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特集2◎多様化の進むモンゴル世界

「飛び地の捨て子」か「新モンゴル人」か

中国雲南のモンゴル族

ユ ヒョヂョン・本学人間関係学部教授


 最後の報告者は、本学のユ・ヒョヂョンさんです。ユさんは東北アジアを主なフィールドとして民族関係を多面的に研究しておられます。一九九五~九七年にはユさんを中心に「和光大学モンゴル学術調査団」という多国籍教員グループが形成されてモンゴル各地を歩きました。一九九九年にはその成果が『変容するモンゴル世界』(新幹社)としてまとめられています。ある意味で本日のシンポジウムはその経験に端を発しています。そして今日、そのときにご協力してくださった方々も含めて多くのモンゴル人留学生が出席下さっているのもそのおかげだと言えます。


――「走馬看山」の旅から
 わたしの話のタイトルは、「『飛び地の捨て子』か『新モンゴル人』か」という疑問文になっていますが、といって、この問いに対する答えをわたしが与えるということではありません。話を聞きながら、あるいはわたしの話をきっかけにみなさんで考えてみてほしい、そうすることによって、民族や民族生活をめぐる諸状況をもっと広い文脈で考えることができるのではないかと思います。このタイトルにはわたしのそのような願いが込められています。
 今年(二〇〇一年)の三月にたった一日だけでしたが、中国雲南省のモンゴル族の集住地域に行ってきました。「走馬看山」、馬を跳ばして山を見る、これは朝鮮のことわざですが、中国にも同じ意味の熟語で「走馬観花」というのがあります。大ざっぱにさっと見るという意味ですが、まさにそのようなものでした。ちなみに、日本語にはこの意味の熟語がないようです。日本では物事をそうは見ないということでしょうか。
 短い時間でしたが、それでもそれなりに得るものがあったと思います。行く前から書物などを通じてある程度の知識は持っていたのですが、それらからはなかなかつかみにくいものにも多く接することができたと思います。やはり現地を直接見て歩くのは重要だと思いました。
 現地で確認できたことの一つとして、おそらくそこで使われているといわれる「モンゴル語」は、他の地域のモンゴル語とはかなり異なるものだろうということがあります。わたしはまだモンゴル語がほとんどできないのですが、それでも「サインバイノー(「こんにちは」)」は知っていまして、村のモンゴル族らしき人に会うたびに「サインバイノー」「サインバイノー」と話しかけて見ましたが、一人も反応を示してくれませんでした。
 この点を含めて、これから雲南のモンゴル族の状況をお話ししていきますが、その前にわたしの問題関心について少しだけ触れておきたいと思います。
 わたしが、雲南に行ったり、あるいは先程報告をなさったブレンサインさんのところなどモンゴル人の住んでいるいろいろな地域に出かけたりしているのには、各地には、モンゴル人またはモンゴル族と呼ばれながらも、決してひととおりではない相異なる多様な姿があるからです。わたしとしては、モンゴル人、モンゴル族がなぜあれだけ多様な姿を示すようになったのか、逆にそれだけ多様なものになっているにもかかわらず、いまなおモンゴル人、モンゴル族という枠組みのもとで括られ、また本人たちがそのような意識を持っているのはなぜなのか、といった問題を考えたいのです。
 この意味で、わたしの問題関心は、先程農耕化地域の状況を報告されましたブレンサインさんと共通しているものがあると思います。ただ大きく違っているところもあります。それはブレンサインさんが取り上げられた地域は、いわゆる本土に当たるモンゴル高原地域であるのに対して、ここで取り上げるのは、本土から出かけた、離れていった人びとの話であるという点が大きく異なります。


