和光大学バローチスターン学術調査団◎

一九九九年度・調査報告

村山和之 人文学部非常勤講師

 九七年度に続き、文部省の助成金を得て八月一九日から約四〇日間の日程で、パキスタン・バローチスターン州内で調査を行なった。今年度は、これまでのクエッタとカラチを結ぶラインからはアプローチが難しく、未調査のままであったハーラーン地域、およびマクラーン海岸地帯の未踏査地に重点が置かれた。本稿では、まず調査隊全体が行なったフィールドワークの活動記録、続いて筆者が調査を分担することになった民俗文化・芸能分野の順に報告を進める。

1 ―― フィールドワークの概要

 バローチスターン調査といっても、直接現地に入ることは不可能で、まずはそのための面倒な手続き、準備などが待ち受けている。長期滞在許可を取るために警察の外人登録局へ出向き、申請書を書く。そして帰国時には同じ場所を訪れて出国許可証を取る必要がある。さらに現地の社会状況や調査に関連する情報収集はもちろんのこと、帰国後の研究のための文献資料・文物資料の収集とその後の発送作業などがあり、多忙である。後者は町でしかできない作業である。しかし、もっとも重要なのは、このようにしながら、徐々に体を現地のリズム、気候、食事、空気に慣らしていくことである。

 出発点となったカラチから、二隊に分かれ、一隊は北西辺境州の州都ペシャーワルから空路、一隊はインダス河畔の町サッカルからボーラーン峠経由で陸路クエッタへ入った。クエッタでは、なによりバローチスターン大学への訪問から始まる。昨年、南西アジア研究会の交流プログラムで紹介したバローチスターン研究センターが主たる目的である。初代局長には、長年私たちの調査隊に参加し、和光大での講演経験をもつサービル博士が就任されている。隣接する広い一室を附属博物館として、書物、道具、衣装、土器、コインなどを所狭しと展示している。残念ながらまだ未公開であるが、特別に見せていただいた。興味深い物が少なくないが、トゥルバットのミリー・カラート出土というササン朝ペルシアのシャープール二世銀貨も一枚あり、歴史を証言している。

ハーラーン Kharan

地図

 ハーラーンはクエッタの南西に位置するハーラーン県の中心である。通称「ピック・アップ」と呼ばれるダブル・キャビンのトラック二台に分乗して出発した(図1)。それぞれの車には、現地語のできる者、そして彼が運転手らから引き出した情報(伝承、地名、河川名など)を筆記する者、映像記録者が振り分けられる。ラク峠、途中の町ヌーシュキーまでは、一昨年の調査で訪れたが、その先は今回が初めてである。「道の状態は非常に悪く、大変な旅になる」との情報に覚悟を決め、肌寒いくらいの朝七時にホテルを発って臨んだのであるが、「期待」を裏切るように舗装されたばかりの道が続き、一二時半には町の入口に立つ門をくぐることができた。道は「期待はずれ」に終わったが、暑さは予想以上であった。とにかく、日陰にあってもさわるものすべてが熱く、身につけているものでも、体からいったん引き離すとすぐに熱くなっている。町に入ったらまず現地の行政長官を訪問する。大きな町以外ではホテルなどなく、政府機関が所有する「ゲストハウス」の借用と調査のために村々へ入り込む許可を得るためである。そして、我々には「護衛」がつくことになる。彼らは我々の監視役でもある。

 ハーラーンの町から南方へ向かいサラワン村、ミシュール川を経て、夏期は干上がってしまっているガロック川の大きな河床に到着した。この中洲は古墓群が占めている。墓という確証はないが、割石に覆われた小さな土丘がいくつもある。ほかに建築物らしきものも、プランを確認させるようなものもないことから、間違いないと思われる。高温と強い日差しのなか、灼けた石の広がる地表を見て歩いたが、ほんのわずかな土器片以外何も見つからなかった。ここから、川を挟んだ山側、ハルゴーク村のはずれの小高い丘上に同じ切石を使った町跡が見られた(図2)。その残骸となった石の広がりから、大きな町であったことがわかるが、年代を示すようなものはなにもなかった。ただ一点、青銅製の細い腕輪らしきものの入った土器壺を近くの村人が見せてくれた。この町跡の河岸に近いところからみつけたという。出発前に希望していた調査地の多くはあまりに遠く、道の状態・管轄など多くの問題があることがわかった。砦址を調査した後、予定より早く切り上げクエッタに戻った。途中、ノールーズ・カラートの城塞址を調査(図3)。砂埃で朝日の輪郭がくっきりみえたのが印象的であった。

