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研究活動報告◎一九九九年度

A=アジア・地域研究系
  アジア研究・交流フォーラム現代中国研究会地域環境研究グループスリランカ研究フォーラム南西アジア研究会一九世紀末を中心とする日本の進路決定

B=表象・文化研究系
  フェミニズム・ジェンダー研究会表象研究会シンボル文化研究会

C=教育・生活研究系
  アジアの教育―研究と交流企業行動分析研究会高等教育革新の実践的研究教育研究へのコンピュータ利用




 
アジア研究・交流フォーラム

 「アジア・地域研究系」所属プロジェクトチームの共同の討論の場である本「フォーラム」では、次の三回の研究集会を開催した。

 三回のフォーラムは、テーマや報告の内容に応じて、講演会、研究会およびシンポジウムとそれぞれ異なる形式を取り、それによって参加者の規模や層も違っていたが、いずれも簡単にはふれられない、貴重で、なかみの濃いものであった。三回ともいわゆる「民族問題」がテーマとなったのは、企画者の関心にもよるが、系に属している各プロジェクトチームからの積極的な提案や参加があまりなかったことがなによりも大きかった。「民族問題」はこれからも重視されていかなければならないだろうが、それへの認識をより深めていくためにも、専門分野や対象地域を異にするより多くの人びとがかかわる必要があると思うし、そうなってこそ「フォーラム」の意義もより大きくなると思われる。なお、第一回の講演会の記録は『東西南北2000』に掲載されている。
(ユヒョヂョン)
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現代中国研究会

 今年度の当研究会の年度テーマは、中国東北(旧満州)研究ということにした。新しいテーマなので、夏に現地調査の第一回目を大々的に実施しようと計画したが、諸般の事情で参加者は山村・佐治の二名のみとなり、ユ・鈴木は別の形でこの調査活動を担うこととした。
 八月二〇日から一〇日間、大連・沈陽・哈爾濱(ハルピン)を回った。
 大連では満鉄・「満州国」時代の大連の地図を片手に、かつての町の様子を思い描きながら、古い建物がどう利用されているか、どういう物が取り壊され新しい建物に変わっているかを確かめた。特に旧満鉄本社、旧満鉄病院、旧大和ホテルなどはそのまま市の中心に残されており、かつての大連の町が満鉄を中心に形成されていたことがよく理解された。
 新潟大学柴田幹夫氏ら大連研究会の人たちの紹介と案内で、開放されたばかりの旅順を訪ねた。旅順博物館の大谷探検隊が収集したシルクロードの遺物を見学することと旅順軍港を見ることが目的だったが、開放されたとは言え、途中の道も旅順の町も警戒が厳重で、写真を撮ることも車から降りることも許されなかった。また旅順博物館は外国人禁止で、館内では日本語会話を自粛。後で分かったことではちょうど江沢民の旅順視察の日と重なったらしい。旅順の開放ぶりを再度確かめたいと思った。伊藤虎丸氏の母校旅順工科大学の跡も、遠くから窺い知るのみであった。
 沈陽への列車では偶然遼寧医大へ出張に赴くという大連医大の女性教授と同席した。九大医学部などとも共同研究をしているという血液学の教授で、日本語も達者なので、旧時の大連のことなど話がはずんだ。
 沈陽では東北中山大学教授王桂良氏の紹介で遼寧省档案館の資料調査が中心となった。趙雲鵬館長の出迎えをうけたが、本人は法輪功の学習会で忙しそうだった。夜には招待宴を開いてくれ、山村一人が出席することになった。
 いざ満鉄関係の資料を閲覧し始めると、これは見せられない、これは整理中だと、なかなか思い通りに出てこなかった。「満州国」時代の文学関係の資料の多くは省図書館に保存されていて、見るべき物は少なかった。それでも档案館出版の資料を多数購入できた。
 沈陽での最大の収穫は本学のかつての非常勤講師孫歌氏の紹介で、遼寧大学出版社に勤める劉雪楓氏と知り合い、交流したことだろう。北京大学歴史系の出身で三国時代の歴史が専門なのだが、今では第一線の音楽評論家として著名。彼のアパートに招待され、若い文化人の自由で常に世界の最先端を見つめる思考に触れ、中国社会を見直す思いだった。まだごく少数だろうが、孫歌氏を含め、こうした若手がこれからの中国をリードしていくのだろう。
 九・一八(満州事変)紀念館は大増築中で参観不可。満州事変の舞台となった北大営跡の兵営、張作霖爆殺現場の皇姑屯なども参観した。
 哈爾濱では哈爾濱師範大の袁国興氏の接待を受けた。
 まず袁氏の案内で哈爾濱師範大の歴史系や中文系の先生達と交流会を持った。この大学は教員養成だけではない総合大学、学生数七〇〇〇人位、教職員一九〇〇人、留学生招致や国際交流も盛ん、日本とも北海道教育大など六つの大学と姉妹校提携をしている。教員の待遇改善が進んでいるとは聞いていたが、今年から給料が三〇%位アップしたということだった。学内の食堂で昼の招待宴。
 黒龍江省档案館は袁氏らの紹介では壁が厚く、一般の閲覧室で、目録の閲覧も制限されており、資料閲覧はあきらめざるを得なかった。その代わり佐治は袁氏の案内・大学の車で女性作家●紅の呼蘭県の旧居と記念館、山村は東北地方史の専門家張政助教授の案内で近郊の平房にある七三一部隊罪証列品館を参観した。
 建国五〇周年に向けて哈爾濱の町は工事だらけで、かなり難儀な散策ではあった。
ユは九月モスクワのアルヒーフを中心に中露関係の資料、鈴木は三月台湾・香港で日系企業の資料の調査収集にあたった。研究会については省略する。

(佐治俊彦)
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地域環境研究グループ

 本年度発足した地域環境研究グループは、
 一、一九七二年のローマクラブの報告書「成長の限界」が刊行されて以来、二七年が経過し、人びとの環境や資源に対する意識は確かに変化した。そして酸性雨、二酸化炭素の増加、オゾン層破壊、ダイオキシン・環境ホルモンの拡散などにたいし、世界が一致団結して取り組まなければならないことが認識された。
 二、一九九二年、一八〇余国が参加して開催されたブラジル「リオデジャネイロ」における「地球サミット」で、経済優先から環境重視に向かって「持続可能な発展」(Sustainable Development)が不可欠であるという一致に至った。
 三、その後一九九七年の京都会議(COP3)を経て、現在持続可能な発展をめざす種々の努力が世界のいろいろな地域で行なわれている。
 という現状認識に基づき、それら先駆的な施策を取り上げ、比較検討し公開していくことを目的としている。

