研究活動報告◎一九九八年度



現代中国研究会

 この年は現代中国研究会の主力メンバー劉・鈴木・加藤の三人が学外研究、日本に残って活動できるのが実質的に二人という変則的な形となった。活動報告は無論三人の学外研究が中心となるべきだが、これは帰国後の研究会で報告されるので、次年度に回させていただく。

 七月一七日、「アジアの教育」グループと共催で、上海の復旦大学経済学部の童適平先生をお呼びして、「アジアの金融危機と中国の課題」というテーマで報告をいただき討論会を催した。童先生のお話は、まず人民元を切り下げるべきか否かという中国経済が直面する焦眉の問題から始まり、切り下げによるインフレ懸念が内需拡大を抑える、東南アジア金融危機再発への引き金になりかねないと指摘された。内需拡大策では住宅建設と販売促進、そのための消費者信用制度の拡充を中心に展望された。更に国有企業の改革、金融制度の改革に話し及ばれ、図表を使った明解な解説に、中国経済の全体像と問題点が浮き彫りにされて、貴重な知見を得た。

中国への調査旅行は、劉・加藤がともに北京にいる時を選んで档案館調査を中心に行なうこととした。

 一二月二三日成田発上海着、山村ゼミ出身上海三機許展鴻氏の出迎えをうけ、午後浦東開発区などを案内してもらい、最近の上海の経済情勢、都市生活現状などを紹介してもらった。

 翌二四日は一日上海档案館で資料調査、日本の上海史研究会の紹介で館長助理・『租界志』弁公室主任の馬長林氏と会い、手配をいただいたので、あらゆる資料にほとんど制限無し、スピーディーに資料が出て来る。档案館は中国式公文書館、武装警察に守られ特に外国人には馴染みの薄い、恐ろしげな存在だったが、最近開放が進み、閲覧室も賑わっていた。佐治は一九二〇、三〇年代の文芸雑誌と内部資料を中心に、山村も同時期の日本人社会の資料を中心に調査した。

 翌二五日は新装なった上海博物館を参観、佐治ゼミ出身上海理工大学の張正蘭氏と会い、日本語教育の現状と困難点などを聞いた。

その日のうちに北京へ。二六日加藤さんの案内で北京档案館へ。ここも新装なったばかり、完全にコンピューター化して開放の度合いも進んでいるが、コンピューターの検索にかけて貰うためにカードを繰って資料を探すのに時間がかかり、一日では十分に必要な資料に辿り着かない憾みはあったが、档案館学への入門は果たせ、貴重な資料をたくさん購入できた。

 二七日は長安大戯院で京劇観劇、二八日は北京外国語大学外事処訪問、和光大学との交流の現状と今後の可能性について陳杭柱所長と意見交換し、日語科の学生たちと交流会を持ち、卒論のテーマの決め方、研究の進め方などについて大いに意見をたたかわせ、翌二九日帰国した。

(佐治俊彦)



「在日」フォーラム

 本年度、アジア関連研究グループは「在日フォーラム」という新しい企画を実験的にこころみることにした。在日朝鮮人という「体験」、その現在と未来をテーマに「在日」二世、三世を中心に懇談や討論を行なう。その「体験」、そして二一世紀に向けての未来像を語り合える共通のことばを在日朝鮮人と日本人で探るのが目的であった。三年の間に年二~三回程度、少人数グループで開催し、その年のテーマにそって年一回、学内外向きのイベントないしシンポジウムを開く構想であった。

 本年度の第一ラウンドとして、七月二日、「在日フォーラム」は朴容福(パク・ヨンボク)氏と森井清志氏を招き、問題提起をしていただいた。両氏は、日本で生まれ育ち、同じ職場の同僚でありながら、法的地位や生活体験も考え方も正反対である。

 朴氏は、一九八〇年代から指紋押捺を含む外国人登録法に反対し、在日朝鮮人の人権擁護運動に先駆的な役割を果たしてきた方である(一九九九年の外国人登録法の改定案をめぐる審議にあたって衆議院の参考人にもなった)。

 森井氏は、「愛国主義者」と自称し、過去のことや民族差別はともあれ、日本人が民族的プライドを持つべきという思想の持ち主である。とはいえ、お二人はそれぞれの立場を持ちながら、日常生活のなかで長い時間をかけて「言い合える」という信頼関係を築き、興味深い「共通性」をみせた。二人の会話はイヤでもお互いの主張を聞く耳をもちあっている、という印象だった。

 本フォーラムは朴氏の話を中心にすすんだ。氏は「体験的日本人論」というテーマで、「在日」と日本人のかかわりについて、もっとも切実で「対等」なこれまでにない関係で話し合うことを目標としていたが、「『在日』の悩みは多くの日本人が気づかない、自らの社会に強要される『自己抑圧』に端を発し、その根底には日本人の悩みも潜んでいる」と提起した。

 なお、その抑圧のしわ寄せは、法的制度のありよう、地域社会のしきたり、偏見などさまざまな形で「在日」に向けられている。「おカミ」を恐れる人びと、「周りの目」にとりつかれている人びと、「自分たちでさえこの世の中で生きることが耐えがたいのに、なぜ朝鮮人が好き勝手なことをしているのか」と「在日」への脅迫状でたまに本音を書く人びと。結局、少数者の「在日」の蕫救い﨟は日本人の蕫救い﨟と密接に絡み合っており、日本人側がそれを見抜かない限り、共通のことばも、対等な関係も容易に生まれてこない。また、このような無自覚は「共生」社会の実現をさまたげるものである、というのが、氏の発言であった。

 朴氏は、日常生活のさまざまな例を挙げながら、「何々さん、あなたはどうでしょう」と参加者を指し、攻めてくる。不愉快な思いをさせるくらいだったが、一方的でありながら、ひとつの蕫出会い﨟ともなったようだ。森井氏と朴氏とのやり取りでは、「法は法なり」、「郷においては郷に従え」、「だから日本人が嫌い」などの発言があり、日本人学生にとって刺激的な言葉が飛び交った。が、二人にはある種の親しみが感じられ、それは森井氏が朴氏と違うことばで「日本人の悩み」を語ろうとしていたからかもしれない。

 朴氏の問題提起に対して同席した二〇数名の学生たちの反応はさまざまだった。氏の言いたいことが十分伝えられたかな、と心配していたが、その後、ゼミ生の感想文では、「驚いて返すことばがなくてくやしかった」とか、「反論したい」と反発した者もいれば、朴氏の「攻撃性」、「パワー」(「怒り」と書いた者もいた)の裏を読み取って「在日朝鮮人の本音をはじめて聞いてよかった」、「朴さんは心の暖かい方で、日本人に対して大きな期待を抱いている」と感じた者も少なくなかった。「私たちは確かに抑圧を感じないが、それは生まれた時から抑圧を感じない社会にただ蕫なれている﨟だけだからかもしれない」、「われわれは、自分の力で社会を変えることがないと教え込まれてきた」などと書いた学生もいる。いずれにせよ、「今後、本当の対話を求めたい」あるいは「もっと知りたい」という意見が大半だった。

