シンポジウム◎二つの世紀末と日本・アジア

ディスカッション

司会 ―― ユ ヒョヂョン 本学人間関係学部助教授

 佐治先生にかわりまして進行役を務めさせていただきます、本学の人間関係学科所属のユと申します。韓国の出身で、中国東北地方とロシア極東地方の民族関係を中心とした近現代史を勉強しております。

 これからの進行について少し紹介させていただきたいと思います。

 まず二人のコメンテーターに、先ほどの三人の方のご報告に対するコメントをいただきます。約一〇分から一五分ずつの時間を考えておりますが、その後三人の報告者に答えていただく時間を持ちたいと思います。

 その後、皆さんから書面で寄せられたご質問なりご意見をまとめて紹介させていただきまして、三人の報告者および二人のコメンテーターからまた発言をいただきます。そして時間が許せば、会場からのご発言の時間をもちたいと思います。

 それでは早速、コメンテーターのコメントをいただきたいと思います。

 最初に、中央大学経済学部教授で、本学兼任講師の姫田光義先生からコメントをいただきます。姫田先生は中国近現代史がご専門です。二番手は、先ほどから司会をしております佐治俊彦先生です。お二人には、特定の報告に限らず、三つの報告を通して、それぞれの立場および観点からコメントをいただきます。

 それではまず、姫田先生、よろしくお願いします。

コメンテーター ―― 姫田光義 中央大学教授・本学兼任講師

 ご紹介をいただきました姫田でございます。私は中国屋でございますので、三人の方々に対するコメンテーターとしては不適当な部分もございますが、この会場には日本ならびに朝鮮、韓国の専門家もいらっしゃいますので、そういう方々から後ほどまたご発言をいただくということで、中国屋の立場から若干のコメントをさせていただきたいと思います。

 それから、最後の伊藤先生のお話、大変おもしろうございましたけれども、これは佐治さんのほうにお任せして、私は原田先生、山村先生のお話にコメントさせていただきたいと思います。

 わかりやすくお話しくださってしまいますと、こちらとしてはそれ以上に何と言っていいかわからない部分がございます。特に現在でも大変微妙な問題になっているところをわかりやすく、そして大事なことは、実証的にお話しになった。現在いろいろ議論になっている日本の侵略の問題とか過去の問題を、実証性を伴わないで、わりに言いたい放題のことを言っている人びとが非常に多いという状況がありますので、きょうのお話はそういう意味でも大変貴重であったと私は思いました。

 お二人の先生のお話は、共通するところと違うところがありました。

 共通するところというのは、キーワードで申しますと、脱亜、大アジア主義、大東亜共栄圏という三つの言葉で集約されるかと思いますが、要するに一九世紀末から二〇世紀前半の日本の対外進出、あるいは侵略性といった問題を実態から分析なさったということです。

 相違性としては、原田先生は政治思想の面からお話をなさいましたし、山村先生は経済、企業という、非常に具体的な違いがありましたが、それぞれが大変おもしろい問題を含んでおりましたので、私はまず両先生に質問かたがた、若干の意見も述べたいと思います。

――「生命線」と大アジア主義をめぐって

 原田先生につきましては、たくさんございますけれども、禁欲いたしまして、まず第一に、山県演説にあります主権線と利益線の確保という問題に私は非常に関心があります。私の学生時代、一九六〇年安保がございまして、そのころもう原田先生は私たちが仰ぎ見る大先生でございました。そのとき非常に議論になったのは、日本の生命線という言葉で語られた防衛範囲でした。主権線と利益線の確保というのは、今日で言う生命線と一体どういう関係があるのでしょうか。内面的な論理や、あるいは領土的な範囲のもつ意味において継承性があるのでしょうか、ないのでしょうか。この点を一つお尋ねしたいと思います。

 二つ目は、大アジア主義のことをお話しくださいましたけれども、具体的な侵略への歩みのなかで、原田先生のお話では石原から大東亜共栄圏へ飛んでいくわけですが、石原の前に、これは山村先生からも指摘がございましたが、山本条太郎、森恪らとも関連する東方会議がありまして、そのなかで田中義一の上奏文というのがあったとされ、中国、台湾では侵略の最初のイメージ、構想だと言われております。これは実は真贋論争がありまして、台湾や中国の人たちは田中上奏文というのは絶対に本物だと。しかし日本の一部の学者のなかではこれは偽物だという議論がありますので、先生のご見解をお伺いしたいと思います。

 三つ目は、大アジア主義というのは思想ではないとおっしゃいました。これは卓見だと思います。しかし、それを思想として日本の大東亜共栄圏の構想のなかに位置づけよう、あるいはベールで包んでいこうという考え方がありまして、戦後、日中友好関係なんかで大変貢献しました平野義太郎という人が、大アジア主義を大東亜共栄圏の思想として語ったように思います。そして、平野さんが孫文の言葉を引用しながら議論を展開なさったことについて、その辺を一つお伺いしたいと思います。

 ほかにもいろいろございますけれども、時間の関係で省略します。

――買弁と日本の対応

 山村先生のお話に関しましても、非常にたくさん教えられるところがございました。

 私は一点だけに絞ってお話を伺いたいと思いますのは、買弁(コンプラドール)ということです。実は小さいことのようですが、これは中国の立場から見ますと大変大きな問題を含んでおりまして、中国と日本では違うと。それから、中国の買弁に対する日本と欧米の対応の仕方が違うというご指摘は大変おもしろうございました。

 中国では「買弁階級」という言葉を使いまして、官僚買弁階級というようにこれを大きくとらえております。そして、それは一つの階級として成立するだけの力と広がりというものを持っていたと説明しております。

