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シンボル研究会◎

ウォーバーグ研究所におけるアラビア科学の研究

チャールズ・バーネット ロンドン大学ウォーバーグ研究所教授

 前所長(一九七六〜九〇)のトラップ教授が研究所におけるアラビア研究について、一九八〇年に要約していますので、それをこれから引用し、その後で補足を加えたいと思います。

――研究の歩み

 ロンドン大学ウォーバーグ研究所には、約二〇万の蔵書と抜き刷り、およそ一〇〇〇タイトルの雑誌[1]、そして二五万枚の写真がある。スタッフには、所長、四人の教員、四人の司書、三人の写真管理者、そしてその他の補助的なメンバーがいる。
この研究所は、ハンブルクにあったアビ・ヴァールブルク教授(一八六六〜一九二九)の私的蔵書を出発点としている。ヴァールブルクが亡くなった時、それはすでに半ば公の施設になっており、約五万冊の本とそれと同数の写真を有する図書館を持っていた。新設のハンブルク大学に付属する形で機能し、独自のプログラムで公開講座を行なったり、出版物を出していた。
 一九三三年、ナチス時代の初めに、ヴァールブルクの助手で、創立者の死後ヴァールブルク文化学図書館の館長となっていたフリッツ・ザクスル(一八九〇〜一九四八)は、わずかなスタッフとともにロンドンに蔵書を移した。その後この研究所は一九四四年にロンドン大学に組み込まれた。
 ヴァールブルクから出版された初期の出版物のひとつに、『ピカトリクス』あるいは『賢者の意図』として知られている、偽マジュリーティーによる著作のアラビア語版がある。
 占星術と医学と魔術に関するこの奇妙な概説は、一一世紀後半にスペインで編集されたものである。ヴァールブルクにとって、それはヘレニズムの科学と哲学が西欧に遺産を残したことを証明する上で貴重なものであり、その徴候を示すものであった。そして「古代の遺産とは何か」という強迫観念のようにとりついた疑問に答える手だてでもあった。
 『ピカトリクス』はラブレー[2]だけでなく、すでに一五世紀フィレンツェのマルスィリオ・フィチーノのヘルメス的プラトン主義哲学の源泉となっていたのである。この書に関するヘルムート・リターの注目すべき講義は、ヴァールブルク講義叢書 Vortraege der Bibliothek Warburgの第一巻(一九二一〜二二)として、また彼によるアラビア語版は一九三三年に研究叢書 Studien der Bibliothek Warburgの第一二巻として出版された。
 マルティーン・プレスナーによるアラビア語からのドイツ語訳は、ウォーバーグ研究所研究叢書 Studies of the Warburg Instituteの第二七巻として出版され、ヨーロッパで流布したラテン語版は、一九八六年に同じシリーズの第三九巻としてデイヴィド・ピングリーによって出版された。ピングリー教授は、Journal of the Warburg and Courtauld Intitutesで、『ピカトリクス』の近代語版についても注目すべき発見を発表している。
 しばしばローマを経由して中世およびルネサンスの西欧文化を形成したギリシア文明がたどった道を考察する間に、ヴァールブルクは、フェッラーラのスキファノイア宮殿にある「月の間」として知られる一五世紀のフレスコ画を研究することになった。
 そして彼は、これらのフレスコ画がアラブ人、特にアブー・マアシャル[3]によって伝えられたギリシア天文学の伝承に基づいたものであることを証明することができたのである。細かい点では間違いもあるが、彼の証明は全体としては優れたものであった。特にデカン[4]の図像を同定したことについてそれが言える。ヴァールブルク講義叢書で出版されたヴィルヘルム・グンデルの『デカンとデカンの星座』(Dekane und Dekansternbilder, 1936)は、この伝承をいっそう詳しく考察している。一九六八年には、ピングリーがやはりウォーバーグ研究所から『アブー・マアシャルの千年周期』The Thousands of Ab Ma'sharを出版し、ウォーバーグ研究所の雑誌に、その延長にある「インドにおけるデカンとホーラーの図像学」The Indian Iconography of the Decans and Horsという論文を発表している。ヴァールブルクはまた、ヨーロッパにおけるアラビアの天文学、占星術、星のイメージなどの役割についても重要な研究を行なった。
 ヴァールブルク自身は、アラビア語を読むことはできなかったが、学問上の後継者であったフリッツ・ザクスルはそれを読むことができた。ザクスルは、アラビアの星のイメージと中世におけるその役割に関するヴァールブルクの研究を継承したのである。そしてクサイル・アムラー[5]の獣帯に関する論文を発表し、占星術と神話をテーマとする図が描かれた写本を調べる上で、アラビアの資料を大いに利用した。
 この分野における別の研究は、R・ハルトマンによるムハンマドの天上旅行[6]とイスラームにおけるその意味についての研究である。[7]
 レイモンド・クリバンスキの編集により、ウォーバーグ研究所から出版された重要な先駆的研究は、「中世プラトン文献」Corpus Platonicum Medii Aevi である。これは、後の時代まで伝わったプラトンの対話篇のラテン語訳とアラビア語訳である。出版されたアラビア語版は次のとおりである。
 研究所の常勤スタッフ(一九六五〜七二)の一員となった最初のアラビストは、A・I・サブラである[8]。サブラはそれまではアラビアの光学と幾何学に関する研究をするために研究所の上級研究員を務めていた。研究所の雑誌に、「三段論法の第四格に対する一二世紀の擁護」(一九六五)、「ユークリッドの平行線公理に対するシンピリキウスの証明」(一九六八)、「ユークリッドの平行線公理におけるサービト・イブン・クッラ」(一九六九)を発表している。さらにサブラは、オクスフォードのリチャード・ウォルツァーと共同で、イスラームの哲学と宗教に関するセミナーを研究所で数年間開催した。また数多くの博士論文を指導もした。
 サブラ教授によるイブン・アル=ハイサムの光学の英訳と注釈は研究所から二巻本で出版され、アラビア語テキストは同時にクウェートで出版された。
 一九七一年から七四年まで、フリッツ・ツィマーマン[9]は、研究所の上級研究員であった。彼の『ムハンマド・イブン・ムハンマドアル=ファーラービー(アリストテレス注解)』(一九八一年)は、研究員在職期間に生み出された成果である。
 現在プリンストン高等研究所教授のパトリシア・クロウンも同じく研究員であった。彼女の『ハガリスム:イスラーム世界の形成』(マイケル・クックとの共著、一九八〇年)は、その時の成果の一部である。
 ロバート・ジョウンズは、アラビア語の本を最初に印刷したヨーロッパ人ジョヴァン・バッティスタ・ライモンディ(一五三六〜一六一四)のアラビア語とペルシア語の研究について修士論文を書いた。
 一九八〇年に研究所で行なわれた、偽アリストテレスの『秘中の秘』に関するセミナーでは、ラテン語、英語、フランス語、ロシア語、ヘブライ語の諸版だけでなく、マフムード・マンザラウイとマリオ・グリニャスキによってアラビア語版に関する成果が得られた。
 ここまで述べてきた研究は、現在と同じように、イスラーム美術だけでなく、イスラーム哲学と科学、特に医学と占星術、天文学の歴史に関して充実した、東方関係の蔵書と写真コレクションによって支えられてきた。古代と近代、東方と西方の文明間の交流に特に力点が置かれてきた。
 美術史に関する研究所の資料については、主に二冊の本に書かれている。それは故オットー・クルツの『東方キリスト教の絵入り写本の手引き』(一九四二)と『ヨーロッパの置き時計と中東の携帯時計』(一九七五)である。
 特に中世とルネサンスにおける、トルコ人に対するヨーロッパのイメージや接触を示す優れた資料がある。その多くは故ポール・ウィテックの蔵書に由来する。
また図書館には、イギリスでは他で簡単に利用できないようなアラビア研究に関する、特にドイツで出版された多くの書物を納めている。
(引用終わり)