――具体的な活動の視点
 第一、二回目は地球環境白書やアジア環境白書などを参考にして全体的な現状把握のための会合を持った。
 第三回目からはテーマごとの発表を行なった。その場合の視点としては、地球全体、国全体の方向や政策についての提言はより大きな組織にまかせることとし、この研究グループは比較的限定された地域の環境問題、自然、企業活動、消費生活、生活スタイル、農業、環境政策、環境教育などに焦点をあて持続可能な方向への取り組みを取り上げて行くことにした。その趣旨は、一九九〇年一一月に出された「新しいヨーロッパのためのパリ憲章」にある「環境改善に関して市民や個人がイニシアチブをとりうる社会とは、情報が十分に提供されることが重要である。それゆえ、われわれは、市民の意識を高め、政策やプロジェクトの環境への影響を市民に伝えると同時に、環境教育を行なうものである」に基づくものである。もとより、直接環境教育を目指すわけではなく、この研究グループの研究結果がそのための一つの資料として役立つことを目ざしている。
 一九九九年は「エネルギー」と「資源」をキーワードとして選び、例会八回、現地視察二回を行なった。
 研究会および現地視察の内容は以下のとおりである(すべて公開で行なった)。

 初年度の取り組みとして、一、三、五月の例会で、基本的な現状把握をし、四、六、一〇月の例会では、いろいろな先駆的試みの紹介と問題点などが討議された。環境問題は多岐にわたり、また多くの側面を持っている。それに加えて、研究会員は経済、人間、人文学部に所属し、各々専門が異なるため、毎回発表される問題に議論が沸騰した。
 国内および国外における現地視察では、やはり強いインパクトを受けた。いずれも経済優先から環境重視にむけてパラダイムの転換をどのようなプロセスで実行して行くかに苦慮する姿があった。それらの一部は本号の論文として公表された。また収集した資料は今後の本グループの活動のために保存している。
 一二月例会は一年間の活動を、もう一度、原点にかえって思索する場となった。そもそも人類は環境をどのようにとらえてきたか?そして、環境保護思想の起源を十九世紀後半まで辿り、改めて現在の環境問題への対策がいかに重要であるかを認識する会となった。
(三浦郷子)
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スリランカ研究フォーラム
 スリランカ研究フォーラムは、一九九五年に開始して、九九年度で四年目(九六年度は休会)を迎えた。プロジェクトの目安の年限三年を越えて継続しているのは、日本では情報の得にくい地域に関する研究であること、日本人およびスリランカ人研究者の交流が進行しており、継続を強く望んでいることによる。アカデミズムの世界でも大国主義的な傾向の強い日本において、小国スリランカの文化、社会をテーマとするフォーラムが四年間も存続できたことに、主催者である小生自身、少なからぬ驚きを感じている。地道で息の長いフォーラムでありたいと切に思う次第である。
 さて、九九年度は二回のフォーラムと一回の特別研究会を催した。

――第七回フォーラム

 今回はシンハラ文学にかかわるお仕事をされている方々から発表していただいた。中村禮子氏は、『わたしのスリランカ』の筆者であり、シンハラ文学『明日はそんなに暗くない』と『熱い紅茶』の訳者である。ご自身のスリランカでの生活から文学との出会いについて語っていただいた。妻として赴いたスリランカで主婦として親として過ごしたこと、帰国後の老人介護が意外と自己拡大となり、ノンフィクション文学と接近させたことなど、説得力のあるお話しであった。
 野口忠司氏は、日本におけるシンハラ語研究の第一人者であり、『シンハラ語・日本語辞典』、『日本語・シンハラ語辞典』を編纂、刊行しておられる。また早くに、日本を舞台にしたサラッチャンドラの作品『亡き人』の訳者で、日本で最初のシンハラ文学の紹介者でもある。今回は日本語と比較しつつ、具体例を示しながらシンハラ語表現の特徴について解説していただいた。走っている自動車から看板が読めるようになったら中級レベルに達しているとか、シンハラ語はインド・ヨーロッパ語族に属するが、日本語と思考がにている点があるなど、興味深いお話しを伺うことができた。

――第八回フォーラム

ウェズレイ・ムッタイア氏(社会活動家)
 今回は『スリランカ国外のスリランカ人』というテーマのもとに三人の方々に発表していただいた。ジャーナリストの綿井氏には、ヴィデオを用いながら、ロンドンを初めとするヨーロッパ在住のタミル人コミュニティについて報告していただいた。カディルガーマル氏は、イギリスの植民地統治、独立と民族紛争など近現代史のなかでのタミル人移民について報告された。シンガポールやマレーシアに始まり、今や移民や離散民は欧米各地、オーストラリア、インドに広がっている。ムッタイア氏は、出稼ぎという視点から、スリランカのプランテーション労働力としてインドからタミル人が移住したこと、一九七〇年代後半からはスリランカから中東への出稼ぎが増加したことを指摘された。今日では長期化している内戦が国外在住者を増加させており、移民と難民、出稼ぎを区別することが困難と思われる。
 このほか、特別研究会としてカディルガーマル氏の帰国を前に「スリランカにおける議会制度と民主主義」と題してお話しいただいた(二〇〇〇年二月五日)。カディルガーマル氏は一七年間にわたり日本で研究・教育にたずさわり、本フォーラムには当初から積極的に参加してこられた。氏のおかげで、スリランカのマイノリティとしてのタミル人の立場からの見解を聞くことができ、フォーラムをより深い豊かな議論の場にすることができたと思う。
(澁谷利雄)
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南西アジア研究会
 九九年度の南西アジア研究会の活動成果は、研究成果報告会の開催、そしてインドにおいて第一回目のフィールドワークを実施したことにある。
 研究メンバーは南アジア、西アジアの歴史、宗教、言語、考古に研究領域を持つ教員および有志参加の学生からなり、報告会、フィールドワーク成功に向けて積極的に自由な討論をもった。以下に活動概略を記す。

1――報告会

 この報告会では、イラン考古学を専門とする山内和也がイラン南東部からペルシア湾にかけて自ら踏査した地域の紹介と、イランにおける学術調査の動向について語った。報告は貴重なスライドの上映とともに始まり、海流の影響を受けて栄枯盛衰の運命を背負った港湾都市遺跡、例証の少ないユニークな墓所、発見したいくつかのゾロアスター教拝火神殿チャハールタークの遺構、キャラバン古道の再検証などについて、最新の調査報告の成果を聞く、またとない機会となった。

