ジルベール「結婚と恋愛の違いについて―『和泉式部日記』から― 
 本稿は平安時代における「恋愛」と「結婚」の違いについて『和泉式部日記』を資料として考察したものである。『和泉式部日記』は、平安時代中期の和泉式部(978?〜1048?)が、正妻を持つ師宮敦道(そちのみやあつみち)親王と五百首もの贈答歌を詠みかわしつつ愛を深めていく過程を綴った、約十ヶ月間の日記である。三人称を用いて書かれているが、作者は式部自身といわれている。

 ――初夏四月、和泉式部は、愛する夫(為尊親王)と死別し、痛切な悲しみに嘆く日々であった。そんな中、夫の弟にあたる敦道親王と歌を交わすようになる。女の気持ちには故宮への追慕が強いが、新たな弟宮への期待もある。故宮への追憶に重ね合わせるかたちで帥宮との新しい恋へと発展してゆく。そして半年が経った。宮が女のもとに通うようになったある日、女は宮からこう言われる。

「いとかくつれづれにながめたまふらむを。思ひおきたることなれど、(1)ただおはせかし。(2)世の中の人も便なげに言ふなり。(中略)」

 「こんなふうにひどく所在なく物思いをして暮らしておられるのでしょうね。まだはっきりと心に決めたことではないのですが、一途にもうわたしの所へいらっしゃい。世間でも私が通ってゆくのをけしからぬことに言っているそうです」。ここから、二人は同居する形になるのだが、果たして現代における結婚という概念に当てはまるのだろうか。当時、宮と女の関係は一般的には愛人関係にあたるので、世間から非難されていた(2)。宮は女と会えない時間が寂しかった為、女を自分の傍にに置いておきたかった。そこで宮は女を宮邸に仕えるようにすすめる(1)。ここから宮の女への愛情が単に愛人としてだけのものではない事がうかがえる。次は宮の誘いを受けて女が苦悩する場面である。

(3)北の方はおはすれど、ただ御方々にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母のみこそすなれ。顕証にて出でひろめかばこそはあらめ、(4)さるべきかくれなどにあらむには、なでうことかあらむ。(5)この濡れ衣はさりとも着やみなむ。

 女は宮には北の方がいるけれど、同じ屋敷内でいつも別々に住んでいて、万事は乳母がとりしきっていることを知る(3)。宮の目の届く範囲に北の方はいらっしゃらない。宮邸入りを躊躇しているを女にとっては好都合である。「目立たない所にいる分には、どうということもないだろう」。人目に付かないところにいれば、さほど問題はないと思っている(4)。「自分が宮邸入りをすれば、私が浮気だという根のないお疑いは、いくらなんでも晴れるだろう」。宮と同居することによって、ほかに男がいるかもしれないという疑いは晴れ、女は確固とした仲を築く事ができると思っていたようだ(5)。
 しかし、女の苦悩は続く。

  まことなりけりと見はべらむかたはらいたく

 「私がお邸に移りましたら、やはり単に愛人ではないことが本当だったと人が見るでしょうが、それが気になります」。ここは第三者が宮様の事をどう思っているのか女が気にしている場面。和泉式部は、元恋人の為尊親王と死別した一年後、実の弟の敦道親王と愛人になった為、(先述のように)世間では尻軽女と非難されていたようだ。その為,実際に二人の姿を見た人が、自分のせいで宮様に対し悪い印象を抱かせてしまうのではないか、心苦しく思っている。
 そして、ついに、女が宮入りを決意する場面へと移る。女の揺れる心を表す表現を抜き出してみよう。

(6)見ず知らず心こはきさまにもてなすべき…(知らんふりをして、つれない態度でふるまってもよいのだろうか)
(7)心憂き身なれば、宿世にまかせてあらむ…(辛い我が身だから、ご縁のあるままお邸にあがろう)
(8)また、昔のやうにも見ゆる人(子供)の上をも見さだめむ…

 結局、女は、宮の好意を無視して宮仕えを断る理由もないので宮仕えを決意する(6)。宮仕えそのものはは本意ではないが、出家する勇気のない事、子供の面倒を見てあげたい事(8)などが決意した理由であった。
 次の言葉は宮が女を宮邸に連れて行くときのものである。

