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特集2◎多様化の進むモンゴル世界

ディスカッション


司会 後半の司会を務めます佐治です。よろしくお願いします。
 最初に質問をお受けしていきますが、どの先生にということでご質問ください。それから、差し支えなければ所属やお名前を先におっしゃってください。

参会者 内モンゴル自治区、シリンゴル地区出身のエルデニバートルと申します。大正大学大学院におります。私はブレンサインさんに二つの質問をしたいと思います。実は質問はたくさんありますが、時間がないので、気になっている二つの質問をします。
 一つは、ブレンサインさんが最後のまとめのところで、漢人の入植に対するモンゴル人側の対応には二つのパターンがあり、その第一のほうはチャハル、ウランチャブ地域であると言われましたが、内モンゴル地区の他の地域、例えばフルンボイル、オルドス、あるいはアラシャン地域はどのパターンに入るのでしょうか。
 もう一つは、ブレンサインさんの報告を聞きました私の感想ですが、一つ大きなところが欠けているのではないでしょうか。どういうことかと申しますと、モンゴル人に対して漢人あるいは入植者についてはよく論じられましたが、私はこのプロセスの中で清朝がすごく大事なところだと思っているのです。モンゴル人と満洲人の関係は、もちろん他のところで論じられるのかもしれませんが、私は満洲人は中国を支配したけれども最終的に自分が漢化してしまい、同時にモンゴル民族のあくまでも一部を道連れにしたと見ております。そういった意味では、ホルチン地方のモンゴル王公が北京に大きな豪邸を建てるということは、ブレンサインさんが先ほど、清朝時代にすごく発展したとおっしゃいましたが、私としてはちょっと理解に苦しんでいるんです。これがはたして発展なのか、と。

ブレンサイン フルンボイルやアラシャンといった地域はどのタイプに入るのかという質問なんですが、フルンボイルは八〇年代に開放地域として指定され、そこのモンゴル人集団社会は農地化にさらされました。
 農地化と言っても、時代によって特色があると思います。例えば清朝時代の農地化は、王公とモンゴル人個人が漢人を招き入れたこともあるし、中華民国時代には、軍閥によって大量のモンゴルの土地の払い下げが行なわれた。中華人民共和国が成立した後は、国のいろいろな計画は内モンゴルのためになるものだという説得のもとに国営農場がつくられた。
 そういった意味では、私のこのパターンというのは、あくまでも一九五〇年代ぐらいまでにつくり上げられた内モンゴルの状況をまとめたものです。ですから、すべてをこの二つのパターンに入れることはできないかもしれません。それ以上のパターンがあるかもしれません。例えばフルンボイルの場合は第三のパターンとも言えるかもしれません。
 私は歴史を勉強していますが、私の研究はこの一五〇年の間に、内モンゴル人は漢人社会から押し寄せてくる波に対してどういう対応をしたか、それを立体的にまとめたものです。アラシャンは、農地化されるにはまったくふさわしくない地域で、フルンボイルと異なるし、漢人と一緒には暮らせない、土地を明け渡す、あくまでも牧畜をやっていくというパターンをとらざるをえないということで、もしかしたらウランチャブに近いかもしれません。
 それから、清朝時代に発展したという点について、私は「発展」という言葉は使っていなかったという記憶があります。私の研究の中では、清朝の皇帝とモンゴル王公の特殊な関係が東モンゴルの社会平和に大きく影響した、と考えていますが、王公が北京で豪邸を構えることが発展だとは考えていません。そういう用語を使ったのであれば、それは私の日本語の問題で、私の本意とするところではありません。
 なぜ彼らは北京で豪邸を構えたかというと、北京の皇室と親戚関係にありました。北京に毎年頻繁に人が行きまして、王公の娘が皇帝の妃だったりすることが多かった。それで北京で非常に高い地位を持っていたので、北京で豪邸を構えました。でも、それが発展かというと、そうではありません。
 次に、満洲人が自分たちが漢化されて一部のモンゴル人を道連れにした、という発言ですが、ホルチン部族と満洲人との特殊な関係に道連れという言葉をお使いになるのは、私としてはよくわかりません。
 満洲人は、モンゴル人をあくまでも別の民族と見てきたわけです。中国の近代的な軍事組織がつくられたのは大体一九世紀の末頃のことですが、そのころから清朝にとってモンゴル遊牧軍団は戦略的な役割、軍事的な意味を失って、今度はモンゴルの土地を開放して税を取るというふうに扱ってきた。
 ですから、満洲人とは別の道を歩んだのではないかと思います。支配者としての満洲人とどういう関係にあったかは、また考えなければいけないことだろうと思いますが。

