権力と支配のためでなく

濱谷浩私論――2

小関和弘 人文学部教授

――「歴史」にどのように関わるか

 一九六〇年六月と言えば、五〇歳代以上の人なら「安保反対闘争」のことを思い出すだろう。僕はもちろん「六〇年安保」は直接体験していないけれど、それにまつわる僅かばかりの記憶がある。

 一三歳年長の姉は当時、大学の四年生。たぶん非政治的学生の一人として大学へ真面目に通っていただろう姉の口から「アンポ」の語を聞いた記憶はない。しかし、ある日の新聞の夕刊一面には国会議事堂前に集まった学生デモ隊の写真が大きく掲げられていて、その真ん中あたりに姉の通う大学の自治会の旗が写っているのを見た記憶は鮮明である。それを見て、僕は、なぜだか分からないが、「ああ、もしも大学っていうところに入ったら僕もこんな風に、デモに行くんだろうかなぁ」と思ったのだった。その時、そのことをどんな感情を交えて考えていたのかは、まるで思い出せない。

 しかし当時八歳に過ぎなかった子どものこころにも、「アンポ」は確実に届いていた。まさに「日本人がこれほど政治というものに関心を強め、行動をとったことはなかったのではないか」[注1] という時代のうねりは、ある雰囲気としてに過ぎなかったにせよ、群馬の田舎の小学生の記憶にしみ込んだと言える。

 そうした時期に、濱谷さんは、自身も記しているように、「それまで、政治的な写真を撮ることをしなかった私も、この歴史的な事件を記録しなければならないと考え」[注2]て、『怒りと悲しみの記録』[注3] に結実する安保闘争の記録写真を撮影していった。こうした行動に対して、病身だった土門拳[注4] 氏が「あれは商売で撮影しているのだ」と語ったとされ、それを伝え聞いた濱谷さんが「当時、彼は健康を害していたので私は無視した」ということもあった[注5]が、その発言が事実だとしても、それは濱谷さんの撮影と産み出された作品の意味を掘り下げえた言とは到底言えない。

――記録の諸相

 『怒りと悲しみの記録』に収められた写真を見ると、その記録性の高さにあらためて驚いてしまう。[注6] 警察の暴力によって命を失った樺美智子さんが、仲間に運び出される瞬間を写した有名な写真のことは、ひとまず措いておくとして、この年の五月二〇日から六月二二日までの反対闘争を記録した写真には、記録性ということをめぐる濱谷さんの一貫した姿勢が見えると僕は思う。

 その記録性に関して、注目しておきたい一点目は、次のようなことだ。デモや集会に参加した人びとを深い被写界深度のなかにとらえた濱谷さんの作品は、もちろん、そうした運動自体の記録とも言える。けれど、それだけでなく、ゆるい俯瞰の位置から捉えられたその画面には、運動がどのような時代の文化と雰囲気のなかで展開されていたか、ということまでも記録されているということ。

 たとえば、六月一〇日を写した中の一枚で、「アイゼンハウア大統領の訪日反対の声は日増しに強くなっていった。十日、ハガチー大統領新聞係秘書が最後の打合わせのために来日。アイク訪日反対を要求する労組員など約三万人は羽田空港付近に集結した。全学連主流派は弁天橋付近に待機した。」とのキャプションが付けられた作品に目を向けてみよう。縦位置の画面手前に大きく「K-UP the Japan/……st Ike visit」という文字の見える横断幕をはじめ、「Go Away」や「岸一派をのぞ……」といった横断幕が、それらを持つ学生たちよりも大きく捉えられている。参加者の表情が鮮明に読みとれるこの写真の一番手前には、ややアウト・フォーカスながら「アイク訪日反対」と記されたプラカードも写している。そして、こうしたデモ隊の人びとの背後には、戦後の復興を成し遂げつつあった当時の日本の添景の一つである、林立する電柱や「日東××」の文字の見える(おそらく、野坂昭如に言わせれば「アメリカひじき」となる、紅茶の広告だと僕は思うのだけれど)大きな広告塔などもかっちりと写し込まれているのだ。

 また、写真集の最後に配された、都電の線路が敷かれた広い道路上をさまざまな表情を浮かべながらフランス・デモをして進む日教組の人びとを真正面から捉えた写真――もちろん、これも絞り込まれ、深い被写界深度を活用して撮られた一枚だ――には、遠くの方で立ち往生している都電の姿や、青ランプを点した斜め縞模様の交通信号機が、これまたかっちりと写し込まれている。いや、この写真の場合には、それだけではない。画面向かって右手、葉を茂らせた街路樹の奥には、通り過ぎるデモ隊を眺めるワイシャツ姿の人を始め、複数の「見物人」が写し込まれている。

 写真の背後や周辺に取り込まれたこれらの景物は、デモ隊の実態を伝え、記録するだけの立場からすれば、副次的なものと言ってよいはずだ。弁天橋付近のショットにしても、フランス・デモのショットにしても、画面のもう少し上の部分を切り詰めることもできなくはなかったように僕は思う。フレーミングの際にカメラをやや下に振ればよいことであろうし、そうでなくともトリミングで処理することもあり得たはずだ。[注7] だが、そうではない、という立場が在りうる。そうしたところから見える、濱谷さんの写真の記録性の幅広さを、まず最初に強調しておきたいと思う。

 さて、『怒りと悲しみの記録』の記録性ということに関して、二つ目に注目しておきたいのは、安保反対のデモや集会を「歴史」の記録として捉えるだけでなく、一人一人の人間の心情や感情、そして思想の記録としておこうという点である。言うまでもないけれど、このことはこの写真集の名前にストレートに示されている。そのことは、同じ六〇年安保を写した、新聞社の写真とくらべてみることでもっとハッキリする。

 たとえば、毎日新聞による六月一五日の「国会正門前」の空撮写真では、画面上半分を占めてドーンと威圧的に立ちはだかる議事堂の建物の手前に集まっている人間が本当に小さなつぶつぶでしかない。言えば、デモ隊はそうした〈集団〉と言うか〈群れ〉としてしか捉えられていない。それに、樺さんが命を奪われた一五日夜の国会正門前の写真は、空撮ではないけれど、かなりのハイ・ポジションから撮影されたもので、画面左半分に警官隊が、右半分にはデモ隊が密集して、互いに緊張感を高めて向き合う様子が写されている。こういった新聞写真は、「安保反対」の運動がどんな風に行なわれているのかを報道するためのものだということを自ら主張しているのである。違う言い方で言えば、新聞というメディアは運動に参加する一人一人の人間がどんな表情を浮かべ、思いを体から漂わせているかについては、まるで関心をもっていないという宣言でもあるのだ。[注8]