――現在の研究

 ジョウ・トラップの説明は、ちょうど私が研究所に来た時のアラビア研究で終わっています。実は彼は私がピングリーと一緒に執筆していた著書についても言及しています。それは出生占星術と誕生年回帰に関するインド人たちの一五五の著作を要約した、「アリストテレスの書」と呼ばれる、すでに失われたペルシア語テキストのやはり失われたアラビア語訳からの一二世紀のラテン語訳の校訂版です。これは一九九七年にウォーバーグ研究所から出版されました。
 私が非常勤研究員として研究所に来てから三年後に、当時のマーガレット・サッチャー首相が「新人」講師を採用する構想に着手したことは、非常に幸運でした。それによって、過去一〇年間に新たな人材が登用されていなかった大学の学部や研究所は、通常、大学では教えないようなテーマを講義をするための資金を政府に要求することができたのです。
 ウォーバーグ研究所はこのカテゴリーに入りましたので、「中世および近代におけるヨーロッパへのアラビア・イスラームの影響の歴史」についての講義開設を申請することに決めました。
 その講義を私が担当することになったのは実に幸いでした。その時の講師職は後に教授職にまでなりました。ですから私は最も長い肩書きの教授のひとりになったのです。すなわち、中世および近代におけるヨーロッパへのアラビア・イスラームの影響の歴史の教授です。
 ですから私は、ウォーバーグでアラビア・イスラーム研究をする、サブラに次ぐ二番目の研究者ということになります。これから現在私が行なっていることをお話しましょう。