司会 時間が限られていますので、なるべく質問をまとめて、一緒に答えられるものは一緒に答えていただきたいと思います。

参会者 ゲレルトと申します。ボルドーさんに質問します。私はこの話を二回聞いていますが、ブフ文化の象徴的体系という図の真ん中あたりに、儀礼的空間構造というのが書いてあります。その中で生命力の強化ということを言っていますが、この生命力というのは、シャーマニズムに基づくものなのか。シャーマニズムに基づくものであるならば、シャーマニズムにおける生命力とは何を意味するのか。次に、ノトックの神の化身と言っていますね。このノトックの神というのは、具体的にはどういうものなのか。第三は、オボをどう考えているのか。オボからノトックの神になっていると、そのように考えられるのか。そして第四は、「ブフ」という言葉をどういうふうに考えているのか、お聞きしたいと思います。
 もう一つは、ユ先生にお聞きしたいんですが、ユ先生は「モンゴル民族」ということばを使っていないんですが、ユ先生は「モンゴル民族」がいつごろ成立したと考えていらっしゃるのでしょうか。

司会 それでは、ボルドーさんのほうからお願いします。

バー・ボルドー 難しい質問ばかりですが、まず共同体の生命力の強化というのはどのような意味で使っているかということですね。もちろん私はシャーマニズムとの関連で使っていますが、特に生命力というのは、ジャンガーの授与およびダルハラホ儀礼、つまり引退の儀式などとの関連から考察したわけです。
 ジャンガーは力士が首につけているものですが、ジャンガーがどのように与えられるかというと、今では業績を上げれば、行政機関から業績をたたえられて直接授与される場合がありますし、もう一つは、すでにジャンガーを持っていた有名な力士が引退するときにジャンガーを若い力士に手渡すという、二つのパターンがあると思います。
 最近はジャンガーは既製品を授与していますが、そのもともとの由来は、先ほど申しましたオボ祭りなどの小規模なブフ大会で優勝したり上位に入ったりすると、大体指ぐらいの幅のある絹の切れを渡すんです。そして六四名以上のブフ大会で優勝したら、三角の、もうちょっと大きい切れを渡す。この三角の切れを小ジャンガーと言います。小ジャンガーを三回もらった力士が、絹を結んだ本ジャンガーというのをもらうんです。本ジャンガーをもらって、力士は初めてそのジャンガーをつける。そのときに、それまでの業績でもらった細い絹の切れや三角ジャンガーを全部それにつけるんです。それがジャンガーです。
 なぜジャンガーを授与するかというと、オボ祭りは本来シャーマニズム的要素を持っているんですけれども、広い意味ではテンゲル、つまり天神を祭ったりすると言われています。より狭い意味では、小規模な遊牧共同体が一つのオボを所有していまして、それを祭るわけです。そのときにこれは土地の神様、その遊牧地域の神様だと、非常に具体的な意味で認識しているわけです。