 これに対し、濱谷さんの写真は『日本現代写真史1945~1970』[注9] にも採録された、機動隊の放水をあびるデモ隊の写真のような群集を写したもの ――これは画面がデモ隊の部分だけに集中しているのだけれど―― にしても、参加者の表情や姿勢からにじみ出る意志や感情はくっきりと捉えられている。

 一九九七年一月から三月までのあいだ、東京都写真美術館で《濱谷浩 写真体験六十六年/「写真の世紀」》が開かれた。そのとき、展示を見て歩くために配られた「ワークシート」の『怒りと悲しみの記録』に触れた部分は、濱谷さんのこの仕事の特質を見事に捉えている。

 ワークシートのページには、黒光りする警官隊の無表情な鉄兜が手前に数十個ならび、その向こうにさまざまな表情を浮かべる学生たちの姿が捉えられた「首相官邸前の衝突 1960(昭和35)年6月3日」という写真が掲げられている。そして、ワークシートを手にした観客へ、次のような問いをぶつけてくる。

 〈この写真は1960年に起こった安保闘争をドキュメントしたものです。なにが写されているのかを、見てみましょう〉。そして、これに対し〈画面を上下に分けるように奥には口々に何かを叫んでつめよる人びとが、手前にはそれをさえぎるように頭にヘルメットを被った大勢の警官がいます。〉という答えが用意される。ひとことだけ、注釈的に言葉を挟んでおくと、この写真には、厳密に言って、警官という存在は写っていない。黒光りする鉄兜がゴロゴロと並んでいるだけなのだ。その無表情さ。無機質さ。それに対して、学生たちは叫び、睨みつけ、伸び上がって覗き込み、訴えるような表情を見せるなど、じつに多彩な人間の感情を表わしている。このことは、特に強調しておきたいことだ。

 ワークシートの言葉は続けて、〈ここには群衆の表情だけが写されています。なぜ、写真家はそのような撮り方をしたのでしょうか。〉との問いを投げかけ、〈60年の安保闘争では、「日米安全保障条約」の改定問題をめぐって大勢の労働組合員や、学生、一般市民までもがデモに参加し連日国会に押し寄せました。写真家は群衆の激しい表情と叫びにレンズを向けることによって、当時の政治に対する人びとの不満や怒りの感情を浮き彫りにしています。〉という答えを示している。ここには、このワークシートを書いたキュレーターの立場も垣間見えて、それなりに楽しめるのだけれど、それはとりあえず措くことにしよう。要は、六〇年安保の時代の人びとの感情とをこそ被写体とした濱谷さんの姿勢が、的確に把握されている点だ。

 デモに参加した人びとの表情、横断幕に掲げられた言葉、こうしたものを正面から鮮明に捉えきる姿勢は、いわゆる「記録」とか「証言」といった客観主義的な匂いの強いあり方を超えて、被写体(態)の立場や姿勢に対する共鳴なしにはあり得ないだろう。

――個の表現としての「記録写真」

 僕は、こうした大衆運動へのカメラの向け方として、若き日のジゼル・フロイントがナチス勃興直前のドイツにおける社会主義者たちのデモや集会を撮影した写真を思い出す。それらの写真を、僕は一昨年、品川の原美術館で開かれた《ドイツ・DGバンク・コレクション展》で見たのだけれど、彼女の写真はライカの機動性を生かし、デモ隊の姿をその正面から、横断幕に書かれた文字がはっきりと読めるように撮影されているものだった。彼女の写真からは、被写体となった人びとが自らの置かれた政治状況をどう感じているかが伝わってくる。また、デモに参加する意気込みと同時に、ある種のあきらめの気持ちも伝わってくる。見ていると、まるで人びとの感情の襞さえ読みとれるような気がしたものだ。

 フロイントのこれらの写真は、一九九六年まで公開されずに来たものであるから、濱谷さんが出会っている可能性はまずない。まして、『怒りと悲しみの記録』の作品を撮っていた時点に見ているはずもないのだが、二人の写真のあいだには確かな繋がりが感じられる。時期は異なるが、フロイント自身も濱谷さんと同じく、国際的な写真ジャーナリスト集団=マグナム・フォトに所属していた。そうした写真家としての実際的な立場の近さということも勿論ある。マグナムは個々の芸術家としての主体性を大切にしながら、フォト・ジャーナリズムのなかで生き抜いていく力を持った写真家たちの集団である。濱谷さんの言葉によるなら、「マグナムの精神は一言でいえば人間尊重ということになる。国家や民族や体制を乗り越えて人間の問題に迫り、写真を通して相互理解に努める。その裏づけとなるものは各自の自由の精神とその責任感でなければならない。」[注10] とされるマグナムに二人とも加わっていたのである。そうした写真家の集団に、時を隔ててはいるものの、この二人が加わって事を無視するわけにはいかない。だが、それとならんで、いや、それ以上に「現代の問題に対する自分の感情や思想を表現する手段」[注11] とするフロイントの写真観と、「私は、私の「人間の幸福とは何か」という今日の課題を、写真によって考えなければならない」[注12] と書き記す濱谷さんの写真観との親近性こそが、二人の仕事を近いものとして見せるのだと思う。

 『日本現代写真史 1945~1970』の解説「戦後写真史展望」で渡辺勉氏は、「史上最大の国民運動であった、59年から60年にかけての安保阻止闘争においても、ルポルタージュとしての写真活動には厳粛な歴史の一回性を捉えた貴重なドキュメントが少なくない。」として、個人の仕事としては濱谷さんの『怒りと悲しみの記録』をあげ、共同制作によるものとして『ゆるせない日からの記録』や『黒い恐怖・安保と国民』『主権者の怒り』などを挙げている。いま、詳しく検討する余裕がないが、後者が優れた〈記録〉としてあるとすれば、濱谷さんの仕事は、安保闘争のさまざまな局面に立ち会った人間濱谷浩の感情の〈表現〉であり、そうした位相をひっくるめて見事な〈記録〉となっているのだと僕は考える。六月三日の首相官邸前で、機動隊の暴行を受けて背広に血が飛び散った姿のまま、たくし上げたワイシャツの両手を押し広げるようにして前に向かう市民の連続写真は、そうした感情の記録以外ではない。