――雲南モンゴル族の歩み
 まず、二〇世紀に入ってからの雲南のモンゴル族の状況変化を見るために、人口の推移を見てみたいと思います。後でお話しする集住地の通海県には、一九四三年の段階で、約三〇〇〇人の「モンゴル人」がおりました。この数は、その一〇年後の五三年でもあまり変わっていません(約三五〇〇人)。この段階の雲南省全体の「モンゴル人」も同じく約三五〇〇人ですから、通海県のモンゴル人がそのまま雲南省全体の「モンゴル人」の数であるといえます。つまり、この時までに通海県以外には「モンゴル人」が「いなかった」ということになります。人口数を含めたこうした状況は六四年の第二回国勢調査においてもほとんど変わりません(三六五二人)。大きな変化は八二年(六二一一人)から九〇年(一三一四八人)までの八年間に起こります。もとよりこれは雲南省またはモンゴル族だけに限るものではなく、中国の少数民族全体に見られる共通した現象ですが、人口が倍以上に増えています。
 この中でとりわけ注目されるのは、通海県以外の地区でのモンゴル族人口の急増ぶりです。この期間中に通海県の人口変化は、ほぼ横ばいか微増くらいだったと見られます。とすると、それを除いた数はそのまま通海県以外の地区で新たに「発見された」数ということになります。つまり、通海県のモンゴル族の人口を上回る数の人びとがこの八年間に「民族成分」を認められて、族籍変更を行なったということです。
 それではこのように新たに「発見された」人びとを含めて、モンゴル高原から遠く離れたここ雲南の地に「モンゴル人」がこれだけいるのはいかなる事情によるものなのか、その歴史を簡単に見てみたいと思います。

 「雲南蒙古族は七〇〇余年前、従軍して雲南にやってきたモンゴル人の末裔。一二五二年、チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンとその弟フビライは、一〇万の蒙古兵を率いて雲南に進攻、迂回して中原を包囲し、南宋を滅亡させる戦略行動を成功させた。宋の滅亡後、元朝は交通の要衝、軍事上の要地である曲陀関(現在の通海県)に宣慰司都元帥府を設置し、内地の行政機構に組み込むとともに、雲南南部の広大な地域を統治させた。元朝が雲南を統治した一二八年間(元朝が中国南部を統治した期間にくらべ三八年長い)、曲陀関は繁栄をみた。一三六八年、明朝が成立したが、雲南に駐屯していた数万の蒙古兵は北へ帰ることができず、ついにこの地に居ついた」。

 これは、日中共同出版の形で日本で出版されている『雲南の少数民族』[注1]という書物の記述ですが、中国発行のほかの関係文献にもほぼ同様の記述がされています。
 元朝を滅ぼした明朝は、今のことばで言いますと漢民族主義というものが非常に強い政権でした。それだけにそれまで自分たちを支配していた異民族王朝の末裔であるモンゴルの元兵士やその子孫たちに対して厳しい差別と弾圧を加えたといわれます。そうした差別と弾圧のもとに、自らの出自を隠す、あるいはあえて言わないというような状況が生まれ、そのまま長い時間が流れたということです。
 このように、モンゴル帝国時代に広域に散らばり、出向いたところにそのまま残され、長い隠遁の時代を経ていま新たに発見されつつある人びとを「飛び地の捨て子」と呼んだのは、中国出身のモンゴル人学者で現在は日本の大学で働いている楊海英さん(モンゴルの名前は知りません)ですが[注2]、この表現が彼の創作なのかそれとも以前からすでに定着していたものなのかはわかりませんが、なかなかうまい表現だと思います。ただ、この表現には、不本意に残されたという否定的なニュアンスが込められていて、わたしとしては少し抵抗を感じるところもあります。つまり調子よく出かけていったのはよかったのだが、引き上げられなかったのは残念だという思いが感じられるのです。
 いずれにしても、この「飛び地の捨て子」は雲南省のほかにも四川、山東、湖南各省をはじめ全中国に偏在しているといわれますが[注3]、かれらの再発見は、八〇年代以来の中国の新しい民族政策の賜物です。
 次は民族生活の現状についてです。彼らの民族生活は、言語文字、生活様式、生活風習、飲食服飾すべての面にわたって漢族その他諸民族に「融合」しているといわれます。この「融合」という言葉はもともとはロシアの民族学で生まれたもので、中国に翻訳語として入っていって、いまはむしろ中国においてより大事に使われている言葉です。この「融合」と並んで「融入」という言葉も使われているのですが、こちらの方が雲南のモンゴル族のように小さな民族集団のより大きな集団への同化という実態をよりよく表わしているといえるかもしれません。
 民族生活を少し細かく見ますと、まず言語文字、服飾、髪型などは彝族の影響を最も強く受けたとされています。彝族は中国東南部の少数民族のうちチワン族に次ぐ多数民族で、中華人民共和国建国までは「夷人」などと呼ばれていました。一方、生産道具や技術は漢族からの影響を最も強く受けたといいます。お祝い事なども彝族と漢族から多くのものを取り入れていて、清明、端午なども比較的盛大に行なわれている。[注4]