夜の懇談会では落ちついた雰囲気で突っ込んだ話ができ、そのやり取りも考えさせる材料に富んでいた。

 つぎに、七月一一日に町田市民ホールで呉徳洙監督の記録映画「『在日』戦後50年史」の上映会があり、三〇〇人の地域住民や学生が集まった。賛同人には和光大学教員有志も多くいて、映画の上映後の「呉監督を囲む会」は「在日フォーラム」と本学の「物語研究会」の共催で行なわれた。

 一般市民、「在日」(朴氏も含めて)、学生など約三〇人の同席者は二時間半をかけて映画や「在日」と日本人の今後の関係について活発な意見を交わしたが、ここでは、学生とともに「在日フォーラム」で行なった議論をさらに深めることができた。

 本年度のフォーラムは結果的に、多くの学生には十分刺激的であり、一部の学生には深い問題提起になったと思われる。ただテーマの枠が広すぎるなどの反省点もあり、来年度からの研究活動は検討中である。

(ロバート・リケット)



沖縄の地域社会

1――与那国調査の経過報告

 沖縄県(八重山郡)与那国島の実態調査は、一九九九年三月二一日から一〇日間にわたって行なわれた。言うまでもなく、与那国は国境の島である。台湾からわずか一〇〇キロあまりのこの孤島は、海を共有する中国・台湾と、あるいは朝鮮を含む東アジアの諸国、そして沖縄本島と日本、とどのような歴史的な関係をもってきたのか、それらが「シマ」の固有の社会と文化の形成にどのような影響を与えてきたのか、未見の史料と証言を求めて、与那国の三集落(租納、北川、久部良)について資料収集と聞き取り調査を行なった。主要な調査項目は、

 (1)朝鮮・台湾との関係、とくに日本統治下の台湾経済圏の与那国、

 (2)一九四五年敗戦直後の「密貿易」時代、

 (3)三集落の地域史研究、戦後の展開過程、

 (4)集落の自治組織と祭祀慣行、

 (5)地域社会教育とくに自治公民館活動にみる地域特性、などである。

 大きな輪郭は明らかになってきたが、さらに詳細な分析調査が必要である。(小林文人)

2――パラオの沖縄移民調査

 南洋の沖縄移民が、いかに沖縄のコミュニティに影響を与えているかという観点から、南洋庁の中心、パラオ共和国へ一九九九年一月二六日から二月三日まで調査に出かけた。沖縄移民のネットワークは、日本本土からの移民と若干異なるようであるが、調査地では日本の遺族会からの寄付の取り扱いや旅行斡旋をめぐり、日系移民同士の複雑な人間関係があるため、あまり深く立ち入れなかった。パラオ共和国の首都コロール島で主に調査を行なったが、三日間、北部のガラルド州に出かけて、戦前に著名な報告書がある村を訪ね、パラオ研究で有名な土方久巧と杉浦健一を知っている老人を訪ねた。調査結果は、次回の人間関係学部紀要に発表する予定である。

(中生勝美)



スリランカ研究フォーラム

 本フォーラムは、スリランカに関心をもつ者が自由な立場で参加し交流できる場である。年二回、研究発表を主体とした研究集会を催している。九八年度は次のようなフォーラムを行なった。

1――第五回フォーラム

九八年六月一三日(土)一四時より

いきいきプラザ一番町にて

発題=J・B・ディサーナーヤカ(コロンボ大学)

「スリランカの言語教育と言語問題」

コメンテーター=シャーンタシーラン・カディルガーマル(明治学院大学)

綿井 健陽(ジャーナリスト)

2――第六回フォーラム

九八年一一月一四日(土)一四時より

和光大学J│二〇五

発表1=池本道夫(フォスター・プラン、スリランカの会世話人)

「スリランカにおける開発援助の現状と問題点―フォスターペアレント運動を通して」

発表2=モンテ・カセム(自立のための道具の会代表、立命館大学)

「スリランカにおける地域開発―リサイクル運動を通して」

 第五回フォーラムでは、和光大学が招聘していたコロンボ大学のJ・B・ディサーナーヤカ教授にお話しいただいた。独立以降スリランカでは、言語は常に重大な問題であり続けている。氏は言語学者の立場から、言語はコミュニケーションの手段のみならず民族的なアイデンティティにも深くかかわることを指摘し、国家によるシンハラ語政策に言及した。シンハラ語の公用語化はまさに民族紛争の契機の一つにほかならない。さらに、近年のジャーナリズムや出版界における新しい文体についても報告された。

 これに対し、カディルガーマル氏がタミル人の立場から、綿井氏が紛争取材の経験からコメントし、両言語・民族の共生の可能性について議論された。研究者だけでなく、日本人学生、スリランカ人学生も加わり、言語問題の重大さを理解することができた。

 第六回フォーラムでは、NGO活動に従事する方々に報告していただいた。池本氏は、子どもの教育支援を主眼とするプラン・インターナショナル日本支部に参加し、スリランカ部門の世話人をつとめている。主にバドゥッラ地方の活動に基づいて、ペアレントとチャイルドの関係が構造的に説明された。幼稚園、子ども会、婦人会、福祉、居住環境改善などの活動を報告しながら、目的は自主的な運営であり権限の委譲こそ目標であると述べられた。しかし、現地事務所の外国人スタッフによる横領などの問題についても明らかにされた。

 モンテ・カセム氏は、自立のための道具の会を設立し、使用されなくなっている道具を修理してスリランカやインドの貧しい人びとに贈る、一種の村おこし的活動を行なっている。スリランカの村では、小規模発電やリヤカー付き自転車を考案した生活改善活動について報告していただいた。氏からは、会計報告をきちんと行なうことの必要性が強調された。このフォーラムでは、NGOもさまざまな困難を抱えていることが認識できたと思う。カセム氏が述べた「私たちの活動で変わるのは、母親が子どもの宿題に目を通してあげられる時間ができる程度のことなのです。」という言葉が印象的であった。池本氏からは「この程度の困難でめげてしまっては、NGOをやっている意味がない。」との力強い言葉があった。

(澁谷利雄)



