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宗教芸能研究会◎

対馬の命婦と法者
神楽と祭文の世界

渡辺伸夫 昭和女子大学教授

――これまでの対馬の研究―資料批判

 現在にいたる対馬の巫女みこ神子みこ)・法者ほさの研究を概観してみると、まず鈴木棠三氏の業績が抜きんでている。『対馬の神道』において鈴木棠三氏が翻刻した『対州神社誌』、それは貞享三(一六八六)年に対馬藩が神社調べをしたものであるが、その恩恵を後の研究者は被っている。そして対馬の命婦みょうぶ・巫女、法者について学問的なメスを入れたのが石塚尊俊氏の著書『西日本諸神楽の研究』。また鈴木棠三氏が『神道大系神社編四十六 壱岐・対馬国』に翻刻した「六道その他」に注目した岩田勝氏によって祭文の本格的な研究がはじまる(『山陰民俗』46)。
 平成に入ると特に祭文関係の発掘といったものが顕著になってくる。しかし活字化されたものには、読み間違い、誤植が非常に多く、なかには自分がおもしろいと思う資料を何の研究成果も踏まえずにただ翻刻だけしているといったものもある。祭文研究が盛んになってきたとはいえ現状はこのあり様で、活字になったものを信用していると、間違いに間違いを重ねるといったことにもなりかねない。祭文の研究にはまず、正確なテキストを作らなければならない。それも一部分ではなく、できるならば丸ごと資料を提供するような形で。岩田勝氏が『中国地方神楽祭文集』を出されたように、対馬の祭文資料をできるだけ早くまとめたいと考えている。

――これからの法者の研究
  藩政史料と法者家につたわる文書をつかって

 法者の研究といえば、これまでは祭文研究というよりもむしろ祭文の発掘と紹介が中心だった。
 対馬の法者の本格的な研究として、岡田啓助氏の『対馬の信仰と説話の研究』があるが、『対州神社誌』に依拠しているために法者の実態はなかなかみえてこない。ではどうしたら対馬の法者の実態を知ることができるか。そのためには対馬の藩政史料をもっと活用する必要があろう。
 長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵の宗家そうけ文書に寺社奉行の記録がある。それは「寺社方記録じしゃかたきろく」というもので、正徳二(一七一二)年から慶応四(一八六八)年にかけての一三九冊の記録である。正徳以前のことを知るには御郡奉行の日記が寛文一一(一六七一)年から明治四(一八七一)年まで、四八一冊ある。また対馬藩の表向きのことを記した資料が「表書札おもてしょさ方毎日記」で、これも三六八冊ある。
 対馬の藩政史料を用いてのこれまでの研究といえば、「御判物ごはんもつ」を少し引用する。それも『長崎県史』の史料編にのっている誤植のある活字本を使用する場合が多い。そういうわけで、これまで藩政史料というものは十分に活用されてこなかった。
 その他、この藩政史料とともに見てゆかなくてはならないものに、法者頭である蔵瀬家の文書、また各地の法者の家に伝存している文書類がある。

――府内法者の活動の一端
  「御陣太鼓役嘆願書控」より

 対馬の法者は、城下の府内法者ふないほさと田舎の法者の二通りに分かれている。ここでは府内の法者の活動の一端をみてゆく。

 「御陣太鼓役嘆願書控」
 慶応二(一八六六)年三月一三日付の文書。四人の府内法者が連名で、法者頭である蔵瀬家に嘆願書を出した。蔵瀬家はこれに手を加えて寺社奉行に提出したが、これはそのの控えである。これを見ると、寛政年以降、対馬の西海岸警備に際して法者と山伏にそれぞれ陣太鼓を打つ、法螺貝を吹くといった役目が与えられてきたこと、昨今その役を御家中の子弟に取られてしまい、対馬の府内法者たちは大変苦しい生活を余儀無くされていること、また対馬の法者たちが厳原いずはら八幡宮の祭礼、奈多連なたれの浜の八張弓はちはりゆみの祭礼、御卵塔風流おらんとうふうりゅうの祭礼に奉仕していたことが分かる。
 この奈多連の浜の八張弓とは、『宗氏家譜略』の伝えるところによると、室町時代の文明一八(一四八六)年六月三日に、第一一代貞国の夫人で花田将監の娘が七つの卵を産んで死亡した。その霊の祟りが甚だしかったため、鎮めるために使用されたものであるという。厳原港の北に奈多連の浜はあり、その浜辺で法者たちが八張の弓を篠竹しのだけで叩く。そのかたわらには巫女が八人、鈴を打ち鳴らしてそれに唱和する。これが終わると蟇目ひきめの神事といって、弓を射る行事がある。また御卵塔風流の祭礼とは、厳原で行なわれた盂蘭盆うらぼんの行事で、この行列において大太鼓を打つ役を法者が勤めていた。
 このように法者と太鼓、弓とは切っても切れない縁があり、かつまた法者と巫女がセットになって祭を執り行なうという形態が注目される。