 濱谷さんは、アメリカの「ライフ」からの安保闘争についての取材依頼や、ニューヨークのマグナムからの取材指示も「アメリカへの送稿はどのように使われるかわかったものではない」との理由から断った。その一方で、パリ・マグナムからの送稿依頼には応諾し、その写真は「パリ・マッチ」誌に掲載される。そして、それがきっかけとなって、世界の学生問題を取り上げる合同企画がマグナムで立てられ、ロンドンの「ザ・サンデー・タイムス」の連載へと繋がっていった。また、安保闘争を写した濱谷さんの作品は、国内では各地の大学や高校の文化祭を巡回して多くの人びとの目に触れたのだった。[注13]

 そうした盛り上がりはあったものの、岸内閣総辞職後に発足した池田内閣の所得倍増計画によって「国民は踊らされ、あれだけ盛りあがった国民の政治意識は無残喪失、ジャーナリズムも圧力に屈し転向、金権政治は横暴をきわめ、権力の座が固められていった。」[注14]

 濱谷さんの積極的な活動は、雑誌社などに警戒感を抱かせることとなり、仕事を干された状態になったという。そのようななかで、濱谷さんは、

ひと夏、たっぷりと大磯の海につかり、東北の山々も歩いてみて考えた。日本人の複雑怪奇な性格、熱しやすくさめやすく、付和雷同、没個性、これはどういうことなのか。私は日本の自然を見つめてみたいと考えた。[注15]

 という。十年一日ではなく、四〇年も一日かと思わざるをえない現代の日本を思うとき、溜息なくしては読めない文章である。そして、ここから写真集『日本列島』の構想が生まれる。

――日本列島への視線

 写真集『日本列島』は『怒りと悲しみの記録』から約四年を経て刊行されている。安保後の六〇年一一月から、三年四カ月にわたって日本列島の各地を撮影して廻った成果である。

 濱谷さん自身が「それまで、私は自然だけを対象として撮影したことは、ほとんどなかったといっていい。いままでの写真集も、人間に関係したものばかりであった。『日本列島』は私にとって異質な本となった。」と記しているように、この写真集は「火山」二四枚、「海」一六枚、「高山」八枚、「河川」八枚、「湖沼」八枚、「湿原」八枚、「石灰岩台地」八枚、「樹氷」八枚、「原生林」一六枚、「最高峰」七枚の総計一一一枚、全てカラー写真の作品集である。人はただの一人も写っていない。

 各章の章立て(分類)の方法も一般の写真集としてかなり異質なものだと言えるが、それだけではない。その命名にも考えるべき点はある。

 最後の章「最高峰」は、言うまでもなく富士山のことを指している。だが、ここでの濱谷さんは、手垢にまみれた〈富士山〉または〈富士〉という記号を避けたのだ。僕なりに解釈すれば、〈富士山〉とした途端にそれは風景写真に転落する。転落という言い方が悪ければ、風景写真へと地滑りを起こすと言い換えてもよい。[注16]

 伊藤俊治氏はかつて風景写真について次のように述べた。「風景を写しとめた写真は、その時代の人間をとりまく自然の観念や、自然への衝動を明らかにしてきた。」また、「風景写真は、風景という概念の喪失、自然の不在をまのあたりにして、おびただしく撮影される。すくなくとも、二十世紀の風景写真はそうした自然の不在という無意識の不安と正確に対応している。いや、風景写真が逆にそうした不安に明確な形を与えているといってもいいだろう。」[注17]と。

 伊藤氏はジョエル・メイエロウ、マイナー・ホワイト、ゲーリー・ウィノグラントなどの作品を図版として掲げてはいるが、具体的な分析や論及はしていない。ただ、そこに掲げられた圧倒的多数の「風景」写真が、人工物(車、街路樹、道路、家屋など)を写し込んでいることは示唆的と言える。つまり、伊藤氏が「自然の不在という無意識の不安」というとき、それは人工的な、あるいは文明社会のなかで、ふと我に返った際に、人工的な事物の向こうに透けて見える人の手を加えられていない(ように見える)事物が喚起する不安ということになるだろう。言い換えるなら、人工物を介在させた〈文明〉の側に重心を大きくかけた足の裏側で感じる不安であろう。そうした人工的な世界に足をかけて生活しているなかで、ぼくらは確かに「風景という概念の喪失」のなかにあると言うほかなさそうだし、「自然の不在」をこそ、文明の到達度の指標としてきた。

――「風景写真」から遠く

 しかし濱谷さんが『日本列島』にまとめた写真は、どうも、そうした「自然の不在」や「無意識の不安」ということからはみ出した地点に成り立っているように思われてならないのだ。確かに、〈荒々しい自然〉とか〈未踏の秘境〉とかいった空間が「発見」されるには、圧倒的な力をつけ、システム化された交通ネット・ワークの成立が不可欠である。その点で、三年四カ月もの時間をかけて日本の各地に出かけ、地勢写真とでも言うべきこうした画像を空撮も含めて撮影できたのも、そうした近代交通システムの成立を抜きには考えられない。だから、これら『日本列島』の写真にも「自然の不在」を決定的にした現代文明は確実に影を落としている。そもそも、写真という物理・科学技術を使ったこと自体、自然からの距離なしには存在しえないことであるのだから。

 しかし『日本列島』の写真、例えば、「火山」の章に収められた「阿蘇・火山灰層」や「桜島・塊状熔岩」などは、一方が熔岩と火山灰が層を成している断面が画面全体を占める写真であり、もう一方は凝結した熔岩の「奇怪な鉱滓状皮殻」のディテールを捉えた写真であって、「風景写真」と位置づけるのにはどうしても無理があるという気がする。さらに付け加えるなら、「海」の章の「喜界島・造礁珊瑚生活体」「喜界島・造礁珊瑚骨格」といった作品も、その題名からも想像がつくとおり、生物学の領域に属すような写真なのだ。

