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シンポジウム◎東西文化交流と比較神話

日本神話と比較神話

吉田敦彦・学習院大学文学部教授


 司会を務めさせていただく和光大学表現学部イメージ文化学科に所属しております松枝と申します。よろしくお願いいたします。
 では、最初に講演から始めますけれども、皮切りとして、学習院大学文学部教授・吉田敦彦先生にお願いいたします。
 表題は「日本神話と比較神話」です。
 吉田先生は日本の学問の世界に比較神話という考え方を持ち込んだ先達で、また、そういう研究を国際的に広められてきた方でもあります。
 非常に広い視野で、インド・ヨーロッパ神話から日本神話までをつなげてみようという、そういうお話をいただけることと存じます。


 ただいまご紹介いただきました吉田でございます。ユーラシアの神話を比較するという、比較研究の道を開いた大学者が、私の恩師のジョルジュ・デュメジルという人ですが、そのデュメジルがインド・ヨーロッパ語族の神話に共通する構造を発見するきっかけとなった話が、ギリシャの歴史家のヘロドトスの『歴史』という書物の第四巻の記事です。
松平千秋先生が岩波文庫でお出しになった翻訳で、それを読んでみますと、

 ボリュステネス河というのは、ギリシャ人が現在のドニエプル河を呼んだ呼び方です。ですから、ドニエプル河の河の神の娘ということになります。ヘロドトスは、よその国の神様を全部ギリシャの神様と同一視して翻訳するものですから、ここではスキュタイの神様でゼウスに当たる地位を占めている天上の最高神パパイオスのことをゼウスと呼び、そのパパイオスがボリュステネス河の娘と交わって生まれたのがタルギオタスである、と言っているのです。