 雨乞いの祭りという解釈もされていますが、私の理解では、オボ祭りはその共同体の一つの宗教儀礼であると思います。ですから、オボ祭りをするときに土地の神様にヤギや羊や馬などをいけにえにするわけです。殺さずにそのままささげる。そのとき、ヤギなら首に、馬ならたてがみに五色の絹切れをつけるわけです。その絹切れはセテルと呼ばれ、セテルをつけた家畜は神聖な家畜として、その後なぐったり殺したり売ったりすることは許されず、つまり神のものとして野生化されます。それが死んだときには、同じ色の家畜と取りかえます。あるいはそれが年を取ってきたら、同じ色の家畜を並べておいて、セテルを取りかえる。それらの儀礼はセテルレホと呼ばれます。
 前回の発表のときにもゲレルトさんはそういう質問をされて、セテルレホというのはそもそもチベット語から来ているとおっしゃいましたが、W・サインチョクトさんもチベット語から来ていると言っています。一言で言えばセテルレホには神霊化とか、寿命を延ばすとか、あるいは生命を吹き込むとか、そういう意味が含まれているわけです。
 もう一つ、シャーマニズムの儀礼で、オンゴラホというのがあります。オンゴラホは、祖霊を意味するオンゴンを動詞化したものですけれども、その本来の意味が若干変わったものではないかと思います。
 ですからオンゴラホ、セテルレホ、ダルハラホなどは、いわゆる聖別するという意味で、地域によってその意味が微妙に違うこともありますが、全体としては聖別するという意味があります。力士のジャンガーも最初は、オボ祭りのセテルのように聖別との関連から来ている。力士が聖別されることによって、土地の神様の化身として見られるということ、これは江上さんの研究でも言われていることですが、そういうことで共同体のシンボルである力士にジャンガーをやって、その共同体の生命力を強めていく、ということになると考えられます。
 もう一つ重要なのは、オボ祭りで他の共同体の力士に優勝されると、その共同体は弱まるというので、その力士を共同体の境界あたりで殺して、その力士をオボの下の埋め物として埋めるんです。万が一それが成功しなかったときには、その力士がいる土地の象徴的なものを盗むとか、そういうことがあります。ですから、これは明らかに共同体の生命力の強化・再生儀礼です。
 オボ祭りのことはその関連で申し上げたのですが、ブフというものをどのように思っているか。ブフの語源は、私はあまり考察したこともないし、言語学的にどう解釈するのかわかりませんが、今では少なくともモンゴル相撲の競技そのものと力士という、両方の意味を持っています。特に日常生活の中ではブフというのは力士を指す場合が非常に多いのですが、モンゴル人は、どの場合が相撲でどの場合が力士かということをその場その場でうまく使い分けられるわけです。
 そして、これは偶然かもしれませんが、モンゴル語でシャーマンを表す言葉は、「ブフ」と書いて「ブー」と言います。モンゴル文字では読み方は違っていますが、書き方は全く同じです。それがどのような関連を持っているかは、私はまだ考察していません。静岡大学のヤンハイイン先生のお話によると、オルドスあたりでは力士のことを「ブー」と言ったりするということなので、たぶんこの二つも何かの関連があるのだろうと思います。

