第3回宮川寅雄記念講座◎講演会

最近の発掘から見た東日本

大塚初重 明治大学名誉教授

 今日は、大塚でございます。

 第三回宮川寅雄記念講座にお呼びいただきまして、たいへん光栄に感じております。和光大学の芸術学科には敬愛する李進煕先生がおられますので、私は即座にお引き受けいたしました。

 来年四月から学部が新しく生まれ変わるということを伺っていますが、和光大学は多摩丘陵の地にあるということで、一九四六、四七年頃、私がまだ学生の頃は、向ヶ丘遊園からここら辺りをよく歩きました。この多摩丘陵は当時はほとんど山林と畑ばかりでして、約一万年前、縄文早期の土器等がかなり散布していました。現在は住宅地に変貌していますが、当時は一日歩くと、土器のかけらがリュックサックに溢れるくらいになったものです。そういった意味では、この和光のキャンパスは考古学的にもたいへん重要なところだと思っています。

 今日は話のウエイトを、東日本における古代の日韓関係を考古学的に考えることに置こうと思っています。

 私は随分前から、李先生と一緒に韓国の遺跡を歩いていますが、毎年行くたびに韓国の各大学のユニバーシティ・ミュージアムの資料の中に、旧石器等が相当増えているのを感じています。日本国内の考古学でも同じように発掘が進んでいて、全国の埋蔵文化財の行政機関に属しておられる考古学研究者の数は、北海道から沖縄までで約七〇〇〇人にもなっています。その方たちが日夜遺跡の発掘調査・保存等に関わっておられるわけで、それだけ日本列島内で遺跡の考古学的な発掘調査が進んでいるということになります。

 最近、山形県山形市の隣りの山辺町というところで前方後円墳が見つかりましたが、山形県の研究者は、この坊主窪古墳(ぼうずくぼ)が日本海沿岸で最北の前方後円墳であると言っています。それでは、太平洋沿岸の方の北限はどうかと言いますと、岩手県の胆沢郡胆沢町にある角塚古墳がいちばん北の前方後円墳といわれていて、日本列島における前方後円墳は従来考えられていた以上に広範囲に存在していたということになります。

 四世紀から五世紀の古代の大王(天皇)たちの墳墓はほとんどが前方後円墳なので、全国各地における前方後円墳の存在というものが重要な意味をもってきますが、その北限が山形県と岩手県までで、北緯四〇度以北には及んでいないということになります。それがどういう意味をもつかについてはいろいろ問題がありますが、山形市の隣りのその山辺町の田圃の中にポツンとあった、天神大塚古墳という小さな円墳について話をしたいと思います。

 数年前のことになりますが、地元が農水省から補助金をいただいて、水田の真ん中に公園を造ろうということで発掘を始めたところ、田圃の中から見事な円筒埴輪の列がぐるっと円を描いて出てきた。発見されたその円筒埴輪をよく見ると、成型技法が「成務天皇陵」と宮内庁が指定している古墳のものと似ています。

 成務天皇陵がどこにあるかと申しますと、京都から近鉄特急で奈良へ向かう途中、西大寺という駅に止まりますが、その一つ手前に平城という駅があります。その駅から山寄りに一〇分ほど歩くと、「神功皇后陵」とか成務天皇陵とか、垂仁天皇の皇后の「日葉酢媛命陵」といった、いま天皇陵として宮内庁が指定している大型の前方後円墳が並んでいます。成務天皇陵は、明治の初めのころに宮内庁がいろいろな記録によって指定したのですが、成務天皇陵であるかどうかは考古学的には論証できないのです。

 日本の古代天皇陵のほとんどは盗掘を受けているようでして、鎌倉時代には奈良の興福寺のお坊さんが盗掘をして、伊豆の島へ流されています。江戸時代には奈良の奈良村のお百姓さんたちが徒党を組んで成務陵やその他の古墳の盗掘をしていますが、この人たちは時の幕府の政策によって全員が召し捕られ、磔にあっています。

 そういうことがあって、その成務天皇陵からこれまでに円筒埴輪がいくつか発見されていますが、その成型技法、造形テクニックが、山形県山辺町の天神大塚古墳から出た円筒埴輪のものとほとんど同一である、ということが最近わかってきました。