 そして、もう一つ、この写真集がいわゆる風景写真と違うことを理解する上でとても大切なことだと思うのは、「湿原」の章に収められた「中田代流水・ミツガシワ 群馬県」「小沼・ワタスゲ 群馬県」「下田代・ニッコウキスゲ 福島県」の三枚に関してである。これらは、それぞれ、題名の通りの植物を捉えた作品である。だが、題名から想像されるような、その花をクロース・アップで捉えた野生植物の美しさを伝えようとする類の写真ではない。

 いずれも広角レンズを使って、それぞれの植物が群生する場所全体を捉えたゆるい俯瞰のショットという点で共通する。ミツガシワやワタスゲ、ニッコウキスゲを美的な視線で捉えようとしたなら、マクロ・レンズを使った近接撮影が選択されるのは有力な方法だったはずだが、濱谷さんは実に謹厳にその方法を避けているのだ。しかも、後者の二作品は、撮影場所が別なのに、まるで一つの場所をワイドに捉えたかの如く、それぞれの地平線が見開きページで一致するようレイアウトされている。ここには、それらの植物の生育環境を全体として捉えようとする自然観察家の視線がある。[注18]

 なぜ、濱谷さんはこのようなタイプの写真も交えた写真の集成として日本列島を描き出そうと思ったのだろうか。

――「美しい風景」からの距離

 自然に対して人間はどのような考えをもってきたか。またどのように接触してきたか。地域的にも、歴史的にも変化があった。狩猟民族と農耕民族とでは異なった自然観をもっていた。東洋と西洋でも極端な差があり、アジア大陸の民族と、海に囲まれた日本列島の民ともちがいがあった。[注19]

 と記す濱谷さんの視点について、例えば、「日本列島の民」を「海に囲まれた」と一義的に規定してしまうところや、そもそも「自然観」といった抽象レベルを自明のものとする発想方法で大丈夫なのかとか、自然対人間というスタティックな二元的構図の採り方に問題はないのか、といった感想はおのずから湧いては来る。しかしここには『雪国』[注20] 『裏日本』[注21] の仕事を通じて、日本――という枠組みを自明のものとする濱谷さんのスタンスにも疑問が突きつけられて当然ではあるが――に生きる人びとの暮らしが、いかに自然環境に規定されて存立しているかを肌で感じ取った濱谷さんの経験が根を張っていることをとりあえず確かめておくことにしよう。その問題点については、追々、以下の行論のなかで考えていきたいと思う。

 ところで、この当時、風景について、例えば、浦松佐美太郎氏が「アサヒカメラ」の一九六〇年一〇月号に「美しい風景とは何だろう」という文章を書いている。

 そこで浦松氏は「日本全国を観光のために歩きまわ」る「観光ブーム」が「庶民」のあいだで隆盛を見せているが、その対極では風景写真が衰弱したと論じている。そして、庶民は観光地に絵葉書的風景以外の「心を打つもの」を見いだせているから、観光に出かけているのだと述べる。(根拠も実証もなしの、こうした手放しの庶民礼賛には古典的「知識人」のコンプレックスめいたものを感じもするのだが、それはまあ措いておくことにしよう。)そして、浦松氏は写真家の責務は、庶民を感動させる「美しい風景」とは何なのかを突き止めることにあるとする。それなしでは、「美しい風景にカメラを向ければ既成の形が固い枠となって写真家を締めつけ」てくることになるとし、「写真家こそが絵葉書的な風景に支配されているのだ」と論を進めている。では、その責務をどのように果たしたらいいのか。

 浦松氏の結論は意外に、いや予想通り、凡庸なものだ。「自分の心に素直になることから始めなければなるまい」というのである。まるで、道徳の時間に付き合わされているような気分にさせられる。素直になって、「その風景から、自分を感動させた何かをつかみ出」し、どのように表現をするかの方法を考えることがプロの写真家の課題だというのだ。氏は、写真家がこうした態度をとらなくなり、「この面倒な問題を放棄して、風景写真からの逃避が始まったのだと思われる」と述べる。

結局、この文章の過半では、ほとんど根拠のない議論が展開され、また、具体的な処方箋も示されないまま、日本の写真家は風景写真から逃避しているとの断案が下される。

 僕がここで浦松氏の論を取り上げたのは、第一に、濱谷さんの『日本列島』の仕事がまとめられる時期に、絵葉書的ではない「美しい風景」を求める気分があったらしい、ということを確かめておきたかったからだ。そして、浦松氏の文章が「日本の写真界の最近の低調」と「日本全国を観光のために歩きまわっている」人びとの存在を視野に収め――その視野にどんなフィルターが掛かっていたかを今は問わない――、「日本」の文化状況をめぐる言説として繰り広げられていたことを確認しておけば、とりあえずは充分と言ってもよい。要は「美しい風景」はどこかにある、という〈信念〉と「日本」の写真家たちの奮起を促す言説が浦松氏の文章の骨格を作っているということだ。

 しかしこれだけならば、ことさら浦松氏の文章でなくても構わないと言うこともできる。そのとおり。実は、浦松氏の文章は、上に述べた「批判」のあとで、アンセル・アダムスが編集した『これがアメリカの国土だ("THIS IS THE AMERICAN EARTH")』所収の写真へと論を展開させている。アンセル・アダムスは、言うまでもなく、ティモシー・オサリバンやウィリアム・ヘンリー・ジャクソンといった一九世紀後半のアメリカ風景写真の開祖たちから大きな影響を受けて出発した風景写真の巨匠である。そのアダムスが関わったこの写真集は「産業の発達によって急速に失われていくアメリカの風景を子孫のために保存しようとして、立ち上がったカリフォルニアの人たちによって作られたシエラ・クラブの発行」(浦松)である。そして、浦松氏はここに収められた写真には「カメラの目を通して初めて見られる風景」が捉えられており、「彼(アダムス)には風景写真の衰弱の兆候は少しも見られない」とする。なるほど、そういう見方も成り立たなくはない。だが、浦松氏が意識していたかどうかは別として、この批評の構図のなかで、「失われていくアメリカの風景を子孫のために保存しよう」という壮大な〈物語〉のなかに据えられたアダムスらと、そうした大きな〈物語〉なしに「風景から、自分を感動させた何かをつかみ出」すという、個人的な努力を期待される日本の写真家とのバック・グラウンドの落差が無視されている。だからと言って、僕は浦松氏の批評のスタンスがバランスを欠いているなどと言いたいのではない。そうではなくて、浦松氏の言説は、この時期の日本の写真、少なくとも風景写真の世界が、大きな〈物語〉を持てなくなっていたことを裏側から照らし出していたのではないか、と言っておきたいのだ。