 このようにまず大きくとらえた上で、細かく分けますと、第一に、日本人の買弁に対する見方というものは、非常に軽視したというか、蔑視したというふうに見えますが、逆に言うと、むしろ利益の対立する大きな勢力だと見ていたために、わざとそれを軽視するという立場をとったように思えます。現地の中国人の利益を上げさせない、日本人の独占的な大きな利益を獲得するためにこそ買弁を排除したと聞こえましたが、そのように理解してよろしいでしょうか。

 第二番目に、官僚買弁と私は紹介しましたけれども、これは一九四九年まで続く問題でして、結局日本は最後まで、こういう一つの政治勢力――経済勢力としてだけではなくて――政治勢力として形成されていったことについての理解が、企業家ならびに政治家も含めてなかったように感じられるのですが、そういうふうに考えてよろしいのでしょうか。

 第三に、「支那化」ということで、ご指摘のように日本人自身がどんどん現地に同化していくという積極性のようなものが当時あったように私も思います。しかし、買弁を排除しつつ、日本人自身が現地化していくということは、一見すごく立派なように見えますけれども、同時にそれは非常に排他的な面を持っています。一方で中国人の利益を排除しながら、他方で利用するときには完全に傀儡という形で提起する。満州国の場合はともかくとして、上海などの場合ですと、上海の傀儡政権をつくると同時に、日本の言うことをそのまま聞くような人間を育てていくという、非常に極端な政策をとるわけです。これは一体なぜなのか。

 一方で中国人の利益を抑え、買弁階級の利用を抑えながら、自分たちはどんどん現地化していく。それは一見すばらしいように見えるけれども、他方では、中国人を利用するときには完全に自分たちの言うままになる傀儡を使っていく。こういう考え方は現在も、一ぺんに現在に飛んでしまうとおかしいように思いますけれども、本日の主要なテーマからみますと、今日に至るまでの一〇〇年間の間に、そういう日本人の認識というのは変わったのか変わらなかったのかという問題を含んでいると思います。

 例えば益田孝の優等国と劣等国、あるいは侵略との一体性と言われましたけれども、現在も護送船団方式ということが問題になって、それが破産したとかしていないとかという議論がありますが、どうも今日の議論とつながっていく問題を山村先生は指摘されたように私は思いました。その点についてもご意見を伺いたいと思います。

 細かいことはもうこれ以上申しません。私の総体的な印象といたしましては、以上のようなご報告から、二〇世紀前半までの日中関係を軸としたアジア全体の像、あるいはアジアに対する日本人のイメージというものが非常にくっきりと浮かび上がってくるわけでございます。しかし、きょうのテーマであります「世紀末」という点から申しますと、原田先生、山村先生は、冒頭にお話がありましたような、現在との関係、一九世紀の末と現在と、そして二一世紀に向けての架け橋として両先生ともお話をなさったように私は思いましたが、とりわけ過去の歴史研究、そしてそれを現在の歴史教育のなかで語っていくこと、それはたぶん私たちの存在自体が二一世紀に向けて一つの架け橋であるということを示唆していると思います。

 過去、現在、未来につながっていくお話として、きょうのお話は大変有意義でありましたし、私は大変感動させられた面があるわけでございますけれども、さらに三人の先生方に過去の研究の上に立って、二一世紀へのメッセージをここで語っていただければ、このシンポジウムをよりいっそう意義あるものにできるように思います。

 以上、私の簡単なコメントを終わらせていただきます。

コメンテーター ―― 佐治俊彦 本学人文学部教授

 それでは引き続きまして、私のほうからコメントをさせていただきます。

 私は中国現代文学の研究者でありまして、きょうのようなテーマは私の専門とは実にかけ離れていまして、ほとんどコメントのしようがなくて、日本の華僑社会の問題について、伊藤先生の報告にだれかいいコメンテーターはいないかなといろいろ考えたんですが、いい人が見つからず、私が司会とコメンテーターの両方をやるしかないという、そういう苦しい立場に追い込まれてしまいました。

 ほとんどコメントすることはありませんが、伊藤先生のお話を中心にコメントをしたいと思います。我々、このシンポジウムを計画した母体は、総合文化研究所のなかの一九世紀末研究会というふうに略称しています研究会のメンバーが中心になっております。そのメンバーで長崎、京都、神戸などに調査旅行をしていますが、そのなかで日本の華僑社会、日本の唐人街というのを私のテーマにしようと二年ぐらい前に思いついたばかりなので、まだそのほうが話がしやすいかと思っています。

――アジア友好の可能性

 ただ、きょう、原田先生と山村先生のお話を聞きまして、それについてもちょっとお訊ねしたいことがありますので、それを先につけ加えさせていただきます。

 原田先生は、アジア主義と大アジア主義を区別するということを前提にして話されていたように思いますけれども、確かに孫文の「吾人の大アジア主義」というような考え方、あるいは宮崎滔天の中国革命主義などは侵略的な性質は持っていなくて、民族友好というか、アジアの解放という視点に立っていた。ところが、それ以降の日本の大アジア主義は、結局侵略の方向に展開していくしかなかった。そういう違いがあって、アジア主義と大アジア主義を区別されたのだと思いますが、孫文の大アジア主義などを見ていると、たぶんに日本に何か物をねだっているようなところもあって、それはいままでも中国のなかでも随分批判があったと思います。

 しかし、二一世紀を見据えて、アジアあるいはアジアのなかの日本ということを考えていくときに、本当に正しい意味でのアジア友好の思想としてのアジア主義というのが、少なくとも一〇〇年の経験では、プラスのものはまだ出てきていないと思いますが、それは可能なのかどうか、二一世紀に向けて、真のアジア主義というものがあり得るのかどうかということをちょっとお聞きしたいと思います。