 これがどういうことかと言いますと、奈良の埴輪工人が山形まで旅立って山形で造ったのか、それとも畿内の大和で造った円筒埴輪をはるばる山形まで運んだのか、これはちょっと判断が難しいのですが、これまでは遥かな東北の田舎の田舎と考えていた山形と畿内とをほとんどリアルタイムで結ぶ史料が発見されたということになります。成型技法や焼き方などからいって、その間に数十年や一〇〇年、一五〇年といった年代を置くことが不可能である。つまり、四世紀後半の段階には山形市の周辺に住んでいた豪族たちの墓に、畿内と同じような見事な埴輪が立てられていたということを、いまどのように理解したらいいのかが問題になってきているということです。

 私は一昨日、奈良県を歩いてまいりまして、昨日は福島県の会津坂下町に日帰りで行ってまいりましたが、猪苗代湖周辺はもう雪で真っ白に染まっておりました。私なぞ東京生まれの人間には雪深い会津の里といった既成概念がございまして、若い頃は関東より雪深い東北は文化が伝播するのに時間がかかると思い込んでおりました。そういうことから、古墳の発掘調査をして出てきた現象を見て、これは五〇年から一〇〇年、年代を新しく下げて見るのが常識だったわけです。ところがこの頃は、そうじゃないことが段々とはっきりしてまいりました。

 いまのは導入部分でございまして、今日は古代の日韓関係を中心的な視点にして東日本を見て行こうということで、お配りした資料を見ていただきましょう。

 一枚目の資料の図1を見ますと、中国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との間を流れる鴨緑江の流域の集安周辺にたくさんの積石塚があります。石でマウンドを積んだ積石塚という墳墓が、数万という数で密集して分布しています。

 さらに、この地図にありますように、北朝鮮とここでは呼ばせていただきますが、北朝鮮の慈江道にも何万という大小の積石塚があります。こういう積石塚は鴨緑江周辺だけでなく、実は朝鮮半島全域に分布していて、最近では韓国の地域の慶尚南道などでも数多くの発掘調査がなされるようになってきました。

 私たちの先輩の諸先生は、積石塚という墓制は東北アジアが中心で、そして朝鮮半島にも分布していて、日本列島にもある。だから、日本列島にある積石塚は渡来系集団の墓制であると、すでに大正時代から昭和、平成へと言い継がれてきました。

 図2には、鴨緑江の流域の北朝鮮慈江道にある積石塚の、日本でも紹介されている例が載っています。松岩里の中味についてはいろいろと批評がございますが、石を長方形にプランをした石積みがわかります。このエレベーションという石積みを横から見ますと、すぐ下に描いてあるように、日本の前方後円墳によく似ているので、北朝鮮の研究者の先生方は、日本の前方後円墳の起源、オリジンは北朝鮮の鴨緑江流域の地域にある、そう仰っているわけです。

 実は、島根県、鳥取県、そして富山県という日本海沿岸の三つの県に、方形のプランで対角線上の四隅のコーナーが糸巻き状の足のように飛び出す、四隅突出型の墳丘墓という弥生時代から古墳出現時代にかけてのお墓があるのです。これが最近、福島県耶麻郡の塩川町で発掘されているのですが、山陰で出ている突出型は全部裾に列石をずうっと巡らせて張石というものを墳丘に張っており、一辺が内湾しておりますから、発掘していて見事にわかります。しかし福島県塩川町の突出墓は、列石や張石がないのです。ないけれども一辺、一辺が内湾しているので、福島県の研究者たちはこれは突出墓だという認定を下しています。

 これが間違いないとすると、日本海沿岸の島根、鳥取から富山にかけてずうっと分布している四隅突出墳丘墓が、なんと会津地方まで分布していることになります。これは今後の検討課題ですが、そういう中で、積石塚や四隅突出型墳丘墓も北朝鮮が起源地だという説が言われています。いまから一〇年くらい前に文化勲章を受けられた、「騎馬民族征服王朝論」を展開されている江上波夫先生が、この慈江道の積石塚を直接ご覧になって、日本の前方後円墳の起源は北朝鮮にあるという見解を述べられています。しかし、これはまだはっきりしていません。

 そういうやや不鮮明な問題がある中で、図3には、有名な中国吉林省集安の将軍塚古墳、一辺が三〇メートルくらい、高さ一三メートルくらい、七段の階段状に造られた見事な方形プランの積石塚の図が示してあります。この積石塚の系統を引くものは京畿道にもありますから、朝鮮半島にもあることは事実です。こういう積石塚墓制が日本にどのような影響を与えたかについて、従来は積石塚すなわち渡来系集団の墓と言ってきたのです。

