アジア研究フォーラム◎

旧ソ連中央アジア諸国の社会・政治・文化的状況

ラヴレンティー・ソン 映像作家

 まず和光大学とユ・ヒョヂョン先生に、カザフスタンと中央アジア諸国の現状についてお話をする機会を作って下さったことを感謝いたします。

 最初に申し上げておきたいことは、私はこの問題に関する専門家ではなく、一人の脚本家・映像作家であるということです。ですから、これからのお話は、私が、これらの国々の政治的・経済的状況、つまり新国家の発展の様子を直感的に評価しているものであることを予めご承知おきください。

 ロシア・シベリアの南の下腹の部分、中国の北西の国境から西の部分にイスラム世界に属する(旧ソ連の)五つの共和国が広がっています。カザフスタンと、キルギスタン、ウズベキスタン、タジキスタンとトルクメニスタンです。

――諸共和国の独立と民族間の相互関係

 ソ連崩壊と一九九一年一二月二一日のCIS=独立国家共同体創設条約への署名によって、これらの国々は自国の主権と独立を宣言しました。これは、単に自国の国歌、国章、国旗などを定めるだけではなく、今後個々の共和国は自国の内政や経済を独自に決定し、互いに干渉し合うことはないとするものでした。また政治的にも互いに完全に独立しているというものでした。

 しかしながら、経済的な独立というものは、ソ連時代を通じてこれらの国々が、生産関係で縛りつけられている状況の下では、言葉上のものでしかないことが、すぐに明らかになりました。この点については、カザフスタンのナザルバエフ大統領が強調していたのですが、当初はあまり関心が払われず、いまになって、ようやく暗黙の内に認められるようになったのです。しかし、いまも経済を通じた内政干渉を恐れているために、国家間の経済協力の可能性を追求するには、ほど遠い消極的なものにとどまっています。

 それでは、主権宣言と独立後の七年間にこれらの国々に何が起こったのでしょうか?

 まず民族間紛争が公然と発生しました。キルギスタンでは、(南西部の)オシ州で、地元のキルギス人とキルギス在住のウズベク人との間に衝突が起こりました。これは、地元当局が農業により熟達しているウズベク系の農民に土地利用の権利を多く与えようとしているという口実で挑発されました。キルギスの農村青年たちは失業状態にあり、不安は彼らの側から見れば当然でした。

 ここで、ニュース映画の一こまをご覧下さい。これはウズベキスタンにおけるメスへチ・トルコ人に起こった公然とした民族間紛争の有様です。このシーンはソ連崩壊の二年前に記録されたものですが、その後も紛争はこのような規模ではないにしろずっと続いたのです。

(記録映画『トルコ風の結婚式』[注1] からの抜粋ビデオ映写)

 一般的に、いかなる多民族国家の内政においても、最も複雑な問題は民族間の関係です。というのは、適切な時期に処理がなされないと、局部的な日常生活上のもめごとが、たちまち全国規模の民族衝突に発展しかねないからです。ところが、こうした衝突は、国内政治勢力の対立、または隣国との関係の悪化によって、上の方から引き起こされる場合もあります。

 これから触れるタジキスタンの情勢は、このような形で始まり、いまも続いているのです。国家権力をめぐって、レニナバド付近の北部勢力、公的に政権の座にある南部(ドゥシャンベ)勢力、それに親アフガニスタンの(イスラム原理主義)勢力という三つのグループが内戦を行ない、結果として居住していた少なからぬ他の民族を無政府主義的な火事の中に引きずり込みました。排外主義的なタジク人の政治は、ロシア人、ウズベク人、タタール人、朝鮮人、など他の民族の国内からの大量出国を引き起こしました。私は、実際にタジキスタンからの難民である朝鮮人の老婦人にインタビューしたこともあります。

 国内の治安は失われ、政府は事態を制御する力を失い、誰もが武装を固めて、他人の生命の尊厳については考えない風潮が一般化しました。こうしたタジキスタンの状況の中で、勇気ある学者としてよく知られた日本の秋野教授は殺害されたのです。[注2]

 (目下仕上げ中のソンシネマ・東京シネマ新社共同作品『校長先生』[注3] の一部を映写)