 それから、山村先生のお話については、私は経済のことは全くわからないので、児戯に類する質問かもしれませんが、三井を中心とする日本の財閥系企業が政府と結びついて、結局侵略のお先棒を担いだ、侵略に加担していったということが、きょうの主たる論旨だったと思います。今の不況のなかで、日本の民衆は政府の景気対策がなっとらん、政府はもっとちゃんと景気対策に努力しろと言っているわけで、私もそういう気持ちが強いんですが、企業が正しい意味での海外進出というか、国際化していくなかで、侵略的でない、企業に対する国家の援助の仕方というふうな、理想的な姿というものがあり得るのかどうかをお聞きしたいと思います。

――華僑社会の活力と展望

 それから、伊藤先生への質問ですけれども、長崎の華僑社会はほとんど中国との関係を失って、幕末までに入ってきた人たちが細々とつないでいるという、そういうイメージが非常に強いんです。でも、彼らは一〇年の計画を立てて、長崎唐人街の復興ということをいま言い出して、少しずつ動き始めています。

 神戸の華僑街もやっと震災の痛手から立ち直って、「南京街」という商標を登録して、自分たちは南京街ブランドで二一世紀を切り開いていくんだと、若手は頑張っています。

 横浜中華街については、二〇世紀後半の世界的な奇跡というか、不況知らずの好況を続けているように思います。

 函館は華僑街は形成されなかったようですが、それぞれの華僑社会が目指す方向がだいぶ違っているように見えるなかで、横浜は特別元気がいいわけですけれども、その元気のよさのよってきたるところと、それ以外の長崎、神戸の華僑街の今後の可能性について、話し足りなかったところもあると思いますので、そのことをちょっとお聞きしたいと思います。

 それから、長崎や神戸の華僑社会を少し調べますと、宗教の問題、墓地の問題、そういうことが非常に大きな位置を占めているように思いますけれども、横浜中華街ではそういうことは問題になってこないのでしょうか。問題になっていないとすると、それは横浜華僑の活力の問題と何か関係があるような気がしますが、その点もお伺いしたいと思います。

 それから、新華僑、老華僑というふうに分けられましたけれども、その基準、老華僑は一四〇年の歴史を持つということは、幕末から明治の直後に入ってきた人たち、その何代後もやはり老華僑なのか。年齢による新旧の区別なのか。いつ住み着いたかということによる区別なのか。

 老華僑と新華僑の間で起こっているさまざまな軋轢はいま一番ビビッドな問題で、二一世紀の横浜中華街を考えたときに重要な指摘だと思いますけれども、先ほどはやや説明不足でしたので、どんなところが問題なのか、もう少しお聞きしたいと思います。

ディスカッション

司会 早速お三方に答えていただきますが、他に質問される方は質問用紙に書いて、立っている者に渡していただければと思います。

 三人の報告者には、いまお二人から出された質問以外に、ほかの二人の報告者の内容について何かご意見なりありましたら、あわせて発言していただきたいと思います。

 では、原田先生のほうからお願いします。

――主権線・利益線・生命線

原田 ただいまお二人のコメンテーターからコメントをいただきました。姫田先生からは三つ、私の報告についてご質問をいただいておりますので、まずその三つのご質問について簡単に私の考えを述べさせていただきます。

 第一番目の、山県有朋の演説のなかにある主権線・利益線の設定の考え方と、それから「生命線」、これは満州事変が開始されたときに日本のジャーナリズムが読者に対して強調した言葉ですが、その間の関係について、私は、山県の演説の主権線・利益線は、どちらかというと海外進出への非常に積極的な立場を示していると思います。それに対して、満州事変の段階で提起された「生命線」は、日本を非常に危機的な立場に置いて、それに対してはね返していくという力を期待する、そういう姿勢を強く持った呼びかけではなかったかと思います。もし中国東北、満州を中国に取り戻されてしまう、またはアメリカに取られてしまう、ソ連が入ってくるということになれば、日本の独立が危なくなるという危機意識をあおる、そのような形で「生命線」という言葉を使っていたのではないかと思います。

 「生命線」という言葉は一体だれが言い出したのか、まだわかりません。私もいくつか調べてみましたけれども、「生命線」を最初に言い出したのはだれなのかまだわかりませんが、恐らくジャーナリズムの間でも、その当時の青年将校といいますか、統制派の将校あたりのなかでもこういった言葉はすでにつくられていたのではないか。

 したがって、継承性はありますけれども、言葉の使い方が逆転しているというふうに見るべきではないかと判断します。

――東方会議と田中上奏文

原田 二番目の東方会議の問題について、私もこの東方会議については入れようかどうしようかと迷いながら、結局省いてしまったのですが、先ほど山村先生のお話の中に吉田茂が出てきて、やはり入れたほうがよかったのではないかと、ちょっと後悔いたしました。

 東方会議は一九二七年に開かれますが、そのなかで問題になったのは、先ほど姫田先生がご指摘になりました田中上奏文なるものの存在です。私も田中上奏文の日本文は見ておりません。中国文は二通りコピーを入手しました。その内容は二通りあって、趣旨はほぼ同じですが、同文ではありません。

 そして、奥付のところだったと思いますが、普通の本ですと不許複製、複製を許さずと書いてあるんですが、これはいくらでも複製してよろしいと書いてあって、恐らく宣伝文書としてかなり広く読まれたものではないかと思います。

 そして、よく言われているように、これは極東軍事裁判でも問題になりましたが、世界を支配しようと思えばアジアを支配しろ、アジアを支配しようと思えば、まず中国を支配しろ、中国を支配しようと思えば、満州、モンゴルを支配しろという問題提起があります。

 この問題提起の仕方は、石原莞爾の東亜連盟の問題提起と共通しております。石原莞爾が東亜連盟の問題提起をしたのは、「満州国」成立段階です。この東亜連盟は、彼の世界最終戦論に基づいております。