 法者の数
 残された資料などから、一六五八年には府内法者が一一人、田舎の法者が五二人、合わせて六三人の法者がいたことがわかる。これが幕末の安政二(一八五五)年になると府内法者が四人、田舎が一六人と二〇〇年の間で三分の一になっている。また「寺社方記録」を見ると、八幡宮の祭礼は府内法者だけではまかないきれないので、田舎の法者を祭りに加えたといった記事が少なくない。

――「御壁書写」峰町志多賀の八坂家文書
  法令にみえる法者のすがた

 壁書というのは、もともと壁に張り出したことから呼ばれたもので、一種の法令である。これは寺社奉行が命令した文書で、新規に寺社仏閣を建ててはいけないこと、夜中に寺院坊舎に婦女をとどめてはいけないことなどが記されている。
 法者に関しては、「一、唯今迄、神主山伏験者巫女仕り来り候筋目の者は、子供の内一人その職を継ぐべし。新規に弟子を取り立て候儀、堅く禁制せしむこと」という一文がある。「験者」というのは法者のこと。昔は験者ともいった。神主・山伏・験者・巫女が跡継ぎを決めるときは、自分の子どものうち一人だけをその職につかせること、また新規の弟子を取り立てることを禁じられているのがわかる。

 命婦の跡継ぎ探しの場合
 「寺社方記録」には、命婦が年老いて引退するとき、子どもがいないため、自分の跡継ぎ探しに腐心するといった記事がたくさん出てくる。命婦の家を絶やさないために法者の家の娘、とくに田舎の娘を養女に迎える。どういう人がなるかというと、体が弱く田舎働き、農作業などの力仕事ができないため命婦や巫女になることが多かった。そして法者の家や命婦の家で舞のことなどの稽古をして、ある程度素養が身につくと、命婦の家の跡取りとして適格であるという許可が寺社奉行から下される。

 「験者神子定め書」(仮)八坂家文書
 法者頭の蔵瀬乾右衛門が、配下の峰郡の験者(法者)と神子に宛てて守るべきことを書きだしたもの。これにもまたいろいろな情報が盛り込まれている。新法の祈を行なってはいけない、新規の弟子をとってはいけないだとか、また太夫号をつけてはならない、四方髪しほうがみをしてはいけないなど。
 なぜ太夫号が禁じられたのか。その理由としては、当時の殿様が右京太夫というような太夫号を名乗ることがあったので、それと同じになってはいけないということが考えられる。また総髪(四方髪)に関しては、法者頭である蔵瀬家は代々総髪を許されているので、配下の法者たちと区別するという意味合いもあったのではと思われる。この蔵瀬家は代々比叡山に登って修行をしており、官位をもらったり、いろいろな許しをもらったりしているが、そのひとつに総髪もふくまれている。

 比叡山と蔵瀬家のかかわり―比叡山横川鶏足院光□書状
 蔵瀬家には比叡山横川鶏足院光よかわけいそくいんこうさんの文政三(一八二〇)年の書状が残っている。その書状にはお堂を再興させるため勧進帳かんじんちょうを回すので、法者の人たちの力もあわせて協力してほしい、といった内容が記されている。
 また蔵瀬家の配下の法者たちも比叡山に登って修行をした。蔵瀬家には配下の者が修行をするにあたっての定め書が残されており、これも光□が文政八(一八二五)年に書いたものある。
 その第一条は、法者頭の添簡てんかん、つまり紹介状を持たずに比叡山に来た者には九字護身法くじごしんぼうなどを伝授しないこと。第二条は結縁灌頂けちえんかんじょう直綴じきとう三宝朱印さんぽうしゅいん冥加金みょうがきんのこと。第三条にはみだりに朱印を乱用する者は法者職を取り上げること。そして修行のあかつきに、補任状ぶにんじょうをもらっている。文政年間の蔵瀬元明は、文政九(一八二六)年に横川首楞厳院別当よかわしゅりょうごいんべっとう光□より比叡山根本如法堂こんぽんにょほうどう僧綱職そうごうしょく()の法橋ほうきょうに、その翌年には法眼に任ぜられている。

