近代中国における日本イメージと日本研究の課題

孫 歌 中国社会科学院文学研究所研究員

――はじめに

 はじめに、私個人の研究履歴を一言だけ紹介させていただきますと、私は中国文学研究者として研究生活をスタートしました。しかし、研究をしているあいだに、中国文学を研究するために、どうしてもそのサークルを乗越えないと、中国文学というものが一体何なのかが見えないということを感じまして、方向転換してきました。この方向転換自体は、正式に別の専門訓練を受けるためにもう一度先生に従って勉強したのではなく、自分の必要に応じて、専門という枠を無視して自己教育をするというものでした。その意味で私は一種の「越境」者ともいえます。

 そういうやり方はマイナスとプラスの両面があります。プラスの面から言えば、いまの狭く専門分業化されている知の枠組の束縛から解放されて、専門分野から切り離された部分を問題にして、研究対象として取り扱うことができるようになりました。私がいまやっている研究はほとんどこのような性質を持っていると思います。それは、文学と思想史の交錯する部分だと言ってもいいと思います。実体化して言えば、たとえば、中国と日本という異文化の間に存在し交錯している部分でもあります。

今日は、佐治先生から指定されました「近代中国における日本のイメージ」というテーマについて、私はこの面から話をさせていただきたいと思います。

――日本イメージと日本嫌悪

 近代中国における日本イメージの形成という問題を扱う場合に、まず考えなければならないことが一つあります。それは、中国にしろ日本にしろ、一つの単純な存在として成り立つのか、ということです。これは非常に大きな問題で、ある意味ではずっと無視されてきた問題です。結論をさきに言えば、中国とか日本とかの前提が非常に複雑なものであり、自明なものとして見るのは非常に危険だと思います。それと同時に、簡単にこのような前提を解体することも同じく危ないことです。というのは、歴史的現実的に存在してきているこの「国」と「民族」の枠組は言説によって解体できないだけではなく、簡単に解体すること自体がこの枠組の問題性を隠蔽する可能性が大きいと思うからです。ここでは十分にこの問題を展開できませんが、これからの話のなかで「中国」と「日本」がキーワードになりますので、それを相対化する視角をあらかじめ強調しておきたいと思います。

 まず、二つの出来事についての話からはじめます。

 中国には、『中国青年報』というかなり影響力がある新聞があります。この新聞は政府の力を借りながらも、いろいろ工夫して自由な発言をしていますので、愛読者は相当に多いわけです。

 一九八六年に、この新聞がアンケート調査を行ないました。対象は大体二〇代から三〇代前半の若者で、調査のテーマは日本イメージに関するものです。その結果によれば、過半数の人たちは日本嫌悪という気持ちをはっきりと表明しました。その理由は、まず日本人という人種が野蛮な民族で、人を殺すのが好きで、戦争責任をとらないということでした。

 しかし、戦争の実態について、若者がどれだけ知っているか、といいますと、実は意外に知っていないわけです。年齢からも知識の上からも、そんな可能性をもっていません。

 すると一つの問題が出てきます。ほとんど情報不足の状況のなかで、なぜそういうふうに日本嫌悪を強く表明しているのでしょうか。

 それから一三年たって、もう一つの出来事がありました。今年の前半に、北京である新劇が上演されました。タイトルは「私の知っている日本兵」(「我認識的鬼子兵」)です。原作は日本でアルバイトをしながら勉強したある就学生が書いた小説で、それに基づいて、日本について何も知らない新劇の監督が戯曲を作って上演したわけです。私はそれを見に行って、びっくりしました。というのは、この芝居が明らかに日本不在の日本についての物語だったからです。

 なぜそう感じたかといいますと、登場人物はすべて老人か子どもで、日本社会から周縁化されている人とまだ社会人になっていない人たちばかりです。社会人として登場した人物は右翼のテロリストだけです。舞台の中心を占めている主人公は昔の日本兵で、大体三つのタイプに分かれます。一つは、自分の参加したあの罪悪的な戦争を反省しながら戦争反対運動をつづけているタイプで、もう一つは、罪悪を犯したのでいまでも苦しんでいるタイプで、そして三番目は、頑固な天皇主義者でいまでも戦争時の立場で中国に敵意を持っているタイプです。この三つのタイプはいずれも概念化された人物で、芸術の水準から見れば、明らかに失敗作と言えます。

