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「アジアの教育―研究と交流」プロジェクトチーム◎

インドネシアの教育
自立への模索

石原静子 本学名誉教授

一 はじめに〈多彩な国インドネシア〉

 インドネシアに行く意味と旅程
 和光大学総合文化研究所のプロジェクトチームの一つ「アジアの教育―研究と交流」チームは、専門の異なる教員九名から成る。一九九七年春結成以来、
 (1)アジア諸国の教育状況を社会的文化的背景の中で実地調査する、(2)比較検討により日本を含むアジアの教育・社会の今後を考える、(3)若者同士の交流をはかり必要可能な支援の道をさぐる、の三つの目標の下、ラオス、カンボジア、パプアニューギニア、ネパールを訪れた。三年計画最終年である九九年度は、訪問先にインドネシアを選んだ。その理由は、主に三つある。
 (1)世界一の多島多民族を統べる国家の教育制度とは、(2)急激な近代化と九八年以来の経済危機の中での社会・教育状況、(3)国民の九〇パーセントを占めるイスラム教との関係(これまでの訪問国が各々、仏教、キリスト教、ヒンズー教だったから順当な選択)の三つである。
 現地へのアプローチはこれまで、国情やツテの有無に応じてさまざまだが、今回は法政大学法学部教授鈴木佑司氏に当国の政治・社会状況についてご教示頂いた際に、現地JICA(日本国際協力事業団)の知人をご紹介頂いた。さっそく電子メールで挨拶と当方の希望を伝え、詳細は現地でとお願いしての離日となった。参加メンバーは、人間関係、経済両学部の教員四名と研究所員一名の計五名であった。
 調査日は二〇〇〇年二月二六日から三月五日までの正味九日間、場所はジャワ島と隣のバリ島に絞った。日程両端に土日が来て学校等が休みのため見学中心とし、中央の五日間を調査に専念した。日と訪問先は、次の通りである。
 二月二八日(月)バリにて、ホテル旅行カレッジ、バリ芸術大学、二九日(火)ジャカルタにて、JICA、インドネシア大学医学部、三月一日(水)、バンドンにて、インドネシア教育大学、三月二日(木)同、NGO研究所AKATIGA、同「子どもに自由を! の家」、バンドン工科大学、三月三日(金)ジャカルタにて、貧困地域の小学校。
 以下の記述は訪問順ではなく、二でまずインドネシアの教育制度全般と最近の改革動向を記し、三に訪問五大学の実況を、四に小学校とNGO関係施設について書き、五で以上の見聞から、この国の未来やわれわれの関わり方について考えたことを、まとめようと思う。その前に参考になるインドネシアの概況を記しておこう。

 略史・状況と初印象
 ジャワ原人の出土で知られる通り、この地は五〇万年もの昔から人が住んだ。最近ユネスコの支援で修復中の仏教・ヒンズー教の巨大遺跡は八〜一〇世紀の建造で、文化的技術的レベルも高かったと分かる。多島に小王国林立の時代は長かったが、一六〜一七世紀オランダ船が来てやがて植民地となる。一九四二〜四五年日本軍の進攻と占領。敗戦により復帰したオランダを相手に独立戦争が起こり、完全独立は一九四九年、初代大統領スカルノ。六五年以来スハルト政権が長く、最近ようやく与野党の連合が成った。
 人口約二億、中、印、米に次ぐ人口大国で、二人っ子政策実施中だが、そう厳しくはない。民族語三〇〇〜四〇〇といわれ、独立時マレー語を母体とするインドネシア語を共通語として、国家統一に努めた。対日感情は比較的良いが、これは占領当時激戦地でなかったこと、現地人を兵補に養成し、敗戦後は一部日本兵が独立戦争に参加指導した、などの事実も影響しているだろう。この脱走・残留日本兵が今も数十人生存とのことで、会ってみたかったがツテがなく残念であった。街を歩くとたびたび親しげな日本語で話しかけられたし、日本円が通用する店は多い。
 ついでにインドネシア初見の感想を言うと、多彩な国、の第一印象だ。バリは青い海に白砂のビーチ、巨大ホテルが続く世界的観光地だが、飛行機でひと飛びのジャカルタは、高層ビルだらけで早朝から車の列が流れ続け、排気ガスと騒音で陽も曇る。バンドンは緑豊かなおちついた町、仕事を終えて訪れたジョクジャカルタは、椰子の林に石組みの遺跡がどっしりと座るロマンの地だ。
 主食は米だが、気温が高め一定のここでは年三回収穫でき、いつ植えてもいいそうで、青苗なびく田の隣で黄金の穂がみのり、その隣は茶色の牛二頭に鋤を引かせて田起こし中、という具合。訪問した二、三月は雨季で、ほぼ毎日突然バケツをひっくり返したような雨が降ったが、四月からはほとんど降らない乾季という。
 人びとの服装も、多彩だ。バリでは鮮やかな色と模様のロングスカートを男女とも着ていて優雅だが、ジャカルタの街は汚れた安手のシャツとズボンであふれている。裾も袖も長い服に白っぽいかぶりもののイスラム女性が、街やキャンパスを往き来する。そこだけ見える顔の色がまた、白から黒までさまざまなのは民族の違いだろうが、こう多彩では一々気にしていられない、というのが案外民族融和の基本にあるのかもしれない。