南西アジア研究会

 本年度から発足した南西アジア研究会は、旧象徴図像研究会時代から一〇年来関わり続けてきた南アジア、西アジア、中近東世界の文化にフィールドをもつメンバーが集い、自発的な研究活動の母体として第一歩を踏み出した。

 所属するメンバーの多くが、文部省から科学研究助成を継続的に受けてパキスタンのバローチスターン地方の調査に従事している。この実績を踏まえて、初年度の活動は、現地調査において常にパートナーとなる国立バローチスターン大学(クエッタ市在)を公式訪問し、両大学教官・学生による学科間交流プログラムを立ちあげるためのミーティングを持った。

 ミーティングには、美術交流・美術教育の現場視察を目的とした川添修司(世話役)、本会の代表である松枝到、そしてバローチスターン調査経験者である芸術学科非常勤講師の村山和之と大坪潤子らの計四名が出席した。バローチスターン大学からは、新設されたバローチスターン研究センター(大学院レベル)と美術学科から、それぞれ代表教員や学生たちが参加して、教育の現場を舞台に有意義な意見交換を行なった。

 このパキスタン交流プログラムについての成果とその詳細は、『東西南北1999』に掲載された以下の報告にゆずる。

「和光・バローチスターン大学交流史と新学科」村山和之

「美術学科の人びとと」大坪潤子

 また、現地訪問と並行してメンバーたちによる自主的な研究会が個別に行なわれ、来年度に予定しているインド現地調査の準備活動を進めている。バローチスターンにおけるヒンドゥー巡礼史、そして仏教美術史の観点から資料収集、踏査の必要性を強く感じるからである。対象地域はパキスタンと接するインド西部、そしてデリー周辺の博物館や神殿である。

 初年度とはいえ、学内外から多数の若い参加者たちを得て、フィールドワーカーたちの開かれた交流の場として始動できたのは大きな成果であるといえよう。

(松枝 到)



一九世紀末を中心とする日本の進路決定

 九八年度は申請当初計画の初年度にあたっていて、メンバーにも地理学、女性学、アメリカ文学、韓国政治外交、美術等の専門分野を加え、日本私立学校振興・共催事業団の学術研究振興資金を申請して発足した。申請は採択されなかったが、法人からの予算を得て研究活動を開始した。

 研究目的――二〇世紀の終末を迎え、混迷を深める日本の進路に見通しを得るために一九世紀末の日本を検証しなおす《日本と深くかかわったアジア(とくに中国と朝鮮)などの諸外国をも視野におきつつ》││は申請前の研究の方向をひきつぐが、もともと蕫文化の視点﨟という立場をとるため、きわめて多岐にわたる事柄をどうテーマとして統合させ、研究を蓄積し発展させてゆくか、その成果を得るのは容易ではなく、苦労を重ねた一年間であった。以下、研究会、調査、見学等に分けてこの一年間を回顧する。

[研究会]

 つねに公開の立場で開かれたが、参加者は多忙もあって毎回五~六名から一〇名程度までにとどまった。計画しても委員会と重なって不可能になったりして実質的には年三本の発表にとどまった。

1、「長崎と鉄道」

  ――長崎と鉄道知識の導入

 九月二日

 報告者=原田勝正・経済学部教授

 参加者=一一名

 営業路線開通以前の、幕末、嘉永四年(一八五一)ごろからの文書による情報―鉄道知識の導入、模型作成、機関車試運転(安政五年、一八五八、真偽のほどが取り沙汰される)に至る北九州の佐賀藩、長崎の果たした役割について突っ込んだ分析がなされた。近代化の姿勢が未だ出てこない中での外来文化の受け入れ方、という問題提起であった。

2、「井上円了の妖怪学」

 一二月二日

 報告者=橋本堯・人文学部教授

 参加者=六名

 宗教学者(とくに仏教関係)の井上円了が明治二九年(一八九六)に公刊した『妖怪学講義』の内容紹介を通じて一九世紀末近代的な学問研究の方法論の一側面と、当時の民衆の文化的関心について述べた。宗教学というジャンルがどうして確立するのか、一九世紀末の宗教的状況についても話題が及んだ。

3、「蕫日本の唐人町﨟研究調査中間報告」

 九月二日

 報告者=佐治俊彦・人文学部教授

 参加者=一一名

 九七年度の長崎調査活動(九八年三月実施)をふまえ、『日本華僑社会の研究』(内田直作著)と『長崎唐人屋敷』(山本紀綱著)の二研究書を参考に一五七一~一八七一年の歴史的概観を提供した。蕫華僑﨟問題の現在の研究レベルも紹介しつつ今後の研究の展望をも述べる。

[調査活動]

1、東京都内資料調査活動

 九月一~二日

 九七年度長崎調査の際、明治期の資料については東京都などに多数存在する、という情報を得たので、外務省外交資料館、国立公文書館、都立中央図書館(郷土資料室)等を中心に手分けして調査した。その結果、明治期の邦人、外国人の、出入国関係の情報は外務省に、また明治期に刊行された図書の大部分は国会図書館に、また英文を中心とする洋書類と、長崎県および長崎市に関連する刊行物と文書(地図を含む)は国立公文書館に保存されていることが判明した(東京大学史料編纂所は夏期休暇中のため断念)。

2、関西方面調査活動

 九九年一月三〇日~二月一日

 ア、京都市(府立総合資料館)

 イ、天理市(天理大学図書館、天理教本部蕫おやさとやかた﨟)

 ウ、神戸市(中華街)

 以上の三箇所を調査、それぞれのメンバーのテーマと関心にもとづく研究資料や情報、知見の収集につとめた。

なお、『京都府百年の資料』(一~九、府立総合資料館編集、昭和四七年刊行)はこのときに入手した。

3、第二次長崎調査活動

 九九年三月二二日~二五日

 ア、県立図書館

 イ、三菱重工長崎造船所

 ウ、長崎大学東南アジア研究所

 以上の三箇所を重点的に資料、情報の収集を行なう。

4、横浜見学会

 九八年一二月二二日

 これは調査活動というよりメンバーによる気楽な関連テーマ見学会である(横浜は別途に大々的な研究が進行しつつある模様で、当研究グループの調査対象地とはしていない)。

ア、横浜開港資料館

イ、シルクセンターおよび同所内の横浜商品取引所―ここで実際の取引の見学および説明―

の二箇所。

以上のほか、今後の研究計画や、グループのメンバーの研究状況の報告、交流を含め、三回の打ち合わせ(四月一五日、五月八日、九九年三月九日)と一回の合宿(九八年九月二~三日)を行なった(参加者は各回とも五~六名)。

(橋本 堯)



言語文化研究会

 この数年間の、それこそ言語文化に関わる情報関連分野の、世界的な変転のありようは驚異的でありました。それは主として技術的発展に由来するものであり、産業と直結した自然科学の領域が世界を振り回した時代だとも言えましょう。