パンジグール Panjgur

 カラチから空路入ったのであるが、途中ケーチ渓谷の塩沢地を眼下にしてしばらくすると、土色の山々の合間に強烈な緑色の塊が姿を現わし、我々の目的地がこの辺りでは豊かな土地であることがすぐにわかった。この緑は群生した不死の象徴ナツメヤシであった。「五つの墓」という名をもつこの町には、五つの見所(墓)がある。このうちの一つ、グワル・ゴーは町から遠く、草木のほとんどない山間に分け入ったところにあるだけでなく、管轄が町とは異なっていて山に分け入ることができるかどうかもはっきりしないこともあり、今回訪れることを断念した。この地の最後のマリク(一七世紀)が殺されたというネワンド河床に近いボダー・バーダーンにあるコーネーン・カラート(古城塞)址、古カレーズがいまも生きているラフシャーン川に近いイーサイェ・カラート址を巡った後、五墓の一つ、ミール・ムハンマド・アーシムのグンバトを調査した。グンバトとは正方形プランの建物の上にドームを載せた建物を指す。この建物はアラビア起源とも、ササン朝ペルシアの拝火神殿チャハール・タークの流れを汲むものともいわれている。ピール・ウマル廟の近くには泉が湧きだし、境内および付属建物の前庭に小碑文石版が一〇数点あった。サイアド・モハンマドの近くにはハジー・ガージーム墓もあった。シャー・カランダルのグンバト(図4)には南側に横穴が掘られ、中に石棺があった。北側壁面には浮彫のある方形石版がはめ込まれていたが、年代を特定するのは難しい。周辺には幾何学文などの浮彫装飾を施した石材が散乱していた。小さな砦址の近くにあったドラムカーンのグンバトでは、壁面内側に青色釉薬の皿がはめ込まれていたり、壁龕を設けて子どもの骨を安置していた。

 ここからトゥルバットへはゴーラーン峠、カーテグィ・チャライ峠などで山を越え、最後はケーチ川に沿って下る一〇時間のドライブであった。途中、チャイ(お茶)と食事のための二回の休憩に七〇分、車の故障修理に一時間を費やした。峠を越え、平地に至った途端の出来事であった。我々一号車の前方視界が急に横に流れ、路傍の一段低くなったところに飛び出していた。車を降りてみると、ハンドル指令をタイヤに伝える接続部のビスが折れ、右前輪だけが外側を向いていた。接合部をハンマーで叩いてビスを「固定」し、その上からゴムバンドで縛って修理完了。車は再び我々の命を載せて一〇〇キロのスピードで目的地へ向かった。旅慣れた我々も、さすがにこのときばかりは不安な気持ちでいた。故障が一〇分早く起きていたら、松枝、前田、村山の三人は谷底へ向けて死のダイビングをしていたところである。

トゥルバット Turbat

 ここは二年前にすでに調査済みだが、マクラーン管区を統べる行政長官への挨拶と協力の要請、この先調査に要する車と運転手の手配、情報の入手などのためにはずせない町である。かつては淡水のワニも棲息していたというケーチ河畔に位置し、ナツメヤシを茂らせる町である。アレクサンドロス大王が帰国の途中立ち寄ったという学者もいる。時間を見つけて、古代以来の城塞址ミリー・カラート、先史遺跡シャーヒー・トンプを再訪した。後者では、現在もフランス隊による発掘が続けられている。