 この書物のもうちょっと先に、この三点の宝物、後でなぜ三点かということも申しますけれども、その宝物についてヘロドトスがさらにこういうことを記しています。

 こういうことがヘロドトスの『歴史』の中に出てくるんです。
 この記事を見て、デュメジルの頭に、彼の壮大な神話学の出発点となるアイデアがたぶん天恵のようにひらめいたと思うんです。つまり、スキュタイの最初の王様になったコラクサイスという人のために、天から黄金でできている宝物が降ってきた。その宝物は、今、三点と言いましたけれども、鋤に(くびき)、それに戦斧と盃というので四つあるんじゃないかと皆さんはお思いになるかもしれませんが、実は松平千秋先生のご翻訳は極めて正確なんです。鋤と軛は、「鋤に軛」と訳してあります。もともとのギリシャ語は、鋤のことはアロトロン、軛のことはジュゴンと言います。戦斧と訳してあるのは、スキュタイの戦士が戦いに使う武器として用いていた斧で、ギリシャ語ではサガリスと言います。そして盃はピアレなんです。それをヘロドトスは、「アロトロン テ カイ ジュゴン カイ サガリン カイ ピアレン」と書いているんです。つまりアロトロンとジュゴン、鋤と軛は「テ カイ」という接続詞で結んで、その後の斧と盃は、どちらもカイで、結んでいて、これは英語のand に当たります。
 「テ カイ」というのは、ギリシャ語で「カイ」よりももっと密接に結び付いた、切り離せないような結び付きを持ったものをつなげるときに使う接続詞句なんですが、ヘロドトスがここで、どうしてこういう言葉を使ったのかということを、デュメジルの友人であった大言語学者のエミール・バンヴェニストという人が大変見事に説明しております。
 スキュタイ人というのは、イラン人の一派なんです。イラン語の最も古い言葉は、ゾロアスター教の教典の『アヴェスタ』に使われているアヴェスタ語なんですけれども、その『アヴェスタ』の中に「アエーシャユゴーセミ」という一つの語が出てくるわけです。「アエーシャ」というのは鋤で、「ユゴー」というのは軛です。「セミ」というのは、「アエーシャ」の部分と「ユゴー」の部分とを、軛に鋤を付けて牛に引かせるわけですから、つなぐ木の柄みたいなもの、それを「セミ」と言うわけです。この三つの言葉を合わせて一語にしているわけです。ですから、このアヴェスタ語は、鋤と軛を一つにつなげたものとして表している言葉なんです。だからこれに当たる言葉がスキュタイ語にもあったに違いない。ギリシャ語には鋤と軛を一つのものとして表すような単語はないわけですから、そのためにヘロドトスは、「アロトロン テ カイ ジュゴン」という、特別密接な結び付きを持ったものを表すのに使う接続詞で、鋤と軛という言葉を結んだのだろうと。こういう見事な説明をしました。ですから、それによりますと、鋤と軛は畑を耕すための一点の農具であるわけです。
 そして、戦斧というのは斧ですけれども、これも松平千秋先生が実に的確にお訳しになっているように、まさに戦斧であって、スキュタイの戦士が戦いに使う典型的な武器の一つであったわけです。
 そして最後にもう一つ、盃が出てきます。今、スキュタイ人はイラン人の一派だと申しましたが、イラン人と、サンスクリット語から出た言葉を話しているインド人とは、もともとはサンスクリット語の一番古い形、リグヴェダに出てくるものですけれども、それとアヴェスタに使われているイラン語を比べてみると、ほとんど同じ言語の二つの方言と言っていいぐらいよく似ているわけです。ですから、インド・ヨーロッパ語族のそれぞれ一派ですけれども、そのインド・ヨーロッパ語族の中でも、もともとは共通の言葉を話していたインド・イラン人として一括できるような関係にある。言語学的にはそうなんです。
 そのインド、イラン人の間では、インドではソマ、イランではハオマと呼ばれる神聖な飲み物を神にお供えする、それが最も重要な宗教の儀礼だったのです。ですから盃は、インド・イラン系の民族の人たちにとっては祭司が宗教の儀式を行なうときに肝心な祭具なんです。とりわけスキュタイ人にとって盃は祭具の中でも最も重要なものだったのではないかと思われます。
図1 王権神授文様飾り板、2点
図2 王権神授文様飾り板、2点
図3 額飾り(右図は左図の拡大図)
