シンポジウム◎二つの世紀末と日本・アジア◎問題提起2

日本企業のアジア進出とアジア認識

山村睦夫 本学経済学部教授

 私はもう少し問題を限定いたしまして、日本の企業というところから、この間のアジアと日本という問題を見ていくということでお話をさせていただきたいと思います。

――アジアのなかの日本

 私自身は戦前の日本の企業進出のことを研究しておりますが、この問題提起をするようにと言われまして、現代の問題がどうなっているのかということを改めて考えてみたいと思い、経団連という、日本の財界の総本山ともいえる経済団体の『月刊 Keidanren』という雑誌を、この一〇年分ほどながめてみました。それを見ますと、実に多岐にわたっていて、例えば教育問題から、行政改革、首都機能移転、日米関係、欧州統合と、あらゆる問題について議論しています。そのなかでしばしばアジアの問題をとりあげ、特集を組んでいます。

 そこで経団連がどんなことを言っているか。さまざまな論点がありますので、一言にまとめることはできませんが、アジアに関して若干の特徴点を挙げますと、一つは、これからはアジア重視だという言葉がしばしば会長など首脳部の口から語られております。同じことですが、アジアのなかの日本というとらえ方が必要なんだという発言もよく見られます。

 そのなかで非常に特徴的だったのは、一つは、アジアのなかの日本といったときに、日本をアジアのリーダーあるいは盟主、別の人の言い方ですと兄貴分という位置に置きながら、アジア重視を語っていることです。もう一つは、そのときに日米関係を重視しながらアジアを見ていく、アジアと関わっていく姿勢を強調していることです。そこに非常におもしろい特徴がある。日米関係の立場に立ってアジアを見る、というふうに言い換えることもできるかと思いますが、そのような特徴を持ったアジアとの関係重視というのが、経団連の月報の特集から見えてくる姿であったわけです。

先ほどの原田先生のお話につなげてみますと、福沢諭吉が「脱亜論」をとなえましたけれども、「戦後型の脱亜」というか、日米関係の上に立ってアジアとつながっていこうという立場が見えてきます。

 では、アジアの側はどうなのか。アジアの経営者にアンケートをとっている号(一九九二年四月号)がありますので、細かくはこれを見ていただくとしまして、アジア諸国の側からは、必ずしも日本のことをアジアのリーダーというふうには考えていないわけです。もちろんそういうふうに思っている人もおりますが、大方としては日本側の認識と大きなギャップがあるということがここからうかがえます。ちょっと断っておきますと、例えばダイエーの中内功なんていう人は、アジアに対してちゃんと謝罪をしなければいけないということも一方で発言しておりますし、日本のオーバープレゼンスは問題であるなどと言う方も経済界のなかにも随分おられます。ですから一色でとらえられませんが、総体としては、先のような認識だということです。

 では、そういう認識のギャップはどのようにして生まれてきたのか。その根っこは何なのかという点で、一〇〇年前を振り返って、そこからいくつかのことを考えてみたいと思います。

 一〇〇年前といいますのは、実は日本の企業が本格的にアジアに出ていった時期なんです。今日のアジア進出は、企業が直接工場をつくる、直接投資という形が主流になっていますが、当時はそこまではいっておりませんで、輸出入貿易を中心とした進出で、本格的にアジアに出ていったのがちょうど一九世紀末ぐらいです。

 そのころを振り返って、いま言ったような認識が出てくるのはなぜなのかということで、以下三つぐらいの点からお話をしてみたいと思います。

 一つには、一九世紀末に本格的に進出した日本の企業が、東アジアをどんなふうに見ていたのかということです。

 二番目は、そのなかで日本の企業はどのようにして競争しようとしたのか。あるいは市場支配を進めようとしたのか。

 三番目に、そうしたなかで、一方で東アジアに対する侵略的な立場というものが生まれてきます。原田先生の先ほどのお話の侵略的大アジア主義と共通する動きが生まれてくるのですが、それはなぜなのか、その三つぐらいをお話ししてみたいと思います。

 ところで「アジア」という言葉を使いますけれども、ここでは実質的には東アジア、なかでも中国ですので、その点は最初にお断りしておきます。また、日本の代表的な企業ということで、ここでは三井物産を中心に見ていくことにさせていただきます。