2――インドにおけるフィールドワーク
 インドにおけるフィールドワークは、仏教美術調査(前田龍彦)と西インドにおけるヒンドゥー巡礼調査(村山和之)が実施された。これらの調査報告は『東西南北 2000』に「インド調査報告」として成果を掲載している。詳しくはそちらを参照されたい。
 一〇年来続けているパキスタンのバローチスターン州調査との関連点から見ると、インド、パキスタン分離後に隔絶された両国間のヒンドゥー・ネットワークが問題点として浮かび上がってきたが、今回の西インド・フィールドワークでは、インド側の最西端に位置するかつての巡礼ルートを可能な限り、現パキスタン領に近い位置までたどり直そうという試みとしては画期的であったといえる。
 現地においては、楽師調査と寺院調査において博物館の主任学芸員Umesh P.Jadia 氏の全面的な協力を得て共同作業が行なわれたことは、今後の研究活動にとって明るいきざしとなった。

3――今後の課題
 一九九九年八月、調査期間中に高まったインド、パキスタン国境地帯の緊張が災いして、我々の調査グループが目的としていたコーテーシュワル、ラクパトの二カ所に対する入域許可が得られなかったことから、来年度の再調査の必要性が高まった。これらの寺院における調査なくしては、インドとパキスタンをつないでいた信仰の道を再構成する試行は成功しないであろう。
 調査で得た知見と情報から、海を隔てて東アフリカや湾岸諸国へ移民したインド人と母国とのネットワークも念頭に入れて、本グループが追求しているヒングラージ女神聖地(パキスタン、バローチスターン州)への巡礼の多様性を考えなくていけないことが分かってきた。二〇〇〇年度の調査においては、さらに対象地域をアラビア海沿岸の港湾貿易都市にまで拡大して、聞き取りおよび、寺院の調査を続けていく所存である。

(村山和之)
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一九世紀末を中心とする日本の進路決定
 本研究会は、二〇世紀の終末を迎え、蕫国のかたち﨟が問い直される程に大きな転換期にある日本の進路を、近代の形成期に立って再検討することを意図して発足した。本年は、第二年目に入り、メンバーの分担テーマを一層具体化しながら、充実した研究活動を進めることができた。
 研究活動は、①月例研究会における分担研究の研究報告、②ゲスト講師を招いての特別研究会、③研究所主催のシンポジウムへの協力、④共同調査と各メンバーによる個別調査、⑤合宿研究会等、多岐にわたった。以下に要点を記して、一九九九年度の報告とする。

1――月例研究会

2――ゲスト講師研究報告

 近年、近代中国における日本観・日本人イメージに関して鋭い歴史分析と問題提起を行ない、広く注目されている孫歌氏を招いて、研究会を行なった。内容詳細は『東西南北2000』所載の通りである。報告のなかでは、中国人の日本観の二重構造――政治的嫌悪の日本論と茶・生花文化的日本論との分裂の指摘、言い換えると近代中国における「日本理解の不在」の剔出と、それを越えるべく、普遍的知としての日本における思想資源の探求を進めるその姿勢が、強く印象に残った。

3――総合文化研究所シンポジウム「二つの世紀末と日本・アジア」参加
 一九九九年度の研究所主催のシンポジウム(一一月二七日、於本学J301教室)に関しては、本研究会において、シンポジウムの準備と問題提起をすることとなったが、横浜開港資料館研究員・伊藤泉美氏および中央大学教授・姫田光義氏の協力を得て熱のこもった議論を行なうことができた。シンポジウムでの問題提起と討論内容に関しては『東西南北2000』参照。

4――調査活動
 本年は、共同調査としては、二〇〇〇年二月二一日〜二四日に、大分・熊本調査を実施した(参加者・原田、橋本、福島、佐治、山村)。大分市(大分大学経済研究所、同地域産業研究所、大分県立図書館)、熊本県荒尾市(宮崎兄弟資料館)、熊本市(熊本県立図書館、唐人町旧跡)にて、資料蒐集と史跡調査を行なった。その他、個別調査として、岐阜県、愛知大学、名古屋商工会議所、京都大学および関西地域資料センター各所、モスクワ国立公文書館等にて、各自関連資料の蒐集を行なった。

5――研究合宿
 年度の研究活動を締めくくり、次年度の研究方針の討議のために、二〇〇〇年三月二〇日〜二一日に合宿研究会をもった(於箱根静雲荘)。ほぼ全メンバーの一〇名の参加で、分担テーマに関する全員の研究報告とともに、共同研究の基本視角と課題についての検討を行なった。次年度以降の課題として、日本の近代国家形成過程における「国民」概念の形成および「国民統合」の内実に関する歴史的分析に取り組むこととした。また、「国民」統合の再検討に際して、「統合と隔離」という視点が提起された。

(山村睦夫)
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フェミニズム・ジェンダー研究会
 一九九九年度のフェミニズム・ジェンダー研究会は、フェミニズム・ジェンダーに関する研究・講演会と、ジェンダー・フリー・スペース(仮称)設置に向けての準備とを、二つの柱として活動を展開した。
 今年度の研究・講演会は、フェミニズム・ジェンダーとコミュニケーションに焦点を絞り、ゲスト講師を迎えて、二回開催した。

 第一回は、五月一二日に、オックスフォード大学ハートフォード・カレッジの田中圭子氏による「広告・雑誌の中の女性――日本とイギリスの事例から」と題する講演会で、OHPを駆使して、女性雑誌の画像と言葉の関係や、男性雑誌の日英比較分析を披露された。雑誌の美容・ファッションページのコピーの特徴を、言語学の立場から詳しく分析し、目上の人が目下の人に何かを要請する際の語法や、命令文の代用としての叙述文、依頼文の省略形の多用や、intelligence等の言葉の意味の水増し化現象などが指摘された。
 第二回は、一一月一〇日に、長らく本学非常勤講師を勤められた新井和子氏をお招きし、「フェミニズムから見る戸井田道三の『妹』」と題するお話を伺った。新井氏は、ご自身のエッセイ「現代の紀貫之――戸井田道三先生」と、今福龍太「思考のヘルマフロディーテ」(『戸井田道三の本』2解説)を参考文献としつつ、戸井田の〈方法としての女〉について論じられた。イリイチ評価等をめぐって、司会と論争になってしまったことなどのために、氏の論点を十分に展開していただけなかったのは、司会を勤めた井上の責任であるが、新井氏から、後に「反省記」と題して、当日おっしゃりたかった内容を詳しく文書化していただき、感謝している。