 ここから海岸の町グワーダルまでは、沿岸山脈の山並みを横断する四時間半のドライブである。夏期には水を枯らしてしまう河床をいくつも越え、それぞれの名を記録しつつ、山脈に目を凝らして写真に収めながら進む。というのも、この辺りはアレクサンドロスの一隊が歩んだところであるが、どこを通ったかいまだ特定されていないため、アリアノスの「夜中に降った雨による大水で、多くのものが流された」「柔らかな雪の中に踏み込んだように体がめり込む砂の丘」[注1] という記述に当てはまるような景観・地形を求めていたからである。スーラーブ・コールの河床を越えてしばらく進むと巨大なダシュト(荒れ地)が現われ、ビーリーチャーブ村まで続いていた。ナリント村を過ぎると、今度は粘土の山が浸食されて作りだされた迷路の中を、パウダー粘土をまきあげ、タイヤをとられながら進んだ。「迷路」の終わりには泉もあった。これを越えると砂地の彼方に海がみえ、前方には島のような「山」がいくつかみえてくる。その姿はとても印象的で、忘れ得ない形を見せていた。

グワーダル Gwadar

 周囲の切り立った島状の台地が海中に張り出した岬の付け根に広がるこの町は、海抜の低い港町である。[注2] ここではまず、一昨年の調査に引き続き、この印象的な岬のアラビア海側の付け根のところにある「隠遁所」の採寸を行なった(図5)。この隠遁所は、主室とそれより一段下がった側室があり、さらにそこから一段下がったところに、外へ抜ける通路がつけられていた。通路といっても、天井は腰をかがめなければ通れないほど低く、幅も体の二倍程度である。側室、通路ともにほとんど光のない真っ暗な状態で、調査は手持ちの小さなライトの光の中で行なわれた。巻き尺で測る者、それをノートに記録する者、彼らの手元をライトで照らす者、そのような状況と調査対象物を写真やビデオに記録する者、に作業は分担された。

 この隠遁所と反対側の付け根の所には墓地が広がっており、その一角にグンバトがある。前回に続いて調査したのであるが、ドームの内側頂部に蓮華の装飾があり、内部の龕や外壁にもインド的な装飾が見られた。また今回の調査で、同墓地内に二つの古い墓廟が確認された(図6)。この先のジーワーニーでも、同様の遺構に出合うことになった。

 さらに、岬には航海安全と関わりをもつフワージャ・ヒズルの廟が必ずといってよいほど存在する。この町も例外ではなく、この墓地に近い海岸に旧新の二廟あった。

ジーワーニー Jiwani

 グワーダルからさらにイランとの国境に近い町ジーワーニーへ向かった。砂浜を快走してから内陸に入り、アクラ川沿いに進んだ後、ピーシュカーン村に寄った。オマーン統治時代の砦の下でしばし港を眺めてからガンズへ向けて発った。ガンズでは港を見た後、学校の一室でアマチュア音楽家の演奏を聴いた。木片と漁網で囲われた質素な家々が印象に残った。

 ジーワーニーには波の静かなよい入江があり、漁をする小舟が数多く浮かんでいた。この町はとりわけ夕陽の美しいことで有名であり、ゲストハウスは最高の位置に建っていたが、最後の輝きは厚い雲に覆い隠されて見ることができなかった。翌日、パーナワン地区にあるアディーラ古墓地の段状になった丘陵の上に立つ遺構を調査した(図7)。この入口の作り方は上述したグワーダルのものとほぼ同じである。グワーダルへの帰路はバッレリ村経由の内陸路をとった。グワーダル空港の手前二〇分ほどの所に、わりと立派なナゴール・シャリーフの聖者廟があり、調査のため立ち寄った(図8)

パスニー[注3] Pasni

 グワーダルからパスニーへは、九七年度同様内陸路をとったのであるが、以前の道とは一部異なっていた。これまででもっとも人気を感じない道である。パスニーを再訪したのは、町の東南東約四〇キロに浮かぶハフトラール島へ渡るのが目的であった。[注4] マクラーン管区内では、九六年度に調査したヒングラージに次ぐヒンドゥー教の聖地であり、七つの巡礼所があるといわれている。既に九八年に中村・村山の両隊員が予備調査しているが、今年はそれに次ぐものであった。パスニーの港で漁船を二艘借り上げ、隊を二班に分けて分乗した。いつものように、不慮の事故・故障に対処するためである。途中クラゲの大群を眼下にし、ウミヘビを目撃しながら三時間半ほどすると、前方に、周囲が切り立ち、上が平らな「ニンフの寝床」[注5] と呼ばれるにふさわしい島影がみえてきた。それから三〇分ほどして島に近づいたところで島を一周し、島の姿を写真に収めた。この島は東西に細長く、「外海」にあたる南側は、波のうねりが大きく、岩壁にあたってしぶきをあげていた。北側(陸地側)は波も穏やかで、漁船が多く、ウミガメの姿や魚影も目にすることができた。わずかながら砂浜も二カ所あって、上陸できるのはこちら側である。漁船から小舟に乗り換え、さらに最後は腿まで水に浸かって東側の砂浜に上陸した。上陸するとすぐに垂直に近い登りが待っていた。途中、カーリー女神を祀る洞穴を撮影して、上に登った。そこにはヒングラージ女神寺院、聖者シャハバーズ・カランダルの御座所などの巡礼所があるが、いずれの石積みもほとんど崩壊していた。毒蛇の棲む穴が無数口を開けたこの台地上を注意深く西端まで行き、もう一つの砂浜におりた(図9)。その外れには、フワージャ・ヒズル廟がある。かつてプリニウスが「すべての動物は例外なく死ぬ」[注6] と記した島であったが、全員無事帰りつくことができた。