 浦松氏は、風景写真の衰弱と言い、また「風景に対する感覚が衰弱しつつある」と述べてもいた。けれど、僕の考えでは、問題は「感覚が衰弱しつつあ」ったかどうかではなく、「感覚」を支える、というより、それなしでは「感覚」が「感覚」たりえないような、基盤となる価値観、つまりは風景をめぐる〈物語〉がこの時代に失われていた点にあるということなのだ。断っておくが、僕はここで〈物語〉の回復を主張しようとするのではない。〈物語〉への傾斜を、浦松氏の言は裏書きするだろう。また、そうした〈物語〉をでっち上げたい人びとはいつの時代にもいる。そもそも、〈物語〉は幻想に過ぎない。が、そんなことは議論の出発点に過ぎないだろう。だが、今はそんなことが問題なのではない。

 話が広がりすぎた感じがしてならないので、本筋に戻そう。

 ともあれ、僕は濱谷さんの『日本列島』が現われた時代とは、浦松氏の言から垣間見えるような、風景をめぐる〈物語〉の不在という状況にあったらしい、と言っておきたいのである。もとより、この時期と言えども風景写真に分類される作品も(浦松氏の言と背馳するかのように)生み出されてはいる。『日本写真史年表』[注22] をザッと見渡しても、一九六〇年の前後の年には、毎年五、六冊の風景写真集を拾い出すことが出来る。だから、それ相応の風景観を持って、風景写真(集)は生み出されていたとも言えなくはない。しかし、それらが共有する(意識的にか否かは問題ではない)価値観が、旧態依然のものか、あるいは腰の定まらない混迷を示していたとは言えそうである。

 ここで再び濱谷さんの言を引こう。

 時の流れとともに、自然と人間との関係はさまざまに変化してきた。現在という時点でも、自然に対する考え方にはいろいろな個人差がある。(中略)写真家は(風景に対して……引用者注)どのようにたいするか。(原文改行)写真のモチーフとして自然が対象となった場合、風景写真という言葉が使われた。(中略)日本の場合も、風景はかなり早くから写真のモチーフとして写されてきた。目的は風景そのものではなく、光とその階調を、美的に再現することにあった。いわゆる芸術写真であって、日本人の嗜好にかない、この傾向は長くつづいた。その後も新しい風景写真を求められながら、理論は生まれなかった。(中略)風景を風景として眺める態度を変えなければ、新しい道は開けない。風景という言葉につきまとった古い風景感覚から脱皮しないことには、と私は思った。[注23]

――「風景」への新たな態度

 風景写真は、たぶん、写真が誕生してから絶えることなく写し続けられてきた。ニエプスの最初の作例を挙げるまでもなく。だが、日本の写真表現の歴史のなかで写されてきた「風景写真」は、光の芸術としての風景写真であり、それを超えることはなかったと濱谷さんは言っているのだ。この芸術写真としての風景写真ということで連想されるのは、オイルやブロモイルといったピグメント印画法によって絵画への接近を企図した「芸術写真」としての風景写真ばかりでなく、飯沢耕太郎氏が「日本の写真家たちの風景写真の原点」[注24] と呼んでいる福原信三の「主観的な風景写真」のことである。俳諧に親炙した福原が主唱した「俳句写真論」に見られるように、そこでは、「光と其の階調」を重視した情緒的な風景写真が重んじられた。濱谷さんはそうした写真のなかに潜在する風景への態度を改めることが必要だと考えたのだった。

 『日本列島』に収められた写真は、風景写真と呼ぶにはためらいを覚えさせるものが多い。それは、濱谷さんが「古い風景感覚」からの脱皮を図ったことに由来すると言える。

 では、この写真集で試みられた撮影の手法、あるいは風景への態度を僕らは、いま、どんな風に捉えることが出来るのだろうか。そこからどのような〈問題〉が見えてくるのだろうか。

 『日本列島』巻頭には地理学者の辻村太郎氏による「日本の自然観」という文章が置かれている。「わが日本の景色が、世界諸国のどこにくらべても決して負けないくらいに美しいとは、誰でもいうことである。」という書き出しのこの文章は、おおむね、先に挙げたこの本の章立てにしたがって日本の各風景の特色を外国の類似のものと比較する形で展開される。そして、この文章の最後は次のように結ばれる。

 日本の自然景観が、世界のどんな国とくらべて見ても、著しく優秀であるということは、いままで述べたところで大体ながら見当がつくであろうと思うが、まだまだ書き足らない点は沢山ある。とにかく私たちはこんな国に住むことに、生き甲斐を感じ、こんな土地で生まれたことを感謝しないではいられない。

 と。正確に言えば、この文章のあとに、ヨーロッパや北米諸国の自然保護のあり方を意識しながら、日本の自然を保護する責務について語られた一段落があるのだが、そのことはいいとしよう。

 いま、僕がこの辻村氏の文章を引き写しながら思うのは、濱谷さんがこの本の扉ページに掲げ、また、「あとがき」にあたる『「日本列島」前後』にも書き記した「人間は いつか 自然を見つめる時があっていい」という言葉と、この辻村氏の文章との微妙な食い違いである。

 濱谷さんは、上に見てきたように、六〇年安保後に直面させられた「日本人の複雑怪奇な性格、熱しやすくさめやすく、付和雷同、没個性」の根っこを探るために、日本列島の各地の自然を見つめてみようとしたのだった。その出発点には、『雪国』以来、濱谷さんの方法論的バックボーンとなってきた和辻風土論があることは言うまでもない(その和辻風土論には、僕は距離をとりたいと考えている者の一人だけれど)。ともかく、濱谷さんは日本の自然を見つめなおすなかから、日本人、あるいは日本の精神文化について考えようとしていた。これは、日本賛美の方向を採ろうとすることとは、微妙だけれど決定的に違う方向なのではないか、と僕は考える。