 では、日本の企業がこの時期の東アジアをどんなふうに見ていたのでしょうか。

――日本企業のアジア認識

 一九世紀末から二〇世紀の初頭というのは、日本の企業が急速に中国、朝鮮に進出していく時期だったということは先ほどお話ししました。参考表は日清・日露戦争期の対中国輸出入額と、日本人居留民数を簡単な表にしたものですが、それをご参照いただきますと、この時期とくに日露戦争後、輸出入額も居留民数、商社数も急増している様子がわかると思います。

 この頃アジアに出ていった企業はどういうところがあるかと申しますと、三井物産、商社ですね。それから日本郵船、これは三菱系の海運会社です。それから、近年三菱銀行と合併しました東京銀行の前身である横浜正金、これは政府系の銀行ですが、この三つが中心になっておりました。なかでも商社である三井物産は中国や朝鮮の奥地にまで入っていきました。これは当然で、海運会社の仕事の場は港ですし、外為銀行である横浜正金の場合も奥地まではなかなか入っていきません。そういう意味では三井物産がその当時の日本の企業のなかで最もアジアに深く入っていきました。したがって、最も切実にアジア認識ということが問題になっていったということでもあります。

 こうした状況のなかで、アジアの実情について本格的に調査して、認識していく活動が活発に行なわれていきます。これは企業だけではありませんで、むしろそれ以上に日本の国家権力の側でも行なっております。それは、大きく言うと二つの筋で行なわれておりました。

 一つは政府系で、外務省が各地に領事館を置いていますが、その領事報告で、克明な調査が行なわれていて、それが『通商彙纂』という通信に毎回まとめられて、膨大な調査報告がなされています。それから農商務省も貿易のことを念頭に各種の調査をやっています。

 もう一つは、参謀本部が積極的に調査をしております。参謀本部の調査は、外国の関係ですから参謀本部が直接というのはなかなかできませんが、中国の場合は、漢口楽善堂という商店を拠点として、各地の実情、商慣習、産物資源などの情報を蒐集しておりました。楽善堂というのは、岸田吟香、この方は「麗子像」などで有名な岸田劉生という絵描きさんのお父さんで、横浜で日本最初の和英辞典をつくったヘボンという人の助手をやっていた人ですが、その人が中国で商売をしておりますが、その人の助力を得て設立された商店でした。そして、先ほどの原田先生のお話にも出てきましたけれども、陸軍参謀本部付の将校で、後に東亜同文書院をつくった荒尾精は、参謀本部付のまま派遣されて、楽善堂に同志を集めてそこに足場を置き、各地を行商しながら調査をしたわけです。

 さらに明治二三年(一八九〇年)には、荒尾と彼の親密な同志で、やはり参謀本部の将校である根津一という人が中心となって、日清貿易研究所というのをつくっています。これは学生たちを集め、現地で中国貿易に携われる人材を養成する機関でしたが、ここでも中国をいろいろな形で調査をしています。

 そうした政府の動きとタイアップしているわけではないんですが、他方では、三井物産を中心とした日本の企業も積極的に中国の調査を行なっております。ここではあまり詳しく述べられませんが、参考資料で、三井財閥がこの時期にアジア市場や資源に関するどんな調査をやったかを、三井物産の『社内調査資料』にもとづいて一覧表にしてありますので、ご覧下さい。

 それらの調査や業務を通じて、三井物産は、中国や朝鮮を中心とした当時の東アジア市場をどのようにとらえていたのか。レジュメに簡単にまとめておきましたけれども、特徴点だけを述べますと、まず第一は、中国各地に開港場がありますが、そこに入ってきた幾多の欧米商社が、意外にもあまりうまく浸透できていない。そこでは中国商人のほうが優位に立ちつつあるという現実に眼を向けております。例えば、『台香上出張復命書』という報告書は、益田孝という三井物産の実質上の総責任者による一八九八年の視察報告ですが、そこでも「近時支那人の経営する商売は益々盛なるに反し欧米人の経営する商売は漸く衰頽し……」と指摘されています。こういう指摘がいろいろなところでなされております。