 一、"Cultural and Intellectual History, 1300-1650"という科目を修士課程(以前は歴史研究とルネサンス研究を兼ねた修士課程だった)の学生に教えています。また"Islamic Authorities and Arabic Elements in the Renaissance"という選択科目も担当しています。
 二、イスラーム学およびその影響を研究している学生も教えています。その中にDag Nikolaus Hasseがいます。彼の学位論文 "Avicenna's De anima in the Latin West: The Formation of a Peripatetic Philosophy of the Soul 1160-1300"はまもなく出版されます。
 また、Oliver Gutmanは、アヴィセンナに帰される、アラビア語から翻訳されたコスモロジーに関する著作を編集しました。
 三、フランシス・イエイツの資産を基金にした研究員制度があります。これによって、博士号取得後の研究者は、ひと月から三年までの間研究所でどのようなテーマであっても研究できます。
 このフランシス・イエイツ研究員の何人かは、アラビア・イスラーム科学を研究しています。例えば、Pinella Travagliaは、偽アポロニオスによる創造の秘密について研究しています。Emma Gannagは、アフロディシアスのアレクサンドロスによる著作のアラビア語訳を研究しています。また、Antonella Sanninoは、ヘルメス・トリスメギストスに帰される錬金術テキストの伝承をテーマにしています。
 四、多くの客員研究員もいます。アラビア科学に関心をもつ山本啓二先生始め、Camela Baffioni, Dimitri Gutas, David Pingree などです。
 五、今までにアラビア科学に関するいくつかのセミナーを開催しました。例えば、最も初期の、アラビア語からラテン語への翻訳者であるバースのアデラード、アリストテレスの論理学に関する注釈、偽アリストテレスの神学およびその他のテキスト、そしてイスラームとイタリア・ルネサンスについてです。
 これらのセミナーの報告書はすべて研究所から出版されています。来年四月には、"Writing in the Margin: the evidence of marginalia for the development of scientific thought"が計画されています。ここではアラビア語写本も議論の対象になるでしょう。
 六、オクスフォード大学のアラビア哲学講師 Fritz Zimmermann の指導の下に、アル=キンディー、アヴィセンナ、アッ=ラーズィー 、クスター・イブン・ルーカーなどのテキストを講読する「アラビア哲学講読クラス」を数年間開講しました。
 七、常に最新のアラビア語のテキスト、特にアラビア哲学と科学の著作を買うように努めています。

――アラビア研究と研究所の仕事との関係

 アラビア研究はウォーバーグ研究所の趣旨と直接関係があります。
 研究所案内から引用しますと、
「当研究所は、設立者アビ・ヴァールブルクの関心を反映している。彼の初期の研究は、ルネサンス美術の知的・社会的状況における古典文明の意味に集中していた。しかし、後に文化史というさらに広い分野を対象とするようになった。当研究所の蔵書と写真コレクションは、ある文化が影響を与えるとか、あるいは別の文化から影響を受けるとかいう過程を研究する手段を与えるためのものである。
 それらの資料は、古典期以後のヨーロッパの思想、文学、美術、制度とギリシア・ローマのそれらとの間のつながりや、地中海文明に対する古代中東の影響を証明しようとしているのである」
 アラビア・イスラーム文化はこの趣旨に完全に合っている。というのは、中世アラビア文化の精華を象徴する九世紀のバグダードは、一方ではギリシア語やシリア語からの翻訳を通じてギリシアの科学と哲学を全面的に取り入れており、その活動の中心である「知恵の館」(bayt al-hikma)には、ウォーバーグ研究所と同じように、図書館と研究センターが併設されていたのです。
 また他方では、詩歌や工芸の分野でインド・ペルシア文化を吸収していました。インド人による三大発明は、チェス、インド数字(アラビア数字)、そして動物寓話(『カリーラとディムナ』)であります。
 これらの移入され、同化された文化の他に、アラビア本来の文化があります。
 それは言語の正確さに対する関心と学問に対する尊敬に表われています。詳しく言えば、前兆占いや動物の体の一部を使った占いなどの古代メソポタミア文化のなごりだけでなく、農事暦、天候に関する言い伝え、そして獣帯上の太陽の位置ではなく、日毎の月の位置を区分する体系(月宿)のようなものです。
 ですから、アラビア・イスラーム文明は、ウォーバーグ研究所の趣旨を見事に説明してくれる研究分野を提供しているのです。
 しかしもちろん、この文明が中世、ルネサンス、そしてその後の西欧に対して少なからぬ影響を及ぼしたということに、何よりも意味があるのです。