二 インドネシアの教育制度と改革動向

 一に記した経過で、正規の調査行は二月二九日のJICA訪問と打ち合わせから始まった。日本ではバリを中心に観光案内は山のようだが、教育に関する情報はゼロに近いから、この時およびその後あちこちの大学で聞いた話、もらったパンフなどを総合して、インドネシア教育制度の大よそと、今さしかかっている改革の方向とを略述しよう。

 教育制度
 初等教育が七歳からの六年、中等前期三年で、ここまでが義務教育、後期つまり高校三年、高等教育は大学四年、修士二年、博士三年(この三段をS1、S2、S3と称する)と重ねる形は、日本を含む多くの国と同じである。幼稚園はほとんど私立で、行く子は半数未満、就学率は九六―七年に小学校九五パーセント、中学五一パーセント、高校三〇パーセント、大学一七パーセントとある。どの数字もこの二〇年ほどの間に二〜八倍増だが、留年や中退があって小学校全課程修了者は七〇パーセント見当とのことだ。このほかに職業高校と諸種専門学校が並存し、後者は資格(ディプロマ)取得までの年限によってD1、D2、D3と称する。
 他の国と違うのは、以上の階梯すべてに並行して宗教省管轄のイスラム学校系列があり、どちらを選ぶのも自由なことだ。しかしイスラム校生徒はせいぜい一〇パーセント前後で、カリキュラムも宗教の時間が少し多い他はほぼ共通なので、近々国民教育省管轄に統一されるそうだ。
 小中学校のカリキュラム表を見ると、筆頭に「パンチャシラ公民教育」というのが一貫して週二時間あり、これは国の教育方針を五カ条にまとめたもので、神への信仰、人道主義、統一と団結、民主主義、助け合い、の五倫理規定である。インドネシア語が低学年で一〇時間、中学でも六時間と多く、民族語地域語で育った子にとって外国語に等しい負担という。英語は中学四時間が小四から二時間に早まったのは、どの資料にもまだ載っていない最新の変化とのこと。カリキュラム、教科書共に全国同一で、最下欄に「地域裁量」二〜七コマがあるが、後日小学校の現場で聞いたら少年団など課外活動にあてている、との話だった。
 普通高校生の約半数、職業高校生では七割が私立に通う。高等教育諸校一六六七校中、国立は大学と専門学校を合わせても一〇〇に満たない。しかも国立の在籍数は各々三分の一、三分の二を占めるから、小さな私大が多いわけで、かなり質の低いものも少なくないという。
 学校階梯の境目ごとに統一試験があって、中学、高校とも得点で進学先が決まるため、各校はみごとに序列化される。少数の宗教立(キリスト教など)学校が高位で、公立をはさんでイスラム学校は貧しいあるいはハンデのある子が行く福祉的色彩を帯びている。
 大学も国立は統一試験で振り分けられ、インドネシア大学、バンドン工科大学(日本なら東大、筑波大にあたるかも)を頂点とする序列ができる。病院、研究所等にも格付けがあり、学歴と序列の社会といえる。反面、女子の差別は少なく、小中学校の就学率は男子の九割を超え、大学でも七割強とある。

 改革の三方向
 政府は五年ごとに「国家政策大綱」と呼ぶ国策の指針を出していて、最新一九九九〜二〇〇四年のそれを見ると、教育分野では七項が挙げてある。うち教育予算の拡大、若者の潜在能力開花、モラル育成などは一般的な目標だが、具体的なものに教員の質向上、科学技術教育の充実、教育の地方分権と地域ニーズへの対応、がある。資料と聞いた話とから、簡単に解説しよう。
 教員の質の向上は、初・中等、高等を問わず、教育の改善に欠かせない急務である。これまで小学校教員は高校年齢の職業学校(つまり戦前日本の師範学校)で養成していたが、現在は高卒後一〜二年、つまりD1、D2を求めることになった。が、まだ大多数の教員はDを持たず、再教育プログラムが必要である。教員の給料は安く、社会的に尊敬されず、若者に魅力ある職業ではない。一一六万人もいる(私学の教員も多くが公務員)から簡単には上げられず、教員が学校を留守にしての副業は半ば公認だそうだ。高等教育段階でも、国立大学でさえ教員約四万人中七〇パーセントが学士、つまりS1かそれ以下、専門学校教員で修士以上は四パーセントに満たない。したがって大学院の拡充と並んで、教員養成カレジ一〇校の総合大学化、D3までだった専門学校のS1化など、各種格上げと内容改善が盛んに行なわれている。
 科学技術教育の充実も、右のことと関連がある。国立私立を問わず、大学で科学技術関係の領域で学ぶ学生は合わせて三〇パーセントほどで、この比率を増すと共に質を高めて、ハイテクを駆使した産業の革新を進めたい。それには並行して、初・中等段階から理数科教育を改善して科学技術的素養の裾野を広げること、その方の教員の数と力量を増すことが必要だ。経済危機で外資・技術が去ると、たちまち立ちゆかなくなる自国産業の脆弱さを自覚したことから、これらの要請は急速に強まったといっていい。
 改革第三点だが、中央集権の強さはスカルノ以来この国の特徴の一つである。多島多民族の国家統一に強い牽引力が要ったにはちがいないが、教育の面でいうと、カリキュラム、教科書、教え方の隅々まで政府がとりきめることになる。この画一性が地域の実態や希望を無視した硬直となって、産業の自立発展を妨げる一要因化した、との自省から、これまで州が教育に関わる仕事は小中学校の校舎建設と保全程度だったのを改めて、大幅に権限と責任を委譲しようとする。しかも政治経済諸面を含めた地方分権を、二〇〇二年四月に実施とすでに決める性急さである。
 スカルノ以来、否植民地時代からの受け身に慣れた国民が、急激な自治委譲に対応できるか、混乱して逆効果を生じないかとの心配を、滞イ中あちこちで聞いた。

