な実施は、三母語を平等に第二言語としたことおよび周到な準備施策に負うように思われた。
 人口の八〇%を占める多数派の母語を優位とせず、少数民族と同じ扱いにしたことには、積極的意味がありそうだ。またNIEの担当者たちは、制度確立までの三〇余年に順次言語扱い諸方策を積み重ねて今日に至っていた。
 三、英語学習困難児の問題は残るがケアの努力がなされ、バイリンガル基礎づくりの低年齢化がはかられている。
 制度化によって万事解決ではないことが、策定側NIEと現場の両方で確められた。同時に対策も実施中なばかりか、さかのぼって幼児期バイリンガルが試みられている。発語期まで捉える思いきった発想も聴いた。
 四、バイリンガル制度は教育領域単独の実施ではなく、居住方式をはじめとする生活の中の民族融和策を伴っている。
 公共住宅の民族・出身地混住政策は、新しい国民の融和、同一性形成を目指すもので、言語教育のねらいと一致しその進行を支えている。その他随所に、例えば博物館の歴史展示等に、同様の意図が見られた。
 五、バイリンガル制度とIT教育とが平行して進められ、教員養成も国のIT経済活動と微妙に連動する。
 言語教育と情報教育とが、低年齢から同時進行中なのを実見した。この両面とも、現代の国際的経済活動と関係するから、人びとの働き方を左右する。この流れを教職にも向けて人材を得るために、政府は数々のかなり思いきった手を打っている。
 六、言語教育方針は多面的な国家計画の一環であり、他の諸面と同様、常に改変・前進しようとする柔軟さと意欲を秘めている。
 全国の緑化クリーン化をはじめ貿易・観光立国など、小規模国の利点を生かした政府主導の国づくりが多面にわたり同時進行していて、言語教育はその重要な一環である。制度成立は終点でなく、状況に応じ未来を見て改変・前進する気構えが、NIEで語られ、ほかでも見た。国民もエリート指導者たちを信頼して従ってきたのが、これまでの三五年らしいが、さて今後はどうであろうか。
 七、バイリンガルの功罪はなお未知数であり、国づくり全般を含めてシンガポールは生きた実験場といえそうだ。
 建国以降バイリンガル制度に至る歩みが、今日の英語国際語化到来を見通してのことだったのかどうかは、分からない。植民文化の名残りや、指導者たちの留学歴の影響もあり得るからだ。しかしとにかく、英語を第一とするバイリンガルは、さしあたって二一世紀にまたがる国際的言語動向と一致した。「はじめに」で述べた通りこれも、目下の力関係による言語の侵食・浸透現象とすれば、なお未来は未知数である。アジアの一隅にありながら近代以前の景観・暮らしのほとんどを振り捨てたシンガポールは、他の諸面と同様に「民族と言語教育」においても、注目すべき生きた実験場といえよう。見守り続けたいと思う。