 ジェンダー・フリー・スペース(仮称)設置に向けての準備として、この年度は他機関への視察訪問、および学内での検討会をおこなった。他機関訪問は、東海地区に的を絞り、七月一九〜二〇日に、愛知淑徳大学ジェンダー・女性学研究所、東邦学園短期大学女性自立支援センター、東海ジェンダー研究所を訪問した。
 愛知淑徳大学ジェンダー・女性学研究所は、一九九四年に当初五〇〇万円の予算で設置され、年二回のシンポジウムとニュースレターの発行、図書・資料の収集、学生相談などの活動をしている。学長任命の所長のほかに、四〜五名の運営委員が事業を企画・実行しているが、専属の職員が常駐し、図書・資料の整理・貸出その他の事務をおこなっており、積極的な活動を展開している。
 東邦学園短期大学女性自立支援センターは、大学での女性学関連教育と市民教育の開発と支援を目的に、一九九六年に東邦学園名東コミュニティ・カレッジと同時に開設された。センター長には大学の女性教員が就任し、事務局員として専属スタッフが一名採用されている。コミュニティ・カレッジの女性自立支援コース受講生が研修を受け、センターのボランティア相談員に成長し、センター事務員とともに月二回の電話相談(一般市民の女性を対象)を実施している。私たちは、この電話相談も参観したが、ひっきりなしに電話がかかり、この電話相談が市民に信頼され、活用されていることが実感された。
 東海ジェンダー研究所は、名古屋在住研究者による「現代フェミニズム研究会」が中心になり、そのメンバーの一人の寄付により、一九九七年に全国規模の財団として認可され、発足した。研究プロジェクト、若手研究者の育成、入門講座・講演会・シンポジウムの開催、研究雑誌・ニュースレターなどの発行、情報収集と提供などを実施している。
 このほか、キャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワーク東海ブロックのメンバーと懇談したり、東邦学園高校で開催された第一一回愛知サマーセミナーでのジェンダー関係講座に参加するなど、東海訪問は充実した内容であった。
 一九九八年度の高知大学女性の人権委員会訪問及び立教大学ジェンダー・フォーラム訪問の成果と合わせ、東海地方訪問の成果を基に、当研究会では、二〇〇〇年二月二日に学内で懇談会を開催し、九九年一月に大学施設建設委員会に提出した構想を練り直すなど、本学にジェンダー・フリー・スペースを早急に設置する準備を重ねてきた。けれども、新組織の所属先が未定との理由で、二〇〇〇年一一月現在、まだ設置に至っていないのは、まことに残念なかぎりである。
 このほか、当研究会では、九九年六月二三日に、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける紛争下での女性に対する暴力についての証言の記録ビデオ「コーリング・ザ・ゴースト」の上映会を実施。また、この年度に、活動大写真トーキー版三点を含む、戦前の日本映画の代表作品一五点の寄贈を受けたことも付記したい。

(井上輝子)
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表象研究会
――第一回研究会
 七月二日 小関和弘
 九九年度第一回の研究会は、昨年度末の会で取り上げた「満鉄記録映画」をめぐって、ふたたび、小関氏が報告を担当した。また、氏の報告に先立ち、軍隊史・鉄道史の専門家で、満鉄研究の第一人者である経済学部の原田勝正氏に戦時下のニュース映画とプロパガンダについてのコメントを頂いた。
 小関氏の報告は、資料として用いた「満鉄記録映画集」の資料としての性格についてのコメントから始まり、記録映画を製作した「満鉄映画製作所」の満鉄組織内の位置づけの問題に触れた後、記録映画集に収められている作品の内容上の分類を示すところから始まった。「日本帝国」の国策に沿って「満洲国」を讃美する作品群の他にも、観光誘致を狙った宣伝映画や入植者募集の宣伝映画など、多岐にわたる作品のあることが示され、そうした製作物のなかに「記録映画」として評価の高い「草原バルガ」や「秘境熱河」などの作品があるのだという点を意識する必要性が語られた。
 次に、映画の字幕使用やトーキー/サイレントの別など、製作手法上の問題にも触れて、そうした「言語」表現がプロパガンダとしてどのような企図と効果を持ったものと考えられるかに関する見解も提示された。
 そのあと、「秘境熱河」や「満洲帝国大観」など、実際の作品(ビデオ化されたもの)数編を見て、映像による大衆操作の問題や、植民地主義と〈観光〉の問題等々、出席者相互の活発な意見交換が行なわれた。

――第二回研究会
 一二月三日「トリン・ミンハ」
 発表者 上野俊哉
 発表者の上野は九九年の一一月にスロヴェニアの首都リュブリアナで開かれたシンポジウム、Inter-Eastに参加し、トリン・T・ミンハと講演し、一緒にラジオ番組に出演もした。このときのビデオがあったので、ミンハの語りのスタイルを知ってもらうために参加者に見てもらった。
 ミンハの講演はそれ自体、一種のポエトリー・リーディングのようであり、自作の映像を見せながらのワークショップにはどこか癒し系の匂いすらする。発表者はこのミンハのスタイルがかなり計算された、彼女による複数のポジショナリティーの相互移動の戦略として選びとられたものであることを主張した。彼女が提起している複数の分節、対立の構図は以下のようなものだ。
 表現者/分析者(受け手)、フィクション/ドキュメンテーション、第三世界/第一世界、詩学/政治学、女/男・・といったものである。通常は二項対立に閉じ込められているこうした位置を別の文脈に開いて見せるような試みとして、彼女の映像とテクストは構築されている。このことを確認するために、ミンハの作品「ルアサンブラージュ」、「姓はヴェト、名はナム」、「核心を撃て」などを見てもらった。
討論に入って、文学科の村井からは詩学と政治学の間には峻別すべき線がないと危険という意見が出されたので、発表者はミンハとも思想的に関係がある人類学者ジェイムズ・クリフォードのこの件についての解釈についてコメントした。文学科の小関(現・表現文化学科)からはキャメラの細かい動きと独特のモンタージュ、編集について質問が出た。発表者は「月が赤く満ちる時」から「機械の目」についてのミンハのテクストを引用して答えた。
 発表者はレジュメこそ用意しなかったものの、かなりミンハの理論と映像そのものに突っ込んで発表したが、参加者の多くはミンハの映像についての印象批評的な感想を述べるにとどまり、発表者としては若干フラストレーションを感じた。
 表象研究会のあり方として、ゲストやインフォーマントを招いた聴き取りも大切だが、何よりも最近の各ディシプリンの研究動向をお互いにフォローしあい、そのなかから映像をはじめとする様々な表現文化のテクストをまずは徹底的に理論的に再文脈化するような議論ができなければいけないと痛感した。
 ミンハの一見、感性のうねりを活かしたような語りの背後にも強力な理論の背景があるからである。

