教職員から |  2018/04/07

2018年4月5日(木)に、入学登録をおこないました。

今年度も、学生有志の「情報保障団」の協力により、マイクからの音声がリアルタイムでスクリーンに映し出され、JAZZ研究会による新入生歓迎の演奏が行われました。

 

そして、臨時学長代行 兼 経済経営学部長、現代人間学部長、表現学部長からぞれぞれお祝いの言葉がおくられました。

一部抜粋して、ご紹介します。



臨時学長代行 兼 経済経営学部長 井出健治郎


本日は、ご入学おめでとうございます。教員・職員そして在学生一同、みなさんをお待ちしておりました。また、ご父母保証人の皆様におかれましても、ご入学を心よりお慶び申し上げます。

さて、こうしたせっかくの晴れの機会に、これから和光大学にかかわる2つのことを簡単にお話しします。いずれも和光大学の独自のスタイルといえることです。

ひとつめです。もしかしたら、みなさんの中で気づいた方がいるかもしれません。なんだと思いますか。

「入学式」ではありません、「入学登録」となっていますよね。これがひとつめです。
これは、1966年、和光大学ができたときの最初の学長であった梅根 悟(うめね さとる)先生のユニークな発想といえます。和光大学ももう人で言えば、50歳を越えています。
それはさておき、この式典が終わると、みなさんはこの会場の前に出てきて、ひとりひとり自分の名前を書いてもらうことになります。自分でそうすることで、今日、自分の名前を登録することで、「和光大学に自らすすんで入るのだ」「自分の意思でこれからやっていくのだ」という一つの決意表明をしていただきたいとの想いからです。
ですから、登録するときに、そうした思いを馳せてください。
ほかの大学にはない、あるいはみなさんのこれまでの入学の機会に、こうしたことはなかったはずです。
今日この時から、和光大学の独自の雰囲気をぜひ体感していただきたいと思います。

ふたつめです。和光大学のキャッチフレーズは、「異質力で、輝く。」です。知っていましたか。
みなさんに 異質力で輝いてほしいわけです。「異質力」とは、なんなのでしょうか。
2016年4月の入学登録で、前学長の伊東達夫(いとう たつお)先生が次のように述べています。

ひとりとひとりに、内に秘められた固有の力があります。それが和光大学という共同体で引き出されて、社会で活きる力に高まっていく、その高められた力を「異質力」と表現します。

個人的にですが、少し解釈してみます。
みなさんそれぞれ<個性>があります。他人とは違う<自分らしさ>があります。
すでに、気づいているかもしれません、いや、気づいていない方が多いかもしれません。
とすれば、今日から、和光大学の特長のひとつ、講義バイキングでいろいろな勉強をすることによって、サークルなどで先輩や後輩とコミュニケーションすることで、そしてゼミナールなどで先生から指導を受けるなかで、自分らしさ・個性に気づいてください。気づかされてください。
まずは、自分はどんなタイプなんだろう、と気づきが必要です。
そして、気づいたら、今度はそれを輝かせるために、みがいていくことが必要です。光らせる、輝かせる前に、自分らしさ・個性をみがいてください。
最後に、輝かせる。その輝かせるときには、自分らしさ・個性というコトバにかえて、みなさんのそれぞれの異質力で輝いてください。
それが和光大学で共に教え育てたいのだ(教育・共育)という想いがキャッチフレーズに込められているように思います。

和光大学で過ごす時間の中で、どこまで高められるか、気づけたことだけでもいいと思います。みがく時間に費やしてくれてもいいです。そして、もし、輝けるまでできたら…充実した時間だと思います。

ふたつのことをお話ししました。最後に、もっとも大事なこと。
それは、「楽しむ」ことです。
どうぞ、和光大学での時間を楽しんでいただきたいと思います。



現代人間学部長 常田秀子


和光大学は皆さんを心より歓迎いたします。これからの大学生活が皆さんにとって実りのあるものになるよう、和光大学の教職員、在校生揃って皆さんをサポートしていきます。

父母保証人の皆様、改めてお子様のご入学おめでとうございます。幼児や小学生だったのはほんの少し前だったのに、お子様はもう大学生です。その姿に感慨もひとしおのこととお察しいたします。

今日は短い時間ですが、皆さんに歓迎と期待の言葉を述べさせていただきたいと思います。

私は和光大学に来て間もなく20年になります。20年前の入学登録の日に、私も和光大学の新入教員としてこの入学登録の場に出席しました。この時、私は、二つのことに驚きました。