 こうした濱谷さんのスタンスに対して、辻村氏はまったく配慮を示しているとは思えない。いや、単純素朴に、濱谷さんの写真を介して、〈日本礼賛〉〈日本賛美〉の方向へ話を持っていってしまっているのだ。これは、よくある、自然科学者の思想オンチとして片づけられる話なのかも知れない――そうした思想オンチを、僕は自分が工学部の学生だった期間に少なからず見てきた。もちろん、自分もそのウチの一人だったわけだ――が、僕はこれは決して小さくはない〈問題〉を投げかけるものとなっている、と思う。

 川端康成という小説を書く人が、かつて世界的な或る賞を貰ったときに「美しい日本の私」という記念講演をした。その小説家は、のちに、保守党から立候補した知事候補の応援演説をするくらい政治的に「右」の立場に立った人だ。僕の頭のなかでは、そんな風に「美しい日本」というタームは政治の色合いをおびて響く。

しかし、辻村氏のスタンスとの違いをここであげつらえば話が済むくらいならことは至極簡単だと言える。つまり、ことはそう簡単ではないようなのだ。

――『日本列島』から『日本の自然』へ

 『日本列島』を刊行した一一年後の一九七五年、濱谷さんは国際情報社から『日本の自然』(上)(下)二巻を刊行している。これはそれぞれ副題に「国立公園 東日本編」「西日本編」と銘打たれた写真集である。題字を「日本芸術院会員・俳人」の荻原井泉水が書き、序文(「上」)には理学博士の宮脇昭横浜国大教授が「日本人を育てた美しい日本の自然」を、西ドイツの理論応用植生学研究所長で国際植生学会の事務局長を務めるというR・チュクセン博士が「人間は自然なしでは生存できない」というメッセージを寄せる。さらに、本文解説として「日本芸術院会員・文芸評論家」の山本健吉氏が「日本の自然と文学」を、「随筆家」の串田孫一氏が「北の風景へ向かう心」を、「日本文化研究家」のV・ケンリック氏が「美しくやさしい自然と日本人今昔譚」を、そして「信州大教授・理博」の小林国夫氏が「日本列島の生いたちと景観(上)」を書いている。これに加え、横浜国大植生学研究室の文責による「国立公園の植物相(上)」が配される。

 この写真集が刊行された七〇年代半ばと言えば、日本各地の公害問題が顕在化した六〇年代を否定的に引き受けるなかから、さまざまな反対運動や環境保護の取り組みが盛んになった時期に当たる。環境庁というお役所が作られた(発足)のは一九七一年の七月。「環境権」という言葉が使われ始めるなど、環境保護への意識の高まりが、この写真集刊行の背景にはあった。それを証すように、宮脇氏の文章は各地の植生の特徴を語りながら、自然保護の重要性を強調している。それは他の筆者の文章にも共通する点だと言っていい。また、巻末には、それぞれの文章に対応する英訳が付けられて、自然保護の世界的な動きに連動しようという意図も見て取ることが出来る。それは各写真のタイトルに付けられた英文の存在にしても同様に見られるだろう。

 しかし、この書物には「日本」礼賛の気配も微妙に漂っている。上にいちいち書き出した筆者名とその文章の題を見れば分かるとおり――いや、英訳の添附から見れば、「国際的」な場を意識しているからだと考えられなくもないが――、それぞれの筆者の肩書きに見える事大主義(串田氏は例外)。そして、「国立」公園の自然を集積した写真集という、覆いがたい「国」志向のスタンスは、表立って礼賛の姿勢を見せているわけではないのだけれど、全体の文脈としては国家としての日本を志向するものとなっている。「潜在自然植生図」(上巻)や「現存植生図」(下巻)を付した編集方針からは、科学的な視線と態度を見ることができ、単なる風景写真集に終わらせまいとする企図を見落とすことは出来ないのだが、そうした科学性の一方で、「上巻」で「北海道地方」にある国立・国定公園を示した地図には「クナシリ(国後)島」「水晶島」といった、いわゆる「北方領土」が、名称をくっきりと書き込まれて記されている点も無視するわけにはいかない。この写真集が刊行される二年前の七三年九月には、衆議院本会議で「北方領土の返還に関する決議」が全会一致で可決されていたという同時代相の下にこの地図を置けば、その意味は否応なしに「国家」の論理への親和性を持って見えてくるはずだ(また、このことに関わって言っておくなら、『日本列島』のなかの「日本列島撮影地」という地図にも「北方四島」は書き込まれている。ただ、そこでは「四島」とそれに含まれないウルップ島が「本土」と同じく茶色に塗られるだけで、島の名は記されていない)。

 もちろん、『日本の自然』のこうした細部にわたって濱谷さんが了解、同意して、この写真集が刊行されたとは思えない。むしろ、写真集を貫く「自然保護」の理念にふさわしい写真を数多く撮ってきたというところから濱谷さんが写真家として選ばれたに過ぎないと言うべきだろう。だが、僕が先ほど辻村太郎氏のスタンスを取り上げて考えようとした地点に、さらには濱谷さんが「日本」という枠組みを自明のものとしているらしいことに触れた部分に、戻って言うならば、濱谷さんが写した日本列島の自然を捉えた写真(に限らず、となるだろうが)は、この『日本の自然』のような、あるいは辻村氏の示したような、〈日本国〉の主張や〈日本賛美〉の主張に接合されうる部分を有しているということである。このことは、写真家個人の主張や思想とは異なったレベルのイデオロギー性として、確認しておく必要があることだろう。

 ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』の増補版で「一九世紀半ば以降、植民地国家のイデオロギー、政策の下敷きとなった文法」を「もっとも見事に浮き彫りにするものとしての権力の三つの制度」として「人口調査、地図、博物館」をあげている。[注25] もとより、比喩的な意味を除けば、戦後の日本を植民地国家と呼ぶことは出来ないし、講和条約発行後の「日本国」が国民国家としての再結成のために、自国の領土へ植民地的な視線を注いだと言うのも無理な言い方になるだろう。けれど、国勢調査や住民基本台帳、そして建設省の付属機関・国土地理院作成の地形図、各地方自治体が管理する都市計画の用途地域図などなどを考えれば分かるとおり、人口調査の結果や地図の作製は、近代国家を支えるイデオロギー装置として大きな役割を担ってきたことは間違いない。そして、僕らは教科書などの地図に示された「日本列島」の形を通じて、国家へのアイデンティティを身につけさせられても来たのだ。