――興蒙モンゴル族郷
 次に、集住地域の通海県興蒙モンゴル族郷についてもう少し詳しく見て見たいと思います。
 ここの由来についてはだいたい次のように説明されています。ここは、元代の曲陀関の近くの鳳山の麓で、杞杞麓湖畔に位置し、モンゴル支配が続いた当時、一部分のモンゴル人が定住しており、元滅亡後、「本帰」できなかった人びと、つまり本土に帰ることを試みながらもついに帰れなかった人びとが群をなして住みついたのが集住の始まりとされます。彼らは漁業を営んでいたので「三漁村」という名が自然に付くようになったといわれますが、漁業だけなく、畑や水田をつくって農民として新しい道を歩み始める人びとも多かったといいます。ここからうかがえることは、草原の遊牧民からの転身は徐々にではなく、短い期間で一気になされたということだろうと思います。
 清朝の初期頃の一七世紀前半には、この辺りは「三漁村」と呼ばれていました。上、中、下の三つの村からなっていたのですが、このうち上村はその後次第に漢化し、現在の民族郷は中、下の二村地域にできたもので、郷の住民はほとんどモンゴル族です。
 この郷の歴史を簡単にふりかえると、一九四九年以前は河西県仙崖郷に属していました。それが五〇年に河西県第二区下漁郷に、そして五一年には河西県第二区「興蒙蒙古族自治郷」になりました。この五一年は、中華人民共和国建国後、精力的に推し進められました新しい民族政策の中で、民族識別工作というものが本格的に始まった年です。この識別工作とは、「区域自治」という中国式の民族自治を実現するために必要とされたものです。つまり、各級行政権力機関(政府機構と人民代表大会)にどの民族からどのぐらいの代表を出すべきか、また特定地方において集居度の高い民族に対しては、その地方を民族自治地方政府として形成しうる条件があるか否かを判定する必要から、特定民族を自称・他称する集団が、実際に一つの個別の民族なのか、それとも別の民族の一部分なのかなどを判定する作業でありまして、民族の名称を確定する作業が含まれます。現在、五五とされる中国の「少数民族」は、実はこの工作によって、現在までに個別の民族として認められた数が五五であるという意味であり、よく誤解されているように、最初から決まっていたものでは決してありません。
 いずれにしても、ここで重要なのは、この民族識別工作の開始の時点で、すでにここの行政区域名に「蒙古」というのが入っているということです。これは、すなわちここの人びとがモンゴル人としての認知を受けていたということを意味します。
 実は中国のモンゴル系またはモンゴル語系の人びとの中にはこの「識別」作業にかなり時間がかかった例も多く、ダウール族のように、「ダウール・モンゴル人」という形で、民族集団内に自らをモンゴル人と考える人びともいたにもかかわらず、最終的には別の民族としての認定を受けた例もあります。こうした例と比較してみてもこの点は際立っています。
 早い段階で漁民や農民への転身をとげたにもかかわらず、そしてそれから数百年という長い時間が経過したにもかかわらず、ここの人びとがモンゴル人としてずっと認知されてきたということは、まず本人たちが自らがモンゴルの末裔であるという意識をずっと保ってきていたし、周りの他民族もそのことをつねに意識してきたということだろうと思います。