■和光大学で最初に驚いた二つのこと

一つは、この場が入学式ではなく、入学登録であるということでした。
もう一つは、 入学登録の場で学生による手話通訳がなされていたということでした。

第一の、入学登録については、先ほど臨時学長代行からお話がありましたね。
この後、皆さん一人一人が、和光大学に入学するという意思をもって署名を行います。
これは大学における皆さんの意思表明の第一歩です。
今後、大学でやりたいこと、分からないことなどがある時には、是非、自分からそれを発信して下さい。そうすることで、皆さんの学生生活はどんどん豊かになるはずです。

第二の手話通訳についてです。
これは、現在はこの場でも行われているパソコン字幕に発展しています。
聴覚障がいなどのために聴くことに制約がある人も、当たり前に入学登録に参加できるように行っています。

手話通訳は、現在では、政見放送や記者会見などで目にすることが増えてきました。字幕つきのテレビ番組も当たり前になってきました。しかし私が和光に来た20年前には、まだまだ珍しかったのです。そのため、入学登録の場で手話通訳を見たことは、私にとっては大きな驚きでした。

なお、この手話通訳及び字幕表示は、和光の歴史の中では、学生たちの中から自発的に生まれ、これまで何十年も引き継がれてきた活動です。
障がいのある人もない人も共に生活を送るべきであるという考え方のことをインクルージョンとよびますが、和光大学のインクルージョンは学生たちによって支えられてきたのです。

ちなみに、皆さんの様子を見ていると、障がいのあるなしに関わらず、多くの人が字幕表示に注目しているようです。
言葉は聴くだけでは流れてしまいますが、目で読めることでよりよく理解できるので、、聴覚障がいのない人にとっても字幕は便利なのですね。
インクルージョン的な社会は、障がいのない人にとっても生きやすいものなのでしょう。


■自分と異なる人とコミュニケーションを取ってほしい

さて、大学生活の中で、皆さんには自分と異なる人とコミュニケーションをたくさん取ってほしいと願っています。
自分と異なる人、とは、例えば、異なる考え方をする人、違う国や地方の出身の人、障がいのある人、異なる性別自認を持つ人、数えあげたらキリがありません。

自分と異なる人と付き合うと、異なる考え方に触れることができます。
自分が当たり前だと思っていることがそうでないことに気付かせてくれます。当たり前がゆらぐと、人は往々にして不安になります。不安を悪いことだと思っていると、不安から逃れるために、似たような人とのコミュニケーションに戻りたくなってしまいます。
しかし、楽なコミュニケーションの中では想定内のことしかおこらず、自分を成長させるきっかけに乏しいのです。

一方、自分と異なると思っていた人と付き合い、相手との共通点に気づくことができると、異なると思っていた点も個性の1つのように見えてくるものです。その時、皆さんの当たり前はそれまでよりも大きなものになり、それまでよりも多様なものを当たり前として受け容れられるようになるのです。
これは人間としての成長とも言い換えられます。
皆さんには、多少の不安はあっても、不安をまるごと飲み込む勇気をもって、自分と異なる人とのコミュニケーションに乗り出してほしいのです。

1つ例をあげましょう。
何年か前のゼミに身体に障害のある学生がいました。この学生は、勉強も身の周りのことも大きな不自由無くやっていました。それでも、日常のちょっとしたことで手助けがほしいことがたくさんあったはずでした。
しかし、ゼミが始まった当初は、他のゼミのメンバーは彼のがんばりに圧倒されてか、手助けを申し出られませんでした。手助けを申し出ることで、彼に屈辱を与えると思ったのかも知れません。
彼の方も、自分は助けなど必要ないと、頑なでした。

しかしゼミを続けていくと、手助けなしでは勉強が立ちいかないことが徐々に明らかになってきて、手助けの依頼や申し出をお互いにするようになってきました。最初は勇気が必要だったようですが、徐々に自然にできるようになってきました。

さらには、学外での学習の時に、彼のほうから、お金が苦しい学生に付き添い役にならないかと声をかけるようになりました。自分の障害者手帳を見せると、自分と付き添いの人はバス代が無料になるのだそうです。そうやって、お金が苦しい学生と助けあうわけです。

仲間として付き合うことによって、障がいも金欠も、お互いに助けを求め申し出られるものになったのです。頑なになることも遠慮することも必要なくなると、彼も周囲の学生もより自由に振る舞えるようになります。このようなことが、成長の現れだと思うのです。