――第三回研究会
 三月二四日
 丸山尚氏による問題提起  テーマは「ミニコミがはぐくんできたもの――その意義と役割」
 丸山氏は住民図書館館長として戦後のミニコミ紙の主要なもの、貴重なものを収集してこられた方で、長く本学の非常勤講師としてもう一つのメディアとしてのミニコミの重要性を説かれてきた方である。表象研究会がドキュメンタリーをテーマに研究活動を続けてきて、表現媒体としてのミニコミを視野に入れる必要があるのではないかという意見があり、丸山氏にミニコミの戦後社会での位置づけについてお話を願った。氏のお話の概要は、大概以下の通りであった。
 ミニコミと称されるメディアは、六〇年安保闘争の挫折から体制への異議申し立て、市民としての意見形成の場として登場した。六〇年代半ば、知識人の個人誌とベ平連運動に参加した若者たちの出すミニコミ誌がそれに加わり、活況を呈した。七〇年代、それを引き継いだ若者のカウンターカルチャー的ミニコミが、〈ヤングミニコミ〉として一方の雄であったという。
 もう一方の雄は、六〇年代後半からの反公害運動および消費者運動のキャンペーンのメディアとしてのミニコミがあった。両方とも当時は対決、告発型であったため、「大量のミニコミが紙爆弾のように、全国の闘争現場に舞い散った」
 八〇年代、日本の経済成長が先進国を凌駕するようになり、社会体制の選択をめぐっての対立というよりも、環境や福祉、高齢化対策など生活条件の基盤整備をテーマにしたミニコミが多くなっていった。またこの頃から主婦の活動参加が目立つようになったという。九〇年代は、NGO、NPOといった国内外を問わない活動範囲を支えるミニコミ誌が飛躍的に増加しているそうだ。
 こうしてミニコミ誌の歴史をまとめていただくと、ミニコミという表現媒体が、戦後果たしてきた役割の重要性にあらためて気づかされたことであった。丸山氏の問題提起のあとで意見交換をおこなったが、昨今のインターネットなどのニューメディアとこれまでミニコミが果たしてきた役割との関係についてさまざまな意見がだされた。
 さいごに、ドキュメンタリーというジャンルへのミニコミ表現の寄与――事実は捉える側によって微妙にその色合いを変えるし、伝達する価値があるという選択をするときには必ずある種の態度決定が行なわれているのだという当たり前の認識を忘れがちであることを確認させられたこと――を確認して研究会を閉じた。

(杉本紀子)
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シンボル文化研究会
 シンボル文化研究会は古今東西のシンボルを、美術史、歴史学、考古学、神話学、宗教学、人類学などの学際的研究によって解明することを目的としている。二〇〇〇年度は以下の四回の報告会を行なった。

――第一回 五月八日(土)
 「ヒッタイトの神々の起源を求めて」
 紺谷亮一(本学講師)
 ヒッタイト古王国(前一六五〇年以降)の神々については文書が少なく、不明な点が多い。今回の発表ではその解明に有益であろう資料と、神々の起源を探る研究の進展状況が紹介された。
 まず、紹介された資料とは、古王国時代を代表する宗教遺物であるイナンデュック遺跡出土の大型壺である。この壺の浮き彫りに描かれているのは「聖婚」もしくは春を祝う新年祭と思われ、メソポタミアとの文化的関連が想定される。
 次に神々の起源についてだが、これは古王国時代直前、前二〇〇〇年紀前半のいわゆるアッシリアコロニー時代までは確実に辿ることができる。この時期のアナトリアは、交易を通してシリアやメソポタミアの文化的影響をうけた。そのことは円筒印章の図柄にメソポタミア神話の影響が強く見られる点から支持される。しかし同時にそうしたメソポタミア的図柄を改変したものも見受けられ、この時期にアナトリア内部で独自の神々が誕生しはじめたことがうかがえる。しかし他地域からの影響については、メソポタミアに限定するべきではないだろう。スズの交易によるバルカン半島、黒海、ダニューブ海などとの結びつき、クレタ島のクノッソスやエジプトなどとの交易の可能性もまた視野に収めるべきである。

――第二回 一〇月二三日(土)
 「女神考――著者による解説」
 松村一男(本学教授)
 著書『女神の神話学』(平凡社)の内容紹介、そしてその後の研究課題について報告した。
課題の第一点は、神話に描かれた女性や女神をどのように考えるべきか、である。神話は女性を真剣に考えているのだろうか。可能性は、考えている、いない、誤って考えているの三つである。もちろんそのいずれか一つであるとは思えないが、しかしどのような立場からどのような意図で描かれているかをつねに考慮すべきだと思う。そしてその理由も考えるべきである。
 第二点は「現代の女神」である。ダイアナ、マザー・テレサ、マドンナ、藤原紀香らを女神というのは比較的たやすい。しかし個化の進む現代にあって、女神の細分化も考慮したい。主婦向け雑誌の表紙を飾る料理研究家を「主婦の女神」とする神話学を夢想してみたい。

――第三回一一月二四日(土)
 「ヴェスヴィオとポンペイ――火山の麓で営まれたローマ人の生活」
 ウムベルト・パッパラルド(ナポリ大学教授)
 ポンペイ考古学の専門家であるパッパラルド氏は、ヴェスヴィオ山の噴火によって火山礫や軽石、熱い火山岩滓によって埋没したポンペイやエルコラーノといったローマ都市が現在どのように発掘されているか、当時の人びとの生活や文化についてどのようなことが分かっているかといった興味深い問題を、豊富なスライドを用いて紹介した。
 今から一九〇〇年も前の西暦七九年の大噴火によって埋没したポンペイは、人びとの記憶から長く忘れ去られていたが、一七四八年に発掘がはじまり、当初は財宝目当ての乱掘も行なわれたが、現在は慎重で科学的な発掘が継続して行なわれている。しかし残りやすいのは貴族や金持ちの大邸宅であり、人口の半ば近くを占めていたと思われる貧民や奴隷の生活ぶりについては分かりにくい。こうした発掘の限界を弁えつつ、古代人の文化的・精神的世界の再構築はされねばならない。