 ほかに、古バザール址に並んだグンバト、フワージャ・ヒズル廟などの調査を行なった。

オールマーラ Ormara

 パスニーからさらに約一九〇㎞東へ向かうとオールマーラに至る。海岸に近いところを四時間半ほど車を走らせたが、比較的楽であった。この町もグワーダルと同じように巨大な台地が海に突き出した岬の付け根にあり、アレクサンドロスと分岐した艦隊が立ち寄ったバギサラ[注7] だと考えられている町である。ゲストハウスの前に広がる墓地で、浮彫装飾をもつ墓や墓碑、墓の構造などの調査をした(図10)。なかには、おそらく死者の再生などと関係があると思われる、貝殻を敷き詰めた墓もあった。また一隅には、死者との別れの儀式を行なう祭殿も建っている。

 八角堂の聖者廟ゴース・パーク、ボゾルグ・ネーク・ヌール・モハンマド廟、ダーター・ファリード廟、ダーター・シャカルガンジ廟、フワージャ・ヒズル廟などの調査を行なった。

 この町から、もう一行程東へ行けば、ヒングラージの入口にあたるヒンゴールに至るのであるが、オールマーラより先の道の状態はさらに悪く、また時間的制約もあり断念せざるを得なかった。ここから、空路カラチに戻り、帰国の途に着いた。

 九七年度同様、海岸地帯の調査を通してもっとも困ったのは、停電が多く、長いということである。グワーダルで電気がきたのは、三日でわずか八時間だけであった。撮影機材の充電、フィールドノートの整理、睡眠に必要な扇風機などすべてが止まってしまうのである。夜中に停電があると、涼を求めてどの部屋からも一斉に人が飛び出してきたことが思い出される。

 いつもそうであるが、今年度もまた、和光大学の支援は言うまでもなく、現地に生きる多くの人びとの心暖かい協力に支えられて調査を行なうことができた。また、限られた期間ではあったが、学生諸君が自主参加してくれたことで、多くの点で助けられ、また励みともなった。写真・ビデオといった映像資料、各地で録った音源資料、フィールドノートに書き込まれた情報など膨大な量の資料整理が我々を待ち受けており、報告書としてまとめるにはまだかなりの時間を要するが、将来これらの資料は本学の大きな財産となろう。

2 ―― 民俗芸能調査から

 パキスタン全土から見ても、バローチ人の住むマクラーン海岸地方は遠く異郷の世界であり、民俗芸能もまた然りである。

 三年の間活動したバローチスターン調査グループとしては、民俗芸能についても『東西南北1998』に小報告を寄稿しているが、最終年度の調査を終えたいま、先年度では見られなかった新しい知見について、書き添えておく必要性を感じる。

 九七年度当時、それらに初めて接して、驚きと同時に感動させてくれた音楽・舞踊パフォーマンスの数々だったが、九八年は私的に、九九年に調査グループとして調査地に赴き、二度三度と記録していくうちに、一観衆として、また記録に携わる者として筆者側の視点および作業方法も少しずつ変わってきた。