 ここで、私が一九五一年以来調査に関係していた、積石塚が約五〇〇基あります長野県の大室というところの話をします。大室古墳群は千曲川の流域にあって、一昨年国の史跡になりましたが、すでに明治一〇年代に、イギリス人ウィリアム・ガウランドという大阪造幣局の技師がこの古墳を見に行っています。

 明治・大正・昭和・平成にかけて、日本の考古学界が言ってきたように、積石塚すなわち東北アジアの系列の墓制だから、日本の積石塚は渡来系集団の墳墓である。ということになりますと、大室古墳群はまさに渡来系集団の皆さんのお墓ということになります。ところが、積石塚の調査をしてみますと、マウンドは石を積んだ積石塚だけれども、中のお棺等は石を使っていない、日本列島に本来ある他の古墳の内部構造と同じようなものがあります。ですから、大室の五〇〇基の積石塚全部が渡来系の人のものと言うには無理があると、私は思います。

 資料の中に図4を出しましたように、長野市の東南部、善光寺平にある若穂という山の傾斜面がありますが、そこにニカゴ塚という古墳があります。ここの古墳は石室の天井の石が屋根型になっていて、手を両側から合わせる形に似ているので、合掌型石室と呼ばれています。

 大正から昭和の初めにかけてのことですが、地元ではこの積石塚を壊して、この墳丘の石を長野電鉄の信濃川田という駅の駅前広場に敷き詰めたといいますが、この写真をよく見ますと、確かに両側壁が垂直に立って、その上にかなり分厚い石を合掌の形に置いています。側に立っている人を見ると、人間の身長くらいの高さをもっていることも分かります。

 このニカゴ塚のすぐ隣りの谷間に大室古墳群がありまして、大室の五〇〇基の中で約三〇基がこういう合掌型をしています(図5)。現在日本には大小合わせて二〇万くらいの古墳があると言われていますが、この合掌型石室は善光寺平にしかなくて、あと、山梨県に一例あるだけなのです。したがって、私たちの先輩たちはこれまで、合掌型石室は渡来系集団のお墓に間違いないだろうと言っていたわけです。

 私たちの先輩たちは、この合掌型古墳を日本の古墳の中では新しいものと見ていました。古墳時代を前期、中期、後期と分けると、後期の段階でもいちばん最後の七世紀、飛鳥からやがて奈良時代かという時代に最後に登場するのが、この合掌型石室であると考えてきました。平安時代の延喜式など古代の文献を見ますと、この大室には「大室牧」という牧場があって、馬の生産をしていたことが書かれていて、この大室牧で馬の生産をしていた集団は渡来系集団であると考えられていました。

 大室古墳群は標高三五〇メートルから七〇〇メートルくらいまで、谷沿いにずうっと造られています。積石塚古墳はこの谷に臨んだ窪地に、二〇基、三〇基というように、グループをなして存在していて、そして各グループの中に合掌型石室が二基か三基ずつ含まれています。

 先ほど言いましたように、私たちの先輩たちは、合掌型石室というのは日本の古墳の中でもいちばん最終段階に現われたものと言ってきました。資料の図6を見て下さい。百済の都があった韓国の公州にこのような合掌型石室が数例ありますが、大室の古墳群にある合掌型石室は韓国の公州にある、こういう合掌型石室から伝わってきたものであると、私たちの先輩たちは理解をしていたわけです。

 大室古墳群は一〇〇パーセント盗掘を受けていますが、しかし合掌型石室の調査を進めて行きますと、盗り残した土器などがありますから、築造年代その他のことが見事に分かってきます。十数年調査をしてきた結果を言いますと、合掌型は新しいものではなくて、すべて古いものであると分かってきたのです。どれくらい古いかと言いますと、日本の古墳時代を前、中、後期に分けると、中期の五世紀代になります。

 つまり、畿内では古市古墳群の誉田御廟山(こんだ)の応神天皇陵とか大仙古墳群(だいせん)の仁徳陵が出現する時期です。その五世紀代に大室古墳群の合掌型石室が登場してくる。しかも、積石塚が二〇基、三〇基と集中する中に、合掌型石室が一基、二基、多くても三基混じっていますが、この合掌型が群の中でいちばん最初に築造されているのです。