 石原莞爾の世界最終戦論が最終的にまとめられたのは四〇年か四一年ですが、二九年の段階で石原莞爾は世界の最終戦争は日本とアメリカとの間で戦われると述べています。日本が中国東北をめぐってソ連と戦い、ソ連を屈服させたのちにアメリカと戦う、これが最終戦争となる、というのが彼の立場です。そして、石原莞爾は、地球を無着陸で一周できる飛行機ができた段階で最終戦は始まると述べています。いまで言うと人工衛星ですね。そのような形で最終戦の時期を予測しております。このような石原莞爾の問題提起を見ていきますと、東方会議の影響は、世界最終戦論であるとか、東亜連盟にもつながっているということが考えられます。

――大アジア主義と孫文

原田 それから三番目は、平野義太郎さんの問題ですけれども、大アジア主義というのは、私もさっきちょっと申しましたけれども、どうも思想としてはまとめきれないものではないか。ところがいまのお話のように、平野義太郎さんは、戦争中、たぶん四〇年代の初めのころに、『大アジア主義思想の歴史的基盤』という著書を出されております。その問題提起のなかで平野さんは、明らかにこれを思想として位置づけることができるという見方をとっておられたように思います。

 平野さんは『馬城大井憲太郎伝』という非常に大きな伝記を書いておられます。馬城というのは大井憲太郎の雅号です。私がさっきご紹介した大井憲太郎の東洋自由党組織の趣旨という論説もこの大井憲太郎伝に載せられていたものですが、平野さんはかなり早い時期から、アジアの諸民族の解放、そしてそのための結合、連合という問題をとらえておられたように思います。

 ただ、この本を出されたときに、平野さんは「アジア主義」という言葉でこれを説明するよりも、明治以来使われてきた「大アジア主義」という言葉を自分の言葉として使われたのではないか。それが戦後になってからいろいろなところで誤解を生む結果になっていったと思いますけれども、平野さんの立場は、先ほど私が分類した立場から言えば、大アジア主義というよりも、むしろアジア主義を志向しておられたのでないかというふうに考えております。

 それから、佐治先生のご質問に関わる問題ですが、平野さんは孫文の立場をかなり重視しておられるように思いました。

 孫文の立場というのは、私も孫文がいつごろからどのような形でアジア主義ないしは大アジア主義にコミットしてきたのかという点について、いろいろと調べてみましたけれども、なかなかわかりません。きょうお配りしたレジュメの最後のところに参考文献として、趙軍という方の『大アジア主義と中国』という文献を挙げましたが、この文献のなかで初めてと言っていいと思うんですが、孫文の大アジア主義の思想的な推移がかなり細かくコミットされています。

 そこでわかってきたことは、孫文は最初から一つの確立した考え方を持っていたのではなくて、先ほどの山村先生のご報告にも出てきた森恪などは、孫文に対して、満州を四〇〇万円で売れとかいうような、実に露骨な交渉をしております。それから、どなたかの質問にもありますが、頭山満も同じような交渉をしております。要するに満州を買おうというわけです。中国革命を支援するから満州を売れというふうな交渉をしているわけですが、それに対して孫文は頭から拒否しておりません。最初の段階では、日本の援助に対しては何らかの代償を払わなければいけないだろうという立場を持っていたようです。

 しかし、一九一九年から二〇年の段階、五四運動のあたりから孫文の考え方は非常に変わってきます。もう日本で信頼できる人物は犬養毅と宮崎滔天ぐらいで、ほかの連中は信用できないという立場をとるようになっていったように思われます。そのあたりから孫文の大アジア主義はかなり固まったのではないか。

 大アジア主義の問題を思想の問題として扱っていいかどうかわからないという迷いも、どうも孫文のそういった立場の推移からも出てきたわけですけれども、これはまだ私にとってもこれからの課題ではないかと思っております。

 はたしてこれでお答えしたことになるかどうかわりませんが、とりあえずお答えいたしました。

――買弁と買弁排除

山村 私の問題提起に対するご質問ということで、姫田先生から大変難しい問題を出されました。日本の企業が買弁排除ということをかなり重要な経営戦略として打ち出して、そうした方向で発展していったということの意味は何なのか。それは現地資本の利益をほとんど認めないという形での進出ではないのか。それは戦前の買弁排除というものにとどまらないで、戦後、今日の日本の企業が進出していく際においても、現地の人びとや資本の存在、利益をほとんど保障しない形で進出をしているのではないか。戦前、戦後を貫通した形での日本的な海外進出方式として理解し得るのかという問題であろうかと、勝手にまとめてしまいました。もっと丁寧にお話しいただいたんですが、そういうふうに無理やりまとめて、若干の点をお話しすることにいたします。

 一つは、中国では買弁は買弁階級という形で存在していると理解されている。そうしたらその階級全体の利益を排除するということが、はたしてあり得たのかということにもなりますが、いわゆる買弁階級と言ったときの買弁と、三井物産が問題にした買弁とはやや違っていると思います。

 買弁階級というのは、広い意味で外国資本に従属する形で企業活動を行なっていく、あるいは広く経済活動を行なう存在として買弁階級と言っているのだろうと考えています。そうした中国の資本家階級の一要素としての存在は、ずっと続くわけです。

 これに対して、三井物産が最初に問題にした買弁というのは、もっと限定した商業組織、商業・貿易活動のなかでの特定の職業として買弁を問題にしていて、外国商人と中国在地の流通機構との間に立って商業や貿易をスムーズに行なう存在としての買弁を、三井物産は排除していっていると考えていいだろうと思います。

 先ほどはお話しできませんでしたが、貿易に携わる買弁自体を全面的に廃止したわけではありませんで、その後もずっと使っております。ただ、欧米資本がやっているのは、その人たちに経営の全般を任せてしまって、やり方についてあれこれ口出しをしたり、固有の商売の方式を押しつけたりはしないというやり方であるのに対し、日本の場合は、彼らを使うけれども、直接従業員として雇って、企業の統括の下で使うという形に転換していきます。買弁による請負制的なものから、直接雇う方式に使い方を切りかえている。そういう意味で排除しているわけです。

