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シンポジウム◎イメージと言語

神話・イメージ・言語

松村一男 本学表現学部教授

 先ほどロベール先生が「宗教とことば」というタイトルで、聖なる言葉、俗なる言葉という問題を中心にお話しくださいました。対象は世界中の言語で、限りなく広いお話でしたが、そのなかでは特に、先生がご専門の東アジアの天台の教学と言語の問題が中心でした。
 それから私の後に話される山本ひろ子先生の場合は、「日本語の神々のかたち」についてです。つまり言葉よりもイメージ、姿で、対象は日本を中心にということになるでしょう。
 その間に挟まれてサンドウィッチ状態の私ですが、「神話・イメージ・言語」という話をします。この三つの発表は、偶然ではありますが、大変いいつながりを持ちうると思います。つまり言葉からイメージ、姿へという移行の段階のみならず、地域的にも、世界中、そして日本の間に挟まれて、私の場合には世界中というマクロの部分と、日本というより小さなミクロの部分のかけ橋になるような話をできればいいと願っているのです。
 神話が私の研究テーマです。神話というのは言葉を使って何かを伝えようとする物語であることは間違いありません。しかし普通の物語とはすこし性格が違います。それは明晰さ、わかりやすさというものよりは、何かよくわからない不思議さ、あいまいさ、普通の言葉では伝えられない内容を、特殊な言葉を使って――それはイメージ言語と呼べると思いますが――イメージを喚起するような形でもって伝えようとする。だから聖なる言葉である部分もあるのですが、同時にイメージとしての言葉ともいえようと思います。
 神話については、ミルチア・エリアーデというルーマニア生まれでアメリカで活躍した宗教学者、神話学者の定義が有名です。それは、神話というのは、「起源を語る神聖な物語、社会の秩序を聖化あるいは正当化するもの」であるというものです。彼の著作『神話と現実』、『永遠回帰の神話』などを見ていただくとわかると思います。
 ただ、これは学問としての定義でして、日常の私たちの会話のなかで「それは神話だよ」と言った場合、それは本当の話ではない、うそだという正反対の意味が出てきてしまう。エリアーデのような学者は、神話は神聖な物語で、社会の秩序を基礎づける物語だと言っているんですが、日常会話では「それは神話だよ」と言われると、「あんた、うそを言っているね」ということになってしまう。
 なぜこうした正反対の意味が神話という言葉に与えられるのでしょうか。そこから神話という言語活動の持っている魅力、不思議といったことを考えていきたいと思います。
 日本語で「神話」という言葉は明治時代になって生まれたものです。しかし、神話という観念はそれ以前からあったのでしょう。
 日本における神話というものの歴史、位置づけについては、いずれ山本先生のほうから詳しいお話があるでしょうから、私はミュートス(muthos)とロゴスについてお話しします。
 日本語で「神話」と訳された言葉は、英語で言えばmythで、それのもとになっているのはギリシャ語のミュートスという言葉です。このミュートスという言葉から、今、私たちが使っている「神話」という言葉が正反対の二つの、プラスとマイナスの意味を持つようになったのですが、その理由を考えてみましょう。
 ギリシャの最も古い文学作品として、紀元前八世紀ごろのホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』、それからヘシオドスの『神統記』、『仕事と日』、それから、また少し時代が下りますけれども、同じような性格を持っている『ホメロス風讃歌』と呼ばれているものなどがあります。これらでは詩人たちが世界の始まりとか神々の行為を歌っていて、それがミュートスというふうに呼ばれたわけです。
 こうしたミュートスは貴族とか王様がパトロンになっていて、そのお抱え詩人たちが神々について歌っているものですが、そこにおいて詩人たちは自分の考えを語っているのではなくて、詩作の女神であるムーサ(ミューズ)から霊感を受けて、神々の言葉としてそれを歌っているのです。だからそれは真実であるということになっていたようです。詩人たちを抱えている貴族とか王様というのは大体男性ですから、そこに述べられている価値観は当然、男性的なものです。