――第四回 二月五日(土)
 「神道マンダラの世界」
 山本ひろ子(本学教授)
 曼陀羅は仏教、わけての密教の産物であるが、中世日本では本地垂迹説による神仏習合の影響下に、神道においてもマンダラが用いられるようになった。そこから両界曼陀羅、垂迹曼陀羅、社寺参詣曼陀羅など各種のマンダラが生み出される。こうした過程は神々に伝来の意味や姿の変更を迫るものであった。そしてこうした神観念の変革は神官よりも僧侶によって早く着手された。彼らの活動の拠点となったのは、神宮寺、山岳寺院、籠り堂、御厨などである。曼陀羅は平安末期に聖所に参籠して神から啓示を受けるという神秘体験から生み出されたらしい。そしてこうした霊的曼陀羅観をベースとしつつ、鎌倉中期に神道論として整備されたのが両部神道である。伊勢神宮の内宮を胎蔵界大日如来、外宮が金剛界大日如来とする両部曼陀羅もこうして編まれていった。

 第二回以外の発表はJ104の視聴覚教室において、スライドやプロジェクターによる多数の写真や図版の紹介とともに行われた(第二回は図書館会議室)。毎回、三〜四〇名の熱心な参加者があり、多方面からの質疑応答も行なわれ、充実した例会であった。

(松村一男)
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アジアの教育―研究と交流
 本プロジェクトは、一九九七年度スタートの三年間計画で、したがって九九年度は最終年度である。そこで本年度の記述に先立って、当初の目的と簡単な経過をかえりみ、本共同研究の意義を考えつつ報告しよう。
 スタート前年の一一月に、プロジェクトの「趣旨」を掲示して、メンバーを公募した。「趣旨」の主内容は二項あり、アジアの発展途上国の「現況を調査・解明する」ことと諸矛盾の「是正に力を貸す」具体的活動として、「教員を目指す青年と和光大生の交流」をはかることである。前者の調査研究は、九七年春のラオス、カンボジアを皮切りにパプアニューギニア、ネパール、を対象に実施し、後者の交流は九七年度に、ラオス教育大学学生と和光のプロゼミ生との文通に実現した。
 一九九九年度も、この調査研究と交流の二大領域でプロジェクトは進行した。

一、インドネシアの教育と社会・現地調査
 年度初め二回の研究会は、たまたま前年度学外研究で外国にいたメンバー二人が、研究報告をした。奥平康照の「イギリスの教育改革の現実」(四月二八日)と、加藤三由紀の「中国の幼児教育――応試型から素質型へ」(五月二六日)である。前者も小学校が中心だったから、幼少年期の教育を両面から比較検討できた。夏休み前に、前年度のネパール調査報告がまとまり小冊子化できたので、これの検討をするとともに、本年度の調査計画を立てた。いくつかの国、地域が候補に挙がったなかで、インドネシアを対象とすることが九〜一〇月に決定した。すでに訪れた四カ国の東で円環を閉じる多島国であり、四カ国になかったイスラム国で、東チモールに見えるように政治・経済不安定な国などが選択理由であった。
 二月初めに法政大学教授鈴木佑司氏に、インドネシアの政治・社会状況についてご教示いただくとともに、現地JICA事務所にご紹介頂いた。調査の実施は二月末から三月初めの正味九日間で、インドネシア大学、バンドン工科大学、インドネシア教育大学、バリ芸術大学、同ホテル・旅行カレジの五大学を訪問調査し、他方ジャカルタ郊外のスラムにある小学校と、バンドンのストリートチルドレン施設も訪れた。
 インドネシアでは三つの教育改革が進行中で、教員の質の向上、理数工系の教育の充実、教育の地方分権である。理数工教育に関わって日本から指導に派遣された人びとと会い、教育援助のあり方について考えさせられたし、地方分権はスカルノ以来の集権国ゆえ困難が多い現状を見た。経済危機が子どもの就労を増す反面、格差を埋める努力も行なわれていた。全学校階梯にイスラム学校(生徒は一〇%)があるのは珍しく、国立大学にも祈りの施設があった。

二、「窓ぎわのトットちゃん」訳本出版・配布のための募金活動
 九九年九月に、前年度から進行していた黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』ラオス語訳本ができ、本学非常勤務講師チャンタソンさん主宰の「ラオスの子どもに絵本を送る会」が、ラオスの子どもや教員志望の青少年に配ることになった。その資金援助とともに、これを機会に和光大学生にアジア途上国への関心と行動を促すために、一〇月の二週間学内で募金活動を行なった。原価である三〇〇円を寄金すると「あなたからの一冊がラオスのある子どもに届きます」とし、さらに『東西南北1998』の石原論文「アジアに羽ばたけトットちゃん――現代子ども労働の一考察」コピーを置いて、持ち帰って読んで考えるようにという、二重の蕫教育的しかけ﨟を工夫した。
 平行して三教援会で募金袋を回し、職員にも事務局長を通じて依頼した。善意の輪は望外に幼少中高職員法人事務室にも広がり、研究所のシンポジウムで市民の寄金も得た。学生を通じて父母からも志がよせられた。すべて合わせて募金総額一五万円余、五〇〇人のラオスの子や青少年の手に「トットちゃんは羽ばたいた」ことになる。

 こうして本プロジェクトは、アジア発展途上五カ国の訪問調査と、文通指導・良訳支援募金の二方式による学生への働きかけの二方向で「研究と交流」を実現し、当初計画通り二〇〇〇年三月に終了した。年毎に報告小冊子を公刊したが、別にまとめの本をできれば『東西南北』別冊として出そうと、目下計画・執筆中である。

(石原静子)

◎本プロジェクトは、一九九七年度スタートの三年間計画で、したがって九九年度は最終年度である。そこで本年度の記述に先立って、当初の目的と簡単な経過をかえりみ、本共同研究の意義を考えつつ報告しよう。
スタート前年の一一月に、プロジェクトの「趣旨」を掲示して、メンバーを公募した。「趣旨」の主内容は二項あり、アジアの発展途上国の「現況を調査・解明する」ことと諸矛盾の「是正に力を貸す」具体的活動として、「教員を目指す青年と和光大生の交流」をはかることである。前者の調査研究は、九七年春のラオス、カンボジアを皮切りにパプアニューギニア、ネパール、を対象に実施し、後者の交流は九七年度に、ラオス教育大学学生と和光のプロゼミ生との文通に実現した。
一九九九年度も、この調査研究と交流の二大領域でプロジェクトは進行した。

