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特集2◎多様化の進むモンゴル世界

農地化から沙漠化へ

ブレンサイン・早稲田大学モンゴル研究所客員研究員


 次の報告者はブレンサインさんです。ブレンサインさんは一九九二年に内モンゴルの通遼市から日本へこられました。文教大学の研修生をへて早稲田大学大学院で東洋史を勉強されて、二〇〇一年に博士論文「近現代におけるモンゴル人農耕村落社会の形成――内モンゴル東部の事例研究」を仕上げて文学博士号を取得しました。現在、早稲田大学モンゴル研究所客員研究員です。


――問題提起
 ご紹介いただきましたブレンサインです。
このタイトルとレジュメの内容が必ずしも一致しないということに、つい先ほど気づいてしまいました。タイトルは、ユ先生からこういう話をしてくれないかということでつけたのですが、どうも沙漠化のことがあまり出てこないような気がしています。私としては、きょうは主に内モンゴル東部の農地化された社会に対して、自分の今までの研究から、ちょっと抽象的な位置づけをしたいと思います。
 みなさんモンゴルというと、「じゃあ、ゲルに住んでいるんですね」、「遊牧ですね」と言われますが、その現状をいちいち説明するには一時間ぐらいかかります。
 モンゴルは、今までずっと「遊牧」、「騎馬民族」という一言で片づけられてきました。しかし、現実を直視して、モンゴル人が居住している世界をみますと、ものすごく多様化が進んでいます。その多様化は何もこの数年間に始まったものではなくて、二〇世紀の初頭ごろから進んできています。この点をそろそろ客観的に見なければならない時期に差しかかっているのではないか。そう思っています。

 多様化したモンゴル世界を直視する必要性
 二〇世紀、モンゴル人は分断と多様化の世紀を過ごしてきました。
 清朝の崩壊によって、ハルハ=モンゴルは独立を果たしましたが、ブリヤートと内モンゴルはそれぞれロシアと中国という二つの大国に、それまで以上に組み込まれていったわけです。そして、モンゴル人居住地域は大体社会主義圏に入れられてしまいます。社会主義というのは、将来的には民族というものがな くなって、みんな同じ民族になるんだというイデオロギー的なものを唱えました。それを一番単純に信じたのがモンゴル人なんです。ですから、民族の利益などはとりあえずはいいだろうと。しかし、そのうち社会主義がどうもあやふやになってくると、自分の原点というものをまたあわただしく探し求める。そういうジレンマにおちいってきました。
 また、内モンゴルに限って言いますと、八〇年代頃から始まった市場化の流れの中で、発展のチャンスに恵まれないまま資源が失われてしまい、貧困化も目立ってきました。開発と近代化の波にさらされた今のモンゴルは、もう「騎馬民族」という一言では表わせない世界になってしまった。きょう、問題提起したい第一点目です。

 東部内モンゴル地域の特殊性への興味
 次に、モンゴル人世界からみた、東部内モンゴルという地域の特殊性に着目したいと思います。今、世界で暮らしているモンゴル人は、全部合わせても一〇〇〇万人に達しません。東部内モンゴルに興安嶺という山がありまして、その山のふもとに約二〇万平方キロの土地があります。内モンゴルの全面積は一一八万平方キロで、その中の二〇万平方キロというのはごく一部ですが、そこに約二五〇〜二六〇万人のモンゴル人が暮らしています。非常に狭い地域に多くのモンゴル人がなぜ暮らすようになったのか。これが一つ注目しなければならない事実であります。
 内モンゴル東部地域は、行政的に通遼市、赤峰市、ヒンガン盟という三つの部分に分かれています。通遼市は、つい二年前まではジリーム盟だったんですが、最近変わりました。赤峰市も前はジョウオド盟でした。内モンゴルでは、モンゴルの伝統的な行政を中国式の行政に変える現象が最近目立ってきています。
 内モンゴルのほとんどの旗(県に相当する行政単位)で、モンゴル人は少数民族になっています。内モンゴルというのは「モンゴル族自治区」なのですが、人口の面ではモンゴル族が少数民族です。ただ、その中で東部内モンゴルのいくつかの旗では、モンゴル人が人口の半分を超えています。例えば通遼市のホルチン左翼後旗、あるいはヒンガン盟のホルチン右翼中旗などでは、モンゴル人が七〇%にも達しています。しかも一つの旗だけでも二〇〜四〇万人いるわけです。こういった事実をいかに分析していくかということが、今日のモンゴルの一面、ひいてはモンゴル人世界がこれからどうなっていくのかなどという、いろいろなことを考える上で非常に重要ではないかと思っています。