 PHS・携帯電話の普及は、従来の電話によるコミュニケーションのあり方を全く変えてしまいました。同様に、パーソナルコンピュータの世界も、それまでの計算や文書作成という機能が中心であったものから、インターネットやEメールの浸透によってコミュニケーションの道具へと、その性格を変えてしまったのです。少なくともパーソナルコンピュータが通信機器としての性格を持たなかったとしたら、現在のような話題性は持ち得なかったでありましょう。

 インターネツトの普及によって、世界中の人びとが気軽に交信し得るようになって、改めて必要となったのが翻訳ソフトでした。それまでは生活の中で英語を必要としなかった人びとが、外国の商品をネットで購入したり、他国のホームページを開くための手軽なツールとして翻訳ソフトを用いるようになったのです。

 それのみならず、研究者も論文作成に当たり、英文で文章を書くよりも日本語で書いておいて、翻訳ソフトで英訳したものを手直しするなどの動きも出てきました。確かにその方が時間の節約になるからです。

 数十枚の原稿を翻訳するのに、僅か二・三分で下訳が可能となれば利用しない手はないわけです。もっとも固有名詞の清水さんがclear waterと訳されるなどの珍事もあります。試用した教員の報告によれば、今や翻訳ソフトは十分に使用可能な文房具になっているということでした。

 このことから考えれば、翻訳ソフトの利便性は、今後の市場価値を十分期待させるのです。そのことが、現在おびただしい種類の翻訳ソフトを市場に氾濫させる原動力になったのでしょう。

 当研究会では、一つの作業として翻訳ソフトを試用することにより、翻訳ソフトの社会的影響について検討することに、この一年間を当てました。言い換えれば、翻訳ソフトの機能の善し悪しや使い比べではなく、翻訳ソフトが今後市民社会の中に浸透していく中で、いかなる影響がもたらされるかという事です。

 さしあたって考えられることは、公教育や大学教育における語学教育への影響でありましょう。換言すれば、従来の方式での語学教育の見直しといった、教育課程そのものに関わる間題を、翻訳ソフトは投げかけてきているように思います。

 次に活動方針の主軸としていた外部講師による講演会は、年度末の押し迫った時期であり、また一般入試の最終日という極めて条件の悪い中で行なわれたために、参加者も限られて、講師には大変申し訳なかったのですが、実行することが出来ました。

 講 師=ましこひでのり氏

 演 題=「抗原抗体反応としての日本語論―日本語文化の境界―」

 日 時=一九九九年二月一二日

(鈴木勁介)



フェミニズム・ジェンダー研究会

 フェミニズム・ジェンダー研究会は一九九八年度、ジェンダー・フリー・スペース(仮称)の構想づくりを中心に活動した。大学の構成員が学内外で直面するさまざまのジェンダー問題に関する情報収集・提供、教育・啓発活動、研究・調査活動の拠点が必要だとの認識から、アメリカや日本の他大学の先行事例を多角的に調査し、検討した上で、一九九九年一月にジェンダー・フリー・スペース(仮称)の構想をまとめ、大学施設建設委員会に提出するにいたったのである。

 具体的にはまず、七月八日に「アメリカ諸大学の女性センター」について、ミシガン大学を中心に、同大学大学院生の山口智美さんに話していただいた。

 ミシガン大学には、アファーマティブ・アクション・オフィス、性暴力の予防と自覚のためのセンター、女子教育センター、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーのためのオフィス、オンブドパースン、女性・ジェンダー研究所などさまざまの窓口が設けられており、それらが横断的に組織化されていることなどが分かった。

 七月二三日に当研究会の五人が高知大学を訪問し、高知大学女性の人権委員会の委員長ほか四名の委員から、この委員会設置の経緯、組織、規則、実際の活動等について話を伺った。

 当日開催の教育学部「学生&教職員のためのセクハラ問題を考える学習会」にも参加し、和光大学のガイドラインについて説明する一方で、高知大学教育学部におけるセクハラ事件の経過とその問題点等についての討論に加わった。組合女性部や学生の活動と教員たちの活動とが連動し、協力し合っている様子が窺えたのは、収穫であった。

 さらに一〇月一二日には、研究会から四人が立教大学ジェンダー・フォーラムを訪問し、所長以下六名の関係者に面談した。

 このフォーラムは初めは学生生活部内で検討され提案がまとめられた後、予算措置等を含む提案として学長から部長会に諮られ、学長直属の機関として出発することになった。学長任命の所長、全教員から公募した一三名の運営委員、女子寮同窓会選出委員二名から成る運営委員会が、フォーラムの企画・運営に当たり、嘱託職員が事務を担当。九八年四月に発足し、九月から嘱託職員を採用し正式にオープンした。

 ジェンダーに関する講演会、調査・研究、情報提供等を行なう予定という。ジェンダー・フォーラム規程をはじめ、いくつかの資料をいただいたが、この立教ジェンダー・フォーラムは、私たちの構想の直接のモデルとして、大いに参考になった。

 こうした他大学の事例を参考にして、九月三〇日に第一次案を作成し、数度の検討を経て、一月末にジェンダー・フリー・スペース構想をまとめたわけである。

 ジェンダー・フリー・スペースの構想づくり以外の今年度の活動は、以下の通り。

1――梅根記念図書館所蔵フェミニズム・ジェンダー関係文献目録の作成

 前年度来の課題として取り組んできたが、外国語文献を含む目録がようやく完成した。データベースで検索可能な形になっており、希望者にはフロッピーで配付できる予定である。

2――ビデオ上映会

 今年度は高島真理子講師のご協力により、計七回のビデオ上映会を開催することができた。主に二〇世紀のアメリカ女性の歴史をまとめたビデオシリーズで、テーマは以下の通り。

 1.映像の誕生           (六月九日)

 2.大衆文化のイメージ――服装の変化(六月一六日)

 3.大衆文化のイメージ――服装の変化(六月二三日)

 4.大衆文化のイメージ――髪型の変化(六月三〇日)

 5.二〇世紀初頭の女性労働     (九月三〇日)

 6.第2次大戦と女性        (一〇月二七日)

 7.ウーマン・アーティスト     (一一月二四日)

3――研究発表・ワークショップ

 一一月二七日に、表象研究会と合同で、ヘアート・ロヴィンク(アムステルダム新旧メディアセンター)と趙恵浄(延世大学)二氏を招いてのワークショップ「メディアとフリースペース」を開催し、一月二七日には大島かおり講師による講演会「ユダヤ性・同化・ジェンダー」を開催した。