 そのことをはっきりと示すような出土品が、図1、2、3に示してありますような品物です。これはウクライナのスキュタイの王様のお墓から出てくる出土品なんですけれども、図1、2は黄金製の飾り板です。スキュタイの王は、死ぬとこういう黄金の飾り板を衣服にいっぱい縫い付けて葬られたわけです。それが王様のお墓の中で、飾り板の縫い付けられていた衣服のほうは腐ってなくなってしまうわけですから、お墓を発掘しますと床にいっぱいこういう黄金の飾り板が埋積しているわけです。
 図1、2の解説を見ていただくとおわかりになりますけれども、スキュタイの大女神が玉座に座っていて、手に鏡を持っております。その前で、おそらくこのお墓に葬られていたスキュタイの王様が、盃に入った飲み物を飲んでいる。そういう場面を表しています。
 図3は品物が違いまして、これはおそらく王様がおでこのところに飾りとして付けていた冠の一部の黄金の飾り板です。上の写真も下の写真も同じ物で、下は女神と王様の部分を拡大しているわけです。
 これも説明があるので見ていただくとおわかりになりますが、大女神が玉座に座っていて、一方の手には鏡を、もう一方の手には丸い壺を持っている。その前にスキュタイの王様が王の印である笏と、飲み物が入っていると思われる盃を持ってひざまずいている。多くの研究者はこれをスキュタイの女神がスキュタイ王に権力を授与する場面を表したものと考えている。つまり王様の叙位式なんです。スキュタイの人たちは、王様が王位につくときには、大女神から盃に入った飲み物を与えられて、それを女神の前で飲む。そのことによって王位につく。こういう観念を持っていたわけです。
 だから、盃は王様が王様になるためのお祭りで使われた祭具であるわけですから、スキュタイ人にとっては盃はまさに宗教を行なうのに最も肝心なもので、同時にまた王権を表すものでもある。そういう二重の意味を持った神聖な品物だったわけです。
 鋤と(くびき)は、農民が畑を耕す、つまり食べ物を生産するために使われる道具です。斧は戦いに使う武器ですから、戦士の道具である。そして盃は宗教の儀礼を行なうために祭司や王が使う品物であるということです。
 『アヴェスタ』、つまりゾロアスター教の古い教義では、ゾロアスター教徒の社会は、アーサウルヴァンと呼ばれる祭司たちと、ラサエー・シュタルと呼ばれる戦士たちと、それからヴァーストリョー・フシュヤント――ヴァーストリョーというのは農民で、フシュヤントというのは牧畜をする人なんですけれども――つまり農民・牧畜者と呼ばれる、畑を耕したり、家畜を飼って食物を生産する人たち、そういう三つのピシュトラと呼ばれている身分の者から成り立っている。こういう考え方があったわけでして、この三点の宝物は明らかに祭司、戦士、生産者の道具なんです。
 だから、『アヴェスタ』にあるとおり、祭司と戦士と生産者の働きが最も肝心なものなんだと。王様が支配する社会が成り立つために欠かすことのできないものが、祭司の働きである宗教と、戦士の役目の戦闘と、食物の生産である。こういう考えがイラン人の一派の遊牧民であるスキュタイ人の間にもあったということが、これによってはっきりわかるわけです。
 インドでも、ヒンズー教の最も古い考え方では、人間の社会は、ブラーフマナとクシャトリアとヴァイシャとシュードラという四つのヴァルナからできていることになっていまして、ブラーフマナというのは祭司、クシャトリアは戦士、ヴァイシャは生産者です。シュードラというのは賤民ですけれども、賤民と言っても、ヒンズー教の考え方は極めて極端でありまして、シュードラに属している人間を殺す罪は、虫を殺す罪に等しいと、マヌの法典なんかにはっきり書いてあるわけです。つまり人間の範疇には入らないわけです。だから本当の人間の範疇に入るものは、祭司と戦士と生産者だということになっているわけです。
 そういう考え方がスキュタイ人の間にもあって、それぞれが祭司と戦士と生産者の働きを表すような三点の宝物が、最初の王のために天から降りてきた。それでそれを手に入れた者が王権の正当な持ち主であるということの証明になった。そして、この三点の品物を代々のスキュタイの王様は何よりも大切にして、年ごとに盛大な生贄を捧げて、神のごとく敬っていた。まるで神様のように崇めて、毎年、三点の品物をお祀りしていた。こういうことになるわけです。