 日本列島には他に合掌型石室がないので、もし韓国の合掌型石室と大室古墳群の合掌型石室が歴史的な関係があるとすると、長野県の大室古墳群の合掌型石室に埋葬された人は明らかに渡来系集団で、しかも百済との関係でとらえられることになります。

 ところが公州の柿木洞の石室は、韓国では六世紀から七世紀代くらいの石室構造と考えられていまして、韓国の先生方の中には、「もしかしたら、日本の合掌型石室が韓国に影響したのではないですか?」と言われる人もいます。ですから、大室の合掌型石室に与えられていた解釈はもう一回考え直す必要があるということになります。

 現在私は、合掌型石室は日本本来の伝統的な墓制ではなくて、高句麗系統のものであろうという立場に立っています。しかし、長野県の善光寺平、千曲川の流域にある大室古墳群の積石塚五〇〇基全部が渡来系集団のもの、と言うのは難しいだろうと思っています。

 西暦四五〇年頃、大室古墳群の合掌型石室が築造されて、北信濃地方で先駆けになった。これは朝鮮半島の墓制と関わりがあると思っていますが、最初に一基、二基、ないしは三基の合掌型石室が築造されて、その後から積石塚がずうっと続き、竪穴式石室や横穴式石室に変わっていきます。ですから、善光寺平に合掌型石室が出現する前は、千曲川の流域には積石塚ではなくて積土塚があったと考えるべきでしょう。積土塚というのは、マウンドを土で造った古墳です。

 つまり、豪族たちのお墓を土を盛って造るという在来の工法が、西暦五世紀の半ば頃には石で造るように急激に変わったことがかなりはっきり分かってきた、ということになります。

 二枚目の資料を見て下さい。三、四年前のことですが、群馬県の高崎市で台地の上にあった古墳を全部調査した上で壊して、下水道処理場を造ろうということになりました。それで、高崎市の長瀞西というところで考古学的な調査が始まったわけです。図7に長瀞西の発掘現場の拡大図がありますが、その図の左下に長瀞西古墳(ながとろにし)という円墳が載っています。実はこの長瀞西古墳は、昭和のかなり早い段階で調査が行なわれまして、鉄の三角板を革でおどした、鉄製の三角板革綴短甲が発掘され、上野の帝室博物館から「古墳発掘品調査報告」が出ていることで学会に知られている有名な古墳なのです。これは土で築いた大きな古墳です。

 この古墳が造られている地形を見ますと、二〇号、四号、三号、二号、一号、一八号、六号という円塚が築かれているのは、はっきりと高い台地なのです。

そして段丘地形で川の方に落ちていく窪地のところに、五号、一〇号、一四号、九号、一二号といった方形プランの、しかも積石塚が造られている。窪地の、見えにくいようなところにこういう積石塚が造られているのですが、その中の長瀞西五号墳、上から二番目に写真を載せている墓(図8)ですが、お墓の外側はやや矩形化した方形プランで、真ん中に河原石などが積んであって、中央部をやや掘り窪めて石の床が敷いてある。これは日本の在来の墓制にはなかった墳墓です。

 そして、その二号円墳の上のところに鉄製馬具出土と書いてありますが、一号と二号からちょっと上のところの一メートルくらいの土壙(どこう)の中から、馬齒とともに鉄製の轡鏡板、つまり馬の頬の両側にくる、ハミが左右に移動しないようにするストッパーが見つかった(図9)。この鏡板は錆がついていますけれども、中にX型の模様が見えます。これはたいへん古い轡鏡板でして、日本では滋賀県の新開一号墳という古墳から出た轡鏡板より古いのではないかと言われています。

 韓国の慶尚道その他から発見されている轡鏡板に似ているので、もし同時期のものと見ると、韓国の伽耶の地域で五世紀前半代に流行したものが、高崎市の長瀞西の二号古墳の側の土壙に五世紀代に埋められた、ということになります。

 また、三号墳の右の積石塚、一〇号墳からは、純金で造った垂飾付きのイヤリング、一〇センチを超えるような長い鎖でハート型の飾りをしたイヤリングが見つかりました(図9)。このイヤリングは純金製という面からみても、造りから見ても、私は朝鮮半島で造られたものが日本にもたらされたものだと思っています。