 日本の援助――JICAの役割
 JICAを実行部隊とする日本の援助は、教育の領域では上の第二点と深く関わっている。周知の通り、途上国への援助は資金(借かん)と技術の二類で、JICAの受け持ちは主として後者だが、その中で教育援助が占める比率は一貫して小さい。しかし前記の危機感からくるインドネシア政府の要請を受けて、このところ一〇パーセント台を上昇しつつあるとのことだ。両国政府間で理数工系教育の充実に関して四一項にわたる援助のとりきめがなされ、JICAはそれに沿って、大学、ポリテクニク(日本なら技術高専)と初・中等段階の両面にわたって、プロジェクトを組むことになった。
 前者は、各校に新鋭の機材を贈ってその活用と管理を指導し、日本の大学・高専への留学や専門家招聘の橋渡しをし、国内大学・高専間の交流や内地留学を促進する、などを内容とし、すでに一〇年の実績がある。後者の初・中等段階は、最近の要請を受けて新規五年計画のプロジェクトで、その中心は理数科教員養成の改善向上である。急がば回れの根本的改善策で、教員の質向上という前記第一の改革方向の援助も兼ねることになる。
 総合大学化したばかりの教員養成大学一〇校中、主要三校(バンドン、ジョクジャカルタ、マラン)を拠点とし、まず理数科教員養成の実状と現場である小中高理科教育と、両方の実態調査から始めた。日本から関係領域の専門家を招いて一〇大学から募った協力者と合議し、カリキュラム、シラバス、教育方法等の改善策を練り、教科書・教材を試作する。試案試作を次々現場におろして検討し、セミナー開催や広報を続けて、やがて全体的な改善見直しに至る計画である。目下プロジェクト二年目が進行中で、機材・実験器具など物的改善は見えやすいが、教員の意識改革はなかなか、とのことである。
 こうした援助要請が来るのは、日本のこの面のつまり技術力を見込んでのことらしく、他の国にはそれぞれ、例えば政治・社会方面、民主主義教育はアメリカに発注だそうだ。虫がいいと言えばそれまでだが、そんなしたたかな主体性が被援助国には必要なのかもしれない。

三 インドネシア五大学訪問〈多彩さはここでも〉

 ご当地の東大医学部
 JICAでの懇談でこの国の教育状況の大よそを理解した上で、いよいよ具体的な訪問調査始動となった。ところが希望してあったインドネシア大学の某教授が、多忙でアポイント困難の上に、所属学部が三〇キロ離れた別キャンパスという。あっさりあきらめて、市内キャンパスの方にいわば裏口訪問をすることにした。この時に限らず、わがチームが初年のラオス行以来やってきた常習の調査法で、正面切って当局者の話を聞くよりも手近な学生・生徒と自由な対話をする方が、かえって目的の実態に触れ得ることがある。もちろん今回を含めて、教育の全体構造が分かっていることが前提で、即席無名のデータもそこに位置づけ得るし、思いがけない意味も持つのである。
 JICAで教わった統計局をまず訪れて、必要な資料を手に入れた。そこから近いインドネシア大学は医学部で、巨大な病院と並ぶ白亜の殿堂だ。玄関を入ると、大きな飾り付きの回り階段が重々しい。長い廊下の一方の壁に、一九五三年に始まる毎年の入学者の姓名を約一五〇人ずつズラリと彫った金属版が、埋め込んである。中国姓やオランダ風の名もあり、ここに学ぶ名誉の象徴なのであろう。
 年をたどって奥へ進むうち、休み時間か若々しい学生の一群と出くわした。さっそく英語で対話開始。
 二年生だそうで、ここジャワ島人が多いが、他島出身も数人。修業年限は六年で、一年次は教養科目が多く、二年から専門の実習が始まるという。外科小児科などの専攻をいつ決めるかと聞いたら、その制度はなく、医療万般を学ぶと答えた。皆出身地に戻って医者になると言うから、何でも診療できる幅広さが望まれるのだろう。親が医者なのは挙手半数ほどで、兄弟は一〜三人、少なくとも子だくさんの階層ではない。病気自体の研究をする人はと聞いたら、十数人の目が一斉に色黒い男子の一人に集中して、何か言えと促す風だ。日本でいう基礎医学志望は、少数と見受けた。難しい科目は?―「生理学」。「精神医学」には関心が薄い、と実際的である。この土地特有の病気は?―「マラリヤ」、克服の方法は?―「衛生環境の整備」と、さすが優等生たち。イスラム衣装の女子学生も加わって、皆よく笑う。医者不足だが、無医島は意外に少ないそうだ。一緒に写真をとり、「しっかり勉強して良い医者になって」と言ったら、一斉に「イエース」「サンキュー」。
 時ならぬ対話の輪を見かけてか、ヒゲの中年男性が日本語で話しかけてきたので驚いた。岡山大学に留学していたという情報工学者で、ここの教員ではなく航空工学研究所に勤務、医学部には医療事務者養成コース(D3)もあって、毎週二コマ、コンピュータ等を教えにくる非常勤講師だそうだ。日本とインドネシアの学生、どちらがよく勉強しますか?。即座に「後者」の答が笑いながら返ってきた。看護婦養成コースもD3であるという。
 教室棟の一角に短い階段つきのやや奥まった部屋があって、靴と靴下が脱いであり、低い声が洩れてくる。説明によるとイスラムの祈りの部屋で、ちょうど夕べの祈り(日に五度と決まっている)の時刻か、男女の学生が粛々と出入りする。入っていいと岡山氏が言うので、裸足になって恐る恐る入ったら、仏像風の飾りなどいっさい無いただの部屋で、隅の柱時計の下で男子が数人、何か唱えながら床に頭をくり返しつける祈りをしている。室内にカーテンで四角く囲った一角が女子の祈りの場で、隙間からイスラム衣装のひるがえるのが見えた。明らかな異教徒五人の侵入を誰一人咎めず、むしろニコニコと友好的であった。
 翌々日だったかの英字新聞に、インドネシアでは医学部を出て数年、辺地の医療にたずさわる義務があり、それを含めて息子を医者にするまでの長年月、両親はイモを主食に耐え忍ぶ、との記事が載っていた。これが全国全医学部の制度なのか、無医島の少ないことと関係があるのか、は分からない。が、もし制度なら、あの豊かに育ったらしいエリート医学生たちには良い経験をして良い医者になる一助では、と望む気持ちになった。