 この三点の品物は、明らかに日本の神話に出てくると申しますか、神話だけではなくて、現在でも我々が大切に思っております日本の皇室の三種の神器といろいろな点で大変よく似ているのではないか。三種の神器というのは、皇室の祖先、ホノニニギノミコトが大女神の天照大神に中つ国つまり日本の国土の支配を命じられまして、日向の高千穂に降臨をしたときに天照大神から授かってきたもので、天から下ってきて、それが皇室の王権の印となっている三点の宝物である。そういうものが日本の神話にも出てくるわけです。
そして、この三種の神器のうち、八咫鏡は伊勢の皇大神宮の内宮のご神体であり、つまり天照大神のご神体です。草薙の剣は熱田神宮にお祀りされているわけでして、やはり神として崇められています。そして、三種の神器が持っている意味も、スキュタイの王様の三点の宝と大変よく重なり合うんじゃないかと私は思うんです。
 『古事記』で天照大神がホノニニギノミコトに三種の神器を授けたときに天照大神は八咫鏡について、「これの鏡は、もはら()が御魂として、吾が前を(いつ)くがごと、(いつ)きまつれ」と言ったと記されています。この鏡は自分の御魂として、自分をお祀りするようにお祀りしなさい。こう言ってホノニニギノミコトに授けた。もちろん神器はどれも神様なので、尊いものですけれども、八咫鏡はこの三点の神器の中でもとりわけ宗教を表すシンボルとしての意味があったことが明瞭ではないかと思います。
 そして、草薙の剣は言うまでもなく武器ですから、スキュタイ王の宝の戦斧に当たる、戦士の働きを表す意味のある宝物だった。
 そして、曲玉は一体どういう意味を持っていたのかというと、これも『古事記』の記事ですけれども、それが参考になるのではないかと思います。ホノニニギノミコトは、後でも申しますように、高天原で生まれて、生まれるとすぐに天照大神から、豊葦原中国、豊葦原瑞穂国とも言いますけれども、日本の国土の支配を命じられて、高天原から地上に降りることを命じられた。そのときに豊葦原中国の支配者の印として三点の品物を天照大神が授けたわけですけれども、この『古事記』の記事で真っ先に上がっているのは八尺の曲玉です。天照大神は生まれたばかりの自分の孫に日本の国土の支配を命令して、高天原から国土へ降りて行かせた。そのときに支配者の印として曲玉をはじめとする三点の宝物を授けたわけです。
 ところが、天照大神自身も――天照大神は天上ではなくて地上で生まれるわけですが――父親の伊邪那岐命によって、生まれるとすぐに「汝が命は高天の原を知らせ」と言われて、高天原の支配者に任命されているわけです。そのとき伊邪那岐命は、『古事記』によれば「御頸珠(みくびたま)の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神に賜ひて詔りたまはく、『汝が命は高天の原を知らせ』と、言依(ことよ)さして賜ひき」、つまりあなたは高天原の支配者になりなさいと言って、自分の首にかけていた玉の飾りを天照大神に授けた。そして天照大神をそのまま天に上らせて、高天原を支配させたのです。
 だから、一方の天照大神が生まれたばかりの自分の孫のホノニニギノミコトに玉を授けて、地上の支配を命令して、地上に降りて行かせた。他方で伊邪那岐命は生まれたばかりの天照大神に高天原の支配を命令して、その印としてやはり玉の飾りを授けて天上に昇らせた。ですから、高天原の支配者の印としてアマテラスに授けられた玉と、ホノニニギノミコトに中国の支配者の印としてアマテラスから授けられた玉との間には、明らかに意味的に一致するところがあるんじゃないかと私は思うんです。
 そして、その記事の後のところを見ますと、「かれその御頸珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神といふ」とある。つまり天照大神が授かった高天原の支配者の印の玉は、玉そのものが神様で、ミクラタナという名前だったのです。ミクラというのは尊い倉のことです。そしてタナというのは、種という言葉の古い形です。種一般を意味しても使われるわけですけれども、より狭い意味で言った場合には、特に稲の種のことを言ったわけです。
 そのことがはっきりわかるのは『日本書紀』の記事です。天照大神がすでに高天原の支配者になって、自分の弟の月の神様の月夜見尊(つくよみのみこと)に、地上に保食神(うけもちのかみ)という食物の神がいるということを自分は聞いているので、その神を訪ねるようにと命令をいたしまして、保食神のところに月夜見尊が行きます。保食神はその訪問を大層喜んで、月夜見尊をもてなそうとして、まず国のほうに顔を向けて、口からたくさんの御飯を吐き出した。それから、海のほうに顔を向けて、口からたくさんの魚を吐き出した。次に山のほうに顔を向けて、口からたくさんの肉を食べることのできる鳥や獣を吐き出して、それらの物をごちそうにして、大きな台の上にどっさり積み上げて、さあ召し上がれと言ってもてなそうとした。
 そうすると月夜見尊は、「(けがらわ)しきかな、(いや)しきかな、(いづくに)ぞ口より(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養ふべけむ」――何という無礼な、汚らしいことをする、口から吐き出した物を自分に食べさせようとは何事かと言って、真っ赤になって怒って、剣を抜いて保食神を殺してしまうんです。そして帰ってきて、天照大神にそのことを報告すると、天照大神は大変怒って、月夜見尊に向かって、「汝は是悪しき神なり。相見じ」――あなたは悪い神様だから、もう顔を合わせないと言った。それで、それまで太陽と月が一緒に並んで空に出ていたのが、天照大神と月夜見尊はこのときから昼と夜に分かれて空に出ることになった。それで初めて昼と夜の区別がついたというのです。
 その後、天照大神が天熊人(あまのくまひと)という神様を地上に様子を見に行かせますと、確かに保食神が死んでいて、その死体のいろいろな場所から牛や馬、蚕、それと、粟、稗、稲、麦、豆の五穀が生じていた。それを天熊人が高天原に全部持って帰ってまいりまして、天照大神に献上したところ、天照大神は大変喜んだ。そして「『是の物は、顕見(うつ)しき 蒼生(あをひとくさ) の、食ひて活くべきものなり』とのたまひて、乃ち粟稗麦豆を以ては、陸田種子(はたけつもの)とす。稲を以ては水田種子(たなつもの)とす」――つまり粟と稗と麦と豆は人間の食べ物だと言って、畑の作物にした。そして、それとは区別して、稲は水田種子とした。そして人間の食べ物ではなくて、天上の神々の食べ物となるべきものとして、高天原に田をつくって、そこで稲を育てさせたわけです。こういうふうに稲だけが「たなつもの」と呼ばれて、陸田種子であるほかの穀物と区別されたんです。タナというのは、ですからもともとは稲の種を呼ぶ言葉だったわけです。だから、御倉板挙というのは、翌年、種としてまかれるまで倉にしまわれている稲の種を意味する、そういう神様としての意味を持っていたわけです。