――俯瞰……権力と支配のためでなく

 思えば、一九三三年に実用航空研究所に入って東京銀座を空撮して以降、濱谷さんが足を踏み入れた〈世界〉が、微妙に、この「人口調査、地図、博物館」の世界に接点を持っていることは興味深い。実用航空研究所は、「(イ)広告宣伝飛行 (ロ)祝賀記念飛行 (ハ)瞰下撮影 (ニ)空中捜索飛行 (ホ)諸計器試験飛行 (ヘ)同乗飛行」を業務としていた[注26]ように、直接、地図作製に関わったりしているわけではない。だが、「瞰下撮影」はその依頼主の目的は問わないとしても、瞰下すること自体が軍事的な禁忌に触れ、国家の機密事項に抵触する恐れがあるものに他ならない。それは、濱谷さんが実用航空研に入った六年後の三九年一二月に「軍機保護法」施行規則が改められて「俯瞰撮影禁止」となったことでも分かるとおりである。

 濱谷さんの写真の俯瞰の視点については前稿で触れたが、そういった俯瞰の視点は、アンダーソンのいう「権力の三つの制度」の一つである地図作成のための特権的位置に近づく行為でもあった。そして、その俯瞰撮影はここまで見てきた『日本列島』『日本の自然』で数多く採用された視点でもあった。

 また、濱谷さんは、さらに「権力の三つの制度」のひとつ、博物館にも浅からぬ縁があった。渋沢敬三氏が主宰した「アチック・ミュゼアム(屋根裏博物館)」である。そこで学んだ民俗学の視点は確かに「博物学」へ通底する。だが、それは濱谷さん自身が記すように「支配階級の文化に対して常民の文化を発掘する作業を推し進めた」[注27] ものとして、かろうじて、官の視線とは異なったスタンスを採りえていた。もちろん、民間のものであれ何であれ、博物学的視線は、それが前提とする近代の客観性を付与された均質・透明な認識空間を前提として成り立っている。そしてそのなかで展開される「もの」に関する言説(「時とともに物のうえに堆積したあらゆる言語」すなわち「伝承、信仰、詩的な彩り」といったものを「すべての背後に押しや」った結果として生成する「博物学的記述」[注28])と、それよって露わになったとされる「もの」への態度が作り上げるポリティックスと無縁ではありえない。それは渋沢敬三という人間が民間の学者であることと大蔵大臣であることとの二極の間を揺曳したことと並行して捉えることのできる関係でもあるだろう。

 博物学に関わって言えば、濱谷さんの占めた位相は、まさに、この官と民とのあいだを揺れ動くものに他ならなかった。その危うさと隣り合わせの地点に、濱谷さんの写真は位置している。その現われが、『日本の風景』という写真集に典型的に現われていただろうし、遡れば、『日本列島』の仕事に潜在していた。

 俗っぽく言えば、為政者は高みに立ちたがる。その高みに濱谷さんの自然写真の俯瞰は近づいてもいた。だが、『日本の自然(下)』の「あとがき」で、

 日本の国立公園を一冊の本にするという考えなしに歩き廻ったものですが乞われて本にまとめてみると、公園を代表すると見られている景観が不足している面があります。(改行)これらの公園は自然公園法の規定によって指定されたものであります。それによって自然が保護されたり、観光のめやすになったりします。そういうこととは関係なく、今日、日本に残された自然をどう見るか。

 と記しているように、その俯瞰の位置は為政者や行政の視点とは微妙かつ決定的に違っている。先ほど見てきたように、この本自体が大筋で指し示すのは、自然保護の方向であると言っていい。だが、濱谷さん自身は、自然保護や観光の目安云々とは「関係なく」、「日本に残された自然をどう見るか」という問題意識のなかでこの写真集刊行に携わったのである。それは『裏日本』の冒頭では「人間が/人間を/理解する/ために  日本人が/日本人を/理解する/ために」と記した姿勢を地下水脈のように保ちながら、『日本列島』で「人間は、いつか、自然をみつめる時があっていい」と書いたところに見られる人間探究の姿勢である。支配のためでなく、権力獲得のためでもない、そうした俯瞰の姿勢を濱谷さんの写真、そして濱谷さんの立った立場は示しているのではないだろうか。もちろん、その立場には、外部から別様の意味付けを与えられてしまう危うさがなかったわけではない。だが、濱谷さんの鋭く問題を提起する俯瞰の視線は、『日本列島』以後、世界各地の風景へと対象を広げ[注29]、一九七九年の『南極半島夏景色』[注30]、八一年の『濱谷浩写真集成 地の貌』[注31] の仕事へと結びついて行く。そのことが胎む問題性については、稿をあらためて論じる予定にしている。

 一九八〇年、濱谷さんは芸術選奨文部大臣賞を受賞した。それは、しかし、濱谷さん自身は断ったにもかかわらず、写真界の長老たちからの説得によって、しぶしぶ受け取ったものだった。だから、その直後に起きた教科書問題への文部省の対応の悪さを契機にさっさとその賞を返還してしまう。[注32] 買いかぶりすぎとの批判があるかも知れないが、こうした濱谷さんの歩みは、もはや、カメラ・ポジションとしての俯瞰という問題を越えて、処世の態度としての〈俯瞰〉ということを提起しているようにさえ思えてくる。しかし、そのことを詳しく書き記すだけの紙数はもはやない。

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*1 濱谷浩、写真集『日本列島』〈あとがき「日本列島」前後〉平凡社、一九六四年

*2 前掲『日本列島』

*3 濱谷浩、写真集『怒りと悲しみの記録』河出書房新社、一九六〇年

*4 阿部博行『土門拳 生涯とその時代』(法政大学出版局、一九九七年、292~│293頁)によれば、当時、土門氏は病身をおして安保のデモに参加したが、カメラを持ってはいても、ほとんど撮影しなかったという。その理由として土門氏自身が、「感情的に興奮状態になると、その時は撮れたような気がするが、いい写真は撮れない、あの手の写真は新聞社の条件のいいカメラマンにはかなわない」と語ったとあるが、僕は、それ以上に、撮影者として「出来事」の〈外〉に立つことと(デモの)参加者として立ち続けることとの二者択一のなかで、土門氏がどのように判断したかという観点に立って、この問題を考えてみたいと思う。