2・チベット自治州(中国・四川省)における言語教育――

――はじめに

 以上シンガポールを対象とした調査報告は、「民族と言語教育」プロジェクトチーム正規の研究報告であり、以下はメンバーの一人石原の個人的体験に基づく、したがって番外の記録である。後述する通りシンガポールとチベットとは、アジアの中でも対照的といえるかなり多数項の相違点と、にもかかわらず考えさせられる類似点や問題性もあるので、チームメンバーの了解を得て付録のような形で載せることにした。
 私(石原)が中国領土の一部であるチベット高原に二〇〇一年七月後半行くことになったのは、本共同研究プロジェクトと何の関係もなかった。別の個人的な仕事(和光大学の卒業生数十人にインタビューして本にまとめる)で対象となった一人が、今春芸術学科を卒業したばかりの留学生で、故郷チベットに小学校を作る活動を始めていて、インタビューの終わり近くに、七月建設予定地を見にいくツアーの計画を話し、同行を勧めたのが発端である。インタビュー記録原案を送るとき参加申込書を同封し、当日空港に行ったら、和光の教員・学生・卒業生など関係者はメンバー一六名中やっと過半で、あとは秘境に魅かれて参加した一般人(定年退職者中心)が大部分、引率兼添乗は当の留学生U君である。
 旅行社のミニバスは、重慶空港から成都を経て四川省の甘孜チベット自治州へと、一日数百キロメートルずつ次第に進入した。周知と思うがチベット高原は、中国の西南部を占めて日本国土の六~七倍、中国は第二次大戦後ここを武力で占領・支配して以来、首都ラサ近辺を自治区、その東・南の漢族との混住地域を自治州としている。一九五九年と一九八八~八九年にチベット人による広汎な抵抗運動があり、祭政一致の法王ダライ・ラマ一四世はインドに逃れて亡命政府を樹立、すでに四〇数年になる。[注7][注8]
 私(石原)は、「民族と言語教育」プロジェクトの前身である「アジアの教育――研究と交流」共同研究の代表者として、アジアの発展途上数カ国を調査し、各国の初等教育の実状と問題点に理解と関心を深めてきていた。[注9]が、右のような政治的状況にあるチベットでは、例えばラオスあたりと違って「小学校がないから作ろう」では済まないことも分かっていたから、U君の活動にも簡単には賛同せず、まずは現地を見チベット人とその生活を実見してから、とツアーに加わったわけだった。だから旅の行程の半ば近くになるまで、「民族と言語教育」テーマとの関わりには、全く思い及びもしなかったのである。
 アジアの途上国はどこも同じだが、行く先々の村や町至る所で、子どもが群れていた。自治州の奥に分け入るほど、外国人が珍しいのと人なつこさのせいだろう、村の小店で昼食の際など見物の子らが窓に群がるし、チベット仏教の寺を見学すると、茶と赤の法衣を着た少年僧たちがやはり物珍らしげに寄ってきた。旅の六日目、ツアーの一人に中国語を話せる女性(六四歳)がいたので、手近な少年僧に話しかけてその手にある経文を読むよう頼んでもらった。経文は細長い薄紙に、当方もちろん一字も解らない横書きのチベット文字である。その子は結局恥ずかしがって逃げてしまったが、一一歳という年齢だけは答えた、と彼女が伝えてくれた。
 そこでハッと思い当たった。一一歳なら学齢(中国では小学校六年、一二歳まで義務教育)で、少なくとも話しかけられた北京語(中国の標準語)を解し返答し、他方でチベット文字の読み下しが多分できるわけだ。寺は伝統的な経文限定の学習機関だから特殊だが、普通の小学校でチベットの子らは、どんな言葉でどんな教育を受けているのか。自治州ゆえに支配者の語を学び中国語で授業を受けるとしたら、母語であるチベット語はどういう扱いなのだろうか。関心は突然「民族と言語教育」テーマとピタリつながったのである。

――シンガポールとの対比と類同

 そこで改めて考えをめぐらせると、チームの研究が今春対象としたシンガポールと、今たまたま訪れているチベットとは、いくつかの点で正反対といっていいほどに異なり、その一方で重要な類似・共通点もあることに気づいた。これは面白い比較研究になるかも、と私の物好き的研究者魂といったものが、ムクムク頭をもたげてきた。
 相違点の第一はいうまでもなく地域の広狭で、シンガポールは淡路島の大きさしかないが、チベットは前述の通り日本全土の六~七倍の広さだ。次は地勢で、海に囲まれた平島と一片の海もない標高三~六〇〇〇メートルの高地。第三はこの狭い国土全部を、前に記した通り隅ずみまで計画的に美化し公園化した人工の地域に対して、チベットはほとんど人の手が加わっていない大自然そのままである。さらに本文で世界統計を引用した通り、シンガポールの第一次産業は就業人口の〇・三%が従事するにすぎないが、チベットの農・牧業者は約八〇%。人口構成も、シンガポールは中国・マレー・インドから近代以降の労働移民集積地なのに対して、チベット人はほぼ土着の民である。などなど、こまかく言えばまだまだ差異は数え上げ得よう。
 何より大きな違いは、シンガポールが第二次大戦後イギリスの支配を脱し、他の多くの地と歩を揃えて独立国となったのに対して、チベットは歴史上少なくとも中国と即かず離れずの独立状態だったのに、一九五〇年になって主権を失い植民地状況となった、その意味でアジア唯一の運命をたどった国だ、という違いである。[注10]
 二つの地域の類同点はただ一つ、中国人が支配する地ということである。シンガポールは複数政党制のなかでリー・クァンユーら英国留学組の人民行動党が結果的に政権を握り続け、チベットは被占領以来ずっと中国共産党の一党独裁支配下にある、という経過差はあるが、漢民族支配の数十年は不動の共通点である。二つの異なる地域に臨む中国人の政権が、域内異民族の扱いをその言語政策においてどのように遂行しようとしているのだろうか。