図4-1 田の神迎え
図4-2 田の神の入浴
図4-3 アエノコト
図4-4 神饌
 翌年、田んぼにまかれる種籾の入った俵は、日本の方々のお祭りでもって実際に神様として取り扱われているわけです。図4―1、4―2、4―3、4―4の四つの写真をごらんください。これは大変有名なお祭りで、ご存じの方もあるかと思いますけれども、石川県の能登半島の先端に近いあたりに珠洲郡というところがありまして、そこで行なわれるアエノコトというお祭りです。一二月五日と二月九日に同じようなお祭りを繰り返すんですけれども、これは一二月五日に行なわれるアエノコトの写真です。
 一年間、田んぼで稲をつくるために一生懸命働いてくださった田の神様を家にお迎えして、丁重におもてなしをする。そして、二月九日に今度はその神様を家から送り出すお祭りをして、また一年間、田んぼで働いていただくわけです。
 図4―1は、その家の主人が田んぼに行きまして、そこで柏手を打って、「田の神様、お寒うございましたやろ。長々ハヤ御苦労さまでございました。どうかお迎えに上がりましたさかい、おいで下さいまし」と言って、家に恭しく神様を案内するところです。そして、家の入り口のところでは家族全員が神様を恭しくお迎えします。
 それから、図4―2にあるように、家の主人が、翌年、種としてまかれる籾の入った俵をその神様のご神体として取り扱って、それをお風呂に入れるんです。
 そして、図4―3にありますように、家の座敷の床の間のところに種籾の俵をご神体としてお祀りをして、その前に図4―4にありますようなごちそうをお供えして、一年間の苦労に感謝するわけです。
図5 伊勢神宮の御正殿
図6 静岡県登呂遺跡の高倉
 写真でよく分かるように、このお祭りでは種籾の入った俵がまさに神様なんです。次に図5の写真をごらんください。本当はこの写真は我々が目にしてはいけないもので、皆さん、伊勢神宮にお参りなさっても、この建物は見ることができません。内閣総理大臣もここまでは行けないんです。天皇陛下おんみずからしかここまでおいでになれないわけです。伊勢の皇大神宮の内宮の御正殿ですけれども、この御正殿と、図6の写真、これは皆さんご存じの静岡県の登呂の遺跡で、当時、稲をしまった高倉を復元したものです。これによって分かりますように、皇大神宮の内宮の御正殿は、稲を納める倉の形をしているわけです。だから、御倉板挙の神というのは、まさにそういう神様をお祀りする場所として考えられていた倉に納められて、翌年、種としてまかれる稲の種の神様なんです。
 そうすると、日本の三種の神器の八咫の鏡は宗教を、草薙の剣は戦闘を、そして八尺の曲玉は稲作、つまり日本人にとって最も肝心な食物の生産をあらわす、そういう意味を持った宝物でありまして、スキュタイの最初の王様のために天から下ってきて、そして代々のスキュタイの王様が何よりも大切にして、神様としてお祀りをしていた三点の宝物とほとんど一致する意味を三種の神器は持っていたんじゃないか。
 では、日本とスキュタイの神話でどうしてこういう一致が見られるのかというと、日本の神話が書きとめられたのは紀元八世紀の初めで、奈良時代の初めに『古事記』と『日本書紀』に神話が書かれたわけです。ですけれども、その神話の原型と申しましょうか、元の形はその前にすでにできていたわけで、おそらく四世紀から六世紀にかけての古墳時代、さらにそれに続く七世紀、そういう時期の間に日本の神話はつくられたわけです。
 この時期に日本が最も密接な関係を持っていた地域はどこかと申しますと、韓半島です。韓半島は、当時は三国時代と申しまして、高句麗と百済と新羅という三つの国があった。そして、この時期の韓半島は、皆さん韓国にご旅行なさった方も多いと思いますが、韓国に旅行するともちろんソウルに行くわけでしょうけれども、その次に訪れる場所は慶州で、昔の新羅の王様の都です。その慶州の博物館に行きますと、新羅の王様のお墓から出た出土品がいっぱい展示してあります。これを見れば一目瞭然で、後で鶴岡先生のお話にスキュタイの美術のことが出てくると思いますが、まさにスキュタイ的な品物がお墓からたくさん出ておりまして、この時代の韓半島は南の端までスキュタイ人の文化の非常に強い影響を受けていたということが明瞭なわけです。
 その時期には韓半島から大勢の人たちが日本に渡来してまいりました。そして、その渡来人は、当時は韓半島のほうが日本よりも先進文化の地であったわけですから、知識人である。文字をはじめとして、仏教もそうですし、いろいろな技術、そういうものを持ってまいりまして、朝廷でも重く用いられていた人たちであったわけです。ですから、そういう人たちはとうぜん非常に大きな文化的な影響を日本にもたらしたに違いありません。
 そういう時代に日本の神話がつくられたわけですから、日本の神話は、韓半島を経由して、スキュタイの神話の影響を強く受けていたということが十分に考えられる。そしてそのことをはっきり裏付けると思われる、そういう話が実際に韓半島の古い神話にあるということを、去年お亡くなりになりました、私も松村一男先生も大変お世話になった恩人の大先生ですけれども、大林太良先生がご指摘をなさっていらっしゃいます。
 高句麗の建国伝説を見ますと、高句麗の最初の王様は扶余というところからやってまいりました。その高句麗を建国した王様は朱蒙という名前で、東明王と言います。第二代目の王様は瑠璃明王、第三代目の王様は大武神王ですけれども、これらの王様がそれぞれ一点ずつ大変重要な意味があると思われる宝物を手に入れた。その宝物がまさに日本の三種の神器とも、スキュタイの王様の黄金の宝物とも対応する意味を持った宝物だったということを大林先生が分析をなさいました。
 まず、『旧三国史』。こんな名前の本が本当にあるわけではなくて、もともとどういう題がついていたかはわからないのですけれども、『三国史』という一二世紀に書かれました、高句麗、百済、新羅の三国の歴史を書いた書物があるのですが、その『三国史』よりももっと古い歴史書があった。それが李圭報という人が書いた『東明王篇』という書物に引用されて、その書物の中にこういう記事があったということがわかっているわけです。これを『三国史』よりももっと古い三国の歴史を記した書物ということで、学者は仮に『旧三国史』と呼んでいるのです。その逸文を見ると、東明王が高句麗の国を開いた後、こう言って嘆いたというんです。