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*5 濱谷浩「体験的写真論3/6・15前後のこと」(「カメラ芸術」一九六二年六月号)。また、濱谷浩『潜像残像 ――写真家の体験的回想―― 』(河出書房新社、一九七一年)200頁にも同様の記述が見られる。

*6 ただし、写真集からピックアップされたものを掲載した「カメラ毎日」一九六〇年八月号の口絵写真に対する評(「アサヒカメラ」一九六〇年九月号「私のベスト5」)のなかには「あまりにもロマンチックすぎる」(福島辰夫)、「(冷徹なリアリズムの視線に対して)「怒りの詩」としての視覚構成」(伊藤逸平)といったものもあった。だが、これらの評にある「ロマンチック」や「詩」という事をも含めて、僕は「記録性」を言っておきたいと思う。記録写真が「客観的」であるという発想や言説自体がロマンチシズムを秘めていることを指摘しておけば、この際充分だろう。

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*7 遡れば、濱谷さんは若き日に『スナップの撮り方』(アルス、一九三九年七月)という本を書いている。北原白秋の弟鉄雄が経営するアルスで出していた、新四六判という小型の版形で総ページ数七〇頁余の「アルス写真文庫」シリーズの一冊を占める小冊子である。そのなかの「群衆」という章には、作例として、大半が同じようなコートと帽子に身を包んだ男性が、みな同じ方向に向いて立つ俯瞰写真(タテ構図)が掲載されている。これは解説に「秋の東京競馬で、発表直後に諸々の思索をする観衆の動揺を狙つたものである。」とあることでやっと分かるくらいに、競馬場を指し示す情報は画面内に稀薄である。もっと広い画角のレンズがなかったからかも知れないが、この写真では、周辺の、競馬場とは関係ない事物がフレーミングによって切り捨てられたものと考えられる。

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*8 ただし、これはやや新聞に厳しすぎる見方である可能性もなくはない。仮に、国会構内に突入した人びとの顔が識別できる大きさで捉えられ、それが新聞に掲載されたなら、それらは、ジゼル・フロイントが「歴史上はじめて、写真が警察への通報者となった」と指摘する(『写真と社会』「報道写真」136頁)パリ・コミューンの参加者の写真と同じような役割を果たした可能性もなくはないのだから。日本に即して言えば、一九六八年一月に、佐世保への米空母エンタープライズ寄港阻止を掲げて博多駅に到着した学生を撮したニュース・フィルムが、検察当局によって証拠請求された例など、その現実化した一つの姿だったと言えるかも知れない。

*9 『日本現代写真史1945│1970』日本写真家協会編 平凡社、一九七七年

*10 濱谷浩『潜像残像』河出書房新社、一九七一年、193頁

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*11 ジゼル・フロイント/佐復秀樹訳『写真と社会 メディアのポリティーク』お茶の水書房、一九八六年、192頁

*12 前掲『日本列島』

*13 前掲『潜像残像』207~209頁

*14 前掲『潜像残像』209頁

*15 前掲『潜像残像』209頁

*16 前稿でも付記したように、濱谷さんには『孤峰富士』(「現代写真全集 日本の美 第十巻」集英社、一九七八年)という写真集がある。その「美」をめぐる問題については、本稿で触れる予定だったが、別の機会に廻さざるをえなくなった。

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*17 伊藤俊治『二十世紀写真史』筑摩書房、一九八八年、「四、風景の悲劇」166頁

*18 当時、科学雑誌(「自然」一九六四年九月)の新刊紹介では次のように評されていた。「(前略)今までも、日本列島を撮った写真集や航空写真集もあったのだが、体系的に、ある面では専門の地理学者のような眼で捉えたものは本書が初めてである。優れた写真家の作品を通じて、われわれは日本列島を居ながらにして眺め、見直すことができ、さらには日本人というものを考えなおさせてくれる。地理学への非専門家の貴重な貢献といえよう。また、いわゆる科学写真とは異なっているが、立派な科学写真となっていることに気づく。」(引用は、竹村嘉夫/豊田芳州『自然写真五〇年史 ネーチャーフォト一五〇〇冊の歩み』文一総合出版、一九九五年による)

*19 前掲『日本列島』

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*20 濱谷浩、写真集『雪国』毎日新聞社、一九五六年

*21 濱谷浩、写真集『裏日本』新潮社、一九五七年

*22 『日本写真史年表』講談社、一九七六年

*23 前掲『日本列島』

*24 飯沢耕太郎『写真美術館へようこそ』講談社現代新書、一九九六年、102頁

*25 ベネディクト・アンダーソン/白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体』「Ⅹ章 人口調査、地図、博物館」NTT出版、一九九七年、274頁

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*26 前掲『潜像残像』10頁

*27 前掲『潜像残像』41頁

*28 ミッシェル・フーコー/渡辺一民、佐々木明訳『言葉と物』新潮社、一九七四年、153~154頁。なお、フーコーの言うように、博物学において視覚が特権的な知覚として重用されることと、写真あるいは写真家との関係については、あらためて考えてみたい。

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*29 この時期、濱谷さんは実兄の写真評論家田中雅夫氏との対談で「一九六二年以後人間を撮るということがひじょうにむずかしくなった。そこでいちど転換しようと考えて、ぼくなりの科学的見方と理屈でもって、「日本列島」をやってみて一九六四年にそれが本になって、それ以後は理屈ぬきでやってみることにしたんだ。こんどの世界の自然をやってみたいというのは、その延長といえば延長だけど、やっぱりおもしろいじゃないですか、世界をやるってのは。」と語っている。(「濱谷浩・田中雅夫対談 写真家は語る・対談◆―氷河美しく孤独楽しく」「月刊日本カメラ」一九七四年一月号)

*30 濱谷浩『南極半島夏景色』朝日ソノラマ、一九七九年

*31 濱谷浩『濱谷浩写真集成 地の貌』岩波書店、一九八一年(全二巻のうちの一巻)

*32 濱谷浩、増補版『潜像残像 写真体験60年』筑摩書房、一九九一年、272~273頁