 バンドン工科大学を覗く
 イ大と並んで一、二を争う名門大学に三月二日、日本人留学生何とかケンタ君をたずねて入り込んだ。ちょうど帰日中で会えず、友人という修士課程の男子学生が代わって気さくに案内してくれた。昆虫学専攻だそうで、そのあたりは生物学関係の実験室が並び、イスラム衣装の女子を交えた数人ずつが、それぞれ熱心に実験していた。彼の話では、生物学科はこの工大では少数派、いちばん小さいのは天文学科だそうだ。それら自然史と共にある学問は、やはり現代のハイテク工学全盛に押されがちなのであろう。工大の設立自体はかなり古いらしく、何十周年だかの展示が体育館様の大きな建物全部を仕切って行なわれているのを見つけた。なるほど、どのコーナーでも学生たちが、最新技術を駆使して参観者を驚かせ楽しませるしかけを競っていた。
 その一方で、後述するが同じ日に、バンドンの街なかでストリートチルドレンの保護施設を訪れたとき、子どもたちの木工、絵、縫製などの指導に、この工大の学生がボランティアで来ると聞いた。狭い事務所兼即売所の棚一杯に積まれた作品は、この国伝統の手技や感覚を生かしながら新しい需要を探る意図が感じられた。エリートたちのこの協力は、どこの途上国でも生じがちな社会・生活の格差を自らの手で埋めようとする、貴重な奉仕と思えた。日本でも東大ほかにあったセツルメント活動を思い出させる。

 ホテル・旅行カレジは希望に満ちて
 JICAを訪れる前日のバリで、前記二大学とは対照的に、地域性にあふれた実務的なホテル・旅行カレジを体験した。アポなしだが図書館の女子職員が快く、やがて自発的に若い男子教員も加わって、歩きながらあれこれと話を聞き、キャンパスのほとんど全部を見せてもらえた。
 まず教室棟では、情報機器ぎっしりの部屋で学生たちが熱心に画面と向き合っている。大男の教員の説明によると、予約や客室配分に始まるホテル経営に今や必須の学習で、広域の情報交換・顧客開拓にインターネットも操るという。
 なるほどと教室を出た廊下で、このホテル管理学科の一年生たちにとり囲まれた。白シャツに金と茶模様の揃いのベストが若々しく、皆陽気によく喋る。学生数二〇〇〇のうちホテル関係が一六〇〇人と多く、料理、接客、会計など六科に分かれるとのこと。就職一〇〇パーセントで皆一流ホテルを望む、とわが宿を含めてバリの巨大ホテルの名が並んだ。したがってこのカレジに入学希望者は多く、中でもこの学科は難関で、誰は二回目、彼は一発組、と明るく指して笑い合う。機器を使いこなすホテル経営は、あこがれのエリート学科なのだろう。地元出身が多いが、他島からの子もいる。
 別の教室ではカウンター風の造りに男女学生が集まって、カクテル調合の真最中。ここでも歓迎されて、桜桃入りのをごちそうになり、赤から青へ四色に分かれるふしぎなカクテルを見せてもらった。
 大きな別棟は料理実習棟で、ホテルのそれを模した広い調理場で白衣白帽の学生たちが、汗まみれで働いていた。西洋、東洋両料理実習が同時進行中で、どちらかをメジャーに選ぶが他方も二〇パーセント学ぶきまりという。パン造りの教室も大鉢でこねていて暑そうだが、アイスクリーム実習室はさすがに冷房つき。グラビアを見ながら菓子のデザインをしている組もある。
 ここは一九七六年創立の国立カレジだが、こうした実習設備は外資系観光企業の寄付で整ったという。巨大冷蔵庫が数基あり、食料保管室ではこれもホテル式に多数の棚にそれぞれ札がつけてあった。好意で案内してくれる教員に専攻をたずねたら、客室整備だそうで、そんな科目もあるらしい。ホテル関係以外ではツーリズムとツアーコンダクターコースがあるそうで、旅行業と添乗員養成であろう。コースの内容次第でDの年限はさまざまとのことだ。ちょうど昼どきで、学生が作った料理の試食会にどうぞ、と誘われた。飛び入りなのにと恐縮しながらも好奇心半分、好意に甘えることにした。
 緑の校庭に面したテラス風の食堂に、四〜五人用テーブルが並び、われわれは分散して席に就いた。作ったばかりの料理を、これも実習の内だろう、男子学生が危なかしい手つきで配膳、サービスする。スープを移す手が慄えていたが何とかこぼさずにすんだのを、客役の女子が笑顔でひやかす。バンドン料理とかでなかなかの美味、聞くと週二回はこうした実習・試食があるそうで、マナーも同時に学ぶのか、慣れたフォーク使いだった。相互批評は特にしないが、テストの時は教員が食べて採点するという。
 JICA事業の一つである青年海外協力隊で来て、日本料理を教えているという日本人男性が姿を見せた。ここの教員は日本料理に不案内がちなので、まず彼らに教え、学生の指導もするという。箱根の有名旅館にいたそうで、任期二年後にはどんな土産を持ち帰るのだろうか。技を教えるだけでなく、スライドを使って日本料理の精神や歴史も講ずるとのこと。そういえば先刻見て回ったとき、昔のバリのかまどが設置されているコーナーを見た。実習で腕を磨くだけでなく、このカレジでは、旅行・観光と関連した多少の教養も積むらしい。
 どの学生も各自の興味・関心を生かして、キビキビと楽しそうに立ち働いていた。大観光地バリで世界からの客を迎え、良くもてなすことに誇りと夢を持って学んでいるのだろう。われわれ突然の未知の客に対する教員・学生共通のあけっぴろげな歓待に、確かに感じとれた。