 「寺社方記録」に見える法者の活動│蔵瀬兵部の場合
 「寺社方記録」文化一四(一八一七)年六月二九日の条には、蔵瀬兵部の活動が記されている。
 法者頭の蔵瀬家は代々、年始と盂蘭盆のときに殿様にお目通りをしてお礼を申し上げた。これは蔵瀬家に限ったことではなく、寺社奉行配下の出家、神職、山伏、法者という順に格式が決まっており、それに応じてお礼を申し上げた。法者頭は一番格式が低いので下段よりお礼を申し上げたのである。
 この蔵瀬兵部はなかなかの人格者で、労を厭わずいろいろな祈をしている。寛政・文化・文政と対馬に何度か疱瘡ほうそうが流行るが、そのときも村々を回って祈をしたり、我が身を惜しまずに献身的な働きをした。それゆえ殿様から褒美をもらったり、中段に登ることを許されてもいる。
 この蔵瀬兵部は雨乞あまごい(文政二年九月一九日)のほか、村に疱瘡が流行した時(文政五年五月二三日)にも祈を行なった。この時村人たちは恐怖におののき、仕事もそっちのけの状況だったが、それでは対馬藩としては困るので、法者頭をさしむけ村人を説得させたり、疱瘡の治療の仕方、看病の仕方などを教えさせた。こういった活動を通して蔵瀬兵部は功績をあげてゆく。また文政五(一八二二)年一〇月一六日の条にも不浄払ふじょうばらいを行なったこと、看病の仕方を教えたこと、それによって褒美を賜ったことが記されている。

 蔵瀬家の伝承
 蔵瀬家は平安時代、菅原道真の最大のライバルといわれた三善清行が先祖と伝えている。三善清行の伝記をみるとその子孫ははっきりとは分らないが、息子に浄蔵貴所じょうぞうきしょという有名な高僧がおり、その子どもが対馬へ流れてきて、それがいまの蔵瀬家のもとになっているという。
 また平安時代の末期、保元の乱で讃岐国に流された崇徳上皇は、国司の娘に手を出して子どもをみごもらせてしまう。このとき京都に修行に行っていた蔵瀬家の先祖が帰りに讃岐に寄り、そこで請われてこの娘を対馬へ連れて帰り、生まれた子どもを養子として育てた。この子どもは長ずるにおよんで法者頭となった、という皇胤伝承こういんでんしょうものこっている。実際、大正年間にいたるまで、先祖誰々の命日、あるいは何年祭というような祭をずっと続けてきている。
 寛永から寛文の頃に書かれたとおもわれる年中行事の記録をみると、蔵瀬家では代々の家長や、先祖である三善清行を老松宮、また崇徳上皇を金比羅大神として祀っている。そのほか、はじめて対馬にきた先祖を寄神よりがみ大明神として祀ったり、浄蔵貴所を疫伏やまぶしの宮として祀ったりしている。こういう歴史の表面には出てこないものが法者頭蔵瀬家の伝承として伝えられてきた。

――先祖の弔い―かみ・関渡し・山入祈

 江戸前期の御壁書写「八郷江之壁書之控」の延宝五(一六七七)年正月二日の条に、先祖の弔いは派手にしないで軽く済ませるように、また付記として「かみ」「関渡し」「山入」といった祈は堅く禁止する、ということが書かれている。同様の記事が御郡奉行所の「毎日記」の延宝五年一二月二一日にもあり、元祿六(一六九三)年の「八郷江之御壁書控」には、「先祖の弔い分限相応に致すべく候。分に過ぎたる結構つかまつるまじく候。付、かみ、関渡し、やまいれ御祈停止せしむ事」とある。宝暦七(一七五七)年九月九日の定め書には「百姓働方之事、心得の事」として「一、病と凶事とは、廻り廻りの事と思い助け合い申すべき事。但し病人には、手軽き祈は心次第、かみせきわたし、山入れ等無用、惣じて行者にてこれ無き者へ、祈りを頼み申す間敷き事」とある。この場合の行者というのが法者にあたる。
 「寺社方記録」寛政四(一七九二)年一〇月一五日の条には、蔵瀬家における先祖の年回忌について「関渡し」の際は質素に行なうようにという申し渡しがある。「蔵瀬乾右衛門 右は今晩先祖年回にあい当り候につき、関渡し供養仕りたく存じ奉り候。もっとも御時躰柄につき軽く執行仕るべく候あいだ、この段かように御届申し上げ候よし、手紙をもって申しいだし候につき、申すまでも無く候らへども、随分質素に致し候よう申し達す」
このように対馬藩では江戸時代を通じて、先祖の弔いである、「かみ」、「関渡し」、「山入祈」というような祈が繰り返し禁止されている。これは、それらの行事がかなり大掛かりな先祖祭であったため、島の人びとの分限を超すものだからと考えられる。
しかし、何度も何度もそれを禁じる法令が出されているということは、むしろ、隠れてこれらの先祖祭が実修されてきたという経緯を示している。