 ギリシャ語には言葉という意味のもう一つの単語があります。ロゴスです。こちらも用例が今挙げたような作品に見られるので、調べてみると、散文であり、韻を踏んでいる詩の言葉ではない。それから、相手を説得する言葉、相手に言うことを聞かせる言葉である。言うことを聞かせるというのは、自分より強い立場の者に、弱い立場の者が語りかける、そういう言葉ですね。つまり強者の言葉ではなくて弱者の言葉である。
 今の社会でもそうですが、男の人のほうが社会では実権を握っていることが多いですから、男性的な言葉というよりは女性的な言葉である。目的をかなえるため、相手を説得するためであれば、しばしば多少のうそもやむを得ないことがあるわけで、誇張、うそというニュアンスも含んでいる。
 つまり、ギリシャ語で言葉を意味する単語、ミュートスとロゴスの間には明確な使い分けが見られるわけです。いくつかその例を見ることにしましょう。
 ミュートスの例というのは、『イリアス』の冒頭で、「怒りを唱え女神よ、ペーレウスの子アキレウスの」とか、『神統記』の序詞の部分の「ヘリコン山の詩歌女神(ムーサ)たちの讃歌から歌いはじめよう」という言葉、その末尾の「これらのことどもを私に語り賜え、オリュムポスに宮居する詩歌の女神たちよ、はじめから。物語りたまえ、それらのうちで最初に生じたものはなにかを」という部分などです。「歌いはじめよう」というのも、ミュートスという言葉からつくられたミュテインという動詞ですし、「物語りたまえ」という部分も同じ語です。ここはロゴスではなくてミュートスであって、真実の、神の霊感によって語る言葉なのです。
 しかし、こういった状態がずっと続くことはなくて、やがて意味が逆転してしまいます。次に、この変化の要因について考えてみましょう。
 現在、私たちが普通に知っているミュートスとロゴスという言葉の対比は、今、私がお話ししたものとは違いますね。ロゴスというのは真実の言葉であって、ミュートスというのはむしろ虚偽の言葉、物語、あまり信じてはいけないものというふうに、普通、私たちがギリシャの歴史とかを習ったときに教わったはずです。つまり、今、私が述べたことと逆の状態が、皆さんが抱いているロゴスとミュートスという言葉の対比ではないかと思います。ロゴスは知性、理性の言葉で、ミュートスは神話、多少うそっぽい、真実でない話、荒唐無稽な話というように解されているのが一般的です。
 なぜこのように変わってしまったのかという理由ですが、これは言うまでもなく、ミュートスを詩人たちに求めていたパトロンに相当する人たちがいなくなってしまったためです。つまり貴族や王様がいなくなってしまって、ミュートスでもって食べていた詩人たちはもはやそれで生活ができなくなったのです。
 そして、王様や貴族にかわってだれが政治の権力を握るようになったかといえば、市民です。いわゆるギリシャの民主制の誕生ですね。平等な市民によって政治が行なわれるようになって、彼らが国をどうするかを決めていく。そのときにはお互いに議論をします。相手を説得する言葉、理性の言葉、これが真実なんだ、こうするのが正しいんだという言葉が必要となります。
 先ほどのミュートスとロゴスの対比で言えば、相手を説得する言葉はロゴスです。ミュートスという、かつて神の霊感として語られていた詩人の言葉は、人間の言葉ではない。市民の間で語られる言葉ではない。それはもはや過去の遺物ということになります。したがって、民主主義の時代になると、ロゴスこそが真実の言葉、理性の言葉、そしてミュートスは虚偽の言葉という逆転現象が起きました。
 ロゴス、知性の言葉が、紀元前六世紀ぐらいから小アジアのイオニア人の哲学者、さらにはアテネに来て、ソクラテスとかプラトンとかアリストテレスとか、そういう哲学者たちの言葉としてギリシャ世界のイメージを形づくっていくわけです。
今お話ししたことで、なぜ「神話」という言葉には正反対の二つの意味があるのかということが多少おわかりいただけたかと思います。