 農耕モンゴル人村落社会の形成プロセス
 三番目の問題提起は、今申し上げたことと関連していまして、農耕モンゴル人村落社会はどうやってできたのか。そのでき上がるプロセスはどういうもので、遊牧民がどうして伝統的な長い服をぬいで農民に生まれ変わったのか。また、どのようにして農耕モンゴル人村落社会にいろいろな人種が入り混じったのか。これは非常に興味のある課題でありまして、私はこの四、五年間、ずっとこういう問題を扱ってきました。
 ここで自分の研究を少し紹介します。私は内モンゴル東部地域で五、六年間フィールド調査をやってきました。そのフィールド調査のもととなったのは、満洲国時代に、日本の行政の人たちが内モンゴル東部地域へ行って調査して残した資料です。その資料をもとに現地へ行ったわけです。一九三九年に満洲国がそういう調査プロジェクトをやりましたが、その当時の村は今はどうなっているのか。こういう出発点を持って私は東部内モンゴルにおけるフィールド調査をやってきました。
 今の東部内モンゴルに広がっている農耕モンゴル人村落社会というのは、決していきなり現れたわけではありません。いろいろなジレンマの中で、いろいろな軋轢の中で生まれたものだということがやっとわかりました。
――東部内モンゴルの将来性
 東モンゴルというのはどういう地域なのか。これについて簡単に説明したいと思います。
 残念ながら詳しい地図を用意しておりませんが、図1をごらんいただきたいと思います。東ウジュムチン旗の旗所在地から東南の方向へ行くと、ホーリンゴルという市があります。そこを通って興安嶺を超える。ハン山というのは、興安嶺のこの地域における名前です。その山を下って、魯北鎮に入っていく。そして通遼市があって、公河来というのはホルチン左翼後旗の一つのソムですが、そのわずか三、四〇〇キロにおよばない地域を旅すると、これだけの標高の隔たりが出てきます。
 興安嶺というのは、モンゴル高原と、今、私が対象にしている東部内モンゴル、この二つの地域を分断する、非常に明確な地理的な存在であると思います。公河来あたりでは標高一五〇メートルぐらいに達しています。日本ぐらいのところなんですが、残念ながらモンスーンとか海の風が届きません。ですからやはり沙漠です。ただ、地下水位は非常に高くて、一メートルも掘らないうちに水がどんどん出てきます。でも沙漠になってしまう。こういった非常に特殊な地域です。
 中国ではこの地域をホルチン草原と言いながら、同じところをホルチン沙漠と、二つの名前で指しているという、非常に理解に苦しむ地域であります。もともとホルチンというのはホルチン部族の名称ですが、徐々にホルチン部族が暮らす地域をまとめて指すようになって、今では赤峰市、通遼市、ヒンガン盟を合わせてホルチン地域と呼ぶこともしばしばあります。
 標高が非常に低い。そして、モンゴル高原と比べれば湿度が高い。興安嶺を越えたところでは、年間の降雨量は二〇〇ミリに達しませんが、興安嶺を下ったところは四〇〇ミリぐらいになります。山のふもとですから非常に温かい。こういう地理的な特徴を持っています。これがこの地域が農地化し、そして沙漠化させる一つのきっかけとなったんです。農業をできる条件がある程度そろっている土地であるゆえ、清朝の中頃から激しい農地化にさらされたわけです。
 ホルチンの王公は、みなさんご存じのように、満洲王朝がつくられる初期の段階から、満洲王朝皇室と婚姻関係が濃厚だったわけです。満洲人が北京に入る前から、ホルチン部族は満洲王朝と頻繁なつき合いをしていまして、すでに戦略的なパートナーだったわけです。ですから、清帝国がつくられるプロセスの中で、ホルチンの人たちは大きな功績を立てて、その見返りに高待遇を得ました。それによって清朝の三〇〇年近くの歴史の中でホルチン地域は政治的に安定し、人口もふえました。王公の持つ財力も、ほかのモンゴル人地域の王公に比べればけた違いのものがあって、北京に豪邸を構えたり、自分の旗でも北京の宮殿をまねた豪邸をつくったりして、莫大な資産を持っていました。
 彼らの収入の一つに、漢人の移住民を受け入れて牧地を開墾させ、そこから税を取るというのがありました。もともと清朝はモンゴルに対して、開放してはいけない、漢人を移住させないという政策をとっていましたが、ホルチンに限ってルール違反をしても黙認するという政策をとっていました。今後漢人農民を入れてはいけないが、今まで入って来た漢人は仕方がない。追い返すのも困難だろうからということでその存在を黙認して、とにかく清朝はホルチンの王公には甘かったんです。
 それを私は「私墾時代」と呼んでいるんですが、一九〇二年ごろに清朝はモンゴルに対する政策を一変させて、「新政」という政策を打ち出すわけです。国際的には、ロシアの南下だとか、日露の争いだとか、外国に対する戦争賠償の圧力だとか、そういうものに追い立てられて、モンゴルを開放することになりました。要するにモンゴルの牧草地を開墾して、漢人を大量に内モンゴルに移住させる。それがロシアの南下を防ぐ一つの方策になった。そういう政策をとってからは官主導の開墾が行なわれますが、すでにかなりの漢人が内モンゴル東部地域に入っていまして、二〇世紀の初頭ごろになりますと、一〇余りの純粋な漢人居住区である県がつくられて、モンゴルの旗から離脱されるという事態が生じました。
 中華民国になると官主導の開墾がエスカレートして、一九三一年の満洲事変によって東部内モンゴルに対する開墾がやっと足止めされました。満洲事変のときまでにすでに三一の漢人居住地域の県がつくられ、内モンゴルの旗から離脱させられ、行政的に東三省に編成されていくわけです。
 三一の県に暮らしていたほとんどのモンゴル遊牧民は、漢人と一緒に暮らすのを嫌がって、まだ開墾されていないモンゴル人居住地域に逃げて行きました。彼らの撤退は、西部地域とはちょっと違う点があります。後ほどふれますが、彼らが三一県の土地から撤退して、まだ開墾されていない地域に集まったので、人間と家畜の数が多くなって、そこでやむなく牧畜を放棄して農業をやらざるを得なくなった。そうやってできたのが今の東部内モンゴル地域におけるモンゴル人居住地域です。