 もっと広い意味で、現地資本の利益を基本的に認めていかない、使うとしたら傀儡的に使うという、両極端性というか、その点では三井物産も余裕を持って現地資本の利益を保障するという形では使っていかないというのは、傾向としては戦前を通じて基本的に同じだったと思えます。

――日本方式の性格

山村 なお関連して、買弁排除を考える場合、二つの面があると思っています。

 一つは、中国で買弁を排除して経営を行なうというのは、商業の場合は特にそうですが、現地のシステムをある程度吸収するということをしないと、直接にはやっていけないので、それを部分的にでも吸収するという側面があるわけです。イギリスやほかのヨーロッパ諸国の場合は、それは最初からできないというように考えていますが、日本は、東アジアとりわけ中国において、在来的な商慣習や取引方法をある程度吸収できると考えていた。「同種同文」という言葉がありますが、日本人と中国人は同種同文なんだ、だからそういうことがやれるんだと考えていたのだろうと思います。

 もう一面は、それができると考えながら、実際にやっていったことは、同種同文だから取引方法などを理解できると言って、中国語を使うとか、在来的流通機構に対応するとか、「支那化」をやっているけれども、それらの方式を尊重しているのかというとそうではなくて、日本企業の業務部面では日本のシステムを押しつけている。買弁を排除して直接取引をする、あるいは中国人を使うけれども、その使い方は、彼らを自分たちのシステムで使う。それを直接押しつけていっています。在華紡などの工場においても、先ほどふれましたように、工場に張り紙をして、最初はストライキなどがありますが、かなり強引な形で押しつけていくわけです。

 それは今日でも、日本の企業は絶えず本社との連絡をとりながら経営管理し、毎日その日の報告を日本語で上げるという形で、現地の工場を日本の本社につなげていくわけです。その間に立つ人間は、やはり現地の人には任せられないからというので、日本人幹部がやっていく。あくまでも日本的なシステムで世界的なネットワークをつなげていくというのが、かなり多くやられている方法だろうと思います。最近では、世界企業化するなかでそういうことではやれなくなってくるという問題が起こってきていますが、これまでは、かなりそんな方向が多く見られたように思います。

 姫田先生がご指摘になった、こうした日本企業と現地資本との関係や買弁階級に対する認識という問題は、きわめて重要な問題なので、今後もう少し時間をかけて考えていきたいと思います。

 それから、佐治先生からのご質問で、正しい意味での相手国を侵害しない企業進出はありうるのかという問題ですが、これは最後にまたふれることにしまして、とりあえず私の話を終えたいと思います。十分な答えになっておりませんが、以上で終わりたいと思います。

――居留地貿易と買弁

伊藤 佐治先生からのコメントにお答えする前に、今の山村先生のお話に関連して、買弁の問題で一言申し上げたいと思います。

 三井物産が買弁の勢力を押さえつける、あるいは制限していくという、そういうことを行なっていった一つの大きな要因として、日本各地の居留地貿易での苦い経験があるのではないかと思います。資料的に追えるものでは、横浜では関東大震災の段階まで、買弁は外国商社におりました。横浜にも三井物産横浜支店がありまして、そこが外国商館と取引する場合も、商品を外国商社に売りに行くにしろ、倉庫に入れるにしろ、商品の重さをはかるにしろ、とにかく中国人の買弁を通さないと商売が成り立たないという、そういう日常レベルでの苦い経験があって、買弁というものを脅威、あるいは大きな足かせと感じるようになったのではないでしょうか。そして、逆に日本が海外に出ていったときの対応の背景に、一つの経験として居留地制度の問題があったのではないかと思います。

 ですから、華僑のことを考えると、逆にいろいろな面から日本の近代が見えてくると思います。

――横浜中華街の発展と宗教、組織

伊藤 佐治先生のコメントにちゃんとお答えできるかどうかですが、まず第一点目で、長崎、神戸、函館、ただし函館は中華街ということではなくて、中華会館という史跡がありますけれども、それぞれのなかで、横浜はいまどちらかというと元気に見えるが、その活気の源は何かという質問でした。

 横浜は一見元気に見えますが、実は九〇年代以降、バブルが崩壊してから年々お客さんが減っているという厳しい状況になっています。それでも一応繁栄を保っているのは、中華街のまわりの問題と、中華街自身の問題があると思います。

 一つは、横浜は観光地として東京に近いので、中華街にやって来る人たち、それを支える規模が長崎や神戸に比べると非常に大きいのではないか、ということです。また、一つ象徴的なのは、ディズニーランドができて中華街が発展しているんです。千葉のディズニーランドに行った人が、東京湾を横断する交通網が発達して、食べるときは中華街に来るということで、関東全域のなかの一つの名所になっています。そういう意味で首都圏というものが抱える経済力というのがあるのかなと思います。

 二つ目は、中華街のなかの問題ですが、いま、中華街で活躍していらっしゃる五〇代、六〇代のリーダーたちは非常にまちづくりに熱心で、それにある程度成功していると思います。中華街のなかで関帝廟が数年前に焼けてしまったのを、台湾系と大陸系が一緒になってつくったんですが、関帝廟という宗教的な拠点が観光の大きな名所にもなっています。

 そのほか、中華街に東西南北、その他いくつかの門をつくりまして、中華街のなかでの中華的な意味合いを深めている。それは言ってみれば生活とはちょっと切り離された、ある意味では観光的な、テーマパークみたいなものですけれども、中華街に行けば何か中国的なものを感じられるという、そのイメージを大きくつくるということに成功しているのではないかと思います。