 民族間紛争がトルクメニスタンに存在するのか? という点について公式の報道機関は何も報道していません。そして情報という観点からするとトルクメニスタンは全く鎖国状態となっています。こういう状況では、一般的にその国内では不公正なことが行なわれている、と見るのが常識です。この国の天然ガス資源は極めて豊かで、(自国にガス田を持つ)ウズベキスタンを除く中央アジア諸国やウクライナは、トルクメニスタンの天然ガスを輸入することで大変な債務をトルクメニスタンに負っていました。また、この国の住民には天然ガスの利用は無料であり、税金の負担も非常に軽いということがよく知られています。

 しかし、一般庶民の生活は非常に厳しく、平均月収は、五米ドルに過ぎません。トルクメニスタン内部の政治生活の風潮は、近親者や友人との席ですら、(ニャゾフ)大統領に対する批判を口にすることは絶対の禁句であるということで、ご判断いただけると思います。私は、同業者である(トルクメニスタンの)映画関係の友人たちとの会話のなかで、ニャゾフ大統領に対する自分の考えを述べたところ、友人たちが次々と席を立って姿を消し、最後に残った同僚に、今後一切このような発言は控えて欲しいと懇願された経験があります。

 独立の初期には、カザフスタンでも民族間紛争は日常の個人的なもめごとにすぎませんでした。それはカザフ人とトルコ人、カザフ人とチェチェン人の間のものでした。かなり深刻で政治問題化したのは、カザフ人とウラル・コサックとの間の紛争からでした。しかし、カザフスタンのような多民族国家においては、民族間紛争はたとえ小さなものでも許容したり、見逃してはならないということを良く理解している(ナザルバエフ)大統領の努力で、問題は沈静化してきました。彼は問題の起こった地域に自ら赴いて、双方の長老たちを召集し、会合を持ってきました。起こった事件に関して彼らがどのような意見を持っているのかを、また将来的にどのようにしたら平和と双方の合意が得られるかを聞き出すことを続けてきました。

 ここには次のような特殊性があります。人口的に見て、カザフスタンでは先住のカザフ人が五〇%を占め、後の半分は共通語としてロシア語を使う一〇〇を越えるさまざまな民族であるという事情があります。もしも、算術的に互角な者の間に紛争が起こったら、双方に膨大な犠牲者を出した上に、勝者はいないといった結果をもたらすのは明らかです。幸い我が国の指導部は、冷静な頭脳を持ち、事態を良く理解し、兄弟殺しのような衝突による火事を絶対に燃え上がらせまいとしています。

 六年前、このようなことがありました。カザフ人とチェチェン人の青年たちの喧嘩が起こったとき、速やかに召集された長老たちの会議の席上、チェチェン人の側から、彼らの若者たちが、この地での和解を受け入れず、むしろ彼らの民族的な故郷であるチェチニアに立ち去ることを望んでいるという発言がありました。ナザルバエフ(大統領)は、長老たちに同意すると、直ちにチェチェン人の若者たちの家族のため客車二両を用意し、頭に血の上った連中を全て収容して一気に(チェチェン共和国の首都の)グロズヌイ市に向けて送り出しました。それ以来、このような衝突は(カザフスタン)共和国では、ぴたりと止まりました。この若い共和国の喉元を締めつけているのは、むしろ別の問題です。次に、その問題に触れましょう。

――経済、民族の移動と出国

 新興独立諸国家にとって最も困難な事は、政治的体制づくりではなく、経済構造の確立であることが次第に明らかになってきました。ソビエト政権から引き継いだ国家補助金に頼るという古い体質は、市場経済の法則を速やかに身につける際に妨げとなりました。拙速の結果として少なからぬ過ちが犯され、経済の問題は、いまもこれらの共和国をして、出口の見えぬ危機の水門に立たせています。

 つまり次のようなことが起こっているのです。資源的にはこれらの若い共和国は非常に豊かなのですが、その資源を加工する技術的基盤が自分たちにないのです。(ソビエト)帝国は、資源の採掘現場であるこの地域に必要な量の加工工場を造らなかったのです。諸工場はロシアに建設されたのです。そして主権と独立を宣言した若い諸国家は採掘し、加工しなければ(富と)ならない埋蔵資源とともに取り残される形になりました。