 「山入祈」―舎利倉家本『山入座法』より
 さてこの再三禁止されている「かみ」「関渡し」「山入れ」であるが、実際にはどのような行事であったのかはほとんど分かっていない。しかし舎利倉家に伝わる寛延三(一七五〇)年の『山入座法やまいれざほう』をみてみると「山入れ」に関して少し分かってくる。そこには座の飾りの次第のほか、唱えられた祭文類、なかには「役の行者説経」といった内容が記されている。これは祭文研究の上でも非常に役立つのではないかと思われる。
 こういう記録は今まであまり紹介されてこなかった。しかしこの記録を通して、「山入れ」の祈の際に巫女がそれぞれの役割をもって参加していたということが見えてくる。

 「かみ」―「新羅神供養大事」の世界
 先の法令で禁止されていた「かみ」とは「新羅神供養」のことをいっていると考えられる。「新羅」は「シンラ」ではなく「サラガミ」と読むべきもので、対馬の霊祭神楽れいさいかぐら、あるいは先祖祭の神楽を新羅神供養さらがみくようと呼んだ。私はこれまで一四年ほど対馬の資料をみてきたが、対馬の霊祭神楽の次第しだいを書いたものは何一つなかった。そして唯一、この「新羅神供養大事」がその次第を記したものである。
 これは平成六年の冬に東京古書会館での古書市に出されていたもので、目録で知りすぐに注文したがその時すでに買い手がついてしまっていた。結局手にいれることは出来なかったが、気の毒がってくれた古書店の主人が、買い主の来るまでのわずかな時間で必要な所を写してもよいと許可してくれ、それでこの次第の部分だけ、写し間違いがないか目を皿のようにして三回も四回も確かめて書き写した。

 寄絃よつら
 「新羅神供養大事」は奥書に萬延元(一八六〇)年とあり、内題には「新羅神供養秘書」「両部習合引導作法」とある。そして「新羅壇定次第」として次第の内容が記されている。これをみると「注連舞」や「釼キ舞」などいろいろと神楽舞いが舞われていたことが分かる。「注連舞」の次には「ヨツラ張る」とあるが、この「ヨツラ」という言葉は平安末期に成立の『新猿楽記しんさるがくき』の巫女の箇所に出てくる。
 ある裕福な一家が総出で京都の祭を見に行く。四番目の娘が巫女で、その巫女のところに「ヨツラ」と書いてある。『新猿楽記』の一番古い康永本には寄絃とあって「ヨツラ」と字が振ってある。つまり弓に弦を張る、そのことを「ヨツラ」という。巫女が祈をするときに梓弓あずさゆみを打ち鳴らす意で、『新猿楽記』と同じ言葉が「新羅神供養大事」にも出てきているというのは面白い。

 綱教化・提婆
 さらにこの「新羅神供養大事」の次第を見てゆくと、「行列」の次が「綱開ク大事つなひらくだいじ」で、次は「経化きょうげ」、次は「提婆だいば」とある。経化方と提婆方とで問答が行なわれたと考えられる。というのも豊田家には「綱教化つなきょうげ」と「提婆」のそれぞれが、自分の言う台詞だけをまとめた資料が残されているからである。「提婆」の方は表紙が無いのではっきり断言できないが、舎利倉家や扇家に残された「提婆」の詞章と照らし合わせてみれば、これが「提婆」であると推定できる。
 「綱教化」の最初の言葉は、「初春はつはるしげくひらける瑠璃るりに、魔王まおうものすぞあやしき」「山高やまたか岩厳いわをきびしくはなも、荒平あらひらふさでだれかふすべし」というもの。一方の「提婆」は、「初花や繁く開ける瑠璃の地に、荒平ふさで誰かふすべし」「山高しいわをきびしく咲く花も、荒平ふさでだれかつむべし」というように、これらが掛け歌になって行なわれているということが分かる。「綱教化」と「提婆」の詞章を最初に見たときは、両者とも同じようなことをしているなと思い、良く分からなかったが、新羅神供養の次第書をみると「綱教化」と「提婆」が一緒になって一つの次第を構成していることに気付く。