――沙漠化のメカニズム
 次に、沙漠化がどういうメカニズムで起きるかということを、開墾と関連づけてお話したいと思います。
 みなさんがご存じのように、モンゴルのステップの表土は、大体三〇センチから四〇センチの多年草の根によって構成されています。モンゴルに行って、大地の断面を見ると、一番上が黒い層で覆われています。その土には、多年草が生えていまして、毎年その根から新しい草が出て、家畜たちがそれを食べて生活ができていたわけです。すき(犁)を入れて開墾すると、ちょうど三〇センチぐらいの黒い表土が耕されるわけです。そうすると多年草の根もなくなってしまう。一応黒い土ですからある程度の栄養があって、三年から五年ぐらいは農業ができます。二年目、三年目ぐらいまではいい収穫もできますが、モンゴルというのは風が強いところで、五年ぐらいたちますと風化してしまうんです。そして、表土の下に砂状の土があって、それが出てくる。そうして沙漠化が起きるんです。
 今中国では、開墾したところを牧草地に変えよう、林業地に変えようという政策をとっているんですけれども、いったん開墾された土地の多年草の表土は二度と回復できないんです。数万年かけてできたモンゴル草原の表土は草原の保護層です。ですから、モンゴルのステップはいったん開墾されると二度と回復しない。これだけは強調しておきたいと思います。
 図2をごらんいただきたいと思いますが、これは内モンゴル東部地域の状況を中心に考えた内容です。ここにある要因によって大体の沙漠化が起こされています。いろいろな要素が入っていますが、この中で特に私が強調したいことが二、三点あります。
 まず、人為的な要素の中に、開墾があります。先ほど申し上げた開墾がたくさん行なわれた。
 それから、二番目に、国営農場の乱立というのがあります。清朝時代には屯墾、屯田というものがありました。中華人民共和国が成立した後は、屯墾は旧時代の軍による屯田を指すようになっているんですけれども、建設兵団というものを内モンゴルのあちらこちらでたくさんつくったんです。彼らは中国内地からの、本当に兵団かどうかわかりませんが、とにかくたくさんの人を内モンゴルに連れてきて、国営農場を作るわけです。私はそれを新しい屯田と呼んでいますが、内モンゴルの国営農場の乱立は、激しいものでした。
 例えば一つの旗の土地に国営農場がつくられる場合、その国営農場の行政権限は、旗の副旗長の行政権限と同じものになります。ですから地元の行政の指導を受けない。独立した権限を持っているので、彼らはやりたい放題です。地方政府の制限を受けずに開墾をするわけですから、徐々にいろいろな問題が起きてきた。国営農場の乱立が、内モンゴルの今の沙漠化の大きな要因の一つであると言わざるを得ません。
 それから、もう一つは、薬材採掘という要素があります。ご存じのように中国は漢方薬の国ですから、あちらこちらで薬材をたくさん掘るわけです。その薬材は大体多年草の根ですから、それがたくさん掘られて、内モンゴルの沙漠化の大きな原因の一つになっています。
 今年、内モンゴルの中西部地域ですが、スニード・ウランチャブでは、ほとんど草が生えず、とうとう草原が風化し始めました。この地域には人の髪の毛に非常に似ている「髪菜」というのがあって、非常に高い中華料理の材料になるというので、六〇年代、七〇年代から、この地域で大量に掘られました。毎年、地元の遊牧民と草の根を掘りに来た人たちの対立はものすごいものでした。髪菜はどうやら漢字の「発財」という言葉と発音が同じなので、この野菜が珍重されたということで、とにかく漢民族のこういういわれが、モンゴルでは多くの被害をもたらしたわけです。
 人為的な要素としてはこの三点を強調しておきたいと思います。
 二〇世紀の後半には沙漠化のスピードがますますエスカレートしたということも強調しておきたいと思います。特に改革開放政策実施以後、中国内地で行なわれた請負制度を内モンゴルでそのまま実行したわけです。内モンゴルでは、八二年に家畜の分配が行なわれ、二年後の八四年に牧草地の使用権を牧民に分けようということになりました。それまで遊牧というのは一部の牧草地を休ませながら交替で使う仕組みだったんですが、限られた牧草地を各個人に分け与えることによって、家畜がごく狭い範囲から出られなくなってしまった。そして多くの地域では囲いをつくって、家畜をその中に閉じ込めたわけです。それが内モンゴルに悲劇をもたらしました。この二〇年間の沙漠化のスピードは、かつての一〇〇年、二〇〇年の沙漠化をはるかに超えるものでした。
 中国はようやく最近になって、内陸部の環境破壊を正直に語るようになりました。北京で何日も砂嵐がやまないので、とうとうここまで来たということで、中国政府はあわただしく沙漠化についていろいろな取り組みを始めました。しかし、実は沙漠化はこの二、三年の間に始まったものではなく、その元凶は内モンゴルに対する開墾と牧畜政策を誤ったことにあると私は思っています。
 沙漠化の話はここまでにして、もう少し東部内モンゴル地域に対する分析をしたいと思います。