 どのような富があるのかといいますと、トルクメニスタンには膨大な天然ガスが埋蔵されています。すでにソビエト時代にその採掘と、パイプラインの建設は始まっていました。ガスパイプラインの建設なしには、この共和国のガスを外部に持ち出すことは困難ですから、それは納得のいくことです。隣接するカスピ海の海底には膨大な石油が埋蔵されていますが、目下は採掘が困難です。

 ウズベキスタンもまた天然ガスに恵まれ、その採掘とガスパイプライン建設はブレジネフ時代に始まりました。トルクメニスタンとウズベキスタンという二つの天然ガス生産国は運が良かったと言えましょう。またウズベキスタンは、金と綿花を産します。金の年間産出量は六〇トンといわれています。しかし、多くの専門家が出国してしまったため、技術力の低下が問題を引き起こしています。綿花もまた戦略的と言える価値ある原料です。現在、綿花は、収穫用のコンバインの老朽化による破損、新型機器の生産停止、修理部品の入手困難、製造工場の閉鎖などの原因により、収穫を手作業で行なっています。綿花収穫用のコンバインの製造工場は、なんとウクライナに建設されていたのですが、両国の経済的な結びつきは破壊され、このような破壊の結果、日常生活用品の生産も極度に低下しました。新しい通貨であるスムはインフレに見舞われ、カザフの新通貨、テンゲよりも激しい下落ぶりを見せています。

 経済的な思惑と政治的な不安定さという二つの理由から、最も有能な専門家たちが国を捨て始めました。政治的な不安定さは、この国においては地方的な派閥の力が非常に強く、タシケント、ブハラ、サマルカンドなど六つの地方閥が権力を競い合っていることに依ります。ウズベキスタンの大統領であるイスラム・カリーモフは、サマルカンド閥に属しています。最近の大統領暗殺未遂事件は、この共和国の政治的状況の緊張をはっきりと物語っています。カリーモフは、今後の治安強化のためにカザフスタン・ウズベキスタン国境を閉鎖し、厳重な管理のなか、なぜかウズベキスタン市民のみが通過を許されるという決定をしました。これでは、まるでカザフスタン市民が彼を襲ったと言わんばかりの態度です。ところで、(この暗殺未遂事件の)犯人はカザフスタン・ウズベキスタン両国の治安組織である国家保安委員会の共同作業で、カザフスタン(東部)のタルディ・クルガン市に潜伏しているところを逮捕されましたが、全員ウズベキスタン国籍でした。

 キルギスタンは小さな共和国ですが、産金国で、ウラン鉱石を産し、現在はカナダの企業が採掘を行なっています。

 カザフスタンは、石油、天然ガス、石炭、貴金属に加えて、魚類などの水産資源、そしてフルシチョフ期からブレジネフ期にかけて行なわれた広大な処女地開拓のおかげで農産物にも恵まれています。この地域は、かつては膨大な穀類の生産地でありました。

 研究者たちの予測によればカザフスタンの石油埋蔵量は、サウディアラビアとクエート両国のそれを合わせたものより多いとさえ言われています。これらは(西部の)カスピ海の海底と沿岸のマンギスタウ州に眠っています。その採掘には膨大な投資が必要ですが、先進国は必要な資金の投入にためらいを見せています。そしてすでに採掘された原油をヨーロッパ諸国や中国といった消費地に送り届けるのには大変な苦労があります。ヨーロッパ向けにカザフスタンの原油をパイプラインで送ることを引き受けているロシアは、カザフ原油はパラフィン含有量が多いという理由で輸送量を五〇%削減しました。この一方的な削減措置は、カザフスタンの国庫収入を強く圧迫することになりました。

 現在、カザフスタン原油を送りだすための二つの輸送路が検討されています。まず第一は、パイプラインでカスピ海の海底を横切って(アゼルバイジャンの)バクーに送り、そこからトルコを経由してヨーロッパに送ろうというものです。この計画も膨大な資金を必要とし、カスピ海の原油汚染を警戒する環境保護論者たちの激しい反対を受けています。第二の道はイランにパイプラインを引き、イランがカザフスタンから必要なだけの原油を受け取った後、ペルシャ湾に待機する中国のタンカーに引き渡すというものです。この計画は、中国側から熱烈な支持を得てパイプライン建設の高額な資金も中国が負担することになりました。このやり方の実現にも少なからぬ年月を要しますが、カザフスタンにとっては経済危機から脱出する方策が必要なのです。