ユ ヒョヂョン 大変難しい問題を提起されたと思います。
 モンゴル人の形成について一般的にいわれているのは、一三世紀にチンギス・ハーンが登場しまして、それまでモンゴル高原にいたさまざまな遊牧集団を一つにまとめた結果として、モンゴル人が生まれたということです。ただ、私から見てこの説明には少し無理があるように思われます。この際、私が問題にしているのは、そうやって出来上がったとされる「モンゴル人」がすぐに各地に出かけていきはじめ、中には高原に戻れずに散らばったまま今日に至っている人びとが多いという事実です。つまり、モンゴル高原にいたさまざまな遊牧集団がチンギス・ハーンの登場を契機に一つの大きな集団として新たに形成されたという説明そのものは、それとして説得力をもっているのですが、そうやって出来上がったものがはたして「民族」なのかということが問題なのです。
 民族の形成をめぐってはさまざまなことがいわれているですが、どの説明にしろ、「民族」というものは、どこかの会社の株主総会や和光大学同窓会みたいに、短時間で簡単に出来上がるものではない。とすると、チンギス・ハーンによってまとめられて出来上がったといわれるものは、「民族」そのものではなく、いずれそれにたどりつくかも知れないというぐらいのものだったと考えるべきではないか。
 それにしても、出かけたところでそのまま散らばっていた人びとが今日に至るまでずっと自分は「モンゴル人」だという意識を保ってきたというのは、やはり簡単なことではない。
 ここで一つ思い出したいのは、いわゆる「自称モンゴル化」というものです。つまり自らをモンゴル人だと思いたい気持ち、そのための努力やふるまいということですが、モンゴル高原以外の地に散らばった人びとのなかには、こうした「自称モンゴル化」の過程が長い間続いてきたといえるのではないでしょうか。そしてこの過程こそ、彼らが「モンゴル人」として形成される過程そのものだったといえるのではないでしょうか。もとより、このプロセスにおいては「モンゴル化」とは逆の方向への歩み、つまり他の民族への合流や、あるいは個別の民族としての歩みも同時にあったはずです。とすると、チンギス・ハーンによって「モンゴル人」の形成に向けての端緒がつけられて以降今日に至るまでの歴史は、「モンゴル人」の形成過程であると同時に、その解消、そこからの離脱をも含んだ過程でもあったといえるのではないでしょうか。こうした意味から、私は、モンゴル人はチンギス・ハーン以来形成されつつある、と同時に消滅しつつもあるといえると思います。
 以上が、ゲレルトさんのご質問に対する取りあえずの答えですが、ここに少し補足をするために「飛び地の捨て子」の状況についてもう少し触れたいと思います。先ほどもお話したように、いま話題になっているアフガニスタンにもハザール人とモゴール人という名の「モンゴル系」の民族集団がいます。ハザールは、いわゆる「北部同盟」側についているというか、その中に入っていると伝えられています。これに対してモゴールは、「北部同盟」とは敵対しているタリバンの中核をなすパシュトゥーンの居住地域にいます。もとより、モゴール人の存在が最後に確認されたのは一九五〇年代であり、いまもかれらがモゴールとして存続しているかどうかは分かりません。
 この二つの民族集団は、いずれもモンゴル帝国時代の屯田兵の末裔であったとされていますが、モンゴル草原の出でないことは明らかです。こうした例は他にもありまして、現在、五五あるとされる中国の「少数民族」のなかでそれぞれ個別の民族として認定されている東郷(トンシャン)、土(トゥ)、保安(バオアン=ボウナン)、裕固(ユーグ)、達斡爾(ダウール)などの諸民族は、モンゴル語系の民族として一括されることもありますが、言葉以外の面でも、チンギス・ハーンまたはモンゴル帝国と深い関係をもっている場合もあります。東郷族は元代の色目人軍隊の末裔とされていますし、土族の自称の(チャガン)モングォルは、白いモンゴルという意味で、これは高原のモンゴル人をハラ(黒い)モンゴルと呼ぶことに対する対概念として生まれたといわれます。しかしかれら土族の祖先はモンゴル軍団内の外人部隊とされていて、これも高原のモンゴル人、つまりチンギス・ハーンによってモンゴル高原でまとめられた人びとの末裔ではないのです。この人びとの中にも「自称モンゴル化」は行なわれていたと思われますが、しかしそれが例えば雲南のモンゴル人などに比べてかなり低いものであったからこそ、それぞれ個別の民族としての「識別」につながったと見るべきでしょう。中国の「識別工作」が、どの民族の場合においても客観的な事実や状況に応じていつも緻密に行なわれたとは必ずしもいえないということは私も承知していますが、しかしだからといって丸っきりデタラメなものであったとはとうていいえず、やはりそれなりに真面目な作業の結果であると見るべきだと思います。もっとも「識別工作」が、その意図が何であれ、結果で近隣関係にある小さい諸民族を、かなり距離のある他の諸民族と同じく扱い、それぞれ別々のものとして認定したために、近隣関係にある諸民族同士が連合して生きる道をかなり困難にしたことは否めませんが。
 以上のような理由で、私は、モンゴル国や日本のモンゴル研究者のほとんどが、今紹介した「モンゴル語系」の諸民族をも一括して「モンゴル人」としてみなし、その個別具体的な状況をあまり重視しないことに対しては感心しません。そう考えることに積極的な意義はあまりないと考えるのです。繰り返しになりますが、その関係性に着目しつつも、あくまでもそれを固定的に考えるのではなく、可変的なものとして捉え、その変化、変容そのものをより綿密に見ていくことこそ、モンゴルを見る上でも、そしてそれを通して民族や民族生活一般を見ていく上でも大切だと思います。