 大島さんのお話は、ご自身が翻訳されたハンナ・アレントによる伝記『ラーエル・ファルンハーゲン』を素材として、一九世紀初頭のドイツ・ロマン派のユダヤ女性の生涯と、一九三〇年代にナチ・ドイツから亡命したアレントの生き方と思想を重ね合わせながら、表記のテーマを考える、非常に密度の濃い内容であった。

(井上輝子)



表象研究会

 前年度までの物語表現研究を閉じて新しく発足した表象研究会は、本年度の全体テーマを「ドキュメンタリーの世界」と題して活動を行ないました。さまざまな表現媒体における物語現象を包括的に考察することから、少し的を絞って事実と虚構という二分割の下に、安易に事実をそのまま映し出していると考えられてきたドキュメンタリーを取り上げて、事実といわれているものをなんらかのかたちで表現体にまとめる場合、その中に存在させざるを得ない編集性―これを別の言い方にすると物語ということになるでしょうが―をあぶりだしてみようというのがテーマの意図するところでした。

 ところで、ドキュメンタリーと言っても大きくわけて文字表現によるものと、映像表現によるものがありますが、今回の研究活動では主に映像表現を取り上げてみようということになりました。もっとも、映像のみで作品がつくられることはないといっても過言ではないでしょう。言葉による説明、音楽などが備わっているのが通常でしょう。したがって、映像のみを考察の対象にするわけではなく、あくまでも映像を中心とするというのがこの研究会の基本姿勢であることを確認して会を発足させました。が、さしあたってどの作品・作家からアプローチするかについていろいろ相談もし、またさまざまの示唆もいただきたかった非常勤講師の福田克彦氏が、一九九八年一月一二日に突然亡くなられました。メンバーの関心はドキュメンタリーにあったのですが、その専門家がいなかったので、福田氏を大いに頼ろうとしていた矢先のできごとでした。授業への痛手に勝るとも劣らない衝撃でした。

 このハプニングの整理もつかない四月、表象研究会は出発しました。

 福田氏は、ドキュメンタリー映像作家でもありましたので、本当につらい出発ではありましたが、この会の第一回目を福田氏の作品を見ることから始めることにしました。氏の代表作の一つである「草取り草紙」を鑑賞して、長年のパートナーであった写真家の波田野ゆき枝氏に制作当時の福田氏の様子やドキュメンタリーに関する思索についてお話をうかがいました。福田氏の言葉として波多野氏が紹介して下さった、「リアルと言うのは理想をもつこと」ということが私たちの研究テーマにストレートに突き刺さってくるのでした(六月二六日)。

 第二回目の研究会はアジア研究会との共催で、本学非常勤講師の呉徳洙氏の「在日」をみる会を七月一一日に町田市市民ホールで行ないました。この作品は五時間を超える長編でなかなか見る機会にめぐまれない作品でしたので、一般の人びとと一緒に見られて貴重な体験でした。ドキュメンタリーはなるべく精確を期すために長くなる傾向があるようですが、どのくらいの長さに収めるかは、編集の問題としてやはり私たちのテーマに関わってくることを確認した研究会でした。この日は、映画上映終了後にアジア研究会主催で意見交換会も開かれました。

 第三回研究会は一九九九年三月一六日に研究会のメンバーである小関和弘氏に発表をお願いしました。研究会で購入した「満鉄記録映画集」を鑑賞する第一弾として、基本的情報を丁寧に紹介してもらいました。映画集について、満州・満鉄について、全一二巻におよぶヴィデオのおおよその内容などの予備情報をくわしく解説していただいた後に、数編の作品をみました。この資料にはメンバーの関心が高かったので、一回で終わらせずに次年度も引き続き研究素材として行こうということになりました。

 今年度の反省としては、予期せぬ出来事に出鼻をくじかれたこともあって、テーマが拡散してしまったことが上げられるでしょう。次年度はもう少しアプローチの方法を具体的に確定していかなければ、と考えています。

(杉本紀子)



シンボル文化研究会

 シンボル文化研究会は古今東西のシンボルを、美術史、歴史学、考古学、神話学、宗教学、人類学などの学際的研究によって解明することを目的としている。今年度は以下の三氏より報告をいただいた。

――第一回 七月四日(土)

 「アフガニスタン・バーミヤンの図像を語る」

 前田耕作(本学教授、研究会代表者)

 アフガニスタンのバーミヤンの渓谷東方には有名な大仏像があるが、その天井画について新しい図像解釈が述べられた。従来、主像は太陽神スーリア、つまりインド系の神格とされてきたが、今回はそれをすべてイラン系のミスラ神との関係で読み解くことが試みられた。

 それにはミスラに捧げられた讃歌『ミフル・ヤシュト』との精緻な照合が必要だが、テキストには曖昧な個所が少なくなく、難しい。そこでアフガニスタンに隣接する地域で出土したコインの神像、銘文との交差比較の手法が導入され、その結果、天井画には主神ミスラ、従神アルシュタートとウァナインティ・ウパラタート、駆者アシ、風神ワータが描かれていること、つまりそれらはそれぞれ日、月、星辰、雲、風、火の六要素、すなわちイランのゾロアスター教の聖典『アヴェスター』に述べられている大天使アムシャ・スプンタの表現であるという、きわめて重要で刺激的な指摘が行なわれた。

――第二回 一〇月一七日(土)

 「絵巻物の劇場空間――フリアギャラリー所蔵「地蔵菩薩霊験記絵巻」第三、四段をめぐって」

 昼間範子(本学講師)

 アメリカ、ワシントンDCにあるスミソニアン協会付属の東洋美術館であるフリアギャラリーには日本美術の逸品が数多く所蔵されている。発表ではその一つである一三世紀の絵巻『地蔵菩薩霊験記絵巻』がスライドによって紹介され、霊験譚の概略が紹介された。

 内容はある僧侶の夢に地蔵菩薩の使者が出現し、興福寺楽所の舞の名手である狛近真に春日大社の境内で陵王の舞を舞わせるようにというお告げを受けたので、実際その通りに舞が行なわれたというものである。

 また発表の後半には、同系統の霊験譚の絵巻である『春日権現験記絵巻』(宮内庁蔵、一三〇九年)をはじめ、『春日宮曼陀羅』(湯木美術館蔵、一三〇〇年および東京国立博物館蔵、一三世紀)、『一遍聖絵』(歓喜光寺/清浄光寺蔵、一二九九年)、『石清水八幡宮曼陀羅』(大倉集古館、一四世紀)などとの詞書と図像の両面からの比較検討が行なわれた。

――第三回 一二月一九日(土)

 「阿修羅と龍王の天空世界――中国石窟の図像解釈」

 北進一(本学講師)