――「モンゴル世界」の一部としての東部内モンゴル
 東部内モンゴルでは、みなさんがイメージしているような、馬に乗り、長い服装を着たモンゴル人はほとんどなく、東アジアのどこでも見かけるような短い服装をしたモンゴル人がたくさんいます。本来、「遊牧」をモンゴル人か否かの一つの基準にするのであれば、この人たちはすでにモンゴル人ではないはずです。言葉の中にもたくさんの漢語が入っています。それは方言と言いつつも、モンゴル語としては言葉が汚れています。その上、生活様式が既に漢人とさほど変わらなくなってしまった。本来ならば彼らはもうモンゴル人世界の一員ではないと、今そう見ている人も少なくありません。
 しかし、モンゴル近代史を考察してみますと、東部内モンゴルも常にモンゴル世界の一部であったということが言えると思います。ご存じのように、現在のモンゴル国であるハルハ=モンゴルの独立には多くの内モンゴル人が参加しました。その内モンゴル人というのはどういう人たちかというと、農地化と開墾が最も激しく行なわれた地域の出身者が多かったんです。その一人に、モンゴル国の独立の際にモンゴルの代表団を連れてロシアまで行って交渉に当たったハイサンという人がいます。ハイサンはまさに農地化の最前線であるジョスト盟の出身です。彼は、ジョスト盟でモンゴル人社会が危機にひんし、「モンゴル」が失われたという事実を痛感してそういう行動をとったと思います。
 彼のような人たちはたくさんいます。もう一つは、今の中国吉林省の長春という町に非常に近いところに前ゴルロスモンゴル族自治県というのがあります。かつてここはゴルロス前旗でして農地化の最前線でしたが、長春という町も含めて、もともとはモンゴル王公の牧草地だったのですが、一七〇〇年代に今の長春がつくられました。でも、その事実は、内モンゴルでは研究者以外、ほとんど知っている人はいません。そこのトクトフタイジという人は、中国軍と武装闘争をして、内モンゴル東部地域で転々と戦ったのですが、負けてしまって、ロシアに亡命しました。そして、ロシアを経由して、モンゴル国の独立のときに協力して、ボクト=ハン政権の誕生に大きく貢献しました。
 また、モンゴル国の独立のときに、内モンゴルの多くの王公が支持を表明しました。よくご存じのオタイ王の蜂起はその一つであります。
 こういった内モンゴルの農地化による民族文化に対する危機感、あるいはその反動がモンゴル国の独立につながったということが言えると思います。ですから、東部内モンゴルは常にモンゴル世界の一部であったということが言えます。
 そして、もう一つ、モンゴル人コミュニティと漢人コミュティの間には、常に利害衝突が絶えなかった。二つの共同体が常に衝突し続けてきたということが、東部内モンゴルはモンゴル人社会であり続けたということを裏付ける証拠だと思います。その中で内モンゴルで有名なガーダー・メイリンの蜂起というのがあります。彼はまさにホルチン左翼中旗の出身です。こういった意味から言うと、東部内モンゴルは常にモンゴル人世界の一員であった。