 この春、カザフスタンの通貨テンゲは大暴落を経験しました。一日で一米ドルとのレートが八〇テンゲから一五〇テンゲにまで下落したのです。新通貨導入当時(一九九三年終わり)には一米ドルが四・五テンゲでした。政府がインフレ抑制のために行なったことは、社会福祉の出費を極端に削減し、労働者への賃金を一年間も遅配するというものでした。また、歳入に関しては企業と住民にとうてい受け入れられないくらいの増税を課すというものでした。結果として、生産における未払いはあたりまえのことになり、今度は税収が極端に減る結果を招いています。

 こうした困難に、人びとは、いまや国を捨てようとしています。出国を始めたのです。ユダヤ人はイスラエルへ、ドイツ人はドイツへ、トルコ人はトルコへ、ギリシャ人はギリシャへ、ロシア人はロシアへというように。しかも出国していくのは、生産企業の熟練労働者と有能な農民たちです。朝鮮人に関しては、大部分は(カザフスタン)共和国の内部で動いています。あるものは、より農業生産を効率的にできる良い土壌を求めて、またあるものは、商店を開いて商業活動に従事したり、朝鮮料理屋を営業するため都会に移住しています。しかしロシア、アメリカ、ドイツ、オーストラリアといった、外国への移住も増えています。カザフスタン独立の当初、モンゴル在住のカザフ人の大量帰還がありましたが、彼らの受け入れに対する我が国の不備に失望して、彼らの多くは再びモンゴルに戻ってしまいました。つい最近行なわれた人口センサスで、暗澹たる結果が判明しました。それは、この一〇年間に、カザフスタンの人口が一五〇万人も減って、一四五〇万になっているということでした。第二次世界大戦後におけるこのような悲惨な人口減少は、記録的な数字であります。

――国家語

 どの独立国家においても国家語はその基本的属性の一つであります。実際、それぞれの共和国は、国ごとに、国名に掲げている民族の言葉を国家語に定めました。トルクメニスタンはトルクメン語を、ウズベキスタンはウズベク語を、キルギスタンはキルギス語を、そしてカザフスタンはカザフ語を。しかし、このような制定は、これら若い国家に居住するざまざまな民族に否定的な感情を生み出しました。これは、これらの国々の指導部の思慮の浅さに起因しています。以下では、私の国であるカザフスタンに限って考えてみようと思いますが、国家語の問題に関する反響は、他の共和国にも共通して言えることです。

 カザフスタンにおける非カザフ系住民のいかなる代表たちも、国家語(国語)の制定に反対はしませんでした。しかしながら、日常生活や労働現場への国家語の強制的な導入は、さまざまな問題を引き起こし、解決もさまざまな理由から不可能なように見えます。

 まず、(国家語となった)地元の言葉を習得していない非カザフ系の高齢者、中年層の人びとにとっては、日常生活、社会サービス、生産現場などのすべてにおいて非常に居心地が悪くなりました。例えば、医師には国家言語を使えることが資格条件になりましたが、結局は患者にも同じ事が要求されることになったのです。しかしこれは、簡単な命令書、あるいは大統領令で容易に達成され得るものではありません。事態は他の分野でも同じでした。多くの優秀な専門家たちが国家言語を知らないという理由で自分の職場を明け渡さなくてはならなくなりました。当然の事ながら、これらの人びとは、この国を去っていきました。

 ソ連時代の国家言語はロシア語で、専門家なら一〇〇%の人びとがこれを使えたのです。しかしこれは、七〇年かかって達成した成果なのでした。どうして人びとに他の言語を瞬間的に覚えるなどということを要求できるのでしょうか? これは従来からの指導部のやり方とよく似ています。結果を考えずに、先ずやってみて、ああ何でこんな事をしてしまったんだと、後から考えてみるという愚行です。この問題は都市に生まれ、ロシア語で高等教育を受けた地元のカザフ人の専門家たちにも困難を引き起こしました。いくつかの州では、カザフ語とロシア語の併記を定められている場合でも「積極的」な指導部が愛国心を見せびらかそうと、業務上の文書にまで、カザフ語のみを使うといった動きを始めました。