一、インドネシアの教育と社会・現地調査
年度初め二回の研究会は、たまたま前年度学外研究で外国にいたメンバー二人が、研究報告をした。奥平康照の「イギリスの教育改革の現実」(四月二八日)と、加藤三由紀の「中国の幼児教育││応試型から素質型へ」(五月二六日)である。前者も小学校が中心だったから、幼少年期の教育を両面から比較検討できた。夏休み前に、前年度のネパール調査報告がまとまり小冊子化できたので、これの検討をするとともに、本年度の調査計画を立てた。いくつかの国、地域が候補に挙がったなかで、インドネシアを対象とすることが九│一〇月に決定した。すでに訪れた四カ国の東で円環を閉じる多島国であり、四カ国になかったイスラム国で、東チモールに見えるように政治・経済不安定な国などが選択理由であった。
二月初めに法政大学教授鈴木佑司氏に、インドネシアの政治・社会状況についてご教示いただくとともに、現地JICA事務所にご紹介頂いた。調査の実施は二月末から三月初めの正味九日間で、インドネシア大学、バンドン工科大学、インドネシア教育大学、バリ芸術大学、同ホテル・旅行カレジの五大学を訪問調査し、他方ジャカルタ郊外のスラムにある小学校と、バンドンのストリートチルドレン施設も訪れた。
インドネシアでは三つの教育改革が進行中で、教員の質の向上、理数工系の教育の充実、教育の地方分権である。理数工教育に関わって日本から指導に派遣された人びとと会い、教育援助のあり方について考えさせられたし、地方分権はスカルノ以来の集権国ゆえ困難が多い現状を見た。経済危機が子どもの就労を増す反面、格差を埋める努力も行なわれていた。全学校階梯にイスラム学校(生徒は一〇%)があるのは珍しく、国立大学にも祈りの施設があった。

二、「窓ぎわのトットちゃん」訳本出版・
  配布のための募金活動
九九年九月に、前年度から進行していた黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』ラオス語訳本ができ、本学非常勤務講師チャンタソンさん主宰の「ラオスの子どもに絵本を送る会」が、ラオスの子どもや教員志望の青少年に配ることになった。その資金援助とともに、これを機会に和光大学生にアジア途上国への関心と行動を促すために、一〇月の二週間学内で募金活動を行なった。原価である三〇〇円を寄金すると「あなたからの一冊がラオスのある子どもに届きます」とし、さらに『東西南北1998』の石原論文「アジアに羽ばたけトットちゃん││現代子ども労働の一考察」コピーを置いて、持ち帰って読んで考えるようにという、二重の蕫教育的しかけ﨟を工夫した。
平行して三教援会で募金袋を回し、職員にも事務局長を通じて依頼した。善意の輪は望外に幼少中高職員法人事務室にも広がり、研究所のシンポジウムで市民の寄金も得た。学生を通じて父母からも志がよせられた。すべて合わせて募金総額一五万円余、五〇〇人のラオスの子や青少年の手に「トットちゃんは羽ばたいた」ことになる。

 こうして本プロジェクトは、アジア発展途上五カ国の訪問調査と、文通指導・良訳支援募金の二方式による学生への働きかけの二方向で「研究と交流」を実現し、当初計画通り二〇〇〇年三月に終了した。年毎に報告小冊子を公刊したが、別にまとめの本をできれば『東西南北』別冊として出そうと、目下計画・執筆中である。