 第二点の、宗教、墓地の問題ですが、これはフロアからの質問にもあったんですが、横浜華僑の宗教的な問題、信仰の問題はどうかということなんですが、実は私たち一般的な日本人が宗教的にあまり強烈な色を持っている人は少ないのと同様、どうも日本の華僑もそのような感じがいたします。華僑のなかには当然キリスト教の人もいますし、中華街の中には仏教教会というのもあります。ただ、彼らが年中行事のなかで熱心なのは関帝廟の祭り、関帝誕や清明節です。横浜華僑社会では、宗教対立となるような状況は見られないと思います。

 墓地については、山手に外国人墓地がありますが、それとは別に中国人墓地がございます。パンフレットを見ていただくと出ておりますが、そこで毎年四月五日に清明節というのを中華会館が主催いたしまして、横浜華僑の多くの方々が集まって祖先を祀る行事を行なっております。

 今、中華会館の話をしましたが、華僑の組織はどうなっているのかというご質問が出ましたが、横浜の中華街には二四の団体があります。それは商業的な意味合いのものと、同郷団体、隣組というようなものがあります。商業団体としては横浜中華街発展会協同組合と横浜華僑商工会があります。そのほかに華僑組織を全体的にまとめる台湾系の華僑総会と大陸の華僑総会の二つがあります。同郷団体としては、広東同郷会ですとか、福建同郷会など、いくつかございます。

 隣組と言いましたのは、中華街のなかに市場通りですとか、関帝廟通りですとか、通り通りの商店街の会のことです。

 そういういろいろな組織が二四団体ありまして、それを取りまとめるのが横浜中華街まちづくり協議会という団体で、そこがいろいろなことをやっております。

――老華僑と新華僑

伊藤 佐治先生の第三点目のコメントで、新華僑と老華僑の基準についてですが、明確な基準というのは難しくて、一応横浜の場合は戦前から日本にいる人たちを老華僑と呼ぶこともありますが、一九七九年の中国が改革開放政策をとった以降、世界各地に出ていった中国人を新華僑と呼ぶ場合が多いようです。年代の問題は、老華僑の子どもたち、今の若い人たちは新華僑と年齢的には変わらないという状況もあります。

 彼らの新旧の軋轢は何かといいますと、軋轢と言えるのかどうかわかりませんが、一つの例では、先ほど申しました同郷会には、横浜の福建同郷会とか、京浜三江公所と言われる団体があります。これは中国の浙江省、江蘇省、江西省という、「江」がつく出身地の人たちが中心として集まる会ですが、そこももう一〇〇年ぐらい前からありまして、京浜三江公所、福建同郷会には、今、近年来日したいわゆる新華僑は入れません。老華僑の団体です。そういった同郷会は、これまで横浜に根付いてきた自分たちが祖先から受け継いだ財産を守る、そういう目的の同郷会ですので、人数はだんだん新華僑のほうが多くなってきましたが、新華僑を入れてしまうと自分たちの同郷会の運営が違ってしまうので、同郷会のレベルではまだ新華僑の入会を許可していません。

 日本中華総商会のなかでは、いろいろ多様化する華僑が手をつないで、お互いの足りない部分を補おうという、経済的な意味でのつながりは出てきていますが、生活のレベルといったところでは、まだ両者の距離があるような感じがいたします。

司会 予定した時刻に近づいてきて、どうこれをまとめればいいか困っているところです。先ほど姫田先生が最後に注文された二一世紀へのメッセージについて、今、伊藤先生から少しそれにふれる話があったと思いますが、あとのお二人からはそれにかかわる話がまだ語られていないので、最後に締めくくりとしてご発言いただきたいと思います。

 会場の皆さんから質問用紙が五件ぐらい来ておりますが、内容が重なるところもありますし、すでに三人の方のご報告のなかでふれられたところもありますので、やや強引ではありますが、簡単にまとめて紹介します。それを含めまして、二一世紀へのメッセージと絡めてお答えいただければと思います。

 まず一つは、原田先生、山村先生への質問で、戦前の「大アジア主義」と現在の「我が国」、この場合の「我が国」は日本だと思いますが、日本の東アジア、アジア太平洋圏への企業展開、外交的リーダーシップの発揮、国際的貢献、さらに国内の政治、社会などの、あえて言えば全体主義的、国家主義的、大国家的傾斜とは、よく類似していると思われます。その異同関係についてご説明いただければ幸いですと。

 そのほかに、山村先生に対して、三井財閥のほうがアジアへの接触、政商性で三菱に比べて強い印象をもっているんですが、三菱商事との比較をお願いしますという質問があります。

 あと、これは二一世紀、あるいは現状をどう見るかという問題にかかわるかと思いますが、マレーシアのマハティール首相、台湾の李登輝総統、そして金美齢、この方は台湾出身の在日の女性の方で、テレビによく登場されていますが、こういう方々は日本のアジア解放意識を肯定し、侵略観を自虐的として否定しているが、それに対するコメントはいかがかというご質問がありました。

 ほかにも幾つかありますが、時間の関係もありまして、このくらいにまとめさせていただきます。

――日本の華僑社会と日本人

司会 伊藤先生に対しては、すでにご発言のなかでふれられていますが、日本の華僑社会についてもう少し知りたいということで、信仰などについて質問がありました。

 それでは、伊藤先生のほうから最後のご発言をしていただきたいと思います。二一世紀へのメッセージもお忘れなく。

伊藤 なかなか難しくて大きな問題ですが、一〇〇年前に居留地が撤廃されたときに、日本は中国からの人びとを受け入れるときに、壁をつくって受け入れないという姿勢をとったわけですが、今後はそれでいいのか。フロアから、いま、日本にいる中国人はどのくらいですかというご質問があったと思うんですが、それは非常に難しいんです。日本に帰化してしまった方も多いんですが、この間の日本中華総商会などでのまとめとしては、それは外国人登録の数ですが、日本にいる中国人は二八万と言われています。そのうち三万人が老華僑といわれる人びとで、七万人が留学生、留学生というのは大学だけではなくて、各種学校なども全部含めます。その残りの一八万人が新華僑といわれる人びとということで、バブル以降、本当に多くの人たちが日本にやってきています。

