教職員から |  2019/04/12

4月5日(金)に行われた入学登録では、現代人間学部・表現学部・経済経営学部の各学部長からも新入生へ向けて、メッセージがおくられました。
一部抜粋して、ご紹介します。




現代人間学部長 常田秀子




和光大学にご入学の皆さん、おめでとうございます。父母保証人の皆様、お子様のご入学、心よりお喜び申し上げます。
本日は、大学で学ぶとはどういうことかについて、短い時間ですが、お話したいと思います。

突然ですが、皆さんは、努力ができることは才能だと思いますか。
それとも、一般的な才能の問題ではなく、あるものごとに対して努力をするかどうかの問題だと思いますか?つまり、自分が人よりも何事かに努力しているとして、それは自分に努力するという才能があるからだと考えますか? それとも単に努力しているからだけだと考えますか?

才能だと思う人、手を挙げてみてください。正解はありませんから、思ったままに自由に手を挙げてください。では、単に努力しているだけだと思う人、手を挙げてみてください。

努力という言葉の定義は人それぞれですので、仮にここでは「困難な問題の解決のためにコツコツと活動を続けること」と定義しておきましょう。

努力ができるためには、性格的には、負けず嫌いであるとか、粘り強いとか、期待に応えたいとか色々な要素があると思います。また、正しい方向に努力を行うための課題分析力や段取り力、自分の課題や自分の進歩をわかる自己認識力、多くのことを自分の関心と結びつけることができる好奇心など、様々な知性も努力に必要な要素でしょう。
一方で、努力しても認められることなく育ったり、努力しても報われない環境に置かれたら、努力する気はなくなってしまうかもしれません。このように、努力ができるかどうかは環境にも左右されます。

以上のように、努力に性格や知性が必要であるならば、努力は才能の一種と言えるかも知れません。ただし、一般に才能というと生まれつきの特性のように考えられやすいのに対して、努力はその人の経験に多く影響されるようです。

この努力の議論は、実は私のゼミで学生たちが行った内容です。最近、努力を才能だと考える若者が多くなったというインターネットの記事をきっかけに、学生たちと意見を出し合いました。
学生同士はお互いの考え方を知るいい機会になりましたし、私にとっても、自分とは異なる世代の彼らの考え方を知ることができ、大変興味深い議論でした。

この議論のあとで、ひとりの学生がこんなことを言ってきました。自分には努力する才能がないから周りの凄い人のように頑張れないと思っていたそうです。しかし、この議論を経て、自分の中にある色々な力を使ってコツコツと物事を進め、それを周囲と認め合っていけばいいのかなと思うようになったそうです。努力の議論をきっかけに、自分との向き合い方が変わったのだと言えるでしょう。

努力の議論には正解はありません。正解のない事柄について、皆で議論を行う。それによって自分の考え方が明確になる。さらに自分の考え方が変わり、生き方が変化する。このようなプロセスが大学で学習することの本質の一つではないかと思うのです。

現在、日本の大学は、質保証というものを求められています。多額の授業料を学生やその保証人からお預かりし、税金を国から受け取る立場として、大学で学べることを明確に示すべきであると言う要求が、国や社会からあるのです。これは大学の、学生や社会に対する責任として、当然のことと思います。しかし現在、内部質保証として求められているものは、卒業生の就職率や就職先、在学中に取得した資格、TOEICなど外部試験の得点の伸び幅などと言ったものです。これ自体は一概に否定されるものではありません。しかし一方で学生の本当の成長は、このような数値ではなく、先程述べたような、学生の努力をめぐる捉え方の変化などの中に現れるのではないかとも強く感じるのです。客観的な数値を伸ばすよりも、学生1人ひとりの心の成長を促すことがより大切だと思うのです。

和光大学のキャッチフレーズは「異質力」です。
学生同士がそれぞれの個性ある考え方をぶつけ合い、認め合いながら成長していくことが異質力につながります。和光大学はそれができる場所です。

皆さんが和光大学で、仲間から、先輩や後輩から、本や社会から、私たち教員から、多くのことを学んで成長することを期待しています。
皆さんと一緒に学べることを心より嬉しく思います。
大学生活を多いに楽しんで、有意義に過ごしてください。