 こういうふうに、積石塚で、方形墳で、立地的には窪地に集中的にあって、その一つからは純金製のイヤリングが出てきたり、五世紀の前半代と考えていい鉄製の轡鏡板が穴から出てきており、しかもその周辺から韓式系土器が発見されている。この韓式系土器というのは、韓国の伽耶などの地域で造られた土器製作技法をそのまま踏襲して、群馬で造った土器という意味です。

 調べてみますと、高崎市から箕郷町、利根郡の昭和町という利根川の流域からは、これまでも集落遺跡から韓式系土器が相当量発掘されていますので、北関東の群馬の地に五世紀から六世紀にかけて、朝鮮半島からの渡来系の人びとが移り住んでいたことを証明するような考古学的な事象がだんだん色濃くなってきているということになります。

 ところが、もう一つ問題がありまして、静岡県の浜名湖の周辺、浜北市から天竜市にかけての一帯で、浜北テクノポリスという一大工業団地の造成工事が計画されまして、浜北市の二本ケ谷というところに、工業団地に入る高速道路を造らなくてはならなくなった。ということで、二本ケ谷にある積石塚の古墳群に道路がかかることになったのです。

 私は、静岡県の教育委員会にも浜北市の教育委員会にも、駄目だ、残しなさい、と言って随分説得したんですが、保存するためには浜北市が何億という金で買い上げなければならないが、いまそんなお金は出せないと言うのですね。それで、調査をした上で、道路の下になることになってしまいました。

 それで調査が始まったのですが、図10の古墳の分布図に見られるように、これも谷側に臨む窪地のところに、方形プランの積石塚が分布しています。この北側の高い台地上には円墳群がありまして、これは全部積土塚なんです。

 つまり、先ほどの高崎市の長瀞西古墳群といい、浜北市のこの二本ケ谷古墳群といい、在来型の土でマウンドを造った古墳群と相対して、立地は窪地で周囲から墳墓が見えないようなところに、方形プランの積石塚が集中的に分布しているということになります。さらに、二本ケ谷の東谷二号基(図11)を見ますと、方形プランで五〇センチから六〇センチくらいに低い石を積んで、中央部に矩形の主体部があって、中も浅く窪めて埋葬壙を造る。これは群馬高崎の長瀞西古墳と共通しているものだと思います。しかも、この二本ケ谷積石塚は全部五世紀代のもので、六世紀代まで下がる積石塚はないのです。

 東海から東日本の西暦五世紀の中頃以降に、それまでの積土塚の中に突発的にというか、かなり急激な形で積石塚が出てくる。これを私たちはどう理解したらいいのでしょうか。

 ところで二枚目の資料にはもう一つ、長野県の松本市、里山辺というところの積石塚の写真が載っています(図12)。かつてはここに数十基の積石塚があったようですが、私が知った頃にはもう既に十数基になっていました。それが農水省主導の土地改良事業でほとんどなくなってしまい、最後に残ったのが、ここにある針塚古墳、円墳の積石塚です。

 この古墳の調査も私が担当しましたが、掘ってみると墳丘をめぐる周溝の中から、土師器と須恵器と呼ばれる鼠色をした高杯が出てきました。須恵器は朝鮮半島から日本に受け入れた新しい窯業技術に基づくものですが、この須恵器はTK二〇八――大阪の須恵邑に集中している須恵器の窯の中の、高蔵光明寺池二〇八号の窯を略してTK二〇八と呼びますが――五世紀の後半に造られた須恵器です。さらに積石塚の墳頂に、わずか三〇センチの浅い長方形の竪穴式の石室が見つかり、何とそこからは内行花文鏡が出てきました(図13)

 こういった内行花文鏡や須恵器、土師器、そして鉄の鏃などから見て、この積石塚は五世紀後半に造られたもので、長野県の松本平でも積石塚の年代が五世紀代の後半といえるようです。

 こういう風に、東日本における古墳時代の問題点が五世紀代の後半、突出するものでは五世紀代の半ば、中には五世紀の前半までかかるものもありますが、おおよそ五世紀代の後半に突如として積石塚が登場したといえるのでないかということになります。