皆さん、これからは、是非いろいろな人と付き合い、多い学び、語り合っていきましょう。
皆さんと学び会うことを、私も楽しみにしています。




表現学部長 半田滋男

新入生の皆様、本日は和光大学へのご入学おめでとう御座います。またご父兄、保証人の皆様にもお祝いを申し上げます。

これから、みなさんに、和光大学の構成員となった決意表明として、署名をして頂きます。その前に、少しだけ、お時間を下さい。

みなさんは、どのような理由でこの和光大学に進んできたでしょうか。
一所懸命情報を調べて、自分にあっている学校を調べた人がいるでしょう。それから、ご家族や学校の先生に勧められたという人もいるでしょう。また、実は不本意ながら今この場にいるという人もいるのではないでしょうか。
今の時代、多くの人は、進路を選ぶ時に、当たり前ですが、数字、つまり就職率や偏差値を規準にするようです。どこの大学も、情報産業によって数字で輪切りされていて、世間では、みんな自分が、自分の組織が、どの階層に位置するのか、気にしています。
実は、私は、この、なんでも序列化しようとすること、ランク付けすること、これがきらいです。
それは、物事を短絡的に単純化して、私たちの生活にかかわる多くの大切な要素を切り捨てて、硬直させて、日々の生活を下らないものへおとしめてしまうからです。数値化できる作業は、人工知能にでもやらせておけばいいんです。

和光大学で、とくに表現を学ぼうとするみなさんは、この大学で、数量化も序列化もすることの出来ないこと、というか、そもそも他人と比較する意味のないこと、自分にとってだけ意味があることを学んで頂きたいと思います。それは、今の時代、みなさんは、これから60年も70年も生きてゆくことになるでしょうが、その長い人生の日々を、できるだけ刺激的に、心地よく、楽しく過ごしてゆく、術を身につけるということです。

そのためには、まずみなさんは、大学生活で、是非とも「ただしく」遊ぶように、遊び方を学んでいただきたいと思います。人によっては、アルバイトに忙しかったり、様々な事情がある人もいると思います。「時代錯誤なことを言うな、勉強するために大学に入ったんだ」とか、「就職できなかったらどうしてくれるんだ」と言いたい方もいると思います。でも、大学の、特に10代から20代の時代とは、どうしても、これからの人生の過ごし方の基礎を築くことになるのです。仕事という生産活動をしながらも、楽しい方がいいではありませんか。

ではその「ただしく」遊ぶとはどういうことでしょうか。みなさんの殆どは、電車で、あるいは歩きながら、スマホをいじってるでしょう。通学中も、家でもゲームを楽しんでることでしょう。ツイッターやらラインでひっきりなしに友達と連絡を取り合っているでしょう。起きている時間のかなりの時間を小さなモニターとの付き合いに費やしているでしょう。
それは残念ながら楽しんでることにはなりません。遊んでいることにも、情報を取得していることにもなりません。消費させられている、マンマとメディア産業に束縛されて、奴隷になってるだけです。
では、学生生活をただしく遊ぶとは、どういうことか。
折角ですから、みんなの先輩達の例をあげてみましょう。

まず、これは私も教員としてみた例です。
芸術学科の4年生は、毎年、卒業前になると「卒業制作展」を開催します。私が和光大学に赴任してきた2000年代前半は、町田にある公立美術館の一室を借りて開催してました。そこは美術館とは言ってもあまり広くはない空間で、大きな作品は展示できませんでした。恵まれた条件ではありませんでした。
そこで、その頃の、10年程前の4年生が、自分たちの展覧会を、もっとよい条件で開催できないものだろうか、考えました。
そして、ちょうどその年でしたが、いまみなさんがいるこの体育館、パレストラが竣工しました。
彼らは、さっそく、この広いフロアに目をつけて、新築ぴかぴかのフロアをつかって卒業制作展をできないものだろうか、と企み始めたのです。でも、体育館ですから、使わせてもらえるかどうか分かりません。それに、
展示に必要な100メートルあまりの壁も、彫刻台も、展示用の照明設備もありません。そのための費用も必要になります。でも、彼らは、場所を使う交渉になんとか成功すると、次には、教員たちの研究室を歩き回ってカンパを集めて、それからは来る日も来る日も夕方になると集まって、どこかから借りてきたパイプで足場を立てて、買ってきたベニヤ板と角材で100メートル分の壁をつくって、最後のほうには徹夜しながら見違えるようなしっかりとした、美しい展示室をつくりあげました。展覧会はたった三日間だけでしたが。