 キルギスタンでは、アスカル・アカエフ大統領が真っ先に性急な国語の要求の危険性を理解し、ロシア語を使用するスラブ大学を創設するなどの対策を打ちだしました。これは緊張を弱めはしましたが、事態の解決には遠いものです。

 カザフスタンにおいては、ナザルバエフ大統領の断固とした意見表明とロシア語に対する多民族間の相互理解のための公式言語という資格の付与によって、人びとはようやく静かになりました。しかし、この決定は明らかに手遅れでした。この決定がなされて二カ月後になっても、民族的愛国主義を自己流に理解した学者たちが、カザフスタンにおける全テレビ放送の八〇%以上をカザフ語で行なうようにすべきだとする勧告文を大統領宛に送りました。この手紙を受け取った大統領は、これを社会に公開する一方で、学者たちには、辞書の発行、会話集、ビデオやオーディオカセットなどあらゆる手段を講じてカザフ語習得のもっとも速やかな方法を検討して欲しいとし、先般の有能な専門家を数多く失った誤りを繰り返してはならないという理性的な提案を行ないました。私はどの言語も尊敬されてしかるべきであり、大衆受けを狙った政策で、言語問題を弄んではならないと考えております。

――そして終わりに

 私の主観的な考えと評価は、中央アジアとカザフスタンの政治的、社会的、経済的状況をあまりに暗く描きすぎているかも知れません。私自身、若い国家にふりかかっているあまりに多くの困難に、辛い思いをしております。外部からの支援は不可欠であるとも思っています。しかしながら、我々の新国家建設への自助努力がなくては、支援などを得られるものでないことを知っています。格言に言われているではありませんか、未熟とは人間の本来的なものではないと。人間にとって若さは一時的なものであり、人間は歳をとりつつ、後に続く世代にとって暮らし良いように、賢く人生の問題を解決するようになっていくのだと。

 ご清聴、ありがとうございました。

通訳=岡田一男(映像作家、東京シネマ新社代表)

ラヴレンティー・ソン

映像作家、ソン・シネマ代表、カザフスタンのアルマティ在住

これは、一九九九年六月二五日に行なわれたアジア研究交流フォーラムでの講演の記録である。講演者のラヴレンティー・ソン氏やその創作活動については、和光大学総合文化研究所アジア研究・交流教員グループ『アジア研究』第一〇号(終刊号、一九九六年)所収の「記録映画『コリョサラム(高麗人)』――台本の翻訳と解説」を参照されたい(ユ・ヒョヂョン、以下の注も同じ)。

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*1 題名の通り、カザフスタンのメスク人=メスヘチ・トルコ人たちによる「トルコ風の結婚式」の模様を詳しく伝えながら、そこに集う人びとの姿や語りを中心にメスク人の歴史と現在、そしてそれらへの人びとのさまざまな思いを伝えるドキュメント。イスラム教徒のメスク人は、一九四四年に故郷のグルジアから中央アジア諸国に強制移住させられ、長年、民族としての生活を抑圧された。一九六八年に名誉回復されて以来、故郷への帰還を訴えてきているが、現地グルジアでの反対運動があるなかで、その夢はいまだ実現されていない。一九九六年(撮影は一九九二年)、ソン・シネマ制作。

*2 一九九八年七月二〇日、国連タジキスタン監視団(UNMOT)の一員として派遣されていた秋野豊政務官(前筑波大学助教授)が、イスラム原理主義者と見られる集団によって同僚の三人と共に射殺された。

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*3 ラヴレンティー・ソン氏が自らHi―8カメラを駆使してウズベキスタン共和国タシケント州中部チルチク地区にある旧集団農場ボルシェヴィークの初中等学校の校長を務める同胞、ミハイル・パブロヴィッチ・ユンを密着取材した最新作のドキュメント。新興独立国家ウズベキスタンで苦悩する少数民族出身の教育者とその周辺の人びとの姿を通して独立国家共同体(CIS)在住朝鮮人の現在を伝えている。