 このように急きょ課題を立てたものの、旅先それも緑の高原とヤク、ヤギの群ればかりの山中だ。秘境に酔って天然の花畑を撮ることに夢中なツアー仲間たちにそんな話をしても、興醒めするばかりだろう。この状況に応じて、予定の日程をこなしながら個人でできるささやかな実地調査と、その背景となるチベットの教育状況について大よその知識を得ることとの、二つの計画を立てた。これまで「アジアの教育」以来チームの研究方法は、まずその地の文部省や教育研究所等に行って当国教育事情の大よそを把握することと、小学校から大学まで可能な限り実地訪問して話を聞き生徒たちと対話する、の二本建てだったが、現状況ではどうしようもない。できる限りの接近方法と、得られるものとで間に合わせるほかはない。
 そこで見回すところ当然だが一番チベット教育事情に詳しいにちがいない当地人のU君に、概略の話を聞くことにした。忙しい添乗仕事の合間だから途切れながらだが、何とか必要最少限度の情報を手に入れた。まずチベット人の就学率は現在約六〇%、都市は九〇%近いが地方に行くほど低い。学校が遠いとか貧しさのため中退する子は多い。自治州では小学校入学と共にチベット語と中国語(北京語)を学び、三年生から英語が加わるきまりだ。授業はチ、中両語で行ない、教科書も国定で両種あって、子自身や親がどちらかを選べる。中学進学率は一〇%強、高校数%、大学進学は一%に満たない。ラサの国立チベット大学ほか三大学があるが、学校階梯が上に行くほどチベット人の進学率急減のため、高校、大学の教員にチベット人が少なく漢民族に占められがちなのは、長い将来を考えると問題だ、とのことである。