 問題は、この監督の一連の作品のなかで、今回の芝居が一番成功したということです。毎回必ず猛烈な拍手を受けて、評判もよかったのです。そこで、どのような人びとが拍手しているかについて、調査してみました。わかったことは、二種類の人間が感動したらしいのです。一つは、年をとっている方々です。戦争時代にはまだ若かったのですが、その時代の体験をもっています。もう一つは、若い大学生です。この種の人びとは芝居を見る時に一番うるさいのですが、今回は意外にもうるさく言うどころか、かえって感動しているらしいのです。

 私はその拍手から、一三年の間に中国における日本イメージというものがほとんど変わっていないという事実を感じ取ったわけです。勿論、変化がまったくないわけではありません。例えば一三年前には、真正面から日本の戦争を問題としたり、日本人の中国に対する贖罪感覚などについて描写することはほとんどありませんでした。しかし、変化したとしても、それは概念化の位相で現われたものですし、日本イメージの中でそれほど重要な地位を占めていません。それよりむしろ、変化しないものに対して私は注目しております。

 変化していない日本イメージは何かといいますと、『中国青年報』のアンケート調査が示したようなもので、甘いものではありません。例えば、戦争責任を明確にしない、あるいは、経済的には先進国だけれど、経済動物であるだけで大きいものが見えないなど、マイナスのイメージなのです。例の新劇もむしろその基盤の上で作られたもので、日本嫌悪を再生産しているわけです。

――日本イメージの生成と日本理解の不在

 ところで、私がここで追究したいものは、この極めて無理解な、概念化されている日本イメージは、どういうルートでできてきたのか、という問題です。

 資料的にみれば、中国の日本研究および日本紹介というものは、一〇〇年以上の歴史があって、日本論はいろんな階層によって大量に書かれてきました。政治家で言えば、孫文を始めとして毛沢東、蒋介石、周恩来などはある意味ではかなり正確に日本論を書きましたし、もっと前の時代まで遡ってみますと、梁啓超[注1]、 康有為[注2] というような清末の重要な革命家、思想家はみな日本と深い関りをもっているわけです。

 そして、知識階層で言えば、中国の知識人の代表者である魯迅を始め、一連の文学者、学者たちはほとんど日本留学の経験を持っているわけです。それから、外国学のなかで日本学という学問も一番発展していると言えます。したがって日本について無理解になるはずがないのに、実は非常に無理解である。これは一体どういうことなのでしょうか。

 さきの新劇の例が示したように、中国人はこんな粗末な単純な日本イメージに対して、あれだけ感動できるのです。この一〇〇年来の日本に対する知的な、政治的な、民間的な交流の蓄積は一体、こうした感動とどう関係しているのでしょうか。

 この原因を追究するのは簡単な仕事ではありませんが、ここで一つのことだけを言いますと、日本についての理解の不在は、一つの大きなギャップから出て来たと考えられます。そのギャップというのは、政治家、政治活動家およびジャーナリストなどによって作られた日本の全体像と文人および思想家たちの作った具体的な日本像の間に存在しているものです。

 政治家たちの日本イメージは、基本的に日本を丸ごと一つのものとして扱っています。その典型例として孫文の「大アジア主義」が挙げられます。なかには戴季陶[注3] の日本論のような具体的個人的にみているものもありますが、全体としては、単一像でとらえる方向はほとんど変わりません。日本というものは一つの全体として、まず政治家たちの言説によって定着したわけです。

 では、その丸ごと一つのものという認識に対して、いわゆる知識人たちはどのような方向で動いていたのか。それを分析すると、なかなかおもしろい現象がわかります。例えば、梁啓超は日本に来まして、日本語は三カ月で卒業できると宣言しました。漢文のお蔭と梁氏の才能は否定しませんが、それと同時に、彼にとって日本という国は一つの窓口にすぎず、根本的には自分の関心の対象にはなっていませんでした。むしろ日本経由で西洋を見るわけです。このタイプの知識人は、来日した知識人のなかで圧倒的な多数派で、彼等は日本語がかなり上手に使えますが、日本に対してほぼ無関心です。その代表が魯迅だと思います。

