学生たちの活躍 |  2018/05/08

2018年5月7日(月)・8日(火)に、演劇研究会 新入生歓迎公演『桜の森の満開の下』(作:坂口安吾)がおこなわれています。



和光大学演劇研究会 2018年度新入生歓迎公演
『桜の森の満開の下』


(※公演のフライヤーをご覧いただけます。画像をクリックすると新しいウィンドウで開きます。)

■日程:5月7日(月)、8日(火)

■時間:18:00開場、18:30開演

■場所:和光大学D棟地下1階学生ホール

◆入場、観劇 無料




昨日観劇した総合文学科の田村景子先生から、劇評が届きましたので、ご紹介します。

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 「花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。」

 強くよわく、雨が降る。
 雨が降る、桜の花とともに。
 屋根を叩く雨音の中で、暗がりにひしめく私たちが、桜が舞う舞台と向き合う。

 和光大学演劇研究会2018年度新入生歓迎公演「桜の森の満開の下」(舞台脚本・原崎いずみ、舞台監督・古泉舞夢)の初日は、豪雨の中で始まった。

 心配された客入りは、満員御礼だったといってよい。
 にも関わらず私は、過去最大級の緊張で、上演時間を過ごした。よく知る学生の表現者としての顔を見たためではない。
 D棟地下の学生ホールで、時代物を観ようとは思っていなかったためである。そして、誰もが知る坂口安吾の「桜の森の満開の下」を原作とするのだと、山賊役の秋山謙太(田村ゼミのゼミ長である)から聞いていたためでもある。

 妖艶な女の変化(へんげ)と、平易な短文を重ねるにもかかわらず飄々と陰鬱な地の文で成り立つ安吾調を、どう処理するのか。語り部を登場させ、ライトの明滅で場面を割っていく手法が示されてなお、原作をブツブツと切って再現するその方法にこそ、私の不安はつのった。
 女を演じた丹陽奈と関戸菜々美の大胆な解釈と好演を経て、これは芝居なのか?と首をかしげた。

 ところが――
 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
 ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
 彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 小道具の桜が不均一な落下を見せる最終場に奥澤裕紀子の朗読が重なり、さらに雨の音が遠く重なる長い長いシーンの後、暗転の中でハッとした。
 男が「花と虚空のさえた冷たさにつつまれて」「悲しみ」という「ほのあたたかいふくらみ」を理解するこの部分を、私はよくは分かっていなかったのかもしれない。

 学生ホールの闇に「孤独」をもちよって、雨の伴奏つきの落花を眺める――それはたしかに「ほのあたたかさ」というにふさわしい時間だった。
 舞台上の時代的な隔たりゆえに、朗読される「花と虚空の冷たさ」も「孤独」もデノテーション(明示的な意味)を超えて、一気に私たちの身近な現在的イメージへと置き換わる。
 30分を演じた登場人物もスタッフも、30分の公演に立ち会った多様な観客もきっと、それぞれの「孤独」を感じ、「孤独」を抱いた仲間たちの存在を、思ったに違いない。

 ブレヒト流に異化効果が演劇の根幹だというなら、これも、これこそ芝居なのかもしれない。
 やや小ぶりになった夜の雨、和光坂を濡れながら下りて鶴川駅へついてもまだ、「ほのあたたかい」思いは消えなかったのだから。

2018年5月7日 田村景子




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