――学齢児話しかけ法をやってみた

 この状況下、個人でやれる最少限の調査として、次のような方法を考えだした。シンガポールの混住政策と関わって分かった通り、中国では省ごとの方言が互いに通じにくいほど違っていて、ここは四川省だから自治州に住むチベットの子らも、四川方言になじんでいることがあり得る。北京、チベット二語の間にこれを入れて、三段の問いかけをしてみよう。となるとこの三語を操れるのはU君だけだから、これまた添乗仕事と併行で申訳ないが、彼に研究補助の調査実施役を頼むことにした。
 具体的な方法は、こうだ。ほぼ学齢かその直前後と思われるチベット人男女児に、(1)「あなた、いくつ」とまず北京語で問いかけ、通じなかったら四川方言、これもダメならチベット語に切りかえてたずねる。答を得たらその語で、(2)「ふだんの生活で主にどの言葉を使うか」(シンガポールの教育研究所機関誌で見た調査からヒントを得た)、(3)「学校に行っているか。(行ってないなら)行きたいと思うか」(もちろん学校の言語教育効果を知るため)の二問を問いかけて答を得る、という計画である。私がさりげなく傍でその子の答え方や表情を観察し、U君の報告と併せて結果を記録する。以上の手順を箇条書きにしてU君に渡し、町や村での昼食時や寺の周辺などに群がる子どもたちから適宜対象児を選ぶことにして、さっそく試行にかかった。
 残念ながらこれは机上の空論に基づく調査計画で、成功しなかった。何しろごく初歩とはいえこういう蕫文化人類学的﨟聞きとりなんて初めてだから、失敗はやむをえない。第一に、私が傍にいてその子を見ていると、敏感に察して恥ずかしがって答えないので、直ちに観察の項は撤回せざるを得なかった。第二に、子どもたちは大抵群れているので、一人に話しかけるとわっと大勢集ってきて、当人は照れてその中に逃げこんでしまい、答えるどころではないのだ。そこでうまく一人でいるのを捉まえて問いかけると、見知らぬ人に一対一で話しかけられることに全然慣れていないらしく、これまた恥ずかしがり恐がって逃げてしまう。それだけ人ずれしていない純朴さの表れといえるが、つまりは捉えにくく答える気にさせにくい、厄介きわまるインフォーマントたちであることが、たちまち分かった。
 また(2)の問いは、複雑すぎて理解させ答を得ることが至難だった。これまでのアジア諸地域では、小学校の教室に入りこんでの英語や地元語での問いかけだったから、かなり複雑な問い例えば「好きな勉強は」「将来何になりたい?」などと聞いて答を挙手させるのも容易だったのと、様子が違った。問われること答えること自体の経験乏しく、集団としての受け答えにも慣れていない、純朴きわまる子ら、の印象である。
 そこで次々方法の細部を変え試行を重ねて、定番は結局次の二項におちついた。三段階の言語で年齢を聞いて答を得ることと、学校に行っているかの二つで、あとは状況次第で「学校を好き?」「何の勉強が好き?」など即席の問を付加することにした。そう決めてからは、自治州内のあちこち、昼食をとった村や町の路上で五例、寺やそれに準ずる宗教的な旗・祈りの石積みのある場所などで二例、遊牧民のテント付近で一例などが、ようやく集まった。計八例、少数でデータといえるものではないが、こうした苦心の成果だから一応、年齢順に一覧表にしよう(表2)。
 まず六~七歳あたりがやはり、学校に行くか否か続けて行くかの決めどきのようで、九歳以上の六名は皆学校に行っている。偶然もあろうがこれは、寺、町、村ともに集落内だったためであろう。5番は遊牧民のテントで捉まえた女児だが、「いま夏休みでここに来ている、ふだんは町にある家でお祖母さんと暮らして学校に行っている」旨をはっきり答えた。
 北京語を解してそれで答えたのはちょうど半数、年齢が高いつまり中国語を長く学んだからといって熟達するとはいえず、四川語で受け答えしたのはただ一人だった。即席で「学校を好き?」と問えたのは二人だが、そろって明るく「好き」「大好き」と答えた。他方一一歳の二人はチベット語しか解さなかったが、遅れて入学したのかもしれない。そんな細かいことまで問えなかったが。とにかく少数例だから何ともいえないにせよ、U君から聞いた自治州での言語教育プログラム、つまり小学校一年生から中・チ語を教え三年生で英語が加わるきまりは、少なくとも揃って熟達とはいかず個人ごとにその成果はさまざま、というあたりが一応の見当のようだ。
 これら個人対象の聞きとりとは別に、昼食時に村の道に群がった七~八人を一括して相手に、「ふだんどんな言葉を使うか」つまり略せざるを得なかった(2)の問いを試みてもらった。U君の報告では、「チベット語」の単純答が大多数で、「少し中国語(北京か四川かは不明)がまじる」と言った子が少数いたそうだ。また、寺の少年・青年僧が集まっている所で、寺での日常語をたずねてもらった。チベット人同士のときはチベット語で話し、漢民族が混ったり目上の僧や外部の者とやや公式的に話すときは北京語、と使い分けている旨の答を得た。