 そういう知識人たちは、日本研究、日本理解という、必要な空間を創りませんでした。むしろ、彼等は日本嫌悪というイメージを創出したわけです。魯迅の「藤野先生」という文章を読めば、非常にそれがよくわかります。それと関連して、例えば郁達夫[注4] の日本嫌悪のイメージや、かなりの間日本に留学した文学者たちが自分の文学作品のなかで再生産している同様の日本イメージは、その後の時代でも読まれています。このようにしてさきほどの日本イメージが再生されるパイプは用意されたわけです。

 しかしここで強調したいことは、魯迅の日本嫌悪は非常に特別なものです。彼はナショナリストではなくて、むしろ国境を越えること自体が彼の憧れでした。彼はそのような境を「学術」、「学問」と読んでいますが、その時代において、そのような可能性は一切存在しませんでしたので、彼は日本を批判しながら、中国の国民性の改造という仕事を自ら設定したわけです。ですから、魯迅の日本嫌悪と郁達夫の日本嫌悪は違うところがあります。それは民族国家に対する考え方の違いです。

 では、日本の理解者が存在しないのかというと、必ずしもそうではありません。周作人[注5]、陶晶孫[注6] は日本を共感をもって理解している人として、非常に質の高い日本理解者だと思います。しかし、これも逆説的なことですが、彼等は、その日本理解に関して中国人としての位置づけ、さらには、当時の日本と中国との関係のなかでの位置づけがうまくできていなかったので、その日本理解が力を発揮できませんでした。同時に、彼等は優れた感性でお茶や生花、自然への感覚などの日本を語っていますが、思想で日本に接近することができませんでした。ですから、既成の政治的な日本言説とインテリ的日本嫌悪に対して対抗する力をもっていませんでした。そして、いまも中国の日本学者は、相変わらずお茶、生花、桃太郎ばかりを語っています。

――日本研究の課題と視角

 以上の二種類の日本論は、二重構造として存在して、日本と中国の間に、常に絶対的な距離感を創出しております。日本理解が欠如していますので、ある空白がそのまま存在し続けています。こういう状況のなかで、生活感覚からは、日本理解は生まれるのが難しいのです。ですから文学作品を読むだけで、定着された日本イメージを解体することは不可能なのです。中国の日本学は、お茶や生花や桃太郎を語るばかりでは新しい日本像を作ることにはほとんど役に立ちません。

 この二重構造の間のギャップを埋めるために、まず日本における思想資源を発見し、中国に紹介しなければなりません。例えば、日本人はどのように西洋に対したのか、どのようにそこから近代を学びとったのか、日本人も苦痛や苦悩、矛盾や葛藤に満ちた道を歩んで来た、という事実を中国の知の世界に知らせる必要があります。私自身は、丸山真男研究、竹内好研究を通じてそれを試みていますが、それら知の資源の紹介をいかに社会的効果に転じさせるかは、極めて難しいことですが、少なくともさきに紹介したあの新劇のレベルを高めることは可能でしょう。

 以上の現状認識に基づいて、次の問題にも言及しなければなりません。中国と日本の間の関係はグローバルな世界に置かないと認識できないということです。ここで一つの例を挙げれば、いまの中国のなかで読まれている日本論は、日本人の手によるものよりも、アメリカ人の手によるものが多いのです。八〇年代にはルース・ベネディクトの「菊と刀」が流行っていました。それで日本のイメージが形作られ、われわれの視野に入って来たわけです。九〇年代には、例えば「徳川イデオロギー」、「徳川宗教」などが読まれまして、福沢の「文明論之概略」より注目されています。ある意味では、戦後中国の日本論は、アメリカ経由でできあがっているといってもいいほど、日本人自身の思考を無視しています。