 バリ芸術大学
 バリは海とビーチの景観だけでなく、ガムランと呼ぶ木金大小の管・打楽器を使いこなす絶妙の民族音楽と、華やかな踊りや影絵芝居が有名であり、またそれらに材をとった絵や彫刻、木工等々が街にあふれている。この地に芸術大学はまことにふさわしく、中身を知りたいとここも飛び入りで訪れた。好運にも学長、副学長がいられて、話を聞くことができた。
 学生数六〇〇人、教員一三〇人の小じんまりしたカレジで、パフォーマンス(音楽・歌・踊り)、絵、工芸の三学科から成る。島内各地域の芸能・制作マスターたちが教えにくるそうで、学長自身踊りの創作やプロデュースが専門という。そうした特性ゆえか留学生は三〇人と多く、日本人はうち一六人と過半を占める。
 全国に芸術大学が国立四、私立二の六校あり、別に研究所が七つあって、それぞれ地域の芸能・美術・工芸を研究し継承し、相互に連絡もし合うという。入学は難しくないが、他専門と違って学生に、天性の資質と夢を持ち続けることを第一に求める、知性はその次です、とアーチスト学長ははっきりと言い切った。
 授業の終わった午後三時過ぎで、学生の姿はなかった。夕刻には或る芸能グループを招いて学生とのワークショップがある、見ていくといいと言われたが、残念ながらジャカルタへの移動の時刻が迫っていた。広いキャンパスには野外と屋内それぞれに舞台が設けられ、ガムラン用のボックス付きなのがこの地らしい。大きな楽器をかついだ学生がバイクで集まり始めていて、聞くと演奏の一役を受け持つ、と誇らしげに答えた。といって実演実習ばかりでなく、一、二年次には教養科目も英語の授業もある、と話した。学長も言われていた通り、卒業生たちの進路は、伝統の芸能・芸術活動以外にも多彩にあるのだろう。

 インドネシア教育大学
 ここはJICAの紹介を得た、正規の訪問である。例の教員の質の向上をめざして総合大学化した教員養成カレジのうち、学生一万人、教員一二〇〇人は最大規模と聞いた。たくましい大男の副学長が待ちうけていて、懇談後も学内を自ら案内してくれた。
 六学部から成り、理工、社会科学、言語・芸術、職業教育、スポーツと健康の五学部は、中等教員養成と普通の専門教育とを兼ねていて、学生定員の約三分の二が前者のD2〜3、三分の一がS1の学士コースである。六番目の教育学部はもっぱら小学校教員養成のD1コースで、教育学、教育心理学などの専門家を擁する。つまり総合大学化は形だけではなく、専門教育の強化により教員の質も高めるねらいを実現した構成といえる。
 副学長は理工学部の教員養成コースに属する化学者で、コース卒の約八割が教員になる、しかし給料が安く地位不安定のため他に流れやすい、と話された。女子が六〇パーセントを占めるのは、教員に向くとの社会通念もあるが、性差別が少ないことの表れで、現に理工学部長は女性だそうだ。会ってみたかった。
 教員の養成計画と配置は、これまでは中央政府の専断だったが、今後は地方分権で地方自治体の仕事になる。小学校教員には専攻(メジャー)はなく、辺地や島では何でも教えなくてはならないから、と医学部のメジャー無しと似た事情のようだ。
 そんな状況の中で、どんな教員を育てようとしていられるのか、と副学長の教育理念をたずねた。彼は言下に、まず専門の力と指導力があって良く教え得ること、第二に自ら学び自らを成長させる自立だ、と答えた。中等学校でも専門外領域を教える覚悟が要るし、どんな辺地にいても自分で教材や器具を作れるようでなくては理科教師は勤まらないから、と論旨明快である。
 案内されて見て回った教室や実験室で、学生手作りの魚や鳥の標本、粗末だが頑丈な測定器具、発芽のガスを集めて云々の素朴な装置などを見て、自学自立がかけ声だけでなく実践を伴うことを、実見した。植物園に繁る諸種の植物も学生が世話するそうで、汚水浄化に役立つという緑の藻が育っていた。準備室には日本からの援助といういかめしくりっぱな器具もあったが、電力不足とかであまり使われている様子はなく、ケースに入ったままのもあった。これら手作りの諸教材の方が、生きて活動している、と思えた。
 夕刻だったしS1の卒業試験とのことで、授業をしていたのは物理学初歩の一クラスだけだった。五〇人ほどの受講生にはなるほど女子が多く、生物学と数学コースの学生が中心という。のぞいたわれわれに、皆生き生きと明るい笑顔を向けてきた。