 今日は東日本の古墳の話なんですが、つい二週間くらい前に、私は北九州、福岡県の糟屋郡新宮町というところへ行ってきました。その町の波止場から船で約三〇分、博多湾に相ノ島という島があります。その相ノ島の波打ち際に、積石塚が実に二五〇基もあるんです。ここはいま国の史跡指定に申請しているところですが、方形の積石塚が多いのです。そのうちの一つが一二〇号墳ですが、この積石塚は、先ほどまで私が話してきました東日本のものとまったく同じような内部構造です。しかも相ノ島の積石塚を見てみますと、奈良県天理市の布留から出土するものと同じ、四世紀後半の布留式土器という土器が出てきます。韓式土器も出ています。しかも、古墳の中には方形の段をもっているものがありまして、ソウル近郊の石村洞の積石塚ほど立派ではないけれども、波打ち際の石をせっせと積んで造っている。

 四世紀の後半から五世紀にかけて、博多湾の相ノ島に積石塚が登場しているということですから、東日本のみならず、西日本の九州でも刻々と新しい事実が分かってきた。昭和の四〇年代までは、だれも気がつかなかったということですから、これから何が飛び出すか分からない。西日本では四世紀の後半にすでに積石塚が出現しており、東日本では五世紀代というのは極めて問題の時代だと思われます。

 つまり考古学でいうところの新しい埋葬方法が朝鮮半島から入ってくる、横穴式墓制も入ってくる、須恵器という新しい窯業技術が入ってくる、装身具に鍍金というような新しい工芸技術が入ってくる、そういう時期ですから、地域によっては土でマウンドを造った古墳からマウンドが石の古墳に変わる。

 私はいま山梨県の県立考古博物館の館長をしていますが、甲府市に桜井横根という約二〇〇基の積石塚古墳があります。その分布を調べてみますと、盆地を除く尾根から尾根への谷筋にだけ積石塚があります。尾根を越えると、そこは全部土の古墳なんです。私は、マウンドを土で造った古墳の中に、内部は同じようなものなのにマウンドだけ石で造ることにこだわるグループがあったと見ていますが、これは尋常な状況ではないだろうと思っています。

 つまり積石塚は問題の墓制であって、例えば大室の五〇〇基の積石塚がすべて渡来系集団のものと考えるのは無理だろうと思っていますが、しかし大室古墳群のスタートである合掌型石室に葬られた人たちは明らかに渡来系の人たちだと、私は思います。

 従来、合掌型石室は百済の都の公州の墓制と関係していたと考えられていました。これはいま、韓国の先生方の批判もあって再検討しなければならなくなってきていますが、積石塚の出現と同時に合掌型石室が善光寺平の大室に現われて、後にそこは大室の牧と呼ばれるようになったことがあります。信濃の一六牧と呼ばれた、つまり信濃の国には国営牧場が一六あったことが延喜式などに出てきますが、その中に大室の牧が出てきます。この牧場の牧監(監督官)は朝鮮半島の出身者であって、大変な功績があったということで、大和政権から位をもらっています。それは平安時代のことです。文献史学の上では、朝鮮半島から、百済や新羅や高句麗系の人が、例えば武蔵の国に千何百人も移住してきて新しく高麗郡を作ったということは事実です。

 そういうことがあったけれども、もっと早く五世紀に朝鮮半島から技術を持った集団が日本列島にやってきて、日本各地に住み、新しい技術を駆使して生産に従事したということが、考古学的に言えると私は思っています。

 そういう意味で、私はいま、大室古墳群の積石塚の出現は馬の飼育に関わる集団のものと思っています。従って、最初の合掌型石室に埋葬された人たちはおそらく朝鮮半島から移住してきた最初の渡来系の人たちだと思いますが、二代目、三代目になると、在地の人たちとの関係も出てくる。そして、後代の村々の人たちもみんな積石塚を造っていくことになってきて、積石塚が全体で五〇〇基になったということは充分考えられます。つまり、東日本における馬の飼育は、五世紀代の後半には長野県の善光寺平でもかなり大規模に行なわれ始めていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担ったのは、渡来系集団である、ということですね。

 今度は三枚目の資料を見ていただきます。これは積石塚ではないのですが、東日本の古墳研究のもう一つの研究課題である馬に関わる古墳です。ここに出しましたのは、長野県の天竜川流域の下伊那地方、馬の埋葬例が相次いで発見されている飯田市の古墳で、現在は三〇例近くに達しています。