 最初、神話というのは真実の言葉であった。しかし、政治体制が変わるとそれは真実の言葉としての地位をロゴスに奪われて、虚偽の言葉になってしまった。伝統的なギリシャ観に由来する虚偽の言葉としての用法のほうが現代まで、聖なる言葉ではなくて俗なる言葉として、日常の会話のなかではミュートス、神話という言葉は、うその話という意味で用いられているのです。
 しかし、先ほどのロベール先生の話で言うと、人間の世界の言葉というのは、俗なる言葉だけではなくて、もう一つ、聖なる言葉がある。その聖なる言葉としての神話という言葉は、どうも真実という意味のほうを持っているようです。そして聖なる言葉を生み出しているのは学者らしい。この人たちは自分たちが聖なる権力の言葉を持っているというふうにどうも考えている。俗なる言葉ではない言葉をしゃべっていると考える傾向が強い。そこで、エリアーデのように、神話というのは世俗の社会では虚偽だと言われているけれども、「本来の」というところが問題ですが、「本来の神話」という言葉はそんなものではない。もっと高貴なものである、真実の言葉なんだ、世界を秩序づけている根本的な言葉である、そういうことを言い出すわけです。
こうした聖なる言葉としての近代における神話という用法なのですが、これがいつ誕生したのかというのが、次のロマン主義と神話学の誕生という問題です。
 一八世紀のフランスは、ヴォルテールとかモンテスキューといった人びとによって、理性の時代を迎えます。エンライトメント、啓蒙主義ですね。そういった流れがドイツにも及んで、ライプニッツとかカントの壮大な哲学体系も生まれます。
 しかし、一九世紀になってくると、ドイツではそれに対しての反動が起きてきた。これがいわゆるロマン主義です。人間というものは、知性の言葉、理性、そういったものだけで生きているのではない。もっと感情の部分があるだろう。感情なくして頭だけで生きているなんてむなしいじゃないか。そういう反ロゴスの態度が生まれてきます。
 では、ロゴスにかわる有力な言葉は何か。それこそかつて人びとからさげすまれていたミュートスである。ミュートスの復権を果たそうということで、一九世紀のロマン主義が神話学というものに注目をして、神話の再評価をする、これは当然のことかと思います。
 そしてドイツでは、民族の魂としての神話というものを再評価しようという動きが、例えばグリム兄弟であるとか、ノヴァーリス、シェリング、ハイネ、ヘルダーなど、さまざまな人びとによって行なわれました。そして、二〇世紀になるとワグナーも登場してくるのです。
 こうしたロマン主義の時代に、ロゴスに対してのアンチテーゼとして再び見出されてきたミュートスについて、学問としての神話学といった場合、その神話学はロゴスに対してのアンチテーゼなわけですから、当然ミュートスこそが真実の言葉であるという立場に立つわけです。それはかつてギリシャ時代に、哲学が生まれる以前にミュートスが与えられていた地位の再発見というか、再登場なのでしょう。
 これまでの話では、西欧思想史というのを、ミュートスとロゴスの対立、それぞれの地位の主張という単純な二分法でどうも説明しているような気がします。それで果たしていいのかというのは、私もよくわからないけれども、大づかみに歴史の流れを考えるときに、どうもそういう大きな二つの要素、AかBか、白か黒か、善か悪かということで考えていく傾向が人間には一般的にあるような気がします。
 さて、次に現代と神話という問題を考えてみましょう。二〇世紀の現在、私たちはミュートスというものをどうとらえているでしょうか。
 先ほどから言っているように、ミュートスというのは虚偽の言葉であるという考え方があるのですが、同時に、管理社会のなかで学問は自分の心の問題をどういう形で取り上げてくれるのか、そういう意識も高まっている。心理学に人びとの関心が高まっているのも、そのためでしょう。そうしたなかでアメリカで人気のある神話研究者のジョゼフ・キャンベルは、神話には魂を癒す力がある、我々は神話を読むことによって知らず知らずのうちに神話が秘めている魂を治癒する力を与えられている、そういうことを言って、大変な人気を博しています。
