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特集2◎「少年」の現在

若者ことば
銅メダルとかとった

天野みどり 本学表現学部助教授

――はじめに

 与えられたテーマは、若者世代の「ことば」が現在どのようになっているのか――「ことば」という側面から、若者世代の特徴なり問題なりが見えてこないか――ということであった。私は、現代日本語を母語とするあらゆる若者の「ことば」を調査する能力もないし、仮にそのような実態調査ができたとしても、その「ことば」から、「ことば」を使用する「者」へと類比的に論を展開していくことに、むしろ危なさを感じている。この稿では、むしろ、若者の部分的な「ことば」から安易にこの世代の精神性を語ろうとする立場を否定することを通して、間接的に、テーマに関しての私の考えを示すことにしたい。なお、特集のテーマは「少年の」ということであったが、便宜上一〇代・二〇代を対象とし、両者を合わせて「若者」と呼ぶことにする。

――若者はぼかし表現を好むか

 ◎「とか」は若者ことばか
 二〇〇〇年夏にシドニーで行なわれたオリンピックでは、競技終了直後に――まだ激しい競技そのままの息づかいの中で――選手にテレビ中継のマイクが向けられ、結果への喜びやら悲しみやら応援者への感謝やらのことばが、これまでになく生々しい感覚を伴って伝えられていたように思う。その中で例えば、水泳女子四〇〇メートル個人メドレーの銀メダリスト・田島寧子選手は「メッチャくやしい」と言い、女子テコンドー六七キロ級の銅メダリスト・岡本依子選手は「銅メダルとかとっちゃって……」と言った。これらの発話に現れる「メッチャ」や「とか」は、近年若者ことばとして取りあげられることの多い語である。
 さて、後者の「とか」は本当に若者特有のものといってよいのだろうか。この点について、文化庁文化部国語課が行なった「国語に関する世論調査」を見ておこう。
 その質問項目の一つに、「ぼかす言い方・自信のない言い方」というものがある。そこでは、以下の言い方が取りあげられている。

表1(画像)
表1(テキスト)
 それぞれの結果を性別・年代別に示したのが表1である。こうした調査は、ことばに関する意識の調査であって、実際の使用状況をそのまま反映するものではない[1]ということをさし引いたとしても、おおむね(1)〜(5)の言い方が若者世代に使用されることの多いものと考えてよいだろう。

 ◎「とか」の従来の用法―― 一部例示
 この調査から、(2)のような「とか」の使用が若者世代に多いということは一応確かめられた(*1参照)。しかし、この調査が言うように、それが「ぼかす言い方・自信のない言い方」であると断定してよいものだろうか。結論を先に言えば、私は若者世代に用いられている「とか」のすべてが「ぼかす言い方・自信のない言い方」なのではなく、逆に「強く示す言い方」と言うべきものがあると考える。
 少し回り道になるが、結論を導くために、従来の「とか」と若者世代の「とか」の違いを明らかにしておこう。
 「とか」自体は新しい語ではない。以下のような用法は、従来、世代を問わず使われてきたものである。

 こうした「とか」は、要素の並立的な結合を示すものである。寺村氏は「ある集合についてなにかを言おうとして、そのメンバーのいくつかを例としてあげるときに使われる」[4]ものと述べ、「一部例示」と称している。
 例えば、(6)では、「めでたいとき」という集合に属するメンバーの部分的な例として、「赤子の誕生」「入学祝い」「結婚式」「工事の完成」が列挙されている。そして、実際に列挙されているものの他にも、「めでたいとき」にあたるメンバーがあるということが暗示されている。
 他方、(7)では、「とか」を伴って列挙されている「町へ出る」「郊外を散歩する」「庭の木を世話する」というメンバーが、どのような集合のメンバーであるのかは明示されていない。ただし、こうしたメンバーから、〈身体を動かすこと〉といったような集合について述べられているのであろうことは推定される。一部の例示を行なうことにより、その集合全体を推定させるものである。また、ここに列挙されている以外にも〈身体を動かすこと〉の例があるということも暗示されている。
 (6)や(7)は複数の要素が「とか」を伴って並立的に列挙される例であったが、表面的には一つの要素しか現れていない、次のようなものもある。

 (8)は、おおむね《友達になってほしいのだったら、例えばちょっと映画に誘うというような方法をとればよいのに》ということであろう。この例では〈友達になってもらう方法〉といったような集合について、そのメンバーの一つの例である「ちょっと映画に誘う」ことが述べられている。この「とか」があることによって、「ちょっと映画に誘う」以外にも、メンバー(例えば「手紙を書く」「昼食を一緒に食べる」など)があるということが暗示されている。この例のように複数の要素が並立しない場合でも、「とか」はメンバーの一部の例示をし、他のメンバーが存在することを暗示する働きがあると言える。