 まずは、土地の言葉に慣れてくるとパフォーマンスの演じ手自身の生活誌に興味を抱くようになり、それにつれ当方のフットワークが拡がったこと。具体的には、パフォーマンスを成立させる社会共同体のなかでパフォーマーの出自、経済生活、雇い主との関係その他の情報を、限られた時間内でできるだけたくさん集めることにつとめた。パフォーマーの住む家を案内人と共に訪ね「お座敷仕事」が生まれる現場に立ち会う。謝礼の金額が問題になるときもあれば、メンバー集めの時間や備品の購入代金が交渉の焦点になることもあり、お客が金持ちの日本人であることも、当然、彼らの隠語で囁かれていたはずである。

 自動車を使って往復三時間もかかる山中から楽師を招いたこともあったし、月明かりのみが波間を照らす漁村のはずれに庵を結ぶ歌手を、自ら呼びに行った経験も積むことができた。ただ、この作業には住み込み調査とそれに伴う言語習得が必要であり、入り口に立ったいま今後の課題となっている。

 次に、演目と民族の歴史は当然のことながら、特に宗教との関係性の有無、つまり地元の民衆宗教の背景を理解しなければいけないことに気がつく。

 先号で紹介した吟遊詩人たちのパフォーマンスのなかでも、民族的英雄叙事詩は重要なパートを占めているが、生死を賭けたイベント「いくさ」を謡った戦詩の分野は底辺が広い。同族間の諍いから、湾岸地域を侵略した大航海時代のポルトガル人と地元のバローチ人との戦いまで、ローカル色の強い、かつ史的価値を有するクロニクルの遺産を、吟遊詩人たちは民族のバラッドのなかに生かし続けている。

 演目と宗教性の関係は、マクラーン地方固有のシェイパルジャーやレーヴァー、そして隣州スィンドや湾岸諸国でも見られるマウリドなど、身体表現を伴った儀礼色の強い舞踊系パフォーマンスにおいて検証すべき余地がある。この場合、イスラーム神秘主義、聖者崇拝、民間信仰、湾岸アラブ、アフリカ東海岸との奴隷貿易等をキーワードとして念頭におくべきである。

 以上の着眼点を意識しながら今年度に観ることができた、マクラーン地方のパフォーマンス「レーヴァー」と、海岸地帯に特徴的な楽器についてふれてみたい。

レーヴァー (Leva)とは

 レーヴァーは、いまやマクラーン地方を代表するグループ・パフォーマンスの代名詞となった観がある。非パキスタン的な独特のリズムとダンスが売り物のエネルギッシュなパフォーマンスには、アフリカ的な血が混ざっているとしか言いようがない。実際、演手たちのなかには、アフリカ人種の特徴をもつものも少なくない。この演目は、この地方のなかでも社会階層の低い人びとによって担われていることから、誰でもが参加して楽しめるわけではない。主な活動は、祝事の余興やイスラマバードで開かれる恒例の郷土芸能祭出演などだそうだ。

 そもそもレーヴァーとはいかなる意味か、地元の人びとにも明確ではない。最も近いと仮定されるバローチー語の「レーバ(leba)」という語は「遊技、楽しみ、競技、ゲーム (play, game)」を表わし、ある意味で演技の実体と重なる点を指摘することはできる。けれども、パスニーとオールマーラで出会った、ともに「レーヴァー」という名のパフォーマンスが、一見して別形態のものであったことからも、この名称で一括されるレーヴァーの意味領域ははるかに広いと感じる。以下にパフォーマンスの印象を記す。

パスニーのレーヴァー

 パスニー在住の黒人系パキスタン人アブドゥル・レヘマンが率いるレーヴァーは、三パートからなる編成をもつ。

 まず、アンバーと呼ばれる役割を果たすのがグループの指揮者にして歌の主唱者であるアブドゥル・レヘマン自身(図11)。主旋律の歌い出しから、コーラスやダンスの指揮、ホラ貝を携え自ら自由に動き回りながらパフォーマンス全体を監督する。次にジャワービー。アンバーの歌に応えて返唱(ジャワーブ)するとともに、グループダンスと、場合によってはソロダンスをも担うグループのボディである。そして、欠かせないのがドーリキー、つまり太鼓奏者である。使用される二種類の樽型両面太鼓(三〇×六六センチ)は、それぞれティンブックとドールと呼ばれ、見かけから差異はうかがえないが奏法のみ異なる。ティンブックは桴で、ドールは素手で叩く。太鼓奏者の善し悪しがレーヴァーの評価を左右するとまでいわれる重要な動力源である。