表現学部長 半田滋男




新入生の皆様、本日は和光大学へのご入学おめでとう御座います。
またご父兄、保証人の皆様にもお祝いを申し上げます。表現学部長の半田滋男と申します。芸術学科所属です。

大学、特に私立大学には、それぞれの個性があります。この大学が、一体どのような大学であるのか知っていただき、そこでどのような4年間をすごすのか、よく考えて頂ければ、実りの多い4年間になると思います。

よく和光大学は自由な学校といわれています。
たしかに、この大学は創立当時に初代学長によって「自由な研究と学習の共同体」という提言がなされました。「自由」です。しかし、「自由」といううたい文句をつかっている学校は、珍しいものではありません。それとは別に、世間には、過去の和光の卒業生や関係者達がつみかさねて形成してきた、和光のイメージというものがあります。それはどういうものかと言いますと、ヘンな格好しているヤツがいる、常識がない、反抗的、偏屈などなどというもののようです。どうも、ろくな事はいわれていないようです。それは、あたかも世間で役に立たない人間をアイテム化して、羅列したかのようです。また、ネットをひらいて大学一般について検索してみてください。実に様々なランキングがでてきます。入学偏差値、就職率、会社重役になった卒業生の数。いろいろあるようですが、そんなランキングに和光大学の名前が出てくることは、まず殆どありません。なぜでしょう。なぜなら、それらの数値化された評判のほとんどすべては、「組織」、それも多くは「営利組織」や「官僚組織」の管理者に都合のよい、効率的運営という観点から考えたときの物差しによるものなのです。

ご存じの通り、昨今、大学が財界からもとめられているのは、「即戦力」、すぐに使える利便性の高い人材であって、人と違ったことをしようとする者、作業効率の低い者、つまり、逐一、意味を考えながら行動するようなことは、求められていないのですから。でも、私たち、すくなくともここに並んでいるスタッフは、そのような数値的に利便性の高い人材を輩出し、そのようなランキングに名をさらすことが名誉とは、考えていません。

それでは、みなさんがこの小規模な大学で、4年間で何を学び、どのような人物になってほしいか、申し上げます。
それは、みなさんが、特に表現を目指そうという人は、《異端》であることを恐れないで欲しい、ということです。むしろ、すすんで異端=アウトサイダーであることをめざして欲しい。「異質」なんて生やさしいものではなくて、《異端》です。なぜなら、現代の社会で不足していて、必要とされるのは、異端の思考だからです。ここで、異端とかアウトサイダーというのは、単純に反抗的な思考法と言うことではありません。実は、最も、社会に有益な人間のことです。
現在、わたしたちはどのような環境の下で生活しているのかを、考えてみてください。20万年以上といわれる人類の歴史の中で、過去50年間だけで人口は2倍に増えて、地球上の地下資源を蚕食、消耗し尽くそうとしています。営利企業では、人間は消耗品のようにあつかわれ、貧富の格差は益々広がっています。宗教的、政治的な狭量さは、世界中でますます進行しています。治安は悪化してゆきます。

残念ながら、みなさんの生きている現代は、近代市民社会が、当初目指したはずの理想からはなれ、自由や個性とは全く逆の、大衆がきれいにコントロールされ、そのときどきの、いちばん声の大きな、勢力の強い者に付き従ってゆく抑圧的な社会へと向かっている様に思えます。文化資源や利益は、仲間うちだけで分かち合うほうが得だ、という本能的な社会へと退化しているようです。

だからこそ、みなさんには、その多数になんとなく盲従し、コントロールされてゆく一員になるのではなく、「異論」を差し挟むことの出来る、正常な人間になってほしいのです。すなわち、ある場で大勢を占めている、支配的な言説に違和感を感じられるようになって頂きたい、そのためにこの小さな大学の環境と、教員を利用して、思いっきり学んで欲しいのです。