 これに対して最近、モンゴル族としての族籍を「回復」したその他の地域の「モンゴル族」の場合は、本人たちの意識だけがモンゴル人であることの支えであったことになります。この点とも関連して多くの書物に共通して強調されている次の言葉は非常に印象的です。「他の諸民族との交流の中での雲南モンゴル族の変化は非常に深い。しかし、歳月が祖先や発祥地に対するかれらの記憶を侵食することは決してなかった」。
 興蒙モンゴル族郷の民族生活にかかわって興味深いと思われることを二、三付け加えておきます。一つは、この郷が「建築の郷」と呼ばれるぐらい建築、土木技術に優れた人材を多く輩出しているということです。その由来ははっきりしませんが、「建築の郷」という名声はかなり古い時期からのものらしく、中華人民共和国建国後も、この伝統は続いていて、外国にまで呼ばれていって大きな建物を建てているといわれます。
 もう一つは食文化にかかわるものです。興蒙モンゴル族郷にしかない珍味とされる料理として「太極黄」というものがあります。「黄」とは田ウナギのことです。といってもご存知じゃない人もいらっしゃると思いまして『広辞苑』を引いて見ました。「田鰻 タウナギ科の淡水産の硬骨魚。全長八〇センチメートル。体はウナギ型であるが、胸びれ・腹びれがなく、ウナギとは遠縁。沼や水田にすみ、空気呼吸ができる。三〇センチメートルを超えると、雌から雄へ性転換する。東南アジアに広く分布、また近畿地方を中心に分布」と書かれていました。
 「太極黄」の料理法を簡単に紹介しますと、数日間水の中に置いておいて、お腹の排泄物を出させた後、生きたまま深い中華鍋に入れて蓋をして火の当たる位置を変えながら徐々に焼いていきます。八分がた火が通ると、蓋をはずして葱などの野菜と激辛の香辛料を入れて、蒸す感じで再び加熱して出来上がります。わたしはそれを郷が経営する招待所の食堂で食べてみたのですが、まあそれなりに美味しかった。ちなみに羊は基本的に食べられていないようで、それを飼う人もいない感じでした。
 これらのことは、雲南モンゴル人の現在の暮らしがいかに本土から離れているかを示しているものといえますが、そうしたなかで本土の文化を精力的に取り入れて、モンゴル的要素を取り戻そうとする動きが、モンゴル人の「再発見」という動きと並行して八〇年代以来非常に活発になっているようです。
 こうした動きは主に内モンゴルとの相互往来を中心に行なわれてきたようです。八一年に盛大に催されたナーダムは、じつに数百年ぶりのもので、この時は内モンゴルから大掛かりな代表団がきて、指導にあたったようです。その後数年間は毎年のようにナーダムが行なわれましたが、八〇年代後半以降は開催の回数がだんだんと減ってきているような感じです。ここのナーダムの特徴として、望郷の念といいますか、祖先への思いというものを強調するところがありまして、どちらかといえば、娯楽性が強い本土のナーダムとは一味違っているといわれます。ナーダムを夏ではなく、基本的に一二月に開催するという点も大きな違いです。
 北京の中央民族大学をはじめとする各地の教育・研究機関に学生を留学させて、モンゴルの伝統文化や言語を勉強させたり、かれらが地元に帰って学校でモンゴル文字やモンゴル語を教えるといったことも八〇年代以来の新しい動きですが、この民族教育の詳しい状況はよくわかりません。
 以上、現地訪問で得た知見を含めていままで知り得た情報を中心に雲南のモンゴル族の状況を簡単にご紹介しました。