――小学校予定地域は純粋チベット語生活

 U君は小学校を建てる場所を、自身の出身地や縁故とは無関係に、最も必要と思われる所をと慎重に諸資料を検討して選んだそうで、したがって県都から一〇〇キロと遠く、標高四三〇〇メートルのへき村である。旅行社のバスも入れない凸凹の山道を三時間余、車は遊園地の恐怖遊具なみの揺れ方で、かなり幅広い谷川を平気でザブザブ乗り入れ渡っていく。ようやく着いた先はさすがに緑の山なみ美しい高原で、下界とは隔絶して大気も澄みわたる感じだ。遊牧民のレンガ造りの家や、ビニール布張りの小屋が数十軒散在する小集落だが、これまで一度も学校があったことはない。ヤクやヤギなどの放牧がほとんどの村民の仕事で、村はずれの丘に寺があってその直下の村内に、経文を教える寺の大きなテントが張ってある。ここでチベット仏教の経文を口移しで憶えるのが、村民唯一の勉強で、あとは男女それぞれ見よう見まねでいつのまにか身につけていく、日常生活上の諸技術学習があるだけだ。家畜の解体、ヤクの乳からバター茶を作るわざ、等々の。
 ここでもみるみる子どもたちが集まってきたから、例によって「あなた、いくつ」のキーワードを試してもらった。反応が、昨日までの下の町や村、寺近辺と全く違うのである。皆きょとんとし、茫然としている。近くに大人がいると、思いがけないことを聴いたという風な、抗議めいた表情である。あとで聞いた話では、男たちはヤクや羊を売りに時々山を降り、市で値段の交渉もするから、自然に北京語や四川方言を聞き憶え、また漢族の友人がいたりもして、多少これらを話せる者が多いそうだ。しかしそれはそうした商売やつきあいの場での実用的使用にとどまって、村での日常生活には入りこまないらしい。この高地では、中国語は今もほぼ完全に「外国語」なのである。
 この時とは別に、例の中国語を話せるツアーメンバーの女性が、この村の女性たちにふだんの生活で使う言葉をたずね回ってくれた。答はほぼ純粋に「チベット語」で一致したという。問いが解ったのだから夫との関わりなどで北京語を多少知ってはいるらしいが、子らを含む家庭の日常生活には入りこまないようだ、と言う。
 つまり小学校がなく、路線バスもなく、電気・水道・ガス・下水道などすべてゼロのこの山上の秘境は、中国領となって半世紀余の今も、標高に守られてチベット語が、したがっておそらくチベット文化がいわば純粋に保たれた地であることが判明した。同じ北京語のキーワード問いかけを下の町や村や寺で試したおかげで、それらとのきわだった対照としてこの村の独自な言語状況が、明らかになったといえる。
 ここに小学校を作ることは、この純粋さを崩して中国語・中国文化を導入する道にちがいない。三年生から決まりの英語はさらに、未知の世界の風を運びこむだろう。しかしそれで、いいのではないか。半世紀どころか長く守られてきた純粋さ淳朴さは貴重だし、この高原の手つかずの天然の花園は、本当に天国のように美しい。しかし言葉や数などの学習に向く子、広い世界に出て自分の力を試し、生かして仕事をしたい意欲の子は、一定程度いるだろう。やはり小学校がここにあって、子どもたちは中・英語や社会科・理科などを学んで、卒業のときヤクと花園の生活に戻るかどうかを、自ら選ぶ方がいい。
 下の村でだが、「学校大好き」と答えた遊牧民テントの少女の、輝く瞳が強い印象だった。この山上の村でも、ふと訪れた民家でチベット衣装の若い母が、五歳と三歳の愛らしい娘を指して「学校にやりたい」と話したし、そばにいた長女(一三歳)はU君のチベット語での問いに、「学校に行きたかったけど行けなかった」と真赤になりながら答えていた。
 あれこれ学んで子どもたちが、やがて漢民族とチベット族の関わりの歴史と現状を、公平に正しく理解できるようになることを、望み信ずるほかはない。そして今後に向けて行動することも。それさえ許さない宣伝や教化の場に学校がなることだけは、何としても防がなくてはなるまい。