 それと同時に、商社なので、中国の商人たち、あるいは中国の商業システムについて克明に調査をしておりまして、それが非常に合理的なシステムを持っていることに注目しています。ヨーロッパのシステムとよく似ているものを持っている、あるいは中国商人たちは信用をすごく大事にする、そういう意味での非常に合理的なシステムがそこにある等々のことに対して、石田清直の一八九八年の報告書『芝罘商業事情一斑』をはじめ、いくつもの報告が強い関心を寄せています。そういうことが二点目としてあります。

 三点目として、欧米商人たちはなぜうまくいっていないのかということを問題にしています。欧米商人は中国語がわからない。それから、中国の習慣についてもわからない。そこでの生活についても強い違和感があって、なかなか溶け込めない。そのため、コンプラドール(買弁)という中国人の商人を利用して、実際の経営を任せるということでやっている。そうすると収益はほとんどそこに取られてしまって、欧米商人は収益が上がらない。現場ではコンプラドールのほうが力を持っている。そのような事情に注目を寄せております。

 ついでながら石田清直という人は、上海支店の次席ですけれども、日常的に中国服を着て、髪を清国式の弁髪にして、中国人と同じ恰好をして商売をしていたという人であり、こうした人たちは、当時鉄道などはまだ不十分ですから、船と馬車を使いながら奥地へ入るという形の調査をやっているわけです。そういうなかでの認識なんです。

――アジア進出の経営戦略

 ところで、ここから出てくるものは何かといいますと、中国へこれから本格的に日本の企業が出ていくというときに、どうしたらそこのなかでうち勝っていけるのかということを考えたとき、中国的な商売の方式を吸収していかなければならないということです。そうしなければ、結局コンプラドールに頼らざるを得ないし、それをすれば利益は壟断される。したがって、中国における商売の方式を自らつくり上げる、それが欧米の商品も含めた競争のなかで日本が市場進出していく道なんだということになるわけです。そうした経営戦略を、当時の益田は「支那化」という言葉で表わしております。「支那」という言葉は資料的な表現として使わせていただきますけれども、中国化してこれに当たるということです。言い直しますと、中国で行なわれている商業取引の方法を修得する。そして買弁を排除して、直接取引をするということになるわけです。

 こうした基本的には買弁を廃止して直接取引をしていくという方針は、一八九八年に具体的に打ち出されてきます。例えば、益田の指導による上海支店の打ち合わせ会で確認された方針[注1] を見ますと、まず第一に、買弁を廃止すること、第二に、それにかわって中国語をちゃんと話せる日本人店員を十分に確保しておくこと、さらに、係によっては、時には担当者に中国服着用を義務づけることなど、いくつもの具体的な方策を提示しております。それが一九世紀の末、日清戦争後の状況でした。

 こうした方式は特別な名前はつけられておりませんが、一種の物産方式とも日本方式ともいえますけれども、日本のその後の企業進出の特徴にもなっています。ある人によれば、「対支取引の一革命」という表現をしておりますし、アメリカの商務官のオデルという人なども、この日本的な方式に注目をしています。益田孝の自伝[注2] を見ましても、買弁廃止というのは自分がやったなかでも非常にうまくいったものであると誇らしく述べています。また、なかなかそれを評価してくれないなかで、ドイツ皇帝が注目してくれたとも書いてあります。

 この買弁廃止方針と対をなすものとして、支那修業生制度というものがあります。旧制中学を卒業したぐらいの若者を中国に連れていって、現地で中国語を学ばせながら商売を覚えさせて、中国貿易の人材を養成するという制度を物産がつくっているのです。

 なぜつくったかといいますと、当時まだ日本では中国貿易の人材養成の機関がなかった。ですから、コンプラドールを排除するという方針を出したとしても、それにかわる人材は自分で養成しなければいけなかったわけです。ここで興味深いのは、修業生の中国語指導に上海支店では先ほどの日清貿易研究所の講師であっった御幡雅文を迎えていることです。

 関連して、簡単にお話ししておきますと、三井物産は最初に中国の紡績企業を買収して、紡績会社をつくった企業でもあります。それは上海紡織という会社ですが、産業資本と商業資本は違いますけれども、そこでも同じように、中国人を間に立てないで、直接経営を行なうということがやられています。支配人とか主要な職工を日本人にして作業の責任を持たせ、工場内では、注意事項や奨励策などは、文字にして壁に張って、それで指示を徹底するというようなことをやったりしています。これはその後、日本の紡績会社が中国に進出したときに同じようなシステムでやっていくことになります。今日の日本式経営というのとは違いますが、直接的な経営管理です。これはイギリスの紡績会社が中国に進出したケースとは全く違うわけです。それから中国の紡績会社のやり方とも違います。