 鼓角というのは太鼓とラッパです。太鼓を叩いてラッパを吹き鳴らして、王様にふさわしい儀式を行なうことができない。隣の国の沸流という国から使者がやってきても、王様にふさわしい儀式を行なって送り迎えすることができない。だから自分はばかにされていると言って東明王は嘆いた、と言うわけです。
 そうしたら、扶芬奴という家来が、では自分が隣の国から太鼓とラッパを取ってきましょうと言ったというのです。王様が、よその国の品物をどうして取ってくることができるのかと言いますと、扶芬奴は王様に対して、これは天地の賜物の宝物だから取ってきていいんだと。王様はかつて、扶余、現在の中国の東北地方にあった国ですけれども、そこで迫害を受けて大変困った。その王様が現在はこんな立派な国の王様におなりになるなんていうことを誰が考えたでしょうか。だから王様は天の最高神の加護を受けているんだから、天地の賜物である隣国の宝物の鼓角をあなたの物にして構わない。こう言って扶芬奴はほかの二人の家来と一緒に沸流へ行って、その鼓角を取ってきてしまったわけです。それが東明王のものになって、東明王はそれによって王様にふさわしい儀式を行なって、王様としての威信を示すことができるようになったわけです。
 その東明王の朱蒙がまだ高句麗を建てる前に、中国の東北地方にあった扶余という国にいたときに結婚をしていた妻がいて、その妻は妊娠していたんだけれども、朱蒙は扶余にいられなくなって、妻を置いて韓半島に下ってまいりまして、そこで高句麗の国を建てたのです。
 そのときに『三国史記』によれば、朱蒙は妻と別れるに当たって、