 アスラ(阿修羅)はアジアの宗教美術のなかで広範な広がりを示す図像の一つだが、中国の初期仏教岩窟では、龍王とともに須弥山図中の天空世界に登場している。

 発表では、雲岡石窟第一〇窟前室北壁の阿修羅像と龍王像の図像解釈を中心として、インド伝来の仏教図像と中国古来の神仙図像の習合が考察された。

 雲岡石窟の場合、須弥山図は拱門の上に描かれている。須弥山の中腹は細くくびれ、二匹の龍王がからみつく。須弥山の右側には三面四臂で上手に日月を掲げる阿修羅像、左側には五面六臂で上手に日月を、中手に弓矢を持つ阿修羅が配される。これは初期仏典に見られるインド古来の魔族に由来する阿修羅の群像イメージに通じる。

 また阿修羅が日月を捧げるのは、初期仏教説話に登場する帝釈天との戦闘の際、日月をつかんで日蝕、月蝕をおこした阿修羅の影響と思われ、後の中国や日本の阿修羅像は必ず日月を持っている。

 なお、二龍王が山岳を縛るようにからみつくのは、インド神話に見られる「乳海攪拌」における曼陀羅山にからみつくナーガ(龍王)のイメージが反映している可能性がある。

 他方、敦煌莫高窟第二四九窟天井西面では、須弥山の前に一面四目四臂の阿修羅像が大海から聳え立ち、山腹に二龍王が取り巻き、天に昇っている。

 阿修羅は単体だが、その凄まじい形相は、後に護法神として表現される阿修羅像の原型となっている。また、二龍王は須弥山に巻きつくというより、山頂に向かってよじ登るように表わされ、漢代以降の帛画や画像石、壁画墓に表わされた崑崙山に昇天する龍のイメージに通じる。

 この他、この須弥山図には、中国古来の神仙、鬼神が多数描かれ、また六道中の天界・人界・修羅界・畜生界・餓鬼界の原型も表わされ、阿修羅・龍王・須弥山をめぐる多様な図像世界が展開されていることが併せて指摘された。

 いずれの発表もJ104の視聴覚教室において、スライドやプロジェクターによる多数の写真や図版の紹介とともに行なわれた。毎回、三~四〇名の熱心な参加者があり、多方面からの質疑応答も行なわれ、充実した例会であった。

(松村一男)



アジアの教育─研究と交流

 九八年度は、本チームの研究活動二年目に当たる。九七年の発足を前にプロジェクトの趣旨を公示してメンバーを公募し、応じた九名が本年度も引き続いて共同研究に参加した。

 五月の第一回研究会で、研究目的を再確認し、本年度の研究計画を立てた。

 目的は、

 一、アジアの教育の現状を歴史的社会的背景のなかで調べ、成果を公表する

 二、必要可能な支援を考える

 三、一と二を大学教育の前進に役立てるであり、

 計画は

 (1)現地調査

 (2)月例研究会

 (3)それに伴う文献収集と検討その他である。

 チームの前史つまり「入門研」の外国大学訪問調査も含めると、アジア対象七カ国目の本年を機に、現代に切り込む新しい課題を加えることとなった。経済・社会発展に伴う環境問題に注目、という視点である。メンバーに元々この方面の研究者がいることもあって、研究会でも現地調査も、教育と深く関わる重要条件の一つとして焦点化を試みたのである。

[月例研究会]

前年度と同様に、メンバーによる問題提起と、メンバー外からの講演とで構成した。

第一回(九八年五月二〇日)

「パプアニューギニア調査報告と主要課題の検討」石原静子ほか、および九八年度研究計画の立案、検討。

第二回(九八年六月一七日)

「アジアの農薬汚染問題」内田正夫

第三回(九八年七月一七日、学内公開)

「アジアの金融危機と中国の課題」童適平(復旦大学経済学部副教授)

第四回(九八年一〇月七日、学内公開)

「ネパール留学生(院生)に聞くネパールの教育事情と環境問題」シルワル・ソルバッゲ(東京農工大学大学院修士課程)

第五回(九八年一二月九日)

「緑の革命がアジアに持った意味」福島達夫

「国連開発計画『人間開発報告書一九九八・消費パターンと人間開発』について」伊藤武彦

 第二回のテーマはアジア農業における環境問題、第五回はその歴史的側面であり、同回の「国連開発計画」云々は途上国先進国を見渡す現況の検討である。第三回の中国は改革開放に伴う問題の噴出、第四回のネパールは逆に開発未熟の地に生ずる環境破壊の典型例である。

[現地調査]

 これらの研究をふまえて本年度の現地調査は、ネパールを対象国とした。環境問題だけでなくネパールは、中国とインドという二大核保有国に挟まれて、核実験競争にさらされている平和問題の焦点地でもある。調査は九九年二月末~三月初に、メンバー四名の参加で実現した。

 日本のNGO「ネパール教育支援の会」の協力を得て、まず文部大臣と会見、唯一の国立トリブバン大学の教育研究所で、ネパール教育の全容と改革の理念・方向を把握した。教育学部の分校二つを訪れて教育の現場に触れ、三つの小学校(公立二校は街なかと農村、私立一校)で授業を参観、子どもと対話し、教員たちと交流した。合間には露天での火葬やヒンズー寺院のいけにえ儀式、九歳の少年の成長祝いの宴、など珍しい民俗を実見、都市のインフラ不備による大気汚染や水不足を体験して、教育との関わりや人びとの未来について考えた。

 調査報告は、『ネパールの生活・教育と未来』と題する小冊子にまとめて、九九年六月学内外に配布した。

[文献収集ほか]

 ネパールおよびアジアの環境問題に関する諸文献を検索して読み合い、現地でも関連文献を入手した。

 必要可能なアジア教育支援は、九七年の調査を機縁に、黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』ラオス語訳と出版、小学校教員志望学生への奨学金支給の試みがスタートした。大学教育前進の面では、メンバーの授業に反映しただけでなく、その記録や論稿等が文字になっている。その数例を記す。

 ○石原静子「アジアに羽ばたけトットちゃん│現代子ども労働の一考察」『東西南北1998』、一〇二~一一四頁

 ○同「アジアのなかの青年心理学│大学授業の創造と学生の発達支援に向けて」『和光大学人間関係学部紀要』第三号、一九九八年、一~一四頁

 ○石原静子、伊藤武彦「大学一年生ゼミにおけるアジア理解と交流の試み」一九九九年、帝塚山学院大学国際理解研究所、第二四回国際理解教育賞論文に応募、佳作入賞、印刷中

(石原静子)