 我々の目の前で始まったレーヴァーはアンバー一人、ジャワービー一二人、ドーリキー四人からなるグループであった。演じられる場所は、野外のテラスやグラウンドなど平らで広い場所がやりやすいので選ばれる。

 パフォーマンス開始時の配置は、川の字をイメージすればよい(図12参照)。真ん中にドーリキー、両端にジャワービーがお互いドーリキーに向き合うように、一列に並ぶ(図13)。アンバーが第一声を発し、ドーリキーの周囲を歌いながら歩き回る。ジャワービーとドーリキーの組み合わせは、すべてアンバーの指示によって交互に入れ替わる。最初ゆっくり始まった歌はダンスが激しさを増すとともに消え、火に油を注ぐような太鼓の猛打に、ジャワービーの中から一人また一人とドーリキーの前に踊り出しては、ダンスとドラムの一騎打ちに興じる。そして、約一〇分間で一曲が計算されたように終わる。我々は三曲披露してもらった(図14)

 演目から、アンバーの歌に宗教的な色彩は感じられなかった、歌の主題としては切ない別れの場面が多かったようだ。試みに、終演後にアンバーから教えていただいた歌詞を二篇ほど直訳のまま添える。言語はペルシア語とバローチー語の混交である、文法的には疑問点が残るが敢えて修正はしない。

一曲目  

shoma koja rafta,   shoma koja rafta, 
 君は何処へ去ったのか、君は何処へ去ったのか
 inja bishin doxtara, shoma koja rafta
 ここに居てくれ わが乙女、何処へと去ったのか
 juddi ay sonta,
 ジュッディー山の頂(のように気高い君)、
 tai  ka'gazi  lonta, 
 紙のように薄い(魅惑的な)唇の(君)
 jani Halima, bya wati kar pada bechar
 おお 愛しのハリーマよ、
 ここに来て そして見たまえ 君(愛の?)の仕業を

二曲目

 haiya mero,  haiya mero zabadi,
 メーロー(マリヤム)芳しき メーロー
 shahr-e-bombay a boro bya
 ボンベイヘ行くがいい、でも帰って来いよ

オールマーラのレーヴァー

 パスニーのレーヴァーとの違いは、まずグループの指揮者をアンバーとは呼ばず、以前紹介したトゥルバットのシェイパルジャーと類似してハリパ(カリフ=代理人)と呼ぶこと、さらにドーリキーの使う太鼓にアフリカ色の濃い縦型の大太鼓チャールパーディー(図15)が加わることである。オマーン風の衣装を身に纏った男性たちが、ハリパを先頭にドーリキーを中心に左回りに回転しながら歌い踊るパフォーマンスであった。印象からするとパスニーの方が洗練されているともいえるが、こちらの方が野趣あふれるパワフルなパフォーマンスであり、十分価値ある舞台であった(図16)。ここでも担い手は低賃金労働者たちである。

 舞台構成や楽器の配置などでは確かにシェイパルジャーと共通点はあるけれども、決定的な違いはハリパと太鼓の機能であるように思う。

 シェイパルジャーでは、ムグルマーンという極彩色の布で胴体全部を覆った縦型の太鼓が聖域の中心に据えられ、ハリパとドーリキーたちは聖なる場所からジャワービーたちを動かしている。ハリパは指導者であり、ジャワービーは弟子(ターリバーン、ムリード)であるという暗黙の境界がある以上、当然、ハリパが聖域からでて、踊りの列に加わることはない。一方、レーヴァーでは列の先頭でハリパはグループを指揮し、太鼓を中心とした聖別された領域の確認はできなかった。そのわけは、撮影している自分たちが入域を許可される範囲の指定がレーヴァーではなされなかったことによる。

 手でうたれるムグルマーンは聖なる太鼓であるが、レーヴァーで用いられたチャールパーディーは桴で叩かれ、その形状も縦型の太鼓であるという点を除いては、明らかにムグルマーンとは異なる。マクラーン地方で、チャールパーディーと呼ばれる太鼓は、すべて縦型の片面太鼓で台座部が四本足「チャール(四)パーディー(足の)」からなっている。この定義からいえば、ムグルマーンもチャールパーディー種に属し、固有の名称を持つ太鼓ということができよう。