四 貧困地域の小学校とNGO研究所

 小学校で先生や子どもと話せた
 JICAでは二に述べた教育支援とは別に、子どもの健康を守るためのプロジェクトの一環として、小学校の給食事業をやっている。同行させてもらえることになり、三月三日(金)の午前九時に先方に着いて当然これからと思ったら、違った。全国テストの週で(大学も小学校も、なるほど画一?)早帰りなので、給食は今すんだところという。見せてもらった現物は、甘い茶とビーフハンバーグに複合成分のビタミン液(甘くしてあって子どもは喜んで飲むそうだ)で、メニューは日替わりという。ジャカルタも外れのここは、農地もなく市場の出店や屋台など零細労働者の多い地域で、給食はさしあたり四カ月の試行と聞いた。
 折から急な豪雨で校庭が池のようになった中を、子どもたちはテストを終えた陽気さか、白と赤の制服ズブ濡れでキャッキャッはしゃぎながら走り帰っていく。教員室は棟の端の小さな暗い部屋で、校長は不在だが先生たちと話すことができた。やや年かさの女教員が、代表格であれこれの質問に答えてくれる。
 生徒数一八五人、教員は一〇人でうち女性七人。宗教専科で全クラスに教えるという一人は男性で、低学年にはことわざや絵から入り、高学年にはコーランを読ませる、と話した。四〜六年生に新しく英語が入った、と中央での話と符合し、これも多分専科なのだろう。中途退学の子、長欠の子は少なくてどちらも二人くらい、中学へも一〇〇パーセント進む、とやや意外な数字だ。
 しかし近年の経済危機は、日銭に頼るこの地域の生活を直撃した。義務制ゆえ授業料は不要だが、教材費・施設費など日本円にして年一六〇〇円ほどは学校に納めねばならず、制服も自費だ。年長の子らは放課後働きに出るし、朝飯抜きで来る子も二〇パーセントはいて、給食が登校を促してもいるようだ、とのこと。
 月曜一限朝礼、低学年は三〇分、高学年は四〇分授業、と資料で見た通りで、全学年昼すぎには下校だ。イスラム教徒が多いが、朝と昼の祈りのちょうど間に授業がおさまるため、学校で祈りはしない、とのことである。
 勤続最長は主に答える彼女で二〇年、転勤は少ないそうだ。言うことをきかない子、乱暴な子はいますか、いたらどうなさいますか。これは日本で最近小学校にも増えた学級崩壊を頭においた問だったが、彼女は穏やかに、そういう子はいるが罰は与えない、そっと呼んで忠告します、と答えた。
 先生をしていて困ること、よかったと思うことは?。困ることはありません、皆よく勉強する良い子ばかりですから。よいと思うことは、生徒との間、教員同士、そして親との間が良く行っていることです。同意のうなずきが、あちこちで見られた。室前の廊下に、やや派手な服装の若い女性三、四人が見えたが、教員ではなく母親たちで、給食の手伝いや料理を教えるなどして、僅かな金を得るという。
 手間と好意を謝して廊下に出たら、三〇人ほどの生徒たちが握手したいと寄ってきた。外国人の訪問は珍しいのか、好機と喜んでさっそく対話を始めた。小柄だが六年生と答えた女児は黄色いワンピースを着ていて、課外の少年団の制服だそうだ。隣のチビは二年生、混成集団である。算数好き? にイエースの合唱、体育好き? に声が強まった。大きくなったら何になりたい? ランダムに指すと、医者、パイロット、と次々。先生になりたい人は? にわずかに二、三人が挙手した。これから帰って何をするの? 勉強、お手伝い。何を? 六年の女子が皿洗い、掃除と答えた。お家にテレビにある人、に挙手は二人のみ。今ほしいものは? 学校に来ること、本、などで玩具やゲーム類は出てこない。勉強をきらいな人、「いませーん」の力強い大合唱。
 握手をと口々に望むので、子どもたちの間に分け入って、次々握手した。小さな黒い手、湿って温かい手の感触が、あとまで残った。「ほんとに良い学校だということが分かりました」と思わず言うと、女教師たちはうれしそうにうなずく。こんなに平和な、全員大好きの学校なのに、先生になりたい子は少ない。この年齢でもう、大人の話の端々からでも、教職不遇の現実に気づいているのだろうか。小学校訪問は一校きりだったから分からないが、さわやかさと共にほの哀しさの残る見聞であった。