企業行動分析研究会

 企業行動分析研究会は、現代社会における経済主体の一つ、「企業」の行動を多面的に分析研究し、評価することを目的としている。過去においても成果を上げており、本研究会の九八年度の活動は還元すれば従来からの継続研究であるといえる。したがって、研究手法も基本的にはこれまでを踏襲したものとなっている。

 本研究会は、企業行動の分析・評価という目的を達成させるため、企業へのアンケート調査を実施する研究計画を想定している。九八年度はその調査実施に対しての準備年度であった。すなわち、どのような企業を対象に、どのようなアンケートを実施するか(アンケート項目の吟味)、どのような結果が期待されるかなどについて主として議論してきたのである。さらに、これまでにない企業行動の分析・評価はどのようなものか、どのような柱が必要かについて、研究会メンバーの意見聴衆と取りまとめを行なった。結果として、企業行動の分析・評価に際しては「倫理性」を加味した分析手法を用いるという結論に達している。

 そのような目標意識のもと、活動は基本的に研究会メンバー個人個人による研究活動が主体となった。現在のところ体系化を進めている段階であるが、個々による学会の研究報告、論文発表というかたちで、研究会の意図は成果として着実に結実している。

 さらに本研究会の目的達成と向上のため、関連する学会に積極的に参加してきた。とりわけ、一九九八年一二月四・五日中部大学にて開催された経営行動研究学会中部部会へはメンバーの多くが参加し、研鑽を重ねた。 以上が本研究会における九八年度の活動報告概要である。

 以下においては、九八年度を顧みての企業行動の特徴の一つを明らかにし、その根拠について私見を述べておきたい。

 九八年度において企業がとった行動はさまざまであり、これまでになくドラスティックであった。山一証券における自主廃業、長期信用銀行の国有化など大企業の経営行動は記憶に新しいところである。そうした中で、企業行動の最大の特徴の一つが、リストラといえる。リストラというと、マイナスイメージが先行するが、正確にはリストラクチャリング、事業の再構築である。

 バブル経済期、企業行動は多角化戦略を遂行する傾向にあった。特に不動産事業、土地開発事業に多角化した企業は数多く、目を見張るものがあった。ところが、九八年度は、新日本製鉄に代表されるように「本業回帰」という企業行動を打ち出している。また、多くの企業が多角化した事業部門のうち不採算部門を見直すという行動にシフトしている。 もちろんそうした中には、雇用削減、新規採用見送り、早期退職推進、給与体系見直しなど、いわゆるリストラも進行したといえよう。

 さらに、企業間の結びつきを強める行動も特徴といえる。M&Aというビジブルなかたちもあるが、特に外資系の企業あるいは外国企業との業務提携、資本提携は顕著なものといえるであろう。

 これらは、事業の再構築の一例であるが代表的な企業行動と考えられる。では、こうした企業行動はどのように解釈すべきなのか。会計的に解釈してみよう。

 企業決算は、基本的に九八年度を含め数年間、減収減益という環境にある。これを脱するには、「減収増益」にシフトさせる企業行動をとるしかない。すなわち、収益(売上高)構造の改善が見込めないことを想定し、いかにして利益を確保するかという行動である。利益は、収益マイナス費用にて算出される。収益が一定かマイナスの状況下において、利益を得るには費用(コスト)を徹底的に削減するほかない。特に、これまで手をつけてこなかった固定費を削減するということになる。そこで、固定費とされる工場・部門費の見直し、あるいは固定費を代表するヒトにかかわる費用を削減する企業行動が生み出されたと分析できるように思われる。

 ただし、こうした企業行動が必ずしも妥当であるかどうかは今後の課題となろう。すなわち、研究会の独自性である企業倫理、社会的正義を取り入れた評価において現代の企業行動はさらなる挑戦を抱えているといえるのではなかろうか。本研究会は、今後とも企業行動を精緻に分析し、有用な道筋を提言できるよう、メンバーの英知を結集していく所存である。

(井出 健二郎)



「多摩丘陵地域のフィールドワーク」研究

1――南多摩地域の研究

 本学のキャンバスは、町田市と川崎市の境界をなす丘陵に位置している。多摩川の南から三浦半島にかけて広がる南多摩丘陵は、東京都と神奈川県に二分されている。またキャンバスの北側を東京都から神奈川県へのびる小田急線は、本学学生、教職員にとって日常の主要なライフラインである。本研究会は、この両都県境界地域をフィールドにし、基礎的な資料の収集、研究団体・研究機関および地域研究者とのネットワークの端緒を開く意図をもって開かれた。

2――学内研究会

 九七年度からの継続として、地域の研究者の報告による学内研究会を開いた。

 上田茂氏『町田の谷戸を写し続けて』

 六月二四日

 上田氏は本学学生生活課長である。写真を趣味にし、多摩丘陵の自然を写してこられた。カメラをとおして谷戸の自然をとらえた報告であった。継続的な具体的な自然観察と写真記録による谷戸の知見は、いわゆる研究者の報告とは違う、生活者としての自然認識が示された。この研究報告会と同時に、本学図書館の展示会場で写真展『谷戸を写す』を開いた。

 浪江虔氏『1930年代から戦後の鶴川』 

 (逝去により中止)

 町田市立自由民権資料館を訪問した際に、浪江虔氏がお元気で地域の文化運動に参加されていることを知った。五月に同氏宅を訪問し、研究会での報告をお願いした。一九一〇年に生まれた同氏は、お元気であった。二度目に、報告の具体的な内容をお伺いに訪問したときも、記憶も言葉も明晰であった。

 昭和恐慌の時期に、東京帝大文学部(音楽美学)に入学したが、三一年二月に鶴川村農民組合、全国農民組合東京府連合鶴川支部に属して活動し大学を中退した。治安維持法違反事件被告となり、転向声明により、三五年懲役二年、執行猶予四年となった。三九年に大蔵町(現在の鶴川地区内)で私立南多摩農村図書館仮開館、四〇年に東京府から設立認可された。四〇年に再検挙され、図書館を閉館された。戦後の四七年に鶴川村村議に共産党候補として当選し、農地改革に取り組んだ。その農地改革の評価論争で離党した。その後、南多摩地域を中心に図書館づくり運動に専念された。この研究会では、浪江氏がその著作でふれられていない、昭和恐慌期から戦後の農地改革期における鶴川地域の農村・農業問題についての回想をお聞きすることになっていた。しかし、研究会数日前に体調をくずされやむなく中止した。すでに報告の準備をされているはずなので、健康回復をまって報告をお聞きすることにしていたが、ついに逝去された。貴重な報告をしていただけず、残念であった。ご冥福を祈るばかりである。