司会 それでは、最後の質問にいたします。どうぞ。

参会者 総合研究大学院大学の西村と申します。とても興味深いお話をどうもありがとうございました。
 ボルドーさんにちょっとお伺いしたいんですけれども、これは全く個人的な興味から出てきたもので、あまり本質的な問題ではないのかもしれませんが、話の中で強豪力士の屍盗みという話がありました。それで、ふと思いついたのは、『モンゴル秘史』の中でシャーマンのデブ・テンゲルがございますね。その後、力士の死体がなくなります。あの事件そのものを、例えば東京外大の蓮見先生などは聖俗革命の一つであるととらえられて、僕らもそう習ったんですが、その考え方をしますと、とても強い力士が亡くなる、もしくはシャーマン系の人間が亡くなるということは、当時とすれば本来的な罪であったはずなわけですね。ところが、その罪を隠すために屍隠しをした。そしてさらにそれに何らかの意味づけをして、先ほどのお話にあったような、強い力士が亡くなったときにああするこうするという話が全モンゴル的に広がっているというお話でしたので、そちらとの関係性は考えられるかどうか。それが一点です。
 もう一つは、非常に瑣末な問題なんですけれども、力士の入場のときに鷹の舞い、獅子の跳躍、ラクダの小走りというのがあったと思うんですが、ラクダの小走りというのが僕は理解できないんです。なぜかといいますと、ラクダはすごく獰猛ですね。僕ら外国人が見ていると獰猛さを象徴するシーンとしては、発情期に入るとすごい勢いでもって首で押さえ合いしますね。そんなシーンしか思い浮かばないんですが、モンゴル人にとってラクダの強さというものを象徴するときに、小走りというものがどういうものであるのか、ちょっと興味があります。
 もう一点、モンゴルデールがありますね。普通ですとモンゴル人はデールを着てブフをやります。あれは帯がついていますね。今、草原の人たちが相撲をやろうといったときには、デールはぬぎませんね。大抵はすそを巻き上げて、帯で巻き直して相撲を取るわけです。みんながみんな相撲の衣装を着るわけではないわけです。持ってもいないわけですから。
 そうなると、相撲の衣装はいつどういう形でああいう形になる必然性が出てきたのか。もしかすると、最初におっしゃったように、   帯をただ腰に巻くだけの形が最も古いものではなかったかということでしたが、そういう関係があるのではないかと思ったんです。
 ブフの衣装というものは何なんだろうか。これは余談ですが、僕が別の方から聞いた話では、シャーマンの衣装と非常に関係があると。さっきボルドーさんもおっしゃいましたが、シャーマンとブフ、オボとブフ、この二つが同一であったという可能性は捨てられないという話がありましたが、シャーマンの衣装とブフの衣装との関連性について、何か考えられることがあるのか。その点についてお聞きしたいと思います。