  「いざたまへ…今かの北の方に渡したてまつらむ」

 いつものように女の元へおいでになった宮は「さあ、いらっしゃい…すぐにあの北の対の屋に移し申しあげましょう」と言って北の対屋に連れてゆく。そして、宮と女は一緒に暮らすことになる。

 次は女の宮入りが正妻の耳に入り、正妻が宮に問いただす場面である。

  (正妻)「いとかう、身の人げなく人笑はれに恥づかしかるべきこと」

 「こんなにまで私が人並でなく物笑いの種になっては恥ずかしいのです」。正妻は世間で自分の夫が浮気者と非難されていて、世間の笑いの種にされていることを恥ずかしく思っていることを宮に話す。それに対し宮は女の存在に対しこう話す。

  (宮)「頭などもけづらせなむとてよびたるなり。こなたなどにも召し使はせたまへかし」

 「髪などもとかさせようと思ってあの女を呼んだのです。(あなたも)こちらでもお召し使いになったらいいですよ」と女の存在を否定しない。正妻に女を使用人(女房)として扱っていることを話す。正妻は不愉快極まりないことであったのだろう。正妻の不快な気持ちとは裏腹に、宮は女を寵愛しつづけていた。

かくて日ごろふれば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらひて、御髪などもまゐり、よろづにつかはせたまふ。さらに御前もさけさせたまはず。上の御方にわたらせたまふことも、たまさかになりもてゆく。おぼし嘆くことかぎりなし。

 宮邸に移って何日かたったので、女はお邸でお仕えすることにも慣れた。昼間も宮の近くに仕えて、御髪なども梳き、宮もあれこれとお召し使いになる。宮の御前から女をすこしも遠ざけず、宮は妻から遠ざかってゆく。部屋においでになることもだんだん稀になっていった。北の方が不安になる気持ちは計り知れないものであっただろう。

 そしてついに正妻は宮から離れる決意をする。

(正妻)「(9)いつも思ふさまにもあらぬ世の中の、このごろは見苦しきことさへはべりてなむ。…しばしかしこにあらむ。(10)かくて居たればあぢきなく、こなたへもさし出でたまはむも苦しうおぼえたまふらむ」

 「いつも思いどうりにもゆかない私たち夫婦の仲が、近頃では見苦しいことまでございまして」(9)。最近の宮の行動に痺れを切らした正妻は、姉の提案で里帰りを決意する。このままここに残っていてもおもしろくないし、宮様にしても、私の部屋にお越しにならないことを心苦しく思っているだろうと話す(10)。宮の気持ちが女のほうにあり、もう自分には戻らないことを悟り、退去することを決意するのである。

  (正妻)「さもあらばあれ、近うだに見聞こえじ」

 「もうどうなってもいい。近くにいてお会いしたりお話ししたくない」。口も聞きたくないまでになってしまった。女は宮邸に残り、結果的に始めは宮にとって愛人であった女が正妻を追い出す形になった。

   まとめ

 平安時代にも愛人関係や浮気関係で男女の仲がもつれてしまうことがあったという事実がわかった。当時も浮気や愛人という関係の当事者は「多情な人」と思われていた為、あまりよく思われていなかったようだ。この点は現代の恋愛事情とさほど変わらないと思う。
 この日記の結婚は宮が女をお邸に移らせて一緒に暮らす事によって気持ちを確かめ合っていく、現代で言う同棲に近い結婚形態だと思った。女にとって結婚とは愛情はもちろんだが、世間からの目や、子供がいたので財産的な問題が大きかったのだと思われる。それらが最終的にお邸入りの決め手になったのではないだろうか。将来のことを考えた上で宮に仕える決心をしている所から、当時は結婚と同棲は同じ意味を持っていたのかもしれないと思った。
【指導教員コメント】
 恋愛と結婚は、現代ではどいう要素によって区別されるかを整理してから、『和泉式部日記』に向き合うと、もっと整理がしやすかったかもしれません。『源氏物語』にも光源氏と性関係をもつ女房が出てきますが、和泉式部の場合、正妻を結果的に追い出してしまうところが凄い。当事者同士の認識の問題、また、社会的認知、子供への財産相続などといった堅い観点からも、さらなる整理が望まれます。