 ヨーロッパの観点からすれば、興味深い多くの面があります。
 一、古代のあるギリシア語(そしてラテン語)作品は、アラビア語訳とかアラビア語からの訳だけで残っています。例えば、ガレノス自身の見解、アポロニオスの『円錐曲線論』全八巻のうち最後の三巻、ディオファントスの数論の一部です。またラテン語が失われた例としては、八世紀にスペインでアラビア語の韻文に翻訳された占星術テキストがあります。
 二、アリストテレスの著作は、アラビアの学者イブン・ルシュド(アヴェロエス)の注解とともに読まれ、またアラブ人によってアリストテレスに帰されたテキストが新たに追加されました[10]。それに対してアヴィセンナは有益な「最新の」哲学を提供しました。例えば彼は最新の医学や天文学を取り入れていました。
 三、アラビアの権威者たちは、西欧におけるあるテーマの基礎を形成しました。特に、医学と占星術に関してですが、それだけではなく天気予報、錬金術、インド式算術、魔術、鷹狩りについてもそうでした。
 四、アラビア世界から導入された文化的産物には、楽器[11]、歌の形態と拍子、ある種の衣服(ズボン)、香辛料、パスタなどがあります。

 アラビアの学識の西欧への伝播は、文化的影響を研究するみごとなテーマとなっています。というのは、多くの点で、それらの文化が根本的に異なっているからです。
気候風土が違います。宗教が違います[12]。そして社会が違います。
 アラビア語の占星術テキストのラテン語訳を読む北欧の読者にとって非常に奇妙に思えることがありました。例えば、ヒジャーズでの攻撃、暑い砂漠の風、ラクダの死などです。
 両文化に両立しない要素の中には、誤解されたり省かれたりしたものがありましたが、たいていはアラビア語に相当するものに類似したものが使われました。
 例えば、もし暑い地域だけに存在するサソリについての記述があるとすれば、ゴキブリなどの別の種類の害虫を考えなければなりません。また、アラビア語に対応するものがヨーロッパ(ラテン語)に見つからないことがしばしばありました。そこで多くのアラビア語の単語がラテン語やさらに近代語に採用されました。哲学ではanniyya(物が存在する事実)、医学ではmeri(胃)、suda(頭痛)、そして多くの医薬物の名前、算術ではalgorism(数学者アル=フワーリズミーの転訛)、 algebra(代数)、星学では almucantara, hailaj 、そして多くの星名です。

――これからの見通し

 ちょうど今、長期間のフランシス・イエイツ研究員のデイヴィド・ジャストがいますが、彼はアラビア占星術の影響を受けた初期ラテン語テキストを研究しています。
一連のラテン語の占星術テキストの校訂版を作り始めることを考えています。それらは、矢野先生、山本先生、そして私がここ数年間に準備してきたアラビア語テキストを補うものになるでしょう。日本のアラビア天文学および占星術の研究者だけでなく、フランクフルト大学、ブラウン大学、そしてバルセロナ大学とも密接な関係にあります。
 惜しみない寄付のおかげで、最近、占星術の歴史に関して共同研究をすることができました。
アラビア医学に関しても、近くにあるウェルカム研究所と、ドイツやアメリカの医学史研究者と協力しています。
 研究所では半ば常勤のヘブライ学者を近いうちに雇うことになるかもしれません(ヘブライの科学は主にアラビア科学に依存し、ラテン世界の学者にとって、ヘブライの学者はアラビアの科学と哲学を理解する上で助けになりました)。
 アラビア文化に関心のある人であれば誰でもウォーバーグ研究所に来られることをお勧めします。研究所ではその分野の豊富な蔵書だけでなく、同じ関心を持った研究者仲間にも出会うことができるでしょう。


*1 廃刊になったものと継続中のものとの比は一:九

*2 一六世紀のフランスの作家

*3 ラテン名、アルブマサル

*4 占星術における宮の三分の一

*5 ヨルダン川東方にある八世紀初めの建物

*6 六一九年にムハンマドがエルサレムから昇天したとされる事件

*7ヴァールブルク講義叢書第八巻、一九二八〜二九年

*8 現在はハーヴァード大学

*9 現在はオクスフォード大学のイスラーム哲学の講師

*10 『原因の書』、『神学』

*11 リュート、レベック、ティンパニなど

*12 ムスリムとキリスト教徒がともに一神教を信じるとしても、イスラーム社会では聖と俗の区別はなかったのに対して、キリスト教社会ではそれらは慎重に区分されていた。


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