 例えば図14は飯田市の新井原一二号墳で、一〇メートルのスケールがありますが、円墳に極めて短い前方部が付いている。考古学でいうところの帆立貝式と呼ばれるものです。この古墳の周辺を巡っている堀の中から土壙が発見されまして、土壙の中に馬が横になって丁重に埋葬されていました。その下にある土壙の図(図15)には四〇センチのスケールがありますから、二メートル近い土壙が掘られていて、この中に輪郭を辿ると横倒しになった馬の骨が丁重に埋葬されていたことが分かります。そしてこの馬には、そこにありますようにf字型の轡鏡板(図16)が付けられ、剣菱型の剣のような尖った飾り――杏葉(きょうよう)と言いますが――も付けられていた。横倒しの馬は、轡をはめたまま埋葬されていたんですね。従って、馬の断片的な骨からは年代が確定しにくいんですが、このf字型轡鏡板などから、五世紀末から六世紀初めということが言えるようになってきました。

 図17は同じ飯田市の茶柄山古墳群の図ですが、小さな円墳が点々と載っています。その古墳の周りに掘られた溝の中に、ずらっと土壙が並んでいます。図の左下にある茶柄山九号という古墳の裾の溝に、馬の墓が一から六、飛んで八というように土壙が並んで、丁寧に埋葬されていますので、この九号古墳に埋葬されたのは馬を所有していた親方か、馬を飼育していた集団のリーダーシップを執っていた人か、おそらく馬と非常に関わりが深い人物だろうと言えると思います。

 ところが、茶柄山五号とか、二号、三号とか、周りの円墳でも馬の埋葬例が発見されていますから、この茶柄山古墳群を形成した集団というのは、馬との関わりがよほど濃厚な人物たちであった。そしてその五号墳からは、五世紀に使われた捩文鏡という鏡(図18)が一緒に出てきたり、土壙中からは三環鈴という環鈴(図18)が出てきていますから、天竜川流域の飯田市周辺に五世紀代から六世紀にかけて、馬と非常に関わりが深かった集団がいたことは事実だと思います。

 実は、この飯田市周辺には前方後円墳が非常に多く、長野全県の半分以上は、この下伊那地域に集中しているのです。つまり、天竜川が形成した河岸段丘が岡谷から飯田まで汽車で二時間かかるほどずうっと発達している、そこにどうして前方後円墳が集中しているのでしょうか。

 前方後円墳に埋葬されている人物というのは、古代の天皇陵がおしなべて前方後円墳であるように、都と同じ、大王と同じ墓を模倣して造ったその地域の最有力者たちのお墓です。その前方後円墳が飯田周辺に集中しているということは、この地域の政治権力なり政治的基盤が五世紀代以降いかに強かったかということを証明しています。そして、この前方後円墳に埋葬されている人たちが馬と非常に関わりが深かった集団であったことは、中央の大和政権がいかに馬というものを重要視していたかということの現われだと思うのです。

 ところが、前方後円墳の堀の中からは馬が出てこないのです。前方後円墳の周りの中小の円墳群、例えば茶柄山古墳群のような、あるいは新井寺所遺跡のような円墳から馬葬例が出てくる。

 前方後円墳に埋葬されている人物の配下というか、従属する集団の墳墓の周りから馬が出てくるということは、五世紀以降の、馬を媒介とする重層的な支配構造が見てとれるのではないか。大和政権と深い関係を持ちながら、馬の飼育に関わった伊那の地域集団の有力者たちは中央政権とかなりダイレクトに直結していた。その首長たちは、自分の配下に、馬の飼育をする技術者集団をかかえていた、ということになります。

 そういう構造が最近の飯田市周辺の状況から見てとれるのではないか、と私は思います。

 この下伊那地方の古墳は積石塚ではありませんが、大室古墳群の五〇〇基の集中度、合掌型石室の状況、あるいは最近の群馬の高崎市や静岡の浜北市の積石塚の発掘のありようを見れば、馬というものが古代のかなり早くから入ってきたことが分かります。これはもう、朝鮮半島の伽耶、百済などの地域からと考えざるを得ない。

 例えば群馬という地域は、榛名山の二つ岳の爆発による火山灰や軽石がたくさん堆積しています。その火山灰や軽石を取ると、その下は噴火直前のありし日の状況がそのまま残っている遺跡になっています。例えば、北群馬郡子持村の遺跡などは鋤廉で火山灰をきれいに取っていくと、直径一〇センチから一三センチくらいの円形の凹みが無数に出てきます。これは馬のひずめの跡です。北群馬郡の白井遺跡群からは何万という馬のひずめの跡が出てくるのです。動物考古学の馬の専門家に来ていただきますと、足跡からどういう馬の何歳馬かということが分かります。その調査の結果、群馬では六世紀の半ばには馬を放牧していたという状況が次々と分かってきています。