 NGO研究所と「子どもに自由を!の家」
 三月二日(木)は予定通り、バンドンのNGO組織を訪れた。鈴木教授の線とは別ルートの、電子メールでのアポである。NGOというと何となく、先進国の人が途上国へという先入感があったから、もっぱら応対してくれたスタッフが若い現地人女性で、事務室や情報機器で忙しそうに立ち働く人びとも皆現地人であることが、ちょっと意外だった。しかも彼女の説明でここが、研究者二三人、職員七人を持ち、西ジャワの貧しい人びとの実状を把握し、彼らに自立の力をつける方途を考え実地指導もする、民間の研究機関と聞いてさらに驚いた。
 くり返す通り、中央政府が万事をとりしきるこの国では、就学率その他はめざましく上昇するが、そこから洩れた人びと、中途退学も含め学ぶ機会を失った下積みの労働者たちは、おおむね放置の傾向である。
 教育が出世と拝金の競争となり経済発展の手段化しつつある現実に、民主化の今日も表立っての批判には危険が伴う。しかし見すごせないと思う人びとが、実態調査に基づいて政府や自治体に改善を求める提言をし、その一方で洩れた人びとの職業訓練や組織づくりに有効な指導方法を研究して、実地に試みる。調査研究の成果は印刷物にして情報発信・相互活用をはかる一方、ニュースレターは多くの人が読めるよう絵入りの大文字だ。地域のフォーラムを政治家、企業人、学者、宗教家、ジャーナリストたちに貧者の代表をまじえて、企画し実施する。
 フォーラムでもその他の場でも、前者の人びとの声は自信にみちて大きいが、貧しい人たちの声は小さく弱いので、あらゆる方法で力づける働きかけ(エンパワーメント)が必要だ。学校教育式の識字学級よりも、実用的な申請書の書き方で字を憶えさせ、集会で発言を促すことで自信と喋り方を体得させる。地方分権の進む今日、下積みの一人ひとりに力をつけることが急務で、分権とは何かの学習から始めなくてはならない。
 大学も分権に伴い自治を許され要請される存在だが、大学人はとかく現実から遠い高みに安住したがる。在野の研究者、文化人たちが、彼らと社会現実を繋ぎ、可能な改善と提言にめざめるよう促すのも、ここの仕事の一つという。
設立から八年、運営は外国の財団に多くを頼るそうだが、的確な計画とめざましい活動ぶりに感心した。類似のNGO研究機関は全国に一〇〇近く、成果と指導を実地に移す小さな組織は千を数えるという。
 千のうちの一つ、「子どもに自由を!の家」に案内してもらった。ごみだらけの細い路地を曲がりくねり上り下りして着いた先は、小屋といっていい粗末な平屋で、軒先で少年たちが木材を挽き削り、奥では少女たちがミシンを踏んでいた。少し離れた事務所兼宿泊所(?)のあたりでは、幼い子らが無心に遊び、木工や絵の作品が棚にぎっしり。これらを売ることと外国の援助とで何とかやっている、と施設長らしい中年男性が話した。
 ストリートチルドレンの登録は約二千人だが、住んだり常時通ってくるのは五〇人ほどで、経済危機以来学校に行けなくなったり家庭崩壊のケースが増えた、とそこから見える低い谷間の斜面に、小さな家々がもたれ合うように建っているのを指した。皆地方から職を求めて集まる人びとで、ああして小さくても家を持てるのはいい方だ、悪くすると一家ごと路上暮らしになる、と。
 ここで読み書きを教えたり、不登校の子を学校へ戻す努力はしていません、と彼はきっぱり言った。子どもたちはまず生きていく力と意欲を身につけなくては。子どもに自由を、の意味は自立なのです、と。政府の作った競争本位の学校制度に対置する、庶民の学校の心意気と思われた。少年少女たちが作業をし学ぶ小屋の表の壁に、子どもの字でこの施設の名称が大きく書かれ、「元ストリートチルドレンたち」と署名があった。「元」とは、もはやそこへ戻らない意思の表れだという。