 ◎「とか」の従来の用法――断定回避
さらに、従来用いられてきた「とか」には断定回避の意味を表すものがある。

 (9)は二通りの解釈が可能である。一つは、訪ねて来た人が「法務省の役人」や「大学の教授」やその他いろいろ複数の人だったが、そのうちの一部の例として「法務省の役人」を明示しているという、先に述べた一部例示の意味である。もう一つは、来た人は一人であり、その来た人は「法務省の役人」と言っていたがそうでなかったかもしれない、確信が持てない、記憶が確かでないといったことを表すものである。これは、訪ねてきた人が「法務省の役人」であるということを断定せず、ぼかしていると言える。これを断定回避と呼ぶことにしよう。この、一部例示の「とか」と断定回避の「とか」は、異なる類に属するものとして明確に分けて扱われることがある。例えば、仁田氏[5]は、一部例示の「とか」を「並立助詞」とし、断定回避の「とか」を「『とか』や『とかいう』の形で、ある事物を、それであると断定的にとりあげるのではなく、ぼかす気持ちを込めて示す」と述べ、「副助詞」としている。

 ◎「とか」の従来の用法の基本的な意味
 しかし、この一部例示と断定回避の用法は、それぞれに全く異質の、排他的なものなのではない。「とか」の全体に(断定回避の「とか」にも)一部例示の意味が一貫して認められ、そのある場合に断定回避の意味が加えて解釈されるものだろう。
 例えば(9)の断定回避は、含意されるものを補えば、《法務省の役人とか何とかその他の名称の可能性もある人が来た》ということである。〈いくつかの名称〉の集合の中で、そのメンバーの一つの例として「法務省の役人」を明示しているということであり、それ以外の名称の存在が暗示されているということである。これは、並立助詞の「とか」が持つ一部例示の働きと全く同じである。いわゆる副助詞の「とか」は、確信が持てないために一部として例示しているという点が異なるに過ぎない。
 従来用いられてきた「とか」の基本的な意味を一部例示と捉え、一部例示の意味をいわば利用して、断定回避の意味が実現されていると考えておく。

 ◎「とか」の若者世代の用法・卓立的提示
 さて、そうすると、近年若者世代に多く用いられる「とか」はどのようなものなのであろうか。再び、表1の例を見よう。

 この発話が、「話」だけではなく、例えば「音楽鑑賞」「勉強」「読書」などさまざまな行動をしていたが、そのうちの一つの例として「話」を示しているということであれば、従来の一部例示の用法ということになる。また、「話」という名称で呼んでよいものやら確信が持てない(=「鈴木さんと話とかいうものをしてました」と同じ意味)ということを示しているのであれば、それも、従来の断定回避の用法である。この「とか」が問題にされるのは、(10)のような発話が、「話」以外は何もしていない状況で、また、それが「話」という名称で呼ぶことは疑いようのない時に、つまり、従来の一部例示とも断定回避とも解釈できない時に「とか」を用いているという点にあるのである。これを「ぼかした言い方・自信のない言い方」としているわけであるから、表1は、若者世代が必要のないところにまで「ぼかした言い方・自信のない言い方」を拡張して用いていると考えていることになる。前に挙げた次の例も類例である。

 とったのは「銅メダル」だけであって、他の何も並立して列挙はできないし、「銅メダル」であると確信が持てないという状況でもない。こんなところにまで若者は「ぼかした言い方・自信のない言い方」を用いているということになる。しかし、本当にこれらはすべて「ぼかした言い方・自信のない言い方」なのだろうか。
 鈴木佐和子[6]氏は、若者世代に拡張されている「とか」には、「ぼかした言い方・自信のない言い方」ではなく、むしろ「卓立的提示」を行なうものがあるとする。鈴木氏があげている実例で説明しよう。次の(12)の発話者は二〇代の女性である。この発話は、普通は女性が行かないような中華料理店に不本意ながら一人で行くこととなり、ラーメンを夕食として食べるという自分でも驚くような出来事があったことを友人に伝えている。