 では、どうしてそれが可能だったのか。益田孝はどうしてコンプラドールに頼るイギリスなどの欧米資本と違う方式が可能だと考えたのかということですが、益田は明確に日本の特徴というものを意識しておりまして、日本ならば中国進出を別のやり方で、できるというふうに考えていたと思われます。

 これは益田孝の自伝からですが、ちょっと読ませていただきますと、「日本の外国貿易の発展は、婦人に負ふ所が多い。私は昔から注意して居るが、確かにさうだと思ふ。日本の婦人は、亭主の行く処なら何処へでも付いて行く」と述べる一方、イギリスを引き合いに出して、イギリスの場合はだんなさんが奥さんに付き合わなければいけなくて、何でもかんでも会社のためというふうにやれないということを言っています。「日本の婦人は、どんな苦しい思ひをしても、亭主の為めに尽す。之は日本婦人の美徳である。……如何なる場合にも自分を捨てて亭主の為めに尽す」というふうなことを盛んに言っております。明確にこういう意識を持ってとらえているわけです。現在でもそのようなことを言う人たちがいると思いますけれども、この時点でこんな形で認識して、日本社会の前近代的な要素というものを商売に使っていくという明確な意識を持っています。

 もう一つは、いまの一橋大学、当時の東京高等商業学校の一八九七年の卒業式における益田孝の祝辞[注3] ですが、そこでも益田は、欧米人に日本人が中国市場で対抗する力は何かというと、日本の方が生活の度合いが低いことだと、次のように述べています。「機敏も同じ学問も同じ胆力も同じ、……差引き残るのは日本人の習慣として日曜日に休むという事もなく生活の程度も低い、……優等国に向って商売を伸長するよりは寧ろ劣等国に向って商売する方が宜しい」。つまり生活水準が低いことが商売の武器であり、東アジア市場ではそのことをより生かせるのだと言っているわけです。

 こうしたことを明確に意識しながら中国へ進出し、買弁を排除して直接取引を積極的に推進しているのです。いい直せば、日本社会にあるアジア的共通性と申しますか、あるいは前近代的な要素をきわめて意識的に活用して、中国進出を果たした。アジア的共通性が欧米との対抗の武器にもなるし、また中国商人と対抗する力ともなるんだということをいっているわけです。その後、さまざまな形で、日本社会内部のアジア的要素というのは、日本企業の国際競争上の武器となっていくわけですけれども、一九世紀末のこの時期の動向は実に興味深いことだと思います。

――国家進出との一体性

 もう一点、この時期の東アジア進出の特徴について見ますと、日本の企業が東アジアに出ていくときの国家進出あるいは侵略との一体性ということを指摘することができます。この点についてお話をしてみたいと思います。

 それは日清戦争、日露戦争のときにとりわけ明確にあらわれてくるわけですけれども、兵站といいますか、戦争をするときの食糧だとかさまざまな物資を集める、それから情報を収集する上で、三井物産は軍を支援して積極的に活動しています。また、先ほど述べた支那修業生という制度がありますが、中国語を勉強している修業生を通訳として従軍させるというようなことも積極的に行なっています。

 有名な話では、日露戦争のときにバルチック艦隊が対馬沖を通るのか、それとも津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのか、それが不明だったとき、山本条太郎や森恪が船を出して、バルチック艦隊を追尾して、燃料をどこでどのくらい買ったというようなことを計算して、対馬沖を通るというのを秘密電報として送った。これは非常に有名な話ですけれども、それだけにとどまらないで、さまざまな形でこうした活動をやっていたわけです。

 このことも含めて「満州に於ける三井物産会社関係事業概観」[注4] に詳しく、日露戦争のケースを示してあります。なかに陸軍の経理部の部員のことなども書いてありますが、陸軍の兵站担当者たちは、当初三井物産の店員という身分になって、カムフラージュして活動するというふうなことも行なっておりました。あるいは、これは日清戦争後ですけれども、山本条太郎が市場調査をやるときに内閣調査員という肩書を逆に政府からもらって調査するということもあります。