五 この旅で考えたこと〈日イ人間同士の関わり〉

 最後に、この訪問調査行で出会った印象深い方々について簡単に述べ、この国の今後とわれわれの関わり方について考えたことを記して、まとめとしようと思う。

 JICAの人びと―友好の支え手と退職者たち
 まずJICAの方たちが、僅かなツテで突然おしかけた形のわれわれに、多忙な時間をさいてこの国の教育事情全般を説明し、訪問調査の示唆や紹介をして下さった親切と誠実には、ただ感謝のほかはない。公務員ゆえ一々名を出すことは避けるが、この助力なしに上述の諸成果はなかったにちがいない。これまで訪問した国々では、まず教育省あたりに行って責任者の話を聞くことが多かったが、やはり日本人同士の方が詳しい問答ができてはるかに分かりやすく、丁寧な資料も頂けて大助かりであった。
 当国政府の要請を受けて五年や一〇年がかりのプロジェクトを組み、関係省庁やたくさんの人びとと折衝しながら一歩ずつ実現していく仕事は、やり甲斐もあるが苦労は国内に倍するにちがいない。
 その一方でJICAから出向の形で、政府のふところ深く、初等中等や高等教育それぞれ全般にわたって、調査研究しアドバイスに努める役割のあることを、現地でご当人に会って初めて知った。日本の援助がこれまで、大型のモノ造りに偏ってきたという悪評をよく聞くが、目立たない蔭のこうした努力を、多くの人に知ってほしいと思う。教育関係の援助予算が、少ないながら僅かずつでも増える傾向と聞いて、いくらか希望を持つことができた。
 それと同時に、インドネシアの教育制度と諸状況には、もっともな点や長所と共に限界や硬直もまた大きいことを、現地での見聞で知った。今後仕事の中で、これらについて柔軟に提言し是正して、この国の子どもや青年がよりよい発達を果たすための尽力を、JICAの人たちに期待したい。
 懇談の中でアメリカの大学院に学んだ話が出たし、他の名刺にもPh.Dとあったから、語学力はもちろん国際政治・経済の広い知識や、世界と未来を見る目が確かな方々、と思うからである。それだけに生半可な勉強では就けない職業であろうが、日本の若者にもっとこうした仕事の実態と意義を知ってほしい。
 青年海外協力隊の人たちには、今回もこれまでの国々でも会えて、有益であった。画一教育の圧力に負けずに日本の青年も、視野広く志を高く持ってほしい。自立へのきっかけをつかもうとしている途上国の仲間と知り合うことで、二一世紀の平和づくりを共にできるのでは、と考えた。
 さらに印象深かったのは、インドネシア教育大学でお会いできた二人の年輩者である。一人は初中等理数科教育改善プロジェクトの立案・推進に関わり、もう一人は理数科教員養成の現場を月単位で回って、実地指導していられた。この両輪が揃って初めて教育支援が実質進行する、重要な役割である。お二人それぞれに、日本の有名理工系大学を定年退職してからこの仕事に就かれたそうで、任期つきとはいえ単身赴任と伺った。日本の大学では研究と教育、それに雑務を並行してこなさなければならなかったのに比べると、ここでは集中して仕事を思いきりやれるのが楽しい、と若い者顔負けのお元気さであった。
 お二人とは別々に話したのだが、申し合わせたように同じ発言をされたのが、印象に残っている。一つは、インドネシアの人びとはフレンドリーでつき合いやすく分かり合える、という現地協力者との共感である。もう一つは、こうして理科教育のあり方を立案し教える際に、日本ではこんな考え方をする、アメリカのやり方だとこれこれだ、という風に情報として伝えるにとどめるようにしている、決して頭から押しつけない、という発言であった。私はこの二つを、今後日本の対外援助だけでなく、われわれがアジアの人びととつき合う際の基本的な心がまえではないかと、ひそかに感心した。今後僅かずつでも増える教育関係予算とさまざまな支援は、この開かれた謙虚さの中でなら、真にインドネシアの人びとのために生かせるだろう。

 インドネシア希望の星
 前にも書いたが、NGO研究所で初めて会うはずの女性スタッフを、ベテランの年輩者と予想していて、みごとに外れた。ララ嬢は色浅黒くほっそりと小柄で、黒く輝く大きな目が魅力的な、若い女性だったのである。外来の訪問客に一人で、それも筋道立った論理的な正確さに静かな情熱をこめて、貧しい人びとの自立への方途を語り、改善提言の必要を論じ、NGOがめざす未来に言及した。次々出る質問にもさわやか的確に答えたから、驚嘆はいっそう深まった。
 しかも彼女はバンドン工科大学修士課程で生化学を専攻する大学院生で、この研究所とは週半々のかけもちという。本人は「だんだん関心が社会科学の方に移ってしまって」と笑っていたが、「子どもに自由を! の家」に案内したときも、その辺に遊ぶ子らに向ける笑顔は、姉のように親身で優しかった。一緒に食事をとなって、ご推薦の地元バンドン料理は美味だったが、彼女はアルコール類を口にしない。イスラムの戒律ゆえかなと思ううち、時計を見て「二時から大学院の授業ですから」とさわやかに去って行った。工大を覗く希望を伝えてあったわれわれに、道順と案内を頼めそうな日本人留学生ケンタ君の居所を書いたメモを残して。
 今年の一〇月、彼女は金沢大学の修士課程に留学して、微生物学の研究をする予定という。バンドン工大と金沢大学とは、提携関係で毎年留学生を送り合うそうで、楽しく秋の日本での再会を約した。
 前述の通り、この国では今も、政府の施策を正面切って批判抵抗するには勇気が要るが、学生運動はかなり盛んで、時に危惧を超えて燃え上がるという。ララさんに代表される若いめざめた人びとに、希望の光を見る思いだ。激動の地方分権を目前に、社会の下層の方から、自立への静かなうねりといったものが起こりつつあるのを、あちこちで見聞きした。
 元ストリートチルドレンや、経済危機に耐えて子どもを学校に送り続ける貧しい親たち。彼らを支える若い力も、同時に育とうとしている。ボランティアとして、また辺地の教師、医師たちも。
 給食サービスに同行したとき、JICAがこのプロジェクトの実務を委託したのはララさんたちとは別のNGO団体で、そこのたくましい男性二人と会ったし、きちんとした報告書も見た。小規模事業ゆえもあるのだろうが、日イ合弁企業などへの委託でないのが好ましかった。惰性の援助や援助慣れは、する方にも受ける側にもむしろマイナスをもたらすだろう。人間同士の対等なつきあいこそが、大事なのだ。
 ここの老若男女共通に見られるフレンドリーな明るさに包まれて、自ら助けるたしかな根が、多島を結ぶネットワークとなり始めているようだ。
 地域カレジ生たちの生き生きした働きぶりは、それを世界への波に変える。希望への手がかりはここにもあり、平和な海の未来が見える、と思う。


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