南西アジア研究会◎

インド調査報告

前田たつひこ 人文学部非常勤講師

 南西アジア研究会は、平成一一年度の研究活動の一環として、メンバーの前田たつひこ、村山和之の二名が、インド各所においてそれぞれの研究テーマに沿った資料収集・調査を実施した。

 ガンダーラ美術を専門とする前田は、同じ王朝下の美術という観点から、ウッタルプラデーシュ州のマトゥラーからの出土品調査を、南アジアの文化をフィールドとする村山はグジャラート州におけるヒンドゥー巡礼古道を辿りなおす作業をおこなった。本誌では、調査の概要とフィールドワークの成果を報告することとしたい。

1 ―― グジャラート調査

 本研究会は、インド調査のための準備会合を自主的に開きながら対象地域について文献資料の収集、読解作業を続けてきた。構成員は学内メンバーのほかに、南アジア研究を専攻する学内外の学部・大学院生が集い、またヒンドゥーの巡礼に詳しい中村忠男助教授(立命館大学)の参加・協力も得られたことから、積極的かつ有益な討議を持つことができた。

 今回の調査の目的は、インド西部に位置するグジャラート州最西端に、パキスタンを睨むように位置するコーテーシュワル寺院に至るかつての巡礼ルートを実際に歩いて、ルート上に点在する聖地を訪ねること。その作業によって、インド・パキスタン分離独立以前に機能していた、現パキスタン領内に位置するヒンドゥー巡礼地ヒングラージ[注1] へのアプローチが明らかとなり、パキスタン側から想定していたルートとの接合点が見えてくるであろうと期待される。またパキスタンでは明確にできなかった、ヒングラージ女神と類似するいくつかの土着的女神を同定する取材も重要な調査の一部である。まとめると以下の三点となる。

 一、グジャラート州カッチ地方のジェネラル・サーヴェイ

 二、同州に関連する文献資料の収集

 三、ヒングラージ女神信仰の広がり、およびパキスタンとの結びつきに関する調査。

 調査対象地であるグジャラート州カッチ地方は、パキスタンのスィンド州と大湿地帯(Rann)を挟んで曖昧な国境線を共有しており、両地域間の民族的・文化的な共通点は非常に多いため、パキスタン研究の視点から見ても、今後注目が必要となる土地である。一方で、両国の国境紛争の北部がカシミールであるとすれば、南部はこのカッチとなる。我々の訪問時期にパキスタン空軍の偵察機が国境上で撃墜されるという事件が起こり、軍によって行動が全面的に規制されるのではないかと危惧された事からも、常に政治的緊張をはらんだ地域であることは疑えない。(地図参照)

 住民の多くは、グジャラーティー語を母語とするグジャラート人のほか、スィンディー語カッチー方言を話すカッチ人(さまざまな部族をも含めて)その他からなる。近年この地方は、染織や民芸品の知られざる宝庫として注目を浴びたことから、内外の観光客が押し寄せ、部族民のあいだにも消費経済の影響からカルチャーショックがおこっているといえる。

 行政府のブジ市[注2](Bhuj)は、かつてのカッチ藩王国の都であった。一五四八年にラーオ・ケンガルジー一世によって首都として選ばれ一五九〇年にムガル王朝の治下におさめられてからは「スレイマン・ナガル」として知られた。都市自体は西のブジア丘要塞と東のハミルサラ湖のあいだに挟まれた、不規則な多角形の形態をしており、その周囲は高さ一〇メートルほどの城壁によって囲まれている。ムンバイとは毎日空路で結ばれているが、鉄道の直行便はない(図1)。

 この街を活動拠点に据え、四年来交流の続いているカッチ博物館員のウメーシュ・ジャディア氏(Umesh P. Jadia)の協力を得ながら、同地域に関する情報を収集し、基本的な人的ネットワークを構築する作業につとめた。