 さらにもう一つ、井上馨が中心となった一九〇四年の「三井集会所談話会」という会合の記録[注5] を見ますと、三井物産の中国各地の支店長が支店長会議で日本に帰ってきた時期を選び、彼らを集めまして、大蔵大臣や農商務大臣も出席させて、どうやれば日露戦争後に日本の中国東北支配をうまくやれるかということを議論させています。

 それはなぜかといいますと、先ほどの原田先生のお話にもありましたけれども、日露戦争の後、日本は血を流し金を使ったけれども、そのままだったら欧米諸国に利権を取られて何もできなくなってしまう。ですから日本の商業者も積極的に出て行けるよう体制をつくっておかなければいけない。有力商社である三井物産の力を利用して、中国東北に経済的にも浸透していく。そういう動きをつくっていくということを意図していたわけです。そんなことで、国家との一体性ということを一九世紀末の日本の企業進出に際する特徴として見ることができます。

 さらに在華紡に関しても、帝国海軍陸戦隊の軍事力に守られた進出という意味で、一体性ということは指摘できるわけであります。

 もちろん、レジュメの最後のところで断っておきましたけれども、いま言ったような国家的進出との一体化という側面だけで三井物産の活動を一色に塗りつぶすということではありません。この時期の、とりわけ朝鮮・中国へ出ていくときの重要な特徴として見ておいていただきたいと思います。

――大アジア主義的潮流と日本企業

 ところで、アジア的な、前近代的な要素を利用しながら、また国家的進出とも一体となって、日本企業が東アジアに出ていったということをいまお話ししましたが、同時にそのなかから、必ずしも主流ではないんですが、アジア侵略を積極的に進めていく担い手的な人たちがしばしば出てきます。有名な人で山本条太郎という人がいます。三井物産の横浜支店で丁稚から出発して上海支店長などを歴任し、シーメンス事件にかかわって、常務の時に退職していますが、中心幹部だった人です。この人は後に政友会の幹事長や満鉄総裁をやりました。それから、森恪という人がいます。支那修業生として三井物産に入り、上海を中心に活躍し、孫文との借款交渉にも携わっています。この人もまた政友会の幹事長や内閣書記官長になりました。二人とも一九三〇年代に亡くなっております。

 この人たちは大アジア主義という、そういう明確なイデオロギーがあったか否かはわかりませんが、大アジア主義的な立場で日本の中国侵略政策の担い手になっていきますが、そういう人たちが生まれてくるわけです。

 一例として森恪[注6] を見ますと、一九二七年、東方会議という、日本が満州を中国から切り離して「満州国」をつくっていくという、そういう路線を明確にしていく上で重要な役割を果たした会議があるんですが、それを中心的に準備したのが森恪です。彼自身は満州事変の後に病気で五一歳で亡くなっていますけれども、そうした人物です。

 興味あることに、東方会議を準備していくときには、陸軍参謀の鈴木貞一と、もう一人、吉田茂、戦後総理大臣となり保守本流の基本路線を敷いたといわれる人物ですけれども、彼らが中心になっています。意外なことに森恪がそこにつながっているわけです。日本が満州を切り離して支配を強化し、中国問題全体を一挙に解決していこうと考えたときに、何が問題になるかといったら、アメリカの出方です。ですから、アメリカが妨害に出てこないように工作をする必要が生じます。その際、吉田茂は、義理の父親が牧野伸顕という元老でもある関係で、重臣や元老筋を説得するという役割を分担することになります。このようにして森たちは、東方会議を準備していくのですが、そうした人物が三井物産の活動のなかから、アジア侵略の中心的な担い手として出てくるわけです。

 したがって、それはなぜなのかということを考えておく必要があるのですが、ここでは二点ほど指摘をしておきたいと思います。

 一つは、原田先生のお話のなかにありましたように、日本の東アジア認識の上で、国家主義的な、あるいは侵略主義的な潮流というものが、非常に重要な地位を占めていたこと、その土壌の上に森だとか山本たちもあったということを見ておいていいだろうと思います。