――中国周縁地域の一つとしての東部内モンゴル
 それと同時に、東部内モンゴルは、中国周辺地域の一つとしての特質を持っています。中国内地では明末から清朝にかけて人口の膨張が起こるわけですが、それが中華世界の統合の力を周辺地域に投射し続けました。内モンゴル東部地域は、中国中原地域からの移住民の受け皿の一つでした。東部内モンゴルだけではないですが、東北から来る移住民と、山東省を中心とする中国内地から来る破産した農民の受け皿の一つでした。
 漢人農民が内モンゴルに入植してくると、まず純粋な漢人による集団社会をつくります。漢人だけが居住する地域が徐々に県となるわけです。その一方で、隣にモンゴル人の集団社会が存在します。この集団社会同士の対立と衝突が、最前線の例えばジョスト盟地域で激しくなって、その一番典型的な事例として「金丹道暴動」というのが起きます。中国政府はこの「金丹道暴動」に対して、いまだに農民蜂起という位置づけをしていますが、実はそうではなく、漢人社会の秘密結社による、モンゴル人社会に対する一種の虐殺でありました。十数万人の人たちが虐殺されたわけです。最近はその研究も徐々に始められていると思いますが、こういう集団社会同士の衝突が最前線地域では常に絶えなかったわけです。
 ジョスト盟地域は、漢人の影響を受けて、清朝の初期ごろから農地化されてきました。「金丹道暴動」は一八九一年に起きたんですが、このころになりますと、ジョスト盟のモンゴル人は大体農耕化しています。漢人の暴動によって多くの人びとを殺されて、残りの人たちが北部地域、つまりまだ開墾されていない地域を目指して避難移住しました。すでに農民になっていたモンゴル人たちが、まだ農地化されていない地域に移住していくことによって、まだ農地化されていない地域の農地化を早めたわけです。東部内モンゴルの農地化の大きな要因の一つは、この出来事にあります。
 私がホルチン左翼中旗のランブントブ村で行なった実態調査から見ますと、その村の約三分の一の人は、二〇世紀の初頭ごろにジョスト盟から移住してきた人たちです。そのルーツをたどってみましたら、ほとんどは「金丹道暴動」で避難してきた人たちです。このような規模で興安嶺のふもとまで彼らの足跡が見られるわけです。