 加えて、フィールドワーク期間内は、従来のノート・写真・ビデオ・MDなどによる記録作業のほかに、携帯用パソコンに各自のノートやビデオから調査メモやデジタル映像を記録し、データの散逸を防ぐとともに、報告書作成を念頭に置いた準備を日課とした。

アハマダーバード(Ahmadabad)

 ブジに入域する前に、滞在したグジャラート州最大の都市アハマダーバードでは、今回の調査目的と直接の関わりは薄かったとはいえ、染織資料の宝庫であるキャリコ博物館、国際的に活躍するパフォーミングアーツの代表グループ「ダルパナ・アカデミー」、グジャラート大学民俗学博物館などを訪問し、各自の研究テーマに沿った観察そして情報交換をおこなった。また、大衆宗教画(バザールプリント)の資料収集につとめた。ちょうど、街角はヒンドゥーの祭りの準備で賑わっていたが、ラクダに跨った女神ダシャーマー(Dasha Ma)という我々にとって初めて聞くローカルな神格が主体であった。縁起本と小さな神像を資料として入手した。以上、アハマダーバードでの活動として書き添えておく。

ブジ(Bhuj)

 アハマダーバードからムンバイ始発の汽車に乗り、綿花畑と大干潟を飾る塩田を交互に眺めながら、終着駅ガーンディーダームでおり、タクシーを一時間ほど飛ばしてブジにつく。待ち合わせ予定の宿では、ジャディア氏が我々の到着を笑顔で迎えてくれた。荷をほどいてすぐ打ち合わせに入る。この街において調査対象となっていたカッチ博物館[注3] とシュリー・スワーミナーラヤン寺院[注4] を訪問後の具体的な計画を立てる。民俗音楽の記録やラバーリ族の村落訪問などのプログラムを組む。ところが、パキスタンとの国境周辺は、入域許可が得られないかも知れないという情報が入ってきた。そこは臨機応変に対応することとし、許可証が警察から得られなかった場合は、ブジ市内・近郊の訪問可能なポイントに作業を集中させる、OKが得られれば、巡礼古道を辿る旅に出るという方向で動き出す。

 結果的には、予定調査地のなかで、国境に最も近いコーテーシュワルとラクパトの二カ所については許可が得られず、ディノーダールとマーターノーマドゥ入域が可能となった。

ディノーダール(Dhinodar)

 ブジから北西に八〇キロ地点に位置するここでの主な関心は、ディノーダールの小高い丘(海抜三〇〇メートル)にあるというゴーラクナート派[注5] の僧院を訪れることにある。ゴーラクナート派は印パの分離以前にはヒングラージ巡礼と密接な関係を取り持っており、同派のサドゥーの解脱はヒングラージを訪れること、さらにそこで耳輪を入れる裂け目を耳につける儀礼によって遂げられたという。ディノーダールの僧院は西インドで最も重要なゴーラクナート派の僧院であるといわれており、そこにはヒングラージを訪れることのできない地元信者のために、二つのヒングラージ寺院が建立されているという。

 かつては丘の頂上に位置する寺院まで六三八段の階段を登らねばならなかったと古い記述にあるが、舗装道路こそあれ車両の通行はできないため、現在も徒歩で参詣しなくてはならない。実際に訪れたディノーダールでは、イスラーム風ドームを頂く主神殿と隣接する副祭室を調査した(図2、3)。

 この寺院はドーラムナートというゴーラクナート派の聖人が厳しい修行をおこなった場所を記念して建立されている。主神殿の内部には彼が一二年間逆立ちして苦行した際に、頭部を乗せていた石が収められている。このため石の表面には頭の窪みができているといい、表面はギー(油)とシンドゥール(朱)に覆われている。主神殿には巨大な耳輪をした聖人自身の大理石像が収められている。なお、寺院は東面。

 寺院の右手側に五神の祠があり、そのなかにヒングラージ女神も祀られていた(建立は一八二一年)。ここでは、今まで朱で塗られた自然石または宗教画で表現されたイメージしか知らなかった我々にとって、石で掘られた神像(ムールティー)としてのヒングラージ女神との最初の出会いが待っていた。これは新しい成果である。また、修行中のサドゥーとの対話から、当地においてのヒングラージ信仰の実態を聞くことができた。