 自分と別れた後、あなたが子どもを生んで、その子が男の子だったら、その子どものために自分はある品物を残しておく。それは七稜の石の上の松の下にある。もしその子どもがそれを手に入れれば自分の子どもとして認める。それを持って自分のところに訪ねるようにと言ったというのです。
 後に瑠璃明王になる子どもが、成長した後にその話を聞きまして、

 山や谷を一生懸命探したけれども見つからないので、疲れて帰ってきた。ある朝、自分の家にいると、家の柱と土台の石の間から何か声みたいなものが聞こえてきた。そこに行ってみたら、自分の家の土台の石が七角の石で、柱が松の柱だったんです。その土台石と柱の中間の部分を見ると、折れた剣があった。それを手に入れて高句麗に訪ねて行って、王様になっている自分の父親にそれを奉ったところ、東明王は二つに折った剣の一方をそこに残して、もう一方は自分が大切に持っていて、子どもを待っていたわけです。それでその両方を合わせてみたらちゃんとつながって、元どおりの剣になった。その剣を手に入れたおかげで、瑠璃明王が東明王の跡を継いで二代目の王様になったというのです。
 三代目の大武神王という王様は、隣国でありました沸流と戦って、沸流を滅ぼしてしまうわけですけれども、戦いに出かけていく途中で、『三国史記』によれば、

 沸流水という川のほとりにいたときに、一人の女の人が川岸でもって鼎を担いで遊んでいるように見えた。鼎というのは、三本足のついた、中で食べ物を煮炊きしたりするのに使う物で、足のついた鍋みたいなものです。それでどうしてだろうと思って行ってみるともう女の人の姿はなくて、鼎だけがそこにあった。その鼎を使って御飯を炊くと、火もつけないのに自然に熱くなって、軍勢みんなが食べてもおなかがいっぱいになるほど大量の御飯が自然にできた。そこに一人の男が出てきて、この鼎はこれまでは自分の家の物だったのだが、自分の妹がこれをなくして、王様が手に入れられた。だから自分はその鼎を背負う役目をしてあなたにお仕えしたいと言った。それでその男に鼎氏という姓を与えて、自分の家来にしたというのです。
 大武神王は、食べ物をいくらでも無尽蔵のように自然に出す、そういう食物生産の不思議な道具を手に入れた。そして瑠璃明王は剣を手に入れた。東明王は王様にふさわしい儀式を行なうのに必要な楽器を手に入れた。この楽器はスキュタイの盃、日本の八咫鏡と重なり合う意味があるんじゃないか。瑠璃明王の剣は、明らかに草薙の剣、あるいは戦斧と対応します。
 大林先生が日本の三種の神器ともスキュタイの王様の宝とも実によく対応するのではないかという指摘をしてくださいました、高句麗の建国伝説に出てくる、最初の三人の王様が手に入れた宝物と本当によく似た宝物のことが、ケルトの神話に出てくるんです。それで、ケルト神話の研究で有名な井村君江先生がお書きになった本の中でその宝物に触れている箇所をご紹介します。