(石原静子)
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企業行動分析研究会
 本研究会では、一九九九年度は日本企業と外国企業との比較分析のための活動を行なった。外国企業の実態調査対象国を中国とした。
 一九九九年八月二四日〜八月三一日、鈴木岩行がアンケート調査をし、回答を得ていた武漢市と西安市の日中合弁企業六社を訪問した。
 武漢市では造船メーカー一社と電機メーカー二社のヒアリングをした。揚子江中流の武漢に造船メーカーがあることは少し奇異に感じられるが、武漢に造船メーカーがあることが揚子江中流までかなり大きな船舶が遡れる証明でもある。電機メーカーではテレビを作っているが、いまや世界最大のテレビ生産国となった中国では、中国企業の技術水準もかなり向上し、日系電気メーカーも価格競争に巻き込まれ苦戦中とのことであった。
 西安市では観光ホテル、重電機器メーカー、素材メーカー各一社のヒアリングをした。中国でも有数の観光地である西安では観光ホテルが乱立し、安値競争となっており、訪問したホテルも経営が大変だとのことであった。素材メーカーでは納入した製品の代金が二年先にしか支払われないとのことで、中国に着任したばかりの日本人副総経理(副社長)が困惑していたのが印象的であった。
 九月二日〜四日、飫冨延久と鈴木岩行が成都市で開催された第一五回日中企業管理シンポジウム(日中人文社会科学交流協会企業管理委員会と中国企業管理協会の共催)に参加した。テーマは「非国有企業の経営改革と発展――中小企業、流通企業を中心として」であった。中国は社会主義体制下で流通業の発展が妨げられていたため、中国側はイトーヨーカドー常務の方の発表に強い関心を寄せていたようだ。中国側の発表では、現在急速に発展している民営企業家の報告が非常に興味深かった。
(鈴木岩行)
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高等教育革新の実践的研究
 一九九九年度一年きりの共同研究である。最初からその計画で申請し早めに準備して予定通り研究を進め、成果を年度内に学内外に公表し、二〇〇〇年三月にすべて終了、解散した。当研究所では例のない仕方で、緊張持続の中で集中して研究を遂行でき、適切な時機に成果を世に問い得る実例として、記録・記憶にとどめてほしいと思う。
 研究内容は「最近一〇年にできた人文社会系大学院修士課程の状況」を解明することであり、方法は全国公私立当該研究科を対象とするアンケートと、その回答中から選んだ八研究科の訪問調査の二つである。メンバーは三学部にわたる教員七名、九六年まで本研究所C系にあった通称「入門研」のラスト・メンバーの再集合であった。メンバー公募としなかった理由は、右の研究内容が「入門研」の研究志向を継いで対象を大学院に広げたものであること、および右の研究方法が、九六年までの施行で有効と判ったものの踏襲であるためである。
 研究目的は二つで、第一に、九八年一〇月の大学審議会答申が大学院拡充を提言の柱とし、それ以前から社会での高学歴化が進行中で高等教育の重点が大学院へと移行しつつある状況の中で、最新の修士課程の実状を把握したいと考えた。第二は周知の通り和光大学は戦後高等教育の探究をモットーとして発足したが、今ようやく大学院設置の気運が高まってきたため、実現に備えて現況を知り参考事例を収集するという実際的な目的である。
 アンケートは、旧帝大系と特殊な内容の所を除く二二〇研究科に四月発送、五月末の回答を求めた。回答は一八〇研究科回収率八二%、信頼度の高いデータとなった。
結果と考察は、二〇〇〇年一月に学内で刊行した小冊子「最近一〇年にできた人文社会系修士課程の状況――アンケートと訪問による実態調査」および『東西南北2000』所載の石原論文「未来への大学院を目指して――調査報告に基づく提言」に詳しいので、参照してほしい。
 要点のみ列挙すると、平成に新設・大改組の修士課程の多くは院生一〇〜二〇人、単一学部に乗る単一専攻の単純小規模で、財政的人的ともに学部依存が強いが、ほとんどの科が社会人を入れて再学習を重視し、教育科目を必要とするなど、研究者養成中心だった旧来の大学院からの変化が明らかである。教員の過重負担、制度不備等の困難は多いが改善をめざして各科努力中の様子が、アンケートの自由記述欄に表れていた。
 訪問調査は一〇月〜一二月にメンバーが手分けして、関東周辺五、関西方面三研究科に実施した。前述の第二目的から中小規模の私大、領域は教育・人文・法経・社会・国際・人間科学にわたるようにした。詳細はこれも前記二文献を見てほしいが、要点を述べると、社会人受け入れに伴い昼夜・夜間開講やカリキュラムの工夫がどの研究科にも見られ新設・改組にあたった間に合わせでなく、当の学問の基本に立ち返り社会の今後を見通しての研究科づくりが可能なこと、そうすれば当面の経営的困難は増すが志望者を確保でき下の学部にも良い影響を生ずるなどメリットのあることが明らかになった。また、推進者たちの熱意とそれを広げる運動とが、不可欠である。
 なお、研究成果がまとまった九九年一一月一七日に報告と討論のための研究会を学内で開き、多数の教職員の参加を得て右の諸結果を共有のものとすることができた。この研究会は、前述した『「九八年大学審議会答申」を機に大学の今後を考える』全学研究会シリーズの第三回で、前の二回は九八年一二月と九九年六月実施で、教育学の専任教員による答申の解説と「学生の学習と指導問題」の討論とから成っていた。
 日本の高等教育はいま、行政側からも現場においても大きな変化に直面している。現状を明らかにすることと事実に基づいて考え合うことは、大学人の手で未来をひらく重要な契機となろう。先述の報告小冊子は、回答研究科全部に送っただけでなく、大学教育学会ほか要所に送付した。
 初めの文を借りれば「緊張持続して集中的に遂行し、適時に世に問う」研究が、今後ますます必要と考える。本共同研究は、その実例の一つである。領域が違っても、基本は同じではないだろうか。
(石原静子)
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◎教育研究へのコンピューター利用
 九九年の活動は、二つの目的をもって計画した。第一はさまざまな学術分野での研究教育におけるコンピュータ利用の状況を各自の専門領域において調査することと、第二には、メンバー各自の専門領域における研究教育の場面でコンピュータを積極的に利用し、その導入に必要なテクニックやノウハウを獲得し、実践の成果を報告しあうことでそれぞれの経験・情報を交換しあうことであった。図書館内の仮住まいで始まったメディアサロンの開設や学生へのメールアドレス付与など学内の情報環境整備が少しずつ進むのにしたがい、それらのリソースをを十分に使いこなすための教員のコンピュータ技能のスキルアップに間接的に貢献することをも視野にいれた。
メンバーそれぞれは関心にしたがって試行を行ない、その成果や経験を交換するための研究会は次のように開かれた。ただし、学内全体の情報環境整備という実務的な作業の繁忙に押されて、研究会の活動が思うにまかせなかった恨みが残る。

 それぞれの研究会報告は概略次のようであった。
「総合文化研究所ホームページ制作の経験から」二〇〇〇年二月二四日――内田正夫
総合文化研究所では一九九七年の学内LANの敷設当初から和光大学ホームページ内に研究所のページを作成してきた。報告はこの間二年余におけるその運用の経過と作成テクニックの紹介を中心として、口頭報告のほかにHTMLファイルとしてメンバーに回覧された。研究所ページのコンテンツの主要なものは、研究所年報『東西南北』の全文情報、その他研究プロジェクトチームの研究会開催案内、研究所発足以前の共同研究機構時代に刊行された多数の報告書小冊子の一覧目録などである。プロジェクトチームごとの活動を報告するページが作成されることを期待しているが現在のところは一チームのみである。
 これらのうち、とくに『東西南北』全文は他大学研究所のホームページにもほとんど見られない、先導的な試みであると自負している。これは印刷所から製版に使用したファイルをテキストファイルとして受け取り、図版などを加えて、これをHTMLに加工して作成する。しかし九七年三月発行以前のものについては元のファイルがないため、印刷製本された『東西南北』の各ページをスキャナで画像として読みこみ、これをOCR(光学読み取り)でテキストとしたものである。これらの作業を最小の労力で実行するための経験とテクニックが紹介された。また、ホームページ上での論文の公開というものははじめての経験であるため、執筆者の了解を得ることや図版の著作権問題等に十分配慮すべきことも報告された。

 「心拍数を利用したコンディショニング管理のためのコンピュター利用について(予備的考察)」――矢田秀昭
 いろいろな条件によって変化する「心拍数」をうまく利用できれば、トレーニングの合理化、運動強度の把握とコントロール、体調の管理などが可能になる。運動中にリアルタイムで心拍数をモニターできるシステムとして、ベルトに取付けられたセンサーによって胸壁から検出した心拍データを無線方式によって腕時計型のレシーバに送るシステムが開発されている。レシーバに蓄積されたデータは、コンピュターに接続することによって個人データの蓄積や分析を進める事ができる。
 このシステムにより、からだの自己管理をコンピュターを利用する事によって可能にするための教育実践方法の確立を検討している。

(内田正夫)
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