 もう一つのヒングラージ寺院は、頂上の寺院から一時間ほど下ったところに位置するダラムサーラー(巡礼の宿坊)に認められるという情報は確認したのだが、ブジから日帰りの予定で訪れたため時間が許さず、やむなく訪問を断念せざるを得なかった。

マーターノーマドゥ(Mata-no-Madh)[注6]

 ここでの主な関心はカープリー派[注7] というこれまであまり聞いたことのない宗派に関して、ヒングラージ女神とアーシャープールナ女神に関する示唆的定義がえられないか否か確認することにある。この派の信者は「アーシャープールナ」という名前によってはっきりとヒングラージ女神を信仰しているという報告もあり、それが同じ女神であることが意識されていることになる。よって、同派の中心地であるマーターノーマドゥではヒングラージの「伝統的」かつ「地域的」な信仰形態が確認できるかもしれない。それが分かればバローチスターンにおける現行の巡礼形態がどれだけ革新によるものなのか推し量れるはずだ。

 この村はブジから真西に八〇キロ、ラクパトから四三キロ離れており、ちょうど今回の調査行の中間地点にあたる。ブジから一時間ほどで、すでに訪ねたディノーダールへと右折する道の分岐点ナカトラーナ(Nakhatrana)のバザールに入る。そこから一直線に西に向かって一時間半ほど直進を続けると、なだらかな丘陵に囲まれた村が見えてきて、旗を立て白大理石でできた大主神殿が二つ確認される。本道から左折すると、寺院へと向かう参道が始まり多くの参詣者が訪れていた。なかでも、独特の衣装で身を包んだラバーリ族の参詣者たちを見るにつけ、感慨ひとしおであった。彼らの氏神[注8](クルデーヴィー)は、ヒングラージであるという予備情報が再確認できたからだ(図4、5)。

 参道には、供物や記念品などを売る土産物屋が軒を連ね、参詣者めあての物乞いやゴーラクナート派の遊行芸人たちも見られ賑やかな小バザールを形成している。参道を挟んで手前にヒングラージ、奥にアーシャープラー寺院[注9] がある。アーシャープラー女神の寺院は一四世紀初頭に、二人のカープリー派の信者アジョーとアナゴルによって建立されたという。ただし、この寺院は一八一九年の地震によって倒壊し、一八二三年に再建されている。寺院に付設して、無料の宿坊があり、食事もふるまわれる。

 我々はまず、アーシャープラー寺院に詣でた。写真撮影に神経質なのは祭司ではなく、むしろ参詣者たちの方で、彼らの撮影に対する注意をそらすために、たびたび話しかけ時間稼ぎをした。ただ、我々の行為は違法ではなく、写真撮影禁止であるとどこにも何語による表示もなく、祭司や警備員の気分に左右されていたわけだ。本尊は赤く塗った自然石である。供物の椰子の実を割り、ひっきりなしに人びとが往来する(図6)。

 その裏手にあるのがヒングラージ寺院である。こちらでは、パキスタンにある本家本元のヒングラージに詣でたことを告げると歓迎され、祭司(プージャリー)から写真撮影が許可された。本尊は石像である(図7)。興味深いのは、バローチスターンで我々が詣でたヒングラージの本尊の写真を、巡礼本に掲載してあったことだ。彼らにとっては、パキスタンまで巡礼に行くことはまず不可能である。この一〇年間でインドから正式に巡礼に参加できた人は僅か三人である、とカラチの巡礼振興団長から伺った記憶が甦った。返礼に、我々の撮影したヒングラージの写真を送る約束を交わす。