3――訪問・聞き取り調査

 昨年につづき町田市小野路にのこる養蚕農家を訪問し、現在の養蚕業を学んだ。また立川市の東京都農協連合会支部を訪問し、東京都の養蚕業の現状について調査した。

 横浜市開港資料館、横浜生糸取引所の見学と資料調査、聞き取りを行なった。同所は、生糸だけでなく、他の商品を扱う取引所に改組し、生糸の取引のノウハウを生かして、脱皮している。

4――地域資料の収集

 南多摩地域・小田急沿線近隣自治体資料の収集を行なった。多摩市役所市史編纂室を訪問、多摩ニュータウン建設に伴う地域資料の保存状況を伺い、また『多摩市史』などの寄贈を受けた。東京都農業協同組合立川支部では『東京都の農業』(農文協)の寄贈を受けた。ほぼ大学近傍の公刊自治体史誌を収集した。収集資料はすべて図書館に保管した。たましん歴史資料室(国立市中一│九│五二)は、季刊『多摩のあゆみ』を発行しているが、同誌を図書館に寄贈をうけることになった。これら関係資料は、無料の寄贈を受け、予算に計上した資料購入費を使い残す結果となった。

5――目的をはたす

 本研究会は、関係地域の基本的資料を収集し、研究機関・組織の状況を把握し、プロジェクトとしての目的をほぼ達成した。人間関係学部人間関係学科は、町田・川崎などの地域研究を課題にすることになるなど、研究プロジェクトを超えた研究と教育の領域としての取り組みへと発展している。

(福島達夫)



教育研究へのコンピュータ利用

 一九九八年度は、主に統計数理、数値分析システムの教育研究への応用を中心テーマとしつつ、その第一歩としてまず最新のアプリケーション・ソフトウエアを利用した学術研究への適用を試みた。

 その成果は、経済学部・小林稔および人間関係学部・伊藤武彦が学内にて研究会を開催し発表を行なった。

 同時に小林は、その成果の一部「産業の情報化と付加価値生産性に関する定量分析」を「和光経済」第三一巻第三号39~48頁に掲載した。

 伊藤の報告は、伊藤武彦 「実践的・探索的研究の効果測定における『効果偏差値』の提案」として『和光大学人間関係学部紀要』,第三号15~23頁に掲載された。

 研究会における発表の概要は以下の通りである。

――産業・企業の情報化とその効果に関する定量分析・小林稔

 企業経営のグローバル化、多様化が進む現在、産業・企業の情報化は不可欠だが、一方、企業経営者が情報化投資を行なう際にもっとも重視することは,それが事業全体にどのような効果を及ぼすかである。しかしながらこれを体系的に示した研究は見当たらない。以上のような状況を踏まえ,本報告では情報化の効果を定量的に把握するための方法を考察した。

 まず、産業別の情報化の状況を評価する。(財)日本情報処理開発協会による「情報化総合指標調査研究報告書」を参考に「情報装備額」を求め、これに対応する産業別の就業者数でこの値を除することによって「情報装備率」を求める。これを情報化の進展度合いを示す指標とする。これに対して、一人あたりの付加価値額を付加価値生産性と定義し、情報装備率との関係を分析する。具体的には、一人あたりの付加価値額(すなわち、付加価値生産性)の決定要因として一人あたりの雇用者所得、情報装備、情報装備以外の資本ストック、さらに外的要因(技術進歩)を考慮し、付加価値生産性の成長率を各生産要素に分割して計測することにより情報化の効果を分析した。

 分析結果として以下の諸点を指摘できる。

 産業別の付加価値生産性の成長率と、各投入要素の貢献度合いについて次のようにいえる。まず「情報装備の貢献」の一九九〇│九四年度の値は、「繊維」「パルプ・紙」「一般機械」などの七産業においてマイナスを記録しており、付加価値生産性の上昇には負の影響を与えている。これらの産業では「情報装備分配率」がマイナスとなっているにもかかわらず、「情報装備」はプラスの成長を続けている。これは情報装備がうまく活用されていない可能性を示すものである。

 一方、八二~八六年度、および八六~九〇年度では多くの産業で「情報装備分配率」は正の値をとっていて、「情報装備の貢献」もプラスの値となっている。つまり、この期間は情報化が効果を上げていたことを示している。しかし、九〇年代に入ると「情報装備分配率」はほとんどの産業で大きく低下し、マイナスの値を示している産業も多い。したがって、「情報装備」はさほど「付加価値生産性」に寄与していない。この間の情報装備の効果はさほどなかったと考えられる。

 九〇年代に入っても「情報装備」が引き続き拡大する一方で、「情報装備の貢献」が付加価値生産性にさほど貢献していない、もしくは負の影響を及ぼしている産業が多いことは、必ずしも情報装備を経営に活用しきれていない企業が多いと解釈できる。

――効果測定における『効果偏差値』の提案・伊藤武彦

 実践的・探索的な研究では、被験者数が少ないという問題点があるばかりに、いわゆる有意差検定で、有意な結果がでない場合が多い。しかし、効果量effect sizeを導入することにより、被験者数が少ないことによる検定力が低いままでも、実験結果についての一応の目安を得ることができる。

 効果量の最も代表的なCohenのdを算出するために、平均値と標準偏差(SD)を、統計的有意差のあるなしに関わらず論文中に明示すべきである。そうすれば、効果量の値を算出することが可能である。被験者数の確保の難しい実践的研究や、探索的な目的で行なわれる被験者数の少ない研究では、むしろSDを平均値とともに論文に明記することが、t検定などにより有意水準(P値)を示すことよりも重要である。

 しかし、統計に習熟していない者は標準得点の値の感覚はつかみにくいが、偏差値は(事の善し悪しとは別に)なじみがあり、直感的に理解できる統計量である。そこで、効果量に対して「標準得点vs偏差値」と同等の関係を持つような効果偏差値を用いることを提案した。標準得点に相当する効果量よりも効果偏差値のほうが直感的に日本人の読者にとって理解しやすい。

 被験者確保の難しい、あるいは被験者数が少ない研究においては、群間差の大きさ・効果の大きさが偏差値に換算されることにより、その効果についての強さの感覚がアナロジカルにつかめると思われるのである。しかも、メタ分析的に、他の研究の効果量・効果偏差値とを比較することができ、相対的な効果の強さを把握することができる。

 また、卒業論文レベルの論文指導や統計教育においても、被験者の人数に関わらず、効果偏差値を算出することは学生の直感的理解をうながすことができる。効果偏差値を示すことにより、卒論を書いている本人が統計的習熟の度合いが低くても、データから、リアリティのある群間差や効果の感覚がつかめるのではないだろうか。

(小林稔)