 そこでわれわれは、日本イメージを論じるためにはむしろ中国におけるアメリカイメージを論じなければならないという問題にぶつかりました。なぜ中国人はあれほどアメリカの日本研究を信用しているのか。中国人の日本イメージに対して、アメリカイメージがどのような影響を持っているのか。ここで極めて対照的なイメージが見えます。中国人は日本に対して厳しい眼差しを向けていますけれども、アメリカに対しては非常に甘いのです。戦争から貿易まで、いろいろトラブルがあっても、かなりの中国人にとってアメリカは魅力的なものです。それは大国同士という潜在的な心理が動いていますし、それから西洋に対する憧れもまだ消えていません。仲間にしろ敵にしろ、日本は中国にとっての対等な相手になっていませんが、アメリカはなっています。

 大陸国家として、中国の精神風土は日本とかなり違います。アメリカと似ているとは言えませんが、国土の大きさから見れば、似ている面がないとは言えません。日本人もこのごろ単一民族の神話を解体しつつありますが、しかし、それにもかかわらず、日本国内の民族問題は中国の多民族問題と同じ位相で論じるのは難しいことです。ナショナリズムなどの問題もそうです。このような差異が研究者の視野から常に落とされてしまっているのは大問題だと思います。中国人がよくアメリカに自己投影し、日本に無関心なのは、偶然なことではありません。強者崇拝という心理だけではないと思います。

 このなかでもっとも解決しにくい問題は、「大」と「小」の差異の問題です。この皮膚の感覚は、違和感を生み出します。日本の学問の世界でこの「大」と「小」の問題を真正面から扱っている人は、私の読んでいる限り、六〇年代の梅棹忠夫でしたが、思想の世界ではほとんどこの問題を無視していると思います。これも検討すべき問題だと思います。

 中国人の日本イメージについて、研究はまだ展開されてはいませんが、この問題を追究することによって、今の「越境」のありかたに関する認識も正すことができると信じています。私個人もこれからこの問題を追究していきたいと思いますが、日本の研究者たちのお考えもぜひ伺いたいと思います。

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*1 梁啓超(一八七三〜九二九)清末・民国初年の思想家・政治家。康有為の弟子、変法運動をリード、戊戌政変後日本に亡命、一九一三年帰国。研究系を組織し、思想界に大きな影響を与え続けた。

*2 康有為(一八五八〜九二七)清末・民国初年の思想家・政治家。変法運動を指導、戊戌政変後一時国外に逃亡。辛亥革命後は孔教会会長となり孔子尊崇、共和制反対を主張し、進歩派と対立し続けた。

*3 戴季陶(一八九〇〜九四九)中国国民党の理論家。早くに日本に留学、中国革命同盟会に参加。辛亥革命後孫文の秘書となり、二四年国民党中央宣伝部長となる。孫文死去後は蒋介石のブレーンとなり、連ソ容共工農扶助の孫文の新三民主義に反対した。『日本論』は有名。

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*4 郁達夫(一八九六〜九四五)小説家。一九一三年日本に留学し、日本文学特に私小説に傾倒した。八高在学中の自らをモデルとした「沈淪」が代表作。青年の性の苦悶を赤裸々に描きセンセーションをまき起こした。太平洋戦争中東南アジアに逃亡、四五年九月スマトラで撤退する日本憲兵のため殺害された。

*5 周作人(一八八五〜九六七)散文作家。魯迅の次弟、一九〇六年〜一九一一年日本留学、帰国後北京大学教授となり、五四運動や文学研究会の理論的指導者となる。西欧文化とともに日本の古典文学、俳句短歌、武者小路実篤の「新しき村」運動などを紹介した。日本文化の最大の理解者として戦中、戦後「漢奸(売国奴)」と非難された。

*6 陶晶孫(一八九七〜九五二)作家、医師。一〇歳の時に来日、二三年間を日本で送った。九大で医学、東北大で物理学を学び、二九年に帰国、医師や研究所研究員として医学研究を続けながら短篇小説を書いた。四六年台湾へ、五〇年再来日し、五一年東大文学部講師に。死後『日本への遺書』が刊行された。