 参詣者に、この二つの女神をヒングラージと同定して信仰するかどうか質問を投げかけたが、予想どおり、彼らの回答から我々が期待する統一見解を引き出すことは不可能であった。個人的には、ラバーリ族にこそ自らの氏神について尋ねたかったのであるが、残念ながらヒンディー語もグジャラーティー語も解さない人びとであり、寺院ですれ違う程度の時間ではとても「話し合う」レベルの接触はもてなかった。今後の大きな課題である。

 我々が寺院に張り付いていたとき、我らが運転手はこの地において面会すべき一人の人物を捜し当ててくれていた。ブジのジャディア氏から紹介されたアリー・モハンマド・ランガ氏である。彼は自宅の裏に位置するアーシャープラー寺院の礼拝音楽を司ってきた寺院付の楽師であるとともに、寺院のみならず藩王国時代のブジのマハーラーオ年代記をも語れるストーリー・テラーでもある。突然訪問した我々を、病床をおして面会してくれたホスピタリティーに感謝しながらも、二つの女神の相互関係やバローチスターンのヒングラージに至る巡礼路について質問を浴びせた。彼は一つ一つの質問に、最初ゆっくりとしかし徐々に熱がこもり、言葉をくり出してゆく。まさに、彼の語り芸が披露されたわけであるが、「語りの言語」に馴染みのない我々には、ヒンディー語であるとはいえ家族の若者による仲介通訳なしには、全く理解できない部分もあった。ビデオに収録した彼のパフォーマンスをテクストとして書き起こす作業がいまだに残された課題の一つでもある。

 以上のように、初めて実施したグジャラート調査は、二国間の政治的緊張から、当初我々が予定していた目的地の半数しか訪問できなかった点は残念である。けれども、今後の調査につながる人的ネットワークの構築や、現在もインド側内で続いているヒングラージ巡礼の実態を確認することができたことは、大きな成果といえよう。収集した資料の整理作業を継続しながら成果の公開と、情勢を見ながら次回のアプローチを再検討している。[注10]

2 ―― マトゥラー調査

 インドには仏像だけ取り上げても多数の博物館があり、その所蔵数は計り知れない。なかでもカルカッタ、首都ニュー・デリー、パンジャーブ州州都チャンディガルに質の高いガンダーラ美術の作品が数多く収められている。これらはかつて英領時代に発掘・発見され収蔵された物である。今回の調査目的地であるマトゥラー考古博物館にもガンダーラの作品がわずかにあり、これらの調査はもちろんであるが、主眼は町の近郊に点在する遺跡から出土した彫像類にある。一世紀初頭または中頃以降、北方からやってきたイラン系遊牧民王朝クシャン朝の下、ガンダーラとこのマトゥラーとで仏教美術がほとんど時の差なく花開いた。仏像の誕生、すなわち仏陀が初めて人の姿で表わされるようになったのもこのときである。その先陣争いに関してはガンダーラが優位なものの、マトゥラーを先と考える学者も多く、いまだ決着をみていない。お互いの影響がほとんど見られないだけでなく[注11]、ガンダーラが硬質な灰色片岩や黒光する片岩を用いているのに対し、マトゥラー作品は印象的なシクリ産の黄斑点赤砂岩を石材としていて、彫りの深浅とともにまったく異なったものである。しかし王朝の美術という視点に立てば、同じ文化圏の美術であり、比較検討は欠かせない。

 マトゥラーはインドの首都ニュー・デリーの南一四五キロ、タージマハルで有名なアーグラーの北六五キロのところ、ヤムナ川右岸に位置する町で、ヒンドゥー教と関わりが深く、インド七大聖都の一つである。周囲に非常に肥沃な平原を控えるこの町は『マハーバーラタ』に「マドゥ(Madhu)の創建になる」と記された古都で、仏教、ジャイナ教においても重要な地であるが、とりわけクリシュナ伝説と密接に結びついている。彼の誕生の地ヴリンダーヴァンは町のわずか上流(北方)にある。