 この「とか」は、「ラーメン」以外の要素、つまり、「餃子」「チャーハン」などと並立するものとして「ラーメン」を一部例示しているわけではない。また、「ラーメン」を断定回避しているわけでもない。ここでは、こともあろうに「ラーメン」を夕食として食べていると強調している。この「とか」を「など(なんか・なんて)」に置き換えてもほぼ同じ意味が得られるが、「など(なんか・なんて)」に「強調」の意味があるということはすでに先行研究で指摘されている。[7]
 鈴木氏の述べるこの「とか」の意味は、例(11)の場合にもあてはまるだろう。つまり、(11)では「こともあろうに銅メダルを」「他の何ものでもない銅メダルを」「なんと銅メダルを」といった、「銅メダル」についての卓立的提示を行なっていると考えるべきである。これは、「ぼかす言い方・自信のない言い方」なのではなく、むしろ、「強く示す言い方」なのである。

 ◎若者の「とか」はどこから来たのか
 若者世代の「とか」のすべてを「ぼかした言い方・自信のない言い方」であると一括するのは誤りであり、むしろ、「強く示す言い方」があると言わなければならないとすると、では、なぜ、こうした「強く示す言い方」が「とか」によって可能となったのだろうか。「とか」の従来の用法と、この「強く示す言い方」とは、どのように関係するのだろうか。

 (11)の「とか」は「こともあろうに銅メダルを」といった意味を表すと先に述べたが、こうした意味が生じるのは、実は「とか」が一部例示の意味を持つからであると考える。この(11)は、〈銅メダルとかいう大変価値の高いものをとっちゃって〉といったような、評価のきわだったものが集合として想定され、その一部例示として「銅メダル」が示されているものと思われる。(12)も同様に、〈ラーメンとかいう女性が一人で食べるには大変おかしな食べ物を〉といったような評価の集合が想定される。
 先に、この種の「とか」を「など(なんか・なんて)」に置き換えてもほぼ同じ意味が得られると述べたが、「など(なんか・なんて)」も例示の意味を表すものである。ある集合についてのメンバーを例示する表現にはさまざまあるが、一般に、例示表現はその集合を言語化せずにメンバーだけを表した場合、その集合が〈きわだった評価のもの〉であることを暗示する用法を持つ。

 (13)は「とか」を用いた(11)と同じように、〈銅メダルなどという大変価値の高いものをとっちゃって〉といったプラス評価の集合を補って解釈すべきものであろうし、(14)は〈私などの専門知識のないものにはまったくわかりませんでした〉といった、今度はマイナス評価の集合を補うべきものであろう。同様に、(15)(16)に見られる「AのようなB」は、AがBの例になるが、(15)は「あなたのようなどういう方」なのか、(16)は「私のようなどういう者」なのかが明示されていない。しかし、(15)であれば、例えば〈あなたのような能力の高いかたが〉、(16)は例えば〈私のような能力の低い者が〉というように、文脈に応じて〈きわだった評価のもの〉が想定されるのである。
 想定上の〈きわだった評価のもの〉が具体的に確定される必要はない。こうした表現は、顕示されている例から、その背後に何かしら発話者の評価する集合があるということを想定させる点に意義がある。[8]
 若者世代に用いられる「とか」の卓立提示の用法は、他の例示表現が既に獲得していた、言語化されていない集合――〈きわだった評価のもの〉――を暗示する用法と同じものである。つまり、「とか」の卓立提示は、「とか」の基本的意味である一部例示という意味を介して、他の例示表現と平行的に拡張されて得た意味である。

――若者のことばはぼかし表現ではない

 ◎新しい表現の採用
 「とか」の多用をもって若者のことばの特徴がぼかし表現にあると言うことはできない。若者世代が多用する「とか」の中には、「ぼかした言い方・自信のない言い方」もあるだろう。しかし、それと同時に「強く示す言い方」もあることが明らかになったからである。
 同様に、表1が「ぼかした言い方・自信のない言い方」と一括した他の表現についても、それぞれの表す意味が本当にぼかしであるのかどうかを吟味する必要があるだろう。また、それぞれがどのような事情でその用法を得ているのかという考察も必要だろう。
 しかし、例え、若者世代の「とか」のすべてがぼかし表現だったとしても、また、「お荷物のほう、お預かりします」「わたし的には」「良かったかな、みたいな」「帰ることにします、うん」がぼかし表現だったとしても、ぼかし表現を用いることが若者世代のことばの特徴であるとは言えない。ぼかし表現は昔からさまざまな形であったものであり、世代の別無く、用いられてきたものである。若者世代の特徴は、ぼかし表現を用いることではなく「新しい」ぼかし表現を採用していることにあるのである。