もうひとつ、もっとずっと前の和光大学の話です。1978年の1月だそうです。私も話でしか知りません。そのころの和光大学は、遅れてやってきた学生運動が盛んでしたが、ある一群の学生たちが、いまでは建て替えられてなくなった古いA 棟、当時の事務棟でしたが、その建物を、用意した大量の新聞紙で包んでしまいました。「ラップ・ストラクチャー」というイベントです。
おそらく、同じように大きな建物や構造物を布でくるんでしまうことで有名な、クリストというアーティストにインスパイアされたのでしょう。学生運動をまだ引き摺っている時代でしたから、当時の体制に対するなにがしかの抗議の意味もあったのでしょう。この準備にどれだけの日数と労力がかかったのか分かりませんが、ただの紋切り型のアジテーションや立て看板ではなくて、学内の管理部門である建物をラッピングして、造形的な遊び心を発揮しながらの抗議した、つまりアートなのです。

私が言いたいのは、学生時代を正しく遊ぶとは、その場が楽しい、享楽だけではありません。このような、やらなくてもいい行為に、多大な時間とエネルギーを費やす、そのときは大して楽しくもない、完全な無駄、のことです。

では、当時の学生は、大学で、なんでこんな、1文にもならず、面倒ばかり多い、大げさで無駄なことを一所懸命になって、やったのでしょうか。もちろん、大学当局だって、必ずしもそのような学生の活動を喜びません。それに、こんなこと一体、どこが楽しいんだ、と思われるかも知れません。
私にも、きちんとは、説明はつきません。
でも、何か、延々と繰り返される雑多な日常とは違ったことをしてみる、ある日思いついた突拍子もないイメージを、仲間を集めては、なんとかして実現にこぎ着けてみる、そうして、自らの日々を刷新して行くことによって、私たち人間の頭脳と体は活性化していって、つまり快楽を覚えて行くようです。それが、「表現」ですね。

和光大学は自由な学園といわれてきました。それは、こういう「無駄と思える遊び」が、許容される文化が継承されてきたということです。みなさんがこれから習うだろう「社会関係資本」という言葉、地域社会の活性度を指す、計測の困難な概念があるのですが、大学という地域社会が活性化していた、みんなが生活を楽しもうとしていたのです。自分たちの日々の充実を、与えられるのではなく、自らの手で手に入れること、それが和光大学という場所の伝統でありました。
でも、文化とは、いつも手入れをしてやらないと、すぐに後退してしまいます。時代は変わって、いまではずいぶんと管理が進んでしまいました。残念ながら、授業は真面目にでるのだが、すぐにスタコラ帰ってしまう人たちも増えてしまったようです。でも、そういう学生も、4年も終わる頃になってみんな言い出すんです。「なんて勿体ないことをしたのか、なんでもっと勉強しなかったんだろう、なんでもっと楽しまなかったのか」って。

ですから、皆さんも、なにか面白事はないか、と口をあけて待っているのではなくて、ただの消費者として、小さなモニターの中のやり取りに束縛されている、矮小な日常を送るのではなくて、主人公は自分なんだと思って、豊かな日常を、自らでつくりだせるようになって頂きたい、のです。少し、おバカなことをしてみてもいいですよ、ということです。大学は、みんなが、子供から大人になってゆく、段々と社会化してゆく場所です。そして、その過程で多少の失敗が許される、大目に見てもらえる最後の機会です。社会にでてしまうと、この頃は、そうもゆかないようです。

大学は多種の人が集まる組織ですから、そのような、学生たちのバカな行いを快く思わない人もいます。官僚的な人物もいます。でも、無駄と思える遊びとは、遊びの中から、同世代とのつきあい方を知り、身のこなし方を知り、道具の使い方を知り、交渉術を知り、頭の固い官僚的な人物のあしらい方を知る、そしてその後の自分の生き方のヒントを得る、人間の成長の機会でもあるのです。

ですから、学生のうちに多少おバカで無駄なことを、計画し実行しようとする、皆さんを、私は、応援したいと思っています。そうして、和光大学の4年間を、楽しいものにしましょう。そうすれば、結果として、ゆくゆくどんな職種についても、寛容で魅力的な人間にもなれることでしょう。
あと、最後になりましたが、勉強もしましょう。




新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます!


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