 ただ、オールマーラの聖者廟を調査しているときに、すでに我々は、チャールパーディーそしてムガルマーンの両名称を持つ一個の太鼓を探し当てていた(図17)。その太鼓は、シェイパルジャーが崇める聖者バーバー・ファリード・シャカルガンジを祀る聖堂(ティカーナー)内に安置されていた。三五×一一〇㎝の大きさで、胴体は色布で覆い隠されていた。僅かに台座の部分だけがめくることを許され、布の下の胴体を見ることはできなかった(図18)。これを一年に一度の祭りの日に、アフリカ系住民たちが夜を徹して叩く。明らかに、聖なる太鼓の扱いを受けていたこの太鼓は、レーヴァーの舞台で使われていたものではない。

 ということは、我々が初めて目にしただけのことで、チャールパーディーの世界はもっと奥行きが深いのかもしれない。それでは、次にこの太鼓の各地における姿を見てみよう。

スカートをはいた太鼓の響くところ

 我々はすでに、チャールパーディー種の太鼓を見た記録として『東西南北1998』一四一頁に、トゥルバットのシェイパルジャーそしてベーラのムンガルマーニー・グループを、写真を添えて報告している。この太鼓は、調査地によって名称に多少のズレがあるがマクラーン海岸地帯では一つの語から訛りが生じたとも考えられる、ムンガルマーニー(ベーラ)、ムガルマーン(オールマーラ)、ムグルマーン(トゥルバット)等の名称が共通して使われている。オールマーラの場合はチャールパーディーが加わるが、他の地点では確認できていない。

 スィンド州のカラチでも、黒人系パキスタン人やヒンドゥーもたくさん集まるマンゴーピールという聖者の祭りへ向かう参詣団の先頭に、真っ赤な布を纏ったこの太鼓が運ばれ奏されていた。その場で名称は聞けなかったがムガルマーン、別称をダーダーだと後で聞いた。写真撮影の際に、聖域へ踏み込む礼儀として裸足になることを要求された。

 インド・グジャラート州カッチ地方のブジ市で行なった南西アジア研究会の調査で、旧城内のイスラーム教徒居住区の聖者廟に、同型の太鼓を偶然見つけた。バーワーゴルという黒人聖者の廟であるこの施設は、聖者自身が埋葬されているわけではないが、いわゆる拝み墓としてブジ周辺の信徒たちが訪れる。聖者の妹シャーブマーの墓も同じ境内にある。

 問題の太鼓はここでは「マーマー」と呼ばれる(図19)。この地で製作された訳ではなく、聖者のダルガー本墓があるラタンプルから四〇年前にもたらされたという。毎週木曜日の夜八時と一〇時には、ダマールと呼ばれる神秘舞踏の集会がこの施設で開かれ、マーマーに加えてノウバットと総称される両面太鼓も打ちならされる、と廟の管理人兼祭司であるパキール・ムハンマド・スィカンダル氏は語ってくれた。

 チャールパーディーを対象にした楽器調査や儀礼調査の報告は、現在のところ無いに等しい。けれども、黒人系住民たちにとって特殊な意味をもつと意識されているこの楽器を手がかりに、アラビア海の文化伝播問題を考えてみるのも興味深い主題となろう。インド亜大陸の波打ち際で人間、物品入り乱れて形成されてきた複数文化の生き証人に、今まさに宿題を手渡されたようなものだ。今後の展開は、アラブ、東アフリカへ視点を向けるか、西インドから作業にかかるか、いずれにしろ、バローチスターン周辺諸地域との関係性のなかで、各自のテーマをとらえなおす時期が来ていることを痛感させられた調査であった。

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*1 アリアノス『アレクサンドロス東征記』

*2 『東西南北1998』135頁、写真4参照

*3 同写真3

*4 この島については、『東西南北1998』136頁および写真2参照。本来写真7のはずであったが、写真2が欠落し、ここに紛れ込んでしまった。カラチへ戻る機中から撮影

*5 プリニウス『博物誌』VI.97

*6  同箇所

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*7 アリアノス『インド誌』26.2。トマシェクはオールマーラに比定している(大牟田章訳『アレクサンドロス東征記およびインド誌』東海大学出版、一九九六年、註131頁参照)