 ◎新しい語形・用法の生まれるところ
 さらに、こうした「新しい」語形・用法が例えぼかし表現に多かったとしても、だから若者のことばの特徴がぼかしにあるとは言えない。前に挙げた「メッチャくやしい」も、程度副詞の新しい語形・用法である。この程度副詞も、新しい語形・用法が絶えず生じるところである。「すごい(えれー・ごっつう・超・めちゃくちゃ)おもしろかったよ」のように。こうした新しい語形・用法が生まれるところは、一言で言うならば、若者らしさを表現するのに効果的なところである。
 ことばは、情報伝達の機能と同時に、自己の属性を表示する機能を果たすものである。自己の属性を表示する機能を果たすためには、バリエーションが必要である。なぜなら、バリエーションのうちの、どれを選択するかによって、品のよい人か悪い人か、堅い人か柔らかい人か、新しもの好きか懐古趣味的かなど、さまざまなことを示すことになるからである。若者世代が新しい語形・用法を採用するのは、新しいバリエーションをふやすことによって、旧世代の規範とは異なる(逸脱する)、若者世代らしさを表すことができるからであり、それが、旧世代にまで一般化してしまえば、その語形・用法の自己の属性表示としての価値は無くなる。そうなると、再び、新しい語形・用法が求められる。こうして、言語は、逸脱することによって自己の属性を表示しようとする要求がある限り、必然的に変化し続ける[9](もちろん、変化はこれだけが理由ではない)。
 さて、自己の属性表示にとって効果的であるのは、日常会話に頻繁に使われる可能性があって、しかも、あってもなくても実質的な意味に重大な違いをもたらさないものだろう[10]。その目で見ると、表1の(1)〜(5)は、いかにも、よく使われるものであり、実質的な意味の希薄な、したがって情報伝達にさして支障を来さないものである。程度副詞もまた、そうである。

――おわりに

 今回、若者世代の使用する「とか」を例に、若者世代のことばの特徴がぼかしにあるとは言えないということを述べた。こうした現象から、「だから最近の若者は自信を失っている」という結論を導きだすことがあるとすれば、それは、全く非論理的だと言わざるを得ない。

*1 一九九六〜二〇〇〇年にかけて和光大学日本語学ゼミで収集したテレビのトーク番組の談話資料によれば、日常会話においては、若者世代より高齢の世代でも、「とか」の新しい用法が使用されている。

*2 寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味』くろしお出版、一九九一年、211頁

*3 前掲、寺村、225頁

*4 前掲、寺村、210頁

*5 仁田義雄「助詞類各説」『日本語教育辞典』大修館書店、一九八二年、392〜417頁

*6 鈴木佐和子『「とか」の用法の拡張』和光大学人文学部文学科卒業論文、一九九九年

*7 沼田善子「第2章とりたて詞」『いわゆる日本語助詞の研究』の「否定的強調」の「など」の論考、凡人社、一九八六年、105〜225頁、
中西久実子「ナド・ナンカとクライ・グライ――低評価を表すとりたて助詞」『日本語類義表現の文法(上)』宮島達夫・仁田義雄編、くろしお出版、一九九五年、328〜334頁、
山田敏広「ナドとナンカとナンテ――話し手の評価を表すとりたて助詞」『日本語類義表現の文法(上)』宮島達夫・仁田義雄編、くろしお出版、一九九五年、335〜344頁、
を参照。

*8 森山卓郎「並列述語構文考――「たり」「とか」「か」「なり」の意味・用法をめぐって」『複文の研究(上)』くろしお出版、一九九五年、127〜149頁では、「たり」が「列挙的な意味をもとにしつつ、同類的なグループから一つの例を出すという例示的な表現方法をとることで、その類的意味を取り上げることになっている」と述べ、この「例示的な『たり』の質的側面の強調用法」は「同様に例示的な意味を持つ『など』や『よう』などの形式でも共通している」と述べている。

*9 福島直恭「『食べれる』と『食べられる』」静修短期大学研究紀要21、一九九〇年と、福島直恭「サ行活用動詞の音便」『国語国文論集』21、学習院女子短期大学国語国文学会、一九九二年では、言語変化と言語の持つ「話者の社会的自己規定」の役割との関係を論じている。

*10 福島直恭「談話における撥音、促音、拗音の非標準的な使用に関する一考察――トーク番組を資料として」『国語国文論集』23、学習院女子短期大学国語国文学会、一九九三年、1〜17頁では、例えば「やっぱり」が文体的な特徴付けの手段となり得るのは、多用しても命題内容に影響がないこと、肯定的な主観の表明を煩雑に行っても円滑な人間関係の形成、維持にはプラスに働き、支障とならないことを挙げている。



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