 ある意味でいうと、伝統的な宗教が人びとの心に満足を与えてくれない時代に、それにかわるものとして神話を再評価しようという動きがあるのです。そこには当然、魂の問題、心の問題が、二〇世紀の思想史のなかでフロイトとかユングの無意識や深層心理についての研究もあって、大きな関心を集めているという現実があると思います。
 要するに、現代人の関心は目に見える世界ではない、心のなかに向かって何かを求めようとしている。そのときに神話、ミュートスというものが、ロゴスでない、別のタイプの語りとして関心を集めている。そういうことではないかと思います。
 同時に、この問題は次のようにも表現できるでしょう。つまり、西洋を中心に考えれば、西洋以外のどこか知らない未知の世界の言葉がある。それは我々に何か知恵を与えてくれるものとして、例えば人類学がどこか自分たちとは違う世界に行って、そこで人びとの語っている物語を採取してくる。どうやって世界がつくられたか、どうやって人間は生まれたかを語る物語を集めてくる。それはミュートスなわけです。つまり、二〇世紀においては私たち自身の側の問題としてミュートスを求めている。ミュートスに対する潜在的な需要がある。どうもそういう気がしています。
 さて一番最後に、現代の神話とは何かという問題に触れたいと思います
 今見ていただいたように、ミュートスという言葉、神話という言葉は、非常に大まかなジャンルのようです。言葉を理性の言葉と感情の言葉というふうに二種類に分ける伝統が西洋にあって、その伝統はどうも日本にも影響を与えていて、私たちも同じような考え方にとらわれている部分がある。
 そのときに神話という言葉でくくられているものというのは、かなり大ざっぱな二分法ですから、いろいろな種類のものが入っているんじゃないか。そういう気がします。だから、神話とは何か、イメージの言語としての神話とは何かというときに、問題を深く考えるのであれば、「神話とは何か?」というふうに単純に言ってしまうと、いろいろなものがそのなかに入っていて、結果的に議論がかみ合わなかったりすることが生まれてくる可能性があるので、神話という言葉のなかには一体どういうものが含まれているのか、少し考えておいてもいいだろうということを最後に述べたいと思います。
 専門は神話の研究ですというふうに言っている私もよくわからないんですが、神話という語のなかに何が含まれているのかという問題についてはまだわけのわからないこと、決めがたいことがたくさんあります。しかし、おそらく神話を生む原動力になっているものは複数あるだろうというのが、今の私の考えです。
 たとえば、一つには、人間の外部、自分たちのまわりの世界についての何か不思議な感覚、それは自然に対しての何か特別な感動、あるいは、目に見えないものが自然のなかには潜んでいるのではないかという感覚、それがある物語を生む契機になっている場合があるでしょう。
 二番目には、そういう外の世界ではなくて、心のなか、感覚の不思議さ、恋をしたらある日突然世界が変わって見える、そういうものが意識化され、神話化されるということもあるでしょう。
 三つ目は、意図的に神話というものをつくり出して、それによって何らかの目的を達成しようとする力です。そういう意図的に流される神話、これは広告業界がよく流していますね。クリスマスの過ごし方、たとえば若いカップルはフランス料理やイタメシを食べて、プレゼントを交換して、シティホテルに泊まるべきであるというのが、ひところマスコミが作ろうとしたクリスマスの神話でした。その他にも、バレンタインの神話であるとか、ハネムーンの神話とか、マイホームの神話など、いろいろあると思います。
 四番目は、ある種の理想主義が生み出す神話というものです。人間は平等でなければならない。人権は守られなければならない。人の命は何よりも重い。これらはまことに正しい、正義の言葉なんですが、しかし現実問題としてどこまでできるかといえば、残念ながら現実というものは必ずしも理想を一〇〇パーセント実現するようにはなっていない。しかし、そのときにある種の人びとは、その正義のほうを至上とする。現実よりは理想の正義に現実を合わせるべきだと主張する。私はこれも一種の神話であろうと思っています。



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