――小さなエピソード

 本筋とは無関係だがこの旅では、こんな小事件もあったので、蛇足をつけ加えておきたい。「あなた、いくつ」調査が進み始めてまもなく、昼食のためミニバスを降りようとして私は、パスポートや現金(元)、手帳、ささやかな化粧品などを入れた小さなバッグが無いことに気づいた。座っていた席の窓がわずか二〇センチ足らず開いていて、ひどい難路で大揺れしたとき、リュックと背もたれの間にしっかりはさみこんだはずの小さなバッグが次第にせり上がり、気づかないうちに道に落ちたらしい。
 カネや小物はとにかくパスポート紛失は大ごとで、帰国予定日まで余裕ありとはいえ自治州のいなかにいるのだし、下手をすると手続きで数日この地に残ることにもなりかねない。不注意不運を悔いてもどうしようもなく、あきらめて規定の日程通り行動していた。
 小学校予定の高地に泊って県都に降りた夕、バッグを失ってわずか五〇余時間後に、それが遊牧民に拾われ役所に届いているとの朗報が入ったが、現物を見るまで信じ難かった。やがて関係の役人同道で拾った本人がホテルに来、U君も交えた少時話し合いののち、バッグはパスポート共々ぶじ私の手に戻った。調べてみるとただ一つなくなっている物があり、口紅だった。その牧民(四〇代見当)が拾って持ち帰り家族と共にあけてみたとき、娘が握って離さなかったらしく、「娘にやってしまいました。ごめんなさい」と当人は言った。
 パスポートほかが戻ると夢にも思わなかったのだから、口紅一本など問題ではなく、私は「もちろん娘さんにあげます」と言い、拾得のお礼に財布に入っていた元を全部(多分日本円で九〇〇〇円くらい)その人にあげた。
 その時は気づかなかったがあとで、バッグの中の奇妙な異変に気づいた。口紅は小さな鏡と一緒に小さい布の袋に入れてあり、袋の口は細い紐で締める式だった。この袋から鏡も出されてバッグの底にあり、袋の口がわざわざ抜きとった紐でしっかり縛ってあって、中に何か入っているのだ。何だろうとあけてみたら、親指の先ほどの小さな三角形をした茶色の小石だった。誰かのいたずらだろう、家族の中であけたのだから、娘の弟あたりの、と軽く考えて、その石はホテルにおき去りにした。
 翌日の移動中に、またまたハッと気づいた。チベットは至る所けわしい山々だから、峠や難所ごとに旅の安全を祈る大小石の山が築かれ、その中心に宗教的な旗が雨風に色あせながら立ててある。あの石もその一つではないか、とひらめいたのだ。そんな意味のある祈りの石だから、「もらい受けた」口紅の入っていた袋でなければならず、余分な物は外に出してしっかり口を閉じる必要があったのだろう。
 旅も終わりに近いある夜のミーティングで、私はツアーのみんなにこの話をした。パスポートがぶじ戻ったこと自体が奇跡に近い上に、小さな「もらい物」の代わりに祈りの石を心こめて贈る。現代日本に失われたといえるこのチベット人、微笑の民の誠意とやさしさを、天然の花園の美しさと共に知人たちに話し、広く伝えてほしい、と。
 少し広げて考えると、この祈りの石と閉じ入れた行為は、素朴な自然信仰に基づく言語の一種といえるのではないか。あの牧民は一言の説明もしなかったが、約一昼夜ののち全く異民族の私に、その意図と祈る心が、的確に伝わったのだから。近代以降の学校教育は、この無言の言語、素朴な信仰心と誠意のレベルで万民共通といっていい無形の言語を、枯らし通じ難くするのではないか、とこの稀有の体験から考えさせられた。
 もう一つ、事後に思い当たったことがある。それは、失くしたバッグが戻った速さだ。先述の通り翌々日の夕には、移動先にも関わらず拾得者と共に私に届いたのだから、日本で同様のことが起こったと想像しても異例の速さである。この辺に入る外国人が少ないとか、一行が小学校建設で県知事周辺に知られていた幸運を差し引いても、である。これはやはり単なる事務的迅速さだけではなく、落として困っている人に身を寄せて早く戻してあげようという、無言の意思が感じられるのだ。これも役所の肥大・尊大化やシステム完備と共に失われがちな、素朴で人間共通な見えない言葉に、話しかけられた思いがしたのである。