 そういうアジア系の移民として日本にやってきた人たちとのかかわりを、今後、日本人はどうするのか。日本中華総商会も決して中国系だけでかたまろうとはしていないのです。日本の経済への寄与、あるいは日本の経済界との交流というのを大きな目的に掲げていまして、そういった経済的な意味合いで日本の経済界とどうかかわっていくのか。

 また、生活のレベルで、いま、外国人の地方参政権の問題が出ていますが、本当に外国人とともに暮らしていくという姿勢をとるならば、参政権の問題、あるいはいま、横浜に中華学校が二つありますが、そこの学生は国立大学への入学資格がまだ認められていません。そういった生活のレベルで外国人、特に中国および韓国の人たちとどういうふうに付き合っていくのか。その答えを迫られているのかなと。道を間違うと二一世紀の日本は、国際化と言いつつも、非常にぎこちない国際化となって、これから生きていく私たちの世代は厳しい状況にさらされるのではないかと思います。

――日本企業進出の戦前と戦後

山村 なかに非常に大きな問題も含まれていたのですが、いくつか短くお話したいと思います。

 最初に具体的なことからお話ししますと、三菱商事は三井物産と比べてどうなのかということですが、三菱商事が成立するのは実は第一次大戦後の一九一八年でありまして、それまでは三菱合資営業部という形で存在してはいましたが、本格的に活動するのは第一次大戦期からですから、この時期についてはふれることができません。

 とはいいましても少しふれておきますと、戦前期の三菱商事の歴史を記した社史で『立業貿易録』という本があります。その『立業貿易録』という名前は何から由来しているかといいますと、貿易で業を立てて国家に資するという意味なんです。つまり三菱商事としては貿易を通じて国家に貢献するという立場が基本的な出発点にあるわけです。そこで言っている国家とは何かというと、「大日本帝国」なわけです。東アジアに侵略していくことをも国是としている国家に、貿易を通じて貢献するというのが基本的な立場だったと言い換えてもいいでしょう。ですから、どういう方式かということは別にしても、大枠で言うとどちらも侵略政策に呼応していたといえると思います。その時点で東アジアに出ていった日本企業の多くは、日本の侵略に対して肯定的であって、それほどおかしなことをしているとは思っていないのです。戦後世界の観点からすると非常におかしいけれども、当時はそうだったというふうに理解していいのではないかと思います。

 したがって、最初の、戦前の大アジア主義と今日的な企業の進出、それがともに国家主義的な性格を持っているのではないかというご質問に返りますけれども、これはなかなか難しいご質問でうまく答えられないんですが、戦前の日本の企業進出は、いわば国家の東アジア支配と一体になるということが基本的側面としてあったと理解していいだろう。しかし戦後は少し違うということだと思います。

 大きな枠組みでいいますと、戦後、アジアの諸国はみんな政治的に独立しておりますし、今日では非常に急速な経済発展をしてきている。そういう存在になっております。戦前の段階では、国家の独立自体が侵害されていたり、植民地だったわけです。そして、日本自身どうかというと、戦後の日本は敗戦ということで、建前の上では、戦前の侵略、脱亜論といいますか、帝国主義国家たる方向性を否定したところに基本的立脚点があります。言い換えれば、戦後の平和憲法の上に成り立っているわけで、そこのところが戦前と基本的に違うと思います。

 では平和に進出しているのかというと、そう単純ではないわけで、先ほどちょっとお話ししましたように、対アジア関係よりも対米関係を重視するという形でアジアに接するというのが基本的な立脚点だろうと思います。

――対アジア賠償と日本企業

山村 日本の戦後の企業発展をずっとながめていきますと、キーポイントといいますか、非常に重要な点として、賠償の問題があります。戦争直後の一九四五年九月、ドイツの賠償案を作成したアメリカ人のポーレーという人が日本に来まして、賠償方針をつくったのですが、ポーレーは日本に来る前に中国に渡って、中国の被害状況をつぶさに見ております。そして、報復的、懲罰的な賠償はしないという立場に一方で立ちながらも、侵略が与えた損害に対し、それなりの賠償をしなければいけないという案をつくってきます。それは、日本の企業にとってもなかなか厳しいもので、主な企業の生産設備による現物賠償なども含まれるものでした。その賠償方針が間もなく冷戦の激化で事実上否定されていって、日本の企業に関しては、実質的には賠償負担が負わされなくなっていきます。アメリカの日本占領政策が変わっていくわけです。

 それはなぜかといいますと、日本の経済復興を早く進めていって、アメリカの冷戦体制に日本の工業力を利用していく。戦後的な出発点をきちんと確立して、相互の尊重と互恵の上にアジアと日本の関係をつくっていくという方向を否定して、日本をアメリカの冷戦体制に利用するためには、アジアに対する賠償責任を放棄してでも、そちらのほうが重要なんだという方向に転換していっているわけです。

 ですから、戦後日本は原理的には平和憲法のもとで、戦前の立場、アジアを支配するという立場を否定しているにもかかわらず、実際にはその関係を明確にしないで、相互の尊重と連帯の立場ではなくて、アメリカのアジア戦略に協力、より正確には従属する形となっていきました。アメリカの戦略のなかでは、ソ連封じ込めということだけではなくて、社会主義化していく中国を封じ込めるということもあるわけで、長く中国と敵対するということを基本の立場に置いた国際関係に立って、日本は経済や企業の発展を進めていったわけです。原理的には中国も含めたアジアと日本の新しい関係ができる可能性があるにもかかわらず、実態的にはそういうふうにはいかなかったということです。