 最後に四枚目の資料を見ていただきたいのですが、長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。木島平村はスキーで有名なところで、東京の調布市と姉妹都市の関係にある村です。

 この根塚遺跡は、一〇〇メートルと五〇メートルくらいの楕円形の低い丘を持つ、盆地の水田の中にポツンとある遺跡です。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張ってある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓です。この図面からははっきりしませんが、長方形プランの三段のテラスになっている、その平面に箱清水式の土器、北信濃地方の弥生時代後期の土器が副葬品として複数納められていました。ガラス玉も出てきましたが、さらに三年前に、いちばん下のテラスの埋葬遺壙からナンバー4、5という鉄剣が二ふり出てきました(図20)

 その鉄剣を見ますと、長い方が七四センチくらいのものですが、脇から右手に一本突起が出ていて、先端が丸くなっています。さらに柄頭、握るところも丸くなっていて、錆びて固まっている。レントゲン写真を撮りますと、図20右の6、7のように、そこは渦巻状になっていて、柄頭のところは鉄を二つに割いて、内側にクルクルッと渦巻にしています。さらに右側から一本そいで脇に出し、それも渦巻にしている。

 私は木島平村から連絡を受けて、この写真を見せられました。私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。

 それにしても、弥生時代、二世紀から三世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海です。専門家がご覧になって、これは朝鮮半島南部の伽耶からの鉄剣であると言われますと、従来の日本考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという理解が崩れてしまうということになります。

 つまり私は、朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸にダイレクトにやってきているのだと、そう考えているのです。海は文化を隔てるものではなく、むしろ非常にスピーディーに人と物を繋げるものであると理解したいと私は思っていますが、こういうルート、つまり大和政権や北九州を媒介にしないで越の国にダイレクトにやってくるルートがあったとすれば、これから東日本の古代文化の理解は相当考え直さねばならないだろうと、そう思います。

 私たちは雪深い会津の里がという理解をしがちですが、出てくる土器を見ると、渡来系の土器や北陸系の土器がたくさん出てきます。会津の土器と北陸の土器を混ぜると、もう識別できません。ということは、北陸の加賀の地の土器が福島県の会津に来ている。地元の人に聞くと、阿賀野川を二時間のぼったら会津です、会津から大峠を超えたら山形県の米沢盆地ですよ、と言います。いま米沢盆地から布留式土器とか庄内式土器等、四世紀の土器がどんどん出ています。前方後円墳も米沢盆地からどんどん発見されています。

 私たちが東京からみると雪深い会津とか米沢と思いがちですが、古代文化というものはそういうものじゃなかったということです。

 今日は「最近の発掘からみた東日本」というテーマにさせていただきましたが、実はいま、日本の考古学は変貌はなはだしい現状でございます。すなわち、次から次へと新しい事実が発見されまして、今日私が話しました解釈が、数日後には変更を迫られるということがなきにしもあらず、という状況でございます。いまの日本考古学は既成の概念をかなぐり捨てて、まったく新しい発想で考古学的な資料や事項を見ないと実体にそぐわない段階に来ている、と私は思っています。ご静聴ありがとうございました。

おおつか はつしげ

一九二六年、東京に生まれる

一九五一年、明治大学文学部卒業(考古学専攻)

一九五七年、同大学大学院文学研究科博士課程修了・文学博士

一九八八年、奈良県斑鳩町 藤ノ木古墳調査委員・修理委員会委員長

一九九三年、山梨県立考古博物館館長兼埋蔵文化財センター所長

おもな著書

『日本古墳大辞典』東京堂出版、『探訪日本の古墳―東日本編』有斐閣、『稲荷山古墳文化』六興出版、『弥生時代の考古学』学生社、『土師式土器の集成』東京堂出版、『前方後円墳序説』明治大学人文研紀要、『虎塚壁画古墳』勝田市史別編、『古墳の変遷―日本の考古学』河出書房新社、『考古学ゼミナール』山川出版社、『石器時代の狩猟民』G・クラーク/翻訳・創文社、『図説西日本古墳総覧』新人物往来社、『日本考古学を学ぶ 1〜3』有斐閣