クシャン王侯像

 当博物館の主な展示品はクシャン朝(一〜三世紀初頭)の彫像のほか、マウリヤ朝(前三二一〜一八五)とシュンガ朝(前一八五〜七二)、グプタ朝(三二〇〜五五〇)などの作品群である。とりわけ入口を入ってすぐのところ両側に並べられたクシャン王侯諸像が有名である。これらの彫像は上述のヴリンダーヴァンにほど近いマートの、おそらく祖霊を祀っていたと思われる「デーヴァクラ」と呼ばれたクシャン朝神殿址から出土したものである。この辺り一帯が古来聖地であったことを確認させる。

 展示されているのはクシャン朝第三代の王ウェーマ・カドフィセスの倚像(no.215)、その子カニシュカ一世の立像(no.213)ほか、クシャン歴代の王または王侯像などであるが、いずれも首がなく、顔がまったくわからないのは残念である。それでも、これらの彫像は大きな意味を持つ。ウェーマはライオンを左右に従えた玉座に坐す(図8、9)。これは西アジアから輸入した表現であるが、仏教美術にも取り入れられて、仏陀の台座にライオンを表わしたもの(獅子座)が出現する。[注12] アショーカ王の時代より、仏陀は具体的にライオンと同一視されており、[注13] うってつけの台座となった。またウェーマは、スルフ・コタル(アフガニスタン北西部)にあるクシャン王朝の神殿(ここではバゴラゴと呼ばれている)址から発見された浮彫でも同様の玉座に坐し、コインにも坐像が少なくない。仏像の誕生した時期として有力視されるのがこのウェーマの治世下であり、最初の仏陀像が「ウダヤナ(優填)王の造像」物語を表わしたガンダーラ作品に見られるような坐像であった可能性を示唆する作品である。

 カニシュカ一世はブーツを履き、厚手のコートを着て腰に長剣を吊し、大地に突き立てた棍棒に手を置いて正面向きに立つ(図10、11)。そのつま先を大きく開いた立ち方はとりわけ有名である。この威厳を圧倒的に感じさせる姿は、三世紀前半にクシャン朝を滅ぼしたササン朝ペルシアの王像に影響を与えたように思われる。クシャン王侯たちの着る厚いコートは体の線が透けて見えるような衣装をまとった仏陀や菩薩の表現とはまったく対照的である。クシャンの王侯が分厚いコートを着ていたことはスルフ・コタル出土の彫像やコインなどで確認されている。このことから、マトゥラーの彫像は着衣を忠実に表現しているのであり、仏菩薩の着衣が現在のクルターのように薄い生地でできていたことが示唆される。

 すなわち、衣下の肉体を強調しようとしたのではないと言うことである。カニシュカ一世は銅貨に弥勒菩薩(銘は弥勒仏)坐像、金貨に身光背をもつ仏陀立像を表わさせた王である。ガンダーラでは、「いまのところ」このように自然大のクシャン王侯彫像は見つかっていない。

太陽神スーリヤ像

 スーリヤ像もいくつかある。カンカーリー・ティラー出土のスーリヤ像(no.269、図12)は眉間にウールナー[注14] のある丸みがかった顔に髭を生やし、大きな貴石を飾った首飾りを着け、イラン系(イラン語系の言語を話す諸民族)のチュニックに身をくるみ、ズボン、ブーツを履く。頭に被りものをし、手にダイヤ型を繋いだ編み目模様のある棍棒(王杓?)を握って膝を折り、腰を深く落とした「しゃがみ」坐りをしている。もし棍棒を槍に換えて立ち上がったとすると、その姿はバーミヤーンの東大仏仏龕天井図にある太陽神とそっくりである。[注15] 被り物はマトゥラーのスーリヤ像に共通している。[注16] 足下正面には聖火壇、両脇にはそれぞれ一頭ずつの馬が彫られているが、光背部分は欠損している。これと同一図像の完品ともいえるヴリンダーヴァン出土のスーリヤ像を参考にすれば、おそらく円形の身光背があったであろう。また、カニシュカ像などが着る前開きの上着を着たもの、四頭の馬に牽かれた戦車に乗るもの、馬のないものがあるが、いずれも正面向きにしゃがみ坐りをしている。興味深いのはサプタサムドゥリ出土のスーリヤ像(no.D.46、図13)の光背である。紀要原稿[注17] を書いたときには気がつかなかったのであるが、この大きな円形光背の外周部に線による放光表現があり、これこそバーミヤーンの太陽神図のもつ太陽型身光背にもっとも近い表現である。ガンダーラにもスーリヤの表現はあるが、全体の作品数からいえばきわめて少数である。そのうちの多くが四頭馬に牽かれた戦車に乗る正面観のスーリヤで、単体のものはほとんどない。