――U君の言語生活史

 U君は三四歳、母がイ族(チベット系の民族)で父は漢族、とだけは知っていた。この小学校建設と関わって今春初めて知り合った、その意味でごく浅いつきあいだが、ほぼ完全に日本語を解し話し、建設趣意書の長い日本文などを自在に書くのに驚いた。一五日間の添乗もこまごました世話まで含めてりっぱにやりとげたから、彼のこれまでの言語学習・生活史はどうだったのかと、半ば個人的半ば研究的な関心を持った。そこで帰りの飛行機でたまたま隣席になったのを活用して、生いたちと言語使用つまりは言語被教育史の聞きとりをしよう、と企てた。「あなた、いくつ」は粗雑ながら現学齢児たちからヨコのデータ集めだが、一ケースとはいえタテの事例を加えることで、この行き当たりばったり的研究の幅を増そう、というもくろみである。旅が無事に終わりかけた安堵もあってか、U君は快く私の頼みに応じてくれた。
 彼が生まれたのはこの自治州の九龍県、といっても当方には場所の見当もつかないが、例の小学校予定地と大差ない高地の遊牧民集落だったらしい。狭い山中で耕地もなく、「子どもの頃は羊やヤクの世話をした」そうだから、ミニバスの窓から度々見かけた、徒歩または小馬に乗ってわが家畜を見張ったり追ったりの少年の一人だったのだろう。周りは母の縁者つまりイ族が大部分で、したがって彼の母語はイ語といっていいらしい。
 学齢になる前、一家は州都康定の近く(といっても何キロか離れている)に移り、わずかな農地を得て定着、農耕生活に入った。都市近く艪ヲ回りは漢族が多く、彼の言語環境は一変した。母はただ一人のイ族として漢族の中に入ったわけで、容姿も明らかに違うし、黙々と家事・農事・子育てに精出す暮らし方に自然となった。U君の母語としてのイ語は、漢族たちとの新しいやりとりの中で、次第に背景に沈んだ。
 やがて小学校に入り、北京語を正規に学んだ。彼の在学した一九七〇年代は、毛沢東の死前後で、漢族のチベット支配は圧制的であり、現在と違ってチベット語を教えず、チベット語の授業もなかった。たまに生まれた村に帰りイトコや親せきたちとイ語で語ることはあっても、日々の生活や読み書く文は漢族のそれらになじみきっていく。
 「チベットは辺ぴな所ですから、中央で起こったり決まったりしたことが、四~五年遅れてこちらへ来るんです」。その一例が紅衛兵で、中央とズレた中・高の頃、この地で少年たちのブームというか蕫紅衛兵ごっこ﨟が起こり、彼もその一人だったという。「紅衛兵のバッジ失くしたんで、怒られないように一回り大きいのを作って自分でデザインしたのを付けたら、目立って賞められた」思い出を、笑いながら話す。そんな年齢で絵やデザイン、もの作りの才能・興味が芽生え自覚もしたらしく、やがて苦学しながら広西省の芸術大学に進むことになる。
 その頃浮世絵と出会い日本映画もいくつか見て、いつかは日本に留学したいと、志を立てた。一九歳の秋、中国大陸を斜め横断して大連の外国語大学に入った。旧満州の地で、日本語を身につける意図である。二年かけて一通り学んで四川に帰り、美大に入り直した。これらコマ切れの学歴の間を縫って一~二年ずつ、成都の国際旅行社に勤めた。習いたての日本語を活用してガイドでかせぎ、次の学費を貯めるためである。いろんなツアー客の世話をすることで、日本語の熟達と共に言葉の背景である日本人の暮らしや考え方に触れ、学んだ。
 あるツアー参加の日本人某氏に見込まれ、渡日の保証人になってもらえた。二〇代も終わり近い一九九六年のことで、一年間東京の専門学校で日本語の現地仕上げをしたとは慎重だが、傍ら北海道にアイヌの現状を調べに行った。すっかり同化し観光資源扱いなのにがっかりした、と語る。私との最初のインタビューのとき彼は、「少数民族の現状を皆に知らせて一緒に考える」のが「私の生涯の仕事です」と言っていた。
 一九九七年春和光大学に入り、依然バイトしながらだが初めて四年間フルに学んだ。故国の美大では油絵中心だったが、和光では専ら最新のグラフィックデザインを学び、コンピュータ熟達に努めた。卒業と共にその方面の会社に入り、「在宅でできる」仕事に就いて、念願である「故郷チベットに小学校を作る」事業やそのためのツアー主宰と、こうして両立させている。今や世界共通といっていいコンピュータ言語は、彼が日本語に続いて意図的に学んだ第四の言語であって、同じく和光で身につけた写真による表現と並んで、彼のこれからの仕事を助け大きく育てていくにちがいない。
 「あなた何人なの? 戸籍や何かでなく気持ちとして」。聞きとりの最後に、いささか意地悪い問いを発してみた。彼は即答せず、いつも浮かべているチベット人特有の微笑も暫時消して、しばらく考えこんだ。やがて決心したようにはっきり私を見て、「中国人です」と答えた。この数秒間に彼の心の中で何が戦い合ったか知るよしもないが、再び戻った笑顔は前より大きく深く見えた。けわしい山や谷を体験しながら、やはりこの大地に生き現実と真直ぐ向かい合って、母語を同じくする少数民族の子らを育て守ろうとする決意のようなものが、感じ取れたのである。