 荒平あらひら
 ここに「荒平」という名が登場してきた。かつて岩田勝氏は「しはんぢやうの杖」や「荒平考あらひらこう」などで中国地方の荒平、また鹿児島県の祁答院けどういん町の藺牟田神舞いむたかんまいなどを考察された。対馬にもまた「荒平」というのが登場しているということは非常に面白い。
 中国地方の荒平あるいは柴鬼神しばきじん柴荒神しばこうじんなど神楽に出てくる荒平とは異なって、こちらの荒平は新羅神供養という、先祖祭のときにでてくる荒平であり、しかも成仏しようとする死者の霊を妨げるといった役割で登場する。祁答院の藺牟田神舞の荒平、鬼にもそういう面はあるが、これが生の問答体で出てきているというのは神楽研究の上でも非常に面白い資料ではないかと思う。
 舎利倉家本「提婆」では、詞章が記してある肩の部分に、なにか小さく字が書いてある。一方はよくわからないが、もう一方の「山たけし岩をきびしきるりの地に、荒ひらふさで誰かふすべし」という詞章の肩のところには「鬼」と書いてある。このことからも、鬼ともう一方との問答となっていることがわかる。そうすると豊田家の「提婆」、これが鬼にあたり、「綱教化」がもう一方の、鬼と問答する者の唱えた詞章であったことが推測できる。

 翁の語り
 この豊田家本の「提婆」のなかで一つ強調しておきたい箇所がある。「なお汝おろかにまします。それをいかにと申すには、かの翁がよわひ久しきいわれを語って聞かせ申せば、近江の湖が三千年、七度ひいて、山となり、川となり、瀬となり、岩となりたるをも、七度見てあるぞや。それのみならず、西王母が園の桃、三千年に花咲き、九千年に実となりたるをも、七度みてあるぞや。かほどよはひ久しき翁が絡め取ったる神の御綱を許せとや、思いもよらぬ御事なり」。
 翁猿楽を研究している人ならお分かりの通り、古戸田楽ふっとでんがくの翁や西浦にしうれの田楽の翁といった、東海地方の翁の語りによくみられる詞章である。能のほうに『幸正能口伝書』という小鼓方の幸流の伝書があり、そのなかにも、例えば「近江の湖の千歳経てはもとの桑原となり、千歳経てはもとの湖となりしをも、らい三度までみたれし翁なり」というような翁猿楽の詞章がでてくる。とすれば「綱教化」・「提婆」は、古い詞章の名残を留めているのではないだろうか。舎利倉家の「提婆」は安政年間、豊田家のも江戸の後期の資料ではあるが、ここに盛られている詞章は、新しいものとは考えにくい。翁と鬼との関係を究明していく上でも、この「提婆」は非常に面白い資料ではないかと思う。

――幕末の見聞記―『楽郊紀聞』『反故廼裏見』


上:『提婆』舎利倉家本
下:内野対琴著『反故廼裏見』九 日之巻
 幕末の見聞記に中川延良の『楽郊紀聞らくこうきぶん』というものがある。これを鈴木棠三氏が翻刻し、さらに校註を加えられたものが平凡社の東洋文庫に入っており、たやすく読むことができる。しかし残念なことに、この原本は現在行方不明になっている。
 この『楽郊紀聞』の素晴らしい点は、だれからこの話を聞いたか、という取材源、場所、がはっきりと書いてあるということ。『楽郊紀聞』の中の単なるエピソードのような記事でも、御郡奉行の日記などを丹念に見ていくとそこにきちんと裏付けがある。それほど『楽郊紀聞』記事というのは信憑性が高い。民俗学的にも貴重な素材がたくさん詰まっている本といえる。
 内野対琴うちのたいきんの『反故廼裏見はごのうらみ』も対馬についての見聞記である。この人は幕末から明治大正にかけて生き、中川延良に負けず劣らずの記録魔であった。明治になってからも丁髷姿をずっと貫いたという変わり者で、記録に関しては宗家の御判物や古文書を、何日もかけて集中的に写したり、父親が亡くなったときに、デスマスクをスケッチしたり、また石碑であるとか、集落の見取り図や家々の配置といったものまで記録している。現在この『反故廼裏見』は長崎県立対馬歴史民俗資料館に寄託資料として入っているので、容易に閲覧することはできる。