 スーリヤはインドの古聖典ヴェーダに名の出てくる太陽神であり、すでにバージャーに四頭立て戦車に乗った側面観のスーリヤ浮彫はあるが、このように正面観で、しかもしゃがんだ姿で表わされるのはクシャンもしくはイラン系遊牧民の影響による。ウェーマのコインにも同様の坐り方で表わされた王の姿が見られる。カニシュカと第六代の王フヴィシュカはコインにクシャンの太陽神ミイロを刻出している。王権の象徴である円環(フワルナフ)を王に授けているのはこの神(ときに月神マオとともに)だけであり、スルフ・コタルでも太陽神を拝していた可能性がある。[注18] ミイロは、イランのミスラ(中世ペルシア語のミフル)、インドのミトラと太古において共通する太陽神であるが、スーリヤに対応する名の神は知られていない。またミイロを表わしたもので、スーリヤの坐り方をしたものは一つもない。

 [スーリヤの素性]

 スーリヤは『リグ・ヴェーダ』において「ミトラの威力もつ〔神〕よ」(1.50.11)「ミトラの眼」(1.115.1)などと呼ばれており、ミトラ―ミスラ―ミイロとは異なった太陽神である。また、スーリヤは自分の乗る戦車の車輪を、インドの神々の王であり、英雄神にしてその讃歌がじつに『リグ・ヴェーダ』のおよそ四分の一を占めるインドラに奪われたりもしている。さらに興味深いのは、『マハーバーラタ』におけるスーリヤのポジションである。

 この叙事詩における主役はインドにおける「インド人」の始祖ともいえるパーンダヴァ五兄弟である。長男のユディシュティラの父親はダルマ神、次男ビーマはワーユ神、三男アルジュナはインドラ神、末の双子ナクラとサハデーヴァはアシュヴィン双神であり、母親は上の三人がクンティー、双子がマードリーである。そして敵役はカウラヴァ家の一〇〇人の王子たちである。インド・アーリア族の聖数五に対するこの一〇〇という数字は、秩序に対する混沌や闇など「悪」や「敵」を象徴する数字であろう。彼らの父親ドリタラーシュトラが盲目であったことでも裏付けられよう。

 そして、問題はクンティーである。彼女は三兄弟を生む前に太陽神スーリヤと交わってカルナを生んでいた。その子は両家の戦いにおいて母親側ではなく、カウラヴァの陣営にいる。ここにも、ヴェーダ中のインドラ対スーリヤという構図が見える。もし、クンティーを地母神(=土地)的にとることが可能であれば、「初め、インドはスーリヤの土地であったが、インド・アーリア人によって奪われた」と言うことになろう。もしかすると、スーリヤは土着の太陽神であった可能性がある。

サプタリシー・ティラー出土女性像(no.F42)

 ここには、ガンダーラで制作され、マトゥラーで発見された彫像がいくつかあるが、なかでも興味深いのがこの片岩製丸彫りの女性像である(図14)。というのは、ガンダーラの彫像のほとんどは、仏塔や寺院を荘厳するために壁面に張り付けられていたことから丸彫りはなく、丸彫りにみえるような高浮彫になっていてこのような丸彫りは珍しいからである(図15)。したがって、おそらく仏教とは関係ないものであろう。実際、この女性像は同じ遺跡から発見されたライオンの柱頭にその名が見えるラージュヴァラ王の妃カムボジカーとも、サカ族の王女とも考えられているが、左肩に「彫像」の痕が見えることから、ガンダーラに多く見られるハーリティー像(鬼子母神)とする説が有力であろう(図16)。袖のあるブラウスの上に上着を着け、それを左肩のところ一点で結んで留めている。

