学生たちの活躍 |  2018/01/22

2018年1月20日(土)と21日(日)に、演劇研究会 秋冬公演『ビー玉たちの夜』が行われました。


(※公演のフライヤーをご覧いただけます。画像をクリックするとPDFが開きます。)

総合文学科の田村景子先生から劇評が届きましたので、ご紹介します。




「陶酔」への「覚醒」――和光大学演劇研究会秋冬公演によせて

田村景子

 暗転がわずかに早い――幕開けの口上あとの芝居最初の溶暗が、早い。ほんの少しだけ、しかし確実に早い。あぁ、そのセリフを言い切った後にこそ、「役者」が「芝居」をせねばならないのに。
 大道具の移動準備がスムーズだからか、役者の位置どり訓練がいきとどいているからか、照明機材の反応が良すぎるのか、舞台を一時間で完結させたい演出の力業か……。とにかく、暗転のタイミングが「役者」の「芝居」を封じているという印象は、終幕まで繰り返された。
 和光大学演劇研究会の秋冬公演、『ビー玉たちの夜』(2018年1月20日・21日 主宰・演出:東浦伸輝、舞台監督:渡邉咲、於和光大学D棟地下一階学生ホール)である。
 フライヤーの惹句は、「ある夜、エレベーターに閉じ込められた6人の見知らぬ男女/日々の生活に疲れ、愚痴をこぼす/そんな彼らの、なにもおもしろさのない物語/『夢が叶った人も、叶わなかった人も、 絶対に何かにはなれるんです』」。ネット上で全文公開されている劇作家つむぎ日向のフリー戯曲と聞くが、たしかに幕開け口上は、「あ、先に言っておきますが、これから起こる事には、物語のような面白さなんてありませんよ。それでも、俺にとっては大事な夜になりました。だから、皆さんにとっても、きっと……」(BGM上がる。暗転。)と終わっていた。
 アクシデントをきっかけにしながら、日々の疲れに愚痴をこぼす人々の「おもしろさのない」、でも「大事」なドラマ? しかも、「役者」らしい「芝居」を封じて?
 舞台の中盤になって、ようやく確信した。十数年前に日常系アニメというのが流行ったが、日常系演劇(現代口語演劇に非ず)といういささか矛盾したジャンルは、今こそ、たしかに存在し得るのだ。
 演劇とは異化効果だと、観客と社会に陶酔ではなく覚醒をもたらすのだと、先週まで私は講じていた。この舞台は、ブレヒトをあくまでも重々しく繰り返す授業を静かに聞いていた学生たちの、反乱だったといってもよい。しかも、扱うモチーフは労働で、にもかかわらず、「夢が叶った人も、叶わなかった人も、 絶対に何かにはなれるんです」とよく通る声が語りかけてくる。
 こんなにも軽やかに自分と社会を肯定するのか、こんなにも人は優しいのか。断じて否だ!と、大上段に構える観客がいたら、答えてあげるといい。あくまでも優しくやわらかい日常系演劇とは、というよりむしろ、「日常系」演劇を演じ観ることとは、劇場の外に広がる孤独と救いのなさが当たり前の社会と世界への初々しくしなやかな問い直しなのだ、と。
 もう、デフォルメはいらない。もう、奇抜な演出の自己満足合戦も、心の断絶をあおる過激な言葉の応酬もいらない。それは、劇場の外に満ちみちているから。
 ほんの少しずつ早い暗転によって、若い観客と若い演者の心理的距離は、否応なく近づく。いわゆる「芝居」でもなく、もちろん「素」でもない動作と声が、まるで雑談のようにフッと途切れ、衒いなく早い明転で、何度でも再開する。ならば、同じ場所と時間を共有する私たちの雑談が、私たちの「日常系」演劇が、「陶酔」的であって何が悪かろう。
 2018年において、「陶酔」こそが「覚醒」だと、いってはいけないか?
 優しい日常のやわらかい希望の表象が、新しい戦争の時代の社会、Jアラート鳴り響く日常という名の非日常への力強い反逆でないと、誰が言い切れる?
 そうだ、来春の演劇の授業は、私は「陶酔」に「覚醒」したのかもしれないと、始めよう。君たちの、『ビー玉たちの夜』の話から。




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