 『反故廼裏見』に記録された「かみ」
 内野対琴は『反故廼裏見』のなかに法者の祭文の類も記録している。この『反故廼裏見』は引用されることの多い資料であるが、非常に読みにくい。読み間違うのを承知で読んでゆくと、「私は十一才に法者は下餅屋の外の庄司吉右衛門と云しかかはみこなり」。庄司吉右衛門という実在した法者でその奥さんが巫女であった。「それに貰ふてゆきたり、随分かみにつれられゆきたり」。それに貰われて行き、「かみ」、つまり先祖祭の時の新羅神供養と思われるが、それに随分連れて行かれた。そして、「おしきの舞、釼の舞も習うたり。釼の舞はかみと云ふあり。くびしめし者ある時、浮かぶ方法かみと云ふて、山立てて祈る。あけびは大蛇の如きつななり。両方にはり、一尺六寸位ひのわき差しを」。この脇差しでもって「かやりゆきてそれを切る。刀をかやりかやりして舞う式なり。くびしめを浮かばせんとすることと見へたり」とあって、「かみ」の時に舞われた釼の舞について書いてある。続いて「おしきの舞は丸ぼんを舞う。両方に持って、手のはらにつけて落とさぬ様に舞う。これを供養に右のかみにそへるなり。落とさぬ様に舞うに、からだをひねくりまわる事なりし。右を習いたり。それからかやりしても盆を落とさぬ様になりたり」と書いてある。
 さらに先を読み進めると「山」についての記述もある。「山と云ふは(略)かけ上げし天蓋の如き笠あり。夜ふけには笠から花も散らしたりし」。よく神楽などで用いられる白蓋びゃつけとか天蓋とかとよばれる物の類らしい。上に切り紙をのせておいて、揺することによって、切り紙が降ってくるとか、花吹雪きが散るというようなことを、この新羅神供養のときにやったのではないかということが推測できる。
 この資料は幕末から明治にかけてのものであるが、幾度となく禁止されていながら、こういう大掛かりな先祖祭、新羅神供養がこの頃まで行なわれていたということが分かる。

――今後の課題


 両部兼帯
 これまでは対馬の法者の法者頭と寺社奉行の関係、あるいは法者頭と配下の法者との関係に注目してきたが、対馬にはまた神職、社人を統括する総宮司職のとう氏がおり、厳原八幡宮の宮司でもあった。今まで藤氏の関係資料は見つからなかったが、最近になってこの藤氏の文書の所在が分かってきた。したがって、これからは、この総宮司職そうぐうじしきである藤氏と支配下の神職たちの動き、また蔵瀬家と法者と神職の関係について考えてゆこうと思っている。
 両部神道の法者頭である蔵瀬家は、府内と田舎の法者と神子みこを統括していた。神職のなかには、総宮司職の藤氏の統轄下にありながら、両部兼帯として蔵瀬家の差配を受けるものもいた。一方神子(巫女)や法者も蔵瀬家の支配を受けながら、神楽師として藤氏の差配を受けた。また英彦山ひこさん派の梅本坊、本山ほんざん派の南岳院それぞれの下には修験者がいて、さまざまな祈を行なっていたし、同じく配下には命婦や神子がいたことも分かっている。修験関係の文書の消息はいまだわからないが、総宮司職である藤氏の文書を見てゆくことによって、この両部兼帯という実態、錯綜した支配関係がもう少し具体的に分かってくるのではないかと思う。


本論は、二〇〇〇年一〇月二一日、「宗教芸能研究会」の二〇〇〇年度第三回研究会として行なわれた報告を、本会の責任で要約したものである。(会代表・山本ひろ子)

わたなべ・のぶお
専攻・民俗芸能。早稲田大学演劇博物館の勤務を経て、現在、昭和女子大学文学部日本文化史学科教授。


(注1) の字は正しくは「」であるが、ここでは「祷」を代用した。
(注2) の字は正しくは「」であるが、ここでは「燦」を代用した。


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