 さらに腰には、踝近くまである布を巻きつけ、肩には、余り幅のないショールを少しずらし気味に掛けている。ガンダーラの菩薩の首飾りに似た豪華な首輪(トルク)と太く編まれた鎖の先に細工や貴石をあしらった首飾りで首を飾り、上腕部にも連珠の腕飾りをし、編冠をつけている。後ろから見ると(図17)、髪が肩に垂れているのが見えるが、長い後ろ髪は編まれ、花の装飾品の付いたビーズで束ねられて冠の下から垂らされている。

 この後ろ姿は、カラーシュの女性たちを思わせる(図18)。チトラールの南方、アフガニスタンとの国境に近い谷間深く住み、自分たちの古い宗教(諸現象を神としてあがめる)を保持し続けたために「カーフィル(異教徒)」と呼ばれている人たちである。かつてはアレクサンドロスが率いてきたギリシア人の末裔ではないかともいわれたが、最近では、彼らの双頭馬と戦士の神格をクシャンのコインに刻出されたマズドゥワノと比較する論考もある。[注19]

 また、マトゥラーの女性像(no.40.80, no.99、ブーテシュワル出土no.J.4、同no.11.151、イサープル出土no.10.99、シャーラバーンジカーno.IV27ほか)には、前髪上部を結って丸い髷にした髪型がよく見られる。この円盤形の髷はディガルガンジ出土のヤクシー像(前二〇〇年頃、パトナ博物館蔵)をはじめ、インドに古くから見られる髪型であるが、上述のカラーシュの女たちにも見られるだけでなく、中国の史書『旧唐書』の「康国」(巻一九八・列伝第一四八・西戎)の件には「その王、姓を温といい、月氏人である……婦人は丸い髷(盤髻)を結う」とある。「月氏人」の解釈は難しいが、中国史書においてクシャンが大月氏と呼ばれていたことを考えれば、クシャンあるいはクシャン系の女性たちも丸い髷を結っていたと考えられよう。

 パーリーヘーラー出土の王侯頭部(no.1566)、ヤムナ川中から発見された王侯頭部(no.2122)など丸彫りのものが多く、「背面」を観察することができる。また、マート出土の男性立像は上半身を欠損しているが、足下前面には太鼓腹の小人物、背面にはライオンを表わしており、表裏異なった図像となっている(図19、20)。このような彫像はこれが唯一ではない。

 今回は残念ながら出土地を訪れることができなかったが、博物館にある作品の石の質感、彫りの具合、図版では確認できない細部や背面をじっくりと調査することができた。マトゥラー作品が収蔵されているのはこの博物館だけではなく、ニュー・デリー博物館にも数多くの有名作品が収められている。今回の「成果」は紀要や授業のなかで少しずつ形にしていく予定である。


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*1 和光大学の調査グループは、平成八年度海外学術調査における文部省科学研究助成金の支援を受けたパキスタン・バローチスターン調査において、すでにヒングラージ訪問を果たしている。詳しくは、中村忠男「ヒングラージ巡礼とパキスタンのヒンドゥー共同体」『象徴図像研究』一一号、一九九七年を参照のこと。

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*2 ブジの説話的起源

かつてカッチ地方はナーガ族の豪族によって統治されてきた。ところが、シェーシャパッタナのサガイ女王はカッチ北部で挙兵し、ナーガの最後の支配者であるブジャンを打ち倒すためにベリヤ・クマールと同盟を組んだ。両者のあいだに激しい戦闘が繰り広げられ、最終的にはブジャンが勝利を収め、サガイ女王は自害して果てることになる。そして、この時以来ブジャンの住んでいた丘はブジアとして知られることになり、その麓の街もブジと呼ばれることになった。人びとは彼の力を崇拝し、彼は圧政者から善良な統治者へと姿を変えることになり、死後は神として崇められることになったのである。