――おわりに

 最後に、「民族と言語教育」の課題に即し、チームの仕事であるシンガポール訪問調査と対比しつつ、この番外のチベット調査で得たこと考えたことを、箇条書きにまとめておこう。
 一、前述の通り二つの地域は、広さ、地勢、自然度等をはじめいくつもの点で大きく違っているが、共通点は漢民族の支配地域であることのほかに、バイリンガルの言語教育政策をとっていることである。
 二、但しバイリンガルの中身は、両地域で大きく違っている。シンガポールでは住民の一%もいない白人の言語つまり英語を第一とし各民族の母語併用だが、チベットでは支配者の言語である漢語を主とし母語チベット語は従である。前者のバイリンガルは、イギリス人の植民地だった過去やリーダーたちの留学歴等を背景に、英語の国際語化という未来期待に棹さしているが、チベットでは数十年にわたる支配民族の漢語強制から、ようやく近年になって母語の選択が容認されたにすぎない。
 三、チベットでは漢・母語併用となって日が浅いせいもあろうが、学習効果は必ずしも上がっていないようだ。少数例だが、学校に行っていても、また高学年でも漢語に熟達するとはいえず、個人ごとに達成度はバラバラのようで、シンガポールで見た遅進児のケアなども行なわれていないらしい。また、随意の聞きとりだが日常語はチベット語中心で、相手や状況で漢語と使い分けがなされるらしく、その点はシンガポールも似ているといえる。
 四、シンガポールではバイリンガル政策を軸に、民族・出身地混住政策によって国民のアイデンティティを育てようとしているが、チベットではけわしい山や川、標高に阻まれて、漢民族が住まず漢語が侵入せず、純粋チベット語・文化の保たれた地域が実在する。
 五、シンガポールの就学率は一〇〇%近く、数回の一斉テストでエリートを絞っていき彼らがかなり自在に国を指導するし、初・中等学校教員の処遇も手厚い。チベットでの就学率は約六〇%で、学校階梯が上に行くほどこの率は急減する。したがって教員資格者が少なく、この地域の教育の未来に影を落としている。
 六、中国社会・経済のいわゆる改革開放以降、チベットなど少数民族への圧迫は減り、自由度が増したことは事実だ。今後国際状況の推移の中で、少数民族の人権や文化尊重が進むならば、地域の生活や言語政策はどのように変わるだろうか。第二次大戦後に独立を失った、アジアの中でも稀な国であるチベットは、その意味で典型的かつ特異な実験場といえる。労働移民たちが国際語を共通軸に結束しようとするシンガポールの実験と、全く違う意味でである。
 七、チベット自治州の自然は美しく、出会った人びとや子どもたちは、人ずれしていない純朴さが目立った。偶然の小事件もあって、人間の根っ子が共有する素朴な善意といったものが、無声の言語となる体験をした。大切に思い、近代以降学校教育の功罪について考えさせられた。


*1 小竹裕一「変貌するシンガポール――〈豊かな社会〉の実現のなかで」勁草書房、一九九一年。
*2 田村慶子「頭脳国家シンガポール」講談社、一九九三年。
*3 綾部恒雄・石井米雄編「もっと知りたいシンガポール」弘文堂、一九九四年。
*4 *1と*3を参照。
*5 太田勇「国語を使わない国――シンガポールの言語環境」古今書院、一九九四年
*6 東照二「バイリンガリズム――二言語併用はいかに可能か」講談社、二〇〇〇年
*7 ペマ・ギャルポ「チベット入門」日中出版、一九九一年。
*8 P・A・ドネ、山本一郎訳「チベット―受難と希望、『雪の国』の民族主義」サイマル、一九九一年。
*9 「アジアの教育―研究と交流」プロジェクトチーム編『アジアの教育――その変貌と未来』和光大学総合文化研究所年報『東西南北・別冊02』二〇〇一年一二月一日。
*10 チベット亡命政府情報・国際関係省、南野善三郎訳「チベット入門」鳥影社、一九九九年。


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