和光大学の先人達が主張してきた「自由」、あるいは「異質」とは、そのように、アウトサイダーの精神を忘れずにいることだと、私は理解しています。
アウトサイダーである、そのことは、当たり前のことではありますが、表現者をめざすひとにも重要な事です。芸術の歴史のなかで、後世から参照されることになるような芸術家とは、大抵の場合、その時代には理解されがたい異端、アウトサイダーであり、ひとりだけ、周囲の流行に抗って、違ったことをしていた人たちです。みなさんが知ってるかも知れないアーティストの例を挙げれば、パブロ・ピカソがそうかも知れないし、マルセル・デュシャン、ヨゼフ・ボイス、ジョン・ケージ、日本では世阿弥、俵屋宗達、松尾芭蕉もそうかもしれない。
和光大学は、だだひとりだけでも、臆することなく周囲に異を唱え、正論である異論を唱えることのできる、本来の意味で社会的な、人間に育って頂きたいと思うのです。
それが、世の中に数ある大学のなかでも、このちいさな大学の一員に与えられた位置、みなさんに学んで欲しい「自由」であることの意味です。残念ながら、そんな大学は、この世の中に、殆どなくなっています。

それでは、具体的にどのように大学生活を送っていったらよいでしょうか。一点だけサジェストさせてください。
矛盾したことをいうようですが、アウトサイダーであるためにこそ、古典といわれているものを勉強してみてください。皆さんを没個性化させるためのツールであるスマホやゲームは、もうしまっておいてください。
古典とは、古い文学や哲学書、古めかしい美術のことだと思っているでしょうが、実は逆です。どれくらい古いか、ではなくて、永久に古くならないもの、いつまでたってもそこから得るものがある、新鮮なままでいる、そういう表現が古典なのです。そこでは、すでに人間世界の殆どの問題に対する対応法や、表現手段のヒントが多く示されています。

さいごに。大学も組織です。組織というものは、どうしても徐々に、型にはまってゆこうとします。ルールを作り、様々な問題を、機械的に処理して行こうとするようになります。そのルールとは、一方的な「管理」と親和性の高いものでもあります。大学の方針、教員の意見に異論があることも出てくるでしょう。そのとき、みなさんは自分の意見を熟考して、表明する権利があります。その権利を認める、むしろ聞きたいのが、高校までと違った、大学という場所です。表現活動をおこなう大学という空間で、言論をみずから抑制するのは、自殺行為です。どうか、仲間同士で、資料室や、教員の部屋の扉をたたいてみてください。みなさんが、大学を店舗のように使う利用者ではなく、構成員であることを意識して頂きたい、と思います。
それでは4年間、一緒に楽しく過ごしましょう。





経済経営学部長 鈴木岩行




新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。ご列席のご家族の方々のお慶びも一入のことと思います。
和光大学経済経営学部を代表して、一言お祝いの言葉を述べさせていただきます。

ご存知のことと思いますが、和光大学は自由な教育を教育方針としています。
和光大学は今から53年前の1966年4月に創立されました。初代の梅根悟学長は、大学は「自由な研究と学習の共同体」であるべきと述べています。「自由な研究と学習の共同体」とは、大学が学問の自由という理念に基礎づけられた、研究者の集団であり、自由で創造的、そして目先の実利的な功利性に惑わされず、基礎的な研究が活発に、共同して行われるのが本来の姿であるということです。この理念に基づいて、和光大学のカリキュラムは豊富な科目を準備し、なるべく自由に選択できるよう工夫されています。

この科目の選択の自由は和光大学の開学以来の特色です。
皆さんの中には、入学してからどうやって科目を選択して良いか悩む人もいるかもしれません。自分の判断で選択することそれこそが大学生活の第一歩です。今までの高校のように、担任の先生が1から10まで手取り足取り教えてくれるということは、大学ではありません。その代りに選択の自由があります。良いと思うものを選択するために自分で考えるということが大学では大切です。
選択するのに最初は時間がかかっても、自分で考えて選択するうちに判断力が養えます。大学の授業も専門的で、今まで教わっていないことが多く、初めはとまどうかもしれません。しかし、勉強しているうちに理解できるようになります。そうやって専門的な勉強を続けていれば、4年後皆さんが卒業する時には、見違えるように成長されていることでしょう。
皆さんの成長をわれわれ教職員は手助けします。パスカルではありませんが、皆さんが4年後「考える葦」となっていることを期待して、歓迎の言葉に代えさせていただきます。



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