 具体的に、中国貿易で言いますと、先ほどの日清貿易研究所が先駆的に活動しております。荒尾精が生徒たちに当てた書簡[注7] を見ますと、そのなかで日清貿易というのは日本の発展にとって非常に重要なんだ、日清貿易研究所の事業は一種の国家問題なんだと述べ、「我が事業を以て国家事業となし、諸子自ら我が国経済の機関となり……進んで皇国の美名を輝かし、亜細亜の衰態を挽回する」とも記しています。こういう形で大アジア主義的な立場に立った日清貿易研究所が存在し、また思想的な土壌もあったといえると思います。

 貿易研究所の国家主義的姿勢ははっきりしておりまして、さっき支那修業生が日露戦争の通訳に出ていったという話をしましたけれども、日清貿易研究所は、すでに日清戦争のときにそれをやっております。八九名の卒業生のうち七二名が通訳として従軍しています。七二名という数は非常に大きなもので、日清戦争をやるときに陸軍が通訳を集めるんですが、当初一三〇名集まったうちの半分以上が日清貿易研究所の卒業生で占められておりました。

 なぜ通訳をたくさん集めるかというと、その当時、日本はまだヨーロッパ列強と比べて非常に力は小さかったわけで、介入を招かないようあまり露骨に侵略的な形での戦争はできない。ですから文明的に戦争をするという言い方をしていますが、カムフラージュする。兵站物資もお金をもって買い集めたりする。そのためには通訳が大きな役割を果たしたわけで、そこに日清貿易研究所の卒業生が従軍しているということです。

 そういう国家主義的土壌がこの時期の中国認識や中国貿易について窺えます。

 それから、もう一点は、先ほど少しお話ししましたけれども、日本の企業はこの時期の進出に関して、国家と一体的に進んでいったということを指摘できると思います。いわば企業活動であると同時に国家活動であるような、そうした状況が一方でありまして、そういうなかから国家的な進出、侵略主義的活動により傾斜していった人物を生み出していったという面も見ることができます。先の森恪についても、三井在職中、支店業務にとどまらず、絶えず「国家的立場」で東奔西走していたと評されているのも、その一例でしょう。

 ただここで、断っておいたほうがいいのは、侵略的大アジア主義的潮流も三井物産の企業活動総体のなかでは主流とはいえないということです。主流ではないんですけれども、重要な潮流として大アジア主義的潮流が生まれてくることを指摘しておきたいと思います。

 時間がだんだんなくなってきてしまいました。

 最後に、いくつかの点を確認してむすびとさせていただきます。

 一つは、一九世紀末の東アジアに本格的に進出していった日本企業(三井物産)は、東アジア市場の現実をリアルに認識しつつ、買弁排除など日本的方式を創造していった。その意味では、この時期観念的な大アジア主義的な姿勢とは異なる合理主義的な立場を有していたともいえます。

 その上で第二に、欧米資本主義さらには中国商人に対抗しながらの企業発展においては、日本社会のアジア的、あるいは前近代的な性格を意識的に経営に活用して、それを通じて東アジアでの優位を占め、そうしたアジア的な「近代企業」として発展していったことを指摘できると思います。「脱亜」の企業主義的形態といえるかもしれません。

 三番目には、企業の東アジア進出の過程が、国家的侵略とも一体となりながら展開しており、そのなかから絶えず侵略的な大アジア主義的な潮流をも生み出していったと言えるのではないかと思います。

 以上のことをふまえて、最後に現代ともう一度結びつけて考えておかなければいけないのですけれども、その点は討論の際にふれることにして、私の話はこれで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

やまむらむつお

早稲田大学大学院商学研究科博士課程修了。日本経営史、日本経済史専攻。現在、和光大学経済学部教授。著書に『近代アジアの日本人経済団体』(共著)、「日本帝国主義成立過程における三井物産会社の発展」(『土地制度史学』七三号)など。

本文に戻るにはブラウザの「戻る」ボタンを使用してください

*1 「上海支店打合要領」『三井物産株式会社会議録』一八九八年

*2 『自叙益田孝翁伝』一九三九年

*3 『東京高等商業学校要覧』

*4 本店業務課「満州に於ける三井物産会社関係事業概観」一九三一年

*5 「三井集会所談話会速記」一九〇四年

*6 山浦貫一『森恪』一九四〇年

*7 黒龍会『東西先覚者志士記伝・上』一九三三年