 ケルト神話の神々というのは、アイルランドの伝説では、トゥァサ・デ・ダナーン、つまりダヌという女神の一族という呼ばれ方をしていまして、トゥァサ・デ・ダナーンがアイルランドの島に渡ってきたときのことが、『レバ・ガマーラ』という書物に出てくるわけです。
 そのときダーナ神族の神様たちは、不思議な宝物を四つ持ってきた。この四つの宝物のことを、我が国の三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)草薙剣(くさなぎのつるぎ)に似ていると井村先生も書いておいでになります。実はこのことは私も自分の本でもっと詳しく指摘していますけれども、井村先生は、そのときには私の本を読んでおいでにならなかった。だが、私の本を読んでいなくても、自然にそっくりだなとお思いになって、こういうふうにお書きになったんだと思います。
 その宝物というのは、ヌァザという神様は剣を持ってきた。これはひとふりで敵を倒して何者にも破れぬ魔剣です。それから、ルーフという神様は、やはり魔法の武器である槍を持ってきた。そして、ダグザという神様は魔法の釜を持ってきた。この釜からは無尽蔵にいくらでも食べ物が出てきた。そして、四番目の宝物は、リア・ファイルという石です。アイルランドの王様になるのにふさわしい人物がこの石の上に立つと、石が叫び声を上げてそのことを知らせる。つまり王にふさわしい人物だということを声を出して知らせる、そういう石なんです。
 そういたしますと、これはまさにデュメジルが言ったような、生産、戦闘、そして宗教というものをあらわしているだけではありませんで、高句麗の伝説の中に出てくる三点の宝物と実によく似ているんです。剣と槍が瑠璃明王の剣に対応します。これはもちろん草薙剣にも対応するわけですし、スキュタイの斧にも対応するわけです。そして、ダグザの釜は、大武神王が手に入れた鼎と本当によく似ています。どちらも自然にいくらでも食べ物が出てくる煮炊きの道具です。そして、リア・ファイルという石は、あまり鼓角と似ていないとお思いになるかとも思いますけれども、私は大変よく似ていると思うんです。鼓角は、王様にふさわしい音を出して、王の威信を示す。王であるということをはっきりと天下に示すような音を出すために使われる道具です。そうするとリア・ファイルは、王様が即位式のときにその上に乗ると、その人物がアイルランドの王様になるのにふさわしい人物であれば、そのことを大きな声を出して知らせるわけです。だからやっぱりびっくりするほどよく似ていると思うんです。
 インド・ヨーロッパ語族の神話の影響が、スキュタイ人に仲介され、韓半島を経由して、ちょうど神話がつくられていた時代の日本にまで伝えられた。その結果といたしまして、ユーラシア大陸の一番東の端の韓半島や日本から、一番西の端のアイルランドまで、実によく似た神話を見ることができるんじゃないか。
 そういうことを言うことができるようになる一番最初のきっかけは、デュメジルが書きました、スキュタイの王様が持ってきた三点の宝物についての記事の分析であった。デュメジルはアカデミー・フランセーズの会員になるわけで、そのときに厳かな儀式があるんですけれども、その式典に当たっては友人とか弟子とかがみんなでお金を出し合って、アカデミシアンの剣というのを贈るんです。私もお金を出したんですけれども、その剣の柄のところには、デュメジルの希望に従って鋤と(くびき)と斧と盃を飾りにつけました。そういう剣を持ってデュメジルはアカデミー・フランセーズの会員になったわけです。
 これで私の話を終わらせていただきます。



よしだ・あつひこ
東京大学大学院修了後、ストラスブール大学留学、ジュネーブ大学講師、成蹊大学教授などを経て、現在学習院大学文学部教授(比較神話学専攻)。
著書:"La mythologie japonaise: essai d'interpretation structucturale," Revue de l'Histoire des Religions, 160:47-66(1962), 162:225-48 (1963)、『ギリシャ神話と日本神話――比較神話の試み』(みすず書房、一九七四年)、『水の神話』(青土社、一九九九年)ほか。


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