以上、中村忠男作成の研究会資料より。

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*3 この博物館は一八七七年に有名な建築史家であり、ボンベイ州の行政官でもあったジェイムズ・ファーガソンによって設立されたもので、グジャラート州最古の博物館である。

*4 スワーミナーラヤンは一七八一年にウッタルプラデーシュ州のチャパイヤに生まれ、二一歳の時にグルとしての使命に身を投じた。彼はグジャラート州のサラングプールの近くにあるガダダという場所に居を構え、清貧や執着からの解脱、カースト制度の否定、ヴェーダの知識などを説いた。四九歳の時に、彼は六つの寺院を建立する計画を立て、階層化されたグルの制度を通じてヒンドゥー教を布教した。現在では三つの宗派に分かれている。いうまでもなく、この宗派の寺院はすでに我々もカラチのヒングラージ巡礼の出発地となった寺院としてよく知っている。

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*5 ハタ・ヨーガの創始者ゴーラクナートを信奉する教団。在世は九世紀や一三世紀など大きく離れた年代が伝えられている。

*6 アルファベット表記は地図に従うが、グジャラーティー語本来の発音は「マーターノーマル (Mata-no-Marh)」、カッチー語では「マータージョーマル (Mata-jo-Mar)」である。

*7 ヒンディー語で書かれた縁起本『Jay Asha-pura』17頁の記述によれば、ヒングラージ本尊である自然石が祀られている洞窟(実際は岩陰)から外へ出てきた巡礼者は「カープリー(kapri)」の名で呼ばれた、彼らはヒングラージーとも呼ばれた、とある。

*8 クルデーヴィー。Kul「家族」+devi「女神」

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*9 グジャラーティー語で書かれた表記に従い、アーシャープラー(aashaapuraa)とした。

*10 現地において自主的に加わってくれた学生諸氏と、巡礼調査の方法を指導して下さった事実上のリーダーである中村忠男氏の助力に対して、謝意を表わしたい。

*11 なかにはカニシュカ暦五一年の銘をもつAnyor出土の仏陀坐像(A.65)のように大衣を通肩にまとい、裾を台座にかける「懸裳座」表現があるなど、ガンダーラの影響を示す作品もある。カニシュカ暦起源年に関しては七八、一二八、一四四など諸説あるが、七八年起年暦がいまも北インドに「サカ暦」として生きており、七八年説は否定しがたいと思われる。

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*12 獅子座については、拙稿「獅子座」『世界美術大全集』東洋編一五〈中央アジア〉、小学館、一九九九年参照。

*13 アショーカ王が初転法輪(初説法)の地サールナートに建てた法勅柱の柱頭には四頭のライオンが背中合わせに表わされて、仏陀が四方に法を説く様が表現されている。

*14 ウールナーは漢訳仏典の白毫であるが、この訳語はウールナーの原義とは異なっていると思われるため使用しない。拙稿「三十二相」(『東洋美術史』美術出版社、二〇〇〇年、「中央アジアの美術」コラム)参照。この訳語の安易な使用は仏像誕生間もない頃の作品解釈・研究の門を閉ざすことになろう。

*15 拙稿「バーミヤーン東大仏仏龕天井図について」『和光大学人文学部紀要』三四号、一九九九年参照。

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*16 ダンダとピンガラを連れたチハタ・タフシル出土の片岩製スーリヤ像(no.1256)、戦車に乗るスーリヤ像(no.4016)では、ムフタ(宝冠)を被る。

*17 *15参照。

*18 拙稿「スルフ・コタルの宗教」『和光大学人文学部紀要』三二号、一九九七年

*19 藤原達也「双頭馬の騎手」『オリエント』第42巻 第1号一九九九年、29〜52頁