――農地化による地域再編
 最後に、農耕モンゴル人村落社会にどういった人たちが参加しているかということを少し話しておきたいと思います。
 私がフィールド調査をした村の例を挙げますと、一九三九年には、この村に約四八戸の人たちが暮らしていました。その中で約半分は原住のモンゴル人です。開墾された地域から逃げてきたり、とにかくホルチン左翼中旗の中の旗民でありました。彼らは牧畜をやめ農地化で農民になったわけですが、約三分の一が先ほど申し上げたようなジョスト盟地域から来た人たちです。一部、漢人、あるいは満洲人がいます。漢人の場合、二〇世紀初頭に来た人もいれば、清朝の初期ごろ、モンゴル王公に降嫁した公主の付き人として入ってきた人たちもいます。彼らはいったんモンゴルの旗籍に入って、モンゴル人になるわけです。そして、一〇〇年ぐらいたって、東部内モンゴルが農地化されると同時に、また彼らの祖先である漢人の姿に近い状態になってしまった。農地化によって、彼らは同化と漢化にさらされるわけです。こういった人たちがかなりいました。
 それから、清朝の公主に付いてきた人たちの中には満洲人もかなりいました。家譜によって彼らのルーツを確かめたわけですが、移住民の足跡を追うことによって、移住民社会がいろいろな立体的な構造になっていることがわかります。単純に遊牧民によって形成されたものでもなく、単に漢族の影響を受けてつくられたわけでもなく、いろいろな人種、いろいろな人たちの地域再編、統合というプロセスを経てつくられた社会である。私はこういうふうに考えています。
 最後に、東部内モンゴルに対するこのような位置づけがどういう意味合いを持つかについて、まとめておきたいと思います。
 内モンゴル地域のモンゴル人は、漢人の入植に対して、大体二つの対応パターンをとりました。一つは、一部の牧草地を漢人に受け渡して、自分たちの伝統文化と牧畜社会を守り抜く。要するに撤退によって伝統文化の保持に努めたわけです。その典型的な地域は、チャハル地域やウランチャブ地域などがあります。その地域の人たちは、今は伝統社会がそのまま残っているわけではなくても、内モンゴル東部の人たちに比べれば、伝統文化の喪失をややおくらせることができた。こういうことが言えるかと思います。
 それと対照的に、東部内モンゴルの人たちはどういう対応をとったかというと、牧畜経営と伝統文化の喪失を代償に、土地基盤の保持に執着して、全く別の形で生き残りを図ったわけです。彼らは漢人の農耕社会の様式を積極的に取り入れながら、押し寄せてくる漢人社会に対抗できるような定住文化を築くことに努めました。その結果として誕生したのは、遊牧の伝統とかけ離れた今の定住モンゴル人社会、つまり農耕モンゴル人村落社会です。
 この二つの特徴が現代の内モンゴルの社会を理解するカギではないかと思っています。東部内モンゴル地域は、現在の内モンゴル社会を理解するモデルの一つではないかと思っています。
 結論を言いますと、東部内モンゴル地域における農耕モンゴル人村落社会はモンゴル遊牧社会と漢人の農耕社会の衝突の産物である。農地化に対してモンゴル人社会が生き残りを図った妥協の産物でもあるのではないか。私は東部内モンゴル地域をこう考えています。
 東部内モンゴルは、二〇世紀に始まった農地開墾の試練を受けて、今の姿になり、さらに中国の市場化、環境悪化という、前代未聞の、経験したことのないもう一つの危機にさらされていると私は思っています。
 沙漠化によって貧困化がもたらされました。内モンゴル東部地域のモンゴル人は牧畜を放棄させられて、一般的な乾燥地域の農業もできなくなりました。今はビニールシートを敷いて、その上に土を置いてお米を作るようになりました。そういうことをみなさん、内モンゴルを旅すると目にするかと思います。
 今、内モンゴル東部地域のモンゴル人社会は、中国の中でも最も貧困地域の一つです。沿海地域との所得の格差は一〇倍以上になっています。
 ご清聴、どうもありがとうございました。


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