 そういう問題点を含んでいますが、少なくとも二一世紀的な問題としていえば、原理的には戦前と違って、両方が相互に独立した上で協力していくというアジアにおける経済関係、あるいは企業進出のあり方も可能であろう、戦前とは全然違う条件が開かれているだろうとは思います。ただ、現実にそれをするには、戦争責任の明確化や相互理解の推進など、もう少し広く国民的な主体的努力が必要ではないかということを感じております。これは憲法体制と安保体制という問題にもかかわってくるんですが、今回はそれは省略させていただきます。

 ちょっと長くなってしまいましたが、そのように考えております。

――大アジア主義の崩壊

原田 今の山村先生の話に関連してくるのではないかと思いますが、ご質問のなかにも何点か出ておりましたけれども、私は、大アジア主義は、大東亜共栄圏構想が太平洋戦争という形で展開していって、そして大東亜政略指導大綱が出されて、帝国領土を拡大するという一九世紀並みの植民地拡張の方策が出てきた段階で、もうその実質的な意味はなくなった、全く空洞化してしまったと見るべきではないかと思います。したがって、日本の敗戦とともに戦前の大アジア主義は崩壊したと見るべきではないかと思っております。

 そういった立場に立って、これもご質問のなかにございましたけれども、ロシアの東方政策であるとか、アメリカの太平洋進出政策であるとか、一八世紀、一九世紀にかけて出てきたアジアをめぐる列国の侵略政策のなかで大アジア主義が持った立場というのは、これに対抗する手段として初めから自覚されていたかどうか、これはまだ確かめることができないでおりますが、大体一八八〇年代の後半になると、そういった列強の動きに対してどのように立ち向かうべきかというような議論が、日本の国内でも生まれていたように思います。

 ただ、そのような議論と大アジア主義とが直結するものであるかどうかは、まだ確認をとるところまでいっておりません。むしろそういった政策を一つ一つ綿密に検討した上でどのような方策をとるかということを考えるよりも、先ほど申しました外患意識、外からの圧力が加わっているという形で現実認識をとめておいて、そこで危機意識を持つという方向に進んでいった、そこから生まれたものが大アジア主義ではなかったかと思います。

 そういった形で形成された大アジア主義は、ただいま申しましたように、第二次世界大戦が終わる段階で消滅していきました。

――米国従属とアジアにおける日本

原田 その後は、今、山村先生がご指摘になった問題と重なってきますが、対米従属という状況が生まれます。アメリカの極東戦略体制のもとに日本が置かれていく。そしてそこで日本の進路はすべてアメリカの方策、アメリカの方針に基づいて決められていくという方向が出てまいります。

 そして、そのような状況のもとで日本の経済復興はどのようにして進められたのかという問題がありますし、それから、新しく制定された日本国憲法を、日本の国民がどのような形で自分のものにしていくかという課題があったはずです。その場合に、アメリカの占領体制のもとで日本はアジアからまず切り離され、アジアについて目を向けたときには、日本の企業のアジアへの進出という形でアジアと日本との関係が復活していきました。これがまさに山村先生が先ほどご指摘になった、戦後における脱亜の方向ではなかったか。

 そうすると、もう既に消滅してしまったはずの大アジア主義や大東亜共栄圏論がまたとなえられる基盤は、このような「脱亜」があったからではないかとさえ思われてきます。

 この世紀前半、日本はアジアへの勢力拡大・国際的地位の向上といった幻想を追い求め、アジアの現実を認識する努力を十分にとることを怠ってきました。そして、第二次大戦後も、いま述べたようにかつての姿勢は残されています。

 そこでまず、アジアと日本というような対比の仕方ではなくて、アジアのなかの日本という位置づけがやはり要求されるのではないか。その立場に立って、一〇〇年前の日本の進路、その後の推移、その結果を客観的に検証し、この一〇〇年の「アジアにおける日本」をあらゆる幻想を取り去って認識し直すことが必要なのではないでしょうか。そのような作業から新しいアジアにおける日本の位置づけをきちんと認識できるような方策を、我々自身の手で考えていくような方向に進んでいかなければいけないと考えております。

 いまお話しできるのはその程度にさせていただきたいと思います。どうも失礼いたしました。

参会者 そのとおりだと思うんですけれども、最近、アメリカで『文明の衝突』という本を書いた人がいますが、この本の一番最後のほうに、アメリカが二一世紀でやらなければならない項目を七項目挙げております。そのなかの一つに、まことに驚くべきことですが、日本と中国が仲直りするのを妨害しなければならないと書いてあるんです。そういうなかで、いま、先生がおっしゃったようなことは非常に難しいと思うんですけれども、どのようにお考えでしょうか。

原田 難しいからといって避けてはいけないと思います。

参会者 しかし非常にやりにくいですね。

原田 それはもちろんそうです。難しいからといって、明治以来、これまで私たちは現実の直視を避けて、幻想的な「形」だけを追いかけてきました。

参会者 だけど、避けない方向というのは、どういう方向なんですか。

原田 それは、先ほど申しました、この一〇〇年の日本の進路の現実と結果とを客観的に認識し、「アジアにおける日本」のあるべき形を追究することから出発しなければならないと思います。そこから進むべき方向は明らかになってくるでしょう。これに対してアメリカの妨害があるかも知れませんが、そこへ到達するまでに日本国内における妨害もあるでしょう。しかし妨害するからといって、避けることはできません。どう進んでいくか、それをみんなで相談しようというわけです。現状ではそういった相談をすることも妨げられているのではありませんか。そこではじめて、日本はこの一〇〇年の姿勢から脱皮できるのではないでしょうか。

参会者 そういったことを排除していく……。

原田 そうだと思います。

司会 まだまだ問題提起者のほうも、お聞きいただいた皆さんも、言いたいこと、聞きたいことが山ほどあるとは思いますが、時間がきてしまいましたので、残念ながら締めさせていただきます。ありがとうございました。