――「飛び地の捨て子」か「新モンゴル人」か
 最後に、わたしが、こうした状況を伝える報告のタイトルを「『飛び地の捨て子』か『新モンゴル人』か」とつけたことにもかかわった補足を少ししておわりにしたいと思います。
 そのために、まず思いだしたいことの一つは、八〇年代以降に多くの人びとが新たに「モンゴル族」として「再発見」され、認められたことの直接の前提であり、背景をなしたのは、新しい「民族政策」であるという点です。この民族政策は、先にも触れたように、民族や民族生活、または民族の自己主張が不当に抑圧され、無視されてきたことに対する否定からでたものであり、その点でまさに民族生活の自由化を目指すものですが、しかしだからといって、それらがそのまま自分の本来の民族籍ではなく、それまで他の民族の中に入れられていた人びとが民族籍を取り戻そうとする動きにつながったのではありません。よくいわれているように、大きな意味をもったのは、いわゆる「少数民族」に対する一連の優遇政策というものであり、それがあったからこそ民族籍の大量の回復の動きがあったという点が重要であると思います。つまり、民族籍を取り戻すことにともなって期待できる実益というものの存在がなかったら、そこまで多くの人びとが族籍を取り戻そうとすることはおそらくなかっただろうと思います。
 とすると、こうして民族籍を取り戻した人びとの中には民族意識の面では必ずしも強い「モンゴル人」意識を持たない人が含まれていた可能性も高く、また、「モンゴル人」ではないのに、うまく偽って「モンゴル族」に入った人がいる可能性もある。もとより、こうした可能性は、あらゆる「民族」の形成においていえることなのかも知れません。現に、こうした例は、他の国にもあります。ソ連崩壊を前後した時期にロシアからイスラエルに「帰った」ユダヤ人の中には多くの蕫ニセ﨟ユダヤ人がいたといわれています。いずれにしても、この点は「飛び地の捨て子」のなかみを考える上で、無視できない重要な側面であると思います。
 この点とも関連してもう一つ重要なことは、この新しい「モンゴル人」の今後の民族意識、または民族生活のゆくえです。実は、この雲南の「モンゴル族」のように、数百年という長い期間を、違う民族として暮らしてきたのち、最近になって民族籍を取り戻し、その民族らしさを回復しようとしているケースは、他にも多くあります。朝鮮族にもこうした例があります。八二年に遼寧省と河北省の三つの村で、二~三〇〇人ぐらいの村人ほぼ全員が漢族および満族から朝鮮族への族籍変更を申請して、ほとんど認められました。この人びとは、一七世紀、明清の交代期に明の求めに応じて送られた援軍や、その後、清が朝鮮を武力で屈服させたのち連行していった人びとの末裔とされる人びとです。彼らが朝鮮族として認められた直後の八〇年代前半までは、雲南のモンゴル族と同じく、吉林省延辺朝鮮族自治区など他の地の朝鮮族「同胞」との間に活発な交流があったのですが、最近はそれがかなり下火になっているような感じです。
 雲南のモンゴル族と遼寧省などの朝鮮族などに共通して見られるこうした一連のプロセスは、民族籍を取り戻したからといって、彼らの民族生活が、モンゴル族、朝鮮族であることを当たり前のこととして認められてきた人びとの民族生活にそのまま戻っていくものではない、ということを示していると思います。逆に、モンゴル人、朝鮮人であることを認められたことが、民族に対するこだわりや、モンゴル人または朝鮮人らしき民族生活へのあこがれをむしろ一気に薄れさせていく一つの大きなきっかけとなるかもしれないとわたしは思ったりもしています。しかし、そのような場合においても(ニセのモンゴル族やニセの朝鮮族を含めて)、彼らが「モンゴル族」「朝鮮族」であることには違いがなく、その意味で、彼らは族籍変更という行政手続を経てモンゴル人や朝鮮人の中に新たに加わった「新モンゴル人」「新朝鮮人」なのだといえるかもしれないと思うのです。
 ただ、こう言うからといって、雲南のモンゴル族を「新モンゴル人」と呼ぶべきなどと主張するのではありません。逆に、わたしはかなり個性的な歩みをしてきた民族集団を、あえてある固定的な名称や枠組みで捉えようとする見方や姿勢に対して、どちらかといえば抵抗を感じる者です。わたしがそれより重要だと思うのは、むしろその個性の側面です。彼らはどういう出自をもっており、その後どういう過程をたどって現在に至っていて、どういう暮らしをしているのかを丁寧に見ていく姿勢、そしてそこから出発して彼らと出自を共にする人びととの関係性をも捉えなおしていく姿勢だろうと思います。


*1 『雲南の少数民族』日本放送出版協会、中国雲南人民出版社、一九九〇年。
*2 楊海英「『飛び地』の『捨て子』」『(季刊)民族学』第六六号、一九九三年。
*3 栄盛『在祖国的懐抱――祖国各地蒙古族探索』内蒙古人民出版社、一九九六年、など。
*4 馬世『蒙古族文化史(雲南少数民族文化史叢書)』雲南民族出版社、二〇〇〇年。


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