バー・ボルドー まず第一のご質問ですけれども、力士の屍盗みと『モンゴル秘史』の中に出てくるシャーマンの遺体失踪というか、いなくなったということが関係性を持つかどうかはっきり分かりません。
 『秘史』にはブフに関する記載が数カ所あります。最初のは、チンギス・ハーンがある日、異母弟のベルグテイとジュルキン部族の国の相撲取りだったブリ・ボコという力士とでブフを取らせ、ブリ・ボコを殺すという記載です。その後に、ジュルキン族はすっかりチンギス・ハーンに服属してしまうわけです。
 二回目に出てくるのは、シャーマンを殺すくだりです。そのシャーマンというのは、当時の非常に大きなシャーマンの一人で、国の中に多くの勢力を作ってチンギス・ハーンの権力を脅かすまでになっていました。「今度はチンギス・ハーンの弟のハスルが大ハーンになるだろう」と予言をしたりしていました。またハーンの末弟であるオッチギンの領民がそのシャーマンを信仰し、彼のところへ行ってしまいます。領民を取り戻しに行ったオッチギンは逆にシャーマンに辱められてしまいます。それを泣きながらハーンに訴えると、ハーンはシャーマンの殺害を指示します。そしてシャーマンがハーンのところへ来た際に、オッチギンは三人の力士を伏せておき、「じゃあ、力を試そうではないか」と言って、シャーマンを外へ引っ張り出して、力士に殺させてしまいます。
 これは先ほどのブリ・ボコを殺すのとまったく同じ手口です。なぜ殺すことが可能かと言いますと、一三世紀のブフというのはボホノーロルドンのスタイルでして、レスリングのように両肩を地面につけて勝負をつけることになっていましたので、その過程で殺傷がかなり一般的だったと考えられます。
 シャーマンを殺した後にオッチギンは「このシャーマンは情けない、ブフを取ろうとしているのに取らないで寝ている」と言ったんですね。しかし、それは天下のシャーマンですから、殺したからには何か別の手段を取らないと大変なことになります。ですから、シャーマンの死体をゲルの中に入れておきますが、その三日後にゲルの天窓から死体が失踪します。チンギス・ハーンは、そのシャーマンがテンゲルに愛されなかったので天罰が下ったと結論付けます。それは蓮見先生がおっしゃった、チンギス・ハーンを正当化するものです。つまり、ブフを利用して殺すことと、天罰という二重の理由をつけたのです。しかし、それが屍盗みと関係があるかどうか、ちょっと分かりません。
 二番目のご質問ですが、ラクダの小走りというのは、モンゴル語では「ボーリン・ショグショー」と言います。おっしゃるように発情期になると泡を吹き出すわけですけれども、ラクダというのは、最初は意外と走りがのそのそと遅いんです。力士にとっては、入場するときの助走、ライオンの跳躍に移るまでの一つの助走なんです。そのときに走り方を少しラクダに似せていく。そういうものです。アルシャ・ブフには、シルトリグという、発情期のラクダが首で相手を押さえるという意味の技があります。
 次に、デールのことですが、文献的なものでは、どの時代にコスチュームができたかということはあまり確認できないんですが、モンゴルのG・エルデニという研究者が、八世紀から一六世紀の間、かなり幅がありますが、八世紀以降にできたのではないかと指摘しています。八世紀ごろは野生の鹿などの皮をなめして、まん中に頭が入るほどの穴をあけて、上からかぶっていたと言われています。それをはたしてブフのコスチュームとして見ることができるのかどうかというのは、私は疑問に思いますが、しかし、専用のコスチュームができた時点で相撲が一つの競技として成立したということは確かだと思います。
 特に内モンゴルのウジュムチン・ブフの場合、コスチュームにシャーマンの服に類似したものがあります。例えば鋲や鉄などが入っているのは、シャーマニズムの霊的なものを受け入れるコスチュームと似ていると思います。腰につけるレブルというのも、青、赤、緑と、三色あるわけです。一番上がテンゲル(天神)で、真ん中は燃えさかる火を、緑は大地を象徴しています。
 私自身は、シャーマンの服装との関連で考察していきたいと思っており、とても興味深い問題だと考えています。

司会 三人の先生、どうもありがとうございました。随分長時間のシンポジウムになりましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。


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